ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

騎兵研究と柔軟な思考に瞠目。『坂の上の雲 七』を読んで

おはようございます、ゆまコロです。

司馬遼太郎さんの『坂の上の雲 七』を読みました。

 

秋山好古さんの日露戦争での活躍が眩しすぎる七巻です。

 

 夜になった。
 敵のほとんどが退却し、もしくは潰走したが、しかし一部だけはなお大房身北方にとどまり、好古の支隊に対して銃砲弾をおくりつづけた。
「あの敵はなんでしょう」
 と、副官の服部大尉が好古に解釈をもとめた。ついでながら好古には参謀というものがおらず、かれ自身が統帥と作戦を一人格で兼ねていた。
「なんだと思う」
 と、好古が逆にきいた。
 好古自身にも敵の意図がよくわからない。
 考えられることは、三通りある。翌朝太陽が昇ってからふたたび大挙来襲するための軸としてその部隊が残っているのか。
 それとも単に主力の退却を援護するための殿軍なのか。あるいは、指揮官の個人的な信念によってここに残留し、戦闘を継続しているのか。
 第三番目の想像はまずあたらない。ロシア軍の各級指揮官や兵は命令に忠実で、恣意的に戦闘を継続するということはまず考えられない。
 第二番目の想像も、すこし無理がある。退却援護なら、時間的に使命が終わったころであろう。
「あす、 もう一度やってくるだろうな」
 と、好古はいった。
 敵が攻撃を再興する場合、ロシア軍の常として兵力は今日の倍以上になるであろう。それに戦術もより巧妙になる。なぜならば今日の戦闘で好古の兵力も部署もほぼ知ってしまったからであり、より効果的にやってくるにちがいない。
――逃げるに如かず。
 というのが、好古の考えであった。身をかわして他へかくれてしまうほうがいい。
 この大房身の部落を空にして三キロから五キロ退却すれば、曹家屯およびふん路口(ふんろこう。ふんは上が分、下が山)という防御には恰好の部落がある。そこで今夜宿営して、無用の損害を避けるほうがよかった。
 好古は、そのように決心した。
 ただし戦国時代の合戦なら進退は主将の思いのままになるが、近代軍隊は上級司令部の意向をうかがわねばならなかった。
 好古は乃木軍司令部に電話をかけ、この案についての訓令をうけると、よろしいという返事があった。
 好古は戦勝者であった。が、追撃せず、逆に退却した。このあたりの呼吸と戦闘指導戦の柔軟さはほとんど名人といってもよかった。ここで余談ながら、この男は生涯、軍政面や軍令面での陸軍官僚になることなくほとんどを部隊勤務で終始して陸軍大将にまで会のぼるという異例の存在になったが、そのことは、こういう「名人仕事」の積みかさねがあったからであろう。
 この夜、好古は現場にとどまりつつ、逐次兵をひきあげて行ったが、その間(かん)、珍事があった。
「敵襲!」
 と、前線で叫ぶ者があり、その声がどんどん逓伝(ていでん)してきて好古の司令部までとどき、将兵ともに大混乱がおこったのである。
 好古はとっさに屋外にとびだし、
「敵襲は間違いじゃ、間違いじゃ」
 と、大声でどなった。
 この声がたちまち四方に逓伝されて、全軍が鎮静した。好古にすれば、大房身北方にとどまっている敵部隊が、推定されるかれらの任務や兵力からして夜襲を仕掛けてくるはずがないとみたのである。
 この夜、十時ごろには大房身は空になった。


 ところが、好古が心配したようなかたちには、ロシア軍は動いて来なかった。 翌朝、陽がのぼっても、ロシア軍は攻撃してこなかったのである。
「どうも来ませんな」
 と、服部大尉が未明の闇のなかでいうと、好古は「なにか都合ができたんじゃろう」と伊予弁でいった。 

(p106)

 

この頃好古さんは45歳ぐらいだと思うのですが、この戦場での迷いのなさといったら。「名人」級の戦術指導。こんな人が上司だったら、頼りがいがありすぎます。でも実際目の前にしたら怖くて近づけない気がします。個人的には、時々出てくる伊予弁が愛嬌を感じさせて好きなのですが。

 

 ロシア帝国を愛する理性的なひとびとは大なり小なりコンドラチェンコの考え方であったが、しかしこのアメリカ大使との謁見において皇帝は横にいる皇后に遠慮をしてついに――ルーズヴェルトの表現によれば――沈黙をつづけてしまったのである。
 皇后の継戦論の理由はいくつもあったが、その最大なものはあの雄大な規模をもつバルチック艦隊が極東に近づきつつあるということであった。この大艦隊が、戦勝に思いあがった日本に対して一大鉄槌を加えるであろうことを信じていたのである。

 

 奉天会戦後の日本の国力窮乏についてはルーズヴェルト大統領は知りすぎるほど知っていた。
 しかし同時に、日本人が慢心しはじめているということも、日本の新聞の論調の総合されたものを東京の公使館から報告をうけて知っていた。
 日本においては新聞は必ずしも叡智と良心を代表しない。むしろ流行を代表するものであり、新聞は満州における戦勝を野放図に報道しつづけて国民を煽っているうちに、煽られた国民から逆に煽られるはめになり、日本が無敵であるという悲惨な錯覚をいだくようになった。日本をめぐる国際環境や日本の国力などについて論ずることがまれにあっても、いちじるしく内省力を欠く論調になっていた。新聞がつくりあげたこのときのこの気分がのちには太平洋戦争にまで日本を持ちこんでゆくことになり、さらには持ちこんでゆくための原体質を、この戦勝報道のなかで新聞自身がつくりあげ、しかも新聞は自体の体質変化にすこしも気づかなかった。
 戦後、ルーズヴェルトが、
「日本の新聞の右翼化」
 という言葉をつかってそれを警戒し、すでに奉天会戦の以前の二月六日付の駐伊アメリカ大使のマイヤーに対してそのことを書き送っている。「日本人は戦争に勝てば得意になって威張り、米国やドイツその他の国に反抗するようになるだろう」というものであった。日本の新聞はいつの時代にも外交問題には冷静を欠く刊行物であり、そのことは日本の国民性の濃厚な反射でもあるが、つねに一方に片寄ることのすきな日本の新聞とその国民性が、その後も日本をつねに危機に追い込んだ。
 ルーズヴェルトは日本に対して好意をもった世界史上最初の外国元首であったが、かれがいかに政治的天才であったかということは、日本が近代国家として成立して三十余年しかたたないのにその原型の本質を見ぬききっていたことであった。かれは日本のためにアメリカ大統領であることの限界を越えてまで好意をみせつづけたが、しかし同時にかれのおそるべきことは、マイヤーに出した手紙にでもわかるように、戦後米国は日本から脅威をうけるだろうと予言し、米国の存在のためには海軍を強大にしなければならないと説き、しかも「わが海軍は年々有力になりつつある。この優秀な海軍力が、日本その他の国との無用の紛争を未然にふせいでゆくであろう」という意味のことをいった。

(p229)

 

「新聞は満州における戦勝を野放図に報道しつづけて国民を煽っているうちに、煽られた国民から逆に煽られるはめになり、日本が無敵であるという悲惨な錯覚をいだくようになった。」

こんな事態絶対嫌だなと思うけど、戦争に突入してしまった歴史を思うと、ただ与えられる情報を鵜呑みにして、長い物には巻かれろという姿勢ではいけないということを切実に感じます。

そしてそんな国民性を見抜いているルーズヴェルト大統領の卓越した洞察力に驚かされます。

 

 住民は温和で家族制度のもとに水稲農業に安んじていたから、この半島を統一する大帝国の出現を見なかったのが、この地方が近代になって大きな不幸をまねくもとになったといえるであろう。
 日露戦争のこの時期よりも百二十年ばかり前(日本の天明期) フランス人宣教師がこの地に政治的関心をもち、阮福映(グエン・フォック・アニュ)という統一的野心をもった英雄を支援し、やがてフランスの後援によるベトナム統一を遂げしめ、それによってベトナムにおける特権的地位を占めた。この例は、日本史のある時期に酷似している。幕末、フランスは徳川幕府を徹底的に支援した。とくに小栗上野介おぐりこうずけのすけ)を抱きこんで、新国家の構想をあたえた。「徳川家は武力をもって三百諸侯を攻伐し、専制政権を確立し、将軍を大統領にしなさい。そのための資金と兵器、そして軍隊はわれわれが提供する」と提案した。小栗はその構想の信徒になった。この時期までは、フランス構想は成功するかにみえたが、結局は政敵の勝海舟の反対運動(勝はこの運動のために薩摩藩など反幕勢力を煽動することさえ辞さなかった)のために挫折し、さらには将軍慶喜にも最終的に容れられず、日本はベトナムの悲劇をまぬがれた。
 フランスはその後一世紀にわたってベトナムに勢力を浸透させ、このバルチック艦隊の寄港より二十二年前、この広大な地帯を保護領にし、とくに交趾支那コーチンチャイナ)の部分はその直轄領とすることに成功した。
 要するに、この土地は仏領なのである。ロシアはそういう西欧の列強のまねをしたかた。満州と朝鮮を獲って、遅まきながら仏領ベトナムの真似をしようとし、その結果が日露戦争になった。この戦争の勝機をつかむべき最後の希望として大艦隊が碇泊している。


「碇泊している」
 というこの表現は、この艦隊の実状からいえば厳密ではない。漂泊している、というべきであろう。
「二十四時間以内にカムラン湾から出てゆけ」
 とフランス側からいわれたのは、四月二十一日であった。むろん、フランス政府を代表するジョンキエル提督は、物腰といい言葉づかいといい、パリの社交界がこれを評価しても最高の点数をつけられるほどに優雅なものであった。
 部下に対しては癇癪もちのロジェストウェンスキーも、ジョンキエルに対しては決して不快な態度を示さなかった。 ロジェストウェンスキーも艦隊の中でこそ暴君であったかもしれないが、ペテルブルグの宮廷ではフランス風の作法を心得た洗練された宮廷人であり、であればこそ侍従武官として皇帝や皇后の評価も高かったのである。
「おなじ海軍軍人として、ジョンキエル君の立場に同情したい」
 として、翌日には外洋に出た。

(p254)

 

鎖国の頃、フランスが支援してくれたのに、そのフランスの思惑に乗っからなかったのが、よく考えるとすごいかもと思いました。好きで国を閉ざしているとはいえ、外から協力的な態度を見せられたら、つい友好的に対応してしまいそうなものですが。

勝海舟も将軍慶喜も、迷ったりしなかったんだろうかと思ってしまいました。こういうとき、どういう思考の上結論を出したのか気になります。

 

 (一九〇五年)二十五日午後五時三十分、旗艦スワロフのマストに信号旗があがった。
「明日夜明けより十二ノットの速力を出すべく準備をととのうべし」
 という信号であった。 明二十六日から日本の哨戒海域に入るからである。この二十五日夜はずっと五ノットという低速で艦隊は航進した。この低速は、ロジェストウェンスキーがかれの好む時間に東郷と遭いたいという時間調整のためのものであった。もっともほかに機関管理上の理由もある。ひとつは戦闘を前にして汽罐(かま)を焚(た)く罐部員の疲労をとっておきたかったこと、またいよいよ戦闘になる場合にそなえて石炭を節約しておくといったものであったが、戦闘を前にした司令長官としてこれらは重要な考慮要素になりうるかどうか。……。


 話はかわる。
 日本人として最初にバルチック艦隊の進航してくる姿を見た人がいる。沖縄の粟国島(あぐにじま)の出身で、奥浜牛という二十九歳の青年であった。
 かれの故郷の粟国はまわり三里ほどの島で人口は五千ほどしかない。村人の多くは出稼ぎに出るため進取の気象に富んでいたが、奥浜もそうであった。
 かれはこのころ那覇に住み、山原船(やんばるぶね)に雑貨を積んで宮古島へ売りにゆくしごとをしておいた。かれはまだ船主になるほどに富裕ではなく、船は宮城次郎という人から借りて船頭をつとめていた。 小人数で操船して大海に乗りだすというのは容易でない技術であったが、その点粟国島で少年期を送ったかれは気まぐれな海をどのようにすかしたり騙したりして小舟を目的地へ運ぶかということに馴れていた。
 この日、那覇港から出る船に対しては、那覇警察署の水上派出所から注意書が出ていた。
一、露国艦隊は目下回航の由なれば、航海中軍艦らしきものを発見せば、最寄の警察又は役場等へ届出る事。
二、海上に箱形のものを発見せば、夫れは水雷なれば危険につき接近せざる様、注意する事。
 奥浜もこの注意書が出ていることは知っていたが、出帆を見合わせることはしなかった。 かれの記憶は日付や時間については多少ぼんやりしている。 かれの記憶によればかれが帆を張って那覇港をすべり出たのは五月二十五日であった。宮古島をめざした。宮古島までは南西三百キロ近くあった。
 途中、曇天ではあったが山原船の帆走には絶好の風むきで、しかも風に力があり、このぶんでは予定より早く宮古島に着くのではないかと奥浜はおもった。夜間もむろん航走をつづけた。
 二十六日の朝は、霧の中で明けた。
奥浜は朝食をとる前にまず髪を櫛でていねいにくしけずった。かれは身だしなみのいい青年だった。 ついでながら本土では断髪令が出て三十年も経つが、奥浜はなお断髪せず、琉球風に結髪していた。他の水夫もそうであった。このことが、このあと数分後におこった事態においてかれらを救うのである。
 前方の霧のかなたになにやら影を見たとき、かれはそれが宮古島の島影だとおもった。ところが島がどんどん動いてきたことによって、船だと気づいた。ただの船でなく軍艦であった。旗もみえた。旭日旗ではなく、みたこともない旗であった。
(ロシアの軍艦だ)
 とおもったとき、艦影はどんどんふえてゆき、左右にも見え、どうやら大艦隊のなかにまぎれこんでしまった自分を発見した。
 奥浜の山原船を発見したのは、バルチック艦隊に先行している哨戒の巡洋艦の一隻だった。舷側に多数のロシア人の水兵や下士官、そして士官らしい男が身をのりだして奥浜にむかってどなっていた。
「中国人(キタイスキー)——?」
と、どなっているようであった。かれらが奥浜を日本人でないとみたのは結髪していることと、いま一つは山原船にひるがえっている旗によってであった。旗はムカデの模古様がついていて、竜の模様を好む中国風の意匠に似ていたのである。


 余談ながら、この奥浜の那覇出港は二十四日で、二十五日にバルチック艦隊をみたというようにその後の巷説ではなっていたが、郷土史家源武雄氏の研究で那覇出港が二十五日、艦隊発見が二十六日朝ということがあきらかになった。 もっとも全体の時間関係からみれば多少の註釈が要る。 奥浜牛が目撃したのは艦隊の航進の時間的推移からみておそらく二十二日であったであろう。 かれが報告したのが二十六日朝ということであったのかもしれない。
 源武雄氏は、この当時宮古島の島庁に産業主任として勤務していた大野楠生という人の日記を発見した。その日記の「五月二十六日」の項をみると、
「本日、山原船、漲水港(はりみずこう、註・宮古島の港)に入港。該(がい)船頭(註・奥浜)の談に依れば、宮古島・慶良間島との中間位に於て、当島へむけ航行の際、敵艦四十艘余に行き会ひたる旨申出でたり」
 とある。
 奥浜が、宮古島の漲水港に入港して島庁に報告したのは午前十時ごろである。
 島庁では騒然となった。
 この当時、島司は橋口軍六という人物であった。小野朔次郎という人が島司だったという説があるが、なにかのまちがいらしい。
 島庁に警察官も駐在していた。その警察官がひどく物固い人物で、
「おまえのその話は本当か。万一虚言などを申し立てるようではその罪は軽くないぞ。きっと覚悟して真実を申したてよ」
 などといったふうの、せっかくの注進者を罪人あつかいにするような尋問の仕方をした。 奥浜は純朴な性質だったから怒りもせず、
「首にかけて真実でございます」
 と、申し立てた。
 これが二十六日午前十時とすれば、東郷艦隊の哨戒艦信濃丸(しなのまる)が発した有名な「敵艦隊見ゆ」という第一報の発信は翌二十七日の午前四時四十五分である。ほぼ二十時間、奥浜報告のほうが早かったわけだが、しかしこの当時宮古島には無線設備がなかった。
 さらに警察官は速報よりも手続きの堅牢さを偏重した。 かれの性格によるものではなく、それほど当時日本国家の「官」という存在は重く、官の末端につらなるこの警察官にとって那覇の上司の存在が日本列島の重量とおなじほどに重かったのである。
警察官は地図をひろげて奥浜に発見の地点をたしかめさせ、筆をとって奥浜の口述を文章にして調書を作製し、それを奥浜にみせ、
「これにまちがいないな」
 と念を押し、しかるのち、
「捺印せよ」
 と、命じた。奥浜は印鑑などもっていなかった。警察官は、それでは書類の形式が不備になると叱り、奥浜に印鑑をつくってくるよう命じた。
 奥浜は平良(ひらら)の町を走って印鑑をつくったが、出来あがったのが翌日であった。翌日、新調の印鑑をもって警察官のもとにゆき、調書に捺印して形式の完全なものにした。しかしながら書類が完成したときはバルチック艦隊はとっくに過ぎ去ってしまっていた。
 かといってバルチック艦隊が日本の海域に近づいたとき、それを発見した最初の日本人が奥浜であったことにはかわりがなく、奥浜はひとりこれを誇りにし、その栄光がたとえ世間に知られることがすくなかったにせよ、このときの印鑑を大切にし、大正末年に病没するとき、子供たちにこの印鑑をわたし、
「この印鑑は自分がかつて首を賭けて重大な役目をはたした名誉の記念である。末代まで大切にせよ」
 と遺言した。この時代の庶民がどういうものであったかが、この奥浜によっても想像できる。


 この時期、宮古島に無線設備がなかったということはすでにふれた。
 また那覇から新聞がとどくというようなこともなかったため、宮古島の情報環境は太古とさほど変わりはなかった。日露戦争がおこなわれているということは知られていたが、本土の関心がバルチック艦隊の動向に集中しているということも知らなかった。まして同艦隊が宮古島付近を通過するかもしれないという可能性を推測する者もなく、 推測しようにも基礎知識や判断に必要な情報に欠けていた。宮古島の時間は、神代のようなゆるやかさで流れていた。

(p333)

 

戦時中だと言うのに突然ここだけ空気の流れが変わったようで、印象深い場面です。

バルチック艦隊が迫ってきているというのに、この偉そうな警察官もびっくりだけど、印鑑作っている間に通り過ぎちゃうし。

奥浜牛(おくはま・うし)さんも怒りもしないで言うこと聞いて良い人過ぎでしょ。

なにかのおとぎ話なの?

と、思っていたら記念碑が立っているらしい。

 

www.okinawan-pearls.go.jp

 

奥浜さんが船に乗っていた頃と風景はどのくらい変わっているのでしょうか。

ここから海を眺めたい。

 

ところで秋山好古さんの「よしふる」ってどういう意味なんだろう、と読んでいて気になっていたのですが、名前の由来は、論語の一節「信而好古」より付けられたものなのだそうです。

孔子の言葉はこんな感じです。

 

子曰く、  述べて作らず、  信じて古(いにしえ)を好む。  竊(ひそ)かに我が老彭(ろうほう)に比(ひ)す。 「論語」述而第七01

 

現代語訳:孔子がおっしゃいました、 「私は古の礼法を言っているだけで、新たに何かを創作した訳じゃない。それら古き良きものを信じて好むだけなのだ。密かに尊敬する老彭(ろうほう)のやり方を真似ている。」

 

老彭(ろうほう:殷の伝説上の賢大夫の彭祖(ほうそ)の事だと言われる。仙道に通じ800年生き、伝説上の聖帝である堯・舜から夏王朝・殷王朝に仕えたと伝えられる。荘子にも名前が登場する長寿の代名詞的人物。また一説によると老子と彭祖の二人の事を指しているという解釈もある。)

 

訳はこちらからお借りしました。

孔子の論語 述而第七の一 述べて作らず、信じて古を好む | ちょんまげ英語日誌

 

別に尊敬する人のことは密かにしなくてもいいのでは、と思うけど。権力を持つ人の資質を重んじる(ように見える)孔子さんらしい気もします。

 

意味がわかるとより素敵なお名前に聞こえてきます。

これでもうちょっとお風呂好きだったらな…。

(風呂嫌いで日露戦争中に2回しか入浴しなかったらしい。)

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。