ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

荒木香織『ラグビー日本代表を変えた「心の鍛え方」』を読んで

 おはようございます、ゆまコロです。

 

荒木香織『ラグビー日本代表を変えた「心の鍛え方」』を読みました。

 

著者は2012年より「ラグビーワールドカップ2015」終了までラグビー男子日本代表メンタルコーチをされていた方です。

 

スポーツでの目標の立て方や、評価されないと感じた時に考えるべきことなどが紹介されていますが、読んで印象に残ったのは、以下の箇所です。

 

■困ったときのメンタルスキル

 

    暑さも同じです。自分がイライラしても、気温を下げることはできません。むしろ、ますます暑く感じてしまうでしょう。だったら、「暑い、暑い」と思うこと自体をやめてしまって、するべきことに意識を向けるのです。

    「暑い」とか「だるい」とか「もう嫌だ」とか、そういうネガティブな自分に対する問いかけが、自分の元気の源になっていないことに気がついていない人は、意外に多いのではないですか。

    では、どうやってネガティブな考えを断ち切るのか。

    ラグビー日本代表の立川選手は次のプレーに集中するときには、指を触ることで気持ちを切り替えるようです。陸上競技の長距離選手のなかには、ある指だけ爪の色を変えて、イライラしたらそこを見るという選手もいます。

    むろん、いきなり指を触ったからといって、イライラしなくなるわけではありません。トレーニングが必要です。でも、逆に言えば、訓練すれば誰でもこうした能力、すなわち思考を停止する能力を身につけることがで のです。

 思考を停止する方法は人によってさまざまですが、ラグビー選手でいえば、試合が行われるグラウンドには必ずゴールポストが立っています。そこで、「イライラしているな」と自分で気づいたときは必ずポストのいちばん上を見るようにする。そして、そうしたら考えること自体をやめるよう意識するのです。

    もちろん、最初からストップできるはずはありません。が、このトレーニングを繰り返していくうちに、ポストを見たらオートマティカルに思考をストップすることができるようになります。「眠い」という考えすら止めることができます。だから私は時差ボケで悩んだことがありません(あとで肉体的に反動がくるので、健康的なことではありませんが)。

 
  思考停止はなんらかのツールがないと難しいので、イライラしたら「これを触る」とか「これを見る」、あるいは「何かを叩く」というふうに、自分なりのツールをあらかじめ決めておくことをお勧めします。

    たとえば、交通標識の「止まれ」という赤いサインがあります。私が指導しているゼミ生のなかには、私がハワイに行ったときに青い空をバックに撮影したストップのサインをパソコンのデスクトップの壁紙にして、「できない」「無理」と思ったときやネガティブな考えに陥ったときにその写真を見る、という学生が何人かいます。

(p140)

 

 

眠いという思考を停止することが、本当に自分にも出来るようになるには相当の訓練が必要そうだと思いましたが、こうしたトレーニングがあるということに興味を引かれました。

 

■ 受け止め方を変えるメンタルスキル


  私のゼミの学生にもよくいます。

「すごくがんばったのに、できません」

「もういいから、提出しなさい。もうこれがあなたの限界。これでいいから」

そう言うと、

「いや、もっとできるはずだから」

   もちろん、そう考えるのは悪いことではないのですが、過去一〇年くらいを振り返ってみて、みなさん、そんなに素晴らしい日々が続いていたでしょうか。そんなことはないのではないですか?

    だからこそ、「もっともっと」と望むのでしょうが、往々にしてそういう人は誰かが、環境が「なんとかしてくれる」と思っていることが多い。そうしてくれるのを待っている。そういう傾向が多々あるのではないかと感じます。

    でも、環境は自分でつくっていくしかない。自分が変わらなかったら、何も変わらないのです。そういうプロアクティブ(率先的)な行動をとらないで、ただ待っているだけでは、「もっと」と望んでも得られるものではありません。

    いま自分ができることを精一杯やっていけば、ストレスも少なくなるし、失敗することもそうはない。それでいいんじゃないかとも思うのです。そんなに多くのことを求めなくても、と....。

    五郎丸選手は、母校早稲田大学での講演でこう語ったそうです。

「どんな環境であれ、目の前のことに対して百パーセントできるか。環境がよかろうと、悪かろうと、目の前のことに対してしっかりコミットできるかどうかが、将来を切り開けるか切り開けないかに直結してくると思う」

(p174)

 

 

「過去一〇年くらいを振り返ってみて、みなさん、そんなに素晴らしい日々が続いていたでしようか。そんなことはないのではないですか?」

←確かにそうです。でもそれを呼び込んだのは、待ちの姿勢である自分の責任でもある。何だか耳が痛い言葉でした。

 

より良いパフォーマンスを生むために、自分がどう競技と関わるか?を多面的に考えていて、しかもそれが精神論過ぎないところに好感が持てました。

 

何かの折に、ヒントになるかも知れないと思いました。

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。

ポール・オースター『写字室の旅』を読んで

おはようございます、ゆまコロです。

 

ポール・オースター柴田元幸(訳)『写字室の旅』を読みました。

 

自由に旅行ができないこの時節柄、旅というタイトルに心踊りましたが、主人公の置かれた状況は、これ以上無いくらい閉鎖的でした。

 

どうして捕らえられているのか(本人にも読者にも)分からない主人公の男性の行動を見守るより、物語中物語の方が動きがあってつい気になってしまいます。

 

その中で本書のもう一人の主人公が、発作的に暴力を振るったことを反省する場面が好きです。

 

 判決が下されて何時間も経たないうちに、庁の役人たちが陪審員数名を買収して私に有利な票を投じさせたという噂が広がった。私自身は、自分のために何か腐敗したやりとりが為されたかどうかはいっさい知らないが、そうした非難は根も葉もない噂話にすぎないと思う。私がたしかに知っているのは、その夜以前に私がマクノートンに会ったことは一度もなかったということだ。一方相手は、名前で呼びかけるくらい私のことを知っていた。彼がテーブルに近づいてきて私の妻のことを話し出し、妻の失踪の謎を解く助けとなる情報を持っていることをほのめかすと、とっとと失せろと私は彼に言った。この男は明らかに金が目当てだった。そのまだらに染まった不健康そうな顔を一目見れば、こいつがペテン師で、私を見舞った悲劇のことを聞きつけてそれをダシに一儲けしようと企んでいるのは明らかだった。そうやって邪険に追い払われたことが、どうやらマクノートンは気に入らない様子だった。退散するどころか、隣の椅子に腰を下ろし、怒った様子で私のベストをつかんだ。それから、私たちの顔がほとんど触れるまで私の体を引き寄せ、顔をくっつけてきて、言った。あんた、どうなってるんだ? 真実が怖いのか? 彼の目には怒りと蔑みがみなぎり、何しろ私たちはたがいにぴったり接近していたから、その目は私の視界内にある唯一の物体だった。彼の体から敵意が流れ出るのが感じられ、次の瞬間、その敵意がじかに自分の体内に入り込んでくるのを私は感じた。彼に襲いかかったのはその時だった。そう、手を出したのは向こうが先だったが、反撃を開始したとたん、私は彼を痛めつけたいと思った。可能な限りこっぴどく痛めつけたいと思った。

 

 これが私の罪である。ありのままに受けとめてもらえればいい。だがこの報告書を読む行為に影響が及ぶようなことはないようにしていただきたい。災難は万人の許に訪れ、一人ひとりがそれぞれのやり方で世界と和解する。あの夜マクノートンに対して私が行使した暴力も正当ではなかったが、その暴力を行使する上で覚えた快感はもっと大きな悪だった。自分の行ないを許しはしないが、当時の精神状態を思えば、他人に危害を加えたのが風亭の一件だけで済んだことは驚きと言ってよい。その他の危害はすべて自分に対して加えられたのであり、酒への欲求(実のところそれは死への欲求だった)を抑えることを学ぶまでは、全面的な破滅の危険を私は抱えていたのだ。やがて、ふたたび何とか自分を制御できるようになったが、白状すれば私はもはやかつての自分ではない。それでも生きつづけているのは、何よりもまず、内務庁での仕事が、生きる理由を与えてくれているからだ。何とも皮肉な話である。連邦の敵と名指される私だが、過去十九年間、私ほど連邦に忠実であった公僕はほかにいない。記録を見てもらえばそれは明らかだ。かくも壮大な営みに携われる時代に生きたことを、私は誇りに思う。現場での仕事を通して、真実を何より愛する気持ちを植えつけられ、それゆえ己の罪や違犯に関する疑惑もすでに晴らしたが、むろん犯さなかった罪まで認める気はない。

(p57)

 

「敵意が流れ出るのが感じられ」たというのが、生々しい表現だなと思いました。

この文章で何より好きなのが、暴力そのものよりも、暴力を行使する上で覚えた快感がもっと悪いとしているところ。

オースターらしい自己省察に好感がもてます。

 

他にも、捕らわれの主人公は誰であるのか?とか、出てくる人物たちの名前は何を意味しているのか?とか、面白い仕掛けはいろいろあるのですが、ここでは控えます。

 

ポール・オースターのファンブック的な作り込みが楽しい本でした。

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。

 

立花隆『知の旅は終わらない』を読んで

おはようございます、ゆまコロです。

 

立花隆『知の旅は終わらない 僕が3万冊を読み100冊を書いて考えてきたこと』を読みました。

 

筆者が大学生の時に、初めてヨーロッパを旅したお話が印象深いです。

資金調達に始まり、1960年ごろに海外旅行へ行く大変さが伝わってきます。

 

■ヨーロッパの重みとキリスト教の実像

 

    イタリアは、ローマ、ミラノ、ヴェネツィアなど、いろいろな街を巡り歩きました。とくにフィレンツェには長くいて、この街の美術館は徹底的に見ています。

    このときの旅行全体を通じての最大の収穫のひとつに、名画をたくさん生で見た、ということがあります。とにかく金がないですから、どこへ行ってもできることといえば美術館や博物館に行くことぐらいしかないわけです(笑)。具体的にどの作品、というのではない。質かける量の、総体としての芸術体験ということです。芸術を介して、総体としてヨーロッパの重みのようなものを感じました。この感覚は実際に行ってみないと得られない。

  とくにイタリアなんて、小さな町に行っても、驚くような美術品があるでしょう。また、それまでにまったく見たこともない、これは何だろうと思うような絵のテーマもある。それを知りたいと思って調べだすと、しだいにその背後にある巨大な文化の体系が見えてくる。一種、打ちのめされるような衝撃がありました。ヨーロッパ文化のそのような厚みを、自分はそれまでまったく知らなかった。なんてモノを知らないんだろうと思いました。

    日本のちょっと政治かぶれした若造が見ている世界なんて、本当にちっぽけなものだ、われわれの知らない巨大な文化の体系が、この世界にはあるんだ、ということを早い時期に知ったことが、その後の僕の考え方に大きな影響を与えているように思います。

    もうひとつ、キリスト教に対する見方が大きく変わったというのもこの旅行の成果でしたね。何度かこのことには触れましたが、両親が信者だったこともあって、僕は子どものころから、キリスト教には特別な思いがあった。しかし、それまで頭の中で描いていたキリスト教のイメージは、本場に行って完全に崩れてしまいました。

    ひと言でいえば、日本人はキリスト教をあまりにも純化しすぎて見ている。おそらく明治・大正期の欧米の知識の移入の仕方に問題があったためでしょう。これに反して、ヨーロッパにおけるキリスト教というのは想像を絶するほど多面的なものなんです。たとえば日本で真言宗が担っているような土着的な信仰の性格も豊富に持っている。カトリック圏の聖人崇拝などは、ほとんど多神教の世界に近いものがありますね。

  キリスト教のバックボーンが呑み込めていないとヨーロッパの文学は全然わからない。一見宗教的ではない作品でもそうなんです。西洋文学を論じる日本の文芸評論家で、はなはだしく読み間違えている人は、大抵この辺に問題があります。僕の場合、早くヨーロッパ体験をしたお蔭で、そうした誤読はまぬがれたと思いますね。

(p86)

 

 

 

ヨーロッパの文学に触れた時、時々違和感というか、寄り添えなさを感じることがありますが、たぶんバックボーンが呑み込めていないということなんでしょう。

海外旅行に出かけたくなります。

 

■宇宙飛行士が直感した神の存在

 

 アポロ9号に乗ったラッセル・シュワイカートは、「宇宙体験をすると、前と同じ人間ではありえない」と僕に語りました。宇宙体験の内的インパクトは、何人かの宇宙飛行士の人生を根底から変えてしまうほど大きなものでした。

    スカイラブ4号で宇宙に行ったエド・ギプスンは、宇宙飛行士の共通項のくくり出しとして、「これは特筆すべきことだと思うんだが、宇宙体験の結果、無神論者になったという人間は一人もいないんだよ」と言いました。たしかに、漆黒の闇に浮かぶ青々とした地球を見たときに「神」の存在を信じた、と多くの飛行士が話したんです。

 アポロ4号に乗って月面に降り立ったエド・ミッチェルは、宇宙飛行士時代に、もっとも思索的でもっともインテレクチュアルな飛行士と言われた人物です。ちょっと長くなりますが、彼と僕とのやりとりを紹介しておきます。

 

« ーー(あなたは科学者であると同時に、聖書の言葉をすべて正しいと信じる熱心な南部バプティストのクリスチャンだった。)あなたはいかにして科学的真理と宗教的真理の対立を克服したのか。それは宇宙体験と関係があるのか。

「まさしくその通りだ。私は二つの真理の相剋をかかえたまま宇宙にいき、宇宙でほとんど一瞬のうちに、この長年悩みつづけた問題の解決を得た」

 

ーーそれは、宇宙体験のどの部分なのか。

「宇宙から地球を見たときだ。(中略)月探検の任務を無事に果し、予定通り宇宙船は地球に向かっているので、精神的余裕もできた。落ち着いた気持で、窓からはるかかなたの地球を見た。無数の星が暗黒の中で輝き、その中に我々の地球が浮かんでいた。地球は無限の宇宙の中では一つの斑点程度にしか見えなかった。しかしそれは美しすぎるほど美しい斑点だった。それを見ながら、いつも私の頭にあった幾つかの疑問が浮かんできた。私という人間がここに存在しているのはなぜか。私の存在には意味があるのか。目的があるのか。人間は知的動物にすぎないのか。何かそれ以上のものなのか。宇宙は物質の偶然の集合にすぎないのか。宇宙や人間は創造されたのか、それとも偶然の結果として生成されたのか。我々はこれからどこにいこうとしているのか。すべては再び個然の手の中にあるのか。それとも、何らかのマスタープランに従ってすべては動いているのか。こういったような疑問だ。

   いつも、そういった疑問が頭に浮かぶたびに、ああでもないこうでもないと考えつづけるのだが、そのときはちがった。疑問と同時に、その答えが瞬間的に浮かんできた。

 問いと答えと二段階のプロセスがあったというより、すべてが一瞬のうちだったといったほうがよいだろう。それは不思議な体験だった。宗教学でいう神秘体験とはこういうことかと思った。心理学でいうピーク体験だ。詩的に表現すれば、神の顔にこの手でふれたという感じだ。とにかく、瞬間的に真理を把握したという思いだった(中略)」

 

――その神というのはつまるところ何なのか。(中略)

「神とは宇宙霊魂あるいは宇宙精神(コスミック・スピリット)であるといってもよい。

 宇宙知性(コスミック・インテリジェンス)といってもよい。それは一つの大いなる思惟である。その思惟に従って進行しているプロセスがこの世界である。人間の意識はその思惟の一つのスペクトラムにすぎない。宇宙の本質は、物質ではなく霊的知性なのだ。

 この本質が神だ。(中略)キリスト教の枠組は狭い。あまりにも狭い。あらゆる既成宗教の枠組は狭い。硬化している。既成宗教の枠組の中で語ろうとすると、その宗教の伝統の重みにからめとられてしまう。伝統による人間の意識の束縛は大きすぎるほど大きい」

 

ーーすると、あらゆる宗教の神は、本質的には同じということか。

「そういうことになる。つまり、宗教はすべて、この宇宙のスピリチュアルな本質との一体感を経験するという神秘体験を持った人間が、それぞれにそれを表現することによって生まれたものだ。その原初的体験は本質的には同じものだと思う。しかし、それを表現する段になると、 その時代、地域、文化の限定を受けてしまう。しかし、あらゆる真の宗教体験が本質的には同じだということは、その体験の記述自体をよく読んでいくとわかる。宗教だけに限定する必要はない。哲学にしても同じことだ。真にスピリチュアルな体験の上にうちたてられた哲学は、やはり質的には同じものなのだ」》

 

無宗教者とガイア

 

    一方、そもそも無宗教者である飛行士は、宇宙から帰った後でも無宗教者のままであったケースもあります。それは先に触れたシュワイカートの場合です。彼に神の存在を信じていないのかと尋ねると、彼はこう答えました。

 

《神というのは、天の上にいるヒゲを生やしたジイさんのことかね。それなら、ノーだ。信じていない。五〇年代の後半に私はキリスト教から離れた。その時点では、まだ相当に宗教的だったと思うが、その後、さらに離れた。宗教的というより、むしろ、哲学的になっていった。つまり、何かしら神的なものを仮定する必要を認めなくなっていった。

 そして、結局、こう考えるようになっていった。宗教というのは、一つの言語体系の問題であるということができる。つまり、宗教を含めて、この世界を観る体系的見方がいろいろある。自然科学もその一つだ。人間中心主義もあれば、理性中心主義もある。イズムは沢山ある。そして、それぞれに独特の言語体系を作ってしまっている。》

(p249)

 

 

宇宙へ行くことと、それによる宗教観の変化、面白いテーマだと思いました。

筆者が大学で教鞭を取るお話も好きです。

 

■思想的浮気のすすめ

 

 「人間の現在」の講義に話を戻すと、最初の授業で僕はこんなことを話しました。『脳を鍛える』(新潮文庫)から引用します。

 

《きみたちの年齢は、矢継ぎ早にいろんなものとの出会いを果さなければならない年です。

 幼児期に、はじめて母親と出会い、はじめて他人と出会い、はじめて人間以外の動物と出会い、はじめてテレビと出会い、はじめて言葉と出会い、次々に奔流のごとく押し寄せてくる「はじめて体験」の渦の中で、最初の精神形成をしていったように、今は、第二の「はじめて体験」の渦の中で、第二の精神形成が一挙になされていく時期なんです。

    いろんな「はじめて体験」と出会うはずです。はじめての異性体験もあるだろうし、はじめての政治体験やはじめての宗教体験もあるでしょう。はじめての芸術的感動体験もあるでしょう。はじめての「悪」との接触体験もあるでしょう。はじめての、「いやでたまらない人間関係」体験もあるでしょう。はじめての屈辱体験もあるでしょう。

    最も大切な「はじめて体験」の一つが、哲学との出会いになるはずです。はじめての異性体験が、その人の生涯の異性とのつきあい方に強い影響を及ぼすように、はじめての哲学体験も、その人のものの考え方の基本に大きな影響を及ぼします。どのような哲学にどのように出会うかが、はじめての哲学体験では重要です。》

 

さらにこうつづけています。

 

《「永遠の生命なんてない」「絶対の真理なんてものはない」ということを信仰箇条の第一に置けば、それから、多くのことが導けます。

  まず、いかなる思想にものめりこまず、ハマらず、必要以上に尊敬したりせず、軽い気持で接触することが大切だということがわかります。思想においては、花から花へ飛びまわる蝶のように、浮気したほうがいいんです。あがめたてまつってはいけません。

(中略)宗教とか思想というものは、ある時代の誰かが頭の中でこしらえて、頭の中からひねり出した一連の命題です。どんな大思想(といわれているもの)にも、笑ってしまう他ない珍妙な部分があります。そういう部分でちゃんと笑えることが、精神的に健康であることの証しなんです。しかし、若いうちから何かにのめりこんでしまうと、そういう健康さを失ってしまいます。

    精神的健康さを養うために、若いうちは、できるだけ沢山の思想的浮気をするべきなんです。異性体験に関して、「できるだけ沢山の浮気をしなさい」なんていったら物議をかもしかねませんが、思想に関しては、そうすべきであるとはっきりいいます。浮気が足りない人は、簡単に狂うんです。簡単に溺れて、自分が溺れているということにすら気がつかないことになるんです。人間の頭は狂いやすいようにできてるんです。》

 

■人類の新しい知的到達点

    こうした人文系の話もしましたが、僕が力を入れたのは理科系の分野の話です。というのは、受講者の多くは文系の学生たちでしたが、手を挙げさせてみたところ、高校で物理をとらなかった人がかなり多かったからです。ということは、その人たちの物理の基礎知識は中学理科のレベルにとどまっているわけです。

    これはとんでもないことなんです。なぜかというと、サイエンスというのは、物理の上に築かれているからです。科学の基礎は物理で、科学のいちばんの基礎になる考え方は物理学が発展する中で築かれてきました。つまり、物理をやらなかった人は、サイエンスが基本的にはわからないことになります。

    理系の人は補習をやって欠落が補われるからまだいい。文系の学生はその欠落を抱えたまま社会に出ていって、社会の各界でエリートづらをすることになるわけです。僕は暗澹たる思いがしました。

    高校で物理をやった人はやった人で、別の問題があります。その人たちのほとんどが生物をやっていないはずです。その人たちには中学レベルの生物の知識しかありません。分子生物学の知識はもちろんないことになります。現代の生物学は、ほとんどが分子生物学の知識なしには理解できません。基礎生物学だけでなく、医学、薬学、農学、食品科学など、いわゆるバイオ系といわれるすべての分野がそうです。バイオの知識なしには、二十一世紀の知的活動、経済活動の大半がわからなくなるんです。

    ですから、理系の人は専門課程に進む中で、それぞれの領域において、最先端のことがわかるところまで強引にキャッチアップさせられます。しかし、文系の人は、自主的努力の積み重ねで自分でキャッチアップしないと、現代の科学技術社会の流れから完全に取りのこされてしまう。学生時代のあいだに、大変な努力をする覚悟をもたなければならない。

そんな話をしました。

    それで、一年目の講義でとりあげた理系のメインの項目(多くの固有名詞や事項に触れましたからそのごく一部)は、次のようになります。

    宇宙、ニュートン、脳、アインシュタイン利根川進相対性理論分子生物学、C.P.スノー…。

『二つの文化と科学革命』(みすず書房)の著者で、小説家でもあり物理学者でもあったスノーのように、理系と文系の両方にまたがった人もいます。文系のメインの項目は、キェルケゴール、『荘子』、ポール・ヴァレリーの『カイエ』『テスト氏との一夜』、小林秀雄デカルトヴィトゲンシュタインカール・ポパー、アンリ・フレデリック・アミエル、ジョルジュ・デュアメル、エラスムス、ルター、T・S・エリオット…、

こんな感じでした。

    とにかくあらゆることを喋りました。もともと、何らかのまとまった知識の伝授を目指したわけではなくて、知的刺激を与えることが主目的でした。人類の新しい知的到達点に立ってみると、世界がどれほどちがって見えてくるか、また、そのような時代に生まれて、どのような生の選択をすべきなのか、そういうことを考えるのに資するであろうことを、次から次へ片っ端から喋ったという感じですね。あっちへ飛び、こっちへ飛びして、ある意味では、支離滅裂に見えるかもしれないけれど、「人間の現在」という筋は一本通したつもりです。

    この講義以降、自分の仕事のやり方、質がそれ以前と比べて、ずいぶん変わったなと思います。あらためて振り返ってみると、僕がやってきた仕事はみんな、人間はどこからきてどこへ行こうとしているのか、というテーマが底に流れているようなところがあったから、もともと「人間の現在」の流れの一つみたいなところがあったわけですが、この講義以後、ますますそうなりましたね。

    この講義をした期間は二年間でしたが、その後、大学関係では、二〇〇五年に東京大学大学院総合文化研究科特任教授となり、二〇〇七年に東京大学大学院情報学環特任教授となって、立教大学でも大学院特任教授に就くことになります。

(p292)

 

 

大学生に向かって話す内容もそうですが、筆者がインタビューに臨む前の準備を知ると、勉強しなくてはという気持ちになります。 

911への切り口と、国家のあり方への提言も考えさせられました。

 

 八九年からの数年間は、いうまでもなくベルリンの壁崩壊にはじまって、東欧諸国にあった共産主義政権が雪崩をうって崩壊していき、ついにはソ連が解体されていく時代でした。僕はチェコスロバキア東ドイツを訪れてその現場を見ています。『文藝春秋』誌上で「東欧解体-これが新しい現実だ」(一九九〇年二月号)という大討論会に参加しました。

    いずれも半世紀に一度起こるかどうかというような出来事の連続だったわけですが、二○○一年九月にも世界をゆるがす大事件が起きます。ニューヨークの世界貿易センタービルが破壊された同時多発テロ事件です。このとき僕は、『文藝春秋』に「自爆テロの研究」(二〇〇一年十一月号)を書きました。

    情報が飛び交う真っ只中で、僕が何を書いたかというと、「あの事件の前と後では、たしかに世界が変ったのである。その変化について書いてみたい。これからさらにそれはどう変りうるのか。何がこの変化をもたらしたのか。アメリカについて。世界について。国家について。政治について。経済について。宗教について。イスラム原理主義について。

テロについて。戦争について。メディアについて」です。

  とりわけ詳しく書いたのは、神(アッラー)のために闘う「聖戦(ジハード)」という概念についてです。ジハードにおいて死ぬことは殉教者になることで、殉教者として死ぬことは、イスラム教徒にとって最高の功徳(くどく)なわけです。その後、イスラム原理主義者たちがインターネットで煽ることによって、単独テロ犯を次々と獲得し、ローンウルフ型のジハードが猖檄(しょうけつ)をきわめていったことはご存じのとおりです。

  つづけてこう書きました。「よく新聞論調などで、これを『文明の衝突にしてはならない……』という言い方がなされることがあるが、私はそれは誤りだと思う。『文明の衝突』はこれからするさせないの問題ではなくて、すでに千年も前から起きているのである。その衝突が千年間つづいてきた結果として今日の事態があるのである」。

 僕は、いま読むべきなのは、ハンチントン(サミュエル・ハンチントン。一九二七~二〇○八年、アメリカの国際政治学者)の『文明の衝突』(集英社文庫)ではなく、トインビー(アーノルド・J・トインビー。一八八九~一九七五年、イギリスの歴史学者)の『現代が受けている挑戦』(新潮文庫)だと思うとしています。世界の諸文明が互いに対立し、分裂を深めようとしている現在にあって、いかにすればその対立を克服し、統合をはかってい

けるのか。そのヒントをトインビーは提起しています。

    その解決策は結局、世界国家を作る以外にないのですが、世界的な規模で最大限国家を作ることは無理だろうから、最小限国家を作ることだろう。最小限国家とは、価値観における共有部分、つまり制度的縛りや文化的縛りを、最小限にするような国家のことです。

 上からの縛りはできるだけ小さくして、成員の各メンバーにできるだけ多くの自由を与えるような国家です。「みんないっしょに」、「みんな同じように」という画一化に向かう部分はできるだけ小さくしようとする方向性なのです。

    アメリカは社会のタイプとしては、最小限国家型でした。ところが、同時多発テロを境にして、明らかに最大限国家型となり、自分の縛りを押し付け、また、自分の規範に従うことを相手にも求める方向に向かいました。それは「味方でなければ敵」の論理でもあります。いってみれば、それはガキ大将のやり方そのものなんです。しかし、世の中は、それほど単純に白黒つけられるものではありません。本当の味方を多くしたければ、最小限国家型の「敵でなければ味方」の論理を使うべきだろうと思いますね。

(p301)

 

 

   たとえばアメリカで言論の自由といえば必ず引き合いに出される「ニア対ミネソタ判例というものがあります。

    「ニア対ミネソタ」事件とは、ミネソタ州が「公共迷惑法」なる州法を作り、ワイセツな新聞雑誌ならびに「悪意を持ちスキャンダルで人の名誉を傷つける」のをこととするような悪質低俗な新聞雑誌に対して州政府が永久発行差し止め命令を発することができるとしたことから起きた訴訟事件です。この法律で、発行差し止めを食いそうになった、人種差別的な新聞の発行者ニアが、こんな法律は憲法違反だと怒って起こした訴訟です。

    週刊誌蔑視の社説を書いた朝日新聞ならば、そんな新聞はつぶれて当然だといいそうですが、アメリ最高裁の判決はちがったのです。そのような低劣きわまりない新聞であろうと、その発行を差し止めることは、言論・出版の自由を定めた憲法の精神に反するとして、逆にミネソタ州法(公共迷惑法)のほうに取り消しを命じたのです。

    世界でもっとも言論の自由が守られているアメリカの言論法の真髄がここにあります。

    日本の大メディアがすぐに「低劣、守る価値なし」とバカにする日本の週刊誌より何倍も低劣で、客観的にいっても守る価値がほとんどないように見える新聞ですら、言論・出版の自由の名のもとにその発行権は守られるべしとしました。言論・出版の自由は何ものにもかえがたい価値を持つのだから、そのような低劣メディアの権利も守られるべきだとしたのです。

    さらにもうひとついっておけば、大メディアの論調の影響もあってか、言論にはいい言論と悪い(低劣な)言論があって、悪い言論は叩きつぶしたほうが世のためだという考えが、最近日本で急速に広がっているようですが、これはとても危険な考えだと思う。

 そういう流れの一つとして、自民党を中心に着々とすすめられていたメディア規制立法があります。こういう発想は、ミネソタの「公共迷惑法」を作った人々と同じ考えであって、そういう人がやがて、言論の最悪の抑圧者になっていくのです。

 欧米では、言論の自由について語ろうとするとき、何をおいても、まず読むべしとされるのが、ジョン・ミルトン(一六○八~一六七四年、イギリスの詩人)の「アレオパギティカ」です(これは日本でも翻訳されて、岩波文庫から「言論の自由」のタイトルで出たことがあるのですが、あまりの悪訳のために読まれなかった。以下の引用は、僕が岩波文庫版に若干手を加えた)。

    この書の中で、ミルトンが何よりも力説していることは、言論をいい言論と悪い言論に分けて、悪い言論を弾圧し、いい言論を賞揚するというやり方(つまり検閲)からは、よきものは何も生まれないということです。

「我々は清浄な心をもってこの世に生まれるのではなく、不浄の心をもって生まれてくる。

 我々を浄化するのは試練である。試練は反対物の存在によってなされる。悪徳の試練を受けない美徳は空虚である。美徳を確保するためには、悪徳を知り、かつそれを試してみることが必要である。罪と虚偽の世界を最も安全に偵察する方法は、あらゆる種類の書物を読み、あらゆる種類の弁論を聞くことだ。そのためには、良書悪書を問わずあらゆる書物を読まなければならない」

    いい言論にも悪い言論にも同じような存在価値があります。だから言論の自由は無差別に守られる必要がある。これが言論の自由を守る意義の根幹にある真理なのです。このことが裁判所にも、大マスコミにも理解できていません。

(p316)

 

 

 

言論の自由について、あまり深く考えたことはありませんでしたが、ここで紹介されているミルトンの本は気になりました。

 

戦争の考え方も、心に留めておこうと思いました。

 


    第一の敗戦と同様に、経済の失政についての責任追及はなされていません。第一の敗戦にたとえていうなら、敗戦後も軍部の政治支配がつづいているのと同じことでしょう。バカがコントロールに失敗して、さらにそのバカの支配がつづいている。いわば、陸軍の統制派が権力の内部交代をやりました、というのと同じことがいまでもつづいているんです。

 いま生きている時代を慨嘆してもしかたがないけれど、どんな時代にどんな転機があって、こうなってきたのか、ということを考える上で大日本帝国が生まれて敗戦を迎える五十六年間(執筆当時。ゆまコロ注)を読み直すことは不可欠だと思います。

    いま日本人が忘れているのは、もしも日本があの戦争をああいう形ではじめず、第一次大戦と同じように、戦勝国の側に身を寄せていたらどうなっていただろう、と考えてみることです。アメリカどころじゃない、アジアの広大な領域にまたがるとてつもない国になっていたでしょう。しかし、陸軍だの右翼だのの大バカ集団が支配するとんでもないたわけた国になっていたかもしれない。事実、日本は敗戦国の側に立ったために、大国になるどころか、亡国の淵をさまよったわけだけれども、結局、このほうがよかったのかもしれないですね。

(p361)

  

 

最後は死生観についてです。

 

■まあ、死ぬときは死ぬさ


    さて、僕のがんの経過ですが、発見して手術してから、すでに十年以上がたちます。いまは、内視鏡尿道から入れて膀胱内壁を観察するという検査を、半年に一回くらいの頻度で受けています。すでに現役のがん患者という気分はかなりなくなっています。

    ついこの間のことですけど、女医さんが検査をしてくれたんです。尿道に器具を挿入するんですが、女医さんで大丈夫かなあとちょっと不安に思ったんだよね。そしたら、その不安は的中して、器具が尿道にグサリと突き刺さったんですよ。もう、ギャーッという感じでたまらなく痛かった。やはりですね、男性器を持つ者と持たざる者とでは、尿道がカーブする微妙な感覚がわかるわからないということがあると思うんです。もう女医さんは勘弁してほしいと懇願しました(笑)。

    それはいいとして、がんよりも、がん手術の翌年にした心臓の血管内にステント(補強筒)を入れる手術のほうが怖かったですね。

    心臓を動かしている冠動脈二カ所に梗塞が見つかったんです。一つは九〇パーセント梗塞、もう一つは七五パーセント梗塞です。手術は意識覚醒状態で行われるのですが、麻酔中でも聴覚は全部生きていて、手術中の医療スタッフ間のコミュニケーションが全部耳に入ってきました。ステントの挿入前に、バルーン(小さい風船)で血管の狭窄部位を拡げる。圧縮空気の気圧が数気圧から徐々に高められて、ついには二十気圧まで行きました。

「ダンプカーのタイヤだってせいぜい十気圧程度しか入れないのに、血管が破裂してしまうのではないか」と恐ろしくなりました。

    手術後、「バルーンが破裂する可能性はなかったんですか」と医者に聞きました。そしたら「ある」と(笑)。ただし、もし破裂して大出血しても、すぐ開胸手術に切り替えるから、大丈夫だという話でした。

    このときの恐怖にくらべれば、がんなんてちっとも恐ろしくないと思うようになったのも事実です。

    怖いといえば、心臓のほうがずっと怖いのです。心筋梗塞の発作が起きる事態にそなえて、いつもニトログリセリンの錠剤を持ち歩いているのですが、もし発作が起きたら、激痛が来るらしいし、ニトロを飲めば必ず助かるというものでもない。膀胱がんの再発よりも、こちらのほうがずっと怖いわけです。

    しかし、人間たいていのことにすぐ慣れてしまうし、慣れてしまえば、たいていのことが怖くなくなります。僕はいろんな成人病があるので、毎日様々の薬剤を服用していますが、根が楽観的な気性なので、がんも心臓も、その他モロモロも日常的にはほとんど気にしていません。まあ、死ぬときは死ぬさ、と思っている程度なのです。

    そんな「死」が怖くなくなってきた二〇一五年、七十五歳のときに出した本が『死はこわくない』(文藝春秋)です。この本は、その前の数年の間に、さまざまの角度から、人の死について論じた文章を集めたものでもあるのですが、本体部分は七十五歳のときに書いたものです。

    僕の両親は九十五歳まで生きていて、人間の寿命を専門とする学者によれば、その人の寿命にいちばん関係を持つファクターは両親の生きた年齢ということだそうです。僕はもう少し生きのびるらしいが、僕自身としては、もうそれほど生きのびるための努力をしようとは思っていません。自然に死ねる日がくれば、死ぬまでと思っています。


■日本人の死生観

    僕は長い間、人の死とは何かというテーマを追いかけてきました。一九八〇年代後半から九〇年代前半にかけて取り組んだ、脳死問題に関する一連の言論活動でも、死の定義について徹底的に考え抜きました。

    当時、死の定義を拡大して、脳死者からの臓器移植を普及させようとする立場に対して、僕は異議を申し立てたり、記事を書いたりしていました。その頃、移植医療を推進したい側の人たちの集会に呼ばれて議論したことがあります。そのとき、彼らのリーダーから突然、「あなたの死生観はどうなってるんですか」と聞かれたのです。それは僕がまったく予期していなかった質問で、虚をつかれて口をつぐんでしまった。後になって、「あなたの死生観はどうなんだ」というのは、正しい問いの立て方だと思い返しました。結局、その問いにきちんとした答えを持っていないと、あらゆる問題に対して答えようがないのです。

 自殺、安楽死脳死など、生と死に関する問題は一つの問題群として捉えるべきで、それはその人の死生観と切り分けられない問題なのです。どの問題を考えるにしても、結局、自己決定権がある場合は、その人の自己決定に従うしかないだろうし、神あるいは運命に決定権があるような場合には、それに従うしかないだろうと思います。

    人の死生観に大きな影響を与えるのは宗教です。僕の両親はキリスト教徒だったので、一般の日本人の習俗を知らずに育ちました。家には仏壇も神棚もなく、むしろ両親はそういう日本の伝統的な習俗に反対していました。

「死後の世界は存在する」という見方は、日本人一般にとっては馴染みやすいところがあります。お盆になると死者が帰ってきて、仏壇のロウソクの炎をゆらすと教えられて育ってきた人にとっては、この世とあの世がつながっているという考えは自然に受け入れられるものでしょう。日本人の心の世界は、広い意味で、死者の世界との交わりを含めて成立しているように思います。

    どの宗教的なグループに属するかによって、死生観は異なります。日本人の場合は、自分がはっきりと仏教徒であるとか、神道の氏子であるとかと認識している人は少なくて、ぼんやりとどこかのグループに属している状態ですよね。

    仏教でも神道でも、宗派によって死生観はかなり違いがあります。僕は二度目に結婚した人の家の宗教が神道で、葬式が神道で行われるのを経験しているんですが、仏教のゴテゴテとした感じがなくて、自然宗教的スッキリ感にすごく好感を持ちました。キリスト教はほかの宗教をすべて邪教と考える独善性がいやで、大学時代に離れました。いまは哲学的&科学的世界観にもとづく無宗教派といったところでしょうか。

    死後の世界が存在するかどうかというのは、僕にとっては解決済みの議論です。死後の世界が存在するかどうかは、個々人の情念の世界の問題であって、論理的に考えて正しい答えを出そうとするような世界の問題ではありません。

    前にもヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の言葉を紹介しましたね。「語りえないものの前では沈黙しなければならない」。

 死後の世界はまさに語り得ぬものです。それは語りたい対象であるのは確かですが、沈黙しなければなりません。

 


樹木葬あたりがいいかな

 

 二〇一四年のことになりますが、NHKスペシャル立花隆思索ドキュメント臨死体験 死ぬとき心はどうなるのか」(九月十四日放送)で、僕は案内役をつとめました。

 視聴率は一一パーセントを獲得し、大きな反響がありました。

    インターネットでは賛否両論が書きこまれました。「考えさせられた」というコメントが大半を占めていますが、中には激しく番組批判を展開しているサイトもありました。臨死体験を死後の世界の存在証明であるかのように扱い、死後の世界との交流を売り物にしている新興宗教の人々には不愉快だったのでしょう。

    僕は臨死体験に関しては、かなりの時間を割いて仕事にしてきました。まず、NHKと作った「臨死体験 人は死ぬ時何を見るのか」(一九九一年放送、視聴率一六・四パーセント)、そしてその後に書いた『臨死体験(上・下)』(文春文庫)です。二〇一四年に放送された二度目の番組は、前回以上に、臨死体験が起こる仕組みの解明に鋭く迫りました。それが可能になったのは、二十三年前よりも脳科学がはるかに進歩したからです。

    なにしろ二回目の番組は、脳科学の最新の知見を踏まえて、臨死体験は死後の世界体験ではなく、死の直後に衰弱した脳が見る「夢」に近い現象であることを科学的に明らかにしたものだったのです。

    意外だったのは、感謝の気持ちを僕に直接伝えてくれる人がかなりいたことです。高齢の女性が多かったのですが、路上で呼び止められて「ありがとうございました」とよく声をかけられました。それまで何本も大型番組を作ってきたのですが、あのときのように放送後に街で会う視聴者からお礼を言われた経験は記憶にないですね。

    おそらくそれは、番組のエンディングで僕が述べた「死ぬのが怖くなくなった」というメッセージに共感したのだろうと思います。テレビの怪しげな番組に出まくって、霊の世界がどうしたこうしたと語る江原啓之なる

現代の霊媒のごとき男がいますが、ああいう非理性的な怪しげな世界にのめりこまないと、「死ぬのが怖くない」世界に入れないのかというと、決してそうではありません。ごく自然に当たり前のことを当たり前に、理性的に考えるだけで、死ぬのは怖くなくなるということをあの番組で示せたと思っています。

    番組の最後に述べたのは、次のようなことでした。

「この取材を終えて、私が強く感じていることは、約二十年前の『臨死体験』という番組を作ったときにも感じたことですが、死ぬということがそれほど怖くなくなるということです。しかも、前よりも強くそう思います。

 ギリシャの哲学者にエピクロスという人がいるんですが、彼は人生の最大の目的とは、アタラクシア=心の平安を得ることだと言いました。人間の心の平安を乱す最大の要因は、自分の死についての想念です。しかし、今は心の平安を持って自分の死を考えられるようになりました。

    結局、死ぬというのは夢の世界に入っていくのに近い体験なのだから、いい夢を見ようという気持ちで人間は死んでいくことができるんじゃないか。そういう気持ちになりました」

    いい夢を見るために気をつけたいことが一つあります。いよいよ死ぬとなったとき、ベッドは温かすぎたり、寒すぎたりしないようにすることです。暑すぎたり寒すぎたりすると、臨死体験の内容がハッピーじゃないものになってしまうからです。死に際の床を、なるべく居心地良くしておくのが肝腎です。

    死んだ後については、葬式にも墓にもまったく関心がありません。どちらも無いならないで構いません。

    昔、伊藤栄樹と(しげき)いう、現役検事時代にダグラス・グラマン事件などよく知られた事件の数々を手がけた有名な検事総長が『人は死ねばゴミになる』という本を書きましたが、その通りだと思います。もっといいのは「コンポスト葬」です。遺体をほかの材料と混ぜ、発酵させるなどしてコンポスト(堆肥)にして畑に撒くのです。そうすれば、微生物に分解されるかして、自然の物質循環の大きな環の中に入っていきます。

    海に遺灰を撒く散骨もありますが、僕は泳げないから海より陸のほうがいい。コンポスト葬も法的に難点があるので、協点としては樹木葬(墓をつくらず遺骨を埋葬し樹木を墓標とする自然葬)あたりがいいかなと思っています。生命の大いなる環の中に入っていく感じがいいじゃないですか。

(p395)

 

 

覚えておきたい事柄がいろいろあって、長くなりました。

 

筆者が文藝春秋に入社した際薦められて読んだというノンフィクションは、これから探してみたいと思います。

 

・A・チェリー = ガラードの「世界最悪の旅」

・スウェン・ヘディン「さまよえる湖」

・トール・ハイエルダール「コン・ティキ号探検記」

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。

菅原洋平『「寝たりない」がなくなる本』を読んで

 おはようございます、ゆまコロです。

 

菅原洋平『「寝たりない」がなくなる本』を読みました。

 

こんなタイトルの本を手に取るからには、さぞかし少ない睡眠時間で日々過ごしている人間なのかと思いきや、時間的には結構寝ています。なのに、結構いつでも眠いです。眠気を感じなければ、日中活動的に過ごせるだろうな、と思いつつ、読んでみました。

 

以下は、読みながら自己を振り返り、特に、ダメじゃん自分…と思った箇所です。

 

●休日の朝に遅く起きると、かえって疲れが抜けない。寝だめしたければ、起床時間は変えずに、就寝時間を早める「早寝」がいい。

 

 正しい寝だめの方法は、平日と同じ起床時間にいったん起きて、カーテンを開け、部屋を明るくして二度寝をすることです。カーテンが閉まったままの暗い部屋で寝だめをすると、体の疲れがとれなくなってしまいます。

  くわしくはあとでお話ししますが、私たちの生体リズムは、脳が朝の光を感知するとスタートします。


 たとえば、休みの日曜日にこんな経験はありませんか?

 昼まで眠っていて、翌日の月曜日の朝に備えて、夜、早めにベッドに入ったのに眠れなかった……。これは、脳が光をキャッチする時間が遅れたので、眠くなる時間も遅れたという現象です。

 生体リズムは、そのスタートが1時間ずれると、それを戻すのに1日かかります。ということは、平日と休日の起床時間の差が、1時間程度ならば問題ないのですが、休日に3時間寝坊をすると、その後3日間は体がだるい、頭が冴えないなど、疲れがとれなくなるということになります。

 月曜日から調子がイマイチ、木曜日頃からようやくエンジンがかかってきたと思ったら、今週の疲れがたまってきて、土曜日の朝にたっぷり寝だめ。これでは、"お疲れサイクル"から抜け出せなくなってしまいます。


  これを防ぐために、平日と同じ起床時間に、いったんカーテンを開けて、部屋を明るくしてから二度寝することが有効なのです。防犯上問題がなければ、夜、カーテンを少し開けて眠るのもおすすめです。

 二度寝をしていても、明るいところにいれば、脳に光は届きます。目覚めて窓際にいるよりは効果が低いのですが、まずは無理なく、生体リズムを整える行動をとることが大切です。

 また、理想的な寝だめは、起床時間を変えずに、少しでも早寝をすることです。

起きる時間を遅らせるのではなく、寝る時間を早めてストックするのです。

 

 ここで、ちょっと専門的になりますが、大事な話をしておきましょう。寝だめによって起きる時間がずれると、なぜ疲れがたまってしまうのか、ということです。

 私たちの睡眠には、その後半部分は、起きるための準備をする役割があります。

 普段の起床時間の3時間前から、起床物質である「コルチゾール」が分泌されていきます。コルチゾールという名前は聞き慣れないと思いますが、血圧や血糖値を上げて、体を起こしても脳に充分な血流を届ける役割をします。

 

 このコルチゾールの分泌は、時間によって決まるという性質があります。いつも6時に起床している人は、その3時間前の夜中の3時から分泌がはじまります。

 ですが、週末に9時まで眠っていたとします。すると、9時にピークになればいいので、翌日には、9時の3時間前の6時に分泌をスタートすればよい、というプログラムが組まれてしまいます。

 そして月曜日の朝。6時に目覚まし時計で目覚めると、コルチゾールがまった準備されていなかったところから、間に合わせるように急激に分泌されます。

 コルチゾールが過剰に分泌されている脳は、うつ病の状態と同じです。うつ症状の度合いを検査する指標として、コルチゾールの濃度を調べることがあるため、コルチゾールは、別名「ストレスホルモン」とも呼ばれています。

ブルーマンデー」という言葉を聞いたことがあると思います。

 月曜日の朝、憂うつな気分で会社に行きたくない。これは、会社が原因なのではなく、週末に起床時間を遅らせたことが原因だったのです。

 

 普段忙しくて睡眠不足になりがちなら、休日は、起床時間を平日とあまり変えずに就寝時間を早くする、というやり方の寝だめをする。なおかつ、二度寝をしたいときは、いったん明るいところに移動してから二度寝をする。

 この方法で、睡眠不足を確実に攻略しましょう。(p26)

 

 

ゆまコロは休みの日こそ遅起きしていました。コルチゾール過剰分泌させまくりです。

 

●「早寝早起き」ができずに自分を責めるより、寝る時間がバラバラでも、「起きる時間」をそろえるほうがいい。

 

 ビジネスパーソンに睡眠の記録をつけていただくと、よく見られる典型的なパターンがあります。それは、「寝る時間がそろっていて、起きる時間がバラバラ」というもの。

 たとえば、平日は午前0時までには眠るように心がけていて、週末は平日よりもゆっくり起きる、というパターンです。

 これは、人間にとって、最もよくない睡眠リズムをつくることになってしまっています。

 

 これを逆に、「起きる時間をそろえて、寝る時間はバラバラでもOK」というパターンに変えると、よく眠れて昼間の眠気がなくなり、生産性が上がります。

 もし平日が6時起床ならば、休日もできるだけ6時頃に起きるようにします。

 すると、その6時間後の夜の10時頃には自然に眠くなるという、いい睡眠のリズムがつくられます。そして、早く眠れる日は早く眠って、トータルの睡眠時間を増やすようにするのです。

 もちろん、用事があったり、やるべきことがあるときには夜遅くなりますが、眠気はしっかりつくられているので、眠ろうと思ってベッドに入れば、グッスリと眠ることができます。

 これが、現代人の理想的なパターンです。

就寝時間も起床時間もそろえるというのは、現実的にはかなり難しいことなので、「起床そろえて就寝バラバラ」というパターンを目指していきましょう。

 ですから、忙しい私たちにとって、いい睡眠リズムができる「規則正しい生活」とは、「起床時間をできるだけそろえて」というのが正解なのです。(p34)

 

 

休日もいつもと同じ時間に起きると考えただけで、さっそく挫折しそうな気がしていますが、世の皆さまはこんなこと可能なの…??二度寝のために明るい場所に移動しても、そこで昼まで寝ていそうな予感がします。

…なんとか頑張りたいと思います。

 

PMSになる人の特徴。

 

 働く女性に、月経前に、イライラしたり気分が落ち込むなどの月経前症候群(PMS)が非常に多くみられるようになってきました。

 実は「月経のリズム」は、「睡眠のリズム」と深く関係しています。そして、PMSになる人とならない人には、その生活スタイルで、はっきりとした違いがあります。

 それは、PMSにならない人は、月経後の1週間によく眠っているということです。

 

 月経の仕組みでは、排卵から月経までの期間を「黄体期」と呼び、この間は、基礎体温が高くなります。基礎体温が高いと、深部体温リズムは、夜から明け方にかけて体温が低下しにくくなります。

 すると、深い睡眠だけが阻害されて、翌日の日中に眠気が残ってしまいます。月経前に強い眠気に襲われることがあるのは、深部体温の低下が邪魔されることが原因です。ですが、月経後の「卵胞期」には、基礎体温はストンと下がります。

ここからは、深くグッスリと眠れるはずです。

 

 ここで、PMSになってしまう人特有の考え方が影響します。それは「月経前には調子が悪くほとんど何もできないので、調子がよくなってから、できるだけがんばって挽回する」というものです。

 部屋の片づけ等の家事や仕事の残業などをがんばり、よく眠れるはずの卵胞期に、睡眠を削ってしまうのです。

私たち人間の体には、調子がよいときほどしっかり鍛えると、調子が悪くなる度合いが軽くなるという仕組みがあります。

 悪くなってから対処しようと考えていると、なかなか調子はよくなりません。

 これは、睡眠でも同じです。よく眠れるときこそしっかり眠っておく。これによって、不調の度合いが軽くなるのです。

 よく眠れるはずの卵胞期に睡眠を削ってしまうと、それだけ眠る力は低下してしまいます。そして、次の黄体期を迎えると、日中の眠気やイライラが増してしまう。その罪悪感から、その後の卵胞期に、ますますがんばろうとする。

 この悪循環に、はまってしまうのです。

 まずは、よく眠れるときに、眠る力を鍛えるようにしましょう。

 そして、生理前後の体調をよくするポイントとして、月経後1週間の睡眠を充実させるということを実行してみてください。

 睡眠のリズムが整うと、月経のリズムも整っていくことも、医療現場ではよく見られます。

(p52)

 

 

考えてみるとPMSも毎月のように感じています。おっしゃる通り、生理が終わると元気になって張り切ってしまう悪循環でした。

 

●睡眠の力を生かすために。

 

 つい睡眠中は意識がないので、脳も休んでいると考えがちですが、そうではありません。睡眠中の脳は、とても忙しく働いています。

 昼間の出来事の記憶を整理したり、いらない記憶を消去して、今日よりも明日、もっと成長できるように準備をするという仕事があります。

 このような大事な仕事があるのに、ムダな部位を働かせる記憶をつくってしまって睡眠を妨げるのは、とてももったいないことです。

 

 睡眠の力を十分に活かすには、脳が、睡眠という作業を集中して行なえる環境をつくってあげなければならないのです。

 そこで、ベッドの上で眠りに関係ないことをするのを極力控えて、眠るときにだけベッドに入り、「ベッド=睡眠」という記憶をつくることが大切になってきます。

 そうすることで、ベッドに入ると、脳の働きが眠ることだけに集中するので、スムーズに眠りにつくことができるのです。

 

 もし長年、ベッドの上で読書をしながら眠くなるのを待つ習慣がある方は、本を読む習慣は変えなくても大丈夫です。

 ベッドの上でなければいいのです。そうすれば、寝る前に読書をしていても、脳に誤った記憶をつくらずにすみます。

 たとえば、ベッドの横にイスを置き、そこで読書をしてみましょう。

 そして、眠くなったら本を置いてベッドに入る。このようにすれば、「ベッド=睡眠」という記憶をつくることができます。

 同様に、スマートフォンでニュースをチェックしたりメールを返信する、ゲームをする、音楽を聴く……など、寝る前の習慣があったら、ベッドに寄りかかってしたり、リビングで行なったりしてみてください。

 とにかくベッドの上でなければどこでもOKです。場所をベッドの上と切り離すようにしてみましょう。

(p62)

 

 

まさに毎晩布団の中で本を読んでました。それを日々の楽しみとして。

ことごとく良くないことばかりしています。

 

●睡眠リズム=体内時計を正しく働かせるために。

 

 睡眠を整えるとは、「睡眠のリズム」を整えるということです。

そして、睡眠のリズムは、いわゆる"体内時計"の影響を受けるため、この体内時計が正しく働くようにしなければ、いい睡眠はとれません。

 そのためには、体内時計が刻むリズムの規則性をつくる「生体リズム」と呼ばれる、人間の体に本来そなわっている大本(おおもと)のリズムを整えなければならないのです。

 

 私たちの睡眠に関係する生体リズムは3つあります。「メラトニンリズム」「睡眠-覚醒リズム」「深部体温リズム」です。

 この3つのリズムを、普段生活しているだけで整えることができる法則を、「4-6-11の睡眠の法則」と呼んでいます。

 具体的には、次の3つです。

 

①朝――「起床後、4時間以内」に外の光を見る(「メラトニンリズム」を整える)

→目覚めたらできるだけ早いタイミングで、窓から1メートル以内に入るようにする。

 

②昼――「起床後、6時間たったら」仮眠タイム(「睡眠-覚醒リズム」を整える)

→「一分後に起きる」と3回唱えて、1分間、目を閉じるだけでOK!

 

③夕方、 「起床後、11時間たったら」プチ運動(「深部体温リズム」を整える)

→仕事中でも椅子に座ったまま背筋を伸ばし姿勢を良くして体温を上げ、眠る前の深部体温低下に備える。

 (p68)

 

 

3日程やってみましたが、昼、目を閉じるというのが結構忘れがちです。引き続き頑張ってみます。

 

 

●脳をシャキッと働かせるためのチェックポイント。

 

 今度、デスクワーク中に、自分の足元を見てみてください。足の裏がすべて床についていますか? 足の小指側だけや、つま先だけがついている姿勢になっていませんか?

 もし、足の裏全体がついていなければ、これが昼間の集中力と睡眠の質に影響します。

 

 脳が目覚めている度合いである覚醒度と、筋肉の活動とは、密接に関係しています。単純にいうと、体を支える抗重力筋(あご、お腹、ふくらはぎ、もも、お尻、背中などにあります)がしっかり働いているときには、脳がはっきり目覚めています。

 睡眠不足になると、これらの筋肉の活動が低下します。すると、立った姿勢で、あごが上がり、肩が胸よりも前に出て、下腹部が前に出て、足の小指側に体重がのる、いわゆる猫背姿勢になります。

 このような姿勢の人は、睡眠不足の人なのです。

 

 筋肉は、関節と関節をつないでいるだけでなく、隣りの筋肉とつながっていて、このことを筋連結といいます。

 口を閉じる役割のオトガイ舌骨筋は、筋連結でつま先までつながっています。この一連の筋肉の活動が低下すると、口が開くようになります。

 普段から口が開いていることはありませんか?

 口が開いている姿勢が続くと、呼吸は、鼻呼吸よりも口呼吸が優位になります。

 この呼吸グセが、難物です。

 睡眠中に口呼吸をすると、睡眠が浅くなり、日中の頭痛、疲労感、注意力低下の原因になります。

 集中力がなくて仕事がイマイチはかどらないと思ったら、その原因は、昼間の悪い姿勢→口呼吸→睡眠の質が悪化→疲労感が増す→昼間に悪い姿勢になる、という悪循環かもしれません。

 

 そこで、まずは、座った姿勢で、足の裏の全面を床につけてみましょう。自然に、口が閉じてあごが引かれるはずです。

 呼吸は、自然に口呼吸よりも鼻呼吸が優位になります。体にこの鼻呼吸を覚えさせて、睡眠中の鼻呼吸を確保すれば、睡眠の質が上がり、昼間の脳の活動が充実して仕事の質も上がります。

 何も難しいことはありません。ただ足の裏をつけるだけ。それだけで、こんないいサイクルに変わるのです。

(p120)

 

 

当然のように仕事中も食事中も、座っている時はほぼほぼ足の裏は床に着いていませんでした。気を付けます。

 

●睡眠によって記憶を定着させる方法。

 

 深い睡眠は、眠りはじめの3時間程度しか出現しません。ということは、効率よく記憶を定着させたい、と考えるならば、眠りはじめの3時間をより深く充実させることが重要になります。

 深い睡眠をつくるには、深部体温が急激に下がることが重要です。入浴から約1時間後に、急激に体温は下がります。

 この入浴からのー時間が「記憶のゴールデンタイム」なのです。

 脳は、見たり聞いたり触ったりしたことをすべて記憶します。そして、今、記憶しても、あとにほかのものを記憶すると、似ている内容を組み合わせたり、知っていることに置き換えるなどして、加工されます。

 私たちの脳は、自分に都合がいいように加工しながら記憶しているのです。

 ですから、自分が覚えたことを正確に記憶させたいと思ったら、できるだけムダに加工されずに、きれいな状態で保存するようにしましょう。

 そのためには、眠る直前に覚えることが有効です。脳は、眠る直前に覚えた記憶から、さかのぼってリプレーをしながら定着させていきます。

 

 入浴後の1時間で、自分が最も重要だと思っていることを学習してみましょう。

 そしてそのまま眠ります。深い睡眠によって、きれいに記憶が定着するのです。

 間違っても、学習後にご褒美として、ネットを見たりマンガを読んだりゲームをしないようにしてくださいね。これらのことをすると、ご褒美の行為のほうが記憶として定着してしまい、大事な記憶が残らなくなりますので。

 

(p132)

 

 

学習後にマンガを読んだり…、めっちゃめちゃしていました。もっと早く知りたかった…。

 

●元気と若さを作る、「成長ホルモン」を増やすには。

 

 グッスリ眠れた翌日は、疲れがとれただけでなく、何だか体が軽く感じる、肌の調子もいいなど、体も見た目もコンディションがよくなることを感じたことがあると思います。

 実はこれ、眠っている間に「成長ホルモン」が増えたことの表われなのです。

 

 私たちの体に大事な成長ホルモン。

「寝る子は育つ」とされる理由です。

 特に子どもにとっては、骨や筋肉の発達という点で重要ですが、大人にとっては、体内でエネルギーをつくる、つまり、代謝を促進するという点で非常に重要です。

 成長ホルモンが多いと、それだけエネルギーにあふれ、若々しくいられるのです。

 この成長ホルモンは、脳の中の下垂体から分泌されますが、その分泌量は、残念ながら、思春期にピークを迎え、通常は年齢とともに低下していきます。

 では、成長ホルモンを増やすことはできないのでしょうか?

 

 成長ホルモンが増える要因は、低血糖、絶食、たんぱく質の摂取、運動、発熱、そして睡眠です。

 反対に、成長ホルモンが減る要因は、心理的ストレス、ブドウ糖、起床物質・コルチゾールの分泌です。

 つまり、糖分を控えたり、睡眠が多くなると、元気と若さをつくる成長ホルモンが多くなるということです。

(p164)

 

 

疲れた時にブドウ糖の摂取、コルチゾールの分泌は積極的に行っていたな、と反省しました。

 

●鉄分不足が引き起こす睡眠の妨げ。

 

 眠ろうとすると、足を動かしたいような落ち着かない感じになる。足に虫がはったような感じがする。そして、「眠れない!」と思って立ち上がると治ってしまい、また眠ろうとするとムズムズしてくる……。

 これは、「むずむず脚症候群」(レストレスレッグス症候群)と呼ばれています。

 薬での治療が必要になるのですが、病院などに行く前に、試していただきたいことがあります。それは、鉄分の補給です。よく治療には、ドーパミン作動薬といって、ドーパミンの働きを促進させる薬が使われます。むずむず脚症候群が、ドーパミンの不足によって起こるという原因に対処しています。

 ここで、もう少し考えを深めてみると、ドーパミンが足りないならば、もっとつくられやすいようにサポートすればいいことになります。

 ちょっと専門的な話になりますが、ドーパミンのもとになっているのは、チロシンという物質。このチロシンドーパミンに変わる介在をする(手伝いをする)のが、鉄イオンです。鉄イオンがないと、ドーパミンが減ってしまうのです。

 そして、鉄は、体内でつくることができないので、食べ物やサプリメントで補わなければなりません。

ですから、むずむず脚症候群の人は、鉄の補給が必要なのです。反対に、鉄不足になると、むずむず脚症候群になりやすくなる、ともいえます。

 実は、このむずむず脚症候群を最も経験するのが、妊娠中の女性です。急激に鉄が失われる状態になると、なりやすいのです。また、男性でも、50歳を超えると経験することがあります。

 いずれにしても、普段から鉄不足にならないようにしておくことは、将来のむずむず脚症候群を予防することにもなる、と知っておきましょう。

(p212)

 

 

睡眠とは全く関係ないと思っていましたが、10年以上健康診断で貧血と診断され続けています。鉄剤を処方されることもあります。むずむず脚症候群の症状もありました。なんとなくやり過ごしていましたが、鉄不足だという体のサインだったんだなと思いました。

 

こうしてみると、いつも寝たりないのは、自業自得であるらしいことが分かりました。

正直できるかどうか怪しい部分もありますが、こんなにやっちゃダメなことがたくさん明らかになったので、出来るものだけでも取り入れたいと思います。

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。

 

ポール・オースター『闇の中の男』を読んで

おはようございます、ゆまコロです。

 

ポール・オースター柴田元幸(訳)『闇の中の男』を読みました。

 

作中で更に違う物語が展開される「物語中物語」が面白い(場合によると本編よりも)のは、オースター作品ではよくあることですが、今回は物語中物語とメインの話との関係が近い感じがします。

(語り手の老人を、物語中物語の青年が殺そうとしているので。)

 

他に、ユダヤ系の家族のもとに育った少女がナチス親衛隊の大尉から手紙をもらう話や、主人公の妻の又従兄が恋した先生が辿った強制収容所での末路など、ドキドキしました。(フィクションとは思えないのですが、どうなんでしょう。)

 

でも、物語終盤で明かされる、主人公の孫娘のボーイフレンドがイラクに行った事件がもっとも衝撃的でした。

 

そんな盛りだくさんの話の中で、突然主人公による書評や映画の話が出てきます。

この中で語られる一つ、『東京物語』(小津安二郎監督)の話が、オースターらしい感想で興味深いです。

 

  老人はまずノリコに、いろいろ本当にありがとう、と礼を述べる。だがノリコは首を振って、いいえ、何もしてさし上げられなくて、と答える。老人はなおも言う。いやいや本当に助けてもらったよ、あんたがどれだけよくしてくれたかお母さんも言っておったよ。ノリコはふたたびその賛辞に抗い、わたくしのしたことなんてつまらないどうでもいいことです、と片付ける。老人はそれでもなお、ノリコさんと一緒だったときが東京にいて一番楽しかったとお母さん言っておったよ、と彼女に告げる。そしてさらに、お母さんあんたの将来をひどく心配しておったよ、と言う。あんた、このままじゃいかん。再婚せんといかんよ。Xのことは(老人の息子、ノリコの夫のことだ)忘れなさい。あの子はもういないんだから。

  ノリコは見るからに落着きを失い、答えを返すこともできないが、老人の方はここで引き下がる気はない。ふたたび自分の妻に言及して、さらに言う。あんたほど素晴らしい人はいないとお母さん言っておったよ、ノリコもあとには引かず、お母さまはわたくしのことを買いかぶっていらしたんですと返すが、いやいやそれは違う、と老人は言い放つ。ノリコはもうすっかり取り乱している。わたくし、お父さまやお母さまが思ってらっしゃるようないい人間じゃないんです、と彼女は言う。わたくし、ほんとにずるいんです。そして彼女は、いまではもういつも老人の息子のことを考えているわけではないのだ、彼のことが一度も頭に浮かばぬまま何日も過ぎたりするのだと明かす。それから少し間を置いて、いま自分がひどく寂しい思いでいて、夜眠れないとき寝床に横になったまま自分はこれからどうなるのだろうと思ったりすると打ちあける。わたくしの心が何かを待っているみたいなんです、と彼女は言う。わたくし、ずるいんです。

 

老人   いやあ、ずるうはない。

ノリコ  いいえ。ずるいんです。

老人   あんたはええ人じゃよ。正直で。

ノリコ  とんでもない。

 

  その時点で、ノリコはすっかり自制を失い、泣き出す。水門が開くとともに、彼女は両手で顔を覆ってすすり泣く。あまりに長いあいだ、この若い女は何も言わずに苦しんできた。自分がいい人間だということをこの女は決して信じようとしない。なぜならいい人間だけが自分の善良さを疑うからだ。だからこそそもそもいい人間なのだ。悪い人間は自分の善良さを知っているが、いい人間は何も知らない。彼らは一生涯、他人を許すことに明け暮れるが、自分を許すことだけはできない。

(p94)

 

 

オースターが映画の中で感銘を受けたシーンを丁寧にすくい取っていて、作品への愛が感じられます。

 

またこの本で印象深いのは、(本編ではなくて恐縮なのですが、)あとがきの中でオースターが911に関して答えたインタビューです。 

 

 当時の日々を私ははっきり覚えている。まだわずか七年前のことだ。当時、ずいぶんたくさんインタビューを、外国の報道機関相手のインタビューを受けた。ここブルックリンで、わが家に煙が流れ込んでくるなか、私は何も書ける状態ではなかった。実際、当時は「幻影の書」を書き終えたばかりで、どのみち何もしていなかったところへ、ヨーロッパや日本のラジオ局やテレビ局から次々電話がかかってきてコメントを求められたんだ。そしてこのときばかりは、私も応じた。自分が何度も何度もこう言ったことを覚えている――

「恐ろしいことが起きました、それは確かです。

 しかし、これは我が国にとって一種の目覚めよコールであるべきです。私たちはいま、自分たちを創り直す大きな機会を手にしています。石油とエネルギーに関して自分たちの立場を考え直し、よその文化、よその国々との関係を考え直し、なぜよその人々が私たちを攻撃したいと思うのかを考え直すチャンスなんです」。

 そうやって、いろんな提案を私は口にした。私はいまでも、私たちがこの国に意味ある変化をもたらす絶好の機会を逃したと信じている。アメリカの国民は、そうした変化を起こす態勢も気持ちもできていたと思う。なのにブッシュ政権が、過度に単純な、ほとんど病的に愚かしい対応をしてしまった。それができたのは、みんなが持っていた恐怖心につけ込んだからだ。もともとみんなの心にあった正当な恐怖心に加えて、ブッシュとその相棒どもはさらに恐怖を煽り、国民を従わせたんだ。

(2008年9月6日、The A. V. Club インタビュー。http://www.avclub.com/article/paul-auster-14299)

(p229)

 

いつものオースター作品と比べると、若干寄せ集め感を感じなくもないですが、でも面白かったです。

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。

 

 

アビジット・V・バナジー, エステル・デュフロ『絶望を希望に変える経済学』を読んで

おはようございます。ゆまコロです。

 

 アビジット・V・バナジーエステル・デュフロ、村井章子(訳)『絶望を希望に変える経済学』を読みました。

『ファクトフルネス』に似ていると聞き、読んでみました。

 

この本で印象に残ったのは以下の部分です。

 

 

自分と同類とばかり一緒にいると、ちがう視点に立てなくなり、ちがう価値観を理解できなくなる。これは大きなデメリットだ。その結果、ワクチン接種が自閉症の原因になるといった根も葉もない主張がいつまでもはびこることになる。すでに述べたように、人々は合理的な判断に基づき、自分自身の意見を引っ込めてまで集団に従うものだ。だが、集団の外の意見が遮断されていたら、事態は一段と悪化するだろう。最終的には異なる意見を持つ排他的な集団がそれぞれに孤立し、他の集団とはほとんどコミュニケーションをとろうとしなくなる。法学者のキャス・サンスティーンは、こうした現象をエコー・チェンバー[残響室]に喩える。同じような意見を持つ人たちが長い残響が生じる部屋にこもり、互いの言うことがわんわん響く中で同じ考えばかりを延々と聞いている、というほどの意味だ。

 

 その結果として生まれるのが極端な二極化である。二極化現象は、客観的な事実を巡っても生じることがある。たとえばアメリカ人の四一%は人間の活動が地球温暖化を招いたと考えているが、ぴったり同じだけの人が温暖化は自然の周期的現象である(二一%)、または温暖化など存在しない(二○%)と考えている。ピュー研究所が地球温暖化に関する世論調査をしたところ、人々の意見が政治的立場に沿ってほぼ真っ二つに分かれていることがわかった。大気温の上昇を示す確かな証拠があると考える人は、民主党支持者のほうが共和党支持者より圧倒的に多い(八一%対五八%)。また人間の活動が原因だと考える人も、同様の傾向を示した(五四%対二四%)。だからといって、民主党支持者のほうが科学を信奉しているとは言えない。

 たとえば遺伝子組み換え食品は健康に悪いとは言えない、というのが科学界の一致した意見だが、民主党支持者の多くは、そうした食品を避けられるよう、遺伝子組み換えの表示をしてほしいと考えている。

 

 いつも同種の人とばかり一緒にいると、ほとんどの問題について同じ意見を持つようになる。集団の強硬な意見を前にすると、政治に関して是々非々で臨むことは次第に困難になってくる。たとえ集団の意見は正しくないと個人的には感じていても、だ。それを端的に物語るのがアメリカ議会である。

 民主党議員と共和党議員は、もはや同じ言葉を使っていない。政治経済を専門とするマシュー・ジェンツコウとジェシー・シャピロは、下院の現状をこう語る。「民主党議員が 不法就労者”と呼ぶものを共和党議員は、不法入国者』と呼び、民主党議員が~富裕層向け優遇税制』と呼ぶものを共和党議員は税制改革と呼ぶ。二〇一〇年医療保険制度改革法[いわゆるオバマケア]にいたっては、民主党にとっては包括的な医療改革、だが、共和党からすれば “政府による医療の乗っ取り" だ」。こうした状況だから、いまや議員の口から出る言葉を聞くだけで、その人の政治的立場を簡単に推定できるようになった。党派固有の言葉を使うという意味での党派性は、ここ数十年で大幅に強まっている。一八七三年から一九九〇年代前半まではそれほど変化はなく、強い党派意識が認められる議員は全体の五四%から五五%に増えただけだが、一九九〇年以降に急増し、第一一○回議会(二〇〇七~〇九年)には八三%に達した。

 

(p186)

 

 

 

違う価値観を理解できなくなり、他の集団とコミュニケーションを取らなくなる、というところに怖くなりました。

 

 ここまでに論じてきたように、他人に対する反応は自らの尊厳やプライドと深く関わっている。人としての尊厳を重んじる社会政策でなければ、平均的な市民の心を開き、寛容な姿勢を生み出すことはできないのではないかと強く感じる。

 政府の政策としては、集団のレベルで介入できることもある。人種差別、反移民感情、支持政党のちがいによるコミュニケーションの断絶といった問題の多くは、初期段階で接触のないことに原因があると考えられる。心理学者のゴードン・オルポートは、一九五四年に「接触仮説 [contact hypothesis]」を発表した。適切な条件の下では、人同士の接触が偏見を減らすうえで最も効果的だという考え方である。他人と時間をともにすることで、相手をよく知り、理解し、認められるようになる。その結果、偏見は消えていくという。

 

 接触仮説の正否を確かめる実験が何度も行われてきた。最近発表された実験評価では、二七件のランダム化比較試験(RCT)を精査し、全体として接触は偏見を減らすことを確認した。ただし接触の性質が重要であると注意を促している。

 もしこれが正しいなら、学校や大学は重要な存在になる。異なるバックグラウンドを持つ子供たちや若者が、まだしなやかな心を持つ年齢のときに一つの場所で一緒に過ごすのだから。アメリカのある規模の大きい大学では、一年次にルームメートがランダムに割り当てられる。一年次の学部生を対象に調査を行ったところ、たまたまアフリカ系アメリカ人と同室になった白人学生は、アファーマティブ・アクションを強く支持するようになったことがわかった。また移民と同室になった白人学生は、自分でルームメートを選べる二年次以降になってもマイノリティと進んで付き合うようになったことが確かめられている。

 

 このような接触はもっと早い時期から始めることも可能だ。デリーで二〇〇七年に導入されたある政策は、生まれも育ちも異なる子供を一緒にすることの効果を雄弁に物語っている。この政策では、デリーのエリート層向けの私立小学校に貧困家庭の児童の入学枠を設けることを義務づけた。この政策の効果を調べた秀逸な実験がある。実験では、貧しい生徒の入学枠が設けられている学校と、そうでない学校でランダムに選んだ子供たちに、リレーのメンバーを選ぶ役割を与えた。また前者の学校では、さらにランダムに子供たちを分け、一方は貧しい子供と一緒の勉強グループに入れ、もう一方はそうしなかった。リレーのメンバーを選ぶ前にかけっこのテストを実施し、誰が速いか見きわめられるようにした。ただし選ぶには条件がある。メンバーに選んだ子供と一緒に遊ぶ約束をすることだ。結果は鮮烈だった。入学枠のない学校の富裕な家庭の子供は、貧しい子をメンバーに選ぼうとしなかった。貧しい子のほうが足が速かったのに、である。入学枠があり貧しい子をすでに見慣れている子供は、たとえ貧しくても足の速い子を選んだ。その子と遊ぶことも別に苦にならなかったのだろう。そして、貧しい子と一緒の勉強グループにいる子供は、一緒に走ろうと積極的に誘って遊んだ。慣れ親しんでいるというだけのことが、この魔法のような効果を発揮したのである。

 

(p200)

 

 

ちょっといい話です。

偏見をなくすヒントがあるように思いました。

 

 中国は、ベトナムミャンマーと同じく市場経済を採用してはいる。だが資本主義への中国のアプローチは、古典的なアングロサクソン・モデルともヨーロッパ・モデルともかなりちがう。二〇一四年にフォーチュン・グローバル五○○社にランクされた中国企業九五社のうち七五社までが、一見すると民間企業のように経営されているが、実際には国営なのである。

 また、中国の銀行の大半も国営である。国レベルでも地方レベルでも、政府は土地や信用をどう割り当てるか決めるうえで中心的な役割を果たしている。政府は企業の人事にも介入するし、産業別の労働者の割り当ても指示する。さらに中国は人民元のレートをここ二五年にわたって実力以下の水準に維持し、その代償として超低金利アメリカに何十億ドルも貸す格好になっている。加えて土地はすべて国家の所有である中国では、どの土地を誰が耕作してよいかを地方政府が決めているのだ。これが資本主義だと言うなら、中国型資本主義とでも言うほかあるまい。

 昨今もてはやされている中国経済の奇跡を予想していた経済学者は、一九八〇年には、いや一九九○年にもほとんどいなかった。しかしいまでは、貧困国のどこかが中国をお手本にしないのはなぜだろう、という質問が経済学者から出るまでになっている。もっとも、中国の発展過程のうちどこをまねすればいいのかははっきりしない。貧しく汚かったが教育と医療だけはすばらしく、所得分配が均等に行われていた鄧小平の中国だろうか。それとも、かつてのエリートの文化的優位を一掃し万人平等を実現しようとした文化大革命時代の中国、あるいは日本の侵略と屈辱を受けた一九三〇年代の中国、あるいは中国五○○○年の歴史そのものだろうか。

 日本と韓国の場合は、もうすこし話が簡単になる。両国はいずれも政府が積極的な産業政策を導入し(今日でもある程度はそうだ)、どの産業を輸出産業として振興すべきか、どこにどれだけ投資すべきかを指導していた。またシンガポールでは、国民は所得のかなりの割合を強制的に中央積立基金に徴収され、当人の医療費や年金に充当される。

 こうした特徴的な政策が経済学者の間で話題になるときはいつも、日本や韓国やシンガポールが驚異的な成長を遂げたのはこうした政策を実行したからなのか、それともこのような政策が行われたにもかかわらず成長したのか、ということが問題になる。そして読者のご想像のとおり、結論は出ない。東アジア諸国は単に幸運だったのか、それとも彼らの成功から学ぶべきことはあるのだろうか。これらの国々はいずれも高度成長を遂げる前に戦争で荒廃している。となれば、高度成長の一部は自然な揺り戻しだった可能性はある。東アジア諸国の経験から成長の要因を抽出できると考える人たちは、まだ夢を見ているのだろう。成長の決め手といったものは存在しないのである。

 

(p269)

 

 

 アジアに対する客観的な考察が興味深いです。

 

 本章でこれまで論じてきたことを総合すると、経済成長について何がわかったと言えるだろうか。まず、ロバート・ソローは正しかった。一国の一人当たり所得が一定の水準に達すると、たしかに成長は減速するように見える。技術の最先端にいる国、これは主に富裕国だが、これらの国々における全要素生産性(TFP)の伸びは、謎である。どうすればTFPを押し上げられるかはわかっていない。

 そして、ロバート・ルーカスもポール・ローマーも正しかった。貧困国にとって、ソローの言う収束は自動的には起きない。これはおそらく、スピルオーバー効果が期待できないからだけではあるまい。貧困国のTFPの伸びが先進国より大幅に低いのは、市場の失敗が最大の原因だと考えられる。裏を返せば、事業経営に適した環境が整っていれば市場の失敗を是正できる限りにおいて、アセモグル、ジョンソン、ロビンソンも正しかったことになる。

 それでもなお、彼らはみなまちがっていた。一国の経済成長も一国のリソースも総和として捉え(労働力人口、資本、GDPなど)、その結果として重要なことを見逃してしまったからである。非効率なリソース配分についてわかったことを踏まえると、私たちがすべきなのはモデルで考えることではなく、現実にリソースがどう使われているかを見ることだ。ある国がスタート時点ではリソース配分がひどくお粗末だとしよう。たとえば共産主義経済だった頃の中国や極端な経済統制を行っていた時期のインドがそうだ。このような国では、リソースを最適の用途に再配分するだけで大きなメリットが得られる。中国のような国があれほど長期にわたって高度成長を続けられたのは、彼らが人材や資源をまったく活用できていない状態からスタートし、それを最適活用できるようになったからだと考えられる。このようなことは、ソロー・モデルでもローマー・モデルでも想定されていない。彼らのモデルでは、成長するためには新しいリソースか新しいアイデアが必要だということになっている。これが正しいなら、無駄になっていたリソースの再配分が一段落すると、成長のためには新たなリソースが必要になるので、成長に急ブレーキがかかることになるのかもしれない。中国の成長鈍化の可能性について多くの分析がなされてきたが、とうとう現実に成長は減速しているし、これは将来も続きそうだ。中国の指導者がいま何をしても、この流れは止まらないだろう。中国はキャッチアップをめざしてひた走っていた時期にハイペースでリソースを蓄積し、あきらかに非効率な配分は是正された。したがって、現在では改善の余地が乏しくなっている。中国経済は輸出に依存しているが、世界最大の輸出国になってしまったいまとなっては、世界経済の成長より速いペースで輸出を拡大することはもはや不可能だろう。中国は(そして他国も)、驚異的なスピードで成長できる時代はもう終わりに近づいているのだという現実を受け入れなければなるまい。

 

 ではこの先どうなるのか。これについては、アメリカはすこし安心できそうだ。一九七九年にハーバード大学教授のエズラ・ヴォーゲルが『ジャパン・アズ・ナンバーワン』 [邦訳:TBSブリタニカ] を発表し、日本はもうすぐすべての国を抜き去って世界一の経済大国になると予言した。欧米は日本モデルから学ぶべきだと教授は主張している。良好な労使関係、低い犯罪率、すばらしい学校教育、エリート官僚、先見的な政策こそが恒久的な高度成長の処方箋だというのである。たしかに教授の言うとおり、日本が一九六三~七三年の平均成長率をその後も続けていたら、一人当たりGDPで一九八五年にはアメリカを抜き、一九九八年にはGDP総額でも抜いていたはずだ。だがそうはならなかった。『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が出版された翌年の一九八〇年に日本の経済成長率はがくんと落ち込み、その後は以前の水準に戻っていない。

 ソロー・モデルによれば、理由は単純だ。低い出生率とほぼ移民の流入がないせいで、日本の人口が急速に高齢化したからである(それはいまも続いている)。生産年齢人口は一九九〇年代後半にピークを打ってからは減り続けている。したがって、成長を維持するためにはTFPが以前にも増して伸び続けなければならない。さもなくば、何か奇跡を起こして労働生産性を大幅に押し上げるほかない。なにしろ、どうすればTFPを伸ばせるかはわかっていないのである。

 日本が絶頂期にあった一九七〇年代には、奇跡が可能だと考える人もいた。彼らは貯蓄をし、一九八〇年代に入って成長が鈍り始めたにもかかわらず日本に投資し続ける。一九八〇年代のいわゆるバブル経済の中、あまりに多くの資金がわずかばかりの有望そうなプロジェクトに投じられた。その結果、一九九〇年にバブルが崩壊すると、銀行は多額の不良債権を抱えて立ち往生することになる。一九九〇年代の日本は危機に翻弄された。

  中国はいまある意味で同様の問題に直面している。中国も高齢化がハイペースで進行中だ。その一因は一人っ子政策にあり、この政策の影響を逆転するのはむずかしい。中国の一人当たり所得はいずれアメリカに追いつくのかもしれないが、現在の成長鈍化を見る限りでは、それはだいぶ先になるは中国の成長率が年五%に落ち込んでそのまま横ばいになることは大いにあり得るし、これでもかなり楽観的な予想と言えるだろう。そしてアメリカの成長率が一・五%程度まで戻してくれば、中国が一人当たり所得でアメリカに追いつくのは最低でも三五年はかかる計算だ。思うに中国政府はソローの言うことを受け入れてすこし気を楽にすべきだろう。そう、成長というものは減速するのである。

 おそらく中国はそのことに気づいており、国民にこの事実を知らせようと意図的に努力もしている。それでも、彼らの掲げる成長目標はいまだに高すぎるようだ。危険なのは、指導部がその目標に縛られてしまい、なんとしても成長を取り戻そうと偏った決定を下してしまうことである。日本はまさにこれをやっていた。

 もしリソースを非効率に配分すれば経済成長を牽引できるなら、あれこれ奇抜な戦略を採用すれば成長を実現できることになる。一国の中でリソースを歪んだ形で割り当てるような戦略は、これに該当するだろう。たとえば中国と韓国の政府は、規模が小さすぎて経済上のニーズを満たせていない部門を見極め(過去に鉄鋼や化学品など重工業を優遇してきたせいである)、政府による投資その他の介入を通じて資本を優先的にこうした部門に投下し、効率的なリソースの活用を促進した。

 この戦略は両国ではうまくいったが、だからと言ってどの国でもうまくいくとは限らない。経済学者は一般に産業政策というものを非常に警戒する。これにはもっともな理由がある。国家主導で行われた投資の過去の成績は、ひどくお粗末なのである。たとえ誰かお友達や既得権団体を依店贔屓しない場合であっても判断ミスが多いうえ、依店贔屓が横行しているのだからなおさらだ。市場の失敗があるのと同じで、政府の失敗も大ありである。

 

(p290)

 

 

成長にとらわれ過ぎるとその先には何が待っているのか、よく考える必要があると思いました。

 

論点は『ファクトフルネス』と近いものがあるけど、ではどうしたら良いのか?というところに踏み込んでいるのが、好感が持てました。

電車で読むのはちょっと重かったけど、読んで良かったです。

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。

 

 

マリア・シャラポワ『マリア・シャラポワ自伝』

おはようございます、ゆまコロです。

 

大阪なおみ選手、国枝慎吾選手、全米オープン優勝おめでとうございます。

今回の本はテニスに関連して、マリア・シャラポワ、金井真弓(訳)『マリア・シャラポワ自伝』です。

 

 ボールを打つことはいつでも大好きだった。4歳のときからずっと。ボールを打てば、どんな問題も片づいてしまう。ウィンブルドンで悔しい負け方をして、うまくいくはずだったことが失敗したら?ラケットを取り上げてボールを打とう。ガットに当たるボールの感触、体を駆け巡る興奮が何もかも解決してくれる。ボールを打っていると、今現在へと心が戻ってくる。花が咲き、鳥が歌っているところへ。世界の反対側から悪い知らせが届いたって?祖母が亡くなり、長時間のフライトと葬儀が待つだけだって?ラケットを取ってボールを手にしよう。そして打つのだ。ルールが変わったことを知らなくて、突然、何年ものんでいた薬にすべてを破滅させられたって?ラケットを取り上げてボールを打つのよ!(p13)

 

私事ですが、ゆまコロはテニスを始めて3年目です。まだ経験者には全く歯が立たないほどの稚拙なプレーヤーですが、そんな私にも、「花が咲き、鳥が歌っている」という表現は分かる気がしました。目の前のことだけに集中できる喜びや面白さを表しているのだと思いますが、親近感が湧きます。

 

14歳の頃にはトーナメントでプレーするようになっていたシャラポワですが、その時点で既に身長188センチとなった彼女は、体の成長についていけず、自分の手足をうまく扱えなくて、連敗が続くようになります。その頃を振り返った描写がこちら。

 

「何が起こっているの?」と考えたことを思い出す。両親もわたしの変化に気づいていた。このときまではとてもうまくいっていたのだ。年齢別のランキングで上位になり、ほとんど毎回、決勝に進んでいた。なのに、今はどうだろう!悪戦苦闘していた。両親はわたしを助けようとしてくれたが、自分以外の人間にできることは限られている。結局、自力で解決するしかない。前途有望なキャリアを持った多くのプレーヤーがこんな形で終わってきた。そんな選手たちの名も、彼らの悲しい物語も世間は知らないだろう。そのようなプレーヤーのリストに自分の名も連なるのかという恐れ。悪夢だったし、不確実なことだらけだった。でも、あとから振り返ると、そんな経験が最終的には有益だったと思う。勝利している間は、すべてが計画どおりに運んでいる間は、誰でも落ち着いて冷静でいられる。でも、連敗しているときはどう対処したらいいのか?大きな問題だ。プロをアマチュアと分ける教訓だろう。

 

 実際のところ、勝利よりも敗北から学ぶもののほうがはるかに多い。テニスというゲームや自分自身について。叩きのめされても、起き上がれるだろうか?突き進んでいけるだろうか?自分の仕事がふいに無意味なものに思えたとき、単に試合のためだけの試合をしているとき、みんなを失望させているのではないかと不安なときに。倒されても、もう一度だけ立ち上がれるだろうか?あるいは、やめてしまう?それこそ、何年も前にヤドキンが話していたタフさだった。災難が実際に降りかかってくるまで、自分がどんな反応をするのか誰にもよくわからないものだ。

 

 わたしが自信を完全に失ってしまうことはなかった。たぶん若すぎて、自信という概念を知らず、自信が必須のものだということを充分には悟っていなかったのだろう。わたしは自信を持っていただけだった。自分の勝利を信じずに試合に出たことはなかった。負けたときでも、しかも相当負けたのだけれど、前進していると信じて疑わなかった。正しい道を進んでいて、計画どおりなのだと。ひたすら打ち続けるだけだと、自らに言い聞かせていた。フラットで深いストローク。どんなショットが来るよりも速く動く。どの試合でも。いずれ、何か突破口が開けるだろう。

 そのような状態がいつまで続いたのか、正確にはわからない。ちゃんと調べれば、敗北した数はわかるだろうが、もう終わったことだと思っても、そんなことをしたい人はいるだろうか?永遠に続く気がしたというだけで充分だろう。どんなことをしても、何も変わらないようだった。それからある日、変化があった。とうとう私の脳は自分の体を理解し始めたのだ。勝利の間に起こったことではなかったし、たちまち変わったわけでもなかった。変化が起こったのは敗北のさなかだった。観客にとって、それはまたしても負け試合にしか見えなかっただろうが、何か重要なものが変わったのだ。気づくためにはテニスをきちんと知らなければならないような微妙な変化だった。

(p134)

 

「災難が実際に降りかかってくるまで、自分がどんな反応をするのか誰にもよくわからないものだ。」本当にそうなんだろうな、と思います。彼女の場合は体の成長なので、事態に備えることはできないし、ましてやこれが悪夢を引き起こすようなことになろうとは誰も予想できなかったでしょう。

 

練習用コートから半マイル(800メートル)ほどのところにある、朝食つきの宿のような家をすぐ予約してくれたのだ。時代を経た大きな家で、屋根窓や張り出し部があちこちにあった。広々とした美しい芝生があり、いくつもの大きな部屋には大きな窓があって、ゆったりしたフロントポーチが備わっていた。とにかくそこが大好きになった。その家は間違いなく、ウィンブルドンでのわたしの成功の一部、成功の秘訣の一部だった。おかげで心の準備がしっかりできた。わたしたちだけで3階部分を丸ごと使えた。持ち主は3人の子どもがいるすてきな夫婦だった。いちばん下の子は2歳。大きな試合を戦うときに2歳児がまわりにいるのはいいものだ。2歳の子どもは好奇心があるけれど、本当に何かにこだわったりしないし、無頓着さや何も気にしないから幸せという態度を見て、結局のところ、こんなことはみんなどうってことないのだと思い出させてくれるからだ。今いるチャンピョンたちも、10年後には別のチャンピョンたちに代わっているだろう。いつか消え去るのだから、ただ楽しめばいい。2歳児からそんなことを教わるはずだ。くつろいで楽な気分で試合できるようにさせてくれるものは、心の持ち方だ。用心はするけれど、慎重になりすぎない状態で試合に臨むプレーヤーは実に危険な相手となる。たとえ、たった17歳でも。

(p178)

 

「ただ楽しめばいい」と、17歳の時点でのシャラポワが考えたのか、それとも振り返ってこう

表現しているのかは分かりませんが、このあと彼女はウィンブルドンで優勝します。その成功には何が作用したのか?と思い返して、2歳の子どもとの触れ合いを挙げるのが興味深かったです。

 

最高のテニスをしたのは第3試合だった。少数の観客を前にしたセンターコートでの初めての試合で、対戦相手はダニエラ・ハンチュコバ。ハンチュコバはスロバキアの選手でトップテンにランキングされたこともあった。彼女はインディアンウェルズ・マスターズで優勝したことがあり、ウィンブルドンでは準々決勝まで進んだ経験がる。グラスコートではとても上手なプレーヤーだった。こんなとき、最高のテニスができる。優れた相手のおかげで、自分でも思いがけないすばらしいショットができるようになるのだ。

 

 この試合への意欲をかきたてたものは何だったのだろう? コイントスのために顔を合わせたとき、わたしは気づいた。嘘でしょ! ウェアが同じじゃないの! ぞっとしたことに、ハンチュコバとわたしは同じナイキのウェアを着ていたのだ。彼女のせいじゃなかったけれど、わたしはそれがひどく気に入らず、こんなことが二度と起こらないようにしようと思った。どうやって? 契約更新のサインをしたとき、ナイキはある条項をそこに含めたのだ。出場するどの試合でも、わたしが自分だけのウェアを身につけること、という条項をーーナイキがスポンサーになっていても、ほかの女子プレーヤーはわたしと同じウェアを着られないということだ。とにかく、その夜はいらだちを感じたおかげで、試合にうんと役に立つ鋭さが加わった。

 その日、わたしがハンチュコバに対してあげたポイント、無限に続く気がしたラリーーーそういうものは今でも感じられる。ラケットのガットに当たったボールの重み、ラインをわずかにとらえたコート対角線へのウィナー〔訳注・ラリーで相手のラケットがボールに触れずに決まったポイントとなるショット。〕ここへ来るまでは長い道のりだった。スペインで幕を開け、ドイツとイタリアでいくつもの大会に出て、全仏オープンでは過去最高のところまで勝ち進み、バーミンガムで優勝した。練習と試合に時間をそそぎ込み、今やすべてのものがピタッとはまっているところだった。人生でもっとも完璧なテニスみたいに感じた。エラーはほとんどなく、あらゆるショットを打ち、ボールはまさに狙い通りの場所に着地した。これが本物だと思えたのは、単にポイントやサーブの点だけではなかった。自分の心の状態、集中力の強さだ。わたしはうまくいく方法を見つけたのだった。覚えておいてほしいが、集中力とはただ何かに注意を向けることではなく、物事をシャットアウトすることでもある。ほかの世界を取り除いてしまうことだ。どんどん取り去っていき、最後にはこのコートと、向こう側に立って操り人形のようにあちこちへ動こうとしている女子プレーヤーだけになる。めったに起きないことだし、そうなればいいと願うものだが、そんな瞬間が訪れたとき、プレーヤーは非常に感覚が鋭くなるとともに鈍くもなる。

(p187)

 

対戦相手とウェアがかぶるというのが、ちょっとウケます。

(実際には居心地の悪さ満点だろうなと思いますが)

集中力についての助言も、覚えておこうと思いました。

 

  わたしは張り切って興奮し、始める準備ができていた。昔からのあの思いが湧き上がっているのを感じた。みんなを負かしてやりたいという、尽きることのない欲求を。

   待とうと思ってロッカールームへ戻った。セリーナがいた。姿が見えないうちから、彼女が立てる物音が聞こえた。わたしと同じように彼女も自分なりの儀式をしていたのだ。わたしと同様、セリーナもひとりで座っていた。まるでわたしたちは不毛の星にいる、たったふたりの人間みたいな気がした。ふたりの間は5フィート(5メートル弱)ほどしか離れていないのに、宇宙にいるのは自分ひとりといった態度でそれぞれ行動している。セリーナとわたしは友達になれただろう。同じものを愛し、同じ情熱を持っている。わたしたちと同じもの――この嵐の真っただなかにいるのはどんな感じかということ、自分を駆り立てる恐怖や怒り、勝利や敗北がどういうものか――を知っている人は世界に数人しかいない。でも、わたしたちは友達ではないのだ。絶対に。友人になれない理由は、ある意味でお互いを追いつめるせいではないかと思う。もしかしたら、このほうが友達になるよりいいかもしれない。おかげで適切な激情に火がつくのかもしれないのだ。相手への激しい敵意を持つことができて初めて、やっつけてやるという強さが生まれるのだろう。けれども、なんとも言えない。いつか、こういうことがすべて過去の話になったら、わたしたちは友達になれるのかもしれない。なれないかもしれないけれど。

(p205)

 

勝戦の前にはこんなことを考えるものなんですね。すごく近しい存在なのに、打ち解けられなさがあるというのが不思議な世界です。

 

わたしにはスピードがなかった。動きの速い人間ではなかったし、走るのも速くなかった。ドロップ・ショットに追いつくために最初の1歩をすばやく踏み出すことができなかったし、横への動きは機敏じゃなかった。ネット際へ寄るのもそう速くはない。まるで何かに邪魔されて動けないかのようだった。それに動き出したときでさえ、1歩速かったり、2歩遅かったりした。

 こういう弱点を知って受け入れることが、成長のもっとも重要な部分となった。自分の弱みのほうへ近づけず、強みのほうへ持っていくようにと、試合のかじ取りができるようになったのだ。何年も経ったあと、それまでの指導や戦略が完全に意味を成すものとなった。よい作戦があることが、長所に影響を与えた。2004年のシーズン中、わたしはすべてをうまくやりこなせるようになり始めた。特にそのころにできるようになった理由はよくわからない。もしかしたら、単に心の働きによるのかも。わからない、わからないと言っているうち、ある日ついにわかるようになるということだ。試合に出るたびにわたしが勝ち始めたのはそのころだった。特別な満足感を覚えたものだが、セリーナとビーナスのウィリアムズ姉妹のふたりともに勝ったのも同じ年だったのだ。

 ロサンゼルスのステイプルズ・センターでのWTAツアー選手権の決勝でセリーナと対戦した。シーズンの終わりだった。わたしたちはブルーコートで戦った。わたしはリラックスし始めていた。だから、あれほどうまくいったのかもしれない。この試合はテニス人生で最高のものだった。第1セットは失ったが、試合には勝った。その試合のことを覚えている人は多くないだろうーー放映されたのは真夜中だし、西海岸での試合だったから――けれども、わたしは決して忘れない。テニスをやめるとき、持ち続けるものは何だろう? トロフィー? それともお金? 完璧な試合をしたときの思い出に違いない。何もかもがうまくいったときのこと。サーブがことごとく狙いどおりのところに決まって、どのボールも絶好調だったとき。今ですら、夜に目を閉じて眠りが訪れるのを待つときに感じるのはあの試合のことだ。どんぴしゃりのところに打ったとき、体を駆け抜けた快感。いつ終わるともわからないラリーの応酬による幸せな疲労感。最後の何度かのショットと、すべてを終わらせる勝者。たくわえていた力を肉体的にも精神的にもコートで使い果たし、心は空っぽになって、体は疲れ切っていながら満足していることを知りつつ、ロッカールームへ戻ったときの気持ち。

(p234)

 

彼女が眠りにつく前に思い出す試合、とても気分が良さそうです。

 

さまざまなトレーナーやフィジカルコーチとリハビリしたけれど、依然としてひどい痛みは続き、進歩は遅かった。手術を受けたのは2008年10月だった。わたしはクリスマスまでにはコートに戻り、ボールを打っていた(へたくそにだけれど)。けれども、あらゆるものが違って感じられた。この場合、違う。というのはよくないことを指した。痛かったし、不快だった。わたしの強さは失われていた。柔軟性も。それに可動域が変わってしまった。サーブを打とうとすると、充分に腕を振り上げられず、パワーを生み出せなかった。いずれはまたボールを打つことを覚え、この苦痛や落ち込みからも抜け出せるかもしれないが、前とは違うプレーヤーになっているだろう。17歳のときに打ったようなサーブは決して打てない。あんなふうに着実で自由に、余裕たっぷりには打てないだろう。あれほどパワフルにも正確にも打てない。動きは前よりも小さくしなければならないのだ。それを頭ではわかっていたけれど、まだきちんと理解していなかった。コートの上では落ち着かなかったし、自分の体になじんでもいなかった。2008年の冬、こういうみじめな朝を過ごしていた間じゅう、わたしは何をしていただろうか?もう一度、テニスをする方法を学んでいたのだ。それまでよりも抜け目のなさや戦略に頼らねばならない。サーブを打つことより、サーブを返すことに頼らなければならないのだ。ある点では、結果的に前よりも優れたプレーヤーになれるだろう。別の点では、前よりも悪くなる。どっちにしても、新しいやり方で勝つことを覚えなければならなかった。

 父は練習試合をいくつか手配した。試合はうまくいかなかった。わたしは格下のプレーヤーたちに負けた。そのせいでパニックに陥りそうなほど不機嫌になった。何をやっても楽しくなかった。いつも肩や未来や試合のことが頭から離れなくなってしまった。ねえ、肩のことは話したっけ?  というふうに。肩のせいで、人生のほかの部分を楽しめなかった。友達や家族、食事、買い物、晴れた日を。

 両親はわたしを心配していた。マックスもだ。テニスについて心配していたのではなかった――いずれは自分で方法を見つけて復活できると思っていた、と彼らは言う――けれども、わたしの精神、心の状態を案じていたのだ。人生で関わった人々から受けた多くの支援や愛にもかかわらず、わたしはひどく孤独で自分を小さく感じていた。みんなに何を言われても、気分はよくならなかった。だから子どものころの習慣だった、日記をつけることをまた始めようと決めた。悲しい思いを紙に書き記そうと。日が経つにつれて日記は親友となった。信頼できる唯一の友、気持ちを分かち合えるただひとりの友人となったのだ。

 わたしの回復にとって、これはとても重要な部分だろう。書くという、体を使った作業によって脳が再教育されると信じるようになった。

(p256)

 

肩の手術後の苦しみから抜け出すために日記を書いたというところに、なるほどと思いました。

 

 この本の執筆のためにスベン(・グレネヴェルド)と腰を下ろしていたとき、どうしてコーチを引き受けることにしたのかとわたしは尋ねた。彼は笑って言った。「そうだな、マリア。実は不安があったんだ。こんな自問自答をしていた。『そう遠くない将来に30歳になるプレーヤーがここにいる。平均的なテニス・プレーヤーは、ことに女子の場合、20代の後半で引退する。このプレーヤーはほぼすべてを成し遂げてきた。グランドスラムの全大会で優勝し、世界ランキングのトップにもいた。だったら、彼女がまだテニスをするのは何のためだ?』わたしはその問いをズバリときみに投げたね。自分のレガシーを守りたいとか、あと一度グランドスラムで優勝したいとか言うんじゃないかと、わたしは恐れていた。たいていのプレーヤーがそんなふうだからだ。だが、きみの返事は違った。覚えているかい? わたしはこう尋ねた。『今、きみはなんのためにプレーしているんだね?』と。きみは答えた。『みんなを倒したいからよ』その瞬間、わたしは自分に言ったんだ。『よし、やるぞ!』とね」

 わたしは人生で経験したことがないほどきついトレーニングをスベンとやった。少し年をとってきたら、そうでなければならない。半分でも自然に見えるようにするためには、それまでの2倍やらなければならないのだ。同じ結果を得るためには、かつての2倍の努力が必要になる。要するに、練習がすべてなのだ。よい練習ができなければ、よい試合ができない。1日練習をやめれば、次のトーナメントでは1日早く試合の場から去ることになる。つまり、あらゆるものの代償は自分が払うのだ。自分のために休みを1日とれば、コートに残る日を1日失う。

(p297)

 

「あらゆるものの代償は自分が払うのだ。」

これに近いことを、よく考えます。つい食べ過ぎてしまった時とか。

(次元が違いすぎかも知れませんが)

 

  わたしはニューヨークへ飛んだ。ドーピング検査の結果が公開されたとき、わたしはニューヨークにいた。9カ月間、ひとつのインタビューも受けていなかった。一切のコメントを発表していないし、マスコミの前でしゃべってもいなかったのだ。この件に関しては、あのときの記者会見がわたしの最後の言葉だった。わたしは法的な言葉が最終的に文字として現れるまで、コメントするのを待ちたかったのだ。今や、そのときが来た。わたしは『トゥデイ』〔訳注・NBCで放送されている朝のニュース番組〕のショーとインタビュー番組の『チャーリー・ローズ』に出演した。そして『ニューヨーク・タイムズ』紙の大がかりなインタビューを受けた。たぶん、わたしはITFに間違いを認めさせたかったのだろう。けれどもそうはせずに言葉を濁し、口ごもっていた。でも、それでいい。経験から教えられた。この世界には完璧な正義などないことを。人の口に戸は立てられないし、自分をこのように思ってほしいと相手をコントロールすることもできない。不運に対して備えることもできない。できるのは必死に頑張り、ベストを尽くし、真実を語ることだけだ。結局、大事なのは努力なのだ。ほかのことは自分の力ではどうにもならない。

(p321)

 

「相手をコントロールすることもできない」、この謙虚な姿勢が凄くいいなと思いました。

壁にぶつかった時の考え方など見習いたいところも多く、面白かったです。

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。