ニジタツ読書

読んだ本の感想です。胸に刺さった言葉をご紹介します。時々美術館のことなども。

アビジット・V・バナジー, エステル・デュフロ『絶望を希望に変える経済学』を読んで

おはようございます。ゆまコロです。

 

 アビジット・V・バナジーエステル・デュフロ、村井章子(訳)『絶望を希望に変える経済学』を読みました。

『ファクトフルネス』に似ていると聞き、読んでみました。

 

この本で印象に残ったのは以下の部分です。

 

 

自分と同類とばかり一緒にいると、ちがう視点に立てなくなり、ちがう価値観を理解できなくなる。これは大きなデメリットだ。その結果、ワクチン接種が自閉症の原因になるといった根も葉もない主張がいつまでもはびこることになる。すでに述べたように、人々は合理的な判断に基づき、自分自身の意見を引っ込めてまで集団に従うものだ。だが、集団の外の意見が遮断されていたら、事態は一段と悪化するだろう。最終的には異なる意見を持つ排他的な集団がそれぞれに孤立し、他の集団とはほとんどコミュニケーションをとろうとしなくなる。法学者のキャス・サンスティーンは、こうした現象をエコー・チェンバー[残響室]に喩える。同じような意見を持つ人たちが長い残響が生じる部屋にこもり、互いの言うことがわんわん響く中で同じ考えばかりを延々と聞いている、というほどの意味だ。

 

 その結果として生まれるのが極端な二極化である。二極化現象は、客観的な事実を巡っても生じることがある。たとえばアメリカ人の四一%は人間の活動が地球温暖化を招いたと考えているが、ぴったり同じだけの人が温暖化は自然の周期的現象である(二一%)、または温暖化など存在しない(二○%)と考えている。ピュー研究所が地球温暖化に関する世論調査をしたところ、人々の意見が政治的立場に沿ってほぼ真っ二つに分かれていることがわかった。大気温の上昇を示す確かな証拠があると考える人は、民主党支持者のほうが共和党支持者より圧倒的に多い(八一%対五八%)。また人間の活動が原因だと考える人も、同様の傾向を示した(五四%対二四%)。だからといって、民主党支持者のほうが科学を信奉しているとは言えない。

 たとえば遺伝子組み換え食品は健康に悪いとは言えない、というのが科学界の一致した意見だが、民主党支持者の多くは、そうした食品を避けられるよう、遺伝子組み換えの表示をしてほしいと考えている。

 

 いつも同種の人とばかり一緒にいると、ほとんどの問題について同じ意見を持つようになる。集団の強硬な意見を前にすると、政治に関して是々非々で臨むことは次第に困難になってくる。たとえ集団の意見は正しくないと個人的には感じていても、だ。それを端的に物語るのがアメリカ議会である。

 民主党議員と共和党議員は、もはや同じ言葉を使っていない。政治経済を専門とするマシュー・ジェンツコウとジェシー・シャピロは、下院の現状をこう語る。「民主党議員が 不法就労者”と呼ぶものを共和党議員は、不法入国者』と呼び、民主党議員が~富裕層向け優遇税制』と呼ぶものを共和党議員は税制改革と呼ぶ。二〇一〇年医療保険制度改革法[いわゆるオバマケア]にいたっては、民主党にとっては包括的な医療改革、だが、共和党からすれば “政府による医療の乗っ取り" だ」。こうした状況だから、いまや議員の口から出る言葉を聞くだけで、その人の政治的立場を簡単に推定できるようになった。党派固有の言葉を使うという意味での党派性は、ここ数十年で大幅に強まっている。一八七三年から一九九〇年代前半まではそれほど変化はなく、強い党派意識が認められる議員は全体の五四%から五五%に増えただけだが、一九九〇年以降に急増し、第一一○回議会(二〇〇七~〇九年)には八三%に達した。

 

(p186)

 

 

 

違う価値観を理解できなくなり、他の集団とコミュニケーションを取らなくなる、というところに怖くなりました。

 

 ここまでに論じてきたように、他人に対する反応は自らの尊厳やプライドと深く関わっている。人としての尊厳を重んじる社会政策でなければ、平均的な市民の心を開き、寛容な姿勢を生み出すことはできないのではないかと強く感じる。

 政府の政策としては、集団のレベルで介入できることもある。人種差別、反移民感情、支持政党のちがいによるコミュニケーションの断絶といった問題の多くは、初期段階で接触のないことに原因があると考えられる。心理学者のゴードン・オルポートは、一九五四年に「接触仮説 [contact hypothesis]」を発表した。適切な条件の下では、人同士の接触が偏見を減らすうえで最も効果的だという考え方である。他人と時間をともにすることで、相手をよく知り、理解し、認められるようになる。その結果、偏見は消えていくという。

 

 接触仮説の正否を確かめる実験が何度も行われてきた。最近発表された実験評価では、二七件のランダム化比較試験(RCT)を精査し、全体として接触は偏見を減らすことを確認した。ただし接触の性質が重要であると注意を促している。

 もしこれが正しいなら、学校や大学は重要な存在になる。異なるバックグラウンドを持つ子供たちや若者が、まだしなやかな心を持つ年齢のときに一つの場所で一緒に過ごすのだから。アメリカのある規模の大きい大学では、一年次にルームメートがランダムに割り当てられる。一年次の学部生を対象に調査を行ったところ、たまたまアフリカ系アメリカ人と同室になった白人学生は、アファーマティブ・アクションを強く支持するようになったことがわかった。また移民と同室になった白人学生は、自分でルームメートを選べる二年次以降になってもマイノリティと進んで付き合うようになったことが確かめられている。

 

 このような接触はもっと早い時期から始めることも可能だ。デリーで二〇〇七年に導入されたある政策は、生まれも育ちも異なる子供を一緒にすることの効果を雄弁に物語っている。この政策では、デリーのエリート層向けの私立小学校に貧困家庭の児童の入学枠を設けることを義務づけた。この政策の効果を調べた秀逸な実験がある。実験では、貧しい生徒の入学枠が設けられている学校と、そうでない学校でランダムに選んだ子供たちに、リレーのメンバーを選ぶ役割を与えた。また前者の学校では、さらにランダムに子供たちを分け、一方は貧しい子供と一緒の勉強グループに入れ、もう一方はそうしなかった。リレーのメンバーを選ぶ前にかけっこのテストを実施し、誰が速いか見きわめられるようにした。ただし選ぶには条件がある。メンバーに選んだ子供と一緒に遊ぶ約束をすることだ。結果は鮮烈だった。入学枠のない学校の富裕な家庭の子供は、貧しい子をメンバーに選ぼうとしなかった。貧しい子のほうが足が速かったのに、である。入学枠があり貧しい子をすでに見慣れている子供は、たとえ貧しくても足の速い子を選んだ。その子と遊ぶことも別に苦にならなかったのだろう。そして、貧しい子と一緒の勉強グループにいる子供は、一緒に走ろうと積極的に誘って遊んだ。慣れ親しんでいるというだけのことが、この魔法のような効果を発揮したのである。

 

(p200)

 

 

ちょっといい話です。

偏見をなくすヒントがあるように思いました。

 

 中国は、ベトナムミャンマーと同じく市場経済を採用してはいる。だが資本主義への中国のアプローチは、古典的なアングロサクソン・モデルともヨーロッパ・モデルともかなりちがう。二〇一四年にフォーチュン・グローバル五○○社にランクされた中国企業九五社のうち七五社までが、一見すると民間企業のように経営されているが、実際には国営なのである。

 また、中国の銀行の大半も国営である。国レベルでも地方レベルでも、政府は土地や信用をどう割り当てるか決めるうえで中心的な役割を果たしている。政府は企業の人事にも介入するし、産業別の労働者の割り当ても指示する。さらに中国は人民元のレートをここ二五年にわたって実力以下の水準に維持し、その代償として超低金利アメリカに何十億ドルも貸す格好になっている。加えて土地はすべて国家の所有である中国では、どの土地を誰が耕作してよいかを地方政府が決めているのだ。これが資本主義だと言うなら、中国型資本主義とでも言うほかあるまい。

 昨今もてはやされている中国経済の奇跡を予想していた経済学者は、一九八〇年には、いや一九九○年にもほとんどいなかった。しかしいまでは、貧困国のどこかが中国をお手本にしないのはなぜだろう、という質問が経済学者から出るまでになっている。もっとも、中国の発展過程のうちどこをまねすればいいのかははっきりしない。貧しく汚かったが教育と医療だけはすばらしく、所得分配が均等に行われていた鄧小平の中国だろうか。それとも、かつてのエリートの文化的優位を一掃し万人平等を実現しようとした文化大革命時代の中国、あるいは日本の侵略と屈辱を受けた一九三〇年代の中国、あるいは中国五○○○年の歴史そのものだろうか。

 日本と韓国の場合は、もうすこし話が簡単になる。両国はいずれも政府が積極的な産業政策を導入し(今日でもある程度はそうだ)、どの産業を輸出産業として振興すべきか、どこにどれだけ投資すべきかを指導していた。またシンガポールでは、国民は所得のかなりの割合を強制的に中央積立基金に徴収され、当人の医療費や年金に充当される。

 こうした特徴的な政策が経済学者の間で話題になるときはいつも、日本や韓国やシンガポールが驚異的な成長を遂げたのはこうした政策を実行したからなのか、それともこのような政策が行われたにもかかわらず成長したのか、ということが問題になる。そして読者のご想像のとおり、結論は出ない。東アジア諸国は単に幸運だったのか、それとも彼らの成功から学ぶべきことはあるのだろうか。これらの国々はいずれも高度成長を遂げる前に戦争で荒廃している。となれば、高度成長の一部は自然な揺り戻しだった可能性はある。東アジア諸国の経験から成長の要因を抽出できると考える人たちは、まだ夢を見ているのだろう。成長の決め手といったものは存在しないのである。

 

(p269)

 

 

 アジアに対する客観的な考察が興味深いです。

 

 本章でこれまで論じてきたことを総合すると、経済成長について何がわかったと言えるだろうか。まず、ロバート・ソローは正しかった。一国の一人当たり所得が一定の水準に達すると、たしかに成長は減速するように見える。技術の最先端にいる国、これは主に富裕国だが、これらの国々における全要素生産性(TFP)の伸びは、謎である。どうすればTFPを押し上げられるかはわかっていない。

 そして、ロバート・ルーカスもポール・ローマーも正しかった。貧困国にとって、ソローの言う収束は自動的には起きない。これはおそらく、スピルオーバー効果が期待できないからだけではあるまい。貧困国のTFPの伸びが先進国より大幅に低いのは、市場の失敗が最大の原因だと考えられる。裏を返せば、事業経営に適した環境が整っていれば市場の失敗を是正できる限りにおいて、アセモグル、ジョンソン、ロビンソンも正しかったことになる。

 それでもなお、彼らはみなまちがっていた。一国の経済成長も一国のリソースも総和として捉え(労働力人口、資本、GDPなど)、その結果として重要なことを見逃してしまったからである。非効率なリソース配分についてわかったことを踏まえると、私たちがすべきなのはモデルで考えることではなく、現実にリソースがどう使われているかを見ることだ。ある国がスタート時点ではリソース配分がひどくお粗末だとしよう。たとえば共産主義経済だった頃の中国や極端な経済統制を行っていた時期のインドがそうだ。このような国では、リソースを最適の用途に再配分するだけで大きなメリットが得られる。中国のような国があれほど長期にわたって高度成長を続けられたのは、彼らが人材や資源をまったく活用できていない状態からスタートし、それを最適活用できるようになったからだと考えられる。このようなことは、ソロー・モデルでもローマー・モデルでも想定されていない。彼らのモデルでは、成長するためには新しいリソースか新しいアイデアが必要だということになっている。これが正しいなら、無駄になっていたリソースの再配分が一段落すると、成長のためには新たなリソースが必要になるので、成長に急ブレーキがかかることになるのかもしれない。中国の成長鈍化の可能性について多くの分析がなされてきたが、とうとう現実に成長は減速しているし、これは将来も続きそうだ。中国の指導者がいま何をしても、この流れは止まらないだろう。中国はキャッチアップをめざしてひた走っていた時期にハイペースでリソースを蓄積し、あきらかに非効率な配分は是正された。したがって、現在では改善の余地が乏しくなっている。中国経済は輸出に依存しているが、世界最大の輸出国になってしまったいまとなっては、世界経済の成長より速いペースで輸出を拡大することはもはや不可能だろう。中国は(そして他国も)、驚異的なスピードで成長できる時代はもう終わりに近づいているのだという現実を受け入れなければなるまい。

 

 ではこの先どうなるのか。これについては、アメリカはすこし安心できそうだ。一九七九年にハーバード大学教授のエズラ・ヴォーゲルが『ジャパン・アズ・ナンバーワン』 [邦訳:TBSブリタニカ] を発表し、日本はもうすぐすべての国を抜き去って世界一の経済大国になると予言した。欧米は日本モデルから学ぶべきだと教授は主張している。良好な労使関係、低い犯罪率、すばらしい学校教育、エリート官僚、先見的な政策こそが恒久的な高度成長の処方箋だというのである。たしかに教授の言うとおり、日本が一九六三~七三年の平均成長率をその後も続けていたら、一人当たりGDPで一九八五年にはアメリカを抜き、一九九八年にはGDP総額でも抜いていたはずだ。だがそうはならなかった。『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が出版された翌年の一九八〇年に日本の経済成長率はがくんと落ち込み、その後は以前の水準に戻っていない。

 ソロー・モデルによれば、理由は単純だ。低い出生率とほぼ移民の流入がないせいで、日本の人口が急速に高齢化したからである(それはいまも続いている)。生産年齢人口は一九九〇年代後半にピークを打ってからは減り続けている。したがって、成長を維持するためにはTFPが以前にも増して伸び続けなければならない。さもなくば、何か奇跡を起こして労働生産性を大幅に押し上げるほかない。なにしろ、どうすればTFPを伸ばせるかはわかっていないのである。

 日本が絶頂期にあった一九七〇年代には、奇跡が可能だと考える人もいた。彼らは貯蓄をし、一九八〇年代に入って成長が鈍り始めたにもかかわらず日本に投資し続ける。一九八〇年代のいわゆるバブル経済の中、あまりに多くの資金がわずかばかりの有望そうなプロジェクトに投じられた。その結果、一九九〇年にバブルが崩壊すると、銀行は多額の不良債権を抱えて立ち往生することになる。一九九〇年代の日本は危機に翻弄された。

  中国はいまある意味で同様の問題に直面している。中国も高齢化がハイペースで進行中だ。その一因は一人っ子政策にあり、この政策の影響を逆転するのはむずかしい。中国の一人当たり所得はいずれアメリカに追いつくのかもしれないが、現在の成長鈍化を見る限りでは、それはだいぶ先になるは中国の成長率が年五%に落ち込んでそのまま横ばいになることは大いにあり得るし、これでもかなり楽観的な予想と言えるだろう。そしてアメリカの成長率が一・五%程度まで戻してくれば、中国が一人当たり所得でアメリカに追いつくのは最低でも三五年はかかる計算だ。思うに中国政府はソローの言うことを受け入れてすこし気を楽にすべきだろう。そう、成長というものは減速するのである。

 おそらく中国はそのことに気づいており、国民にこの事実を知らせようと意図的に努力もしている。それでも、彼らの掲げる成長目標はいまだに高すぎるようだ。危険なのは、指導部がその目標に縛られてしまい、なんとしても成長を取り戻そうと偏った決定を下してしまうことである。日本はまさにこれをやっていた。

 もしリソースを非効率に配分すれば経済成長を牽引できるなら、あれこれ奇抜な戦略を採用すれば成長を実現できることになる。一国の中でリソースを歪んだ形で割り当てるような戦略は、これに該当するだろう。たとえば中国と韓国の政府は、規模が小さすぎて経済上のニーズを満たせていない部門を見極め(過去に鉄鋼や化学品など重工業を優遇してきたせいである)、政府による投資その他の介入を通じて資本を優先的にこうした部門に投下し、効率的なリソースの活用を促進した。

 この戦略は両国ではうまくいったが、だからと言ってどの国でもうまくいくとは限らない。経済学者は一般に産業政策というものを非常に警戒する。これにはもっともな理由がある。国家主導で行われた投資の過去の成績は、ひどくお粗末なのである。たとえ誰かお友達や既得権団体を依店贔屓しない場合であっても判断ミスが多いうえ、依店贔屓が横行しているのだからなおさらだ。市場の失敗があるのと同じで、政府の失敗も大ありである。

 

(p290)

 

 

成長にとらわれ過ぎるとその先には何が待っているのか、よく考える必要があると思いました。

 

論点は『ファクトフルネス』と近いものがあるけど、ではどうしたら良いのか?というところに踏み込んでいるのが、好感が持てました。

電車で読むのはちょっと重かったけど、読んで良かったです。

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。