ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

変化を許容するために。『いちばん親切な更年期の教科書』を読んで

おはようございます、ゆまコロです。

 

『ふりまわされない!更年期』が面白かったので、もう一冊更年期障害に関する本を読んでみました。

高尾美穂さんの『いちばん親切な更年期の教科書』です。

 

 睡眠力を高めて肥満を撃退!やせやすい体質になる


 眠らない女は太る!

 

 睡眠不足はダイエットの大敵です。睡眠不足の人ほどウエストが太いというデータもあるほどです。
 その原因は、「レプチン」と「グレリン」という2つのホルモンにあります。レプチンは脂肪細胞から作られ、食欲を抑える働きをします。睡眠時間が短くなると血中のレプチンの濃度が低くなり、食欲を増進させます。データでは、8時間以上の睡眠でレプチンの濃度が上がり、食欲を抑制する効果が確認できました。
 一方、グレリンとは胃の粘膜から作られる食欲を増進させるホルモンで、 睡眠時間が短くなると血中濃度が高くなり、食欲を増進させます。 データでは、睡眠時間が7時間を切るとグレリンの濃度が上がり、食欲を増進させることが確認できました。
 睡眠時間を確保し、睡眠不足を改善することで、太りにくくやせやすい体質が手に入ります。
(p104)

 

「睡眠時間が7時間を切ると食欲がアップ」ですって。

残業が続いて睡眠不足だった時、3度の食事も間食もなんだかいつもより多くの量を食べているような気がしていましたが、気のせいじゃなかったのですね。

睡眠時間が短くなると食欲増進のホルモン濃度が上がるなんて、そんな機能が必要なのか疑問ですが。本人が知っていようがいまいが、ホルモンに振り回されていることって結構あるんだなとつくづく思います。

これからは夜ふかししてマンガ読んでる場合じゃないですね。

 

 HTRとは、足りなくなった女性ホルモンを安全にチャージする「攻めの治療法」

 

 ホットフラッシュなら約2カ月で9割程度改善!

 

 ホルモン補充療法(HRT)は、閉経によって減少した女性ホルモン(エストロゲン)を補う治療法。ホルモン剤を使うというと、抵抗感のある人も多いかもしれません。
 しかし、実際に補充するエストロゲンは、更年期以降の健康維持に必要とされるわずかな量。月経が順調にきている年代に体が作っていた量の3分の1ほどにすぎません。また、低用量ピル(→P.172) と比較してもかなり少量です。 最小限のエストロゲンを補うことで、更年期以降の急激な減少のカーブをゆるやかにし、症状を緩和します。
 一般的に、のぼせ、ほてり、異常発汗、動悸など、エストロゲンの減少がダイレクトに影響を及ぼす症状なら、 HRTを2ヵ月程度継続すると、約9割程度改善するといわれています。それほど即効性が見込める治療法なのです。
 更年期症状が気になりはじめたら、HRTを視野に入れてみましょう。
(p142)

 

ホルモン剤というと、日常生活に支障が出そうなイメージがありましたが、更年期症状の改善に使われるものは低用量ピルよりも少量、ということを初めて知りました。

 

 エストロゲンの中断期間をHRTで短縮させる

 

 開始のベストタイミングは閉経前後

 

 HRTをはじめるベストタイミングは、ズバリ、閉経前か閉経後早期です。
 エストロゲンが急減するこの時期は、不調を強く感じやすく、またHRTの治療効果が得られやすいからです。
 さらに、早期にはじめるメリットとしては、動脈硬化の予防があげられます。
 エストロゲンには動脈硬化を防ぐ働きがあり、閉経してエストロゲンが減少すると、動脈硬化が起こりやすくなることは前述のとおりです。
 閉経前や閉経後、すぐにHRTを開始し、エストロゲン量の維持が中断される期間を短縮させることで、動脈硬化を予防し、血管を柔軟に保ち、骨粗しょう症を防ぐこともできます。皮膚の萎縮を防いで美肌を保つなど、アンチエイジング効果も期待できます。
 一般的には、閉経後5年以内にHRTをはじめることが推奨されています。

 まだ閉経していなくても、月経周期が不規則になってきていて、さらに更年期症状があり、FSH (卵胞刺激ホルモン) の値が上昇していたら、治療のためにHRTを開始しても問題はありません。更年期のエストロゲンの濃度はアップダウンするため、エストロゲンが減少していなくてもFSHの値が上昇していれば、HRTをスタートします。
 ただし、少ないながらもまだ自前のエストロゲンが卵巣から分泌されているため、HRTによって追加されたエストロゲンとの相互作用で思わぬ出血が起こりやすくなることがあります。
 一方、閉経後、10年以上経過してからはじめるリスクとして、海外での研究報告があります。60歳以上、または閉経後10年以上経過してHRTを開始すると、狭心症心筋梗塞などのリスクがふえるおそれがあると指摘されているのです。
 ただし、事前の検査で動脈硬化血栓症のリスクが低かった場合は、閉経後10年以上経過していても医師の判断に基づいてHRTをはじめられることがあります。
 HRTは年齢、症状、月経の有無、閉経後の年数、子宮の有無、ライフスタイルなど、その人の状態に応じた投与方法を選べます。医師と相談しながら最適な方法を見つけてください。

(p166)

 

エストロゲンが急減した時、体にどんな変化が訪れるのかまだ不明ですが、初動が大事だということは分かりました。

閉経後5年以内というのは覚えておきたいと思います。

 

 更年期治療には低用量ピルを使わないのが原則

 

 50歳以降はHRT に切り替えよう

 

 低用量ピル(=低用量経口避妊薬/OC: Oral Contraceptives) は、排卵を抑制し、子宮内膜を着床しにくい状態にして、避妊効果を促す避妊薬です。婦人科では、月経不順や月経困難症などの月経トラブル、PMS(月経前症候群)、PMDD(月経前不快気分障害)などに対し、低用量ピルと同じ成分の薬剤LEP (低用量エストロゲンプロゲステロン配合剤)が治療に使われ、低用量ピルとは区別されます。
 低用量ピルはエストロゲンプロゲステロンを含み、月経のある女性に使われます。
 低用量とはいえ、それは避妊薬の中でのレベルで、OCで補うエストロゲン量は、HRTの標準量の約5~6倍 (50㎏)にもなり、40歳以上にとっては多過ぎます。また、40歳以降の人が内服を開始することは血栓症のリスクが高いためおすすめできず、更年期障害の治療としては一般的には使われません。
 さらに、OCとHRTでは、エストロゲンプロゲステロンの比率が異なります。
 OCはプロゲステロンが中心ですが、HRTはエストロゲンが中心です。そのため更年期症状の治療には、ピルをのむよりもHRTを受けたほうが効果的です。
 またOCは、HRTよりも6倍以上もホルモン活性が高く、年齢が上がるにつれて血栓症が起こるリスクが高くなります。そのため、更年期に差しかかった45歳から50歳くらいでHRTに切り替えることが推奨されています。
 血栓症のリスクが低いと判断できる方は50歳まで、もしくは閉経まで使い続けることが可能です。
 なお、OCを使っている人は薬によって月経をコントロールしているため、閉経時期がはっきりしません。 40代後半になったら休薬期間に血液検査を受け、自分のホルモン値を確認するとよいでしょう。
 検査の結果、卵巣の働きが低下している数値であれば、HRTに切り替えることを医師と相談してください。

(p173)

 

どちらもホルモン剤なのに、ピルとHRTはどう違うのだろう、と疑問に思っていたのですが、この項目を読んで少し分かりました。

また、以前私がPMSで婦人科に行った際に処方してもらっていたのは、LEPだったことが分かりました。その時は生理痛の軽減を感じられなく、効かないよーと思いながら飲んでいましたが、今になって思えば、エストロゲンの量が異なる種類か、OC(低用量ピル)に変えてもらえないか相談すれば良かったのかもしれない。

 

今の時代ネットで調べれば分かることなのかもしれないけど、どの章も具体的で丁寧に解説されているので、思わぬところで疑問が解決されたり、不安が軽くなることもあって、手に取って良かったなと思いました。

 

まえがきにもありますが、「女性の病気についてもっと情報が行き渡っていれば」という高尾先生の意思がしっかり伝わってきます。

婦人科系の内容は、早めに知っておいて損はないと思います。

まだ早いかな、という方にもおすすめしたいです。

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。

 

なぜ非常時に誤った判断をしてしまうのか。『生き残る判断 生き残れない行動』を読んで

おはようございます、ゆまコロです。

アマンダ・リプリーさん、岡真知子さん(訳)の『生き残る判断 生き残れない行動〜大災害・テロ・事故、極限状況下で心と体に何が起こるのか』を読みました。

 

本書は防災マニュアルや有事におけるノウハウ本というよりは、911の事件や、ハリケーンの生存者の証言などから、非常時においていかに「正しい判断をすること」が難しかったか、を明らかにしています。

 

 生存ゾーン

 

    人体の第一の防衛力は、本来備わっているものである。生存のための本能的な動きを引き起こすのは扁桃体で、第一の防衛力は変化しにくい。だが人間には二つ目の優れた防衛力がある。わたしたちは経験から学ぶことができるのである。警察官、兵士、宇宙飛行士たちの訓練にあたる専門家たちの間で、経験ほど重視されているものはほかにない。「実際の脅威は準備の段階ほど重要ではない」と、警察心理学者アートウォールと彼女の共著者ローレン・W・クリステンセンは、著書『破壊的な力の衝突』のなかで書いている。「準備をすればするほど、制御できるという気持ちが強くなり、恐怖を覚えることが少なくなる」
 あらゆる脅威に備えて一般の人々を訓練するより、特定の範囲の起こりうる脅威に備えてプロを訓練するほうがたやすいのは言うまでもない。だが準備をすればするほど制御できるようになるというのは事実である。恐怖は克服できるのだ。だから一般市民でも何らかの準備をすれば、それが役に立つ。 実際の災害に備えてその準備が完璧であろうとなかろうと、準備をしていれば自信がつくので不安は軽減され、より適切な行動をとるようになるだろう。「銃撃戦に直面した警察官は、強盗にあったり、車の衝突事故や飛行機の墜落事故に直面した人たちと実際は同じプロセスをたどるのです」とアートウォールはわたしに語った。「その人の反応の仕方は、遺伝子と何らかの関係があるでしょうが、人生経験の総体――基本的には受けてきた訓練――とも関係があります」
    世界貿易センターで、階段の場所を知っていた人々は、怪我をしたり長期の健康上の問題を抱えることになる傾向が少なかった。それは一つには、極度のストレス下で行動をするのに必要な訓練を受けていたからである。そして後になって、自分の力量に安心感を得ることができた。警察官や消防士についても同じことがあてはまる。必要な技能を身につけていれば、生き延びる可能性がより高くなるばかりか、危機のあと、心理的にも良好な状態でやっていける。一度わが身を救うことができたのだから、もう一度そうできる、と思うのだ。
 危険を伴わないストレスに身をさらしていくうちに、次第にストレスを感じなくなるのは直感的にわかる。スポーツ選手が最高の実績を上げる「ゾーン」を持っているように、普通の人々もそれを持っている。次の章で触れるが、各人のゾーンは形が少しずつ異なっている。だがどの人のゾーンも鐘形(しょうけい)曲線に似ている。ストレスを感じたら、最初はより適応力のある行動をとる。だがストレスが過剰になると、次第によい結果が生じなくなってくる。臨界の変曲点を越えると、すっかりおかしくなりはじめる。
    これを最初に解明したのは、スポーツ心理学者などだ。その後、一九八〇年代に、ミズーリ州セントルイスの警察学校指導教官、ブルース・シッドルは、スポーツ心理学者の研究成果を取り入れて、実戦で応用しはじめた。彼は、心拍数が毎分百十五回から百四十五回のあいだに、人は最高の動きをすることを発見した(休んでいるときの心拍数はふつう約七十五回である)。この範囲だと、人々はすばやく反応し、視覚も良好で、複雑な運動技能(たとえば車の運転)もうまく使いこなす傾向がある。
    だが約百四十五回を超すと、機能が低下しはじめる。血液が心臓のほうに集中するせいか喉頭(こうとう)の複雑な運動制御も機能を停止して、声が震えだし、顔が青ざめ、手の動きがぎこちなくなる。視覚、聴覚、距離感覚も衰えはじめる。ストレスが強まると、人々はふつう心的外傷を受けたあとに何らかの記憶喪失を経験する。
(p137)

 

貿易センタービルの階段の場所を知っていたことが「極度のストレス下で行動をするのに必要な訓練」になっていた、というのが、意外なことのように感じました。

なんだそんなことか、と思うけど、災害時においては、適切な判断ができるかどうかを分けるポイントになることが分かります。

 

 非常時の回復力

 

 回復力は貴重なスキルである。 回復力がある人には、三つの潜在的な長所も備わっている傾向がある。人生で起こることに自らが影響を及ぼすことができるという信念。人生に波乱が起きてもそこに意義深い目的を見いだす傾向。いい経験からも嫌な経験からも学ぶことができるという確信。このような信念は、一種の緩衝材として、いかなる災害の打撃をも和らげてくれる。こういう人々にとっては、危険は御しやすいものに思え、結果としてよりよい行動をとることになる。
 「心的外傷は、美と同様に、見る人の目の中にある」と、メリーランド州ボルティモアのジョンズ・ホプキンス公衆衛生準備センターに勤務するジョージ・エヴァリー・ジュニアは言う。
    それはうなずける。 健全で積極的な世界観は、当然のことながら回復力に結びつくだろう。だがそれはさらなる質問をしたくなるような物足りない答えである。もしこの手の世界観が回復力に結びつくのだとすれば、では、何がその世界観に導くのか?
答えはわたしたちが予測しているようなものではない。回復力がある人々は、必ずしもヨーガを実践している仏教徒たちではない。彼らが十二分に持っているものの一つは、自信である。 恐怖に関する章で見てきたように、自信――現実的な練習や笑いからでも生じるものだが――は極度の恐怖の破壊的な影響を和らげてくれる。最近のいくつかの研究で、ありえないほどの自信にあふれている人は、災害時に目を見張るほどうまくやっていく傾向があることがわかった。 心理学者はこのような人々を「自己向上者」と呼ぶが、一般の人なら彼らを傲慢と称すだろう。この種の人々は、他人の評価よりも高く自分自身を評価し、 自己陶酔したはた迷惑な人間になりがちなのだ。ある意味では、現実の生活よりも危機によりうまく適応できる人々なのかもしれない。
    内戦が終わってから一年もたたないうちに、コロンビア大学のジョージ・ボナンノは、サラエボで七十八人のボスニア・ヘルツェゴヴィナの市民にインタビューした。調査では、各人が精神的な問題、対人能力、健康問題、ふさぎこみについて自分自身を評価した。次に各人が仲間によって評価された。一つの小さなグループは、他人が評価するよりもかなり高く自分たちを評価した。こういった人たちは、ほかの人たちよりうまく適応していることが精神衛生専門家によって明らかになった。
    世界貿易センターが攻撃されているときに、その中か近くにいた生存者たちにも似たようなパターンがあることを、9・11以降、ボナンノは発見した。強い自尊心を持っている人たちは、比較的たやすく元気を回復した。唾液中のストレス・ホルモン、コルチゾールのレベルも低かった。彼らの自信は、人生の浮き沈みに対抗するワクチンのようなものだった。
    いくつかの研究でわかったのは、IQの値が高い人のほうが心的外傷を受けた後もうまくやっていく傾向があるということだった。言い換えると、回復力がある人のほうが頭がよいのかもしれない。なぜそうなのだろう? 知性によって創造的思考が促され、それが次にはより大きな目的意識や抑制力につながっているのかもしれない。あるいは高いIQに伴う自信が、そもそも回復力に結びついている可能性もある。
    重要なのは、IQに関係なく、だれもが訓練と経験で自尊心を生み出せることである。 兵士や警察官がそれを教えてくれるだろう。自信は実践から生まれるのだ。 

(p169)

 

ありえないほどの自信が恐怖を和らげる、というのが面白い。しかし、災害時以外では、「他人の評価よりも高く自分自身を評価し、 自己陶酔したはた迷惑な人間になりがち」というのでは、安易にそこを目指せないではないですか。

訓練と経験で自尊心は生み出せる、とあるので、災害大国である我が国に住むのであれば、やはり備えは必要不可欠なのでしょう。

 

 特殊部隊の兵士は常人ではない

 

 米軍は何百万ドルも投じてシャッハムのような人物――生死にかかわる状況においても平静さを失わず、その後も回復力を維持している人物――の心理を分析する方法を見つけようとしてきた。 チャールズ・モーガン三世は、エール大学の精神医学臨床准教授で、国立心的外傷後ストレス障害センターの人間行動研究所長でもある。彼は過去十五年にわたり、極度のストレスに対する人々の反応の仕方の違いを研究してきた。手始めにベトナム戦争湾岸戦争の復員軍人たちの調査をした。予想どおりであろうが、心的外傷後ストレス障害のある人たちは、障害のない人々とはずいぶん異なった振舞いをした。心的外傷後ストレス障害のある復員軍人たちは、そうでない人よりも神経過敏になっていた。意識の分裂もひどく、ふつうの生活をしていても、色がより鮮やかに見えたり、物がスローモーションで動いたりすると報告している。いったん危機モードに入った彼らの脳が、そのままの状態でずっととどまっているかのようだった。血中の特定のストレス・ホルモンのレベルも、ほかの人より高かった。
 一九九〇年代に、おおかたの科学者の間で意見の一致を見ていたのは、これらの人々は経験によって損傷を受けたのだということだった。脳も血液も人格も心的外傷によって変えられた、と。だが一握りの研究者たちは、その理論に満足しなかった。「われわれは推測はしていた」とモーガンは言う。「が、本当のところはわからなかった」。どちらが先なのだろう、とこれらの科学者たちは疑問に思った。心的外傷だろうか? それとも心的外傷を受けやすい人だろうか?
    これを解明するにあたり、モーガンは心的外傷を受ける危険にさらされる前の人々を調査する必要があった。彼はノースカロライナ州フォートブラッグの陸軍サバイバル・スクールで、ストレスを対象にした研究所を見つけた。教室での訓練期間を経て、学校の兵士たちは森に放たれ捕えられないように努力する。食糧も水も武器も与えられない。指導教官が彼らを追い詰め、空砲を放ち、最後には捕まえる。それから兵士たちをフードで覆い、縄で縛って、偽の捕虜収容所へ連れていく。そこで兵士たちは体系的に食糧、抑制力、尊厳を奪われていく。第二次世界大戦中のヨーロッパと、朝鮮、ベトナムで米国の捕虜たちが体験した状況に似せているのである。七十二時間のあいだに、兵士たちは一時間足らずの睡眠しか許されない。
    サバイバル・スクールは非常にリアルで、実際に恐ろしい思いをさせられる。モーガンが兵士の血液を採取すると、ストレス・レベルが極限状態で採取されたものの平均記録を上回っていた。たとえば、兵士たちは、初めて飛行機から飛び出そうとしている人たちよりも組織中のコルチゾール量が多かった。平均するとサバイバル・スクールの参加者の体重は、受講中に七キロ近く減る。
    モーガンは兵士たちの間に大きな差があることにすぐに気づいた。グリーンベレーとしても知られている陸軍特殊部隊の兵士たちは、それ以外の一般の歩兵より一貫してすぐれていた。「彼らは頭が冴えている状態が長く続いているように思えた」とモーガンは言う。「ストレスを受けても、われわれほど早くぼうっとなったりはしなかった」。それも不思議ではない。特殊部隊はエリート集団である。選抜されるのは入隊希望者の三分の一足らずである。
    さらに驚くべきことは、特殊部隊の兵士が化学的に異なっているということだ。モーガンが血液の標本を分析すると、特殊部隊の兵士が「ニューロペプチド」と呼ばれるものをかなり多く作り出していることがわかった。ニューロペプチドYは、とりわけ、ストレス下において任務に集中できるよう助ける働きがある化合物だ。偽の尋問後わずか二十四時間で、特殊部隊の兵士たちのニューロペプチドYは通常のレベルに戻っていたが、それ以外の兵士たちは減少したままだった(軍人ではない人々の生活でも、不安障害や鬱病にかかっていると、ニューロペプチドYのレベルが下がる傾向がある)。

(p171)

 

陸軍のサバイバル・スクールの実習が怖い。

経験によって損傷を受けると、脳が危機モードに入ったままの状態になるというのも、なんとなく想像できます。

そして、グリーンベレーの兵士の凄さを改めて感じました。ウィキペディアの入隊資格に「ブーツと戦闘服を着用したままで50メートル泳げること」などとあり、そりゃあ常人とは違うことは分かっていましたが、血液の成分まで違うとは。

 

 (…)グランド・バイユーの住民は戻ってこようと思っている。最初の家屋は二〇〇七年七月に完成した。家屋はすべて“簡単につくれるもの”――安い費用で建て直すことができる簡素な木造のもの――になるだろう。共同体は今もなお湿地帯を復活させ、もっと持続していける文化生活を創造しようと奮闘している。だが一方、これまでずっとそうしてきたように、嵐がくるたびに避難し、その後であと片付けをするつもりでいる。「わたしたちは生活を守ろうとしているの。それがいちばん重要なことよ」とフィリップは言う。「カトリーナ」後のグランド・バイユーの人口は、それ以前よりも増えるだろうと、彼女は今、思っている。「わたしたちは何とか続いていくと思うの」と彼女は言う。「お互いに頼り合うことを学んだから」

 

    二つの町の物語

 

    グランド・バイユーのようなところは、回復力がある地域の見本である。というのも住民が積極的に助け合って生き延びるからである。彼らは自分の財産よりも共同体を重視し、集団の総意に基づく決定にも信頼を置く。しかし隣人の名前も知らないような現代の大都市では、その域にまで到達することはめったにない。確かに目標ではあるが、選択肢はほかにもあるのだ。
    もっとささやかで、もっと単純な形の回復力もある。災害を生き延びる集団は、生死にかかわる情報を、一つだけ維持していることがある。一つの教訓が広く共有されているかどうかで、生死が分かれる可能性がある。それは教訓を得ていない人たちにとっては悲痛であり、また教訓を広めればよいという意味では希望が持てる事実でもある。生死は一つの事実を維持することに基づいて決定されるべきではない。しかしもしそうであれば、その事実を共有することで犠牲者を減らせる可能性も大きいということを、少なくともわたしたちは知っている。
    二〇〇四年に東南アジアで発生した津波は、約二十万人の命を奪った。実際の数がそれ以上か以下かは不明であるが、多すぎて数えられないほどであった。地元の新聞には行方不明者の写真が何ページにもわたって延々と掲載され、何かの印刷ミスかと思うほどだった。

    壁のように迫ってくる圧倒的な海水に襲われると、死を免れるのはむずかしいように思われる。事実そうなのだ。犠牲者の多くにとって、まさに死を逃れる可能性はまったくなかった――多国間で使われる高性能の警報システムがなければ不可能だったのだが、インド洋にはそのシステムは備えられていなかったのだ。しかし何千人もの人々にとっての最高の警報システムは、昔ながらの手作りのものだった。
    二〇〇四年の津波を引き起こした地震震源地にきわめて近い二つの町について考察を加えてみた。ジャンタンはスマトラ島北岸沿岸部の村だった。住民が地面の揺れを感じた約二十分後には、波が轟音を立てて彼らの命を押し流した。彼は十四メートルから十八メートルの高さにまで達した。村の建造物はすべて破壊され、住民の五十パーセント以上が死亡した。
    シムルエ島のランギは、さらに震源に近かった。島民は地面の揺れを感じてからわずか八分後には高台に避難していた地震津波の間隔がどこよりも短く、ブイに基づいたその地域唯一の警報システムを使ったわりにはあまりにも迅速だった。波は九メートルから十四メートルの高さに達したジャンタンの波よりも少し低かったが、それでも致命的であることはまちがいなかった。ジャンタンと同様、町の建物はすべて破壊された。
    だがランギでは、八百人の人口の百パーセントが生き残った。だれも――一人の子供も、一人の祖母も――亡くならなかった。 カリフォルニア州アーケータにあるフンボルト州立大学の地質学教授ローリ・デングラーは、二〇〇五年四月に訪れたときに、そのことを発見した。なぜか?ランギでは、地面が揺れたとき、だれもが高台へ向かい――そしてそこでしばらくとどまった。何があっても、それが伝統だったのだ。一九〇七年に、島は津波に襲われ、地元の人の話では、人口の約七十パーセントが命を落とした。そこで生き残った人たちは、ランギやほかの町で、この教えを何世代にもわたって伝えた。シムルエ語で津波を意味する言葉”スモング”を、だれもが知っていた。
    地面が揺れたとき、どこへ行ったのかと、デングラーが地元民に尋ねたとき、彼らは三十メートルほどの高さの近くの丘を指差した。つまりデングラーによれば「まさにわたしが彼らに行くように勧めていただろうと思われる場所だった」。人々は避難に努力することに誇りを抱いているようで、誤った判断で避難してもそれを時間の無駄だとは決して考えなかった(興味深いことに、シムルエ島全島で、津波で亡くなったのは七万八千人のうち七人だけだった。しかも、七人全員が、自分の所有物を守ろうとして亡くなった、とデングラーは言う。彼らは持ち出す物をまとめていたのだ。それは、これまでに述べてきたように、災害時にはよくある傾向である)。
    しかしながら、デングラーのチームがジャンタンを訪れたとき見いだしたのは、まったく異なった技術だった。災害に遭う以前に、「津波について聞いたことがある者はだれもいなかった」とデングラーは言う。爆発音のようなものが海から聞こえてきたとき、住民の多くは、反乱軍兵士とインドネシア軍との銃撃戦ではないかと思って、家に鍵をかけて閉じこもったのだ。
    銃が存在するはるか前から津波はあった。人類は動物たちと同様に、何千年もの間、壊滅的な打撃をもたらす波を相手にしてきた。二〇〇四年の津波の数時間前に、観光客を乗せた十頭ほどのゾウは、突然ラッパのような鳴き声を出しはじめた。津波に襲われる一時間前には、ゾウたちは高台へ向かった――なかにはそこへ行こうと鎖を断ち切ったゾウもいた。津波のあと、何百頭ものゾウ、サル、トラ、シカが無傷のまま生き延びているのを知って、スリランカのヤーラ国立公園の野生生物担当職員は非常に驚いた。だが人間は、ほかの哺乳類のようにはこういった生存のための能力を保持し続けていないように思える。
    しかしながら人間にはもっとうまくやっていく能力があるし、いくつかの地域では人々にその能力があるのも明らかだ。それは非常によい知らせである。グランド・バイユーやランギのように生き延びるための伝統がある共同体では、思考の領域に使われる貴重な時間が、きわめて生産的なものとなりうる。そしてそうでなければならないのだ。というのも、わたしたちにはもう時間がないからである。否認と思考の段階を経てきて、残るは行動のみだ。次章で説明するように、いったん行動に移してしまうと、取り返すのはとてもむずかしい。

(p240)

 

「地面が揺れたとき、だれもが高台へ向かい――そしてそこでしばらくとどまった」ため、住民全員が津波で亡くなることはなかったというランギの話がすごい。

「しかし隣人の名前も知らないような現代の大都市では、その域にまで到達することはめったにない。」

なんとも残念です。この一文を読んで、現代における大災害が恐ろしく感じるのは、被災したあとの困難が想像出来るからかもしれない、と思いました。

 

 「パニック」という語は、その時々で形を変える言葉の一つである。「英雄的行為」と同様、現場での事実についてよりも、第三者の考え方を反映し、あとから考えて定義づけされることが多い。「パニック」はいみじくも神話に由来している。ギリシャの神パンは、胴体は人間で脚、角、あごひげはヤギという姿をしていた。昼間、パンは森や牧草地を歩きまわってヒツジの群れの世話をしたり、笛で歌を奏でたりしていた。夜になると、さまざまなニンフ [ギリシャ神話の美しい乙女の姿をした海、川、山、 森などの精]の愛を得ることにおおかたの精力を傾けた。しかし、時々は人間の旅人にいたずらをして楽しんだ。人々がギリシャ都市国家都市国家間の人気(ひとけ)のない山の斜面にさしかかると、パンは暗闇を這ってくるような、説明しがたい奇怪でぞっとするような音を立てた。パンが下生えの灌木(かんぼく)をかさかさいわせると、人々は歩調を速め、もう一度そうすると、命からがら逃げ出した。このような実際には害のない物音に対して抱く恐怖心が、「パニック」という言葉で知られるようになったのだ。
    時にはパニックという単語は、わたしたちから自制心を奪ってしまう、さざ波のような恐怖心を表わすのに使われる。だがパニックそのものが恐怖を抱く理由にもなりうる。パニックという感情があり、また一方でパニックという行動があるわけもなく悲鳴を上げたり、騒ぎ立てたり押しのけたりして、わたしたち自身や周囲の人々の命を危険にさらしてしまうのだ。 両方の意味が融合して、言外の意味を過度に含んだ一つの短い言葉になっている。本章ではパニックについて、なかでも将棋倒しという、もっとも恐ろしく極端なパニックの一形態として表わされている行動について述べる。
    本章はまた、結末――生存への行程の最終段階――の冒頭部分にもなっている。否認と思考のあとには、筆者が決定的瞬間と呼ぶものがくる。この表現は現代フォトジャーナリズムの父とも呼ぶべき人物、フランスの写真家アンリ・カルティエ-ブレッソンから拝借したものである。彼にとって決定的瞬間とは、とりわけ「出来事の重要性を、間を置かず瞬時に認識すること」で、カメラが物や人の本質を一つのフレームにうまくとらえるときに起こった。
    同様に、生存への行程の最終段階は一瞬のうちに終わってしまう。以前に起こったあらゆることの本質が突然抽出され、どちらかと言えばその後のことを決定する。写真の場合と同じく、この一瞬に起こることは、多くのものに左右される。タイミング、経験、感受性―――そして、おそらく何にも増して、運に。わたしたちが何か恐ろしいことが近づいているという事実を受け入れ、さまざまな選択肢について思考すれば、何が起こるだろう? パニックは人間の想像のなかで最悪のシナリオである。あらゆる行動規範や人間を人間らしくするものがすべて消滅し、混沌だけが残る。例の不安の方程式を思い返してみると、パニックはあらゆる測定基準、つまり制御不能、馴染みのなさ、想像できること、苦痛、破壊の規模、不公平さといったもので高得点をたたき出す。パニックと同じくらい恐ろしいものは、テロリズムだけかもしれない。
    災害研究における最近の風潮では、パニックは起こりえないこととして否定されている。しかしパニックが誇張だとしても、パニック現象そのものの存在を否定するのは行き過ぎであろう。確かに人は基本的な社会的規範を乱すようなヒステリーじみたことをめったにしない。すでに述べてきたように、たいていの場合パニックは起こらない。それどころか、次の章で詳述するが、実際に災害に遭うとまったく何もしない、という反応をすることがもっとも多いのである。あとになって、人々は「パニックになった」と言うかもしれないし、メディアも「パニック」と報道するかもしれないが、実際は無作法な振舞いなどないに等しいのだ。人々は呼吸が速くなり心臓がどきどきするのを感じた。すなわち恐怖を感じたわけで、それは不安な感覚である。だが実際に乱暴で危険な人間になったりはしなかった。なぜなら、そんなことをしても自分たちのためにならないからである。

(p248)

 

パニックという単語の語源がギリシャ神話の牧神パンから来ていることを初めて知りました。

「パニックという感情があり、また一方でパニックという行動があるわけもなく悲鳴を上げたり、騒ぎ立てたり押しのけたりして、わたしたち自身や周囲の人々の命を危険にさらしてしまうのだ」

パニック自体が生き延びるための警告なのかもしれませんが、自分自身や周囲を危険にさらす場合もあるのに、なぜパニックが起こるのか不思議な感じもします。

 

    麻痺状態からの脱出

 

    一九七七年三月二十七日、カナリア諸島テネリフェ北空港で離陸を待っていたパンアメリカン航空ボーイング747は、時速二百六十キロで霧のなかから突進してきたKLMオランダ航空の同型機に警告もなく機体を切り裂かれた。衝突のせいで、コミック本や歯ブラシとともに、ねじ曲がった金属が、長さ八百メートルほどの滑走路にまき散らされた。 KLMオランダ航空の乗客は全員が即死した。だがパンアメリカン航空には、助かった乗客も比較的多くいた。立ち上がって炎に包まれている飛行機から脱出した乗客は、生き延びることができたのだ。
    当時七十歳のフロイ・ヘックは、パンアメリカン航空ジェット機で夫と友人たちの間に座っていた。カリフォルニアの退職者居住住宅から地中海クルーズへ向かう途中だった。 KLMオランダ航空のジェット機が、彼らの乗った飛行機の上部を切り取ったとき、衝撃はさほど激しく感じられなかった。ヘック夫妻は前や右に揺さぶられたが、シートベルトをしていたので投げ出されずにすんだ。それでも、フロイ・ヘックは話すことも動くこともできなくなっているのに気がついた。「頭のなかがほとんど真っ白でした。何が起こっているのか聞こえもしなかったのです」と彼女は何年か後に「オレンジ・カウンティレジスター」紙の記者に話している。だが六十五歳の夫、ポール・ヘックはただちに反応した。シートベルトをはずし、出口に向かったのだ。「ついてこい!」と彼は妻にきっぱりと言った。夫の声を耳にすると、フロイは茫然自失の状態から抜け出し、煙の中をゾンビのように、夫のあとについていったのだという。
    夫と二人で航空機の左側にあいた穴から飛び出す直前に、フロイは振り返って友人のロレイン・ラーソンを見た。彼女は口をわずかに開け、両手をひざで組み合わせて、前方をまっすぐに見ながら、ただそこに座っていた。ほかの数十人と同様に、彼女も衝突ではなくその後に発生した火事で死亡したのだった。
    高層ビルとは異なり、航空機の脱出は急を要する。航空機は、たとえ出口が半分しか使えなくても、通路にバッグが散らばっていても、乗客全員が九十秒以内に脱出できることになっている。後に判明したことだが、パンアメリカン航空ボーイング747の乗客には、機体が炎に包まれるまでに逃げる時間が少なくとも六十秒はあった。だが搭乗していた三百九十六人のうち三百二十六人が死亡している。KLMの犠牲者も含めると、最終的に五百八十三人が亡くなった。テネリフェ北空港での事故は、今も史上最悪の航空機事故であることに変わりはない。
    テネリフェ島で航空機事故があった当時、心理学者ダニエル・ジョンソンは米国の航空機メーカー、マクダネルダグラス社で安全に関する研究をしていた。彼はこの麻痺行動に強い関心を持った。ほかの航空機事故でも同じような行動が見られたのである。フロイとポールのヘック夫妻はもう二人とも亡くなっている。だが事故の二、三ヶ月あとに、ジョンソンは二人にインタビューしていた。そして重要なことがわかった。事故の前に、ポールはふつうの乗客はまずしないことをしていたのである。離陸までずいぶん手間取っていた間に、彼はボーイング747型機の安全図をじっくり見た。さらに最寄りの出口を指し示しながら妻と一緒に機内を歩きまわるということさえしていた。八歳のとき劇場で火災に遭ったことがあるので、それ以来、なじみのない場所ではつねに出口を確認していたのだ。これは偶然なのかもしれない。だが飛行機が衝突したとき、ヘックの脳には行動を起こすために必要なデータが入っていたことも考えられる。
    国家運輸安全委員会の調査で、安全のしおりを読んだ乗客は、非常時に怪我をする可能性が少なくなっていることがわかった。 テネリフェでの事故の三年前にアメリカ領サモアパゴパゴで起こった航空機事故では、乗客百一人中死亡したのは五人だけだった。生存者は全員、安全のしおりを読み、指示に耳を傾けていたと報告した。彼らは翼の上方の出口から脱出したが、死亡した乗客はより危険な状態だったのに従来使われていた出口のほうへ向かったのだ。
    準備に次いで、二番目に期待されるのはリーダーシップである。最近、十分な訓練を受けた客室乗務員が避難時に乗客に向かって金切り声を上げるのは、一つには指導力を発揮するという理由がある―――ポール・ヘックが妻に対してしたように、乗客の知覚麻痺状態をさえぎるのである。そうしなければ、扁桃体は積極的にフィードバック・ループのような働きをする。つまり恐怖がさらなる恐怖へとつながっていくのだ。コルチゾールやその他のストレス・ホルモンは扁桃体に戻り、恐怖感はさらに強くなる。 恐怖が激しくなるほど、海馬その他の脳の部分が反応に介入し、再調整できる可能性は少なくなる。「扁桃体はどんどん活動し続けるだろう」と、脳の専門家ルドゥーは言う。「それに打ち勝つ何らかの方法がなければ、身動きがとれない状態になってしまう」
    麻痺している動物をそのほんやりした状態から抜け出させるには、大きな音を立てるのがいちばん簡単だということを、ギャラップは発見した。ドアがバタンと閉まる音などは効果的で、動物はびくっとして逃げようとするはずだ。こうしたことが偶然、実験室で起こることもある。研究者のくしゃみや、車のバックファイアなどでだ。 「何らかの急な変化がその麻痺反応を終わらせる」と、ギャラップは言う。さもなければ、動物たちは何時間も催眠状態のままでいる可能性もあり、そのようにして死ぬことさえある(麻痺状態にあるマウスの約三十パーセントから四十パーセントが、実際に死ぬことをギャラップは発見した。死因は心停止と推定される)。麻痺反応は非常に強力なので、「死んだふりをしている」と本当に死んでしまうこともあるのだ。

(p302)

 

ポール・ヘックさんの行動を見習いたい。劇場で火災に遭った経験が身を守るためにしっかり活きています。一緒に飛行機に乗っていた友人は何もせずに座っていたというのだから、非常時に正常性バイアスが良くない感じで働いてしまうことが分かります。

出口を指し示しながら機内を歩き回るというのもすごい。飛行機に乗ったら安全のしおりはちゃんと読もうと思います。

 

 英雄を心理分析する

 

 過去二十五年にわたって、社会学者サミュエル・オリナーと彼の妻パール・オリナーは、四百人以上の英雄として記録されている人たちー-全員がホロコースト [ナチスによるユダヤ人大量虐殺]の間に命を賭けてユダヤ人を救った――にインタビューしてきた。 オリナー夫妻はまた、同じ時代に同じ国に生きていたがだれをも救わなかった七十二人の人々にもインタビューした。夫妻は考えうるかぎりのあらゆる質問をした。 子供の頃、あなたのお父さんは何かの政党に所属していましたか? あなたはどんな宗教団体に加入していましたか? あなたの小学校にユダヤ人が通っていましたか?
大多数の人々はたまに見かける人間の善行に驚嘆することで満足しているが、オリナーは英雄を体系的に詳細に分析して一生を送った。彼が十二歳のとき、ナチスが家族を連行しにきた。一家はポーランドのボボーヴァにあるユダヤ人ゲットーに住んでいた。 実の母親は五年前に結核で亡くなっていたが、そのときは継母が一緒にいて赤ん坊の妹を抱いていた。ドイツ兵がトラックを止め、ユダヤ人は出てこいと大声で叫びはじめると、彼女は義理の息子の目をじっと見つめた。そして自身に迫りつつある処刑にうつろになりながらも、逃げなさいときっぱり言った。「おまえは逃げて生き続けるんだよ!」。そう言って彼をひと押しした。
 サミュエル・オリナーは逃げた。屋上に上がり、ほぼ丸一日、パジャマを着たまま、平らに寝そべりじっとしていた。そして子供が見るべきではない残虐な場面を目撃した。窓から放り投げられる子供もいれば、銃剣で突き刺された子供もいた、と彼は言う。ドイツ兵の声が聞こえなくなったあと、彼はそっと家の中に入って衣服を探しまわった。それからこっそりゲットーを抜け出し、通りをさまよいはじめた。ある農夫から聞いて、ゲットーに住んでいたユダヤ人は一人残らず射殺され、死体は共同墓地に投げ込まれ土をかけられたということを知った。
 まもなく彼は救われた。運命に見捨てられたときと同様、不可解ではあったが、今度は運命がオリナーをすくい上げ、抱きしめたのだ。彼は近くの村へ歩いてゆき、ある農婦の家の玄関をノックした。その農婦のことはよく知らなかったが、彼女が何年か前に自分の父親と一緒に学校へ通っていたことは知っていた。彼女、バルウィナ・ピークチは彼に食べ物を与え、新しい名前をつけてやり、主の祈りとポーランドの教理問答を彼に教えた。それから数キロ離れた農場で働く手はずを整えてやり、彼の様子を見にいつも息子を差し向けた。
 オリナーはこの女性のおかげで長生きしている。やがてアメリカに渡り、朝鮮戦争に行き、復員兵援護法に助けられて大学にも通った。そしてカリフォルニアのハンボルト州立大学の教授になった。「わたしは悪の悲劇を目の当たりにし、また理解しました」とオリナーはわたしに話してくれた。だが英雄的行為は……英雄的行為はそれよりも理解しがたい。彼はこの農婦が提示した謎を解明することに一生をささげた。ただ見守っているだけの人がいる一方で、なぜ一部の人々は他人を救うために命を賭けるのだろう?

    オリナーが発見したことは、いわく言いがたいものだった。「なぜ人々が英雄的行為をするのかについて説明することはできません。遺伝的なものでも性格でも文化的なものでも絶対にないのです」。だがまず、何が問題にならなかったかについて考えてみよう。信仰は違いをもたらしていないように思えた。オリナーの研究では、救助者と非救助者の双方の約九十パーセントが、子供の頃に宗教団体に加入していたと答えた(ほとんどがカトリック教徒だった)。もっと肝腎なことは、両方のグループが自分たち自身も両親も同程度に熱心な信者であると報告している点である。
    英雄の多くはそれぞれ異議を唱えることだろう。ビバリーヒルズ・サパークラブの火災で何百人もの命を救ったバスボーイ、ウォルター・ベイリーは、信仰のおかげで落ち着いた気持ちでいられたと信じている。「死ねばどこへ行くのか知っている人は、死をさほど恐れないという気がします」。これに反して、3便が墜落したあとポトマック川に飛び込んだ男性、ロジャー・オリアンは強い信仰を持っていない。彼の価値観は宗教的なイデオロギーと部分的に重なり合うが、それはどこかほかから家族、軍隊、多くのほかの影響から得られたものである、と彼は言う。
    政治も行動を予測する要素にはならない、ということがオリナーの研究でわかった。救助者も非救助者もともにそれほど政治に関心を持っているわけではなかった。しかしながら、救助者たちは概して民主的で多元的なイデオロギーを支持する傾向があった。
    非常に多くの英雄たちの発言には反するが、英雄的行為は単なる偶然の産物ではない、という結論がオリナーの研究によってもたらされた。救助者たちはしかるべきときに、ちょうどしかるべき場所にいたわけではない。ユダヤ人に起きていることを、よりよく知っている人たちが、より積極的に助けたというわけでもなかった。助けることによって直面している危険の度合いが減った人もいなかった。救助者が非救助者より裕福だというわけではないし、子供時代により多くのユダヤ人を知っていたわけでもなかった。
    しかし両者の間には重要な違いがあった。救助者のほうが両親との関係がより健全で密接である傾向があり、そしてまたさまざまな宗教や階級の友人を持っている傾向も強かった。救助者のもっとも重要な特質は共感であるように思われた。どこから共感が生じるのかを言うのはむずかしいが、救助者は両親から平等主義や正義を学んだとオリナーは考えている。子供の頃にしつけられたとき、救助者は道理を説いて言い聞かせられたのだろうと思われるが、非救助者は体罰を受けた可能性が大きかった。
    こういった理由はあるにせよ、おそらく英雄たちは可能なときには他人を助けなければという、止むに止まれぬ義務を感じるのだろう。「人の気持ちをつかみ、何かしなければと思わせるのは、心のなかに、魂のなかに、感情のなかにある何かである」と、オリナーは言う。この結論はほかの(数は少ないが)英雄的行為の研究結果と一致する。 英雄的行動をとる人々は、日常生活においても「助ける人」であることが非常に多い。 消防士や看護師、警察官などである。
    おそらくは訓練や経験の賜物(たまもの)であろうが、英雄はまた自分の能力に自信を持っている。極度のストレス下でも立派に振舞うほとんどの人たちと同様に、概して英雄は自分の運命を決めるのは自分だと信じている。心理学者はこれを「内的統制」と呼んでいる。

(p322)

 

どの生還者の話も興味深いものが多いですが、ここに出てくるオリナ―さんのエピソードがもっとも強く印象に残りました。

大虐殺からユダヤ人を救った人たちの親は、しつけとして「言い聞かせ」という方法を取っていたことが多かったそうです。

 

こしあんさんも、しつけの観点からオリナ―さんの研究について書かれています。

note.com

 

有事に周りから感謝されるような模範的行動が取れるかどうかは置いておいて。

英雄的な行動が取れたのは信仰を持っていたから、という結論だったら、日本人としてはなんだかちょっと蚊帳の外みたいでがっかりしてしまいますが、家族との関係や、様々な友人を持っていることが関係すると言われると、少し希望が湧いてきます。

 

こうして世界各地で起こった天災や事故をみると、災害が少なく安全な場所は意外とないように感じます。

ただ、恐怖は準備をすればするほど制御できるということが分かり、少し安心感が生まれました。

生き残った人たちの考え方に寄り添うだけでも、得るものは大きいと思います。

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。

 

文学から見るジェンダー平等の世界。『特別な友情』を読んで

おはようございます、ゆまコロです。

『特別な友情』を読みました。

 

萩尾望都先生が『トーマの心臓』を書くきっかけとなった映画『悲しみの天使』の原作が載っていると知り、手に取りました。

掲載されている12編の中で、私が気に入ったのはカサノヴァの『わが生涯の物語』です。

 

    こうした贅をつくした夕食を済ますと、ベルリーノが歌ったが、その声は、最高のワインがぼくたちに残しておいてくれたわずかな理性までも失わせるほどだった。その身振り、目の表情、物腰、歩調、立ち居振る舞い、顔立ち、声といったら。なかでも、ぼくの直感からすれば、彼に感じたものからどうにもカストラートだとは思うことができなくて、何を見てもぼくの期待ばかりが強固なものになるのだった。それにしても、ぼくはこの目で見て確かめねばなるまい。
    何度も何度も賛辞と感謝を述べてから、ぼくたちはすばらしいカスティーリャの男の部屋をあとにした。 そしてぼくの部屋に移動した。ついにそこで、秘密が明らかになる。ぼくはベルリーノに約束を守るよう促した。さもなければ、翌日、夜明けとともにぼくがひとりで出発するのを見ることになると告げた。
    ぼくはベルリーノの手を取り、暖炉のそばにいっしょに腰をおろした。チェチーリアとマリーナを帰すと、ぼくはこう言った。
「ベルリーノ、何事にも期限があるんだよ。きみはぼくに約束したよね。話はすぐにつく。きみの言うとおりなら、自分の部屋に引っ込んでくれたまえ。ぼくの思ったとおりなら、どうかここに残ってぼくと過ごしてもらいたい。そうしたら明日、きみに百ゼッキーニあげよう。そしていっしょに出発しよう」
「どうか、おひとりで出発なさってください。あなたとの約束を守れなくても、それはぼくの弱さだと思って許してください。あなたに言ったようにぼくはカストラートです。あなたをこんな恥辱の目撃者にする決心なんてできないし、こうして釈明してもひどい結果になるとわかっているのに、自分をさらすことなんかできません」
「ひどい結果になんてちっともならないよ。だって、ぼくの思いが外れて、残念ながらカストラートだったとしても、それを確かめてしまえば、白黒がついてしまうから。そうなればもう何も二度と問題にはならない。ぼくたちは明日いっしょに出発することになるし、きみをリミニで降ろしてあげるよ」
「いいえ、決めたことです。あなたの好奇心を充たしてはあげられません」
     この言葉を聞いたとたん、堪忍袋の緒が切れて、ぼくは暴力に訴えようとしたが、なんとか自分を抑え、優しくケリをつけようとして、問題の部分に直進しようと思った。でも、手がそこに達する前に、強い抵抗にあってしまった。ぼくは力をさらに込めたが、とつぜん彼に立ち上がられて、面食らった。瞬時に落ち着きを取りもどすと、不意をつこうと思い立ち、ぼくは手を伸ばした。だが、ぼくは恐怖におののきながら、こいつは男だと思ったのだ。 去勢されているからではない。その表情に読み取れる非情冷徹さから、軽蔑すべき男だと思ったのだ。ぼくはうんざりし、混乱し、自らを恥じ、彼を送り返した。
(p350)

 

青年カサノヴァがイタリアの港町で出会ったカストラート(少年時の声を保つため少年の間に去勢をした男性歌手)に恋をする話です。

男性の格好をしたベルリーノを、本当は女性なのではないかとあれこれ探りをいれる様子が面白い。そして、やっぱり男性だと確信しても暴力を振るわなかったこのシーンが好きです。

 

シニガリアまでの行程の半ばに達するまで、ぼくは毅然としてひと言も口を利かなかった。そこで夕食をとり、泊まるつもりでいた。とうとうそこに着いたときには、自分との葛藤もかなり済んでいた。
「リミニまで足を伸ばせていたら、良き友として旅の疲れを休めることもできたかもしれないね、 もちろんきみにぼくへの友情がいくらかでも残っていたらということだけど。だって好意が少しでもあれば、きみはぼくの恋心を癒してくれることだってできるだろうから」とぼくは彼に言った。
「そうしたところで、あなたの恋心は癒えないでしょうね」とベルリーノは勇気をもってぼくに答えた。
でもその声の調子にふくまれる優しさに、ぼくは驚いた。
「ええ、癒えることはないでしょうね、たとえぼくが女であっても男であっても。 なにしろあなたはぼく自身に恋をしているのですから、ぼくの性別に関係なく。ですから確証を得たとしても、あなたは激高してしまうでしょうね。そうした状態になれば、あなたはぼくを血も涙もないヤツと思い、きっと過激なことをなさってしまうでしょうね。そして無駄な涙をあなたは流すことになるかもしれません」
「そんなふうに立派な言葉を並べて、きみは自分の強情な態度がさももっともだとぼくに認めさせるつもりだね。でもきみは完全にまちがっているよ。だって思うに、ぼくはすっかり落ち着いているし、ぼくが抱く友情はきみにとって好意に値するんじゃないかな」
「ぼくがお伝えしているのは、あなたは激高してしまうでしょうということです」
「ベルリーノ、ぼくを激高させたものがあるとすれば、それはきみがあまりにリアルな魅力というか、つれない魅力をひけらかしたからだよ。そしてもちろんきみは、その効果のほどを知らないはずはなかった。あのとき、きみがぼくの恋心の激高を恐れたなんてことはなかった。どうしてきみはいまになって、この恋心の激高を自分が恐れているとぼくに思わせたいのだろう。それも、こちらに嫌悪感を催させるようにできているモノにただ触れさせてほしいとお願いしているだけなのに!」
「ああ! 嫌悪感を催すだなんて! まちがいなく、それとは正反対ですから。聞いてください。もしぼくが娘だとしたら、思うに、あなたを愛さずにはいられないでしょう。でも、男ですから、ぼくの義務はあなたの望んでいるような好意を示さないことです。なにしろあなたの恋心は、いまは自然なものですが、怪物のようにものすごくなりかねません。あなたの情熱的な資質は理性を上回ってしまうでしょう。そしてその理性もまた、いとも簡単にあなたの感覚に協力してしまい、半ばあなたの資質の味方になることでしょう。こうした説明にも教唆的なところがあって、あなたがそんな説明を受けたら、もう自制さえしていられないかもしれません。見つけようがないものを探し求めているあなたは、見つけられるものをなんとか受け入れようとしています。そしてその結果はおそらくひどいことになるでしょう。あなたの性向を考えると、ぼくが男だとわかったからといって急にこちらを愛さなくなんてことを、どうして期待できるでしょう。 あなたがぼくのうちに見出している魅力が存在しなくなる、とでも言うおつもりですか。男だとわかったところで、おそらく魅力は強烈になるばかりでしょうから、あなたの恋の炎は容赦ないものになり、その恋を充たそうとして、あなたは思いつくかぎりのあらゆる手を使ってみることでしょう。 ぼくを女に変えることができる、とあなたは確信するまでになるでしょうし、さらにひどい場合は、自分自身を女に変えられるとさえお思いになることでしょう。あなたの情熱は無数の詭弁を生み、友情という美名で飾って自らの愛を正当化しています。 そしてご自分の振る舞いを正当化しようと、その種の破廉恥な言動を山ほどほくに対して必ず言い立ててきます。ご自分の要求にぼくが従わないと思っているあなたが、殺すぞと言ってぼくを脅す以外に、いったい何を言おうというのですか。なにしろその点について、ぼくのことを従順だとは間違いなくお思いになっていないのですから」
 そんなふうにこの気の毒な哲学者は言葉を並べ立てたが、彼がそうして並べ立てた言葉は、千々に乱れた恋心が精神の能力を迷わせるようなときにやってしまうものだった。きちんと言葉を並べて筋を通すには、恋をしていてもいけないし、怒っていてもいけない。というのもその二つの感情には共通点があって、それらが過度に発揮されると、われわれを、本能に支配され、本能のみにしたがい行動する野蛮人同然にしてしまうからだ。そして残念ながら、この二つの感情のどちらか一方に駆られたときにだけ、ことのほか言葉を並べ立てたくなるわけではないのである。
    とっぷりと日が暮れてから、ぼくたちはシニガリアに着き、最上の宿屋に泊まることにした。 良い部屋に満足してから、ぼくは夕食を注文した。部屋にはベッドが一つしかなかったので、ぼくはベルリーノにきわめて穏やかな態度で、もう一つ部屋をとって火をおこしてもらってはどうかと訊いた。しかしこちらの驚きを想像していただけるといいのだが、そのとき彼は、同じ一つのベッドで寝ても何らイヤではない、と優しくぼくに答えたのだ。そんな返事をぼくはまったく予期していなかったが、それでも、心を乱していた鬱々とした気分を一掃するには、その返事が必要だった。これまでの成り行きの大詰めにさしかかっているのがぼくにはわかった。だがぼくは気をつけて、自分におめでとうと祝福を言わないようにした。彼がぼくを受け入れてくれるのか、くれないのか、不確かな状況にいたからだった。とはいえ、彼の主張を何とかしのいだという紛れもない充足感をぼくは感じていた。たとえ自分の感覚と本能にだまされていたとしても、ぼくは充実した克己心を確実に手にしていた。つまり、ベルリーノが男だとしても、まちがいなく彼を尊敬できる。逆に彼が女だとしたら、ぼくは最も甘美な愛情のしるしを期待できると思っていた。
(p356)

 

自分を女性だと思っているカサノヴァの求愛を、(ときに暴力に訴えそうになったりして相当鬱陶しいであろうに)ベルリーノは何故のらりくらりかわすのだろう、と読んでいるこちらは不思議に感じていたのですが、だんだんベルリーノもカサノヴァのことを憎からず思っていることが明らかになってきます。なんだそうだったのね、と和らぎました。

そして、男性だとしても尊敬出来るし、女性であっても嬉しい、というカサノヴァの表明が、読者としてもなんだか嬉しい。

結局、本書に掲載されている部分ではベルリーノは男性だったのか女性だったのかは明かされずに終わります。

 

副題に「フランスBLセレクション」とありますが、同性愛者の作家の作品もあれば、クィアの登場人物が出てくる作品(ジャン・ジュネ泥棒日記』)や、異性装や性別交換の物語(ラシルド『ムッシュー・ヴィーナス』)もあります。

本書に収められた作品で書かれた年代がもっとも古いのは、マルキ・ド・サド の『閨房哲学』(1795年)ですが、その頃の読者はどのように受け入れていたのか、気になるところではあります。

日本は江戸時代(円山応挙が亡くなった年です。)ですが、もしかしたら現代よりもおおらかに受け入れられたかもしれません。

短編集に収められた作品の作者たちの意図や、書かれた時代を思うと、単に官能とか耽美とかいう言葉でくくるのは浅慮かなという気持ちになりました。

 

そして肝心のペールフィットの『特別な友情』について。

恋愛の結果自殺した少年にもう一方が「悪かった」という気持ちを抱かせておしまい、というラストに不満を抱いて、自殺から時間を巻き戻す形で『トーマの心臓』を描いた、といったことを萩尾先生が述べていましたが、上級生に憧れるところや、ライバルの足を引っ張るところなど、映画から受け取ったものを余すとこなく補完してくださっていたことがこの話を読んで分かりました。

順序が逆だと思っていても、読んでいるとつい、萩尾先生の描く人物とか風景とかでイメージしてしまいます。

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。

 

受け入れる準備をするために。『ふりまわされない!更年期』を読んで

おはようございます、ゆまコロです。

永田京子さんの『ふりまわされない!更年期〜母と娘のための「女性ホルモン」対策BOOK』を読みました。

 

先日読んだ山本文緒さんの『自転しながら公転する』の主人公のお母さんが、重い更年期障害に悩まされていて、自分のときもこんな感じだったらどうしよう、と怖くなりました。

閉経して症状が出たら考えればいいか、と軽く考えていましたが、もしかしたらそういうわけでもないのかも、今からなにかやるべきことがあるのかも、と思い、手に取ってみました。

 

    更年期は、閉経の前後10年のことを指します。閉経の定義は、最終月経から1年間(12か月間) 月経がないという状態のこと。
   日本人の平均の閉経年齢は50歳過ぎなので、おおよそ45歳から55歳が「更年期」というわけです。
    とはいえ、初経がはじまる時期の個人差が大きいのと同じで、閉経もまた個人差がとても大きいのです。 40代半ばで閉経される方もいらっしゃれば、60歳を過ぎても月経がある、という方もいらっしゃいます。
    そして、どんな方でも更年期以降の女性ホルモンは、ほぼ「ゼロ」になります。
ゼ・・・・・・ゼロ!?
そうなんです。

 

読んだほうがいいな、と思ったのは、まさに冒頭のこの定義を見たからでした。

「 更年期は、閉経の前後10年のことを指します」ということさえ分かっていませんでした。もしかしたら、あんまり猶予はないのかも。

閉経してから対策を講じたのでは、場合によっては遅いのかもしれません。

 

    とっても元気でハツラツとされている60代の方を見たことはありませんか?
    更年期以降は、女性ホルモンの毎月の不安定さから解放されるのです。
    それだけではありません。
    実は、女性もテストステロンという男性ホルモンを持っており、女性ホルモンがゼロになったあとは、男性ホルモンの方が優位になります。男性ホルモンは気持ちの明るさを保ったり、活力的になったり、リーダーシップを発揮させるような役割があるので、別名「社交性ホルモン」とも呼ばれています。
    このホルモンのおかげで、心とからだがエネルギーに満ちるのですね!
そのため、更年期を過ぎたあとの10年間、おおよそ55歳から65歳までを「黄金期」と呼んだりもします。
    心もからだも輝く期間。
    シルバーの前に 「ゴールド」があったなんて!


    閉経はお祝い! メリットに焦点を当ててみよう!

 

「閉経」というと、なんだか暗~い情報ばかりが目立ちますが、とんでもない!
閉経は、女性にとって大きなメリットをもたらします。

(p31)

 

申し訳なくもあるのですが、永田さんがおっしゃるように、閉経にはたしかに暗いイメージを持っていました。

女性ホルモンがなくなるということは、それがあることによって受けられていた恩恵も剥奪されてしまうことと同義だと思っていました。だからコレステロール値が高くなったり、骨粗鬆症になりやすくなったりと、気をつけるべきことが増えて大変そうだな、というネガティブなイメージがあります。

 

   このときに、とーっても大切なことがあります。
    それは、自らが「積極的」に健康づくりをしていくことです。
日本女性の平均寿命は、87.74歳と、とっても長寿で世界から注目されています。誇らしいですね!

    しかし一方で、寝たきりにならず自立して過ごせる期間である〝健康寿命〟と〝平均寿命"の差はおおよそ12年。
    これは、なんと人生の7分の1を不自由な状態で過ごしているということ。
 そ、そんなに!? ショック!
    その寝たきりになってしまう原因の2割は筋力の低下なんです。
    せっかく長生きするなら、快適に過ごしたいじゃないですか。それに、いつもお世話になっている周りの方々が何歳になっても元気で過ごしてくれるのはうれしいですよね。だから、できるだけ健康を増進したり、筋力をキープして過ごしてほしいと願っています。
 そのためには、「今」この瞬間から、自分のからだを大切にしていくことです。まだわたしには早いなんて思わないこと。 からだをつくるための運動や食事をあとまわしにしないこと。
    しっかり睡眠をとって、生活習慣を整えて、健康診断にも行きましょう。
    心とからだを快適に保てると、人のためにも自分のためにも、いろんなことにチャレンジできますから。

(p34)

 

健康寿命と平均寿命の間の期間が長く、「人生の7分の1を不自由な状態で過ごしている」。

なかなかショッキングな数字です。死ぬ前の10年の生活は、好きなところに行ったり、好きなスポーツをしたりすることは不可能ですと言われれば、まあそんなものなのかもしれない、と思わなくもない。

しかしこれが、この先の自分に待ち構えている未来なのだとしたら、是が非でも回避したい。

細々でもいいから運動を継続しようと強く思いました。

 

    一方で、このような声も。
「気の持ちようじゃないの?」
「更年期なんて、認めたら負けだから」
「更年期? そんなものはヒマな人がなるのよ!」
    なるほど。捉え方は人それぞれです。
    それも、もっとも!
    なぜなら、からだの中で起こっている変化なので、見た目では全然わからないから。
    だからこそ、「知る」ことがとっても大切だと気がついたんです。
    それは、本人が知るだけではなく、周囲の人たちも一緒に知っていくということが大切。
    だって、理解してもらえないとつらいじゃないですか。
    それならば、一緒に働く人、一緒に暮らす人、周りの人もまるごと知ってもらう機会をつくるために動こう!と、チェンジ・オブ・ライフの「ちぇぶらプロジェクト」がはじまったのでした。

    もう一つ、アンケートを実施したことで、大きな収穫がありました。
    それは、ホルモンの波を乗りこなす、プロサーファーになる3つの秘密がわかったことです。それはこちら!


①正しく知ること
    自分のからだでなにが起こるのかを正しく知って心構えができると、同じ変化が起こっても、過ごし方や捉え方、それに心の余裕が、まったく変わってきます。
    変化や不調の渦中にいるときには「こういう体質になってしまったのかな」 「歳のせいかな」「次に輝けるのは、来世かな……」とつい思ってしまいそうになりますが、知識があれば「これらの不調も、いつか終わりがあるから大丈夫」と前向きに考えられます。


②からだのケアに取り組むこと
    からだを動かすこと、食事や睡眠を工夫することで、からだの不調やメンタルを改善できることがわかっています。不調に翻弄されるとしんどいですが、「自分でもできることがある」と思うと、ずいぶん自信になるものです。
    性ホルモンが大きく変動する時期は、 自分に合ったセルフメンテナンス方法を見つけるチャンスにしていきましょう!!!


③周囲の理解とコミュニティ
    いざというときには医療機関や専門家に相談することが大切ですが、それ以外にも安心して話せる人がいたり、周囲の理解があることで、ずいぶんと気持ちが救われるものです。
    思春期のことも更年期のことも、親子やパートナー、それに友人や一緒に働く人たちなど、周囲も一緒にからだの変化を理解することがとーっても大切です。
    わたしは、この3つを軸に女性の健康を応援するプログラムを開発。
    すると、たちまち女性たちの口コミで広まり、女性の活躍を応援するトップ企業や、自治体、医療機関などで講演をさせていただき、今まで3万5000人以上の女性がこのプログラムを受講してくださいました。

    また、これらの性ホルモンの波乗り名人になる方法は、更年期に限らず、思春期や、月経前、また出産後などの女性ホルモンが激動することで起こる女性特有の不調を乗り越えるのにも役立ちます!
    というわけで次の章からは、思春期や更年期の心とからだとの付き合い方について、ググーッと踏み込んでお伝えしていきましょう。
 今日から、あなたも女性ホルモンの波乗り名人です!

(p44)

 

来たるべき更年期障害が怖いということは、この先の性ホルモンの変動によってどんな不調がもたらされるか分からないからなのかもしれないな、と読んでいるうちに思いました。

①知識②からだのケア③周囲の理解、この3つは忘れずに拠り所にしたいです。

 

 そんな場合には、更年期症状を自己チェックできる「簡略更年期指数」が便利です。      

    各項目の自分の症状の体感値をチェックして合計得点を出します。女性も男性も、合計が50点以上の場合は受診の目安となります。


「更年期」に力を入れている婦人科の探し方

 

「勇気を出して婦人科に行ったのに、いやな思いをして帰ってきた」
    そんな相談をいただくこともあります。
「更年期なので仕方ありませんね。といわれただけ。途方に暮れて帰った」
「薬をもらったけど、説明がなくて不安で飲めない」
    という声も。
    病院は不調をサポートしてくれる強い味方であることに間違いありませんが、婦人科には得意な分野がそれぞれあります。
    たとえば、妊産場さんのサポートが得意であったり、不妊治療に力を入れていたり、子宮筋腫などの手術に力を入れているなど。
    更年期の相談は、更年期医療に力を入れているクリニックがベストです。
    たとえば、クリニックのホームページの情報から、更年期ケアに対して積極的かどうかを確かめるのもいいでしょう。口コミもいいと思いますが、ドクターとの相性は人それぞれ。ご自身が信頼できると思うクリニックを根気よく探しましょう!
    更年期は閉経の前後を合わせた10年ほど。長期戦になることもあります。このときに出会った信頼できるドクターは、きっと生涯を通して、あなたの健康の心強いサポーターとなってくれるはずです。


    あると安心。 受診の準備


「病院に行ったのに、あの医者はぜんぜん話を聞いてくれない!」
    先日の講座で、受講者さんがこのように涙目になって怒っていました。
    話を聞くと「いつごろから症状を感じはじめましたか?」と医師に聞かれたので、「たしか、去年の冬でした。最初は疲れやすいなと思ったんです。 それから急に汗がふき出るようになり……」などなど聞かれたまま経緯を答えたら、途中で話をさえぎられたというのです。それがすごく冷たく感じられたのだとか。
    期間が長いですし、症状がとっても複雑な特徴があります。それに、刻々と変化する自分のからだについて人に伝えるのは、相当な観察力を持つコミュニケーションの達人でないかぎり、至難の技です。お医者さんも、次の診療がありますからたくさんの時間をかけるわけにもいきません。
    また、伝えたいことがとっさに出てこなかったりする場合もあるので、受診の際には、簡易メモを用意しておくと便利です。
・気になる症状について
・改善したいことや知りたいこと
・最終月経(期間・周期・量など)
    をかんたんにまとめて、お薬手帳を持参しましょう。
    講座を受講した知人は、メモをして準備したそうです。「準備ばっちり!と思ったら、そのメモを玄関に忘れちゃったのよ~」と笑っていましたが。


    更年期の治療法について知る


●ホルモン補充療法
    更年期障害には治療法があります。代表的な治療法はホルモン補充療法(HRT)です。
急激に減っていく女性ホルモンを外から補うことでゆるやかにします。ほてりやイライラ、集中力の低下などの不調の改善や、肌のツヤや髪の潤い、骨をじょうぶに保つなど、女性ホルモンのメリット面を取り戻す効果が期待できます。
    ジェルで腕に塗るタイプ、肌に貼るタイプ、飲み薬など種類はさまざま。治療を受けるにはまずは婦人科を受診し、自分のからだに適しているかさまざまな検査を受けます。 乳がんの経験者や血栓症のある方など、HRTが受けられない場合もあります。
20年以上前に乳がんリスクを増やすなどの報道がありましたが、そのあとの調査では、乳がんの発症率は特に増加していないことがわかっています。
(p100)

 

「簡略更年期指数」は、こちらからチェックできます。

www.chebura.com

この受診の際のメモ、なかなか心強いアドバイスだと思いました。

 

 女性も必見! 男性ホルモン力を味方につけるライフハック3つ!

 

    女性ホルモンとは違って、男性ホルモンは自分で増やすことができます。
しかも、男性だけではなく、閉経後の女性であってもです。
「オジサン化しちゃうってこと? それは、かんべん!」
    なんて、男性という名称のもつイメージに惑わされて、心配になる必要はありません。
    生まれ持った性に関わらず、どんな人でももともと男性ホルモンも女性ホルモンも併わせ持っています。それに、更年期以降を快適に過ごすコツは男性ホルモンをいかに味方につけるかにかかっているんですよ!


    さて、男性ホルモンを代表するのがテストステロン。女性の場合、もともと男性の1割程度分泌されているものですが、閉経以降はこのテストステロンが優位になります。 どちらの性ホルモンも、働きが似ているところがあるので、これまでエストロゲンが担っていた仕事をテストステロンがサポートしてくれると考えるといいでしょう!
テストステロンを味方につけることで、血管が若く保たれたり、認知力が上がったり、気持ちが明るくポジティブになったり、筋肉や骨が強くなったりなど、メリットがたくさんありますよ。
    ということで、更年期以降のわたしたちのからだを守るテストステロンを高める方法をご紹介していきます。わたしたちだけでなく、パートナーや周りの男性にもぜひ教えてあげてください。


●運動:スクワットで大きな筋肉を刺激する!


    なんと! テストステロンは、筋肉を鍛えることで自らつくり出すことができるんです! 最も手軽にテストステロンを味方につける方法はスクワット。 スクワットで鍛えられる大腿四頭筋は、からだの中でも一番大きな筋肉。朝や日中などやる気と自信をつけたいときに試してみて!

①腕を前に伸ばして、足の付け根から上体を前にたおします。
②そのまま太ももの後ろが床と並行になるまでお尻を沈めて5秒キープ。 ①の姿勢に戻します。
これを10セット繰り返します。
 また、最近太りやすくなったとお悩みの場合も、代謝アップが期待できます!

 大腿四頭筋(だいたいしとうきん)は、更年期以降急速に衰えてしまう部分でもあるので、今から筋肉をつけておきましょう。


●食事:テストステロンをつくる栄養を摂る


 テストステロンを増やすためにはタンパク質をしっかり摂ることが大切です。
特にラム肉などに入っているカルニチンという成分は、テストステロンを高く保つ作用があります。
 また、テストステロンをつくる材料である、オメガ脂肪酸を含むオリーブオイル・アマニ油や亜鉛を含むナッツ類、血液をサラサラに保つ玉ねぎやニンニクなど抗酸化作用の強い食品を一緒に摂りましょう。


●睡眠:6時間以上はしっかり眠る


 テストステロンは主に寝ている間につくられます。なので、しっかり睡眠をとることが大切! 2011年にアメリカのシカゴ大学で行われた研究では、睡眠時間が5時間以下
と短い場合、男性ホルモンが10%~15%も下がったという結果が出ました(参考: Journal of the American Medical Association 2011年6月1日号)。必要な睡眠時間は人によって違いますが、一般的には6時間から7時間ぐらい眠るのがいいとされています。
(p112)

 

運動・食事・睡眠、やはりこれらは一つとしておろそかにできない事柄なんだなあと、年を重ねるごとに強く思います。早めに気が付いて幸いだったと考えるようにして、なるべくたくさん良い習慣を付けたいです。

 

 親子で大事な栄養素とその理由


 食事は、バランス良くということが鉄則。その中でも、10代と40代で特に摂っておきたい栄養素はカルシウムと鉄分、そしてタンパク質です。


●カルシウム


思春期:カルシウムの蓄積量はピークを迎え、骨量がぐんぐん増えるチャンスのとき!ここでしっかり「カルシウム貯金」ができれば、大人になってからのケガや骨折リスクを減らせます。
更年期:性ホルモンが低下した先の心配ごとは、骨がスカスカになってしまう骨粗鬆症。骨量低下を予防するために、食事や運動の工夫が必要です。

 

 カルシウムが豊富な食品は、牛乳や魚、ナッツなど。また、カルシウムの吸収や骨
生を助けてくれるビタミンDも一緒に摂取しましょう。
 ビタミンDは、キノコ類や魚介類などに多く含まれていたり、食事以外にも太陽の光に当たることでつくられます。


●鉄分


思春期:からだが大きくなると血液の循環量が増えます。そのため成長期には血液のもととなる鉄分が不足しがちになることも。加えて月経という定期的な出血で、貧血
になりやすいときです。
更年期:閉経が近づいて月経周期が不規則で短くなったり、出血の期間が長くなったり、子宮筋腫などによる過多月経が続くと貧血を起こしやすくなります。

 鉄分を多く含む食材は、豚レバー、あさり、ひじき、小松菜、納豆など。
フルーツなどビタミンCを多く含むものと一緒に食べることで鉄の吸収率が大幅にアップします!

 一方で、コーヒーや紅茶、緑茶などに含まれているタンニンは鉄の吸収を抑えてしまうので食事中の飲み物は麦茶や水などがオススメです。


●タンパク質


思春期:からだの成長とともに筋肉量も増えます。からだをつくる材料不足・エネルギー不足を起こさせないために、タンパク質をしっかり摂ることが大切です。
更年期:加齢によって消化吸収率が低下。筋肉をキープするためには、若い頃より多くのタンパク質を摂ることが必要です。タンパク質が足りないと、筋肉量が減るだけでなく、肌や髪のトラブルも起きやすく、老化を進める原因になるので要注意!

 タンパク質は、肉、魚、卵、乳製品、納豆などの豆類などに多く含まれています。 日本人の食事摂取基準(2020) によると、タンパク質の目標量は身体活動が中程度の場合、10~17歳で68~115グラム、30~49歳で67~103グラムと設定されています。 オック
スフォード大学のシンプソン博士が発表したプロテインレバレッジ仮説では、人は1日のタンパク質の必要量を満たすまで食事を取り続けようとするのだそうです。 健康的で無理のないダイエットのコツは、タンパク質をしっかり摂ることです!


 女性ホルモン・エストロゲンと似た働きをする食品


 食べることでエストロゲンと似た役割をしてくれる食品があります。特に女性ホルモンが低下する更年期以降の体調を整える強い味方になります。


●大豆


 大豆に含まれるポリフェノール大豆イソフラボンが更年期の不調に効果的と注目されています。さらに、食事として取った大豆からエストロゲンに似た作用を持つ「エクオール」をつくる腸内細菌がある人は、大豆を食べることで性ホルモンのエストロゲンに似た働きが期待できます。
 日本人のおよそ2人に1人がエクオールをつくれますが、つくれない人は、サプリメントで補う方法もあります。また、大豆はタンパク質が豊富だったり、食物繊維、カルシウム、ビタミン類などさまざまな栄養を含んでいます。豆腐や納豆などの大豆加工食品、豆乳などを上手に組み合わせて食事に取り入れてみてはいかがでしょう。

 

●アマニ油


 アマニ油に含まれている「リグナン」という成分にエストロゲンに似た作用があり、更年期症状の緩和や骨粗鬆症予防に効果があると考えられています。
 リグナンは、ゴマや、キャベツ・ブロッコリーなどにもありますが、アマニ油がダントツたくさん含まれています。1日にとる目安としては、小さじ1杯。アマニ油は、からだではつくれないオメガ3 (n-3)系脂肪酸という必須脂肪酸を多く含んでいることから、健康オイルとして注目されています。
 アマニ油の注意点は、光と熱に非常に弱く、酸化しやすい点。揚げものや炒めものなど加熱調理には使えません。そのまま飲んだり、サラダやヨーグルトにかけて使います。開封したら、冷蔵庫などの冷暗所で保管。1か月を目安に使い切りましょう。
 わたしはよく、納豆にアマニ油を少し混ぜていただいています。納豆が苦手な方は、お豆腐やサラダにアマニ油を少量かけていただくのもいいでしょう。工夫次第で手軽に取り入れられます!


 「心」を整えるアイデア


 心とからだを整えられる方法が身につくと、体調のことを考えなくてもよくなります。
 すると、本当に自分が向き合うべき問題に取りかかる余裕が出てくるようになります。
 からだを整える本当の目的は体調が良くなった先に、どう生きるか、生きたいかです!
(p140)

 

親子で同じ食べ物を摂取しても、使われ方が違っているという比較が興味深いです。結局、体のためにはバランスを蔑ろにしていい時期など存在しないのだという事実が改めて身に沁みます。

「30~49歳で67~103グラム」のタンパク質って、毎日結構頑張らないと難しいです。みなさんどうやってクリアしているんだろうな。

そしてさり気なく書かれている、「人は1日のタンパク質の必要量を満たすまで食事を取り続けようとするのだそうです。」というプロテインレバレッジ仮説、怖すぎませんか。ラーメンと同時にチャーハン食べてる日とか、夕食の後にドーナツ食べてる日とかに、タンパク質足りてないサインだよと言ってあげたい。

 

「からだを整える本当の目的は体調が良くなった先に、どう生きるか、生きたいかです!」

健康を目指す理由はやはりこれですよね。バランスの良い食事とか運動とか、面倒くささを感じたときは思い出せるようにしたいなと思いました。

 

絵が多く、マンガのようなので、難しさを感じずに読み終えましたが、細やかなアドバイスが参考になりました。

ふりまわされずに前向きでいるために、まずは「知識」から備えていこうと思いました。

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。

 

 

寛容の道に至るまでの苦しみ。『テロリストの息子』を読んで

おはようございます、ゆまコロです。

ザック・エブラヒムさん、ジェフ・ジャイルズさん、佐久間裕美子さん(訳)『テロリストの息子』を読みました。

 

父は火傷を手当てする方法を教わり、痛み止めの薬と、さらには効力の予測できない、強い抗鬱剤の処方箋を持たされて退院する。 働くことはできない。家族を養うことは、男として、またイスラム教徒として、いつも父にとって重大な意味を持っていた。
 僕ら家族は、母の給料と食料配給券でなんとか暮らすことができたけれど、水の中に赤い染料を垂らしたように、恥じる気持ちが父の体に染み渡っていく。母は父の苦しみを目にしながら、父の心に届くことはできない。いろいろな意味で、父の行動はレイプの誹(そし)りを受けたときと似ている。けれど今回は、執拗に祈りを捧げるだけでなく、コーランを延々と研究している。マンハッタンの裁判所で冷暖房のメンテナンスをする仕事を得て、再び働けるようになっても、かつてないほど内にこもるようになっていった。マスジド・アルシャムスに頻繁に通い、祈り、講習を受け、謎めいた会合に出席している。当初は穏健に見えたそのモスクは、ジャージーシティでも最も原理主義的な場所に変貌していった。だから、母はモスクでは女性として特に歓迎されているような気持ちになれなかったし、僕らがそれまで経験したことのないような怒りが空気中に漂っていた。イスラム教を信じない人間への寛容さを父が歴然と失っていくのはそのせいだ。母は、姉、弟、そして僕を、姉の学校の階上にあったイスラミック・センターに連れていき、そこでイスラム教徒としての家族の活動をしたけれど、ババは一緒に来ないのだ。ババは突然、イスラミック・センターのイマーム(指導者)を認めなくなった。 家では、僕ら子どもたちと温かい時間を過ごすことはあったけれど、僕らを通り越して、その先を見つめることが増えていった。そんなときの父は、僕らの存在を認識せずに、コーランを強く摑む人影として通り過ぎていってしまう。ある日、無邪気に聞いたことがある。いつからイスラム教を深く信じるようになったのかと。父は、声に新しい刺をにじませて答える。「この国に来て、間違ったことすべてを目にしたときだ」

(p60)

 

著者の父親はエジプトからの移民で、アメリカ人女性と結婚してアメリカに住んでいました。ふとしたきっかけからイスラム過激思想に傾倒して、著者が7歳のとき、ユダヤ防衛同盟の創設者を殺害し、投獄されます。

また服役中にも、1993年の世界貿易センターの爆破を仲間とともに計画しています。

経験なイスラム教徒であった父親が、似たような過激思想を持つ仲間と懇意になるにつれ、感化されていく様子を見ると、誰でも犯罪に関わる可能性があるように思えてきます。

 

そのあいだずっと、母は居間のソファに体を横たえてすすり泣いている。
一度だけ寝室のドアのところまで来るけれど、やめてと請う前にアフメドに怒鳴られる。「ノサイルは、おまえがどんなふうに子どもを育てたかを知ったら吐き気を催すだろう。おまえの犯した間違いを正すために俺がいてラッキーだと思え」
 僕自身もいじめの実験をしたことがある。11歳のとき、アジア人の新入生がいた。ステレオタイプしか知らなかった僕は、アジア人はみな武術を嗜(たしな)んでいるのだと思っていた。ニンジャ・タートルズのように試してみたらかっこいいと思い、僕は一日中、彼を挑発して戦いを挑んだ。やってみてわかったのだけれど、このアジア人の子は実のところ、武術を知っていた。僕の顔を殴ると見せかけて、こちらがよけると、頭に蹴りを入れてきた。僕は泣きながら学校から逃げ出したけれど、交通指導員に呼び止められて、保健室に送られ、目に当てて冷やすためにと冷凍のピーナッツバターとジャムのサンドイッチを与えられた。
 それは完全に屈辱的な体験だった。だからアフメドに盗みの罪で殴られたあとにまで、いじめを再び試そうとはしなかった。ある日、学校の廊下を歩いていると、年下の子どもたちがある男の子のバックパックをパスし合っている。男の子は泣いている。 僕はバックパックを奪って、ゴミ箱にスラムダンクする。一瞬、満足した感覚を味わう。いじめの方程式の反対側にいるという快感は否定できない。けれど、そのいじめられた子のかわいそうな顔の表情には、僕が本能的に知っているはずの恐怖と、それと同じくらいの当惑が見て取れて、ゴミ箱からバッグを取り出して、彼に手渡す。 共感(エンパシー)とはどういうものなのか、それがなぜ権力や愛国主義や宗教的な信仰よりも重要なのか、誰も腰を据えて教えてはくれなかった。けれど僕は、その廊下で学んだ。
 自分がされてきたことを、他人にすることはできない、と。
(p132)

 

父親に吹き込まれた過激思想に疑問を抱き、著者は違う道を選択するのですが、上記はそのきっかけの一つになった出来事です。

いじめの加害者となったときに、その快感を認識したにもかかわらず、被害者の恐怖も推し量ることができたというのは、簡単に書かれているけど、行動に移すことはなかなか難しいことのはずです。

このエピソードの他にも、父親が犯罪者であっても著者に温かく接してくれる友人たちを得たことや、アルバイト先で出会ったゲイの方に親切にされたことでゲイに対する偏見を改めたことなどがあって、彼が何とかして憎しみを放棄しようとする姿には、勇気をもらいます。

移民としてやってきた人たちが起こした事件を見聞きすると、恐怖とともに拒絶反応が起こるのが常だとは思います。しかし自分とは違う思想を持つ人達と関わっていくことが、極端な考え方や過激な思想にとらわれないためには不可欠であることを痛感させられました。

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。

 

外力を受け入れる柔軟さ。『負ける建築』を読んで

おはようございます、ゆまコロです。

隈研吾さんの『負ける建築』を読みました。


 切断から接合へ


 建築というもの自体が社会の敵なのかもしれない。公共事業、土建業界といえば悪の代名詞の扱いである。どうして、建築はこのように嫌われるのか。いつからこんなことになったのだろうか。問題は建築を取り巻くその周辺にあるのか、それとも建築といる存在自体になにか問題があるのか。 この素朴な疑問から始めてみたい。
 建築は確かに嫌われて然るべき、様々なマイナスを有している。まず大きいこと。われわれが日常的につきあう対象物の中で、これほど大きいものはない。大きさは建築の宿命でもあり、建築の定義そのものである。大きければ当然目障りである。さらに、建築を建てるサイド、たとえば建築の建て主(クライアント) や建築家は、多くの場合が目立つこと、目に付くことを目的として建築を作るわけであるから、一層大きくなる。あるいは実際以上に大きいと感じられる。結果、いよいよ目障りとなる。いよいよ嫌われれる。

 嫌われる次の要因は、物質の浪費である。建築は大きいから当然、大量の物質を使って建設される。途方もない物質の浪費である。地球資源は限られていて、底が見えはじめている。エネルギーも限られている。そんな時代に、このような巨大な浪費が嫌われないわけがない。
 さらに嫌われるのは、取り返しがつかないこと。 一度作ってしまったら、そう簡単に建築をなおしたり、取り壊したりはできない。簡単になおしたり、壊れるものは、そもそも建築とは呼ばれない。だから一度嫌な建築、気に入らない建築が建ってしまったならば、今後ずっと、それを我慢して暮らしていかねばならない。おそらくは自分の人生よりも建築の寿命のほうがよほど長い。当然、死ぬまで我慢しなくてはいけない。実際には、二〇世紀以降に建設された建築の寿命などたいしたことはないのだが、われわれにはそう感じられない。人間の繊細でひ弱な身体と比較した時、建築ははるかに頑丈で長寿なものに感じられる。人間の短命とはかなさを嘲笑しているようにさえ感じられる。だから余計に嫌われる。「建築の時間」の、この取り返しのつかないふてぶてしさが、嫌われる。
 三つの宿命。 建築が作られはじめて以来の、逃れようのない建築の宿命であった。しかし、世界という膨大なヴォリュームと比して、建築の絶対的ヴォリュームが無視できるほどに小さい時、三つのマイナスは逆に、建築の美点そのものであった。大きさ、浪費、長寿を求めて、人は建築を作ってきたのである。

(p2)


タイトルの「負ける建築」とは、社会や生活の変化にも不動の位置を占めたり、周囲の環境を支配し続ける「勝つ建築」ではなく、もっと弱く、環境等の諸条件を受け入れる建築のことだそうです。

大きいし、資源は消費するし、建ててしまったら取り替えしがつかないから、建築は嫌われる、という考え。建築家って、建築は素晴らしい、大好き!みたいなスタンスなのかと勝手に思っていました。もちろん、数多の建物を生み出してきた著者だからこそ、どんな時に壁が立ちはだかり、どんなことが人々から嫌がられるのか、分かりすぎるほど経験されての言葉なのだろうなということは想像できます。

でも、建築自体を「社会の敵なのかもしれない」、と思いながら建築に向き合う視点って、ちょっといいなと思いました。


海外の建築家は日本での仕事を求め虎視眈々としていたし、ゼネコンの資金を背景に加速する建築文化は、海外からも熱い注目を浴びた。 八〇年代の建築文化の背後にバブルがあったからといって、ここに花を咲かせた文化のすべてを否定しようとは思わない。すべての個性的な文化の背後には、それぞれに奇形的な社会的、経済的特殊性がある。こと建築文化に関していえば、経済のバブル的膨張と建築文化の隆盛の間には、いつの時代にも強い相関関係がある。しかし、にもかかわらず八〇年代の建築文化が今日すでにして色褪せてみえるのは、経済と同様に、その文化の本質がかさ上げにあったからである。たとえば、バブルが始まった時点ですでに権威を有していた海外の建築家が招かれて仕事をした。 すでに確立していたブランドが、建築という商品の価格のかさ上げに利用されたのである。もちろん、利用された建築家も、予算に余裕のある大規模な作品を実現する機会を得て、そのステータスはかさ上げされたわけであるが、ブランドがブランドらしさを逸脱することは決して許されなかった。マイケル・グレイブスは、マイケル・グレイブスらしいデザインをしなければ喜ばれなかった。その期待に応えられる建築家だけが海外から招かれ、毎回作品のデザインがドラスティックに変化するフィリップ・ジョンソンのようなタイプの建築家は敬遠されたのである。
 日本の建築家についても同様であった。バブル以前にステータス (ブランド)を確立し、作品の安定している建築家が設計者として好まれた。単に設計者として好まれただけでなく、そのようなステータスに対して、ゼネコンは積極的に支援活動を行い、結果としてそのような既成のステータスが海外での評価をも獲得し、ステータスのかさ上げが行われたのである。 デザインの領域においてさえフロー(現時点での実力)よりもストック(それ以前に積み上げてきたもの)が重要視されたのである。
 一九二〇年代のニューヨークも、八〇年代の日本と同じようなバブルに見舞われ、同じようにして不動産ブーム、建築ブームを経験したが、この時代には新しいコンセプトとともにたくさんの新しい建築家が登場し、また数々の建築的実験が行われた。たとえばロックフェラー・センターのような新しい形式の都市的複合体もこの時代の産物であり、その後の二〇世紀の都市建築物のモデルはほとんどすべてこの時代に用意されたといってもいい。それと比較すれば、日本のバブルがいかに既成の権威、既成のデザインのかさ上げだけに終始し、後世に対する提案、ヒントに欠如していたかが明らかになる。
 以上がバブルの解説である。またバブルの時代がなぜ同時に「建築の時代」であり「建築文化の時代」たりえたかの解説である。 建築の領域の外部(社会や経済)の状況 (バブル)から説きおこして、八〇年代の建築、都市を解説しようとすると以上のストーリ1になる。しかし、以上の「バブル論」だけでは、この時代の建築、都市の特殊性の半分しか語ったことにならない。

 もう片方とはすなわち、この時代のデザインの特質からバブル時代の都市と建築を論じる視点である。デザインという観点からみれば、八〇年代とはまさにポストモダンの時代であった。ポストモダンの建築とは何であったのか。なぜポストモダンの建築が八〇年代を支配し、バブルの時代と重複したのだろうか。
 世の中がマネーゲームに浮かれるだいぶ以前から、建築の世界ではポストモダンという用語が歩きはじめていた。一九七七年にチャールズ・ジェンクスによって書かれた「ポストモダニズムの建築言語」 (“The Language of Post Modern Architecture")がポストモダンという単語の流行のきっかけとなったが、実際には後々ポストモダンという言葉で括られるであろうムーブメントの登場は、一九六〇年代にまでさかのぼる。
 ロバート・ヴェンチューリによる「建築の複合性と対立性」 ("Complexity and Contradiction in Architecture", 1966) は建築におけるポストモダンのムーブメントの、最初のマニフェストであった。ヴェンチューリの著作は、過去の様式的建築物の写真と図版が大量に収録されていることで、まず人々を驚かした。様式的建築物は長い間、建築の世界では「禁句」に近い存在だったからである。
 二〇世紀初頭、建築におけるモダニズム運動が起こった。機能主義が唱えられ、「装飾は罪悪である」というスローガンとともに、一九世紀以前の様式的建築物はすべて批判され、否定された。装飾のない、単純な形をした白い箱のような建築が提唱され、そのような建築様式がモダニズム建築と呼ばれ、それ以降二〇世紀のほとんどすべての建築家がこの様式に従って創作を続けたのである。
 ではそもそも、なぜモダニズムは装飾を否定し、様式的建築を否定したのだろうか。ポストモダニズムを論じるにはまずこの設問から始めなければならない。この設問に対する解答は様々である。 職人的な手仕事にかわって、近代的な諸技術が登場し、その技術的な転換が建築表現の転換を招来したという説。一九世紀の折衷主義、すなわち様式の相対化現象が飽和し、その結果として零度の様式としてのモダニズムが登場したとする説など、様々である。
 それらの原因が重層して、モダニズムが生まれたには違いないのだが、多くの建築史家は「様式の生態学」にのみ目をうばわれ、モダニズムを生むにいたった「経済学」を見落としている。モダニズムを生み出した経済学とは、一言でいえばオフィスビルという経済学である。すなわち一九世紀にオフィスビルというビルディング・タイプ(建物の種別)が登場したことが、モダニズムの誕生のトリガーとなった。この重要な事実に歴史家や建築家の注目が向かわないのは、モダニズムの本来のルーツであるところの初期オフィスビルを設計した建築家達が、宣言もせず書きあらわすこともしなかったからである。モダニズムの主要な宣言、言説は、二〇世紀になって、実験的な小住宅によってデビューしたアヴァンギャルド建築家達の手によるものだったからである。

(p30)


多くの人に支持されればされるほど、建築家はその建築家らしい建築を作らねばならないという現実。ジレンマがありそうだと思います。言われてみればそんな気もするけど、そんなことを想像するのは初めてです。


民主主義(プレキャスト・コンクリート)が放棄され、メディアが選択されたのである。
 しかし(ルドルフ・)シンドラーだけは西海岸にとどまった。二つの見方が可能である。 シンドラーであるからとどまることができた。あるいは西海岸であるからとどまることができた。
 シンドラーは確かに二〇世紀を生きる建築家として、ナイーブすぎたのかもしれない。彼はほとんどメディアとは無関係に、建築を作り続けた。メディア映えする形態、メディア映えする空間というものを考慮することなく、建築を作った。それゆえ彼の傑作であるロヴェル・ビーチ・ハウス(一九二六年)は、一九三二年のニューヨーク近代美術館での「モダンアーキテクチュア展」に展示されることもなく葬られた。この展覧会は歴史を決定した展覧会と呼ばれた。ここに出品された作品が、自動的にモダニズムの代表作という認定を受けたからである。
 ロヴェル・ビーチ・ハウスの建築はピロティーで持ちあげられながら、そこにはコルビュジエサヴォア邸のような白い純粋形態が浮いているわけでもなく、ライトのようなヒロイックなキャンティレバーもなかった。ビーチの風が流れ込む、 一階の屋外スペースの快適さは、サヴォア邸のピロティーよりもはるかに見事な空間的解決であったとしても、到底写真では伝達不可能な性質の快適さであった。権威(たとえばニューヨーク近代美術館)を起点として、そこでお墨つきを与えられた二次元ヴィジュアルを一方的に配信すること。それが二〇世紀のメディア・システムの基本であったことを考慮するならば、メディア映えよりも民主主義を優先させたシンドラーの作風が、権威から評価されるはずもなかったのである。ニューヨーク近代美術館が彼を呼ばなかったのは偶然ではない。二〇世紀の権威は、絶えず民主主義の側にではなく、メディアの側に荷担したのである。
 そのシンドラーを支えたのは西海岸という、特殊な場所であった。西海岸は、民主主義にとって、甘くやさしい苗床だったのである。そこには、民主主義という危うく、頼りないシステムの有効性を錯覚させるだけのやさしさがあった。ひとつの秘密は密度である。シンドラーの自邸が、延々と続く豆畑の中にぽつんと立っていたように、西海岸では人も物もすべてが低密であった。 すべての個人が自由に振る舞いながら、しかもそこに、おのずから調和が生じるという予定調和的幻想を与えるやさしい密度。
 もうひとつの秘密は温暖な気候風土である。 コンクリート・ブロックをひとつずつ積みあげていく程度のプリミティブな技術で建築を作りあげることができるという幻想。

(p124)


ロヴェル・ビーチ・ハウスの建築はこの本で初めて見ましたが、確かにちょっとサヴォア邸に似てますね。ロヴェル・ビーチ・ハウスのほうが5年も前に建てられているので、似てると言ってはいけないのかもしれませんが。

https://www.houzz.jp/ideabooks/90935074/list

「まれに見学日あり」とあります。

この建物からビーチはどんなふうに見えるのか、見てみたい。


キャンティレバー」とは、1階より2階が張り出していて、柱がなく、まるで2階が浮いているようにも見える建築構造のことらしいです。


かくして東京のクレーン群の乱立が生まれた。公から私への転換のひとつの特異点にわれわれは生きているのである。そしてその特異点の産物である巨大なヴォリューム。そのデザインを行う主体は、いまだになぜかブランドである。有名ブランド建築家が「お約束」のデザインを反復する。なぜまだブランドなのか。
 プロジェクトの巨大さが、またしても意味を持つ。巨大であることによってプロジェト自身が公的性格を帯びる。一方資金調達は自由化が進み、「私」化が進んだ。このギャップを埋めるためにブランドが必要とされるのである。数多くの「私」を納得させるための最も安易な方法は、すでに社会的信用を確立したデザイン、すなわちブランドを反復することである。 不動産会社、銀行、生保……、プロジェクトが大きくなればなるほど、多くの企業グループがプロジェクトに参加する。参加する主体の数がふえればふえるほど、既知のブランドの反復でしかコンセンサスは得られない。当のブランドのほうとしても、大衆が期待する「お約束」をたがえるわけにはいかない。しかも、多くの仕事が世界じゅうから集中すれば、個人の発想力には限界があって、いかにクリエイティブなブランド建築家でもかつての自分のデザインの反復という安易な方法に傾斜する。建築から創造性が消えていく。特にその場所、その場所の微妙で多様な条件をリスペクトしながら、ひとつずつユニークな解答を出していくようなねばり強いクリエイティビティーは消滅していく。建築とは本来がブランドの反復ではなく、個別で一回限りの解答の積み重ねだったはずである。それが建築と商品との差異であったはずである。
 これが、今日の建築家をめぐる第二の危機である。建築のブランド化のはてに、建築という存在自体に社会が幻滅する日が待っていないとも限らないのである。
 しかし、最大の危機はブランディングの、さらにその先にある。それぞれの「私」は、ブランド建築から、すでに覚めているのである。 都市再生の大プロジェクトの資金調達に悪戦苦闘する企業人達は、いまだにブランドに依存する。しかし、プロジェクトという公的な現場とは縁のない等身大の「私」達は既成のブランドに頼らずに、自分の建築を、自分で考え、自分自身の手でデザインしたいと思いはじめているのである。
 手軽なところ、身近にある小さな建築からこの波は起こっている。自分の家は自分でデザインして、自分で作りたいと「私」が思うのはきわめて自然だからである。「私」化がいきつくところは、そこしかない。世界から閉じた「私」の城を作るという形でスタートした「私」化の大きな流れは、いつかこの地点、すなわち設計主体の「私」化というところにたどりつく運命にあった。一般誌における建築ブームの根底にあるのは、この願望である。建築ブームゆえの建築家の危機とはその意味である。これら一般誌の建築特集に登場する建築家達は揃いも揃って、いかに自分が専制的な独裁者ではなく、人畜無害の羊のようなコラボレーターであるかを強調する。

(p198)


都心に屹立する摩天楼や、郊外に建ち並ぶ一戸建て住宅群など、周囲の環境を圧倒する二〇世紀型の「勝つ建築」は、その強さゆえに今や人びとに疎まれている、というのが隈研吾さんの主張なのですが、限りある資源を消費して、なおかつ作ってしまったら簡単には元の状態に戻せない、ということに、私たちはどこかで疲れてきているのかもな、と思いました。

自分の好みの家に住んだり、豊かな自然の中で生活できたらいいな、と考えるのは、もっと柔らかくて、自然と調和した建築を好んでいる、という証拠なのでしょう。


去年の暮れに鳥取砂丘へ行った際に入ったカフェが隈研吾さんの建築と知り、本書を手にとってみました。

建築用語に詳しくないこともあって、大学のテキストみたいでなかなか難しかったです。


kkaa.co.jp


「空へ登る階段」、登りたかった…。

私が訪れた日はこんな風景でした。

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屋上のオープンテラスは、今日は立入禁止です、と言われてしまった。そりゃそうだよね。

2階の室内は、こんな感じ。

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降雪の日に、ソフトクリームを食べる。

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可愛いウォーターサーバー

部屋に置きたい。

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砂丘は雪が積もりすぎてて、スキー場のようにしか見えませんでした。

ラクダを見るのは断念して、砂丘会館の少し先にある、砂の美術館でエジプト展を見ました。

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ラブリーなねこさん(バステト)。


最後まで読んでくださってありがとうございました。



みんな、遺伝子の単なる乗り物。『女と男 なぜわかりあえないのか』を読んで

おはようございます、ゆまコロです。

橘玲さんの『女と男 なぜわかりあえないのか』を読みました。

 

「男性中心主義」社会ではこのことは当たり前すぎて指摘されないが、男女のあいだに誤解を生む大きな要因になっている。男の子は無意識のうちに、女の子も自分と同じように気分が一定していると思っているのだ。

 

 月経周期の“大嵐”

 

 しかし現実には、思春期の女の子の性ホルモンは日々刻々と変化する。それを示したのが図表⑧(略)で、男の子をはるかに上回るとてつもない大嵐のなかに放り込まれることがわかる。
 女性のホルモン・レベルはエストロゲンプロゲステロン(黄体ホルモン)の周期で表わされるが、副腎などから分泌されるテストステロンも影響を与える。
 月経が始まった日を1として、次の生理までの月経周期を4週間(28日)とすれば、1週目と2週目がエストロゲン期、排卵を挟んで3週目と4週目がプロゲステロン期だ。
 エストロゲンには脳を活性化させる効果があり、月経周期の最初の2週間、女の子は穏やかで人づき合いがよくなり、頭脳明晰で記憶力も向上する。 ブリゼンディーンは冗談半分に、「試験や口頭試問を受けるなら月経周期12日目がいい」と女子学生に勧めるという。

 14日目頃に排卵があり、プロゲステロンが主として卵巣から大量に分泌されて、エストロゲンによって活性化された脳を鎮静化させる。その影響で苛立ちがつのり、集中力がなくなって、頭の回転が鈍くなったように感じることがある。
 なぜこのような仕組みになっているかはよくわかっていないが、エストロゲンによって海馬の神経のつながりを成長させ、プロゲステロンでそれを刈り込んで定着させるのではないかとされる。
 さらに大きな変化は月経周期の最後の数日、プロゲステロンが急減したときに起こる。このときはエストロゲンのレベルも低いため、女性の脳には鎮静化作用も活性化作用もはたらかない。それが脳に強いストレスを感じさせ、一時的に動転するのがPMS(月経前症候群)だ。
 多くの女性が、月経が始まる直前は落ち込んですぐ涙が出るし、ストレスを感じて攻撃的になり、ネガティブ思考で敵意がつのり、絶望してうつうつとすると訴える。その期間さえ我慢すればいいという「2日間ルール」はこのつらさを乗り越える知恵で、エストロゲンのレベルがふたたび上昇するとともに不安や絶望感は消えていく。
 女性の場合、テストステロンのレベルも月経周期で変動し、排卵期に最大になる。テストステロンは性欲と関係し、排卵の前後は妊娠確率が高くなるから、この時期に性的関心が強くなるのは自然で、ヒト以外の動物では発情期にあたる。
 ヒトにもっとも近い霊長類であるチンパンジーにも発情期があり、お尻の部分(性皮)がピンク色に腫れあがっていないメスにはオスはなんの関心も示さない。ヒトの性の大きな特徴は、女性の排卵が隠蔽され、いつでもセックスできるようになったことだ。
 月経周期にともなうホルモン・レベルの大きな変動は、現代社会において、女性の日常生活に大きな困難をもたらしている。会社でも学校でも、あるいは家庭ですら、つねに安定した気分でいること(自己コントロール) を要求されるからだ。
 高レベルのテストステロンにさらされながらも、その水準が一定している男性は自己コントロールが比較的容易だ。 それと同じことを女性に求めるのは酷だが、だからといって「月経●日」と表示するわけにもいかず、これはきわめて難しい問題だ。
 女性の脳は、妊娠・出産を通してさらに大きな変化を体験する。俗に「ママ脳」と呼ばれるもので、子どもに強い愛着を持ち、子育てに精力を傾けるようになる。脳の巨大化にともなって、ヒトの子どもは「未熟児」状態で生まれ、出産後も長い育児期間が必要になった。子育てに有用なさまざまな母親の能力は、明らかに進化の適応だ。
 このように、男と女の「人生の体験」はまったくちがう。これがお互いの理解を難しくしていることは間違いない。
 だが逆に考えれば、これは私たちにとって幸運でもある。男女の脳がまったく同じなら、つき合ってもたいして面白くないだろう。 「ちがう」からこそ、さまざまな発見があるのだ。それに更年期になれば、男も女も性ホルモンのレベルが下がってよく似てくる。
 脳の性差がなくなって「平等」になった結果、戦友のようなかたい絆で結ばれるのか、「幸福な夫婦」の仮面がはがれて憎みあうようになるのかは、ひとそれぞれだろうが。


5. 男と女はちがう人生を体験している
(p54)

 

・男性としての人生と、女性としての人生はまったく違う、と考えれば、なるほどお互いの理解が難しく感じるのも納得がいきます。

 

・「月経が始まった日を1として、次の生理までの月経周期を4週間(28日)とすれば、1週目と2週目がエストロゲン期、排卵を挟んで3週目と4週目がプロゲステロン期だ。」

エストロゲンプロゲステロン、全然違う機能のホルモンなのに、よくどっちがどっちなのか分からなくなって混乱するのですが、この考え方はわかりやすいなと思いました。そしてどちらのレベルも低い時、脳がストレスを感じてPMSを引き起こす、というのも理解しやすいです。

 

・更年期を迎えれば、性ホルモンのレベルが下がって似てくる、というのも面白いなと思いました。ご高齢の夫婦が何となく似ていると感じるのは、長い時間を共有してきたからなのかな、と思っていましたが、ホルモンの影響だったんですね。

 

なんの快感もなくても、ひとたび脳の報酬中枢が刺激されると、それを手に入れようといてもたってもいられなくなる。
 これはしばしば「渇き」と表現される。 アルコール依存症の患者は、一杯のストレートウイスキーで「焼けるような渇き」がいやされ、あとはとめどなく飲みつづける。
 だとしたら、「会いたくてたまらない」とか、「気が狂うほど好き」というのも、この禁断症状と同じではないだろうか。
 きびしい生存環境に置かれていても、若い男と女が出会ってはげしい恋に落ち、セックスして子どもを産み育てなければ、その末裔としてのわれわれはこの世界に存在していない。「利己的な遺伝子」は、ヒトに焼けるような恋の情熱を与えたのだ。
 ドラッグやアルコールはせいぜい1万年ほど前につくられたのだから、遺伝子の進化とはほとんど関係ない。それが脳に甚大な影響を及ぼすのは、もっとも原始的な脳の仕組み、すなわち「恋の回路」を化学物質が乗っ取っているからだ。
 恋にはそれ以外にも、さまざまなホルモンが関係する。 図表10は恋愛の科学を研究する第一人者ヘレン・フィッシャーが挙げる「恋愛のホルモン」だ。

 

図表10 恋愛のホルモン

ドーパミン…「情熱的な恋」のホルモン。報酬獲得への衝動に駆られる

ノルアドレナリン…驚きや興奮のホルモン。ドーパミンとともに報酬系を活性化させる

セロトニン…幸福のホルモン。低下すると気分が不安定になる

オキシトシン…愛と信頼のホルモン。恋人や子どもへの愛着を強める。女性に多い

・バソプレッシン…メイトガード(配偶者保護)のホルモン。男性に多い

・テストステロン…性欲のホルモン。男性を支配するが女性でも分泌される

エストロゲン…女性ホルモン。オキシトシンとともに愛着を深める

(ヘレン・フィッシャー『人はなぜ恋に落ちるのか?恋と愛情と性欲の脳科学』 ヴィレッジブックス より)

 

 

 恋の嵐はなぜ終わる?

 

 ドーパミンに次いで重要なのはノルアドレナリンで、驚きや興奮と結びついてやはり依存症の原因となる。
 セロトニンは気分を安定させ、「幸福のホルモン」とも呼ばれる。ドーパミン(ノルアドレナリン)にはセロトニン・レベルを下げる働きがあり、喜びから絶望へとジェットコースターのように気分が変わる。


 オキシトシンは「愛と信頼のホルモン」とも呼ばれる。女性では、オキシトシンはオーガズムや出産、授乳などで) 乳首が刺激されることで分泌され、恋人や子どもへの愛着を強める。
 エストロゲン(女性ホルモン)とドーパミンオキシトシンの組み合わせは、前頭葉の批判的な思考を抑制するらしい。賢いはずの女性がどうしようもない男にひっかかる「恋は盲目」はホルモンの複合作用だ。
 男性は射精(オーガズム)によってバソプレッシンが分泌される。これは「メイトガード(配偶者保護)のホルモン」で、愛する女性を守り、独占したいという強い衝動をもたらす。 恋する男が嫉妬に狂うのはバソプレッシンの影響だ。
 恋愛によってドーパミンが大量に産生される状態は、6カ月から8カ月程度しかつづかない。その後は、オキシトシンやバソプレッシンによる愛情や信頼関係に移っていく。
 なぜこのようになっているかも進化論で説明できる。
 人類の歴史の大半で避妊法などなかったから、恋におちた男女はすぐにセックスして、1年もすれば子どもが生まれただろう。そのときになっても「狂おしい恋の嵐」に翻弄されていたら、子育てなどできるはずはない。恋の情熱は半年程度で冷めるように「設計」されているのだ。
 避妊がきわめてかんたんになった現在では、女性は妊娠の心配をすることなく何度でも恋におちることができる。「恋多き女」の恋愛依存症が、ドラッグやアルコールへの依存とよく似ているのは偶然ではない。
 男も焼けつくような恋の衝動に圧倒されることがあるが、これはテストステロンによって性欲と一体化している。恋人の写真を目にした男性は、ペニスの勃起と関連する脳の部位が活性化する。男はみんな「セックス依存症」なのだ。

 

7. 恋愛はドラッグの禁断症状と同じ?
(p66)

 

どこかで耳にしたことのあるホルモンの名称が続きますが、恋愛のホルモンに限ってみても、いろいろな感情を引き起こしていることが分かります。

「恋愛によってドーパミンが大量に産生される状態は、6カ月から8カ月程度しかつづかない。」にびっくりしました。恋の情熱、醒めるの早!でもそれも、子育てのために設計されている機能だったんですね。

道理で、報酬を獲得したらあっという間に冷めちゃうはずです。

 

 男が〝一発逆転〟を狙うというのは進化論による説明と整合的だが、「勝てると思えば女の方がリスクを取る」ことまでは予想できなかった。 データでは、主観的な当選確率が20%を超えると女の野心は男性を上回るのだ。
 ここからわかるのは、女は男より競争に消極的なのではなく、「勝率を冷静に計算している」らしいことだ。成功の見込みが高いと思えば、女は男より冒険的になる。「女性は戦略的に競争に参加するかどうかを考え、きわめて慎重に行動している」のだ。
 競争には負けるリスクがある。多くの時間、金、感情を投資するほど、負けたときに失うものも多くなる。このリスクを女の方が正確に判断できるとすれば、「損することがわかっている」勝負を嫌うのも当然だ。
 ジェンダーギャップ指数が世界最底辺の日本では、国会はまだマシで、地方議会には女性議員ゼロのところも多い。 ”重鎮"などと呼ばれる男の政治家は「選挙に出ようとする女性がいない」と開き直るが、問題はこの「おっさん」たちが自分の議席にしがみついていることにある。当選確率が低ければ(現職議員を破るのは難しい)、リスクに敏感な女性は出馬を尻込みするだろう。
 だとしたら、フランスなどのように女性に一定の議員数を割り当てるクオータ制にも一考の余地がある。女は男よりずっと「合理的」なのだから、制度的に当選確率を上げれば「政治的野心」が高まって、優秀な女性候補者が続々と現われるだろう。

 

26.女は合理的にリスクをとる
(p200)

 

この議員数の話はとても興味深いです。

なぜ「選挙に出ようとする女性がいない」のかは、勝率が見えているから。これは、男性の視点だけでは考え付きもしないのかもしれません。

 

 ヒトの性がどれほど多様だとしても、突き詰めれば、脳の快楽中枢が刺激されるかどうかの話になる。 マゾヒストは辱められることで快感を得るが、これは屈辱を感じたときに興奮する脳の部位が性的快感の領域と重なっているからだ。SM愛好家が珍しくないことを考えると、こうした「混線」はよくあることらしい。

 

 脳の「誤読」


 性の研究では、困惑するような事例がいくつも報告されている。たとえば、ナチス強制収容所で両親を亡くしたある女性は、親衛隊の将校たちに全裸にされ、犯される夢想で「最高のオーガズム」を感じていた。
 いかにもフロイトが喜びそうな話だが、これも同じく「脳の混線」で説明できる。不道徳なことをすると緊張で心臓がどきどきするが、この女性の場合は、なにかの偶然で、この心拍数の上昇を脳が性的興奮のサインと「誤読」しているのだ。そうなると、大きな性的快感を得るにはできるだけ不道徳な夢想をすればいいことになる。
 フェティシズムは、女性の足やうなじ、耳など特定の部位に強烈な性的興奮を感じることだ。男の場合、思春期にテストステロン(男性ホルモン)が急上昇して、異性に強い性的関心を抱くように「設計」されている。このとき、たまたま強いエロスを感じた対象(女子生徒のスカートから伸びている美しい足、とか)があると、それが性的に刷り込まれる。
 この「刷り込み説」はあまりに単純だと思うかもしれないが、フェティシズムの対象は思春期までに固定し、その後は変わらないことがわかっている (30代や40代になっていきなり”足フェチ"になることはない)。
 「性的刷り込み」は、もっとずっと早い時期に起こるとの説もある。 男子の4歳から9歳までは 「敏感期」 で、そこでエロスを感じた対象が脳に記憶される。それが思春期の男性ホルモンの洪水によって喚起されるというのだ。
 いったんエロスの標的がロックされると、脳の報酬系はそれをひたすら追い求めるようになる。 パラフィリア(性倒錯)とは、エロスの対象が社会的に認められているものから大きくずれてしまうことだ。
 パラフィリアの男女比は (ゲイも含め)、99対1とされる。これは女性の方が性的に柔軟で、成長とともにエロスの対象を修正できるからのようだ。
 依存症というのは、アルコールやドラッグ、ギャンブルなど、社会的にも本人の人生にもマイナスにしかならないことに脳の報酬系が囚われてしまうことをいう。そのメカニズムはパラフィリアも同じで、「性依存症」という報酬系のトラブルだ。
 マゾヒズムフェティシズムは、パートナーとの同意のうえで楽しむのなら本人の自由だが、窃触障害 (ちかん) や窃視障害 (盗撮)になると深刻な問題を引き起こす。小児性犯罪は、もはや存在そのものが許されなくなりつつある。だが「刷り込み説」によれば、これはたまたま思春期(あるいは敏感期)に「不適切なエロス」が脳に刻み込まれた不運に端を発していることになる。
 現代社会では、インターネットなどに大量のエロスが溢れている。そんな環境で育った男の子たちがどのような性的嗜好を持つようになるのかは、これから徐々に明らかになってくるだろう。
 「利己的な遺伝子」は自らの遺伝子を最大化するよう「ヴィークル(乗り物)」であるヒトを設計したのだから、性愛への欲望はとてつもなく強力だ。その意味では、男は全員が「性依存症」ともいえる。パラフィリアにならなかったとしたら、たんに幸運だったのだろう。
 ここまで述べてきたように、テストステロンのレベルが低い女は、男のような強い性欲を持っていないが、その代わり「愛されたい」という欲望を埋め込まれている。
 ということで、「男は強すぎる性欲に苦しみ、女は強すぎる共感力に苦しむ」というのが (とりあえずの) 結論になった。 明るい話でなくて申し訳ないが。

 

32.”触れてはいけない”性愛のタブー
(p240)

 

・「フェティシズムの対象は思春期までに固定」というのが意外でした。しかも、「4歳から9歳までは 「敏感期」 で、そこでエロスを感じた対象が脳に記憶される。それが思春期の男性ホルモンの洪水によって喚起される」というのもすごい。成長するにつれて多くの人と関わることで、自分の好みは形成されるような気がしていましたが、そんな悠長な世界ではなかったんですね。

自らの遺伝子を残すために、意思でコントロールできないようにされていると思えば、ヒトは単なる遺伝子の乗り物だということもすんなり受け入れられるように思います。かといって、本能の赴くままに行動するのも許容できない場合もありますが。

・女性は「成長とともにエロスの対象を修正できる」というのも逆に柔軟すぎて怖い。

 

生理の本を読んだ後だったので、ホルモンの話は特に理解が深まりました。

お互いがこんなに違うのでは、分かりあえなくて当然じゃん、という気持ちになってきます。

だからこそ、気持ちが通うと嬉しいんだな、ということも分かります。

異性の気持ちが分からなくなったとき、ただ感情的に衝突するのではなく、まったく違う人生の中にいるんだ、と思うと、少し俯瞰的に見られるかもしれないな、という気がしてきました。

 

自分が今の人生の記憶を何も引き継がずに次は男性として生まれたら、またこの本読んだほうがいいよと教えてあげたい。

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。