ニジタツ読書

読んだ本の感想です。時々美術館のことなども。面白い本がないかな~と思ったらご参考までに。

ベンジャミン・ジェイコブス『アウシュヴィッツの歯科医』

おはようございます、ゆまコロです。

ベンジャミン・ジェイコブス、上田祥士(監訳)、向井和美(訳)『アウシュヴィッツの歯科医』を読みました。

 

以前読んだ、『4歳の僕はこうしてアウシュヴィッツから生還した』の話を知人にしたら、この本もおすすめと聞いたので読んでみました。

 

 

 ポーランドでは、ヒトラーの時代以前からすでに反ユダヤ主義がはびこっていた。ほかのマイノリティーが公平に扱われていても、ユダヤ人だけは例外だった。一九三〇年代後半になると、それまでどっちつかずの態度でいた人たちまでが、ナチスの人種差別政策をかかげるヒトラーに同調していった。わたしたちはポーランドで生まれたにもかかわらず、よそ者とみなされたのだ。ユダヤ人がポーランドで平等な扱いを受けるには、まずキリスト教徒になる必要があった。ポーランドの聖職者たちは、ユダヤ人に暴力を振るえとは教えないまでも、兄弟愛を注げとも教えなかった。良心の世代は社会からの抑圧に忍従していたが、わたしたちの世代になると、その状況を受け容れて暮らすのは耐えがたかった。両親のように、ポーランド人である前にユダヤ人だとは考えていなかったからだ。だから、生活のしかたを改め、ポーランドの慣習や服装や文化や言語になじめば、非ユダヤ人も寛容になってくれるはずだと思ったのだが、そう簡単にはいかなかった。なにより驚いたのは、ポーランドユダヤ人は贅沢に暮らしているというまことしやかな嘘がささやかれていたことだ。

 

 ユダヤ人は暴言を浴びせられ、昼日中から殴られることも多かった。それでも、はっきりわかる傷痕がないかぎり警察は動いてくれない。商売を営むユダヤ人は、”悪徳商人”と呼ばれた。だから、兄もわたしも父の商売を継ぐのがいやになり、自分で職業を選ぶことにした。どんな仕事を選ぼうとも、深く染みついた偏見がなくなりはしないことを、まだわかっていなかったのだ。

 

 学校でも、教科書にはユダヤ人の歴史も文化も、そしてその存在さえも書かれていなかった。ドブラの公立学校には、ユダヤ人の教師はひとりもいなかった。わたしはベレクという名前のせいで、ベイリスと呼ばれてからかわれた。帝政ロシアベイリスという名のユダヤ人が、儀式に則って少年を殺したとされる ”ベイリス事件” があったからだ。いやな気持になったわたしは、中学校に入る前に、ポーランド名のブロネクに改名した。(p21)

 

 

戦争が始まる前から殴られたり改名を余儀なくされたりと、理不尽な扱いに物語の序盤から気が滅入ってきます。

 

 

 手紙を読み終えると、わたしは目を閉じてその場に立ちつくした。ゾ-シャも、ゲットーでなにか恐ろしいことが起きたらしいと感じ、なにがあったのかと尋ねた。けれども、わたしは答えられなかった。母と姉のことなのか、と訊かれて頷く。ゾーシャはわたしをじっと見て、話ができる状態ではないと察すると、そっと立ち去った。

 

 腹部にさしこむような痛みを感じる。収容所に戻る途中、もしかしたら読み間違いではないかと思いながら、手紙をもう一度読んだ。しかし何度読んでも、そこに書かれた言葉は、わたしたちが想像していたよりも悪い事態を語っていた。

 

 あなたがこの手紙を受けとったときには、母さんもわたしもすでに生きてはいないでしょう。再定住のためと言われているけれど、どこへ連れていかれるかはわかっているし ― ヘウムノです― あそこから戻ってきた人はひとりもいないのです。ゲットーに残っているのはわたしたちが最後で、二〇〇人ほどしかいません。もはやどうにでもなれという気分です。こんな屈辱的な暮らしはもうたくさんだから。もしヨゼクに会えたら、わたしと母さんのことを伝えてください。まもなくここを離れるので、もう手紙は書かないでね。どうか、あなたと父さんとヨゼクが生きのびられますように。父さんとあなたに愛を贈ります。ポーラ

 

 そのあと、母から父とわたしにあてて、別れの言葉が二行書き添えてあった。「たぶん、どこか別の世界で家族全員がまた会えるでしょう」(p166)

 

 

この後、著者はヘウムノで人々がどんなふうに亡くなったか知ることになるのですが、恐ろしくてつい読む手が止まりました。

 

 そのとき突然、だれかがわたしに身振りで呼びかけた。見ると、フェンスの向こうからひとりの収容者が手招きしている。その男は、わたしのブーツに目を向け、「どうせそれは置いていかなきゃいけないんだ。こっちに放れ」と叫んだ。「収容所に入ったら、ちょっと食べ物をおまけしてやる。おれはブロック長(カポ)だ」。アウシュヴィッツに来て、収容者の声を聞いたのはこれが初めてだった。カポが自己紹介したのだ。

 

 彼は清潔な縞模様の服を身に着け、黒い帽子をかぶり、カポの腕章をしていた。最初はその男の言葉が信じられず、ただブーツを手に入れたいだけだろうと思った。ところが、所持品があればすべて置いていくようにと軍曹から指示が出たため、従わざるをえなくなった。わたしは片方のブーツに隠していた数枚の写真を取りだしてから、ブーツをフェンスごしに投げた。あとで、このカポを探しだす手立てがないのに気づいたが、結局のところどちらでも同じだった。いずれにせよ、収容所内では収容者同士のやりとりは許されていないからだ。

 

 家族の写真に目をやる。母、姉、兄、叔母のラケル、叔父のシュロモ、叔母のサラ。わたしにそっくりだとみなが言うイツァク叔父。そして、叔父のモルデカイ、伯父のハイム、いとこのトーバ、バルチャ、ナヘム、ヨゼク、マイヤー、メンデルの姿もあった。最後に、祖父の写真を見つめた。ずいぶんあとになって、一九四三年八月のその日のことを思い出したとき、写真をそこに置いてきたことで、写っていた親戚たちもまたアウシュヴィッツで死んでしまったように感じた。収容者たちがうつむいて班ごとに歩いていく。この光景をいつかだれかが世界に知らしめるべきだ。とはいえ、どれほどよくできたドラマでも、目の前のこの状況を再現することはできないだろう。こんなにも痩せこけた肉体を撮影用に探してくるのは不可能だからだ。(p219)

 

 

 巻頭に著者の家族の写真が載っているのですが、その写真の数々がもつ意味がとても重く感じられます。

 

 一九四三年の夏の終わり、アウシュヴィッツの隔離棟から生きて出られたことは、自由の象徴だった。わたしたちの運命が変わったように思えた。崖から突き落とされる寸前で命拾いしたのだ。こんな状況でもほぼふだんどおりに暮らしている人たちの姿が目に入ると怒りがこみあげ、ユダヤ人に生まれなければよかったと感じた。(p230)

 

 

自らの出生をも否定したくなるような状況に、やるせなさでいっぱいになります。

 

 

 一九四三年の終わりまでに、さらに多くの人たちがオランダやベルギーやモロッコノルウェーから移送されてきた。ドイツ語かイディッシュ語が話せるか少なくとも理解できる者は、ドイツ語でのカポの命令に従うことができる。コぺルマンという名の一四歳のオランダ人少年が話してくれたところによると、彼は家族とともにアントワープで逮捕されたらしい。ユダヤ人スパイが通りをうろついて、ユダヤ人を見つけてはナチスに密告していたのだ。家族は、ポーランドに再定住すると教えられた。選別の際、そばかす顔を気に入られたコぺルマンは、家族と引き離されてフュルステングルーベに移送されたという。彼と一緒に来た者たちはほとんどがまもなく”ムスリム” になってしまったが、コぺルマンは元気だった。

 

 フュルステングルーベには、さまざまな国から来たユダヤ人がいた。フランスのユダヤ人はベルギーのユダヤ人を嫌い、ベルギーのユダヤ人はオランダのユダヤ人を嫌い、オランダのユダヤ人はドイツのユダヤ人を嫌い、ポーランドユダヤ人は全員から嫌われていた。ロシアのユダヤ人は存在すら認めてもらえない。そして、運命をともにするユダヤ人と非ユダヤ人のあいだに、協力が生まれることはいっさいなかった。(p265)

 

 

 この部分を読んで、ユダヤ人の間でも憎悪の感情があることを、少し意外に感じました。

 

 ドイツは不思議な国だ。ある意味、ドイツ人はヨーロッパのほかの国民に比べれば反ユダヤ主義がさほど強くない。ユダヤ人に対してあれほど狂気じみた仕打ちをした人たちを、ヒトラーはいったいどこで見つけてきたんだろう。

 

 ドイツ人の暮らしは、ゆっくりと正常に戻りつつあった。しかし、彼らに混じって穏やかに生きていくには、わたしたちの心の傷は深すぎた。ドイツにいるかぎり、ドイツ人と同じ道を歩き、同じ食べ物を食べ、同じ空気を吸わなければならない。犯罪者が突如として聖人になり、身に覚えのある者たちは知らぬ存ぜぬを決めこむ。理解しがたいことに、よく知られたナチス幹部たちでさえ、ホロコーストへの関与を否定していた。わたしたちは自分の発言に気をつけ、信用すべき相手を見極めなければならない。内心、言いたいことはあった。それでも礼儀をわきまえ、本心を漏らさないよう口をつぐまざるをえない場合も多かった。戦後、ドイツで四年暮らしたわたしは、良くも悪くも人間について多くを学んだ。そして、その四年のあいだにドイツ内外の病院を何軒も回り、いまだに治らない十二指腸潰瘍の痛みを診察してもらった。

 

 ポーランドからは、さらに気分の悪くなるニュースが聞こえてきた。ポーランド反ユダヤ主義は衰えを見せず、ヒトラーの精神はなおも健在のようだ。ヒトラーポーランドユダヤ人の墓場として選んだのは偶然ではない。ポーランドユダヤ人は、ナチスからいちばんの標的にされたのだ。戦後、あえてポーランドに帰って財産を取り戻そうとしたユダヤ人の多くは、ドイツ人が引き揚げたあとに略奪した者たちの手で殺されてしまった。わたしも兄も、相続すべき資産がポーランドにあることはあったが、取り戻そうという気はまったくなかった。(p365)

 

 

同じ空気を吸うのも耐えられない、というのは、聞いていて辛い状況ですが、ここまで読むともうそう感じるのも仕方ないという気持ちになってしまいます。戦争が終わっても自国に帰れないのも厳しすぎる。

 

監訳者の上田さんはあとがきにて本書を、「若い読者が、ホロコースト関連の著作の中で最初に接するのに適当なものではないだろうか」(p395)と書いていますが、個人的には『4歳の僕~』よりも辛かったです。(比べるものではないのですが。)

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。

 

アウシュヴィッツの歯科医

アウシュヴィッツの歯科医

 

 

𠮷原珠央『「もっと話したい!」と思われる人の44のルール』

おはようございます、ゆまコロです。

 

𠮷原珠央『「もっと話したい!」と思われる人の44のルール』を読みました。

 

筆者は、表現力やプレゼンテーションを専門とする、イメージコンサルタントです。

この方の書かれた他の新書が書店に平積みになっていて気になっていたところ、図書館で他の著書を見つけたので、こちらを先に手に取ってみました。

 

いいな、と思ったのは以下の項目です。

 

 

04  「おかげさまで」と言うだけで印象は大きく変わる!

 

「おかげさまです」という考え方は、自分のことだけでなく、世の中の人や経済がどのように支え合って成り立っているかを考える想像力と、心の余裕がないと、なかなか言えない言葉です。(p30)

 

 

「良かった結果は、双方に理由がある」という筆者の考え方がいいと思いました。

 

 

10  二度と行きたくないと思われるお店で働く店員の共通点

 

「私はクライアントと会話をする際に、気をつけていることがあります。それは、「相手から質問されたことしか話さない」ということです。

 

 知りたいことがあれば、あなたが話す前に、相手のほうから「ぜひ、あなたの意見を聞かせてください」と言ってくれるでしょう。」

(p62)

 

 

ここで挙げられている「二度と行きたくないと思われるお店の店員さん」とは、最初はお客さんを労っているようで、自分の身の上や愚痴ばかり話すマッサージ店の店員さんでした。

 

 

17  相手に胸と膝を向けているか

 

 重要なのは、あなたの胸と膝がどちらに向いていたかです。

 

 相手と向き合う場合には、自分の胸と膝を相手に向けるようにすると、相手の視界の正面に自分自身が映りますから、説得力も高まりますし、相手には、「私のことを一生懸命、見ようとしてくれている」と感じてもらえます。(p99)

 

カウンター席などで並んで座ったりすることもあるので、これはすぐに実践できそうと思いました。

 

18 会話を遮断してまで話しかけるな

 

(初対面の人に対して)

挨拶をきっかけに会話をスタートさせるために2つのポイントがあります。

 

 1つ目は、「こんにちは」の最後の「は」を1秒伸ばすことです。語尾を伸ばすことで、挨拶の印象が柔らかくなり、間を繋ぎ合わせることができます。

 

 2つ目は、挨拶を言い終わっても、2秒間は相手の目を見ながら、体を相手に向けることです。そうすれば、相手にも、あなたが挨拶以外でも会話を交わしたいと思っている気持ちが伝わり、話が途切れない環境を作りやすくなります。(p102)

 

こうやって具体的なやり方を、自分で考えてみたことはなかったかもしれません。

 

22 「ふつう」「すごくいい」「びみょう」を使わない

 

 ショッピングで2つの商品で迷っているときに、「Bの商品のほうがびみょーにおすすめです」などと言われても、違いがまるで分かりません。

 自らが使ってみて良いと思った個人的意見なのか、売れ筋だからすすめているのか、「びみょー」に対する理論的な答えを話すことで、説得力が増して、お客さんにとっては、購買への判断がしやすくなるわけです。

 

 このように、単純なボキャブラリーばかりをラクして選んでいると、言葉が薄っぺらく、与える印象が軽くなり、説得力がなくなってしまうのです。 

 

 言葉がそのように感じられるということは、それを言っている本人までもが、同じように思われても仕方がないという残念なことになっていきます。(p120)

 

ここでいう指摘とは少し論点が違うかもしれませんが、ここを読んで、語彙を増やしたいと感じました。

 

23 「面倒くさい」という本音は口にしない

 

人の気分を害し、さらには自分の評価を下げてしまうのを避ける唯一の方法は、人と話をするときには、ネガティブな本音をにおわせる言葉を一切、使わないことです。

 

 「面倒くさい」「どうでもいい」と思う場面は、生活していれば誰にでもあるものです。

 そういう考え方をポジティブに変えられる人もいれば、変えられない人もいます。

 そういうとき、ポジティブな考え方に無理に変えようとしなくても、せめて、ネガティブなことを一切、発言しないようにすることは、今すぐ誰にでもできることなのです。

 また、メリットのないネガティブな言葉を普段から頭の中で整理しておくと、「うっかり言ってしまった」というようなことを防ぐことができます。

 私の場合、頭の中で「使わない言葉リスト」を作っています。その一例を紹介しますね。

 

 使わない言葉リスト

・面倒くさい

・疲れた

・眠い

・くだらない

・(食べ物に対して)まずい

・やばい

・つまらない

・おもしろくない

・嫌い(苦手と言い換える)

・ひまだ

(p124) 

 

私は本書の中で、この項目が一番難しいと感じました。

 

27 「もう年だから」と言うほど人は離れていく

 

 スポーツクラブに通っている30代のクライアントから、以前こんな話を聞きました。

「スポーツクラブで出会った同い年の女性から、『もう年だから運動がしんどいです。もっと若かったらなあ…』と、会うたびに聞かされるんです。あまりにがっかりした感じで言われるので、その人とは会話しなくなりました」

 

 『もう年だから』と、言っていいのは自分よりも年下の人に対してだけです。それでしたら、失礼にはなりません(どうにもならないネガティブな話を聞かされるのは、どんな人にも苦痛ではありますが)。

 

 しかし、クライアント女性の話のように、自分と同い年、または、自分よりも年齢が上の人に対して言ってしまえば、とても失礼になってしまいます。(p143) 

 

これは、割とうっかり口にしてしまう話題だと思いました。

いっそ、「もう年だから」も、「使わない言葉リスト」に入れてしまいたいくらいです。

 

それほど難しい項目はなくても、きちんと自分の中で整理して戒めると、人間関係がなかなかスムーズにいくのではないかと思いました。

 

丁寧に実践していきたいです。

 

最後まで読ん下さってありがとうございました。

 

「もっと話したい!」と思われる人の44のルール

「もっと話したい!」と思われる人の44のルール

 

 

ゴッホ展に行ってきました。

おはようございます、ゆまコロです。

 

東京・台東区上野の森美術館で開催中の「ゴッホ展」に行ってきました。

 

今回のゴッホ展の見どころは、彼の10年の画家生活の中の二つのスタイル、「ハーグ派」と「印象派」にスポットを当てているところだと思います。

 

ゴッホは親戚で画家だったアントン・マウフェから、形態や質感のとらえかたや、画材の扱い方を習っています。

 

その後、ハーグ派(フランスのバルビゾン派による写実主義の影響を受けた。くすんだ色調が特徴。1860年から1890年まで)の画家たちと交流を深めます。

 

今回、ハーグ派の画家たちの作品や、ゴッホの初期の頃の作品が集まっています。

特に、独学からハーグ派の画家たちに出会う頃は、言われてもゴッホの絵とは思えないような、違った印象の絵が目立ちます。

始めは農民画家を目指していたゴッホの、目の前に生きる人々の暮らしを写しとろうとする、真剣なまなざしが伝わってくるようです。

 

展示を見ながら感じたことはこちらです。

 

●始めの頃の作品のひとつにあった、「1882年、娼婦と同棲。師マウフェ、父との関係が悪化する。」という解説板がちょっとかわいそうだなと思いました。

 

●「秋の夕暮れ」(1885年)

一見ゴッホっぽくない絵なのですが、静かな秋の風景がとても落ち着いていて良いなと思った絵です。

 

●「花瓶の花」(1886年夏)

この頃ゴッホは、アドルフ・モンティセリという印象派の画家の影響を受けています。(彼を誉めている内容の手紙のパネル紹介があります。)モンティセリの静物画もいくつか展示されているのですが、厚い塗りとはっきりとした色調が、なるほど確かに似た感じがしました。

 

印象派を代表する画家たちの作品が30点ほど来ているのですが、この展示もまた見ごたえがありました。

ライ麦畑、グラット=コックの丘、ポントワーズ」(カミーユピサロ、1877年)と、「レザンドリー、橋」(ポール・シニャック1886年)が良かったです。

 

●「タンギー爺さんの肖像」(1887年1月)がある。

ゴッホの絵を気に入ってくれた画材店兼画商の方です。かなり印象派っぽくなってきているのが見て取れます。彼がモデルとなったゴッホの絵はいくつかありますが、今回展示されている「タンギー爺さん」は、モデルの優しい人柄が伝わってくるかのような、穏やかな印象の絵です。

 

●「サン=レミの療養院の庭」(1889年5月)

耳切り事件を起こした後、ゴッホはこの療養院で一年ほど過ごします。

この絵について「さほど塞ぎこんでいるわけではないということがきみにも伝わるだろう」と、弟テオ(テオドルス)への手紙で書いているように、勢いのある樹木や、道の草花からは、強い生命力のようなものを感じました。

 

●「糸杉」(1889年6月)

墓場に植えられることから死の象徴ともとられる糸杉ですが、ゴッホは画家として受けた挑戦状のモティーフであるかのようにとらえている手紙が残っています。

その色と形をなんとかつかまえようと画策している様子が伝わってくるかのような力強さです。

 

祝日の開館10分前に着きましたが、もうすでに50人以上の列ができていて、人気の高さがうかがえました。

 

会場内は、少し並びながら観れば、まあじっくり観られるかな、くらいの混雑具合でした。

 

でも約40点のゴッホ作品を一度に見られることはあまりないので、お気に入りの作品を見つけに行ってみると良いのではないかと思います。

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。

 

go-go-gogh.jp

 

 

角野栄子『キキとジジ 魔女の宅急便番外編その2』

おはようございます、ゆまコロです。

 

角野栄子『キキとジジ 魔女の宅急便番外編その2』を読みました。

 

この巻では、キキよりもどちらかというと、ジジが何を考えて大きくなったか、ということが重点的に書かれています。

 

9歳のキキが、自分は魔女にはならず、周りのみんなと同じがいいと思っているのが印象的です。

 

 

    「血すじって、何?」

 

    「親から子へ、そのまた子どもへ、何代もながーく続いてるってことね。不思議なほど、長く」

 

     「これからも、続いていかないといけないの?だとしたら、どうして?」

 

    「それは、かあさんにもよくわからない。もしかすると、言葉にはできない不思議なのかもしれないの。でもね、血すじだからって、キキも自然に魔女になってしまう、ってものではないのよ」

 

    「じゃ、かあさんはどうしてなったの?」

 

    「わたしのかあさんに、魔女のこといろいろ話てはもらっていたんだけど、はっきりしたきっかけがあってね。ある日、草原に寝ころがって、はてしないほど広い空を見てたらね、雷がどーんと落ちてきたみたいに、突然(わたしは魔女になる!)って思ったの。(どうしてもなるんだ)って。その一瞬で、これは絶対だ、もう変えない、って心が決まったの。不思議だった。

    『続いてる』だけじゃだめなのよね、自分で決めなきゃ。キキにも、そういう雷が落ちてくる、そんな時が来るかもしれない。来るといいね」(p141)

 

 

魔女になってもいいし、ならなくてもいいとキキのお母さん・コキリさんは言います。あくまで娘の意思に沿おうとする、見守るスタンスが素敵です。

そしてキキのお父さんは、セリフがちょっととんぼさんを彷彿とさせます。

(ジジが学校についていくのを止めないところとか。)

 

自発的にキキの家にやってきたジジが、赤ちゃんのキキばかり可愛がられるのが面白くなくて、自分のお母さんを探しに家出してしまうのが、ちょっとかわいそうで可愛かったです。

 

ほっこりするスピンオフでした。

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。

 

 

「バスキア展 メイド・イン・ジャパン」に行ってきました。

おはようございます、ゆまコロです。

 

東京・六本木の森アーツセンターギャラリーにて開催中の「バスキア展 メイド・イン・ジャパン」に行ってきました。

 

行ったのは10月の祝日、開館30分前に入口に着きました。同じフロアで3展覧会同時に開催しているからか、チケット売り場は結構並んでいました。(開館直前には自動ドアの外まで溢れそうでした。)

 

ちなみに、チケットを持っている人とこれから購入する人は違う列に並び、既に持っている人向けの窓口の方が多いので、前売りや招待券などを持っていなくても、セブンイレブンなどで事前に当日券を買って向かった方が若干スムーズかと思われます。

 

会場は大きな作品が多く、それほど混雑していて見えない、というほどでもなかったです。

 

写真撮影OKな作品(10点くらい)と、オーディオガイド(チケット代に含まれています)の解説がある作品は、目の前に行くまでに少し時間がかかるくらいでした。

 

自由に綴られるノートへのドローイング達や、差別され、鬱屈する感情をぶつけたようにも見える力強い筆致の作品、時代の寵児となった頃の作品、不安を抱え、空間を埋めるように描かれた大きな作品など、感情がダイレクトに伝わってきます。

 

スプレー缶で広い面に文字を綴る彼の映像を見ると、彼がまだ生きていて、言葉を発し続けているのではないかと思うほどでした。

 

読みやすくて、特徴のある(大文字のEの、左の縦棒がない)アルファベットの書き方がちょっと可愛らしいです。折り紙のパッケージに書かれた日本語を真似して描いているのがなんだか微笑ましかったです。

 

怖いほどのエネルギーが伝わってきましたが、自由にふるまっていい、という後押しをされているかのような力強さも感じました。

 

東京・港区の森アーツセンターギャラリーにて開催中〜2019/11/17(日)まで。

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。

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ヴィリニュスに行ってきました。

こんばんは、ゆまコロです。

 

台風が心配な土曜日ですね。

気晴らしに、この夏の思い出をまとめてみます。

 

2019年夏にヴィリニュスに行ってきました。リトアニア🇱🇹の首都です。

 

今回の旅の目的は、杉原千畝さんのいた旧日本領事館を見ることです。ついでにリトアニア・ラトヴィア・エストニアバルト三国を回ることにしました。

 

午前10時の成田発の飛行機に乗るために、朝5時半に埼玉の自宅を出ました。

この日使ったLOTポーランド航空は、座席の並びを同伴者でも離れたところにする、という話を聞き、7:30のチェックイン開始に間に合うように出発です。

 

12時間弱のフライト後、ワルシャワ(ポーランド)で降り(無事並びの列を手配してもらえました)、またLOTポーランド航空のちっちゃめの飛行機に乗って、18:20にヴィリニュス着。

ホテルに着いたのは20時少し前でした。

 

翌日は朝から観光です。

世界遺産の街ヴィリニュスと、トラカイ城の観光へ行きました。

 

迷路のような入り組んだ街を、

聖ペテロ・パウロ教会(ロシアからの解放を記念して建てられた教会。リトアニアバロックの真珠と呼ばれています。)→夜明けの門(城壁の門の名残り。もとは9つあったけど、一つしか現存しない。)→大聖堂(真っ白な外観がまぶしい。)→ヴィリニュス大学(1579年設立の国立大学)→旧市庁舎(ネオゴシック方式の門。重厚感があります。)→ハレス市場(きれいなアメ横みたい。)と回りました。

 

最高気温は22度くらい、とガイドブックにはあったのに、7月末は30度ありました。初日から暑さでバテバテです。

 

午後のトラカイ城は屋外ライブのリハーサル中で、たいへん騒々しかったです。

のんびり湖の鴨を眺めたかったけど、爆音から逃れるべく迅速に行動しました。

敵が攻めてきた際には木製の外階段を全て焼き払う、というガイドさんの話が強烈でした。

 

また追ってまとめたいと思います。

最後まで読んで下さってありがとうございました。f:id:hamletclone:20191013214733j:image

 

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟 1』

おはようございます、ゆまコロです。

 

ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟 1』を読みました。

 

(感想の順序がひっくり返りましたが、)1巻で好きなところは、次の二ヶ所です。

 

 

(前略)この青年は人々を愛していたし、どうやら他人のことを完全に信頼しつつ、生涯を過ごしたようである。人々も、この青年のことを間抜けなお人よしとか、単純で幼稚な人間などとは考えなかった。「自分は人々を裁くようなことはしたくない、だれかを断罪するようなことは引き受けたくないし、何があっても人を責めたりはしない」とでもいったところが、この青年にはあった(それはそのあとも、生涯変わることはなかった)。

 

 アリョーシャという人間は、何があっても人を非難したりせず、すべてのことを赦していたのではないか― もっともそのおかげでひどく悲嘆に暮れることはよくあったが― とさえ思える。それどころか、だれかに驚かされたり動揺させられることもなかったほどで、こうした性格はごく若い頃から変わらなかった。

 

 十九のときに、汚らわしい淫蕩の巣ともいうべき父親のもとに戻ったこの清廉で純潔な青年は、何か見るに耐えないというような場面に出くわすと、ただ黙ってその場を立ち去り、だれかを軽蔑したり非難したりするそぶりはつゆほども見せなかった。(p46)

 

 

「けっして偉大な人物ではない」と、作者のドストエフスキーが冒頭で言い切っているアリョーシャですが、この文章を読むと、なかなか人の良さそうな人物のように見受けられます。

もう一つは、アリョーシャとその友人ラキーチンとの会話です。

 

 

「(前略)きみのことはずっと前から観察してきたんだけどね。きみはやっぱりカラマーゾフなんだな、正真正銘、カラマーゾフなんだー つまり、血筋や遺伝もそれなりに意味があるってわけだ。父親ゆずりの女好きで、母親ゆずりの神がかりってわけだ。どうして震えてなんかいるのさ?それとも、痛いところ突かれたのかな。いいかい。グルーシェニカがぼくにこう頼んだのさ。『ねえ、あの人を(ってきみのことさ)連れてきてちょうだいよ、あの人の僧衣、脱がしてみせるから』。そうなんだ、連れてきてね、連れてきてねって、なんど頼んできたことか!それでちょっと考えさせられた。彼女はいったいきみのどこに興味があるのか。そうだろ、あの女もそうざらにいない好きものだぞ!」

 

「ちゃんと伝えるんだよ。ぼくは行きませんとね」アリョーシャが軽く苦笑をもらした。「ミハイル、それより、さっき言いかけたことをちゃんと最後まで話しなよ。ぼくの考えはあとで教えてあげるからさ」

 

「ちゃんと話すことなんてないよ、なにもかも明白じゃないか。こんなことはさ、きみ、みんな決まりきった話なんだよ。もしもきみに女好きなところがあるとしたら、同じ母親から生まれたきみのイワン兄さんはどうなる?彼もやはりカラマーゾフなんだよ。要するに、きみたちカラマーゾフ一家の問題というのは、女好き、金儲け、神がかり、この三つに根っこがあるってわけさ!きみのイワン兄さんだって、ほんとうは無神論者のくせして、わけのわからないばかげた思いつきで神学の論文なんか発表している」(p214)

 

 

ラキーチンとアリョーシャの会話になると、それまでの宗教小説っぽさから急に現代っぽい印象になるので、その落差が面白いと思います。

 

●最後まで読んでみて。

 

その分厚さにひるみそうになったり、教会の話で退屈になったり、カラマーゾフ家の面々のどうしようもなさに途中で本を閉じたくなったりもしましたが(すみません)、とりあえず場面が変わるまで進もう、と思って読んだら最後までたどり着いた、という感じでした。興味を惹かれるセリフも多く、長いですが止まらずに読むと、まあまあ進めるように思います。意外と読書感想文を書きやすい本ではないか?という気もしました。

 

●お知らせ。

紙のノートに書いていた「読書ノート」を、オンラインに移行しようと始めたこのブログでしたが、この本でストックがなくなりました。

現実では読むスピードはたいへん遅いゆまコロですが、こうして駆け足で自分の読書の記録を振り返ってみて、良い復習になりました。

今後は読んだ速度でゆっくり更新していくことになると思います。

 

読んで下さった方、本選びの参考にしてくださった方、コメントを下さった方、ありがとうございました。

またお会い出来たらとても嬉しいです。

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。