ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

対局の人の立場に立ってみる。『自転しながら公転する』を読んで

おはようございます、ゆまコロです。

山本文緒さんの『自転しながら公転する』を読みました。


 娘が温泉へ行った日、夫から定時で帰ってくるとメールが入ったのでしぶしぶ台所に立った。
 夫がインターネットで探してきた、具材が切ってあり、炒めるか煮るかするだけの惣菜キットは、メニューを考えて買い物に行って下ごしらえして、という手間がない。それなのにちゃんと料理をした気になるので最初は感動した。けれど続けて食べているとメニューも味も画一的で飽きてしまった。何も言わないが夫もきっとそう思っているだろう。
「都は仕事か?」
 向かい合ってダイニングテーブルに座り、テレビを横目に食事をしていると夫が言った。
「お友達と温泉旅行だって」
 ぴくりと夫の瞼が震える。きっと夫も、そのお友達というのが異性であると気が付いているのだろう。
「温泉なんてずいぶん行ってないわね」

「そうだな」

「温泉って、行ったら行ったで意外と暇よね」
「そうだな」
 椀に残った味噌汁を飲み干し、夫は立ち上がって自分の食器を片付けだした。そしてソファへ移動し新聞を広げる。うしろからずいぶん薄くなった後頭部を眺める。
 年をとったな、と思う。 同じだけ年を取った。 それだけは平等だ。
 夫とは親戚の紹介で知り合った。 製薬会社に勤めているという彼はいかにもインテリで、 その頃の好景気の空気とは一切関係ないようなもっさりしたスーツを着ていた。まだ学生のような、青臭さのある人だった。
「僕はモテないので、女の人とどういう話をしたらいいかわからなくて」
 そう言って頭を掻いていた。そして桃枝が着てきた着物を控えめにほめてくれた。
この人でいいじゃないか、というより、こんなうまい出会いはこの先はないのではないかと桃枝は思った。恋愛が苦手で、それまで男の人とほとんど付き合ったことがなかった。短大に入ってすぐ、流行りはじめた合コンというものに行って、近づいてきた男性と付き合ってみたが、三か月ももたなかった。
 将来結婚はしたい、子供もほしい。それにはまず恋愛というハードルを越さなければならないのかと途方に暮れていたので、親戚の紹介というほとんど見合いに近い出会いなら、それほど恋愛的な行事をこなさなくても結婚に持ち込めると思った。
 そして驚くほどスムーズに結婚した。 専業主婦になって、すぐに子供も出来た。
 どこにでもある話、というより、かなり幸運な話なのだと桃枝は思った。
 しかし、最初に会った時の「僕はモテないので」という夫の台詞が別に謙遜ではなかったと数年のうちにわかった。これはモテないわと思った。
 どことなく偉そうなのは、自信のなさの裏返しだとわかった。圧迫してくるくせに甘えてくる。
 女はB級生物だと思っている。そのくせ女に好かれたいと思っている。 最近テレビでモラハラという言葉を知って、あ、これこれと思い当たった。
 もちろんいいところもいっぱいある。妻の看病のために休職までしてくれた。今だって、桃枝が寝込めば料理だってなんだってしてくれる。妻の下着を丁寧に畳んだりもする。押しつけがましくはあるけれど。
 この人ではない人と結婚したかった。そう思ったことは何度もあったが、今更離婚するほどの理由もないのでここまできてしまった。


 桃枝は子供の頃から眠るのが下手だった。寝つきが悪く、一度寝てしまうと今度はなかなか起きられない。
 医者から処方された入眠剤もあまり効かないのだが、その日はたまたまうまい具合にすんなりと眠りに落ちそうだった。
 なのに寝入りばなに刺すような電子音が響いて、桃枝ははっと目を開けた。
 ベッドサイドで充電していたスマートフォンに手をのばす。
――ママ、体調はどう? 温泉すごくいいよ。ママの具合がよくなったら一緒に行こうね
 娘から猫のイラストのアイコンと共に、そうメッセージがきていた。
 せっかくうとうとしていたのに。桃枝は体を起こし、頭を乱暴に掻いた。冷たくされたいわけではないが、時々娘のこの手の気づかいに苛々した。
(p132)


・絶賛更年期障害の主人公の母親、桃枝さんのこのイライラがちょっとリアルだと思いました。自分もこういう気遣いをしていないか、気をつけよう。

・「どことなく偉そうなのは、自信のなさの裏返しだとわかった。圧迫してくるくせに甘えてくる。女はB級生物だと思っている。そのくせ女に好かれたいと思っている。」

うわぁ、いそう〜〜笑 

逆に、自信があるけど腰が低くて、女性を尊重してくれる男性はモテるのだけど、桃枝さんの夫みたいな方は、なかなかそういう思考には至らないんですよね。好かれたいのだったら、正直にモテを追求してもいいのになあ。惜しいインテリです。


 うどんを茹でていると外から夫が戻って来たので、桃枝は娘の職場までこれから届け物をすることを伝えた。何か言うかと思ったら、夫はじっと黙り込み、無言でうどんをすすった。食事を済ますと「じゃあ車で送る」と言い出した。
「え、いいわよ、バスで行くから」
「ホームセンターに足りないペンキを買いに行くから、ついでに乗せて行く」
「......あらそう、どうもありがと。せっかくだからちょっとアウトレット見てくるわ。 帰りはバスで帰るから」
 桃枝は台所を手早く片付け、出かける支度に取りかかる。まだ早いと言っているのに、あいかわらず急かされ、ろくに化粧もできず車に乗せられた。通り慣れた道を車は走り出す。よく晴れていて車の中は暑いくらいだった。窓を少し開けると気持ちのいい風が頬に当たった。
「携帯なんか」
 ふいに夫が口を開いた。
「夜には家に帰ってくるのに、なんで届けなきゃならないんだ」
「今時の子は、電話とメールしかしない我々と違って携帯でなんでもするから、ないとすごく困るんじゃない? 仕事の連絡もスマホにくるって言ってたし」
「何のために固定電話があるんだ。仕事先にだって電話があるだろ」
「だからスマホは電話じゃないんだってば。電話もできるパソコンなのよ」
「じゃあパソコンですればいいだろう」
 夫は鼻で笑う。桃枝は息を吐いて反論をやめた。なんだかおじいさんと話しているみたいだ。
 夫は娘が実家に戻ってきてから娘の選んだ服を着て少し若返ったが、中身はそれに反して老化してきている気がした。四十代の終わりまではかろうじて残っていた、夫の中の青年の部分が完全に欠落してしまった感じがする。自分も人のことは言えないのだが。
 若い頃は、機械関係に詳しい人だという印象だったのに、今はどんなに娘が勧めても頑なにスマートフォンに機種変更しようとしないし、桃枝がスマホに換えたら、お前なんかには必要ないだろうと嫌な顔をした。 もしかしたら自分は理系だという自負があるからこそ、ついていけないテクノロジーに、プライドを傷つけられたくなくて近寄りたくないのかもしれない。
「都はいつまで働くつもりなのかな」
 道の先に牛久大仏が見えてきて、ぼんやりとその顔を眺めているとふいに夫がそう言った。
「え?」 
「アウトレットなんかで働いて」
「都は最初からお洋服の仕事だし、いいんじゃないの」
「仕事なんか、辞めてしまえばいいのに」
 はっきり言い切る夫の顔を、桃枝は思わず見た。 ハンドルを握り真顔で前を見据えている。
「でも若いんだし、健康なんだし、無職でいるよりいいでしょう。 将来のために貯金だって必要だろうし」
「貯金なんかしてるもんか。 洋服ばっかり買って」
 確かに、と桃枝は肩をすくめた。
「早く結婚すりゃあいいんだ」
「今どき、結婚したって働きますよ」
「稼ぎのいい男を捕まえて養わせればいいんだ。で、若くて健康なうちに子供を産まないと」

「……産まないとどうなんですか?」
「幸せになれないだろう」
 迷いのない口調で夫ははっきり言った。
 桃枝は運転席に座っている夫が、別人に取り換えられてしまったような、恐怖に近い驚きを感じた。こんな明治生まれの人みたいな価値観を持っていたとは思わなかった。
 夫との間に娘が産まれ、ふたりで育ててきた。 夫は思った以上に子煩悩で、赤ん坊のときは風呂にも入れておむつも換えたし、娘にせがまれれば、疲れていてもディズニーランドだってどこだって連れて行った。だから娘に対する愛情を疑ったことはなかった。しかし、夫と自分で、娘に将来どうなってほしいのか、具体的に話し合ったことはなかったように思う。ただ漠然と、平凡でいいから幸せになってほしいとしか確認しあったことはなかった。
 こんな考えをする人だったのだ。驚くと同時に、だからこそ、自分と結婚してくれたのかもしれないとも思った。
 私は稼ぎのいい夫と結婚して養ってもらって、若くて健康なうちに子供を産んだけど、いま特に幸せじゃありません。
 そう言いたかった。けれど、彼が必死で守ろうとしている脆い何かを壊してしまいそうで、言葉にするのが躊躇われた。
「都はどんな男と付き合ってるんだ?」
「知りませんよ」
「母親のくせに知らないのか」
「自分で聞けばいいじゃないですか」

「娘が心配じゃないのか」
 痛いところを突かれた気がして、桃枝は膝の上でぎゅっと手を握った。
 車はアウトレットのロータリーへ入っていく。田畑とまだ何もない造成地が広がる中に現れる、パステルカラーの塀に囲まれた巨大なショッピングセンターは、いまだに目に慣れない。
 車を降りると夫は無言で去っていった。また約束の時間よりずいぶん早く着いてしまった。
(p148)


「私は稼ぎのいい夫と結婚して養ってもらって、若くて健康なうちに子供を産んだけど、いま特に幸せじゃありません。」に、笑ってしまった。言っちゃってもいいんだよ(わくわく)。このフレーズ気に入って、何度か戻ってきて読んでしまいました。

こういう価値観って、親しい間柄でもあまり開示する機会はないけど、ふとした時に漏れ出てギョッとすることありますよね。おじいさんと話してるみたい、という感覚、分かる。娘の幸せを心から願っていても、結婚しないで働いたり、子どもを持たなかったりすることは願っていないことが伝わってきます。「平凡でいいから」という願いも、子どもからすればプレッシャーなのかもしれない、ということには、思いもよらないのでしょうね。


 重ねて置いてあった丸椅子を持ってきて都の前に置いた。 そして座るように促す。都はそろそろと腰を下ろした。
「親父、この人、おみや」
 かすかだがその人が都のほうに首を曲げた。皺の中に埋没しそうな、 象みたいな目だ。
「貫一お宮のおみや。 金色夜叉なの、すごくない?」
 都はぎくしゃくと頭を下げる。そこでポロシャツ姿の男性職員が寄ってきて、貫一に声をかけた。ふたりは顔見知りらしく、気安く挨拶をしていた。
 ちょうど昼食が出てきて、貫一は離乳食のようなどろどろの食べ物をひと匙ひと匙、 父親の口に含ませた。彼は食べることに集中できず、赤ん坊のように途中でぼんやりしたり口からこぼしてしまったりした。 貫一は辛抱強く声をかけたり、父親の口元を拭いたりして、一時間以上かけて器の食事を平らげさせた。都はただ両手を握りしめてその様子を見ているしかなかった。
 そのようにして、一泊二日の旅で都は貫一の知らなかった過去を知った。


 彼の作った夕飯を食べ終わって、都は粗末な台所で食器を洗った。
 いつの間にか、貫一はまた畳に寝そべって眠り込んでしまっていた。 付き合い始めの頃はわからなかったが、よく寝る人だ。ちょっと目を離すと猫のようにどこででも眠ってしまう。
 都は濡れた手を拭いて、 そっと貫一のそばにしゃがんだ。 閉じたまつ毛は案外長い。 息をするたび上下する胸板が出会った頃より薄くなった気がした。
 彼なりに次の仕事が決まらないことや、父親のことで思い悩んでいるのかもしれない。しかし悩みがあって眠れないなんてことはなさそうで、少し腹がたつ。

 自分だったら恋人が来ているときに寝てしまったりはできないだろう。彼のように、人のことを気遣いすぎないでいられたら楽だろうなと思う。
 しかし貫一は、思いやりがないわけではないのだ。むしろ、自分より遥かに他人のために尽くしている。
 認知症の親の面倒だけでなく、災害ボランティアへ行って他人のためにも働いている。自分の時間を人のために惜しみなく使って、そのことを愚痴ったことなど一度もない。
 この前の旅行で、貫一のそういう面を知って心動かされた。感動したというより、動揺した。
 前の恋人がお金を持っていても血が通っていないような人だったから、その飾らない温かさに驚いてしまった。
 その驚きは時間がたつにつれて、彼への愛情を深める作用から自己嫌悪に変化して、じわじわと染みてきた。
 都はまわりの人に細かく気を配って、思いやりをもって生きているつもりだった。しかしいざ家族が病気になると、自分の時間を差し出して面倒をみることが本当は嫌で仕方なかった。肉親に対してでもそうなのだから、赤の他人に無償で何かすることなど考えたこともない。貫一とくらべると自分は薄情だ。虫歯に水が染みるように、気持ちの奥がきしんだ。
(p170)


どこでも寝てしまう貫一さんがかわいい。

「まわりの人に細かく気を配って、思いやりをもって生きているつもりだった。しかしいざ家族が病気になると、自分の時間を差し出して面倒をみることが本当は嫌で仕方なかった。肉親に対してでもそうなのだから、赤の他人に無償で何かすることなど考えたこともない。貫一とくらべると自分は薄情だ。」

この都さんの感覚も、すごくよく分かります。表面的な気遣いを超えた、他人のためになにかしてあげられる気持ちは、言われて動けることではないので、やはり個人差があるように思います。そうやって無償の優しさを与える姿を見て、感動するよりも自分が嫌になる気持ちも理解できます。惚れ直すより先に、自己嫌悪に打ちのめされてしまうんですよね。


 隣にどすんと座ると、彼は箱を開けて瓶に入ったプリンを出した。ひとつ取って都に差し出す。戸惑って目を丸くした。どうしてプリンなど買ってきたのだろう。
「嫌いか?」
「好きですけど」
 彼は無言で自分の分のプリンを食べだした。仕方なく都も、小さなプラスティックスプーンを使ってプリンを食べた。昔ながらの硬めのもので、舌に甘みが染み渡った。
 彼はあっという間に食べ終わると、紙の箱に入っていた保冷剤を都の膝に投げてきた。
「顔、腫れるけん」
「え」
「怪我。 なんかぶつかったんじゃろ。明日腫れるかもしれんけん、これで冷やしといたほうがええ。頼んで大きいの貰うてきたけえ何時間かもつじゃろ。わし、鳶の仕事始めた頃は注意散漫で怪我ばっかして、よう腫らしたけん」
 都はぽかんとし、そして彼が保冷剤を渡したくて、プリンを買ってきたのだと理解した。
「…....なんだか、いろいろありがとうございます」
 都はじんとして頭を下げた。
「ええけん。東京から来たんか?」
茨城県です」
「はー、それどこ?」
「千葉県と埼玉県の上のほう」
「はー、知らん。 ガキの頃ディズニーランド行ったけど、そこしか知らん」

 なんだか可笑しくなってきて都は笑った。案外話好きな子なのかもしれない。
「鳶の仕事ってどのくらいやってるんですか?」
「中学出てからじゃけん四年かのう」
 あ、中卒なんだ、と都は思った。
「だりい、やめたい思うこともようあるけど、今、台風とそのあとの豪雨でこっちのほう大変じゃろう。わしみたいな半端もんでも引っ張りだこなんじゃ。休みの日はばあちゃんとこらの片づけやってのう。年寄はブルーシート一枚かけられんけん」
 得意そうに彼は言った。
「…私のことも助けてくれて、ありがとう」
 彼は「へっ」と笑った。そしてまんざらでもない感じに答えた。
「別に気にせんでええ。遠くからわしらのこと助けに来てくれたんじゃろ。誰も迷惑になんか思うとらんよ。 ゆうて、おい、また泣いとるんかっ。いちいち泣くな、うざいんじゃ!」
 都は思わず吹き出し、こぼれた涙を急いで拭いた。来なければよかったなどと思ってしまったことを後悔した。

(p455)


あんなに自分は薄情だと自己嫌悪感にとらわれていたのに、災害ボランティアに行く都さんが素直でステキです。この鳶の人良い人すぎる。方言につい萌えてしまう。

本当は貫一さん以外に都さんに思いを寄せる男性とのロマンスや、職場の人間関係がぐっちゃぐちゃになるところなど、ドキドキする場面は他にもいろいろあったのですが、桃枝さんの「いま特に幸せじゃありません。」発言が強烈で吹き飛んでしまいました。

そしてかなり重い更年期障害の描写に、勉強になりました。


もっといろんな作品を読みたかったけど、素敵な物語に出会えて幸せでした。

ありがとうございます。

山本文緒先生のご冥福をお祈りします。


最後まで読んでくださってありがとうございました。