ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

一ノ瀬俊也『特攻隊員の現実(リアル)』

おはようございます、ゆまコロです。

 

一ノ瀬俊也『特攻隊員の現実(リアル)』を読みました。

 

まえがきには本書の目的がこう書かれています。

「これまでの特攻論には特攻隊員たちの死の意義を、戦後の平和と繁栄の礎とするものが多いが、1945年8月15日の敗戦を知らずに亡くなっていった特攻隊員たちの頭にあったものはどういったものだったのか?を解き明かす」

 

そもそも特攻の目的とは何だったのでしょう。

特攻隊員たちには「体当たりで多くの敵を殺し、その戦意をそぐ」のが目的だと、説明されていたようです。

 

体当たりで多くの敵を殺し、その戦意をそぐという軍上層部の考え方を特攻隊員たちも受け入れ、出撃していった。陸軍航空士官学校(航士)五七期、特攻隊・殉義隊員として四四年一二月二一日、レイテに出撃戦死した陸軍少尉・若杉是俊(わかすぎこれとし)は、「決死隊」を志願した同年一〇月二一日の日記に「戦の決は武力に非(あら)ずして魂胆なり。敵をして『如何なる物量を以てするも、皇軍は、従って神州皇土は侵(おか)し難し。否(いな)絶対永久に侵犯し得ず』と思悟(しご)せしむることこそ、戦勝最大の鍵たり」と書いている(木村栄作編『天と海 常陸教導飛行師団特攻記録』)。

 

 これは、日本人が体当たりというかたちで無限の魂の力を示せば、物量に頼る敵米国は必ず恐れ入り、戦に勝つことができるはずだという、軍人としての信念の表明である。

 

 とはいえ、特攻隊将校の多くは二〇歳をわずか一、二歳越えたばかりの若者たちである。航士五六期、殉義隊隊長として四四年一二月二一日フィリピン・ミンドロ島沖で戦死した陸軍中尉・敦賀真二(つるがしんじ)は、若杉と同じく航空士官学校出のいわば陸軍本流の飛行将校で、気性の烈(はげ)しい人だった。しかし最後に遺していったのは「私は常に大空とともに生きている。/神秘な宇宙、澄みきった秋の空。/じっと空を見つめる。/青空、白雲/そこに、私は微笑んでいる」と、過酷な現実から逃れんとするかのような「訣別(けつべつ)の詩」であった(喜田泰臣『陸軍特別攻撃隊 殉義隊隊長敦賀真二』)。

 

 同じ士官学校出身の将校でも、特攻に対する考え方は多様であった。上官の説く特攻や「七生報国(しちしょうほうこく)」の建前に疑問を持ちながら、それでも出撃していった人もいた。戦争を生き延びた飛行将校・花谷成功の回想によれば、一一月二七日、レイテ湾で特攻戦死した同期生の森本秀郎は一一月二五日、マニラで「幼年校以来六年半訓練を重ねしは、単に只一艦を沈めるのみに非ず。幾度も出撃して戦いたし」と語ったという(陸士五七期航空誌編集委員会編『陸士五七期航空誌 分科編』)。

 

 花谷はこれを「正に楠公(なんこう)の七生報国の精神であった」と讃えるが、森本の真意は生きて何度でも戦いたいというものであり、一度きりで終わってしまう特攻には反対であったようだ。実際には、内心無念を抱えながら突入していったのではないか。

(p32)

 

二〇年くらいで人生が終わってしまうことを、自分だったら納得して受け入れられるだろうかと考えると、大きな葛藤があったであろうことが想像できます。

「戦勝最大の鍵」だと書かれていても、彼らの言葉から本心を知りたいと思ってしまいます。

 

 フィリピンに到着した石川が出撃直前、浜松在隊時の下宿先へ送った手紙の写しがある。事実上の最後の遺書といえ、前掲の追悼録『礎』にも収録されている。封筒に父親の字で「廣が○○基地より松下泉氏に宛てたる最後の通信(写) 日付無きも必死行の前日記せしならん」、兄の字で「亡父好文 遺品受取りに下宿松下泉様に来ていた」と上書きがある。出発前、最後の遺書を家族ではなく下宿先に送り、それを父親が筆写したことになる。

 

 在浜松間 いろいろお世話になりました/御恩は決して忘れません/空襲下の○○基地に神機を待つこと久し/暇な時はよく曾我[邦夫]さんと松下[下宿先]一家を語りました/中村隆三さんが戦斗機で我々を掩護して呉(く)れます/此度の決戦は松下一家の総出だと笑いました/原田さんに呉々も宜(よ)ろしく云って下さい/最早必死を確信して喜んで行きます/大君乃(おおきみの) 醜(しこ)の御楯(みたて)と 云うものは かかるものぞと 突(つつこ)め空母に/永らく待たせましたがやがて新聞で見られるでしょう/遺品整理等で最後迄御世話になります/では皆々様の御壮健御多祥を祈ります/石川中尉

 

 石川たちが自らの特攻死に向かいえた背景を理解するうえで、森岡清美『決死の世代と遺書』の提唱する「死のコンボイ」という概念が参考になる。森岡によれば、コンボイとは「道づれ」のことであり、若者たちは肝胆(かんたん)照らし合った者同士で組むことにより、死への突進を可能にしていた。石川の「此度の決戦は松下一家の総出だ」という言葉は、彼らなりの「死のコンボイ」意識の表現である。

 

 しかし石川の乗機は敵のいる海域にすらたどり着くことはできなかったようだ。

 一九四四年一二月一六日、わずか二機で出撃した石川の最期の様子については、別の重爆隊の整備士官の回想がある(山村卓彦「仔犬を撫でながら特攻出撃に」陸士第五十六期同期生会編『礎 第二集』)。これによれば、石川は出撃当日も「航士校、浜校当時の愉快な思い出、さては、浜松・千歳界隈での痛飲の懐旧談等々、嬉々として、お互に話をされて、こちらが慰め激励される仕末」であった。

 

 いよいよ飛行機に乗り込む前、石川は「日ごろ可愛がっておられた仔犬の頭をニコニコされながら撫で、機上の人となられ」たが、機が出発線(離陸位置)に並んだところで敵の戦闘機が出現、それを認めた石川機は「轟々たる爆音と砂塵を残して、たちまち離陸、椰子林を掠(かす)め、超低空で、われわれの視界から消え去ってゆきました」という。

(p69)

 

こんな時に周りの人やお世話になった人へ感謝の気持ちが述べられるだろうか、と思いますが、自分と接してくれた人たちへのつながりを意識することで、自分が求められている役割を受け入れようとしているのかもしれない、という気もします。それにしても、仔犬の頭を撫でるというシーンが、想像するだけで胸が痛みます。

 

 当時、ラジオの報道で特攻隊員が自らの決意を肉声で語ることがよくあった。東京で出版社勤めをしていた作家の一色二郎(一九一六年生)は、その衝撃を一九四四年一二月一七日の日記に「暗くなってから、特別攻撃隊員の録音放送がラジオで行なわれた。NHKの特派員が、録音したものである。死を目の前にした人の声をはじめて聞いた。おそろしかった」と記した(一色『日本空襲記』)。

 この放送は、一色の翌一八日の日記に引用された新聞記事(紙名不明)によれば、特別攻撃隊・護国飛行隊の七神鷲の言葉を録音したものだった。「家のあの柱、あの壁にいたるまで自分の胸にしみついています。正英(西村正英少尉)は、家にいるもおなじです」といった隊員の肉声を、内地国民は直接耳にしたのである。

 

 新聞は、この放送について「文字でなく声であり、しかも、さりげない言葉であるだけに、その奥にあるおおいなる決意がじかに胸に響き、感慨泉のごとく湧きあふれて静坐に堪えず」、「神鷲の魂は、それぞれの父母の家に永遠にいられると同時に国民一億の心に、いま、厳然として生きている」と、国民に特攻精神を自らのものとするようにうながした。

 

 しかし一色は、この宣伝目的の放送に激しい憤りを抱いた。一八日の日記に「暗くなってから、さくやの放送のことを考える。ちょうどいまごろの時間だったというふうに。すると、なんともいえない憤りが胸にこみあげてきた。放送したということに対して。本人が、あわれだ」(同)と書いている。

 

 なぜ隊員たちは「あわれ」なのだろうか。一つは、ここまで明確に決意を述べて、一億国民の賞賛を浴びてしまえば、もはや退路は完全に断たれ、ひたすら敵に突進して死ぬしかないからであろう。

 もう一つは、肉親の死をラジオで聞かされる家族が嘆き悲しむからであろう。三浦中尉の部下・春日元喜軍曹(一九二一生、仙台養成所八期生、四五年一月六日にルソン島リンガエン湾で死亡)は、陸軍報道班員中野実(なかのみのる)に対し、特攻隊員とラジオの関係について次のような印象的な話をしている。

 

 なんにも知らずに[休暇で]家へ帰りました。すると、その日に万朶隊の発表です。その時、はじめて、俺も行くなと感じました。それで、ほんとのことを云ったら、またおふくろに泣かれると思って、冗談めかして、俺も体当たりをするかも知れんと云って居ったんですが、最後の日になったら、ほんとのことをほのめかしてかえるつもりで居ったんです。ところが、どうしても云えなくてね。ほかの家から電報をうって帰隊しました。その前に、家を出る時に、どうかして覚悟をさせようと思って、一二月になったら、ラジオのスイッチを入れといてくれと云って出て来たら、途中で、おふくろが感づいたらしいんですよ。急いで家を出て、駅へ行く途中で、おふくろがうしろから追いかけて来て、私の名を呼ぶんですよ。つかまったらかなわんと思って、とっととこっちは駆け出して来たんですが、こんなことなら、よくわけを云って、落ちつかせて来た方がよかったですよ。/春日軍曹はそう云って明るく笑うのである。私は鼻がしらがじいーんとなって、目をそむけてしまった。(中野「八紘隊は征く」『文芸春秋』四五年二月号)

 

 ラジオは、三浦や春日たち特攻隊員にとっては、自らの名誉ある死を公に讃えてくれる装置だった。だが、それを聞いた肉親たちにとっては、息子の死を突然知らせて悲嘆に追い込む残酷なものだった。

(p82)

 

ラジオで特攻隊員の声を流していた、という話をこの本で初めて知りました。

 

 「一億総特攻」の時代を生きた多くの特攻隊員にとって、降伏や敗戦は完全に想定外のことだった。だが、そうともいえない隊員もいた。海軍少尉・杉村裕(すぎむらゆたか)である。

 

 杉村は一九二三年生まれ、四三年に学徒出陣で東大法学部を仮卒業した。同年一二月九日に海兵団入団、航空兵に編入されて特攻隊員となった。

 杉村の日記は学徒兵の遺稿集『はるかなる山河に』や『きけ わだつみのこえ』などに収録されて著名であるが、一九四七年に東大剣道部の友人たちが遺族と編んだ追悼録『杉村裕君追悼文集』(非売品)を入手したので、彼の死に至る背景がより詳しくわかるようになった。

 杉村の日記もまた、特攻による死の意味、いわば死にがいの模索であった。しかし、彼にとってはアメリカと戦争すること自体が愚策であった。四五年五月一二日の日記には、「アメリカ的なるものー漠然と斯(こ)う呼ぶーは確かにプレザント(pleasant)だ。快適である。生活の快適であると言うことは人の心を容易に捕えて離さない」とある。このアメリカ的な「生活の快適」は、例えばフィリピンなどで日本的なものより歓迎されやすい、そのことを日本人はよく考えねばならない、「日本人が日本古来の伝統を振りかざして余りにも狭量に、余りにも排他的に余りにも独善的に他に対することを反省」しない限り、「東亜共栄圏の完全なる成立」は望めないのではないか?とある。

 

 日本がこの戦争に掲げた大義は、アジア諸民族を米英の支配から解放することだった。しかし、日本の「東亜共栄圏」思想は「快適」という米国の価値観を超えて国際的な支持や共感を得られるのか、という疑念である。杉村は、アメリカの政治が「各人の生活をカムファタブル(comfortable、快適)にすることを当然責任とする」のに対し、日本の「為政者は、己れの愚鈍から斯(かか)る理想に遠いのを糊塗するためにことさらに精神主義を振りまわした嫌いがあるのではないか?」と批判する。そして「偏見に捕われずにアメリカ的のものの長所に目を向けることをせぬと吾(わ)が国も決して長くはないと俺は思う」と独りごちた。

 

 杉村にとって、日本的な「精神主義」は、指導者たちがその愚鈍を隠蔽するために唱えたものに過ぎない。海兵出身士官の振り回す精神主義になじめない杉村には、かつて大学で親しんだ米国的な合理主義があらためてまぶしく思えたのである。彼が毎日受けていたのは、その指導者たちのいうがままに、理想国家の国民である米軍将兵を一人でも多く殺すための苛酷な訓練であった。これでは、特攻による死にがいを見いだすのは難しかっただろう。(p130)

 

冷静な視点だと思いました。杉村さんの「日本人が日本古来の伝統を振りかざして余りにも狭量に、余りにも排他的に余りにも独善的に他に対すること」という表現が心に残りました。

他の国の人と接するときなど、こういう気持ちになっていないか、自問したいと思います。

 

日本一国でなんとか米国に戦争継続を諦めさせねばならない。その手段として選ばれたのが特攻だった。

 注目すべきは、国民のなかにも、こうした軍の考えを信じて特攻を続けていれば、いつかは米国の人的資源が底を突き、和平に応じるはずだと期待する人がいたことである。

 前出の埼玉県与野町長・井原和一は四四年一二月三一日の日記で、今年はサイパン玉砕やフィリピン決戦が続いた、「͡͡其の後は本土に対する空襲と比島の神風特別攻撃隊等を出し、愈々(いよいよ)緊迫せる戦局を全力を挙げ守って居り、敵の物量と人的資源の切れるのを待つほかはないことになって居る。実に必死の戦であ」ると回顧した(与野市教育委員会市史編さん室編『与野市史 井原和一日記Ⅴ』)。

 神風特攻で敵の物量と人的資源の切れるのを待つほか「ないことになって居る」という井原の口ぶりには、軍の示した勝利の方程式に対する、そこはかとない疑念がにじんでいるように思える。

 結局、神風特攻の出現によっても、レイテ島の戦局を覆すことはできなかった。それどころか、四四年末の日本を大地震が襲った。四四年一二月七日に起こった東南海地震である。この地震の被害は極秘とされたが、中京地方の航空機工場は大打撃を受けた。

 

 作家の一色次郎は四四年一二月二二日の日記で「ことしは、なんという年だろう。天だけは日本に味方してくれると信じていたのに、安政(大地震、一八五五)以来といわれる大地震がおこるなんて」と嘆いた(一色『日本空襲記』)。

 日記は続けて「私たちはこれまで、奇跡などアテにしないとは言いながらも、『神風』を心待ちにするようなものが、胸にないでもなかった…それが、天罰は反対にこっちの頬っぺたを叩いたのだ。日本国民に、なんの悪いところがあったのだろう」ともいう。一九四四年の日本人が抱いた「神風」への期待は、大地震により完全に裏切られたかたちである。

 

 きわめて皮肉なことに、航空特攻開始の前後から日本の航空機生産数は低下をはじめていた。四四年の内訳をみると、六月の二八五七機をピークとして、一二年二二〇四機、四五年一月一九四三機、二月一二六三機、三月一九三五機へと低下している(防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書 陸軍航空兵器の開発・生産・補給』)。その大きな要因は資材不足、空襲の激化(にともなう工場の疎開)、そして地震であった。大本営陸軍部戦争指導班の日誌は四五年二月六日、「空爆地震の影響は否定し得ざる原因なりと雖(いえど)も予定の三分の一程度の生産を以てしては、航空必勝の目途なし」ときわめて悲観的な見通しを示している(軍事史学会編『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日記 下』)。これらの諸数字はもちろん、地震の規模・被害すらも、国民にはほとんど伝えられなかった。 (p166)

 

「天罰は反対にこっちの頬っぺたを叩いたのだ。日本国民に、なんの悪いところがあったのだろう」という言葉が、考えさせられます。地震のタイミングは偶然だろうけど、日本の敗北が早まった要因の一つかもしれないと思うと、不思議な気持ちです。

 

 戦時中、もっとも辛辣な特攻批判をしていたのが、郷里の愛知県渥美半島疎開して農業をしながら作家活動をしていた評論家の杉浦明平(すぎうらみんぺい)(一九一三(大正二)年生)である。沖縄の戦局が絶望的となっていた一九四五年六月一一日の杉浦の日記には、

 

 爆弾に跨(またが)り、特攻機に乗り、或はベニヤ板製の特別潜航艇とともに我身を破片と化すこともいとわない、しかしそれを果して勇敢と称しうるだろうか。日本人は犬のように、勇敢だがお上に向っては一つの口答えもなす気力をもたず、正しきものと不正との区別さえ出来ない、武器をよこさぬ奴らに武器を要求する勇気がなく、唯々(いい)として竹槍をかついで目をつむって敵弾の中に突入するのである。余りの愚かしさに言葉さえ出ない。(若杉美智子・鳥羽耕史編『杉浦明平暗夜日記』)

 

 とある。そして日本人が竹槍で敵陣に突入したところで「そのために何人か些(いささ)かでも幸いになりうるか、よきことが起こりうるか、世界の文化に一片の貢献でもなしうるか、或は子供たちによいことがめぐりうるか、皆否」と切って捨てている。

 杉浦の六月一六日の日記は、軍の唱える「一億特攻」論への批判に及ぶ。米軍は日本本土に七〇万の兵を上陸させるといっている、日本軍は「一億特攻だから百人で一人を殺してもなおお釣りがくると称している」が、実際には外地に取り残された兵隊などを除くと二〇〇〇万くらい、その半分は女でしかも大部分は竹槍以外に何一つ武器を持たない、「従って一対百でも向うは草を薙(な)ぐように百人を薙ぐに困難ではない」という(同)。

 

 同じく特攻の批判者だった竹下甫水も、六月二〇日の日記に、

 

 過日某所に於て七〇歳になる退役将軍がこんな話をしたそうである。「アメリカが日本本土に上陸するが如きは容易でない。独逸(ドイツ)と違い四面環海だからである。例え上陸に成功したからとて日本には無限の特攻隊があるから、幾千幾万の艦船でも海底の藻屑にしてやる」と。…此の将軍は最早老耄(ろうもう)に近く恐らく近代武器の発達を知らんのであろう。我々素人と雖(いえど)も敵に対し、しかく単純な解釈は下して居ない。(竹下『竹下甫水時局日記』)

 

 と「無限の特攻隊」すなわち一億特攻の本土決戦に期待する軍の主張を否定している。竹下は「あれほどの犠牲を払っても沖縄は遂に敵手にゆだねざるを得なかったではないか」とも言う。

 

 杉浦や竹下の辛辣かつ的確な特攻―本土決戦批判は、じつは昭和天皇をはじめとする戦争指導層の意向とも一致していた。そのことは、天皇が六月二二日の御前会議で、ソ連を仲介とした和平工作の開始を正式に命じたことからもわかる。軍はなおも本土での徹底抗戦を叫んだが、竹下の「素人」論に理詰めで抗弁するのは難しかったはずだ。(p197)

 

「日本人は犬のように、勇敢だがお上に向っては一つの口答えもなす気力をもたず、正しきものと不正との区別さえ出来ない」というところに、少しドキリとしました。

誰かの意見を鵜呑みにするのではなく、自分も本当にそう思うのかもう一度考えることが大切だと思いました。その上で、現実を正しくとらえる視点を持ちたいと思いました。

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。

 

特攻隊員の現実 (講談社現代新書)

特攻隊員の現実 (講談社現代新書)