ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

外を意識しない状態を目指す。『[禅的]持たない生き方』を読んで。

おはようございます、ゆまコロです。

 

金嶽宗信さんの『[禅的]持たない生き方』を読みました。

 

帯の「いらないものは、いさぎよく「捨てる」。

そもそも、はじめから「持たない」。

「後ろ向きな感情」も、

「よけいな人間関係」も。」という言葉に惹かれて手に取りました。

 

著者は一休さんの本を読んだことがきっかけで、12歳の時に仏門に入った臨済宗の禅僧の方です。

仏門に入って10年間はお寺から学校に通っていたそうですが、そこから先の雲水修行(「雲水」とは専業での修行僧の意味)は、かなり厳しいものであることが本書から伺えます。

 

毎日3時半起床で読経に坐禅、お師匠さんとの禅問答をした後に朝食。

その後托鉢に出かけ、お昼休みの後は畑仕事や薪割りなどのお仕事。読経をしてやっと夕食です。その後は坐禅をして、夜は早く就寝かと思いきや、11時過ぎまで各々坐禅なのだそうです。

読んでいると、何もしていないこちらまで、へとへとになってきます。

 

毎日のスケジュールだけでも閉口します。それなのに、1週間ほど一日中坐禅のみをする期間が年に6回もあるだなんて…。

 

そんなストイックな生活の後に得る「持たない生き方」。

私にも、なにか取り入れられるような事柄があるのでしょうか。

 

 修行がしっかり身についている僧侶であれば、修行後に反動で贅沢したりするようなことはありません。

 修行というのは、結局、いかに自分に厳しくなれるかということを身につける過程なのです。

 

 そして実は、そのほうが生きるのには楽だということを知るのです。

 自由に生きていればいるほど、その人の生活は無法地帯になってしまいがちです。

 そうではなく、いくつかのルールや制約の中で生きたほうが、人は生きやすいのです。

 

 そもそも、禅宗自体が「規矩(きく)」といって、規則があるのを前提としています。集団生活や、社会で人とかかわりながら生きるには、枠組みがあったほうが適しているのです。

 

 逆に、贅沢するというのは、自分の欲望を野放しにしているようなものです。

 たとえば、お金があると、たくさんの物が欲しくなって、物を買えば、そこに執着が生まれます。

 

 その一つひとつの物に対して執着が生まれると、心を乱す原因が増えます。

 それなら、はじめから物がないほうが楽だし、心も乱れません。

 

 本当は、ある程度の制約の中で生きるほうが楽なのに、今の人たちは、そこから外れたほうが幸せだと思っている節があります。

(p7)

 

「制約の中で生きるほうが楽」な例として、見合い結婚が挙げられていますが、たしかに選択肢が多すぎると、かえって息苦しさを感じることはあると思います。

 

極力、物を買わないための知恵

 

 最近では、スーツやアクセサリー、バッグなども、レンタルできるものが増えています。

 結婚式や入学式など、年に一回あるかないかといった行事のために新しいものを買うのではなく、まずは買わないですませられる方法を考えるようにするといいでしょう。

(中略)

 「本来無一物(ほんらいむいちもつ」という言葉があります。自分が所有するものは本来、一つもないという禅の言葉です。

 この体でさえ、自分のものではなく、借りものなのです。死んでしまえば、体も持ち歩くことはできません。

 この人間が持っている、いちばんすばらしい道具のありがたさを、私たちはついつい忘れてしまいがちです。

 ぜひ、日々この体をいつくしみ、丁寧に扱って、大切に使っていきたいものです。

(p57)

 

「この体でさえ、自分のものではなく、借りものなのです。」そう言われれば、その通りです。大事にするしかない気持ちになってきます。

 

修行僧時代の金嶽さん持ち物は、衣服以外は「柳行李」一箱に入る分だけで、中身は、食器・ティッシュペーパー、歯ブラシ、風呂に必要な小さいタオル1枚だったそうです。

誰も携帯を持っていないし、本を読むことも禁止。

うーん、持ち物が少なくて羨ましいような気もするけど、確実に逃げ出してしまう予感しかありません。

 

最後にいいなと思ったのは、「悪い感情を持たないための心得」です。

 

 当時は、いい大学を出ている人たちが、「完璧な人間」に見えていたわけです。それは恥ずかしながら、相手のある一面しか見えていなかったともいえます。

 相手に接する時間が短ければ、その人が目の前にいる時間しか見ていないわけですから、その人が完璧なように見えてしまうのかもしれません。

 でも、修行でずっと一緒にいれば、けっこう相手のあらといいますか、十分ではない部分が見えてくるものです。

 同じ人間なのだから不完全なのは当たり前なのに、相手が完璧に見えるように自分のコンプレックスが作用していたのでしょう。

 もう時効だと思うので白状しますが、自分も優秀な彼らもやることは一緒。

 たとえば、夜にこっそり抜け出そうとするとき、布団を膨らまして、人間の形を作って小細工をしてみたり、結局、私たちがやっていたことを、彼らもするわけです。

 所詮、人間が考えることは同じなんだと気がついたら、なんだかすごく楽になって、自分は自分の生き方でいいんだと思えるようになりました。

 人と比較するのではなく、自分の持てる力を最大限に活かすことに集中したほうがいいのです。

 

 劣等感や嫉妬といった感情を持たないためには、まずは自分と他人を比較しないこと。

 自分は自分、他人は他人というスタンスを確立させることが大切です。

(p70)

 

僧侶の方も、学歴に囚われたりすることがあるんですね。

 

 臨済宗の開祖である中国唐代の禅僧、臨済義玄(りんざいぎげん)の言行をまとめた「臨済録」(りんざいろく)という本に、「随処に主と作(な)れば、立処(りっしょ)皆真なり」という言葉が出てきます。

 これはまさに、どんな地位にいても、どんな環境にあっても、自分が主体となって、その時々を一生懸命に過ごせば、そこがすべて真の世界になるという意味の言葉です。

 

 一社員なのに、社長と同じことをやろうとする必要はありません。いま置かれている立場において、できることを精一杯やっていけば、結果は出てきます。

 そして、その人の能力が最大限に発揮できるのは、その人が無心の状態にあるときです。要するに、外を意識しない状態にいるときです。

 外の評価を意識せず、人と比べず、とにかく自分のできることに精一杯、集中して専念することです。

 そうすれば、結果はついてきます。万が一、ついてこないことがあっても、それはめぐり合わせもあるので、落ち込むことはありません。それは経験となって、のちに活きてきます。

(p73)

 

「外を意識しない状態にいるとき」が、能力を最大限に発揮しているとき。

そんな状態を目指して仕事に取り組みたいなと思いました。好きなことに打ち込んでいるときも、そんな状態に近いような気がしました。

 

持ち物についての記述など、噛みしめて考えると、なるほどなと思うことや、「人と比べない」など、意識しないと、目先のことに囚われすぎて大事なことを見失うな、と思う項目もありました。

 

それでもまあ、強烈に印象に残ったのは、修行僧さんの過酷な毎日についてのエピソードでしたが。

 

「持たない生き方」に近づけるよう、新しい年は頑張りたい気持ちになりました。

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。