ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

自分さえ良ければいい、からの脱却。「「頭のゴミ」を捨てれば、脳は一瞬で目覚める!」を読んで

おはようございます、ゆまコロです。

 

苫米地英人さんの『「頭のゴミ」を捨てれば、脳は一瞬で目覚める!』を読みました。

断捨離という言葉が好きな私。

「頭のゴミ」ってなんだろうと思って手に取りました。

 

 一流企業の不満社員

 あなたのまわりにもこんな人がいるでしょうーー名前を言えば誰でも知っている有名企業に勤めて、ほどほど遊ぶには困らない給料をもらっている。年収を人に言えばうらやましがられることもある。クルマもある。わりといいスーツを着ている。家には新機種の家電がそろっている。しかし、いつもどこか満ち足りない顔をしている。充実しているようには見えない。転職したいと言っているが踏みだせない。人生に迷いがあるーーそれはあなたかもしれませんね。
 他人がうらやむ会社に勤めて、そこそこのお金があり、欲しい物をあれこれ買っても、満たされない理由。
 それは、手に入れてきたものが、本当に求めてきたものではないからです。
 他人の刷り込みでできた自分が、他人に刷り込まれたものを受け入れてきたにすぎないからです。

 

  メディアや他人を見て「欲しいなあ」「あんなふうになりたいなあ」とそれを求めるということは、自分が自分であることをやめて、他人の思いどおりに生きるということです。他人のモノサシで他人がヨシとする人生を生きていたら、そりゃあ頭の中だってモヤモヤします。当然ですよね。

  別に他人と同じものを求めてもいいのです。それであなたがいいのならば……。

 でも、もし本当に頭のモヤモヤを消してクリアな頭で生きていきたいのなら、他者からの刷り込みによって操られたままでいいのか、自分はいったい人生で何を求めているのか、ちゃんと考えた方がいい。

(中略)

 欲しいものが例えば「クルマ」だった人。なりたい理想像が例えば「経営者」だった人。いいクルマを手に入れて、イメージの中のかっこいい経営者になって、願望はそれで終わりですか?

  本音はどうですか?偉くなって、金持ちになって、いいクルマに乗って、いい服を着て、みんなからチヤホヤされたい。豪邸も欲しい。別荘も欲しい。自由が欲しい。みんなからうらやましがられる物を持ち、みんながうらやましがる地位を得て、思いっきりみんなからチヤホヤされたい……。

  それが本音ではないですか?

「クルマ」や「経営者」は、その本音を象徴するアイテムにすぎない。「みんなから思いっきりチヤホヤされたい」という本音が自分の「理想像」だなどとは認めたくないから、ていよく「クルマ」や「経営者」と書いたのではないですか?

  最初に自分が「何が欲しいか」「どんなふうになりたいか」を自問するワークは、自己啓発書や自己啓発セミナーの定番メニューです。

(中略)

 もう一度お聞きします。

 あなたの「欲しいもの」「理想像」はどんなものですか。本音で答えてください。

 書くのが恥ずかしかったら、書かなくても構いません。

 本音の「欲しいもの」「理想像」を頭の中で膨らませてください。

 そしてその想像で思いっきり遊んでください。脳内にドーパミン(運動や学習をつかさどる神経伝達物質)がドバドバ出るくらい、臨場感を持って想像してください。本音の願望を思いっきり自由に鮮烈にイメージしているとき、頭の中のモヤモヤは晴れているはずです。

(p62)

 

他人がうらやむ企業に勤めていて、不満を漏らしている社員の知人はいませんが、お話はよく分かります。

しかし、こう言われると、「欲しいもの」「理想像」って難しくないですか。

「欲しい物をあれこれ買っても、満たされない理由。
それは、手に入れてきたものが、本当に求めてきたものではないからです。」

なにはともあれ、大きな買い物をする前の自分に、ぜひ思い出してほしい言葉です。

 

 自らを拠り所にせよ

 

 本当にやりたいことをやって生きていくには、高いエフィカシー(efficacy、自分の能力に対する自己評価のこと。自己効力感と訳される。自尊心という言葉が近い。ゆまコロ注)を維持していくことが必要です。

  そのためには誰に何を言われてもブレない高い自己評価とエフィカシーが必要です。しかし他人はそこへ悪意であれ善意であれ攻撃を加えてきます。

  あなたの自己評価を下げる相手は「ドリーム・キラー」(夢を潰す人)です。

  あなたの周囲はドリーム・キラーで溢れています。

  あなたが心から望むゴールを持ち、それを他人に話そうものなら、「そんなのできんの?」「食っていけるの?」「応援したいけど、心配なんだよ」と、必ず誰かが夢を潰すような発言をし、あなたの自己評価を下げにかかってきます。

 ドリーム・キラーを撃退するいちばんの方法は、夢を他人に話さないこと。釈迦が言った「自帰依自灯明(じきえじとうみょう)」、つまり「自らを拠り所にする」のです。「今ここにいる自分」を拠り所とし、自己評価とエフィカシーを自分で決めていくのです。

(p116)

 

 本当にやりたいことをやって生きていくには「夢を他人に話さないこと」。

夢を紙に書いて目のつくところに貼ったり、口にしたりする方法をとるほうが現実味を帯びてくるような気もしますが、これは少し意外な感じがしました。 

 

「have to」で組織力もダウンする


 あなたの職場の人たちを思い浮かべてみてください。 「やらされ感」と我慢で毎日働いている人が少なくないのではないでしょうか。

 その人たちの頭の中を想像してみてください。
「人生とは我慢の連続だ」
「やりたくないことをやってこそ、辛抱を覚えてこそ、人間は成長できるのだ」
「大人とはそういうものだ」
 そんな考え方が"常識"となっていて、あなたも上司からそんなセリフを言われたことがあるかもしれません。
 しかし、本当にそうでしょうか?
 やりたくないことをやって、人間は成長できるのでしょうか。
 「成長」の定義によって答えは異なるところですが、「その人の潜在能力を最大限に発揮していく過程が成長である」と考えるなら、「やりたくないことをやって成長できる」なんて大ウソです。 強制的動機でパフォーマンスを上げられないのは先ほど見たとおり。
 「人間は我慢で成長する」というセリフをあなたに言う人がいたら、その人自身がやりたくないことをやって人生の大半を浪費してきたからです。 自分の我慢だらけの人生のモノサシを、あなたに強制しているだけです。
 あなたの会社を思い浮かべてみてください。
 社員の大半がやりたくないことを嫌々やっていて、組織のパフォーマンスは良好でしょうか。
 日本の組織を見ていると、「やりたくないことを嫌々やる代わりに、責任はとらないよ」とみんなが言っているように見えます。
 日本の組織について「責任の所在が不明確」といわれる理由の一つは、「我慢してやる代わりに責任は取らない」という考えが常識になっていることです。
 「オレだって安月給で我慢してやってんだから、責任まで取らされてたまるかよ!」というマインドです。
 みんなが嫌々仕事をやり、誰も責任を取ろうとしないのですから、組織のパフォーマンスが下がって当然です。 「ねばらない」 (have to) は、個人のみならず、当然ながら組織のパフォーマンスも低下させます。

(p126)

 

「日本の組織について「責任の所在が不明確」といわれる理由の一つは、「我慢してやる代わりに責任は取らない」という考えが常識になっていることです。」

なるほどなと思いました。毎日毎日仕事をしているのに、みんながこんなマインドでは当然成長も何もあったものではないと思います。

個人的にも、日々の業務にそこまでの「やりたくない」感は抱いていませんでしたが、生産性が上がらないと感じたり、非効率に思える部分があるのは、「やらされ感」も関係しているのかなと思いました。

 

「やりたいこと」を見つける近道

 

 「やりたいことが分からない」「自分が本気になれそうなことが見つからない」と言う人がいます。なぜ、やりたいこと、自分が本気になれることが見つからないのか。その理由をズバリ言うと、「自分中心に考えているから」です。
「自分は何をやりたいんだろう?」
「自分は何を本気で好きなんだろう?」
 いわゆる「自分探し」の人たちの自問の世界には、自分しかいません。他人がいないのです。
「やりたいこと」を探す人たちは、幸福感のようなものを求めて「本気になれるもの」を探しているのでしょう。 しかし、くり返して言うように、人間の幸福とは自分だけのものではありません。他人が幸福になってこそ自分の幸福なのです。それなのに、「自分は何をやりたいんだろう?」と自分だけの世界で自問していては、本気になれるものが見つかるはずがないのです。

「やりたいことが分からない」と言う人に、私はこんな視点をおすすめします。 「自分が何をすれば他人が喜ぶだろう?」という視点で考えるのです。 実は、それが 「やりたいこと」を見つける近道なのです。
 自分が本気になれるものが分からない人でも、自分がしたことで他人が喜んだという経験はあるはずです。
 例えば、もしもあなたがスイーツ男子”なら、いろんな人のためにスイーツを本気で手づくりしてみる。そうして多くの人に喜んでもらうことで、あなたの前頭前野眼窩内側部が発火して、「みんなの幸せが自分の幸せ」だということを体感できます。 他人を幸せにして前頭前野眼窩内側部が発火するたびに、あなたの抽象度は確実に上がっていきます。
 あるいは、「君に話を聞いてもらうと、考えが整理できてありがたいよ」と他人から言われるタイプの人がいます。
 そのタイプの人は、人の話を聞いて情報整理するのが上手なのです。
 例えば、会社の同僚が提案書や報告書をつくるのに手間取っているなら、話を聞いて、情報を整理して、書類作成を手伝ってあげると喜ばれるはずです。

(p150)

 

この「やりたいこと」を知るために、「自分が何をすれば他人が喜ぶか?」を考える、という発想がすごくしっくりきました。それをすることによって喜んでもらえるのだから、自分が秀でた能力である可能性は高いわけです。

 

 全体が分かることで部分が分かる


 順を追って考えるということは、常に部分にフォーカスしているということです。 「歩く」という動作を例にしましょう。
 歩くという動作を順を追って説明しようとすると、「右足裏が地面から離れ、重心が左足に移動し、右足が前に運ばれ、そのとき膝関節が曲がり………」という具合に、順番に部分にフォーカスしていくことになります。しかし、実際の歩くという動作は、体の各部が互いに連動し合いながら全身が同時に動いているのです。ですから順を追って部分にフォーカスしていては、歩くという全身の動作を正確に理解したり記述したりすることはできません。
 このように、現実の事象は、全体が部分から成り立っているだけでなく、全体と部分が双方向的に関係しています。したがって、部分を順に追うだけでは全体は分かりません。全体が分かることで部分が分かるのです。
 「全体が分かることで部分が分かる」とは、つまりこういうことです。
歩くという動作の場合、足首の動き、膝の動き・・・・・・と各部分だけを見ていても、その人が歩いているのか、あるいは片足を前に出してボールを投げようとしているのか分かりません。部分を見ているだけでは各部の動きの意味・意図が分からないのです。
 しかし、全体を見て「歩いている」ことが分かれば、足首や膝が「歩くために曲がっている」のだと分かります。
 これが、全体が分かることで部分が分かるということです。
 もっと分かりやすい例を出しましょう。言語も全体が部分から成り立っているだけでなく、全体と部分が双方向的に関係しています。
 例えば、「くもが見える」と聞いたとき、その「くも」が 「蜘蛛」 なのか、 「雲」なのかは分かりません。
 しかし、「くもが見える。向こうの山の方に」と言われたら、「雲」だと分かります。
 「くもが見える。向こうの山の方に」という全体が分かってはじめて、「くも」が「雲」だと分かる。
 つまり、全体が分かることで部分が分かるのです。
 しかし、このようなことが明らかにされたのはつい最近、1980年代半ばにポストモダニズムが登場して以降のことです。
 ニュートン古典力学を確立した17世紀から1980年代半ばまで、「部分が全体をつくる」という考え方がスタンダードでした。いわゆる構造主義の考え方です。
 つい最近までのおよそ300年もの間、「部分が全体をつくる」という考え方がスタンダードだったため、人々は今でも「部分が全体をつくる」「部分を順に見ていけば全体が分かる」「部分を順に追っていけば答えが分かる」という考え方にとらわれています。
 しかし、実際は違うのです。全体が部分から成り立っているだけでなく、全体と部分が双方向的に関係しており、全体が分かることで部分が分かるのです。
 この全体と部分との双方向の関係を「ゲシュタルト」といいます。そして、ゲシュタルトによって事象を認識する能力を「ゲシュタルト能力」といいます。

 

 頭のゴミが多い人は部分の迷路に迷い込む


 ここで念のために言っておきますが、私は論理的思考力そのものを必要ないと言っているのではありません。順を追い筋道を立てて考える論理的な思考力はもちろん必要です。
 それは思考力の基礎です。また、人に話すときはなおさら論理的な構成力が不可欠です。
 ただし、本当に頭のいい人は、必要に応じて論理的な構築力を使い、また必要に応じて論理を超えることができます。論理と不即不離の関係を保ち、論理にとらわれるということがありません。
 例えば、論理性に欠ける話を聞いてもちゃんと自分の頭で論理的に整理し、論理的にフィードバックする。

(p198)

 

部分と全体の話、面白いです。

「「部分を順に見ていけば全体が分かる」「部分を順に追っていけば答えが分かる」という考え方にとらわれています。
 しかし、実際は違うのです。全体が部分から成り立っているだけでなく、全体と部分が双方向的に関係しており、全体が分かることで部分が分かるのです。」

 ほんとこれ、いつまで経っても理解できないものを、手法もわからないまま勉強をしていた頃の自分に言って聞かせたい、と思いました。「木を見て森を見ず」のような、無闇矢鱈なやり方をしていたこと、結構あるな、と思い出しました。

 

「人に話すときはなおさら論理的な構成力が不可欠です。」

いろいろな情報をインプットされておいて論理的にフィードバックできない自分…、これも時々痛感します。自分「頭のゴミ」、溜まってるね〜と思った部分です。

 

 震災直後に発揮された互助精神はもはや薄れつつあるようです。そうして再び、少なからぬ人々が、個人的な悩みと自分のための欲望で頭を一杯にし、煩悩でみずからを苦しめてしまっているようです。
 しかし、人間は自分のためだけに生きていては幸せにはなれません。自分以外の人のために行動してこそ人は幸せになれるものです。
 悩みや不安や怒りで頭がモヤモヤしているのなら、今すぐ試しに、身近な誰かを喜ばせる小さな行動をしてみてください。同僚が仕事のトラブルを抱えているなら、一緒に問題を解決してあげましょう。電車の座席を譲ったり、家族にプレゼントを買って帰るのもよいでしょう。 あなたの行動で誰かが喜ぶのを見るとき、あなたの頭のモヤモヤは消えるはずです。
 誰かのために行動すること。それが、あなたが頭のゴミを捨て、幸せな人生を生きるために欠かせない一歩です。
 他人のために行動する喜びを知ったなら、次はより多くの人々のために行動してください。より多くの人々のためになるゴールを掲げ、その仕事に本気で人生を捧げてください。
(p219)

 

「あなたの行動で誰かが喜ぶのを見るとき、あなたの頭のモヤモヤは消えるはずです。」自分の悩みと関係ないことでも、自分がなにかしたことで他人が笑顔になると、心が軽くなったように感じることがありますが、不思議だなと思っていました。情けは人の為ならず、ということなのでしょうか。

 

 仕事とは自分の機能を社会に提供すること
 

 多くの人の悩みを聞いていると、その大半は仕事に関するものとなっている。いわく、「自分のやりたいことがやれない」「やりたい仕事ではないが、生活のために仕方なく続けている」。こういったことが原因となって悩みは発生する。しかし、これらの悩みは、仕事とファイナンスのゴールを一緒にしているから起きるのである。
 多くの人は仕事がどういうものであるかを誤解している。 例えば、趣味と実益を兼ねた仕事をしたい、などという言葉がそれを端的にあらわしているが、仕事をして、お金を貰おうというのはかなり虫がいい話なのである。
 「いや、ちょっと待ってくれ。 仕事で収入を得ようとしないで、どこから収入を得るのか?苫米地は一体何を考えているのか?」と疑問に思ったり、憤ったりする人もいるだろう。
 しかしだからこそ、私は仕事とファイナンスを分けろと言っているのだ。多くの人はそれをしないから悩んでしまうのである。 「いまの仕事にやりがいはない」「給料を貰うために仕方なくやっている」そんなボヤきが出てしまうのだ。
 そうではなく、仕事とはあくまで自分の機能を社会に提供すること。これを胸に刻んでおけば、仕事で悩むということはありえないのだ。

 

 本来、仕事で悩むことはありえない

 

 結局、仕事でお金を稼ごうと思うから問題が生じるのだ。
 仕事の第一義は、自分の機能を社会に提供することであって、お金ではない。ただし、社会に機能を提供すれば賃金が普通に発生するため、その発生した賃金は別に断る理由はないから受け取る。これが仕事とお金の関係だ。要は、機能を提供することが主であり、お金は第二義的なものなのである。
 ところが、現実を見れば、お金を第一義に考えて働いている人があまりにも多い。(中略)
 そもそも、やりたくもない仕事をなぜやっているのか?
 その理由は、仕事で金を稼ごうと思っているからだ。しかし、本質はそうではない。「自分の機能を社会に提供」するために「会社を利用」しているのだ。それをわかっていないから、仕事に対する不平不満が生まれるのである。
 会社は金儲けの場所でもなければ、自己実現の場所でもない。どこまでいっても自分の機能を提供するために必要な場所というだけなのだ。
 これがわかれば、会社に対する過大な期待もなくなるだろう。

 そして、自分がその会社で何をし、何をするべきでないかも自ずとわかってくるだろう。
 つまり、会社に所属する上での自分の第一義がわかれば、悩みという頭のゴミはあっという間に片付くのである。


 ファイナンスのゴール 


 では、ファイナンスはどうすればいいのか?という疑問が湧いてくるだろう。 実はファイナンスは金儲けのことではなく、出と入りのバランスを整えることが主題となる。 入りよりも出のほうが多ければ、生活は破綻するのは必定であるから、出を抑えることを誰もが考えるだろう。その後に入りを増やすための手段をこうじるわけだが、そのためには新たなゴールが必要になってくるのだ。つまり、何のためにお金を必要とするのか、将来自分がどうなりたいのかを具体的なビジョンを想像することによって、入りを増やすための道が見えてくるのである。
 具体的な稼ぎ方の話については、この紙数で説明するには無理があるので、私の他の本を読んでほしいのだが、要はゴールの設定をしっかり行うことで見える世界が変わってくるのだ。スコトーマ(心理的盲点。見えているはずなのに、見えないこと。ゆまコロ注)が外れ、これまで目の前にありながら見えなかったものが見えてくると、その瞬間に稼ぎ方がわかってくるのである。
 つまり、ゴールがすべて。
 自分のゴールがしっかり見えるようになることが、いま以上に稼ぐための最良の方法なのである。


 すべてはゴール


 そして、そのゴールとは、1つではいけない。仕事のゴールだけというのはもってのほかであり、さきほど紹介したように、趣味のゴールであったり、近所のコミュニティのためのゴールのようなものも持つべきだろう。
 多くの人は、仕事のゴールのほかではファイナンスのゴールや家族のゴールぐらいでいいだろうと思ってしまいがちだが、それだけではもったいないのだ。趣味や社会貢献、ボランティアといった、自分の中では重要度が低いものこそ、明確なゴールを作り、行動することをお勧めしたい。
 それというのも、ゴールの明確なビジョンを思い描くことは、ほかのゴールのスコトーマを外す手助けにもなるからなのだ。
 それはそうだろう。ゴールを明確に思い描くためには実際にその現場の様子やゴールを取り囲むさまざまな環境、現状を知らなければならない。具体的に言えば、小学生になる自分の子供の足を速くしたいと思った場合、速い走り方の本を読んだり、器具やシューズの知識も必要だろう。 陸上のクラブチームに入れたいと思えば、通える範囲にクラブがあるのか、など新たな知識がいくらでも必要になってくる。また、子供にモノを教えるという、初めての経験だってするだろう。思った以上に出来ない子供を見た時、自分は何を思うのか? 苛立ちなどが湧き上がり、怒鳴りつけてしまうことだってあるだろう。すでに克服したつもりになっていた自分の欠点と改めて向き合うことだってあるはずだ。
 新しいゴールの設定は、それまでなかなか見つけることができなかったスコトーマに気づく、いいチャンスでもあるのだ。
 だからこそ、ゴールは多いほうがいいのである。
(p242)

 

仕事で悩むことはありえないってどういうことよ?とツッコんでしまいそうになりますが…。

「仕事とはあくまで自分の機能を社会に提供すること。これを胸に刻んでおけば、仕事で悩むということはありえないのだ。」

会社での自分の最も大事な根本的な意義…。確かにここがグラグラしていると、いろんなことでいつまでも悩んでしまいそうです。しかしこれを突き詰めて考えれば、どんな業務の悩みも吹っ飛ばせるようになるのか?いまいちまだ自分の中で納得できない部分でもあります。

 

「趣味や社会貢献、ボランティアといった、自分の中では重要度が低いものこそ、明確なゴールを作り、行動することをお勧めしたい。」これはちょっとわくわくしました。

 

ゴミを取り除くことと、複数ゴールの設定へ。

忘れずに実践していきたいと思います。

最後まで読んでくださってありがとうございました。