ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

立花隆『知の旅は終わらない』を読んで

おはようございます、ゆまコロです。

 

立花隆『知の旅は終わらない 僕が3万冊を読み100冊を書いて考えてきたこと』を読みました。

 

筆者が大学生の時に、初めてヨーロッパを旅したお話が印象深いです。

資金調達に始まり、1960年ごろに海外旅行へ行く大変さが伝わってきます。

 

■ヨーロッパの重みとキリスト教の実像

 

    イタリアは、ローマ、ミラノ、ヴェネツィアなど、いろいろな街を巡り歩きました。とくにフィレンツェには長くいて、この街の美術館は徹底的に見ています。

    このときの旅行全体を通じての最大の収穫のひとつに、名画をたくさん生で見た、ということがあります。とにかく金がないですから、どこへ行ってもできることといえば美術館や博物館に行くことぐらいしかないわけです(笑)。具体的にどの作品、というのではない。質かける量の、総体としての芸術体験ということです。芸術を介して、総体としてヨーロッパの重みのようなものを感じました。この感覚は実際に行ってみないと得られない。

  とくにイタリアなんて、小さな町に行っても、驚くような美術品があるでしょう。また、それまでにまったく見たこともない、これは何だろうと思うような絵のテーマもある。それを知りたいと思って調べだすと、しだいにその背後にある巨大な文化の体系が見えてくる。一種、打ちのめされるような衝撃がありました。ヨーロッパ文化のそのような厚みを、自分はそれまでまったく知らなかった。なんてモノを知らないんだろうと思いました。

    日本のちょっと政治かぶれした若造が見ている世界なんて、本当にちっぽけなものだ、われわれの知らない巨大な文化の体系が、この世界にはあるんだ、ということを早い時期に知ったことが、その後の僕の考え方に大きな影響を与えているように思います。

    もうひとつ、キリスト教に対する見方が大きく変わったというのもこの旅行の成果でしたね。何度かこのことには触れましたが、両親が信者だったこともあって、僕は子どものころから、キリスト教には特別な思いがあった。しかし、それまで頭の中で描いていたキリスト教のイメージは、本場に行って完全に崩れてしまいました。

    ひと言でいえば、日本人はキリスト教をあまりにも純化しすぎて見ている。おそらく明治・大正期の欧米の知識の移入の仕方に問題があったためでしょう。これに反して、ヨーロッパにおけるキリスト教というのは想像を絶するほど多面的なものなんです。たとえば日本で真言宗が担っているような土着的な信仰の性格も豊富に持っている。カトリック圏の聖人崇拝などは、ほとんど多神教の世界に近いものがありますね。

  キリスト教のバックボーンが呑み込めていないとヨーロッパの文学は全然わからない。一見宗教的ではない作品でもそうなんです。西洋文学を論じる日本の文芸評論家で、はなはだしく読み間違えている人は、大抵この辺に問題があります。僕の場合、早くヨーロッパ体験をしたお蔭で、そうした誤読はまぬがれたと思いますね。

(p86)

 

 

 

ヨーロッパの文学に触れた時、時々違和感というか、寄り添えなさを感じることがありますが、たぶんバックボーンが呑み込めていないということなんでしょう。

海外旅行に出かけたくなります。

 

■宇宙飛行士が直感した神の存在

 

 アポロ9号に乗ったラッセル・シュワイカートは、「宇宙体験をすると、前と同じ人間ではありえない」と僕に語りました。宇宙体験の内的インパクトは、何人かの宇宙飛行士の人生を根底から変えてしまうほど大きなものでした。

    スカイラブ4号で宇宙に行ったエド・ギプスンは、宇宙飛行士の共通項のくくり出しとして、「これは特筆すべきことだと思うんだが、宇宙体験の結果、無神論者になったという人間は一人もいないんだよ」と言いました。たしかに、漆黒の闇に浮かぶ青々とした地球を見たときに「神」の存在を信じた、と多くの飛行士が話したんです。

 アポロ4号に乗って月面に降り立ったエド・ミッチェルは、宇宙飛行士時代に、もっとも思索的でもっともインテレクチュアルな飛行士と言われた人物です。ちょっと長くなりますが、彼と僕とのやりとりを紹介しておきます。

 

« ーー(あなたは科学者であると同時に、聖書の言葉をすべて正しいと信じる熱心な南部バプティストのクリスチャンだった。)あなたはいかにして科学的真理と宗教的真理の対立を克服したのか。それは宇宙体験と関係があるのか。

「まさしくその通りだ。私は二つの真理の相剋をかかえたまま宇宙にいき、宇宙でほとんど一瞬のうちに、この長年悩みつづけた問題の解決を得た」

 

ーーそれは、宇宙体験のどの部分なのか。

「宇宙から地球を見たときだ。(中略)月探検の任務を無事に果し、予定通り宇宙船は地球に向かっているので、精神的余裕もできた。落ち着いた気持で、窓からはるかかなたの地球を見た。無数の星が暗黒の中で輝き、その中に我々の地球が浮かんでいた。地球は無限の宇宙の中では一つの斑点程度にしか見えなかった。しかしそれは美しすぎるほど美しい斑点だった。それを見ながら、いつも私の頭にあった幾つかの疑問が浮かんできた。私という人間がここに存在しているのはなぜか。私の存在には意味があるのか。目的があるのか。人間は知的動物にすぎないのか。何かそれ以上のものなのか。宇宙は物質の偶然の集合にすぎないのか。宇宙や人間は創造されたのか、それとも偶然の結果として生成されたのか。我々はこれからどこにいこうとしているのか。すべては再び個然の手の中にあるのか。それとも、何らかのマスタープランに従ってすべては動いているのか。こういったような疑問だ。

   いつも、そういった疑問が頭に浮かぶたびに、ああでもないこうでもないと考えつづけるのだが、そのときはちがった。疑問と同時に、その答えが瞬間的に浮かんできた。

 問いと答えと二段階のプロセスがあったというより、すべてが一瞬のうちだったといったほうがよいだろう。それは不思議な体験だった。宗教学でいう神秘体験とはこういうことかと思った。心理学でいうピーク体験だ。詩的に表現すれば、神の顔にこの手でふれたという感じだ。とにかく、瞬間的に真理を把握したという思いだった(中略)」

 

――その神というのはつまるところ何なのか。(中略)

「神とは宇宙霊魂あるいは宇宙精神(コスミック・スピリット)であるといってもよい。

 宇宙知性(コスミック・インテリジェンス)といってもよい。それは一つの大いなる思惟である。その思惟に従って進行しているプロセスがこの世界である。人間の意識はその思惟の一つのスペクトラムにすぎない。宇宙の本質は、物質ではなく霊的知性なのだ。

 この本質が神だ。(中略)キリスト教の枠組は狭い。あまりにも狭い。あらゆる既成宗教の枠組は狭い。硬化している。既成宗教の枠組の中で語ろうとすると、その宗教の伝統の重みにからめとられてしまう。伝統による人間の意識の束縛は大きすぎるほど大きい」

 

ーーすると、あらゆる宗教の神は、本質的には同じということか。

「そういうことになる。つまり、宗教はすべて、この宇宙のスピリチュアルな本質との一体感を経験するという神秘体験を持った人間が、それぞれにそれを表現することによって生まれたものだ。その原初的体験は本質的には同じものだと思う。しかし、それを表現する段になると、 その時代、地域、文化の限定を受けてしまう。しかし、あらゆる真の宗教体験が本質的には同じだということは、その体験の記述自体をよく読んでいくとわかる。宗教だけに限定する必要はない。哲学にしても同じことだ。真にスピリチュアルな体験の上にうちたてられた哲学は、やはり質的には同じものなのだ」》

 

無宗教者とガイア

 

    一方、そもそも無宗教者である飛行士は、宇宙から帰った後でも無宗教者のままであったケースもあります。それは先に触れたシュワイカートの場合です。彼に神の存在を信じていないのかと尋ねると、彼はこう答えました。

 

《神というのは、天の上にいるヒゲを生やしたジイさんのことかね。それなら、ノーだ。信じていない。五〇年代の後半に私はキリスト教から離れた。その時点では、まだ相当に宗教的だったと思うが、その後、さらに離れた。宗教的というより、むしろ、哲学的になっていった。つまり、何かしら神的なものを仮定する必要を認めなくなっていった。

 そして、結局、こう考えるようになっていった。宗教というのは、一つの言語体系の問題であるということができる。つまり、宗教を含めて、この世界を観る体系的見方がいろいろある。自然科学もその一つだ。人間中心主義もあれば、理性中心主義もある。イズムは沢山ある。そして、それぞれに独特の言語体系を作ってしまっている。》

(p249)

 

 

宇宙へ行くことと、それによる宗教観の変化、面白いテーマだと思いました。

筆者が大学で教鞭を取るお話も好きです。

 

■思想的浮気のすすめ

 

 「人間の現在」の講義に話を戻すと、最初の授業で僕はこんなことを話しました。『脳を鍛える』(新潮文庫)から引用します。

 

《きみたちの年齢は、矢継ぎ早にいろんなものとの出会いを果さなければならない年です。

 幼児期に、はじめて母親と出会い、はじめて他人と出会い、はじめて人間以外の動物と出会い、はじめてテレビと出会い、はじめて言葉と出会い、次々に奔流のごとく押し寄せてくる「はじめて体験」の渦の中で、最初の精神形成をしていったように、今は、第二の「はじめて体験」の渦の中で、第二の精神形成が一挙になされていく時期なんです。

    いろんな「はじめて体験」と出会うはずです。はじめての異性体験もあるだろうし、はじめての政治体験やはじめての宗教体験もあるでしょう。はじめての芸術的感動体験もあるでしょう。はじめての「悪」との接触体験もあるでしょう。はじめての、「いやでたまらない人間関係」体験もあるでしょう。はじめての屈辱体験もあるでしょう。

    最も大切な「はじめて体験」の一つが、哲学との出会いになるはずです。はじめての異性体験が、その人の生涯の異性とのつきあい方に強い影響を及ぼすように、はじめての哲学体験も、その人のものの考え方の基本に大きな影響を及ぼします。どのような哲学にどのように出会うかが、はじめての哲学体験では重要です。》

 

さらにこうつづけています。

 

《「永遠の生命なんてない」「絶対の真理なんてものはない」ということを信仰箇条の第一に置けば、それから、多くのことが導けます。

  まず、いかなる思想にものめりこまず、ハマらず、必要以上に尊敬したりせず、軽い気持で接触することが大切だということがわかります。思想においては、花から花へ飛びまわる蝶のように、浮気したほうがいいんです。あがめたてまつってはいけません。

(中略)宗教とか思想というものは、ある時代の誰かが頭の中でこしらえて、頭の中からひねり出した一連の命題です。どんな大思想(といわれているもの)にも、笑ってしまう他ない珍妙な部分があります。そういう部分でちゃんと笑えることが、精神的に健康であることの証しなんです。しかし、若いうちから何かにのめりこんでしまうと、そういう健康さを失ってしまいます。

    精神的健康さを養うために、若いうちは、できるだけ沢山の思想的浮気をするべきなんです。異性体験に関して、「できるだけ沢山の浮気をしなさい」なんていったら物議をかもしかねませんが、思想に関しては、そうすべきであるとはっきりいいます。浮気が足りない人は、簡単に狂うんです。簡単に溺れて、自分が溺れているということにすら気がつかないことになるんです。人間の頭は狂いやすいようにできてるんです。》

 

■人類の新しい知的到達点

    こうした人文系の話もしましたが、僕が力を入れたのは理科系の分野の話です。というのは、受講者の多くは文系の学生たちでしたが、手を挙げさせてみたところ、高校で物理をとらなかった人がかなり多かったからです。ということは、その人たちの物理の基礎知識は中学理科のレベルにとどまっているわけです。

    これはとんでもないことなんです。なぜかというと、サイエンスというのは、物理の上に築かれているからです。科学の基礎は物理で、科学のいちばんの基礎になる考え方は物理学が発展する中で築かれてきました。つまり、物理をやらなかった人は、サイエンスが基本的にはわからないことになります。

    理系の人は補習をやって欠落が補われるからまだいい。文系の学生はその欠落を抱えたまま社会に出ていって、社会の各界でエリートづらをすることになるわけです。僕は暗澹たる思いがしました。

    高校で物理をやった人はやった人で、別の問題があります。その人たちのほとんどが生物をやっていないはずです。その人たちには中学レベルの生物の知識しかありません。分子生物学の知識はもちろんないことになります。現代の生物学は、ほとんどが分子生物学の知識なしには理解できません。基礎生物学だけでなく、医学、薬学、農学、食品科学など、いわゆるバイオ系といわれるすべての分野がそうです。バイオの知識なしには、二十一世紀の知的活動、経済活動の大半がわからなくなるんです。

    ですから、理系の人は専門課程に進む中で、それぞれの領域において、最先端のことがわかるところまで強引にキャッチアップさせられます。しかし、文系の人は、自主的努力の積み重ねで自分でキャッチアップしないと、現代の科学技術社会の流れから完全に取りのこされてしまう。学生時代のあいだに、大変な努力をする覚悟をもたなければならない。

そんな話をしました。

    それで、一年目の講義でとりあげた理系のメインの項目(多くの固有名詞や事項に触れましたからそのごく一部)は、次のようになります。

    宇宙、ニュートン、脳、アインシュタイン利根川進相対性理論分子生物学、C.P.スノー…。

『二つの文化と科学革命』(みすず書房)の著者で、小説家でもあり物理学者でもあったスノーのように、理系と文系の両方にまたがった人もいます。文系のメインの項目は、キェルケゴール、『荘子』、ポール・ヴァレリーの『カイエ』『テスト氏との一夜』、小林秀雄デカルトヴィトゲンシュタインカール・ポパー、アンリ・フレデリック・アミエル、ジョルジュ・デュアメル、エラスムス、ルター、T・S・エリオット…、

こんな感じでした。

    とにかくあらゆることを喋りました。もともと、何らかのまとまった知識の伝授を目指したわけではなくて、知的刺激を与えることが主目的でした。人類の新しい知的到達点に立ってみると、世界がどれほどちがって見えてくるか、また、そのような時代に生まれて、どのような生の選択をすべきなのか、そういうことを考えるのに資するであろうことを、次から次へ片っ端から喋ったという感じですね。あっちへ飛び、こっちへ飛びして、ある意味では、支離滅裂に見えるかもしれないけれど、「人間の現在」という筋は一本通したつもりです。

    この講義以降、自分の仕事のやり方、質がそれ以前と比べて、ずいぶん変わったなと思います。あらためて振り返ってみると、僕がやってきた仕事はみんな、人間はどこからきてどこへ行こうとしているのか、というテーマが底に流れているようなところがあったから、もともと「人間の現在」の流れの一つみたいなところがあったわけですが、この講義以後、ますますそうなりましたね。

    この講義をした期間は二年間でしたが、その後、大学関係では、二〇〇五年に東京大学大学院総合文化研究科特任教授となり、二〇〇七年に東京大学大学院情報学環特任教授となって、立教大学でも大学院特任教授に就くことになります。

(p292)

 

 

大学生に向かって話す内容もそうですが、筆者がインタビューに臨む前の準備を知ると、勉強しなくてはという気持ちになります。 

911への切り口と、国家のあり方への提言も考えさせられました。

 

 八九年からの数年間は、いうまでもなくベルリンの壁崩壊にはじまって、東欧諸国にあった共産主義政権が雪崩をうって崩壊していき、ついにはソ連が解体されていく時代でした。僕はチェコスロバキア東ドイツを訪れてその現場を見ています。『文藝春秋』誌上で「東欧解体-これが新しい現実だ」(一九九〇年二月号)という大討論会に参加しました。

    いずれも半世紀に一度起こるかどうかというような出来事の連続だったわけですが、二○○一年九月にも世界をゆるがす大事件が起きます。ニューヨークの世界貿易センタービルが破壊された同時多発テロ事件です。このとき僕は、『文藝春秋』に「自爆テロの研究」(二〇〇一年十一月号)を書きました。

    情報が飛び交う真っ只中で、僕が何を書いたかというと、「あの事件の前と後では、たしかに世界が変ったのである。その変化について書いてみたい。これからさらにそれはどう変りうるのか。何がこの変化をもたらしたのか。アメリカについて。世界について。国家について。政治について。経済について。宗教について。イスラム原理主義について。

テロについて。戦争について。メディアについて」です。

  とりわけ詳しく書いたのは、神(アッラー)のために闘う「聖戦(ジハード)」という概念についてです。ジハードにおいて死ぬことは殉教者になることで、殉教者として死ぬことは、イスラム教徒にとって最高の功徳(くどく)なわけです。その後、イスラム原理主義者たちがインターネットで煽ることによって、単独テロ犯を次々と獲得し、ローンウルフ型のジハードが猖檄(しょうけつ)をきわめていったことはご存じのとおりです。

  つづけてこう書きました。「よく新聞論調などで、これを『文明の衝突にしてはならない……』という言い方がなされることがあるが、私はそれは誤りだと思う。『文明の衝突』はこれからするさせないの問題ではなくて、すでに千年も前から起きているのである。その衝突が千年間つづいてきた結果として今日の事態があるのである」。

 僕は、いま読むべきなのは、ハンチントン(サミュエル・ハンチントン。一九二七~二〇○八年、アメリカの国際政治学者)の『文明の衝突』(集英社文庫)ではなく、トインビー(アーノルド・J・トインビー。一八八九~一九七五年、イギリスの歴史学者)の『現代が受けている挑戦』(新潮文庫)だと思うとしています。世界の諸文明が互いに対立し、分裂を深めようとしている現在にあって、いかにすればその対立を克服し、統合をはかってい

けるのか。そのヒントをトインビーは提起しています。

    その解決策は結局、世界国家を作る以外にないのですが、世界的な規模で最大限国家を作ることは無理だろうから、最小限国家を作ることだろう。最小限国家とは、価値観における共有部分、つまり制度的縛りや文化的縛りを、最小限にするような国家のことです。

 上からの縛りはできるだけ小さくして、成員の各メンバーにできるだけ多くの自由を与えるような国家です。「みんないっしょに」、「みんな同じように」という画一化に向かう部分はできるだけ小さくしようとする方向性なのです。

    アメリカは社会のタイプとしては、最小限国家型でした。ところが、同時多発テロを境にして、明らかに最大限国家型となり、自分の縛りを押し付け、また、自分の規範に従うことを相手にも求める方向に向かいました。それは「味方でなければ敵」の論理でもあります。いってみれば、それはガキ大将のやり方そのものなんです。しかし、世の中は、それほど単純に白黒つけられるものではありません。本当の味方を多くしたければ、最小限国家型の「敵でなければ味方」の論理を使うべきだろうと思いますね。

(p301)

 

 

   たとえばアメリカで言論の自由といえば必ず引き合いに出される「ニア対ミネソタ判例というものがあります。

    「ニア対ミネソタ」事件とは、ミネソタ州が「公共迷惑法」なる州法を作り、ワイセツな新聞雑誌ならびに「悪意を持ちスキャンダルで人の名誉を傷つける」のをこととするような悪質低俗な新聞雑誌に対して州政府が永久発行差し止め命令を発することができるとしたことから起きた訴訟事件です。この法律で、発行差し止めを食いそうになった、人種差別的な新聞の発行者ニアが、こんな法律は憲法違反だと怒って起こした訴訟です。

    週刊誌蔑視の社説を書いた朝日新聞ならば、そんな新聞はつぶれて当然だといいそうですが、アメリ最高裁の判決はちがったのです。そのような低劣きわまりない新聞であろうと、その発行を差し止めることは、言論・出版の自由を定めた憲法の精神に反するとして、逆にミネソタ州法(公共迷惑法)のほうに取り消しを命じたのです。

    世界でもっとも言論の自由が守られているアメリカの言論法の真髄がここにあります。

    日本の大メディアがすぐに「低劣、守る価値なし」とバカにする日本の週刊誌より何倍も低劣で、客観的にいっても守る価値がほとんどないように見える新聞ですら、言論・出版の自由の名のもとにその発行権は守られるべしとしました。言論・出版の自由は何ものにもかえがたい価値を持つのだから、そのような低劣メディアの権利も守られるべきだとしたのです。

    さらにもうひとついっておけば、大メディアの論調の影響もあってか、言論にはいい言論と悪い(低劣な)言論があって、悪い言論は叩きつぶしたほうが世のためだという考えが、最近日本で急速に広がっているようですが、これはとても危険な考えだと思う。

 そういう流れの一つとして、自民党を中心に着々とすすめられていたメディア規制立法があります。こういう発想は、ミネソタの「公共迷惑法」を作った人々と同じ考えであって、そういう人がやがて、言論の最悪の抑圧者になっていくのです。

 欧米では、言論の自由について語ろうとするとき、何をおいても、まず読むべしとされるのが、ジョン・ミルトン(一六○八~一六七四年、イギリスの詩人)の「アレオパギティカ」です(これは日本でも翻訳されて、岩波文庫から「言論の自由」のタイトルで出たことがあるのですが、あまりの悪訳のために読まれなかった。以下の引用は、僕が岩波文庫版に若干手を加えた)。

    この書の中で、ミルトンが何よりも力説していることは、言論をいい言論と悪い言論に分けて、悪い言論を弾圧し、いい言論を賞揚するというやり方(つまり検閲)からは、よきものは何も生まれないということです。

「我々は清浄な心をもってこの世に生まれるのではなく、不浄の心をもって生まれてくる。

 我々を浄化するのは試練である。試練は反対物の存在によってなされる。悪徳の試練を受けない美徳は空虚である。美徳を確保するためには、悪徳を知り、かつそれを試してみることが必要である。罪と虚偽の世界を最も安全に偵察する方法は、あらゆる種類の書物を読み、あらゆる種類の弁論を聞くことだ。そのためには、良書悪書を問わずあらゆる書物を読まなければならない」

    いい言論にも悪い言論にも同じような存在価値があります。だから言論の自由は無差別に守られる必要がある。これが言論の自由を守る意義の根幹にある真理なのです。このことが裁判所にも、大マスコミにも理解できていません。

(p316)

 

 

 

言論の自由について、あまり深く考えたことはありませんでしたが、ここで紹介されているミルトンの本は気になりました。

 

戦争の考え方も、心に留めておこうと思いました。

 


    第一の敗戦と同様に、経済の失政についての責任追及はなされていません。第一の敗戦にたとえていうなら、敗戦後も軍部の政治支配がつづいているのと同じことでしょう。バカがコントロールに失敗して、さらにそのバカの支配がつづいている。いわば、陸軍の統制派が権力の内部交代をやりました、というのと同じことがいまでもつづいているんです。

 いま生きている時代を慨嘆してもしかたがないけれど、どんな時代にどんな転機があって、こうなってきたのか、ということを考える上で大日本帝国が生まれて敗戦を迎える五十六年間(執筆当時。ゆまコロ注)を読み直すことは不可欠だと思います。

    いま日本人が忘れているのは、もしも日本があの戦争をああいう形ではじめず、第一次大戦と同じように、戦勝国の側に身を寄せていたらどうなっていただろう、と考えてみることです。アメリカどころじゃない、アジアの広大な領域にまたがるとてつもない国になっていたでしょう。しかし、陸軍だの右翼だのの大バカ集団が支配するとんでもないたわけた国になっていたかもしれない。事実、日本は敗戦国の側に立ったために、大国になるどころか、亡国の淵をさまよったわけだけれども、結局、このほうがよかったのかもしれないですね。

(p361)

  

 

最後は死生観についてです。

 

■まあ、死ぬときは死ぬさ


    さて、僕のがんの経過ですが、発見して手術してから、すでに十年以上がたちます。いまは、内視鏡尿道から入れて膀胱内壁を観察するという検査を、半年に一回くらいの頻度で受けています。すでに現役のがん患者という気分はかなりなくなっています。

    ついこの間のことですけど、女医さんが検査をしてくれたんです。尿道に器具を挿入するんですが、女医さんで大丈夫かなあとちょっと不安に思ったんだよね。そしたら、その不安は的中して、器具が尿道にグサリと突き刺さったんですよ。もう、ギャーッという感じでたまらなく痛かった。やはりですね、男性器を持つ者と持たざる者とでは、尿道がカーブする微妙な感覚がわかるわからないということがあると思うんです。もう女医さんは勘弁してほしいと懇願しました(笑)。

    それはいいとして、がんよりも、がん手術の翌年にした心臓の血管内にステント(補強筒)を入れる手術のほうが怖かったですね。

    心臓を動かしている冠動脈二カ所に梗塞が見つかったんです。一つは九〇パーセント梗塞、もう一つは七五パーセント梗塞です。手術は意識覚醒状態で行われるのですが、麻酔中でも聴覚は全部生きていて、手術中の医療スタッフ間のコミュニケーションが全部耳に入ってきました。ステントの挿入前に、バルーン(小さい風船)で血管の狭窄部位を拡げる。圧縮空気の気圧が数気圧から徐々に高められて、ついには二十気圧まで行きました。

「ダンプカーのタイヤだってせいぜい十気圧程度しか入れないのに、血管が破裂してしまうのではないか」と恐ろしくなりました。

    手術後、「バルーンが破裂する可能性はなかったんですか」と医者に聞きました。そしたら「ある」と(笑)。ただし、もし破裂して大出血しても、すぐ開胸手術に切り替えるから、大丈夫だという話でした。

    このときの恐怖にくらべれば、がんなんてちっとも恐ろしくないと思うようになったのも事実です。

    怖いといえば、心臓のほうがずっと怖いのです。心筋梗塞の発作が起きる事態にそなえて、いつもニトログリセリンの錠剤を持ち歩いているのですが、もし発作が起きたら、激痛が来るらしいし、ニトロを飲めば必ず助かるというものでもない。膀胱がんの再発よりも、こちらのほうがずっと怖いわけです。

    しかし、人間たいていのことにすぐ慣れてしまうし、慣れてしまえば、たいていのことが怖くなくなります。僕はいろんな成人病があるので、毎日様々の薬剤を服用していますが、根が楽観的な気性なので、がんも心臓も、その他モロモロも日常的にはほとんど気にしていません。まあ、死ぬときは死ぬさ、と思っている程度なのです。

    そんな「死」が怖くなくなってきた二〇一五年、七十五歳のときに出した本が『死はこわくない』(文藝春秋)です。この本は、その前の数年の間に、さまざまの角度から、人の死について論じた文章を集めたものでもあるのですが、本体部分は七十五歳のときに書いたものです。

    僕の両親は九十五歳まで生きていて、人間の寿命を専門とする学者によれば、その人の寿命にいちばん関係を持つファクターは両親の生きた年齢ということだそうです。僕はもう少し生きのびるらしいが、僕自身としては、もうそれほど生きのびるための努力をしようとは思っていません。自然に死ねる日がくれば、死ぬまでと思っています。


■日本人の死生観

    僕は長い間、人の死とは何かというテーマを追いかけてきました。一九八〇年代後半から九〇年代前半にかけて取り組んだ、脳死問題に関する一連の言論活動でも、死の定義について徹底的に考え抜きました。

    当時、死の定義を拡大して、脳死者からの臓器移植を普及させようとする立場に対して、僕は異議を申し立てたり、記事を書いたりしていました。その頃、移植医療を推進したい側の人たちの集会に呼ばれて議論したことがあります。そのとき、彼らのリーダーから突然、「あなたの死生観はどうなってるんですか」と聞かれたのです。それは僕がまったく予期していなかった質問で、虚をつかれて口をつぐんでしまった。後になって、「あなたの死生観はどうなんだ」というのは、正しい問いの立て方だと思い返しました。結局、その問いにきちんとした答えを持っていないと、あらゆる問題に対して答えようがないのです。

 自殺、安楽死脳死など、生と死に関する問題は一つの問題群として捉えるべきで、それはその人の死生観と切り分けられない問題なのです。どの問題を考えるにしても、結局、自己決定権がある場合は、その人の自己決定に従うしかないだろうし、神あるいは運命に決定権があるような場合には、それに従うしかないだろうと思います。

    人の死生観に大きな影響を与えるのは宗教です。僕の両親はキリスト教徒だったので、一般の日本人の習俗を知らずに育ちました。家には仏壇も神棚もなく、むしろ両親はそういう日本の伝統的な習俗に反対していました。

「死後の世界は存在する」という見方は、日本人一般にとっては馴染みやすいところがあります。お盆になると死者が帰ってきて、仏壇のロウソクの炎をゆらすと教えられて育ってきた人にとっては、この世とあの世がつながっているという考えは自然に受け入れられるものでしょう。日本人の心の世界は、広い意味で、死者の世界との交わりを含めて成立しているように思います。

    どの宗教的なグループに属するかによって、死生観は異なります。日本人の場合は、自分がはっきりと仏教徒であるとか、神道の氏子であるとかと認識している人は少なくて、ぼんやりとどこかのグループに属している状態ですよね。

    仏教でも神道でも、宗派によって死生観はかなり違いがあります。僕は二度目に結婚した人の家の宗教が神道で、葬式が神道で行われるのを経験しているんですが、仏教のゴテゴテとした感じがなくて、自然宗教的スッキリ感にすごく好感を持ちました。キリスト教はほかの宗教をすべて邪教と考える独善性がいやで、大学時代に離れました。いまは哲学的&科学的世界観にもとづく無宗教派といったところでしょうか。

    死後の世界が存在するかどうかというのは、僕にとっては解決済みの議論です。死後の世界が存在するかどうかは、個々人の情念の世界の問題であって、論理的に考えて正しい答えを出そうとするような世界の問題ではありません。

    前にもヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の言葉を紹介しましたね。「語りえないものの前では沈黙しなければならない」。

 死後の世界はまさに語り得ぬものです。それは語りたい対象であるのは確かですが、沈黙しなければなりません。

 


樹木葬あたりがいいかな

 

 二〇一四年のことになりますが、NHKスペシャル立花隆思索ドキュメント臨死体験 死ぬとき心はどうなるのか」(九月十四日放送)で、僕は案内役をつとめました。

 視聴率は一一パーセントを獲得し、大きな反響がありました。

    インターネットでは賛否両論が書きこまれました。「考えさせられた」というコメントが大半を占めていますが、中には激しく番組批判を展開しているサイトもありました。臨死体験を死後の世界の存在証明であるかのように扱い、死後の世界との交流を売り物にしている新興宗教の人々には不愉快だったのでしょう。

    僕は臨死体験に関しては、かなりの時間を割いて仕事にしてきました。まず、NHKと作った「臨死体験 人は死ぬ時何を見るのか」(一九九一年放送、視聴率一六・四パーセント)、そしてその後に書いた『臨死体験(上・下)』(文春文庫)です。二〇一四年に放送された二度目の番組は、前回以上に、臨死体験が起こる仕組みの解明に鋭く迫りました。それが可能になったのは、二十三年前よりも脳科学がはるかに進歩したからです。

    なにしろ二回目の番組は、脳科学の最新の知見を踏まえて、臨死体験は死後の世界体験ではなく、死の直後に衰弱した脳が見る「夢」に近い現象であることを科学的に明らかにしたものだったのです。

    意外だったのは、感謝の気持ちを僕に直接伝えてくれる人がかなりいたことです。高齢の女性が多かったのですが、路上で呼び止められて「ありがとうございました」とよく声をかけられました。それまで何本も大型番組を作ってきたのですが、あのときのように放送後に街で会う視聴者からお礼を言われた経験は記憶にないですね。

    おそらくそれは、番組のエンディングで僕が述べた「死ぬのが怖くなくなった」というメッセージに共感したのだろうと思います。テレビの怪しげな番組に出まくって、霊の世界がどうしたこうしたと語る江原啓之なる

現代の霊媒のごとき男がいますが、ああいう非理性的な怪しげな世界にのめりこまないと、「死ぬのが怖くない」世界に入れないのかというと、決してそうではありません。ごく自然に当たり前のことを当たり前に、理性的に考えるだけで、死ぬのは怖くなくなるということをあの番組で示せたと思っています。

    番組の最後に述べたのは、次のようなことでした。

「この取材を終えて、私が強く感じていることは、約二十年前の『臨死体験』という番組を作ったときにも感じたことですが、死ぬということがそれほど怖くなくなるということです。しかも、前よりも強くそう思います。

 ギリシャの哲学者にエピクロスという人がいるんですが、彼は人生の最大の目的とは、アタラクシア=心の平安を得ることだと言いました。人間の心の平安を乱す最大の要因は、自分の死についての想念です。しかし、今は心の平安を持って自分の死を考えられるようになりました。

    結局、死ぬというのは夢の世界に入っていくのに近い体験なのだから、いい夢を見ようという気持ちで人間は死んでいくことができるんじゃないか。そういう気持ちになりました」

    いい夢を見るために気をつけたいことが一つあります。いよいよ死ぬとなったとき、ベッドは温かすぎたり、寒すぎたりしないようにすることです。暑すぎたり寒すぎたりすると、臨死体験の内容がハッピーじゃないものになってしまうからです。死に際の床を、なるべく居心地良くしておくのが肝腎です。

    死んだ後については、葬式にも墓にもまったく関心がありません。どちらも無いならないで構いません。

    昔、伊藤栄樹と(しげき)いう、現役検事時代にダグラス・グラマン事件などよく知られた事件の数々を手がけた有名な検事総長が『人は死ねばゴミになる』という本を書きましたが、その通りだと思います。もっといいのは「コンポスト葬」です。遺体をほかの材料と混ぜ、発酵させるなどしてコンポスト(堆肥)にして畑に撒くのです。そうすれば、微生物に分解されるかして、自然の物質循環の大きな環の中に入っていきます。

    海に遺灰を撒く散骨もありますが、僕は泳げないから海より陸のほうがいい。コンポスト葬も法的に難点があるので、協点としては樹木葬(墓をつくらず遺骨を埋葬し樹木を墓標とする自然葬)あたりがいいかなと思っています。生命の大いなる環の中に入っていく感じがいいじゃないですか。

(p395)

 

 

覚えておきたい事柄がいろいろあって、長くなりました。

 

筆者が文藝春秋に入社した際薦められて読んだというノンフィクションは、これから探してみたいと思います。

 

・A・チェリー = ガラードの「世界最悪の旅」

・スウェン・ヘディン「さまよえる湖」

・トール・ハイエルダール「コン・ティキ号探検記」

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。