ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

あさのあつこ『さいとう市立さいとう高校野球部 下』

おはようございます、ゆまコロです。

 

あさのあつこ『さいとう市立さいとう高校野球部 下』を読みました。

 

  我が母親の名誉のために言っておくけど、おふくろは気紛れで、忘れっぽく、かなりの天然で“こまったちゃん”の要素が無きにしも非ずだが、息子や娘に対し純粋な愛情をもっている。純粋な愛情とは、つまり、支配欲とか見栄とか下心とか、諸々の夾雑物が含まれていないってことだ。何の条件も見返りの要求もなく、相手の幸せだけを願えるってことだ。温泉の場合、さまざまな溶存物質がある方が効能も高まるのだろうが、人の愛情は不純物が混ざれば混ざるだけ、どんどん質が悪くなっていく。

  おふくろの愛情は、わりに良質だ。

(p13)

 


15、16歳の男の子にしては素直な感想だという感じがしますが、それだけこのお母さんが、子どもを尊重しつつ真剣に向き合っているのだろうな、という様子が窺えます。

 

「バッテリー」の時にも思いましたが、主人公の母親が息子をどう見ているか?という眼差しに説得力があります。

 

  しゃべりなさい。

 きみたちの言葉できみたちの野球を語るんです。

 しゃべれ、しゃべれ、しゃべれ。

 

 鈴ちゃん、おれたち負けていたんだ。鈴ちゃんがあんなに本気で伝えてくれたことを忘れて、どこからか借りてきた、誰かが期待する科白しか言えなくなってた。それって、負けてるってことだよな。おれは息苦しかった。鈴ちゃんのためじゃないのに、鈴ちゃんのために野球をしているように演じなければいけない自分が苦しかった。みんなもそうだった。苦しいのにどうしていいかわからなくなっていたんだ。単純に真剣に楽しいと笑えなくなり、ベンチの中で黙り込むことが多くなった。(p228)

 

 

事故で意識不明の先生のために勝利を目指す野球部、という、世間やメディアから押し付けられた動機がいつの間にか自分たちの目標のようになって、息苦しさや噛み合わなさを感じながら過ごす、というのが、リアルで読んでいるこちらも(いい意味で)気持ち悪さを感じました。


本当はどう思っているのか、本当は自分はどうしたいのか、考えているようでも、ふと気づくと見えなくなっていることがあるのが、不思議だなと思います。

「自分の言葉で語ってほしい」、これは、あさの先生が伝えたいことなのかなと思いました。

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。

 

 

サマル・ヤズベク『無の国の門 引き裂かれた祖国シリアへの旅』

おはようございます、ゆまコロです。

 

サマル・ヤズベク、柳谷あゆみ(訳)『無の国の門 引き裂かれた祖国シリアへの旅』

を読みました。

 

私は顔と頭を黒いヒジャーブとサングラスで隠し、足を早めて同行者を追い抜き、密航屋のすぐ近くに出た。それから私はさらに急ぎ足になり、彼をも追い越した。必死だった。この一行が遅れる原因が私だと思われたくなかった。密航屋は私にちょっと待ってくれと頼んだ。私はその場で立ち止まり、彼らが追いつくのを待った。それから彼らと並んで歩き、最年長の密航屋を見た。私はサングラスを外し、彼を見つめた。密航屋は歩き出し、私を追い越していった。その後、彼はまったく不平をこぼさなかった。一行で唯一の女性である私のせいで、これからどんどん遅れたり苛立ったりするだろうと思っていたのに、そうでもなかったからだ。

 

 大方の男たちは、私が女性であり、ここにいるべきではないということをまず忘れない。私の周りの、長身でがっしりとした、力強く明るいまなざしと長い顎鬚の戦闘員たちは、この痩せっぽちの女を一顧だにせず、一言も口をきかない。多くの人が、端的に言えば男らしさや勇猛果敢の印だと思っているものは、私には死と生の差異をなくしていくもののように見える。彼らは滅亡に向かって駆けている。彼らの信条は、彼らを死のなかで生きさせようとする。生から来世の生へと移る行程ゆえに彼らは進むのだ。死は彼らを連れて永遠の楽園へと飛翔させる魔法のボールだ。だから、生きていくことの意味といった感動を私は彼らに見いだせない。生き続けるかぎり、私は彼らを哀れみ、その存在を拒み抜くだろう。

 

 銃声が聞こえ、私たちは小休止を取った。空中への発射で、皆それが密航防止の威嚇射撃だと知っている。(p48)

 

著者が国外から故郷であるシリア国内に戻る際、密航屋と呼ばれる入国を手助けする人と行動を共にする時の描写です。「死から来世の生へと移る工程」という表現が、死を恐れない彼らの考え方をよく表しています。

 

 この地上では、革命は非日常の現実だ。革命の現況を記録するのも非日常のことである。

 この現実を比較したり整理したりする必要はない。毎日の結果を知る必要すらない。必要なのは、毎時、神経を鎮め、諸事をこなしていくことだけ。爆撃から遠く、ごく安全な出口がわかっていて、医師や救命救急士が確実に駆けつけ、爆撃地点では活動家たちがすぐさまアサド政権の戦闘機やロケット砲による被害状況を確認する、という調子で。でも、そんなことは不可能だ。せめて接続できるように願いながら、ネット上で、世界の縁の外側で破壊と撃滅にさらされた小さな黒点を、ささやかな、だが注視すべき出来事として見守っていくしかない。そして、そうしたことよりはるかに大切なのは、互いに手を繋ぐことだ。引き裂かれた人間の手足や無惨に破壊された住居の前で正気を失わないように。一瞬であれ誰かが崩れれば、その周りの人が悲嘆にくれる。

 

 やすやすと小さな指に近づいて瓦礫の下から拾い集めなければならない。さらに別の女の子のおもらしのぬくもりまで残った遺体を掘り出さないといけない。それからまた歩き出し、犠牲者探しを続けるのだ。犠牲者たちの顔を忘れないようにしなくてはいけない。樽爆弾が降り注ぎ、無料で死が振りまかれる空の下でどのように人間の瞳が完全に光を失い白くなっていったかを書き留め、語り、外の世界に向かって報せるために。

 

 今起きている出来事を分析できたとしても、なぜ民間人の家々に爆弾を投下するのかを読み解けたとしても、意味はない。アサド政権がこの地域の破壊へと踏み出したのは、市民意識が育んだ革命を頓挫させ、活動家が男も女も解放地域へ戻って取り組んできた市民プロジェクトを潰すためなのか、あるいは軍隊の補給線を確保するためなのか。そんなことは何ひとつ重要ではない!今、大切なのは、空が私たちに樽爆弾やクラスター爆弾を注ぐただなかでも、自分自身の足で一本の釘のようにしっかりと立つことだ。(p137)

 

女の子の遺体を掘り出すところを想像すると胸が痛みます。

 

 翌日。若者たちはまた別の学校で上映会を完遂し、子どもたちとも話ができた。

 その学校はカファル・ナブルの外にあり、約十世帯、七十人以上の子どもたちが住みついている。年齢層はまちまちで、二歳から十三歳まで。参加して夢中になるのはたいてい女の子だ。ここの男の子たちは警戒心が強く、「俺たちは大人の男だ。こんなところに用はない」と言っている。「どうぞ参加していってね」と声をかけると、九歳の男の子が私に言った。

 「子どもだと思ってんのかよ!明日にはずらかって、ヌスラ戦線に行くからな。俺、射撃もできるんだぜ」

 その子の姉が微笑みを浮かべて言った。

 「嘘ばっかり。撃ち方なんか知らないくせに」

 姉のほうは十歳で、きれいな子だった。男の子は姉に「黙れ!」と怒鳴りつけた。「男たちがいるところで、女が口をきく権利なんかないんだからな」と。こんなふうに考えているのはその九歳の男の子だけではなかった。ある戦闘員の甥っ子は、十二歳にもなっていないのに家の柱に縄で縛りつけられていた。家を飛び出し、ヌスラ戦線に入って戦闘に加わろうとしたからだ。家族がどうにか連れ戻すと、その子は口汚く家族を罵って、お前らは不信仰者だ、殺してもいい連中なんだぞと言ったという。

 

 絶望を覚えた。どれだけ心を育む文化的な支援活動を行ない、避難民の学校や野宿する人たちを対象とした経済的支援まで行なっても、日常的な、すさまじい数の悲劇と恐怖を前にしてはまったく無力だ。この子どもたちはほとんど食事をとっていない。避難の連続のなかで暮らしている。(p182)

 

この9歳の男の子の発言が衝撃的でした。

大人の考え方をそのまま踏襲しているようです。

 

 私は立ち上がって紅茶のポットを持ってきた。そのとき急に熱意があふれてきて、あと二十四時間は不眠不休でいられる気がしてきた。逮捕・拘束された人や活動家、戦闘員など地上のすべての人たちの証言を書き留めたい、という誘惑にかられた。私は語り部、歴史のなかの曖昧模糊とした真実を紡ぐか細い糸の一端なのだ。完全なひとつの真実などない。アサド政権が現代史上、類を見ないほどの害悪に浸かりきっているという太い糸がある。また他方には、経済的・社会的状況や社会の性質や宗教文化を利用する形で陰謀が進められ、(アサド政権からの)解放地域がジハード主義の大隊の支配領域に変貌させられてしまったという糸もあるのだ。さらに、この場所がアサド政権とジハード主義大隊の双方に抵抗しているというのも真実だ。多くの者が殺され、逮捕・拘束され、誘拐され、出国してしまった後も、革命家たちが依然として抵抗を続けていることも真実だ。彼らの抵抗運動はきわめて独特で、曖昧かつ込み入っている。だがそれは少しずつ宗教戦争へと変化しつつある。歴史上で革命というものがつねにそうであったように、変容を遂げていく。(p226

 

本書では全般を通して、筆者が出会ったりインタビューしたりした人たちを淡々と描写している印象なのですが、ここでは珍しく、彼女の決意が表に出ているような書き方で、目を引きました。

 

 私はさらに尋ねた。「これはつまり、一国としてのシリアはあなた方にとってはもはや受け入れられないということですか」

「どういうことだね?」彼は不審そうに訊き返した。

「つまり、あなた方はイスラーム国家を望んでいますが、それはシリアという国の完全な崩壊と言えるのではありませんか」

 彼は答えた。「そうは言えない。我々はただイスラームの旗を掲げるだけだ。シリアは、シリアとして存続する。ただし、イスラーム的にはなる。アラウィー派は出ていくことになる」

 私は言った。「彼らは二百万人以上いるんですよ。キリスト教徒についてはどうなりますか、あとそれ以外の他の宗教は?」

 彼は答えた。「シリアから出ていくか、イスラームに改宗するか、人頭税を払うかだ」

「出ていかない人は?」と言うと、彼は「その運命を受け入れることになるだろう」と答えた。

「殺す、と?」と訊くと、怒気を含んだ声で答えた。

「それが彼らの報いだ」

「女性や子どもは?」

「出ていく、出ていってもらう」

 彼はそう答えたが、私は話を切り上げさせなかった。

ドルーズ派イスマーイール派についてはどうするつもりですか?」大きな声で私は尋ねた。

「これらの派については、もしイスラームに復帰するのであれば歓迎する。だが、そうしないのであれば彼らは不信仰者と判定される。我々は彼らに正しい信仰へと呼びかけるだろう。アラウィー派についていえば、彼らは背教者だ。殺さなければならない」

 張りつめた気持ちをかき消そうとして、私は思わず笑い出してしまった。

「でも女性や子どもたちは?女性は何が罪になるんですか?」そう訊くと彼は答えた。

「女は子どもを産む。子どもは大人の男になる。大人の男は我々を殺しに来る!」

 アブー・ターレクが立ち上がって言った。「これはあなたらしくない言葉ですね!神のご加護がありますように。マダム、もう行かなくては」

 私も理解した。もう発言は許されない。(p240)

 

著者がジハード主義集団のアミール(イスラム世界の称号)の面前で行ったインタビューです。

彼らにとって子どもは育ったら自らを殺しに来る存在なのか、と思うと、どうしたものかと思考が止まりそうになります。

 

この国の人々がどんな風に現代を生きているのか知りたくて手に取りましたが、翻って自分の置かれている環境など、いろいろ考えされられました。

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。

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無の国の門:引き裂かれた祖国シリアへの旅

無の国の門:引き裂かれた祖国シリアへの旅

 

 

吉田太一『遺品整理屋は見た!!天国へのお引越しのお手伝い』

おはようございます、ゆまコロです。

 

吉田太一『遺品整理屋は見た!!天国へのお引越しのお手伝い』を読みました。

 

  このご老人とは会話のキャッチボールがうまくできそうにありません。話は長くなりそうです。私は覚悟を決めました。しばらくの間、かみ合わないながらも会話をした後、私から切り出しました。

「お父さん、こんど無料で相談に乗りに行きますから。いつだったらいいですか?」

「来るんか?いや来んでもええよ、大体わかったから」

「そうですか?でもいつでも相談には乗りますので電話してくださいね」

 私がそう答えると、ご老人がしみじみと「あんたはええ人やなぁ」とおっしゃってくださいました。

 そんなことはないですよ、これも仕事ですからと返すと、ご老人がふと、何かいわくありげな口調になってこんなことを話し始めたのです。

「いや、実はな…。最近、ワシの知り合いが死んで十日目に見つかってな」

「ああ、それはお気の毒でしたね」

「そのときに死体を見つけたのがワシでなあ、いまでもその光景が忘れられんのや」

「…それは、見たくなかったでしょうね」

「夢にまで出てきよる。お化けが怖いんじゃなくて、孤立死をするのが怖いんじゃよ」

「そうおっしゃいますけど、お父さん、私だって誰だって孤立死する可能性はあるんですよ。一生、二十四時間誰かと一緒におる人はいませんからね、あんまり考えないほうがいいですよ」

「あんたは、そう言うけどな…」

「だったらええこと教えましょう。近所に公園はありますか?あったら、毎日公園に行ってください。特に朝がいいですよ」

「公園かいな」

「できれば二カ月以上は頑張って行ってください。毎日来ているお友だちができるまで」

「なんでや?」

「毎日来ている人が来なくなったら、友だちが心配してくれるでしょ!いまは携帯電話を持っている人も多いから心配して電話くれるかもしれないじゃないですか?」

「なるほどなあ…。しかし友だちなんてそんな簡単にできるかな」

「まずは始めることですよ。そうじゃないと本当に孤立死してしまいますよ!」

「わかった、また電話してもいいか?」

「どうぞ!」

(p67)

 

 

筆者は「孤立死を避けるための心がけとしていちばん大事なのは「積極的に生きること」ではないかと思う(p256)」と書いていますが、これは覚えておこうと思った会話です。

そして、自分の体が思うように動かせなくなったとき、自分はどんな暮らしをしているだろうか?と考えると、どうにも不安になってきます。

 

  老人施設問題の解決策として、定員割れしている学校の一部を老人施設に改築するというアイデアはどうだろうかと私は考えています。元気なお年寄りに入居してもらい、学校教育の一環として学校を子供たちとのふれあいの場として活用するのです。こうすれば学校の建物の有効利用や経費老人ホームの不足の解消にもなるでしょう。高齢者と子供たちがふれあう機会が増えれば、来るべき超高齢化社会へ理解ある世代を増やすことになるのではないかと思います。

(p175)

 

 

日本の六十五歳以上の人口に占める介護施設やケア付き高齢者住宅の割合は世界の先進国の中では大変少ない水準にある(一〇パーセントのアメリカを筆頭に諸外国は八パーセントを超えているのに、日本は四パーセント)とありましたが、初めて知りました。

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。

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遺品整理屋は見た!! (幻冬舎文庫)

遺品整理屋は見た!! (幻冬舎文庫)

  • 作者:吉田 太一
  • 発売日: 2011/11/10
  • メディア: 文庫
 

 

一ノ瀬俊也『特攻隊員の現実(リアル)』

おはようございます、ゆまコロです。

 

一ノ瀬俊也『特攻隊員の現実(リアル)』を読みました。

 

まえがきには本書の目的がこう書かれています。

「これまでの特攻論には特攻隊員たちの死の意義を、戦後の平和と繁栄の礎とするものが多いが、1945年8月15日の敗戦を知らずに亡くなっていった特攻隊員たちの頭にあったものはどういったものだったのか?を解き明かす」

 

そもそも特攻の目的とは何だったのでしょう。

特攻隊員たちには「体当たりで多くの敵を殺し、その戦意をそぐ」のが目的だと、説明されていたようです。

 

体当たりで多くの敵を殺し、その戦意をそぐという軍上層部の考え方を特攻隊員たちも受け入れ、出撃していった。陸軍航空士官学校(航士)五七期、特攻隊・殉義隊員として四四年一二月二一日、レイテに出撃戦死した陸軍少尉・若杉是俊(わかすぎこれとし)は、「決死隊」を志願した同年一〇月二一日の日記に「戦の決は武力に非(あら)ずして魂胆なり。敵をして『如何なる物量を以てするも、皇軍は、従って神州皇土は侵(おか)し難し。否(いな)絶対永久に侵犯し得ず』と思悟(しご)せしむることこそ、戦勝最大の鍵たり」と書いている(木村栄作編『天と海 常陸教導飛行師団特攻記録』)。

 

 これは、日本人が体当たりというかたちで無限の魂の力を示せば、物量に頼る敵米国は必ず恐れ入り、戦に勝つことができるはずだという、軍人としての信念の表明である。

 

 とはいえ、特攻隊将校の多くは二〇歳をわずか一、二歳越えたばかりの若者たちである。航士五六期、殉義隊隊長として四四年一二月二一日フィリピン・ミンドロ島沖で戦死した陸軍中尉・敦賀真二(つるがしんじ)は、若杉と同じく航空士官学校出のいわば陸軍本流の飛行将校で、気性の烈(はげ)しい人だった。しかし最後に遺していったのは「私は常に大空とともに生きている。/神秘な宇宙、澄みきった秋の空。/じっと空を見つめる。/青空、白雲/そこに、私は微笑んでいる」と、過酷な現実から逃れんとするかのような「訣別(けつべつ)の詩」であった(喜田泰臣『陸軍特別攻撃隊 殉義隊隊長敦賀真二』)。

 

 同じ士官学校出身の将校でも、特攻に対する考え方は多様であった。上官の説く特攻や「七生報国(しちしょうほうこく)」の建前に疑問を持ちながら、それでも出撃していった人もいた。戦争を生き延びた飛行将校・花谷成功の回想によれば、一一月二七日、レイテ湾で特攻戦死した同期生の森本秀郎は一一月二五日、マニラで「幼年校以来六年半訓練を重ねしは、単に只一艦を沈めるのみに非ず。幾度も出撃して戦いたし」と語ったという(陸士五七期航空誌編集委員会編『陸士五七期航空誌 分科編』)。

 

 花谷はこれを「正に楠公(なんこう)の七生報国の精神であった」と讃えるが、森本の真意は生きて何度でも戦いたいというものであり、一度きりで終わってしまう特攻には反対であったようだ。実際には、内心無念を抱えながら突入していったのではないか。

(p32)

 

二〇年くらいで人生が終わってしまうことを、自分だったら納得して受け入れられるだろうかと考えると、大きな葛藤があったであろうことが想像できます。

「戦勝最大の鍵」だと書かれていても、彼らの言葉から本心を知りたいと思ってしまいます。

 

 フィリピンに到着した石川が出撃直前、浜松在隊時の下宿先へ送った手紙の写しがある。事実上の最後の遺書といえ、前掲の追悼録『礎』にも収録されている。封筒に父親の字で「廣が○○基地より松下泉氏に宛てたる最後の通信(写) 日付無きも必死行の前日記せしならん」、兄の字で「亡父好文 遺品受取りに下宿松下泉様に来ていた」と上書きがある。出発前、最後の遺書を家族ではなく下宿先に送り、それを父親が筆写したことになる。

 

 在浜松間 いろいろお世話になりました/御恩は決して忘れません/空襲下の○○基地に神機を待つこと久し/暇な時はよく曾我[邦夫]さんと松下[下宿先]一家を語りました/中村隆三さんが戦斗機で我々を掩護して呉(く)れます/此度の決戦は松下一家の総出だと笑いました/原田さんに呉々も宜(よ)ろしく云って下さい/最早必死を確信して喜んで行きます/大君乃(おおきみの) 醜(しこ)の御楯(みたて)と 云うものは かかるものぞと 突(つつこ)め空母に/永らく待たせましたがやがて新聞で見られるでしょう/遺品整理等で最後迄御世話になります/では皆々様の御壮健御多祥を祈ります/石川中尉

 

 石川たちが自らの特攻死に向かいえた背景を理解するうえで、森岡清美『決死の世代と遺書』の提唱する「死のコンボイ」という概念が参考になる。森岡によれば、コンボイとは「道づれ」のことであり、若者たちは肝胆(かんたん)照らし合った者同士で組むことにより、死への突進を可能にしていた。石川の「此度の決戦は松下一家の総出だ」という言葉は、彼らなりの「死のコンボイ」意識の表現である。

 

 しかし石川の乗機は敵のいる海域にすらたどり着くことはできなかったようだ。

 一九四四年一二月一六日、わずか二機で出撃した石川の最期の様子については、別の重爆隊の整備士官の回想がある(山村卓彦「仔犬を撫でながら特攻出撃に」陸士第五十六期同期生会編『礎 第二集』)。これによれば、石川は出撃当日も「航士校、浜校当時の愉快な思い出、さては、浜松・千歳界隈での痛飲の懐旧談等々、嬉々として、お互に話をされて、こちらが慰め激励される仕末」であった。

 

 いよいよ飛行機に乗り込む前、石川は「日ごろ可愛がっておられた仔犬の頭をニコニコされながら撫で、機上の人となられ」たが、機が出発線(離陸位置)に並んだところで敵の戦闘機が出現、それを認めた石川機は「轟々たる爆音と砂塵を残して、たちまち離陸、椰子林を掠(かす)め、超低空で、われわれの視界から消え去ってゆきました」という。

(p69)

 

こんな時に周りの人やお世話になった人へ感謝の気持ちが述べられるだろうか、と思いますが、自分と接してくれた人たちへのつながりを意識することで、自分が求められている役割を受け入れようとしているのかもしれない、という気もします。それにしても、仔犬の頭を撫でるというシーンが、想像するだけで胸が痛みます。

 

 当時、ラジオの報道で特攻隊員が自らの決意を肉声で語ることがよくあった。東京で出版社勤めをしていた作家の一色二郎(一九一六年生)は、その衝撃を一九四四年一二月一七日の日記に「暗くなってから、特別攻撃隊員の録音放送がラジオで行なわれた。NHKの特派員が、録音したものである。死を目の前にした人の声をはじめて聞いた。おそろしかった」と記した(一色『日本空襲記』)。

 この放送は、一色の翌一八日の日記に引用された新聞記事(紙名不明)によれば、特別攻撃隊・護国飛行隊の七神鷲の言葉を録音したものだった。「家のあの柱、あの壁にいたるまで自分の胸にしみついています。正英(西村正英少尉)は、家にいるもおなじです」といった隊員の肉声を、内地国民は直接耳にしたのである。

 

 新聞は、この放送について「文字でなく声であり、しかも、さりげない言葉であるだけに、その奥にあるおおいなる決意がじかに胸に響き、感慨泉のごとく湧きあふれて静坐に堪えず」、「神鷲の魂は、それぞれの父母の家に永遠にいられると同時に国民一億の心に、いま、厳然として生きている」と、国民に特攻精神を自らのものとするようにうながした。

 

 しかし一色は、この宣伝目的の放送に激しい憤りを抱いた。一八日の日記に「暗くなってから、さくやの放送のことを考える。ちょうどいまごろの時間だったというふうに。すると、なんともいえない憤りが胸にこみあげてきた。放送したということに対して。本人が、あわれだ」(同)と書いている。

 

 なぜ隊員たちは「あわれ」なのだろうか。一つは、ここまで明確に決意を述べて、一億国民の賞賛を浴びてしまえば、もはや退路は完全に断たれ、ひたすら敵に突進して死ぬしかないからであろう。

 もう一つは、肉親の死をラジオで聞かされる家族が嘆き悲しむからであろう。三浦中尉の部下・春日元喜軍曹(一九二一生、仙台養成所八期生、四五年一月六日にルソン島リンガエン湾で死亡)は、陸軍報道班員中野実(なかのみのる)に対し、特攻隊員とラジオの関係について次のような印象的な話をしている。

 

 なんにも知らずに[休暇で]家へ帰りました。すると、その日に万朶隊の発表です。その時、はじめて、俺も行くなと感じました。それで、ほんとのことを云ったら、またおふくろに泣かれると思って、冗談めかして、俺も体当たりをするかも知れんと云って居ったんですが、最後の日になったら、ほんとのことをほのめかしてかえるつもりで居ったんです。ところが、どうしても云えなくてね。ほかの家から電報をうって帰隊しました。その前に、家を出る時に、どうかして覚悟をさせようと思って、一二月になったら、ラジオのスイッチを入れといてくれと云って出て来たら、途中で、おふくろが感づいたらしいんですよ。急いで家を出て、駅へ行く途中で、おふくろがうしろから追いかけて来て、私の名を呼ぶんですよ。つかまったらかなわんと思って、とっととこっちは駆け出して来たんですが、こんなことなら、よくわけを云って、落ちつかせて来た方がよかったですよ。/春日軍曹はそう云って明るく笑うのである。私は鼻がしらがじいーんとなって、目をそむけてしまった。(中野「八紘隊は征く」『文芸春秋』四五年二月号)

 

 ラジオは、三浦や春日たち特攻隊員にとっては、自らの名誉ある死を公に讃えてくれる装置だった。だが、それを聞いた肉親たちにとっては、息子の死を突然知らせて悲嘆に追い込む残酷なものだった。

(p82)

 

ラジオで特攻隊員の声を流していた、という話をこの本で初めて知りました。

 

 「一億総特攻」の時代を生きた多くの特攻隊員にとって、降伏や敗戦は完全に想定外のことだった。だが、そうともいえない隊員もいた。海軍少尉・杉村裕(すぎむらゆたか)である。

 

 杉村は一九二三年生まれ、四三年に学徒出陣で東大法学部を仮卒業した。同年一二月九日に海兵団入団、航空兵に編入されて特攻隊員となった。

 杉村の日記は学徒兵の遺稿集『はるかなる山河に』や『きけ わだつみのこえ』などに収録されて著名であるが、一九四七年に東大剣道部の友人たちが遺族と編んだ追悼録『杉村裕君追悼文集』(非売品)を入手したので、彼の死に至る背景がより詳しくわかるようになった。

 杉村の日記もまた、特攻による死の意味、いわば死にがいの模索であった。しかし、彼にとってはアメリカと戦争すること自体が愚策であった。四五年五月一二日の日記には、「アメリカ的なるものー漠然と斯(こ)う呼ぶーは確かにプレザント(pleasant)だ。快適である。生活の快適であると言うことは人の心を容易に捕えて離さない」とある。このアメリカ的な「生活の快適」は、例えばフィリピンなどで日本的なものより歓迎されやすい、そのことを日本人はよく考えねばならない、「日本人が日本古来の伝統を振りかざして余りにも狭量に、余りにも排他的に余りにも独善的に他に対することを反省」しない限り、「東亜共栄圏の完全なる成立」は望めないのではないか?とある。

 

 日本がこの戦争に掲げた大義は、アジア諸民族を米英の支配から解放することだった。しかし、日本の「東亜共栄圏」思想は「快適」という米国の価値観を超えて国際的な支持や共感を得られるのか、という疑念である。杉村は、アメリカの政治が「各人の生活をカムファタブル(comfortable、快適)にすることを当然責任とする」のに対し、日本の「為政者は、己れの愚鈍から斯(かか)る理想に遠いのを糊塗するためにことさらに精神主義を振りまわした嫌いがあるのではないか?」と批判する。そして「偏見に捕われずにアメリカ的のものの長所に目を向けることをせぬと吾(わ)が国も決して長くはないと俺は思う」と独りごちた。

 

 杉村にとって、日本的な「精神主義」は、指導者たちがその愚鈍を隠蔽するために唱えたものに過ぎない。海兵出身士官の振り回す精神主義になじめない杉村には、かつて大学で親しんだ米国的な合理主義があらためてまぶしく思えたのである。彼が毎日受けていたのは、その指導者たちのいうがままに、理想国家の国民である米軍将兵を一人でも多く殺すための苛酷な訓練であった。これでは、特攻による死にがいを見いだすのは難しかっただろう。(p130)

 

冷静な視点だと思いました。杉村さんの「日本人が日本古来の伝統を振りかざして余りにも狭量に、余りにも排他的に余りにも独善的に他に対すること」という表現が心に残りました。

他の国の人と接するときなど、こういう気持ちになっていないか、自問したいと思います。

 

日本一国でなんとか米国に戦争継続を諦めさせねばならない。その手段として選ばれたのが特攻だった。

 注目すべきは、国民のなかにも、こうした軍の考えを信じて特攻を続けていれば、いつかは米国の人的資源が底を突き、和平に応じるはずだと期待する人がいたことである。

 前出の埼玉県与野町長・井原和一は四四年一二月三一日の日記で、今年はサイパン玉砕やフィリピン決戦が続いた、「͡͡其の後は本土に対する空襲と比島の神風特別攻撃隊等を出し、愈々(いよいよ)緊迫せる戦局を全力を挙げ守って居り、敵の物量と人的資源の切れるのを待つほかはないことになって居る。実に必死の戦であ」ると回顧した(与野市教育委員会市史編さん室編『与野市史 井原和一日記Ⅴ』)。

 神風特攻で敵の物量と人的資源の切れるのを待つほか「ないことになって居る」という井原の口ぶりには、軍の示した勝利の方程式に対する、そこはかとない疑念がにじんでいるように思える。

 結局、神風特攻の出現によっても、レイテ島の戦局を覆すことはできなかった。それどころか、四四年末の日本を大地震が襲った。四四年一二月七日に起こった東南海地震である。この地震の被害は極秘とされたが、中京地方の航空機工場は大打撃を受けた。

 

 作家の一色次郎は四四年一二月二二日の日記で「ことしは、なんという年だろう。天だけは日本に味方してくれると信じていたのに、安政(大地震、一八五五)以来といわれる大地震がおこるなんて」と嘆いた(一色『日本空襲記』)。

 日記は続けて「私たちはこれまで、奇跡などアテにしないとは言いながらも、『神風』を心待ちにするようなものが、胸にないでもなかった…それが、天罰は反対にこっちの頬っぺたを叩いたのだ。日本国民に、なんの悪いところがあったのだろう」ともいう。一九四四年の日本人が抱いた「神風」への期待は、大地震により完全に裏切られたかたちである。

 

 きわめて皮肉なことに、航空特攻開始の前後から日本の航空機生産数は低下をはじめていた。四四年の内訳をみると、六月の二八五七機をピークとして、一二年二二〇四機、四五年一月一九四三機、二月一二六三機、三月一九三五機へと低下している(防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書 陸軍航空兵器の開発・生産・補給』)。その大きな要因は資材不足、空襲の激化(にともなう工場の疎開)、そして地震であった。大本営陸軍部戦争指導班の日誌は四五年二月六日、「空爆地震の影響は否定し得ざる原因なりと雖(いえど)も予定の三分の一程度の生産を以てしては、航空必勝の目途なし」ときわめて悲観的な見通しを示している(軍事史学会編『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日記 下』)。これらの諸数字はもちろん、地震の規模・被害すらも、国民にはほとんど伝えられなかった。 (p166)

 

「天罰は反対にこっちの頬っぺたを叩いたのだ。日本国民に、なんの悪いところがあったのだろう」という言葉が、考えさせられます。地震のタイミングは偶然だろうけど、日本の敗北が早まった要因の一つかもしれないと思うと、不思議な気持ちです。

 

 戦時中、もっとも辛辣な特攻批判をしていたのが、郷里の愛知県渥美半島疎開して農業をしながら作家活動をしていた評論家の杉浦明平(すぎうらみんぺい)(一九一三(大正二)年生)である。沖縄の戦局が絶望的となっていた一九四五年六月一一日の杉浦の日記には、

 

 爆弾に跨(またが)り、特攻機に乗り、或はベニヤ板製の特別潜航艇とともに我身を破片と化すこともいとわない、しかしそれを果して勇敢と称しうるだろうか。日本人は犬のように、勇敢だがお上に向っては一つの口答えもなす気力をもたず、正しきものと不正との区別さえ出来ない、武器をよこさぬ奴らに武器を要求する勇気がなく、唯々(いい)として竹槍をかついで目をつむって敵弾の中に突入するのである。余りの愚かしさに言葉さえ出ない。(若杉美智子・鳥羽耕史編『杉浦明平暗夜日記』)

 

 とある。そして日本人が竹槍で敵陣に突入したところで「そのために何人か些(いささ)かでも幸いになりうるか、よきことが起こりうるか、世界の文化に一片の貢献でもなしうるか、或は子供たちによいことがめぐりうるか、皆否」と切って捨てている。

 杉浦の六月一六日の日記は、軍の唱える「一億特攻」論への批判に及ぶ。米軍は日本本土に七〇万の兵を上陸させるといっている、日本軍は「一億特攻だから百人で一人を殺してもなおお釣りがくると称している」が、実際には外地に取り残された兵隊などを除くと二〇〇〇万くらい、その半分は女でしかも大部分は竹槍以外に何一つ武器を持たない、「従って一対百でも向うは草を薙(な)ぐように百人を薙ぐに困難ではない」という(同)。

 

 同じく特攻の批判者だった竹下甫水も、六月二〇日の日記に、

 

 過日某所に於て七〇歳になる退役将軍がこんな話をしたそうである。「アメリカが日本本土に上陸するが如きは容易でない。独逸(ドイツ)と違い四面環海だからである。例え上陸に成功したからとて日本には無限の特攻隊があるから、幾千幾万の艦船でも海底の藻屑にしてやる」と。…此の将軍は最早老耄(ろうもう)に近く恐らく近代武器の発達を知らんのであろう。我々素人と雖(いえど)も敵に対し、しかく単純な解釈は下して居ない。(竹下『竹下甫水時局日記』)

 

 と「無限の特攻隊」すなわち一億特攻の本土決戦に期待する軍の主張を否定している。竹下は「あれほどの犠牲を払っても沖縄は遂に敵手にゆだねざるを得なかったではないか」とも言う。

 

 杉浦や竹下の辛辣かつ的確な特攻―本土決戦批判は、じつは昭和天皇をはじめとする戦争指導層の意向とも一致していた。そのことは、天皇が六月二二日の御前会議で、ソ連を仲介とした和平工作の開始を正式に命じたことからもわかる。軍はなおも本土での徹底抗戦を叫んだが、竹下の「素人」論に理詰めで抗弁するのは難しかったはずだ。(p197)

 

「日本人は犬のように、勇敢だがお上に向っては一つの口答えもなす気力をもたず、正しきものと不正との区別さえ出来ない」というところに、少しドキリとしました。

誰かの意見を鵜呑みにするのではなく、自分も本当にそう思うのかもう一度考えることが大切だと思いました。その上で、現実を正しくとらえる視点を持ちたいと思いました。

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。

 

特攻隊員の現実 (講談社現代新書)

特攻隊員の現実 (講談社現代新書)

 

 

あさのあつこ『さいとう市立さいとう高校野球部(上)』

こんにちは、ゆまコロです。

 

あさのあつこ「さいとう市立さいとう高校野球部(上)」を読みました。

 

ひさびさの、あさのあつこ先生の本です。

 

 家族って、何でこんなに鬱陶しいんだろう。

 ときどき、全部捨てられたらどれくらいすっきりするだろうなってやばいことを考えてしまう。実際、みんながいなくなったら、取り乱しちゃって、必死で捜し回るくせに、な。

 

 おれって、けっこう臍曲がり?でもなあ……。「きみたちは一人じゃない」ってよく言うでしょ。大人って好きだよな、あのフレーズ。

 おれは苦手だ。耳にする度に中耳(ちゅうじ)がむず痒くなる。

 孤立って辛い。おれだって、そのくらいのことはわかっている。中学生のとき、おれは孤立しかかったけれど、しかかっただけで、しなかった。一良がいたし、早雲やポポちゃんもいてくれた。ありがたかった。だから「きみたちは一人じゃない」ってフレーズを全否定する気はさらさらない。この一言に、支えられたやつも、支えられているやつもいるんだろうとは思う。

 けど、浅いよなぁとも思う。

 大人の好む言葉って、概して浅い。

 一人じゃないって、誰かがぶら下がってるってことだ。それに、誰かにぶら下がってるってことでもあるわけでしょ。

 それって不自由だったり、重かったりしないのかなあ。しがらみとか、義務とか、愛情とか、つっかえ棒にもなるし、手枷足枷にもなるような気がするの、おれだけ?(p98)

 

「浅いよなぁ」という言葉がいい。

高校生ながら、自分の感情を動かすものとそうでないものの選択を、自身の判断で出来ている、というような印象を受けました。

 

「おれは諸君に、負け犬に甘んじたまま終わって欲しくない。諸君は若いんだ。根性と気力があれば這い上がって行ける。これから。おれが諸君を徹底的に鍛えて行く。厳しいかもしれん。いや、厳しい。けれど、諸君、これだけは言っておく。おれのやり方に黙ってついてくれば、諸君は勝つことを覚えられる。いいな、負けたままじゃだめだ。弱いやつは駄目だ。負け犬になるな。諸君の年齢で負け犬になったら、一生、負け犬のままかもしれんぞ。それは嫌だろう。だから、おれが、諸君に勝つことの味を教えてやる。もう一度、言うぞ。勝たなきゃだめだ。結果を残さなきゃだめだ。この程度でいいと自分を甘やかすな。そんなやつに、未来はない。自分に厳しく、死に物狂いで戦えるやつだけが、勝者になれるんだ。野球も人生もな」

 

 村田の口調は熱っぽく、説得力に満ちていた。

 おれも一瞬、あぁそうか、勝つ側に回らなきゃだめなんだ、野球も人生もって、思っちゃったもんな。

 けど、ちょっと待て、待て、待ってくれ。

 ちょっと変じゃないか、それ。(p132)

 

 

あさの作品で上手だなと思うことの一つに、「押し付けとか常識とか、慣習などに対する、違和感に接した時の心の揺れ動き方の描写」があります。

あんまり賛同できない意見だな、と思っていても、適当に聞き流したり、その場では同調したり指示に従っておいて、あとで陰口を言ったりすることが予想できる場面でも、あさの作品では意地を張ったり抵抗したりするシーンが時折見られます。

その結果衝突したり、回り道になるのだとしても、自分の意見を持ってほしい、本当に他者や大人の言う通りなのか自分の頭で考えてほしい、そんな意図が見えてくるようです。

まあ、あんまり周囲とぶつかっちゃってギクシャクしてくると、その展開にこちらが疲れてしまうこともあるんですけど…。

 

それでも好きです。

登場人物は違いますが、高校生になって、こなれた『バッテリー』になりました、といった空気が軽快で良いと思います。

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。

 

 

 

 

斉藤洋『生きつづけるキキ―ひとつの『魔女の宅急便』論―』

おはようございます、ゆまコロです。
斉藤洋『生きつづけるキキ―ひとつの『魔女の宅急便』論―』を読みました。


魔女の宅急便』シリーズが完結してしまい、寂しさを感じていたので、手に取りました。
そうしたら、大好きな『ルドルフとイッパイアッテナ』の作者・斉藤洋さんが書いていて、あれっと思いました。

斉藤洋さんから見た、『魔女の宅急便』の各章の盛り上がり、作家の狙いなどが考察されていて、面白いです。あらためて、原作の良さを味わえます。

今回、『魔女の宅急便』が引用されていて、やっぱりいいなと思ったのはこれです。

 

「この第五章、<キキ、一大事にあう>はこの救出劇で終わりではない。このあと、キキはほうきをすりかえた犯人をつきとめる。犯人の少年はキキのほうきを使って飛ぼうとし、ほうきをこわしてしまっている。
 
 あやまる少年に、キキは…。

 「しかたないわ」

 キキはかすれた声でやっといいました。いやだっていってもしょうがないもの、と思いながら、あふれてきそうななみだを、胸の中におしもどしました。

 「あたし、自分でほうきをつくることにする。前にもつくったことあるから、たぶん、だいじょうぶよ。はじめっから、このほうきみたいにいくとは思わないけど…なんとか乗りこなしてみせるわよ」(p116以下)

 

 このせりふは、文字どおり命がけで小さな男の子を荒波から救出したあとだけに、説得力が大きい。

 キキはこの章で人命救助という、これまでにない大仕事をし、さらに、ほうきを盗んでこわした犯人を許すという寛容さを見せ、しかも、母のほうきでない新しいほうきを作り、それで飛行するという決意をする。」(p51)

 

 

それと、キキとトンボさんの関係に関する検証も好きです。

 

「「キキってさ、空を飛ぶせいかな、さばさばしてて、ぼく、気らくでいいや。女の子っていう気がしないもんな。なんでも話せるし」(p130)

 

 たしかに、こう言われたら、少女はいらいらするだろう。すべての少女がそうだとは言えないとしても、多くの少女は、
「女の子っていう気がしない」
と言われれば、いらいらするに違いない。

 男性の側から見ると、どうしてこの少年はこういうことを言ってしまうのかなと、溜息が出そうになる。

 しかも、交際関係に入るかもしれない少女に、
「ぼく、気らくでいいや」
とは何をかいわんやである。

 おまえ、女性に対して気楽さを求めているのかと、憤りたくなる男性読者も多いだろう。しかし、相手の少女を好きなくせに、こういうことを言ってしまう少年は多いのだろう。だからこそ、読者、特に少女の読者はここでキキに共感できるのだ。」(p63)

 

 

巻末に、本書の著者が不要と称した角野栄子さんとの対談があるのですが、同じ話題を扱っているようで何となく話がかみ合ってない感が面白かったです。
自分と似た部分がある、と言われて、角野先生が「複雑な気持ちです(笑)。」と答えているのが可愛い。

 

あと、斉藤洋さんがつまらない本は最後まで読まなくてもいいと主張しているのがちょっと嬉しかったです。

 

『ルドルフ』シリーズの最新作が出ることも分かり、今から楽しみです。

最後まで読んで下さってありがとうございました。

 

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生きつづけるキキ ーひとつの『魔女の宅急便』論ー

生きつづけるキキ ーひとつの『魔女の宅急便』論ー

  • 作者:斉藤 洋
  • 発売日: 2020/03/02
  • メディア: 単行本
 

 

岩本麻奈『パリ在住の皮膚科専門医が教える女性誌にはゼッタイ書けないコスメの常識』

こんばんは、ゆまコロです。


岩本麻奈『パリ在住の皮膚科専門医が教える女性誌にはゼッタイ書けないコスメの常識』を読みました。

 

いろんな疑問が簡潔にまとめられているので、わかりやすいです。

 


「Q.泡洗顔で化粧も落ちますか?また泡立ちがいいと、よく落ちるの?
A.一般的には泡立ちがいいほど洗浄力は落ちます。

 

 いまどきの化粧品はシリコン系など多様化しているため、石けんだけではなかなか落ちません。
 下地にUVカットクリームだけを使っている場合も同様で、薄化粧と思っていても、クレンジングをしないと汚れはとれないのです。逆にいえば、石けんの泡で簡単に落ちる程度のUVカットコスメでは、その働きはほとんどないも同然、強い紫外線の害にはとてもたちうちできないのです。
」p54

 

 

私は、日焼け止めしかつけていない日は、クレンジングを億劫がっていましたが、石けんで落ちるくらいのUVカットでは紫外線に太刀打ちできない、と言われれば、確かにそんな感じがします。

 


「Q.朝用、夜用の基礎化粧品がありますが、2つ買うのは面倒だし経済的にも厳しい。わけてあるのには理由があるの?
A.朝と夜とでは、肌が求めるものが異なるのです。

 

 体温変化の1日のカーブを描く、サーカディアンリズムというのがあります。これを見ると、皮膚も1日のクール内で状態が大きく異なることがわかります。
 夜は副交感神経優位になり、最初のノンレム睡眠のときに成長ホルモンが大量に分泌されます。皮膚の代謝も盛んになり、細胞は生まれ変わります。だから朝起きたての肌というのは、とても元気。水分量はたっぷりで、皮脂量も理想的です。そういうときには、水分補給などは最低限のケアで大丈夫です。それに朝はUVカットクリームを下地にメイクするケースが圧倒的に多いので、あまり栄養分のあるこってりしたクリームをあたえても、メイクが崩れてしまうだけなのです。
 逆に夜の肌はどうかといえば、日中に紫外線やホコリ、大気汚染などと戦ったあとなので、かなり疲れています。当然のことながら水分量も減少し、逆に皮脂量は増加していて、かわいそうなくらいです。そこで夜は、水分も含めてたっぷりと栄養をあたえることが必要となります。つまり、朝用と夜用を分けることは、実に理にかなった方法といえるのです。」p62

 

実は朝と夜でケアを変えるのも面倒くさがっていました。

自分の適当さ加減が露呈します。

 

「Q.大人のニキビはなぜできるの?
A.あなたのストレスを表現してくれている、重要でありがたいサインだと思いましょう。

 

 大人のニキビは、額などの皮脂分泌活動が活発な部分にできる思春期のニキビと違って、顎やフェイスラインなど、男性でいうとひげの部分に生える部分にできやすいという特徴があります。
 同様に、皮脂分泌量の多さだけが原因でできるわけではなく、ストレスやホルモンの乱れなど、さまざまな原因が重なって起きる症状です。そのため、単に清潔を心がけるだけではなかなか治りにくいという側面があります。
 若い頃は、ニキビができやすいのはオイリー肌、というパターンが圧倒的ですが、大人のニキビは、脂っぽいというより角質水分量が全般に不足しているケースがほとんどです。つまり、あらゆる肌タイプの人が大人ニキビに悩まされる可能性があるのです。痕になるとやっかいですから、早めに皮膚科医を訪ねるべきです。」p106

 

「角質水分量が全般に不足している」というところが気になりました。

以前、違う症状で皮膚科を受診した際、何気なく「ニキビが気になっている」という話をお医者さんにしたら、問診の後漢方を出して下さり、改善したことを思い出しました。

自分に合う化粧品を探すより安価だったので、漢方を処方して下さる皮膚科があれば、ニキビで悩んでいる方におすすめです。


良いなあと思ったのが、著者のあとがきの言葉です。

 

「フランスでは、男性たちのなかにも“女性は若いほどいい”という価値観はありません。ヴィンテージのワインがそうであるように、成熟した香りを放つ女性こそ女のなかの女。そうした価値観が普遍的に存在しています。なぜならば、若さは一過性のものだということをよく理解しているからです。そして長い人生をずっと輝きながら生きていけるよう、自分の中身を常に磨き続けることの大切さを知っています。だから、パリの女性は40代になっても50代になっても“女として”とても魅力的。色っぽく艶っぽく奥が深く、若い娘に負けることがあるかも知れないなんて、これっぽっちも考えたりはしません。そして、実際に負けてなんていないのです。
 知識もコスメも美容法も大切。けれどもっとも重要なものがほかにもあるということを、パリジェンヌは身をもって教えてくれています。」p161

 

この前向きすぎる思考。美容法に振り回されすぎず、地道に行こうと思いました。

本書は全般を通して、佐伯チズさんの美容法に似ている気がしました。

読んだだけで、もうすでに肌がなんとなく好転してきたかのような気持ちになってきます。気が早すぎますけど…笑


最後まで読んで下さってありがとうございました。

 

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女性誌にはゼッタイ書けないコスメの常識

女性誌にはゼッタイ書けないコスメの常識

  • 作者:岩本 麻奈
  • 発売日: 2010/08/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)