ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

マリア・シャラポワ『マリア・シャラポワ自伝』

おはようございます、ゆまコロです。

 

大阪なおみ選手、国枝慎吾選手、全米オープン優勝おめでとうございます。

今回の本はテニスに関連して、マリア・シャラポワ、金井真弓(訳)『マリア・シャラポワ自伝』です。

 

 ボールを打つことはいつでも大好きだった。4歳のときからずっと。ボールを打てば、どんな問題も片づいてしまう。ウィンブルドンで悔しい負け方をして、うまくいくはずだったことが失敗したら?ラケットを取り上げてボールを打とう。ガットに当たるボールの感触、体を駆け巡る興奮が何もかも解決してくれる。ボールを打っていると、今現在へと心が戻ってくる。花が咲き、鳥が歌っているところへ。世界の反対側から悪い知らせが届いたって?祖母が亡くなり、長時間のフライトと葬儀が待つだけだって?ラケットを取ってボールを手にしよう。そして打つのだ。ルールが変わったことを知らなくて、突然、何年ものんでいた薬にすべてを破滅させられたって?ラケットを取り上げてボールを打つのよ!(p13)

 

私事ですが、ゆまコロはテニスを始めて3年目です。まだ経験者には全く歯が立たないほどの稚拙なプレーヤーですが、そんな私にも、「花が咲き、鳥が歌っている」という表現は分かる気がしました。目の前のことだけに集中できる喜びや面白さを表しているのだと思いますが、親近感が湧きます。

 

14歳の頃にはトーナメントでプレーするようになっていたシャラポワですが、その時点で既に身長188センチとなった彼女は、体の成長についていけず、自分の手足をうまく扱えなくて、連敗が続くようになります。その頃を振り返った描写がこちら。

 

「何が起こっているの?」と考えたことを思い出す。両親もわたしの変化に気づいていた。このときまではとてもうまくいっていたのだ。年齢別のランキングで上位になり、ほとんど毎回、決勝に進んでいた。なのに、今はどうだろう!悪戦苦闘していた。両親はわたしを助けようとしてくれたが、自分以外の人間にできることは限られている。結局、自力で解決するしかない。前途有望なキャリアを持った多くのプレーヤーがこんな形で終わってきた。そんな選手たちの名も、彼らの悲しい物語も世間は知らないだろう。そのようなプレーヤーのリストに自分の名も連なるのかという恐れ。悪夢だったし、不確実なことだらけだった。でも、あとから振り返ると、そんな経験が最終的には有益だったと思う。勝利している間は、すべてが計画どおりに運んでいる間は、誰でも落ち着いて冷静でいられる。でも、連敗しているときはどう対処したらいいのか?大きな問題だ。プロをアマチュアと分ける教訓だろう。

 

 実際のところ、勝利よりも敗北から学ぶもののほうがはるかに多い。テニスというゲームや自分自身について。叩きのめされても、起き上がれるだろうか?突き進んでいけるだろうか?自分の仕事がふいに無意味なものに思えたとき、単に試合のためだけの試合をしているとき、みんなを失望させているのではないかと不安なときに。倒されても、もう一度だけ立ち上がれるだろうか?あるいは、やめてしまう?それこそ、何年も前にヤドキンが話していたタフさだった。災難が実際に降りかかってくるまで、自分がどんな反応をするのか誰にもよくわからないものだ。

 

 わたしが自信を完全に失ってしまうことはなかった。たぶん若すぎて、自信という概念を知らず、自信が必須のものだということを充分には悟っていなかったのだろう。わたしは自信を持っていただけだった。自分の勝利を信じずに試合に出たことはなかった。負けたときでも、しかも相当負けたのだけれど、前進していると信じて疑わなかった。正しい道を進んでいて、計画どおりなのだと。ひたすら打ち続けるだけだと、自らに言い聞かせていた。フラットで深いストローク。どんなショットが来るよりも速く動く。どの試合でも。いずれ、何か突破口が開けるだろう。

 そのような状態がいつまで続いたのか、正確にはわからない。ちゃんと調べれば、敗北した数はわかるだろうが、もう終わったことだと思っても、そんなことをしたい人はいるだろうか?永遠に続く気がしたというだけで充分だろう。どんなことをしても、何も変わらないようだった。それからある日、変化があった。とうとう私の脳は自分の体を理解し始めたのだ。勝利の間に起こったことではなかったし、たちまち変わったわけでもなかった。変化が起こったのは敗北のさなかだった。観客にとって、それはまたしても負け試合にしか見えなかっただろうが、何か重要なものが変わったのだ。気づくためにはテニスをきちんと知らなければならないような微妙な変化だった。

(p134)

 

「災難が実際に降りかかってくるまで、自分がどんな反応をするのか誰にもよくわからないものだ。」本当にそうなんだろうな、と思います。彼女の場合は体の成長なので、事態に備えることはできないし、ましてやこれが悪夢を引き起こすようなことになろうとは誰も予想できなかったでしょう。

 

練習用コートから半マイル(800メートル)ほどのところにある、朝食つきの宿のような家をすぐ予約してくれたのだ。時代を経た大きな家で、屋根窓や張り出し部があちこちにあった。広々とした美しい芝生があり、いくつもの大きな部屋には大きな窓があって、ゆったりしたフロントポーチが備わっていた。とにかくそこが大好きになった。その家は間違いなく、ウィンブルドンでのわたしの成功の一部、成功の秘訣の一部だった。おかげで心の準備がしっかりできた。わたしたちだけで3階部分を丸ごと使えた。持ち主は3人の子どもがいるすてきな夫婦だった。いちばん下の子は2歳。大きな試合を戦うときに2歳児がまわりにいるのはいいものだ。2歳の子どもは好奇心があるけれど、本当に何かにこだわったりしないし、無頓着さや何も気にしないから幸せという態度を見て、結局のところ、こんなことはみんなどうってことないのだと思い出させてくれるからだ。今いるチャンピョンたちも、10年後には別のチャンピョンたちに代わっているだろう。いつか消え去るのだから、ただ楽しめばいい。2歳児からそんなことを教わるはずだ。くつろいで楽な気分で試合できるようにさせてくれるものは、心の持ち方だ。用心はするけれど、慎重になりすぎない状態で試合に臨むプレーヤーは実に危険な相手となる。たとえ、たった17歳でも。

(p178)

 

「ただ楽しめばいい」と、17歳の時点でのシャラポワが考えたのか、それとも振り返ってこう

表現しているのかは分かりませんが、このあと彼女はウィンブルドンで優勝します。その成功には何が作用したのか?と思い返して、2歳の子どもとの触れ合いを挙げるのが興味深かったです。

 

最高のテニスをしたのは第3試合だった。少数の観客を前にしたセンターコートでの初めての試合で、対戦相手はダニエラ・ハンチュコバ。ハンチュコバはスロバキアの選手でトップテンにランキングされたこともあった。彼女はインディアンウェルズ・マスターズで優勝したことがあり、ウィンブルドンでは準々決勝まで進んだ経験がる。グラスコートではとても上手なプレーヤーだった。こんなとき、最高のテニスができる。優れた相手のおかげで、自分でも思いがけないすばらしいショットができるようになるのだ。

 

 この試合への意欲をかきたてたものは何だったのだろう? コイントスのために顔を合わせたとき、わたしは気づいた。嘘でしょ! ウェアが同じじゃないの! ぞっとしたことに、ハンチュコバとわたしは同じナイキのウェアを着ていたのだ。彼女のせいじゃなかったけれど、わたしはそれがひどく気に入らず、こんなことが二度と起こらないようにしようと思った。どうやって? 契約更新のサインをしたとき、ナイキはある条項をそこに含めたのだ。出場するどの試合でも、わたしが自分だけのウェアを身につけること、という条項をーーナイキがスポンサーになっていても、ほかの女子プレーヤーはわたしと同じウェアを着られないということだ。とにかく、その夜はいらだちを感じたおかげで、試合にうんと役に立つ鋭さが加わった。

 その日、わたしがハンチュコバに対してあげたポイント、無限に続く気がしたラリーーーそういうものは今でも感じられる。ラケットのガットに当たったボールの重み、ラインをわずかにとらえたコート対角線へのウィナー〔訳注・ラリーで相手のラケットがボールに触れずに決まったポイントとなるショット。〕ここへ来るまでは長い道のりだった。スペインで幕を開け、ドイツとイタリアでいくつもの大会に出て、全仏オープンでは過去最高のところまで勝ち進み、バーミンガムで優勝した。練習と試合に時間をそそぎ込み、今やすべてのものがピタッとはまっているところだった。人生でもっとも完璧なテニスみたいに感じた。エラーはほとんどなく、あらゆるショットを打ち、ボールはまさに狙い通りの場所に着地した。これが本物だと思えたのは、単にポイントやサーブの点だけではなかった。自分の心の状態、集中力の強さだ。わたしはうまくいく方法を見つけたのだった。覚えておいてほしいが、集中力とはただ何かに注意を向けることではなく、物事をシャットアウトすることでもある。ほかの世界を取り除いてしまうことだ。どんどん取り去っていき、最後にはこのコートと、向こう側に立って操り人形のようにあちこちへ動こうとしている女子プレーヤーだけになる。めったに起きないことだし、そうなればいいと願うものだが、そんな瞬間が訪れたとき、プレーヤーは非常に感覚が鋭くなるとともに鈍くもなる。

(p187)

 

対戦相手とウェアがかぶるというのが、ちょっとウケます。

(実際には居心地の悪さ満点だろうなと思いますが)

集中力についての助言も、覚えておこうと思いました。

 

  わたしは張り切って興奮し、始める準備ができていた。昔からのあの思いが湧き上がっているのを感じた。みんなを負かしてやりたいという、尽きることのない欲求を。

   待とうと思ってロッカールームへ戻った。セリーナがいた。姿が見えないうちから、彼女が立てる物音が聞こえた。わたしと同じように彼女も自分なりの儀式をしていたのだ。わたしと同様、セリーナもひとりで座っていた。まるでわたしたちは不毛の星にいる、たったふたりの人間みたいな気がした。ふたりの間は5フィート(5メートル弱)ほどしか離れていないのに、宇宙にいるのは自分ひとりといった態度でそれぞれ行動している。セリーナとわたしは友達になれただろう。同じものを愛し、同じ情熱を持っている。わたしたちと同じもの――この嵐の真っただなかにいるのはどんな感じかということ、自分を駆り立てる恐怖や怒り、勝利や敗北がどういうものか――を知っている人は世界に数人しかいない。でも、わたしたちは友達ではないのだ。絶対に。友人になれない理由は、ある意味でお互いを追いつめるせいではないかと思う。もしかしたら、このほうが友達になるよりいいかもしれない。おかげで適切な激情に火がつくのかもしれないのだ。相手への激しい敵意を持つことができて初めて、やっつけてやるという強さが生まれるのだろう。けれども、なんとも言えない。いつか、こういうことがすべて過去の話になったら、わたしたちは友達になれるのかもしれない。なれないかもしれないけれど。

(p205)

 

勝戦の前にはこんなことを考えるものなんですね。すごく近しい存在なのに、打ち解けられなさがあるというのが不思議な世界です。

 

わたしにはスピードがなかった。動きの速い人間ではなかったし、走るのも速くなかった。ドロップ・ショットに追いつくために最初の1歩をすばやく踏み出すことができなかったし、横への動きは機敏じゃなかった。ネット際へ寄るのもそう速くはない。まるで何かに邪魔されて動けないかのようだった。それに動き出したときでさえ、1歩速かったり、2歩遅かったりした。

 こういう弱点を知って受け入れることが、成長のもっとも重要な部分となった。自分の弱みのほうへ近づけず、強みのほうへ持っていくようにと、試合のかじ取りができるようになったのだ。何年も経ったあと、それまでの指導や戦略が完全に意味を成すものとなった。よい作戦があることが、長所に影響を与えた。2004年のシーズン中、わたしはすべてをうまくやりこなせるようになり始めた。特にそのころにできるようになった理由はよくわからない。もしかしたら、単に心の働きによるのかも。わからない、わからないと言っているうち、ある日ついにわかるようになるということだ。試合に出るたびにわたしが勝ち始めたのはそのころだった。特別な満足感を覚えたものだが、セリーナとビーナスのウィリアムズ姉妹のふたりともに勝ったのも同じ年だったのだ。

 ロサンゼルスのステイプルズ・センターでのWTAツアー選手権の決勝でセリーナと対戦した。シーズンの終わりだった。わたしたちはブルーコートで戦った。わたしはリラックスし始めていた。だから、あれほどうまくいったのかもしれない。この試合はテニス人生で最高のものだった。第1セットは失ったが、試合には勝った。その試合のことを覚えている人は多くないだろうーー放映されたのは真夜中だし、西海岸での試合だったから――けれども、わたしは決して忘れない。テニスをやめるとき、持ち続けるものは何だろう? トロフィー? それともお金? 完璧な試合をしたときの思い出に違いない。何もかもがうまくいったときのこと。サーブがことごとく狙いどおりのところに決まって、どのボールも絶好調だったとき。今ですら、夜に目を閉じて眠りが訪れるのを待つときに感じるのはあの試合のことだ。どんぴしゃりのところに打ったとき、体を駆け抜けた快感。いつ終わるともわからないラリーの応酬による幸せな疲労感。最後の何度かのショットと、すべてを終わらせる勝者。たくわえていた力を肉体的にも精神的にもコートで使い果たし、心は空っぽになって、体は疲れ切っていながら満足していることを知りつつ、ロッカールームへ戻ったときの気持ち。

(p234)

 

彼女が眠りにつく前に思い出す試合、とても気分が良さそうです。

 

さまざまなトレーナーやフィジカルコーチとリハビリしたけれど、依然としてひどい痛みは続き、進歩は遅かった。手術を受けたのは2008年10月だった。わたしはクリスマスまでにはコートに戻り、ボールを打っていた(へたくそにだけれど)。けれども、あらゆるものが違って感じられた。この場合、違う。というのはよくないことを指した。痛かったし、不快だった。わたしの強さは失われていた。柔軟性も。それに可動域が変わってしまった。サーブを打とうとすると、充分に腕を振り上げられず、パワーを生み出せなかった。いずれはまたボールを打つことを覚え、この苦痛や落ち込みからも抜け出せるかもしれないが、前とは違うプレーヤーになっているだろう。17歳のときに打ったようなサーブは決して打てない。あんなふうに着実で自由に、余裕たっぷりには打てないだろう。あれほどパワフルにも正確にも打てない。動きは前よりも小さくしなければならないのだ。それを頭ではわかっていたけれど、まだきちんと理解していなかった。コートの上では落ち着かなかったし、自分の体になじんでもいなかった。2008年の冬、こういうみじめな朝を過ごしていた間じゅう、わたしは何をしていただろうか?もう一度、テニスをする方法を学んでいたのだ。それまでよりも抜け目のなさや戦略に頼らねばならない。サーブを打つことより、サーブを返すことに頼らなければならないのだ。ある点では、結果的に前よりも優れたプレーヤーになれるだろう。別の点では、前よりも悪くなる。どっちにしても、新しいやり方で勝つことを覚えなければならなかった。

 父は練習試合をいくつか手配した。試合はうまくいかなかった。わたしは格下のプレーヤーたちに負けた。そのせいでパニックに陥りそうなほど不機嫌になった。何をやっても楽しくなかった。いつも肩や未来や試合のことが頭から離れなくなってしまった。ねえ、肩のことは話したっけ?  というふうに。肩のせいで、人生のほかの部分を楽しめなかった。友達や家族、食事、買い物、晴れた日を。

 両親はわたしを心配していた。マックスもだ。テニスについて心配していたのではなかった――いずれは自分で方法を見つけて復活できると思っていた、と彼らは言う――けれども、わたしの精神、心の状態を案じていたのだ。人生で関わった人々から受けた多くの支援や愛にもかかわらず、わたしはひどく孤独で自分を小さく感じていた。みんなに何を言われても、気分はよくならなかった。だから子どものころの習慣だった、日記をつけることをまた始めようと決めた。悲しい思いを紙に書き記そうと。日が経つにつれて日記は親友となった。信頼できる唯一の友、気持ちを分かち合えるただひとりの友人となったのだ。

 わたしの回復にとって、これはとても重要な部分だろう。書くという、体を使った作業によって脳が再教育されると信じるようになった。

(p256)

 

肩の手術後の苦しみから抜け出すために日記を書いたというところに、なるほどと思いました。

 

 この本の執筆のためにスベン(・グレネヴェルド)と腰を下ろしていたとき、どうしてコーチを引き受けることにしたのかとわたしは尋ねた。彼は笑って言った。「そうだな、マリア。実は不安があったんだ。こんな自問自答をしていた。『そう遠くない将来に30歳になるプレーヤーがここにいる。平均的なテニス・プレーヤーは、ことに女子の場合、20代の後半で引退する。このプレーヤーはほぼすべてを成し遂げてきた。グランドスラムの全大会で優勝し、世界ランキングのトップにもいた。だったら、彼女がまだテニスをするのは何のためだ?』わたしはその問いをズバリときみに投げたね。自分のレガシーを守りたいとか、あと一度グランドスラムで優勝したいとか言うんじゃないかと、わたしは恐れていた。たいていのプレーヤーがそんなふうだからだ。だが、きみの返事は違った。覚えているかい? わたしはこう尋ねた。『今、きみはなんのためにプレーしているんだね?』と。きみは答えた。『みんなを倒したいからよ』その瞬間、わたしは自分に言ったんだ。『よし、やるぞ!』とね」

 わたしは人生で経験したことがないほどきついトレーニングをスベンとやった。少し年をとってきたら、そうでなければならない。半分でも自然に見えるようにするためには、それまでの2倍やらなければならないのだ。同じ結果を得るためには、かつての2倍の努力が必要になる。要するに、練習がすべてなのだ。よい練習ができなければ、よい試合ができない。1日練習をやめれば、次のトーナメントでは1日早く試合の場から去ることになる。つまり、あらゆるものの代償は自分が払うのだ。自分のために休みを1日とれば、コートに残る日を1日失う。

(p297)

 

「あらゆるものの代償は自分が払うのだ。」

これに近いことを、よく考えます。つい食べ過ぎてしまった時とか。

(次元が違いすぎかも知れませんが)

 

  わたしはニューヨークへ飛んだ。ドーピング検査の結果が公開されたとき、わたしはニューヨークにいた。9カ月間、ひとつのインタビューも受けていなかった。一切のコメントを発表していないし、マスコミの前でしゃべってもいなかったのだ。この件に関しては、あのときの記者会見がわたしの最後の言葉だった。わたしは法的な言葉が最終的に文字として現れるまで、コメントするのを待ちたかったのだ。今や、そのときが来た。わたしは『トゥデイ』〔訳注・NBCで放送されている朝のニュース番組〕のショーとインタビュー番組の『チャーリー・ローズ』に出演した。そして『ニューヨーク・タイムズ』紙の大がかりなインタビューを受けた。たぶん、わたしはITFに間違いを認めさせたかったのだろう。けれどもそうはせずに言葉を濁し、口ごもっていた。でも、それでいい。経験から教えられた。この世界には完璧な正義などないことを。人の口に戸は立てられないし、自分をこのように思ってほしいと相手をコントロールすることもできない。不運に対して備えることもできない。できるのは必死に頑張り、ベストを尽くし、真実を語ることだけだ。結局、大事なのは努力なのだ。ほかのことは自分の力ではどうにもならない。

(p321)

 

「相手をコントロールすることもできない」、この謙虚な姿勢が凄くいいなと思いました。

壁にぶつかった時の考え方など見習いたいところも多く、面白かったです。

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。