ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

なぜ非常時に誤った判断をしてしまうのか。『生き残る判断 生き残れない行動』を読んで

おはようございます、ゆまコロです。

アマンダ・リプリーさん、岡真知子さん(訳)の『生き残る判断 生き残れない行動〜大災害・テロ・事故、極限状況下で心と体に何が起こるのか』を読みました。

 

本書は防災マニュアルや有事におけるノウハウ本というよりは、911の事件や、ハリケーンの生存者の証言などから、非常時においていかに「正しい判断をすること」が難しかったか、を明らかにしています。

 

 生存ゾーン

 

    人体の第一の防衛力は、本来備わっているものである。生存のための本能的な動きを引き起こすのは扁桃体で、第一の防衛力は変化しにくい。だが人間には二つ目の優れた防衛力がある。わたしたちは経験から学ぶことができるのである。警察官、兵士、宇宙飛行士たちの訓練にあたる専門家たちの間で、経験ほど重視されているものはほかにない。「実際の脅威は準備の段階ほど重要ではない」と、警察心理学者アートウォールと彼女の共著者ローレン・W・クリステンセンは、著書『破壊的な力の衝突』のなかで書いている。「準備をすればするほど、制御できるという気持ちが強くなり、恐怖を覚えることが少なくなる」
 あらゆる脅威に備えて一般の人々を訓練するより、特定の範囲の起こりうる脅威に備えてプロを訓練するほうがたやすいのは言うまでもない。だが準備をすればするほど制御できるようになるというのは事実である。恐怖は克服できるのだ。だから一般市民でも何らかの準備をすれば、それが役に立つ。 実際の災害に備えてその準備が完璧であろうとなかろうと、準備をしていれば自信がつくので不安は軽減され、より適切な行動をとるようになるだろう。「銃撃戦に直面した警察官は、強盗にあったり、車の衝突事故や飛行機の墜落事故に直面した人たちと実際は同じプロセスをたどるのです」とアートウォールはわたしに語った。「その人の反応の仕方は、遺伝子と何らかの関係があるでしょうが、人生経験の総体――基本的には受けてきた訓練――とも関係があります」
    世界貿易センターで、階段の場所を知っていた人々は、怪我をしたり長期の健康上の問題を抱えることになる傾向が少なかった。それは一つには、極度のストレス下で行動をするのに必要な訓練を受けていたからである。そして後になって、自分の力量に安心感を得ることができた。警察官や消防士についても同じことがあてはまる。必要な技能を身につけていれば、生き延びる可能性がより高くなるばかりか、危機のあと、心理的にも良好な状態でやっていける。一度わが身を救うことができたのだから、もう一度そうできる、と思うのだ。
 危険を伴わないストレスに身をさらしていくうちに、次第にストレスを感じなくなるのは直感的にわかる。スポーツ選手が最高の実績を上げる「ゾーン」を持っているように、普通の人々もそれを持っている。次の章で触れるが、各人のゾーンは形が少しずつ異なっている。だがどの人のゾーンも鐘形(しょうけい)曲線に似ている。ストレスを感じたら、最初はより適応力のある行動をとる。だがストレスが過剰になると、次第によい結果が生じなくなってくる。臨界の変曲点を越えると、すっかりおかしくなりはじめる。
    これを最初に解明したのは、スポーツ心理学者などだ。その後、一九八〇年代に、ミズーリ州セントルイスの警察学校指導教官、ブルース・シッドルは、スポーツ心理学者の研究成果を取り入れて、実戦で応用しはじめた。彼は、心拍数が毎分百十五回から百四十五回のあいだに、人は最高の動きをすることを発見した(休んでいるときの心拍数はふつう約七十五回である)。この範囲だと、人々はすばやく反応し、視覚も良好で、複雑な運動技能(たとえば車の運転)もうまく使いこなす傾向がある。
    だが約百四十五回を超すと、機能が低下しはじめる。血液が心臓のほうに集中するせいか喉頭(こうとう)の複雑な運動制御も機能を停止して、声が震えだし、顔が青ざめ、手の動きがぎこちなくなる。視覚、聴覚、距離感覚も衰えはじめる。ストレスが強まると、人々はふつう心的外傷を受けたあとに何らかの記憶喪失を経験する。
(p137)

 

貿易センタービルの階段の場所を知っていたことが「極度のストレス下で行動をするのに必要な訓練」になっていた、というのが、意外なことのように感じました。

なんだそんなことか、と思うけど、災害時においては、適切な判断ができるかどうかを分けるポイントになることが分かります。

 

 非常時の回復力

 

 回復力は貴重なスキルである。 回復力がある人には、三つの潜在的な長所も備わっている傾向がある。人生で起こることに自らが影響を及ぼすことができるという信念。人生に波乱が起きてもそこに意義深い目的を見いだす傾向。いい経験からも嫌な経験からも学ぶことができるという確信。このような信念は、一種の緩衝材として、いかなる災害の打撃をも和らげてくれる。こういう人々にとっては、危険は御しやすいものに思え、結果としてよりよい行動をとることになる。
 「心的外傷は、美と同様に、見る人の目の中にある」と、メリーランド州ボルティモアのジョンズ・ホプキンス公衆衛生準備センターに勤務するジョージ・エヴァリー・ジュニアは言う。
    それはうなずける。 健全で積極的な世界観は、当然のことながら回復力に結びつくだろう。だがそれはさらなる質問をしたくなるような物足りない答えである。もしこの手の世界観が回復力に結びつくのだとすれば、では、何がその世界観に導くのか?
答えはわたしたちが予測しているようなものではない。回復力がある人々は、必ずしもヨーガを実践している仏教徒たちではない。彼らが十二分に持っているものの一つは、自信である。 恐怖に関する章で見てきたように、自信――現実的な練習や笑いからでも生じるものだが――は極度の恐怖の破壊的な影響を和らげてくれる。最近のいくつかの研究で、ありえないほどの自信にあふれている人は、災害時に目を見張るほどうまくやっていく傾向があることがわかった。 心理学者はこのような人々を「自己向上者」と呼ぶが、一般の人なら彼らを傲慢と称すだろう。この種の人々は、他人の評価よりも高く自分自身を評価し、 自己陶酔したはた迷惑な人間になりがちなのだ。ある意味では、現実の生活よりも危機によりうまく適応できる人々なのかもしれない。
    内戦が終わってから一年もたたないうちに、コロンビア大学のジョージ・ボナンノは、サラエボで七十八人のボスニア・ヘルツェゴヴィナの市民にインタビューした。調査では、各人が精神的な問題、対人能力、健康問題、ふさぎこみについて自分自身を評価した。次に各人が仲間によって評価された。一つの小さなグループは、他人が評価するよりもかなり高く自分たちを評価した。こういった人たちは、ほかの人たちよりうまく適応していることが精神衛生専門家によって明らかになった。
    世界貿易センターが攻撃されているときに、その中か近くにいた生存者たちにも似たようなパターンがあることを、9・11以降、ボナンノは発見した。強い自尊心を持っている人たちは、比較的たやすく元気を回復した。唾液中のストレス・ホルモン、コルチゾールのレベルも低かった。彼らの自信は、人生の浮き沈みに対抗するワクチンのようなものだった。
    いくつかの研究でわかったのは、IQの値が高い人のほうが心的外傷を受けた後もうまくやっていく傾向があるということだった。言い換えると、回復力がある人のほうが頭がよいのかもしれない。なぜそうなのだろう? 知性によって創造的思考が促され、それが次にはより大きな目的意識や抑制力につながっているのかもしれない。あるいは高いIQに伴う自信が、そもそも回復力に結びついている可能性もある。
    重要なのは、IQに関係なく、だれもが訓練と経験で自尊心を生み出せることである。 兵士や警察官がそれを教えてくれるだろう。自信は実践から生まれるのだ。 

(p169)

 

ありえないほどの自信が恐怖を和らげる、というのが面白い。しかし、災害時以外では、「他人の評価よりも高く自分自身を評価し、 自己陶酔したはた迷惑な人間になりがち」というのでは、安易にそこを目指せないではないですか。

訓練と経験で自尊心は生み出せる、とあるので、災害大国である我が国に住むのであれば、やはり備えは必要不可欠なのでしょう。

 

 特殊部隊の兵士は常人ではない

 

 米軍は何百万ドルも投じてシャッハムのような人物――生死にかかわる状況においても平静さを失わず、その後も回復力を維持している人物――の心理を分析する方法を見つけようとしてきた。 チャールズ・モーガン三世は、エール大学の精神医学臨床准教授で、国立心的外傷後ストレス障害センターの人間行動研究所長でもある。彼は過去十五年にわたり、極度のストレスに対する人々の反応の仕方の違いを研究してきた。手始めにベトナム戦争湾岸戦争の復員軍人たちの調査をした。予想どおりであろうが、心的外傷後ストレス障害のある人たちは、障害のない人々とはずいぶん異なった振舞いをした。心的外傷後ストレス障害のある復員軍人たちは、そうでない人よりも神経過敏になっていた。意識の分裂もひどく、ふつうの生活をしていても、色がより鮮やかに見えたり、物がスローモーションで動いたりすると報告している。いったん危機モードに入った彼らの脳が、そのままの状態でずっととどまっているかのようだった。血中の特定のストレス・ホルモンのレベルも、ほかの人より高かった。
 一九九〇年代に、おおかたの科学者の間で意見の一致を見ていたのは、これらの人々は経験によって損傷を受けたのだということだった。脳も血液も人格も心的外傷によって変えられた、と。だが一握りの研究者たちは、その理論に満足しなかった。「われわれは推測はしていた」とモーガンは言う。「が、本当のところはわからなかった」。どちらが先なのだろう、とこれらの科学者たちは疑問に思った。心的外傷だろうか? それとも心的外傷を受けやすい人だろうか?
    これを解明するにあたり、モーガンは心的外傷を受ける危険にさらされる前の人々を調査する必要があった。彼はノースカロライナ州フォートブラッグの陸軍サバイバル・スクールで、ストレスを対象にした研究所を見つけた。教室での訓練期間を経て、学校の兵士たちは森に放たれ捕えられないように努力する。食糧も水も武器も与えられない。指導教官が彼らを追い詰め、空砲を放ち、最後には捕まえる。それから兵士たちをフードで覆い、縄で縛って、偽の捕虜収容所へ連れていく。そこで兵士たちは体系的に食糧、抑制力、尊厳を奪われていく。第二次世界大戦中のヨーロッパと、朝鮮、ベトナムで米国の捕虜たちが体験した状況に似せているのである。七十二時間のあいだに、兵士たちは一時間足らずの睡眠しか許されない。
    サバイバル・スクールは非常にリアルで、実際に恐ろしい思いをさせられる。モーガンが兵士の血液を採取すると、ストレス・レベルが極限状態で採取されたものの平均記録を上回っていた。たとえば、兵士たちは、初めて飛行機から飛び出そうとしている人たちよりも組織中のコルチゾール量が多かった。平均するとサバイバル・スクールの参加者の体重は、受講中に七キロ近く減る。
    モーガンは兵士たちの間に大きな差があることにすぐに気づいた。グリーンベレーとしても知られている陸軍特殊部隊の兵士たちは、それ以外の一般の歩兵より一貫してすぐれていた。「彼らは頭が冴えている状態が長く続いているように思えた」とモーガンは言う。「ストレスを受けても、われわれほど早くぼうっとなったりはしなかった」。それも不思議ではない。特殊部隊はエリート集団である。選抜されるのは入隊希望者の三分の一足らずである。
    さらに驚くべきことは、特殊部隊の兵士が化学的に異なっているということだ。モーガンが血液の標本を分析すると、特殊部隊の兵士が「ニューロペプチド」と呼ばれるものをかなり多く作り出していることがわかった。ニューロペプチドYは、とりわけ、ストレス下において任務に集中できるよう助ける働きがある化合物だ。偽の尋問後わずか二十四時間で、特殊部隊の兵士たちのニューロペプチドYは通常のレベルに戻っていたが、それ以外の兵士たちは減少したままだった(軍人ではない人々の生活でも、不安障害や鬱病にかかっていると、ニューロペプチドYのレベルが下がる傾向がある)。

(p171)

 

陸軍のサバイバル・スクールの実習が怖い。

経験によって損傷を受けると、脳が危機モードに入ったままの状態になるというのも、なんとなく想像できます。

そして、グリーンベレーの兵士の凄さを改めて感じました。ウィキペディアの入隊資格に「ブーツと戦闘服を着用したままで50メートル泳げること」などとあり、そりゃあ常人とは違うことは分かっていましたが、血液の成分まで違うとは。

 

 (…)グランド・バイユーの住民は戻ってこようと思っている。最初の家屋は二〇〇七年七月に完成した。家屋はすべて“簡単につくれるもの”――安い費用で建て直すことができる簡素な木造のもの――になるだろう。共同体は今もなお湿地帯を復活させ、もっと持続していける文化生活を創造しようと奮闘している。だが一方、これまでずっとそうしてきたように、嵐がくるたびに避難し、その後であと片付けをするつもりでいる。「わたしたちは生活を守ろうとしているの。それがいちばん重要なことよ」とフィリップは言う。「カトリーナ」後のグランド・バイユーの人口は、それ以前よりも増えるだろうと、彼女は今、思っている。「わたしたちは何とか続いていくと思うの」と彼女は言う。「お互いに頼り合うことを学んだから」

 

    二つの町の物語

 

    グランド・バイユーのようなところは、回復力がある地域の見本である。というのも住民が積極的に助け合って生き延びるからである。彼らは自分の財産よりも共同体を重視し、集団の総意に基づく決定にも信頼を置く。しかし隣人の名前も知らないような現代の大都市では、その域にまで到達することはめったにない。確かに目標ではあるが、選択肢はほかにもあるのだ。
    もっとささやかで、もっと単純な形の回復力もある。災害を生き延びる集団は、生死にかかわる情報を、一つだけ維持していることがある。一つの教訓が広く共有されているかどうかで、生死が分かれる可能性がある。それは教訓を得ていない人たちにとっては悲痛であり、また教訓を広めればよいという意味では希望が持てる事実でもある。生死は一つの事実を維持することに基づいて決定されるべきではない。しかしもしそうであれば、その事実を共有することで犠牲者を減らせる可能性も大きいということを、少なくともわたしたちは知っている。
    二〇〇四年に東南アジアで発生した津波は、約二十万人の命を奪った。実際の数がそれ以上か以下かは不明であるが、多すぎて数えられないほどであった。地元の新聞には行方不明者の写真が何ページにもわたって延々と掲載され、何かの印刷ミスかと思うほどだった。

    壁のように迫ってくる圧倒的な海水に襲われると、死を免れるのはむずかしいように思われる。事実そうなのだ。犠牲者の多くにとって、まさに死を逃れる可能性はまったくなかった――多国間で使われる高性能の警報システムがなければ不可能だったのだが、インド洋にはそのシステムは備えられていなかったのだ。しかし何千人もの人々にとっての最高の警報システムは、昔ながらの手作りのものだった。
    二〇〇四年の津波を引き起こした地震震源地にきわめて近い二つの町について考察を加えてみた。ジャンタンはスマトラ島北岸沿岸部の村だった。住民が地面の揺れを感じた約二十分後には、波が轟音を立てて彼らの命を押し流した。彼は十四メートルから十八メートルの高さにまで達した。村の建造物はすべて破壊され、住民の五十パーセント以上が死亡した。
    シムルエ島のランギは、さらに震源に近かった。島民は地面の揺れを感じてからわずか八分後には高台に避難していた地震津波の間隔がどこよりも短く、ブイに基づいたその地域唯一の警報システムを使ったわりにはあまりにも迅速だった。波は九メートルから十四メートルの高さに達したジャンタンの波よりも少し低かったが、それでも致命的であることはまちがいなかった。ジャンタンと同様、町の建物はすべて破壊された。
    だがランギでは、八百人の人口の百パーセントが生き残った。だれも――一人の子供も、一人の祖母も――亡くならなかった。 カリフォルニア州アーケータにあるフンボルト州立大学の地質学教授ローリ・デングラーは、二〇〇五年四月に訪れたときに、そのことを発見した。なぜか?ランギでは、地面が揺れたとき、だれもが高台へ向かい――そしてそこでしばらくとどまった。何があっても、それが伝統だったのだ。一九〇七年に、島は津波に襲われ、地元の人の話では、人口の約七十パーセントが命を落とした。そこで生き残った人たちは、ランギやほかの町で、この教えを何世代にもわたって伝えた。シムルエ語で津波を意味する言葉”スモング”を、だれもが知っていた。
    地面が揺れたとき、どこへ行ったのかと、デングラーが地元民に尋ねたとき、彼らは三十メートルほどの高さの近くの丘を指差した。つまりデングラーによれば「まさにわたしが彼らに行くように勧めていただろうと思われる場所だった」。人々は避難に努力することに誇りを抱いているようで、誤った判断で避難してもそれを時間の無駄だとは決して考えなかった(興味深いことに、シムルエ島全島で、津波で亡くなったのは七万八千人のうち七人だけだった。しかも、七人全員が、自分の所有物を守ろうとして亡くなった、とデングラーは言う。彼らは持ち出す物をまとめていたのだ。それは、これまでに述べてきたように、災害時にはよくある傾向である)。
    しかしながら、デングラーのチームがジャンタンを訪れたとき見いだしたのは、まったく異なった技術だった。災害に遭う以前に、「津波について聞いたことがある者はだれもいなかった」とデングラーは言う。爆発音のようなものが海から聞こえてきたとき、住民の多くは、反乱軍兵士とインドネシア軍との銃撃戦ではないかと思って、家に鍵をかけて閉じこもったのだ。
    銃が存在するはるか前から津波はあった。人類は動物たちと同様に、何千年もの間、壊滅的な打撃をもたらす波を相手にしてきた。二〇〇四年の津波の数時間前に、観光客を乗せた十頭ほどのゾウは、突然ラッパのような鳴き声を出しはじめた。津波に襲われる一時間前には、ゾウたちは高台へ向かった――なかにはそこへ行こうと鎖を断ち切ったゾウもいた。津波のあと、何百頭ものゾウ、サル、トラ、シカが無傷のまま生き延びているのを知って、スリランカのヤーラ国立公園の野生生物担当職員は非常に驚いた。だが人間は、ほかの哺乳類のようにはこういった生存のための能力を保持し続けていないように思える。
    しかしながら人間にはもっとうまくやっていく能力があるし、いくつかの地域では人々にその能力があるのも明らかだ。それは非常によい知らせである。グランド・バイユーやランギのように生き延びるための伝統がある共同体では、思考の領域に使われる貴重な時間が、きわめて生産的なものとなりうる。そしてそうでなければならないのだ。というのも、わたしたちにはもう時間がないからである。否認と思考の段階を経てきて、残るは行動のみだ。次章で説明するように、いったん行動に移してしまうと、取り返すのはとてもむずかしい。

(p240)

 

「地面が揺れたとき、だれもが高台へ向かい――そしてそこでしばらくとどまった」ため、住民全員が津波で亡くなることはなかったというランギの話がすごい。

「しかし隣人の名前も知らないような現代の大都市では、その域にまで到達することはめったにない。」

なんとも残念です。この一文を読んで、現代における大災害が恐ろしく感じるのは、被災したあとの困難が想像出来るからかもしれない、と思いました。

 

 「パニック」という語は、その時々で形を変える言葉の一つである。「英雄的行為」と同様、現場での事実についてよりも、第三者の考え方を反映し、あとから考えて定義づけされることが多い。「パニック」はいみじくも神話に由来している。ギリシャの神パンは、胴体は人間で脚、角、あごひげはヤギという姿をしていた。昼間、パンは森や牧草地を歩きまわってヒツジの群れの世話をしたり、笛で歌を奏でたりしていた。夜になると、さまざまなニンフ [ギリシャ神話の美しい乙女の姿をした海、川、山、 森などの精]の愛を得ることにおおかたの精力を傾けた。しかし、時々は人間の旅人にいたずらをして楽しんだ。人々がギリシャ都市国家都市国家間の人気(ひとけ)のない山の斜面にさしかかると、パンは暗闇を這ってくるような、説明しがたい奇怪でぞっとするような音を立てた。パンが下生えの灌木(かんぼく)をかさかさいわせると、人々は歩調を速め、もう一度そうすると、命からがら逃げ出した。このような実際には害のない物音に対して抱く恐怖心が、「パニック」という言葉で知られるようになったのだ。
    時にはパニックという単語は、わたしたちから自制心を奪ってしまう、さざ波のような恐怖心を表わすのに使われる。だがパニックそのものが恐怖を抱く理由にもなりうる。パニックという感情があり、また一方でパニックという行動があるわけもなく悲鳴を上げたり、騒ぎ立てたり押しのけたりして、わたしたち自身や周囲の人々の命を危険にさらしてしまうのだ。 両方の意味が融合して、言外の意味を過度に含んだ一つの短い言葉になっている。本章ではパニックについて、なかでも将棋倒しという、もっとも恐ろしく極端なパニックの一形態として表わされている行動について述べる。
    本章はまた、結末――生存への行程の最終段階――の冒頭部分にもなっている。否認と思考のあとには、筆者が決定的瞬間と呼ぶものがくる。この表現は現代フォトジャーナリズムの父とも呼ぶべき人物、フランスの写真家アンリ・カルティエ-ブレッソンから拝借したものである。彼にとって決定的瞬間とは、とりわけ「出来事の重要性を、間を置かず瞬時に認識すること」で、カメラが物や人の本質を一つのフレームにうまくとらえるときに起こった。
    同様に、生存への行程の最終段階は一瞬のうちに終わってしまう。以前に起こったあらゆることの本質が突然抽出され、どちらかと言えばその後のことを決定する。写真の場合と同じく、この一瞬に起こることは、多くのものに左右される。タイミング、経験、感受性―――そして、おそらく何にも増して、運に。わたしたちが何か恐ろしいことが近づいているという事実を受け入れ、さまざまな選択肢について思考すれば、何が起こるだろう? パニックは人間の想像のなかで最悪のシナリオである。あらゆる行動規範や人間を人間らしくするものがすべて消滅し、混沌だけが残る。例の不安の方程式を思い返してみると、パニックはあらゆる測定基準、つまり制御不能、馴染みのなさ、想像できること、苦痛、破壊の規模、不公平さといったもので高得点をたたき出す。パニックと同じくらい恐ろしいものは、テロリズムだけかもしれない。
    災害研究における最近の風潮では、パニックは起こりえないこととして否定されている。しかしパニックが誇張だとしても、パニック現象そのものの存在を否定するのは行き過ぎであろう。確かに人は基本的な社会的規範を乱すようなヒステリーじみたことをめったにしない。すでに述べてきたように、たいていの場合パニックは起こらない。それどころか、次の章で詳述するが、実際に災害に遭うとまったく何もしない、という反応をすることがもっとも多いのである。あとになって、人々は「パニックになった」と言うかもしれないし、メディアも「パニック」と報道するかもしれないが、実際は無作法な振舞いなどないに等しいのだ。人々は呼吸が速くなり心臓がどきどきするのを感じた。すなわち恐怖を感じたわけで、それは不安な感覚である。だが実際に乱暴で危険な人間になったりはしなかった。なぜなら、そんなことをしても自分たちのためにならないからである。

(p248)

 

パニックという単語の語源がギリシャ神話の牧神パンから来ていることを初めて知りました。

「パニックという感情があり、また一方でパニックという行動があるわけもなく悲鳴を上げたり、騒ぎ立てたり押しのけたりして、わたしたち自身や周囲の人々の命を危険にさらしてしまうのだ」

パニック自体が生き延びるための警告なのかもしれませんが、自分自身や周囲を危険にさらす場合もあるのに、なぜパニックが起こるのか不思議な感じもします。

 

    麻痺状態からの脱出

 

    一九七七年三月二十七日、カナリア諸島テネリフェ北空港で離陸を待っていたパンアメリカン航空ボーイング747は、時速二百六十キロで霧のなかから突進してきたKLMオランダ航空の同型機に警告もなく機体を切り裂かれた。衝突のせいで、コミック本や歯ブラシとともに、ねじ曲がった金属が、長さ八百メートルほどの滑走路にまき散らされた。 KLMオランダ航空の乗客は全員が即死した。だがパンアメリカン航空には、助かった乗客も比較的多くいた。立ち上がって炎に包まれている飛行機から脱出した乗客は、生き延びることができたのだ。
    当時七十歳のフロイ・ヘックは、パンアメリカン航空ジェット機で夫と友人たちの間に座っていた。カリフォルニアの退職者居住住宅から地中海クルーズへ向かう途中だった。 KLMオランダ航空のジェット機が、彼らの乗った飛行機の上部を切り取ったとき、衝撃はさほど激しく感じられなかった。ヘック夫妻は前や右に揺さぶられたが、シートベルトをしていたので投げ出されずにすんだ。それでも、フロイ・ヘックは話すことも動くこともできなくなっているのに気がついた。「頭のなかがほとんど真っ白でした。何が起こっているのか聞こえもしなかったのです」と彼女は何年か後に「オレンジ・カウンティレジスター」紙の記者に話している。だが六十五歳の夫、ポール・ヘックはただちに反応した。シートベルトをはずし、出口に向かったのだ。「ついてこい!」と彼は妻にきっぱりと言った。夫の声を耳にすると、フロイは茫然自失の状態から抜け出し、煙の中をゾンビのように、夫のあとについていったのだという。
    夫と二人で航空機の左側にあいた穴から飛び出す直前に、フロイは振り返って友人のロレイン・ラーソンを見た。彼女は口をわずかに開け、両手をひざで組み合わせて、前方をまっすぐに見ながら、ただそこに座っていた。ほかの数十人と同様に、彼女も衝突ではなくその後に発生した火事で死亡したのだった。
    高層ビルとは異なり、航空機の脱出は急を要する。航空機は、たとえ出口が半分しか使えなくても、通路にバッグが散らばっていても、乗客全員が九十秒以内に脱出できることになっている。後に判明したことだが、パンアメリカン航空ボーイング747の乗客には、機体が炎に包まれるまでに逃げる時間が少なくとも六十秒はあった。だが搭乗していた三百九十六人のうち三百二十六人が死亡している。KLMの犠牲者も含めると、最終的に五百八十三人が亡くなった。テネリフェ北空港での事故は、今も史上最悪の航空機事故であることに変わりはない。
    テネリフェ島で航空機事故があった当時、心理学者ダニエル・ジョンソンは米国の航空機メーカー、マクダネルダグラス社で安全に関する研究をしていた。彼はこの麻痺行動に強い関心を持った。ほかの航空機事故でも同じような行動が見られたのである。フロイとポールのヘック夫妻はもう二人とも亡くなっている。だが事故の二、三ヶ月あとに、ジョンソンは二人にインタビューしていた。そして重要なことがわかった。事故の前に、ポールはふつうの乗客はまずしないことをしていたのである。離陸までずいぶん手間取っていた間に、彼はボーイング747型機の安全図をじっくり見た。さらに最寄りの出口を指し示しながら妻と一緒に機内を歩きまわるということさえしていた。八歳のとき劇場で火災に遭ったことがあるので、それ以来、なじみのない場所ではつねに出口を確認していたのだ。これは偶然なのかもしれない。だが飛行機が衝突したとき、ヘックの脳には行動を起こすために必要なデータが入っていたことも考えられる。
    国家運輸安全委員会の調査で、安全のしおりを読んだ乗客は、非常時に怪我をする可能性が少なくなっていることがわかった。 テネリフェでの事故の三年前にアメリカ領サモアパゴパゴで起こった航空機事故では、乗客百一人中死亡したのは五人だけだった。生存者は全員、安全のしおりを読み、指示に耳を傾けていたと報告した。彼らは翼の上方の出口から脱出したが、死亡した乗客はより危険な状態だったのに従来使われていた出口のほうへ向かったのだ。
    準備に次いで、二番目に期待されるのはリーダーシップである。最近、十分な訓練を受けた客室乗務員が避難時に乗客に向かって金切り声を上げるのは、一つには指導力を発揮するという理由がある―――ポール・ヘックが妻に対してしたように、乗客の知覚麻痺状態をさえぎるのである。そうしなければ、扁桃体は積極的にフィードバック・ループのような働きをする。つまり恐怖がさらなる恐怖へとつながっていくのだ。コルチゾールやその他のストレス・ホルモンは扁桃体に戻り、恐怖感はさらに強くなる。 恐怖が激しくなるほど、海馬その他の脳の部分が反応に介入し、再調整できる可能性は少なくなる。「扁桃体はどんどん活動し続けるだろう」と、脳の専門家ルドゥーは言う。「それに打ち勝つ何らかの方法がなければ、身動きがとれない状態になってしまう」
    麻痺している動物をそのほんやりした状態から抜け出させるには、大きな音を立てるのがいちばん簡単だということを、ギャラップは発見した。ドアがバタンと閉まる音などは効果的で、動物はびくっとして逃げようとするはずだ。こうしたことが偶然、実験室で起こることもある。研究者のくしゃみや、車のバックファイアなどでだ。 「何らかの急な変化がその麻痺反応を終わらせる」と、ギャラップは言う。さもなければ、動物たちは何時間も催眠状態のままでいる可能性もあり、そのようにして死ぬことさえある(麻痺状態にあるマウスの約三十パーセントから四十パーセントが、実際に死ぬことをギャラップは発見した。死因は心停止と推定される)。麻痺反応は非常に強力なので、「死んだふりをしている」と本当に死んでしまうこともあるのだ。

(p302)

 

ポール・ヘックさんの行動を見習いたい。劇場で火災に遭った経験が身を守るためにしっかり活きています。一緒に飛行機に乗っていた友人は何もせずに座っていたというのだから、非常時に正常性バイアスが良くない感じで働いてしまうことが分かります。

出口を指し示しながら機内を歩き回るというのもすごい。飛行機に乗ったら安全のしおりはちゃんと読もうと思います。

 

 英雄を心理分析する

 

 過去二十五年にわたって、社会学者サミュエル・オリナーと彼の妻パール・オリナーは、四百人以上の英雄として記録されている人たちー-全員がホロコースト [ナチスによるユダヤ人大量虐殺]の間に命を賭けてユダヤ人を救った――にインタビューしてきた。 オリナー夫妻はまた、同じ時代に同じ国に生きていたがだれをも救わなかった七十二人の人々にもインタビューした。夫妻は考えうるかぎりのあらゆる質問をした。 子供の頃、あなたのお父さんは何かの政党に所属していましたか? あなたはどんな宗教団体に加入していましたか? あなたの小学校にユダヤ人が通っていましたか?
大多数の人々はたまに見かける人間の善行に驚嘆することで満足しているが、オリナーは英雄を体系的に詳細に分析して一生を送った。彼が十二歳のとき、ナチスが家族を連行しにきた。一家はポーランドのボボーヴァにあるユダヤ人ゲットーに住んでいた。 実の母親は五年前に結核で亡くなっていたが、そのときは継母が一緒にいて赤ん坊の妹を抱いていた。ドイツ兵がトラックを止め、ユダヤ人は出てこいと大声で叫びはじめると、彼女は義理の息子の目をじっと見つめた。そして自身に迫りつつある処刑にうつろになりながらも、逃げなさいときっぱり言った。「おまえは逃げて生き続けるんだよ!」。そう言って彼をひと押しした。
 サミュエル・オリナーは逃げた。屋上に上がり、ほぼ丸一日、パジャマを着たまま、平らに寝そべりじっとしていた。そして子供が見るべきではない残虐な場面を目撃した。窓から放り投げられる子供もいれば、銃剣で突き刺された子供もいた、と彼は言う。ドイツ兵の声が聞こえなくなったあと、彼はそっと家の中に入って衣服を探しまわった。それからこっそりゲットーを抜け出し、通りをさまよいはじめた。ある農夫から聞いて、ゲットーに住んでいたユダヤ人は一人残らず射殺され、死体は共同墓地に投げ込まれ土をかけられたということを知った。
 まもなく彼は救われた。運命に見捨てられたときと同様、不可解ではあったが、今度は運命がオリナーをすくい上げ、抱きしめたのだ。彼は近くの村へ歩いてゆき、ある農婦の家の玄関をノックした。その農婦のことはよく知らなかったが、彼女が何年か前に自分の父親と一緒に学校へ通っていたことは知っていた。彼女、バルウィナ・ピークチは彼に食べ物を与え、新しい名前をつけてやり、主の祈りとポーランドの教理問答を彼に教えた。それから数キロ離れた農場で働く手はずを整えてやり、彼の様子を見にいつも息子を差し向けた。
 オリナーはこの女性のおかげで長生きしている。やがてアメリカに渡り、朝鮮戦争に行き、復員兵援護法に助けられて大学にも通った。そしてカリフォルニアのハンボルト州立大学の教授になった。「わたしは悪の悲劇を目の当たりにし、また理解しました」とオリナーはわたしに話してくれた。だが英雄的行為は……英雄的行為はそれよりも理解しがたい。彼はこの農婦が提示した謎を解明することに一生をささげた。ただ見守っているだけの人がいる一方で、なぜ一部の人々は他人を救うために命を賭けるのだろう?

    オリナーが発見したことは、いわく言いがたいものだった。「なぜ人々が英雄的行為をするのかについて説明することはできません。遺伝的なものでも性格でも文化的なものでも絶対にないのです」。だがまず、何が問題にならなかったかについて考えてみよう。信仰は違いをもたらしていないように思えた。オリナーの研究では、救助者と非救助者の双方の約九十パーセントが、子供の頃に宗教団体に加入していたと答えた(ほとんどがカトリック教徒だった)。もっと肝腎なことは、両方のグループが自分たち自身も両親も同程度に熱心な信者であると報告している点である。
    英雄の多くはそれぞれ異議を唱えることだろう。ビバリーヒルズ・サパークラブの火災で何百人もの命を救ったバスボーイ、ウォルター・ベイリーは、信仰のおかげで落ち着いた気持ちでいられたと信じている。「死ねばどこへ行くのか知っている人は、死をさほど恐れないという気がします」。これに反して、3便が墜落したあとポトマック川に飛び込んだ男性、ロジャー・オリアンは強い信仰を持っていない。彼の価値観は宗教的なイデオロギーと部分的に重なり合うが、それはどこかほかから家族、軍隊、多くのほかの影響から得られたものである、と彼は言う。
    政治も行動を予測する要素にはならない、ということがオリナーの研究でわかった。救助者も非救助者もともにそれほど政治に関心を持っているわけではなかった。しかしながら、救助者たちは概して民主的で多元的なイデオロギーを支持する傾向があった。
    非常に多くの英雄たちの発言には反するが、英雄的行為は単なる偶然の産物ではない、という結論がオリナーの研究によってもたらされた。救助者たちはしかるべきときに、ちょうどしかるべき場所にいたわけではない。ユダヤ人に起きていることを、よりよく知っている人たちが、より積極的に助けたというわけでもなかった。助けることによって直面している危険の度合いが減った人もいなかった。救助者が非救助者より裕福だというわけではないし、子供時代により多くのユダヤ人を知っていたわけでもなかった。
    しかし両者の間には重要な違いがあった。救助者のほうが両親との関係がより健全で密接である傾向があり、そしてまたさまざまな宗教や階級の友人を持っている傾向も強かった。救助者のもっとも重要な特質は共感であるように思われた。どこから共感が生じるのかを言うのはむずかしいが、救助者は両親から平等主義や正義を学んだとオリナーは考えている。子供の頃にしつけられたとき、救助者は道理を説いて言い聞かせられたのだろうと思われるが、非救助者は体罰を受けた可能性が大きかった。
    こういった理由はあるにせよ、おそらく英雄たちは可能なときには他人を助けなければという、止むに止まれぬ義務を感じるのだろう。「人の気持ちをつかみ、何かしなければと思わせるのは、心のなかに、魂のなかに、感情のなかにある何かである」と、オリナーは言う。この結論はほかの(数は少ないが)英雄的行為の研究結果と一致する。 英雄的行動をとる人々は、日常生活においても「助ける人」であることが非常に多い。 消防士や看護師、警察官などである。
    おそらくは訓練や経験の賜物(たまもの)であろうが、英雄はまた自分の能力に自信を持っている。極度のストレス下でも立派に振舞うほとんどの人たちと同様に、概して英雄は自分の運命を決めるのは自分だと信じている。心理学者はこれを「内的統制」と呼んでいる。

(p322)

 

どの生還者の話も興味深いものが多いですが、ここに出てくるオリナ―さんのエピソードがもっとも強く印象に残りました。

大虐殺からユダヤ人を救った人たちの親は、しつけとして「言い聞かせ」という方法を取っていたことが多かったそうです。

 

こしあんさんも、しつけの観点からオリナ―さんの研究について書かれています。

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有事に周りから感謝されるような模範的行動が取れるかどうかは置いておいて。

英雄的な行動が取れたのは信仰を持っていたから、という結論だったら、日本人としてはなんだかちょっと蚊帳の外みたいでがっかりしてしまいますが、家族との関係や、様々な友人を持っていることが関係すると言われると、少し希望が湧いてきます。

 

こうして世界各地で起こった天災や事故をみると、災害が少なく安全な場所は意外とないように感じます。

ただ、恐怖は準備をすればするほど制御できるということが分かり、少し安心感が生まれました。

生き残った人たちの考え方に寄り添うだけでも、得るものは大きいと思います。

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。