ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

外力を受け入れる柔軟さ。『負ける建築』を読んで

おはようございます、ゆまコロです。

隈研吾さんの『負ける建築』を読みました。


 切断から接合へ


 建築というもの自体が社会の敵なのかもしれない。公共事業、土建業界といえば悪の代名詞の扱いである。どうして、建築はこのように嫌われるのか。いつからこんなことになったのだろうか。問題は建築を取り巻くその周辺にあるのか、それとも建築といる存在自体になにか問題があるのか。 この素朴な疑問から始めてみたい。
 建築は確かに嫌われて然るべき、様々なマイナスを有している。まず大きいこと。われわれが日常的につきあう対象物の中で、これほど大きいものはない。大きさは建築の宿命でもあり、建築の定義そのものである。大きければ当然目障りである。さらに、建築を建てるサイド、たとえば建築の建て主(クライアント) や建築家は、多くの場合が目立つこと、目に付くことを目的として建築を作るわけであるから、一層大きくなる。あるいは実際以上に大きいと感じられる。結果、いよいよ目障りとなる。いよいよ嫌われれる。

 嫌われる次の要因は、物質の浪費である。建築は大きいから当然、大量の物質を使って建設される。途方もない物質の浪費である。地球資源は限られていて、底が見えはじめている。エネルギーも限られている。そんな時代に、このような巨大な浪費が嫌われないわけがない。
 さらに嫌われるのは、取り返しがつかないこと。 一度作ってしまったら、そう簡単に建築をなおしたり、取り壊したりはできない。簡単になおしたり、壊れるものは、そもそも建築とは呼ばれない。だから一度嫌な建築、気に入らない建築が建ってしまったならば、今後ずっと、それを我慢して暮らしていかねばならない。おそらくは自分の人生よりも建築の寿命のほうがよほど長い。当然、死ぬまで我慢しなくてはいけない。実際には、二〇世紀以降に建設された建築の寿命などたいしたことはないのだが、われわれにはそう感じられない。人間の繊細でひ弱な身体と比較した時、建築ははるかに頑丈で長寿なものに感じられる。人間の短命とはかなさを嘲笑しているようにさえ感じられる。だから余計に嫌われる。「建築の時間」の、この取り返しのつかないふてぶてしさが、嫌われる。
 三つの宿命。 建築が作られはじめて以来の、逃れようのない建築の宿命であった。しかし、世界という膨大なヴォリュームと比して、建築の絶対的ヴォリュームが無視できるほどに小さい時、三つのマイナスは逆に、建築の美点そのものであった。大きさ、浪費、長寿を求めて、人は建築を作ってきたのである。

(p2)


タイトルの「負ける建築」とは、社会や生活の変化にも不動の位置を占めたり、周囲の環境を支配し続ける「勝つ建築」ではなく、もっと弱く、環境等の諸条件を受け入れる建築のことだそうです。

大きいし、資源は消費するし、建ててしまったら取り替えしがつかないから、建築は嫌われる、という考え。建築家って、建築は素晴らしい、大好き!みたいなスタンスなのかと勝手に思っていました。もちろん、数多の建物を生み出してきた著者だからこそ、どんな時に壁が立ちはだかり、どんなことが人々から嫌がられるのか、分かりすぎるほど経験されての言葉なのだろうなということは想像できます。

でも、建築自体を「社会の敵なのかもしれない」、と思いながら建築に向き合う視点って、ちょっといいなと思いました。


海外の建築家は日本での仕事を求め虎視眈々としていたし、ゼネコンの資金を背景に加速する建築文化は、海外からも熱い注目を浴びた。 八〇年代の建築文化の背後にバブルがあったからといって、ここに花を咲かせた文化のすべてを否定しようとは思わない。すべての個性的な文化の背後には、それぞれに奇形的な社会的、経済的特殊性がある。こと建築文化に関していえば、経済のバブル的膨張と建築文化の隆盛の間には、いつの時代にも強い相関関係がある。しかし、にもかかわらず八〇年代の建築文化が今日すでにして色褪せてみえるのは、経済と同様に、その文化の本質がかさ上げにあったからである。たとえば、バブルが始まった時点ですでに権威を有していた海外の建築家が招かれて仕事をした。 すでに確立していたブランドが、建築という商品の価格のかさ上げに利用されたのである。もちろん、利用された建築家も、予算に余裕のある大規模な作品を実現する機会を得て、そのステータスはかさ上げされたわけであるが、ブランドがブランドらしさを逸脱することは決して許されなかった。マイケル・グレイブスは、マイケル・グレイブスらしいデザインをしなければ喜ばれなかった。その期待に応えられる建築家だけが海外から招かれ、毎回作品のデザインがドラスティックに変化するフィリップ・ジョンソンのようなタイプの建築家は敬遠されたのである。
 日本の建築家についても同様であった。バブル以前にステータス (ブランド)を確立し、作品の安定している建築家が設計者として好まれた。単に設計者として好まれただけでなく、そのようなステータスに対して、ゼネコンは積極的に支援活動を行い、結果としてそのような既成のステータスが海外での評価をも獲得し、ステータスのかさ上げが行われたのである。 デザインの領域においてさえフロー(現時点での実力)よりもストック(それ以前に積み上げてきたもの)が重要視されたのである。
 一九二〇年代のニューヨークも、八〇年代の日本と同じようなバブルに見舞われ、同じようにして不動産ブーム、建築ブームを経験したが、この時代には新しいコンセプトとともにたくさんの新しい建築家が登場し、また数々の建築的実験が行われた。たとえばロックフェラー・センターのような新しい形式の都市的複合体もこの時代の産物であり、その後の二〇世紀の都市建築物のモデルはほとんどすべてこの時代に用意されたといってもいい。それと比較すれば、日本のバブルがいかに既成の権威、既成のデザインのかさ上げだけに終始し、後世に対する提案、ヒントに欠如していたかが明らかになる。
 以上がバブルの解説である。またバブルの時代がなぜ同時に「建築の時代」であり「建築文化の時代」たりえたかの解説である。 建築の領域の外部(社会や経済)の状況 (バブル)から説きおこして、八〇年代の建築、都市を解説しようとすると以上のストーリ1になる。しかし、以上の「バブル論」だけでは、この時代の建築、都市の特殊性の半分しか語ったことにならない。

 もう片方とはすなわち、この時代のデザインの特質からバブル時代の都市と建築を論じる視点である。デザインという観点からみれば、八〇年代とはまさにポストモダンの時代であった。ポストモダンの建築とは何であったのか。なぜポストモダンの建築が八〇年代を支配し、バブルの時代と重複したのだろうか。
 世の中がマネーゲームに浮かれるだいぶ以前から、建築の世界ではポストモダンという用語が歩きはじめていた。一九七七年にチャールズ・ジェンクスによって書かれた「ポストモダニズムの建築言語」 (“The Language of Post Modern Architecture")がポストモダンという単語の流行のきっかけとなったが、実際には後々ポストモダンという言葉で括られるであろうムーブメントの登場は、一九六〇年代にまでさかのぼる。
 ロバート・ヴェンチューリによる「建築の複合性と対立性」 ("Complexity and Contradiction in Architecture", 1966) は建築におけるポストモダンのムーブメントの、最初のマニフェストであった。ヴェンチューリの著作は、過去の様式的建築物の写真と図版が大量に収録されていることで、まず人々を驚かした。様式的建築物は長い間、建築の世界では「禁句」に近い存在だったからである。
 二〇世紀初頭、建築におけるモダニズム運動が起こった。機能主義が唱えられ、「装飾は罪悪である」というスローガンとともに、一九世紀以前の様式的建築物はすべて批判され、否定された。装飾のない、単純な形をした白い箱のような建築が提唱され、そのような建築様式がモダニズム建築と呼ばれ、それ以降二〇世紀のほとんどすべての建築家がこの様式に従って創作を続けたのである。
 ではそもそも、なぜモダニズムは装飾を否定し、様式的建築を否定したのだろうか。ポストモダニズムを論じるにはまずこの設問から始めなければならない。この設問に対する解答は様々である。 職人的な手仕事にかわって、近代的な諸技術が登場し、その技術的な転換が建築表現の転換を招来したという説。一九世紀の折衷主義、すなわち様式の相対化現象が飽和し、その結果として零度の様式としてのモダニズムが登場したとする説など、様々である。
 それらの原因が重層して、モダニズムが生まれたには違いないのだが、多くの建築史家は「様式の生態学」にのみ目をうばわれ、モダニズムを生むにいたった「経済学」を見落としている。モダニズムを生み出した経済学とは、一言でいえばオフィスビルという経済学である。すなわち一九世紀にオフィスビルというビルディング・タイプ(建物の種別)が登場したことが、モダニズムの誕生のトリガーとなった。この重要な事実に歴史家や建築家の注目が向かわないのは、モダニズムの本来のルーツであるところの初期オフィスビルを設計した建築家達が、宣言もせず書きあらわすこともしなかったからである。モダニズムの主要な宣言、言説は、二〇世紀になって、実験的な小住宅によってデビューしたアヴァンギャルド建築家達の手によるものだったからである。

(p30)


多くの人に支持されればされるほど、建築家はその建築家らしい建築を作らねばならないという現実。ジレンマがありそうだと思います。言われてみればそんな気もするけど、そんなことを想像するのは初めてです。


民主主義(プレキャスト・コンクリート)が放棄され、メディアが選択されたのである。
 しかし(ルドルフ・)シンドラーだけは西海岸にとどまった。二つの見方が可能である。 シンドラーであるからとどまることができた。あるいは西海岸であるからとどまることができた。
 シンドラーは確かに二〇世紀を生きる建築家として、ナイーブすぎたのかもしれない。彼はほとんどメディアとは無関係に、建築を作り続けた。メディア映えする形態、メディア映えする空間というものを考慮することなく、建築を作った。それゆえ彼の傑作であるロヴェル・ビーチ・ハウス(一九二六年)は、一九三二年のニューヨーク近代美術館での「モダンアーキテクチュア展」に展示されることもなく葬られた。この展覧会は歴史を決定した展覧会と呼ばれた。ここに出品された作品が、自動的にモダニズムの代表作という認定を受けたからである。
 ロヴェル・ビーチ・ハウスの建築はピロティーで持ちあげられながら、そこにはコルビュジエサヴォア邸のような白い純粋形態が浮いているわけでもなく、ライトのようなヒロイックなキャンティレバーもなかった。ビーチの風が流れ込む、 一階の屋外スペースの快適さは、サヴォア邸のピロティーよりもはるかに見事な空間的解決であったとしても、到底写真では伝達不可能な性質の快適さであった。権威(たとえばニューヨーク近代美術館)を起点として、そこでお墨つきを与えられた二次元ヴィジュアルを一方的に配信すること。それが二〇世紀のメディア・システムの基本であったことを考慮するならば、メディア映えよりも民主主義を優先させたシンドラーの作風が、権威から評価されるはずもなかったのである。ニューヨーク近代美術館が彼を呼ばなかったのは偶然ではない。二〇世紀の権威は、絶えず民主主義の側にではなく、メディアの側に荷担したのである。
 そのシンドラーを支えたのは西海岸という、特殊な場所であった。西海岸は、民主主義にとって、甘くやさしい苗床だったのである。そこには、民主主義という危うく、頼りないシステムの有効性を錯覚させるだけのやさしさがあった。ひとつの秘密は密度である。シンドラーの自邸が、延々と続く豆畑の中にぽつんと立っていたように、西海岸では人も物もすべてが低密であった。 すべての個人が自由に振る舞いながら、しかもそこに、おのずから調和が生じるという予定調和的幻想を与えるやさしい密度。
 もうひとつの秘密は温暖な気候風土である。 コンクリート・ブロックをひとつずつ積みあげていく程度のプリミティブな技術で建築を作りあげることができるという幻想。

(p124)


ロヴェル・ビーチ・ハウスの建築はこの本で初めて見ましたが、確かにちょっとサヴォア邸に似てますね。ロヴェル・ビーチ・ハウスのほうが5年も前に建てられているので、似てると言ってはいけないのかもしれませんが。

https://www.houzz.jp/ideabooks/90935074/list

「まれに見学日あり」とあります。

この建物からビーチはどんなふうに見えるのか、見てみたい。


キャンティレバー」とは、1階より2階が張り出していて、柱がなく、まるで2階が浮いているようにも見える建築構造のことらしいです。


かくして東京のクレーン群の乱立が生まれた。公から私への転換のひとつの特異点にわれわれは生きているのである。そしてその特異点の産物である巨大なヴォリューム。そのデザインを行う主体は、いまだになぜかブランドである。有名ブランド建築家が「お約束」のデザインを反復する。なぜまだブランドなのか。
 プロジェクトの巨大さが、またしても意味を持つ。巨大であることによってプロジェト自身が公的性格を帯びる。一方資金調達は自由化が進み、「私」化が進んだ。このギャップを埋めるためにブランドが必要とされるのである。数多くの「私」を納得させるための最も安易な方法は、すでに社会的信用を確立したデザイン、すなわちブランドを反復することである。 不動産会社、銀行、生保……、プロジェクトが大きくなればなるほど、多くの企業グループがプロジェクトに参加する。参加する主体の数がふえればふえるほど、既知のブランドの反復でしかコンセンサスは得られない。当のブランドのほうとしても、大衆が期待する「お約束」をたがえるわけにはいかない。しかも、多くの仕事が世界じゅうから集中すれば、個人の発想力には限界があって、いかにクリエイティブなブランド建築家でもかつての自分のデザインの反復という安易な方法に傾斜する。建築から創造性が消えていく。特にその場所、その場所の微妙で多様な条件をリスペクトしながら、ひとつずつユニークな解答を出していくようなねばり強いクリエイティビティーは消滅していく。建築とは本来がブランドの反復ではなく、個別で一回限りの解答の積み重ねだったはずである。それが建築と商品との差異であったはずである。
 これが、今日の建築家をめぐる第二の危機である。建築のブランド化のはてに、建築という存在自体に社会が幻滅する日が待っていないとも限らないのである。
 しかし、最大の危機はブランディングの、さらにその先にある。それぞれの「私」は、ブランド建築から、すでに覚めているのである。 都市再生の大プロジェクトの資金調達に悪戦苦闘する企業人達は、いまだにブランドに依存する。しかし、プロジェクトという公的な現場とは縁のない等身大の「私」達は既成のブランドに頼らずに、自分の建築を、自分で考え、自分自身の手でデザインしたいと思いはじめているのである。
 手軽なところ、身近にある小さな建築からこの波は起こっている。自分の家は自分でデザインして、自分で作りたいと「私」が思うのはきわめて自然だからである。「私」化がいきつくところは、そこしかない。世界から閉じた「私」の城を作るという形でスタートした「私」化の大きな流れは、いつかこの地点、すなわち設計主体の「私」化というところにたどりつく運命にあった。一般誌における建築ブームの根底にあるのは、この願望である。建築ブームゆえの建築家の危機とはその意味である。これら一般誌の建築特集に登場する建築家達は揃いも揃って、いかに自分が専制的な独裁者ではなく、人畜無害の羊のようなコラボレーターであるかを強調する。

(p198)


都心に屹立する摩天楼や、郊外に建ち並ぶ一戸建て住宅群など、周囲の環境を圧倒する二〇世紀型の「勝つ建築」は、その強さゆえに今や人びとに疎まれている、というのが隈研吾さんの主張なのですが、限りある資源を消費して、なおかつ作ってしまったら簡単には元の状態に戻せない、ということに、私たちはどこかで疲れてきているのかもな、と思いました。

自分の好みの家に住んだり、豊かな自然の中で生活できたらいいな、と考えるのは、もっと柔らかくて、自然と調和した建築を好んでいる、という証拠なのでしょう。


去年の暮れに鳥取砂丘へ行った際に入ったカフェが隈研吾さんの建築と知り、本書を手にとってみました。

建築用語に詳しくないこともあって、大学のテキストみたいでなかなか難しかったです。


kkaa.co.jp


「空へ登る階段」、登りたかった…。

私が訪れた日はこんな風景でした。

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屋上のオープンテラスは、今日は立入禁止です、と言われてしまった。そりゃそうだよね。

2階の室内は、こんな感じ。

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降雪の日に、ソフトクリームを食べる。

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可愛いウォーターサーバー

部屋に置きたい。

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砂丘は雪が積もりすぎてて、スキー場のようにしか見えませんでした。

ラクダを見るのは断念して、砂丘会館の少し先にある、砂の美術館でエジプト展を見ました。

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ラブリーなねこさん(バステト)。


最後まで読んでくださってありがとうございました。