ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

なぜそれは行われたのか。『ホロコースト〜ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌』を読んで

おはようございます、ゆまコロです。

 

私は学生の頃からずっとアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ行ってみたいと思っているのですが、なかなか訪れる機会がなく、その日のためにホロコーストに関する本を時々探しています。

 

芝健介さんの『ホロコーストナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌 』は、新書ですが、ホロコーストに関する概論として読み応えがありました。

 

個人的に「このトピックは気になるからこの先関連する本を探してみたい」、と思った箇所を挙げていきます。

 

 絶滅収容所強制収容所


 一九四二年一月に行われたヴァンゼー会議によって、ナチ・ドイツによるユダヤ人問題の「最終解決」は、計画的な大量殺戮、つまり「根絶」と確認された。その結果、すでに起動していたヘウムノ絶滅収容所を含め、ラインハルト作戦によるベウジェツ、ソビブル、トレブリンカ、また強制収容所を兼ねたマイダネク、アウシュヴィッツといった六つの絶滅収容所が起動する。
 その前にあらためてナチ・ドイツの「強制収容所」について確認したい。
 一九三三年、ナチ党が政権を獲得した直後に作られた強制収容所は、敗戦にいたるまで増加し、絶滅収容所の土台になったともいえる存在だからだ。
 また、旧ポーランド領にあった絶滅収容所ユダヤ人は、ソ連軍の侵攻によって解放される直前、ドイツ本国の強制収容所に苛酷な移動を強いられる。その結果、ナチ・ドイツ敗戦後、痩せ細ったユダヤ人やその無惨な死体が映像や写真として記録された場所は、こうした強制収容所が多かった。そのため絶滅収容所強制収容所を混同して理解されることが多い。
 だがこの二つは厳密には違う。絶滅収容所ユダヤ人殺害のみを目的としたのに対し、強制収容所は、対象となる囚人を拘禁し、再教育の名のもとに懲罰・強制労働による圧迫・搾対者、ユダヤ人やツィゴイナー(シンティ=ロマ)、戦争に突入すると、占領地域を中心に軍需労働のため強制連行してきた外国人や捕虜を収容し、対象は二〇ヵ国以上に及んだ。ユダヤ人はそこでは決して多数ではない。
 しかし、ユダヤ人が強制収容所で、他の集団に比べ劣悪な待遇を受けたことはたしかである。軍需生産の動員における月例死亡率は、他のドイツ人囚人と比較して異常に高かった。
 強制収容所の一つであるマウトハウゼンでは、一九四二年一一月の死亡者の比率はユダヤ人を一〇〇とした場合、一般予防拘禁ドイツ人三五、四三年一一月には一般予防拘禁ドイツ人二であった。 収容者のなかでは、「マウトハウゼンではユダヤ人は三ヵ月以上生きられない」と囁かれていた。
 いずれにせよ、ユダヤ人には、「労働不能」とされれば虐待・銃殺によって「処刑」される苛酷な運命が待っていた。
(p164)

 

なんとなく名前を聞いたことのある収容所が出てきますが、「絶滅収容所」と「強制収容所」は目的の違う施設だったことを初めて知ります。

またここに出てくる「ヴァンゼー会議」は、ナチスの対ユダヤ人政策を理解する上で重要な出来事らしいので、詳しく調べてみようと思いました。

 

 ラインハルト作戦の終了は、同時期の八月にトレブリンカ絶滅収容所、一〇月にソビブル絶滅収容所武装蜂起があったことも、もちろん関係していた。また、総督フランク、 親衛隊・警察高権指導者クリューガー、そしてグロボチュニクとの権力闘争や、全強制収容所を統括している親衛隊経済管理本部長官ポールがグロボチュニクの台頭を不快に思っていたこともあった。こうしたなか、大量殺戮はアウシュヴィッツに任せようという雰囲気が醸成されていくのである。
 日本で絶滅収容所を取り上げる場合、アウシュヴィッツ絶滅収容所の場合が圧倒的に多く、その知名度は高い。だが、ラインハルト作戦で建設されたベウジェツ、ソビブル、トレブリンカという三つの絶滅収容所の犠牲者は、ヴォルフガング・ベンツ教授によれば一七五万名であり、後述するアウシュヴィッツ絶滅収容所の犠牲者を上回るものである。 トレブリンカ絶滅収容所の犠牲者だけでもアウシュヴィッツ絶滅収容所にほぼ匹敵する。 しかし、ラインハルト作戦で建設された絶滅収容所でのユダヤ人大量殺戮はあまり知られてこなかった。
 それにはいくつか理由がある。一つには三つの絶滅収容所の閉鎖・解体が、遅くとも一九四三年一一月という戦争の最中であり、痕跡が消され、生存したユダヤ人が少なかったことである。ベウジェツは数名、トレブリトレブリンカは五〇名未満だったとされる。
 また、三つの絶滅収容所に関係した親衛隊も、ラインハルト作戦終了後、イタリア戦線に遠征し、特にアドリア海に面した地域の対パルチザン戦などで戦死した者が少なくなかった。実際、ヴィルトは一九四四年五月トリエステからリイェカへ向かう途中パルチザンの襲撃を受け死んでいる。
 ラインハルト作戦の中心人物であるグロボチュニクは、ドイツ敗戦後の一九四五年五月末、イギリス軍による身柄拘束後、青酸カリで自殺している。彼の副官であったヘーフレもまた同時期にイギリス軍に身柄を拘束された後に釈放されたが、一九六二年ウィーンで再逮捕され、獄中で自殺している。ヘーフレは釈放された後、西側の情報組織ゲーレン機関で活動しており、証言を残すこともできたはずだった。いずれにせよ、ラインハルト作戦は戦後、解明がほとんど進まなかったのである。
(p190)

 

・「ラインハルト作戦」とは、独ソ戦の行き詰まりでナチスが当初思い描いていたユダヤ人の東方追放は難しくなったため、東ヨーロッパのゲットーのユダヤ人の処遇に困り、彼らを殺害することとした作戦のことです。(1941年10月頃から準備が開始され、1942年3月中旬から1943年11月初旬に実施。)

・著者が述べているように、絶滅収容所といえばアウシュヴィッツ絶滅収容所がよく知られているように思っていましたが、それ以上の犠牲者が出ていた収容所があったことに驚きました。ベウジェツ、ソビブル、トレブリンカの絶滅収容所について書かれた本を探してみたいと思いました。

 

 約六〇〇万名の犠牲者


 もちろんベンツに限らず、多くの研究がホロコーストの犠牲者の算出を行っている。代表的なものを二つ挙げると、ニューヨーク・ユダヤ人問題研究所は五八〇万名、イスラエルの歴史家が中心になって編集した Encyclopedia of the Holocaust, 4 Bde, New York/London 1990.(『ホロコースト百科事典』)は五五九万六〇〇〇~五八六万名としている。
 前者は、大きな概算から算出したものである。ヨーロッパ・ユダヤ人の人口が、第二次世界大戦前の一九三九年段階で九五〇万名だったのに対し、終戦後の四五年段階で三一〇万名であったことから、亡命した六〇万名を引いたうえで算出している。
 後者は、特に各国、地域に関するそれぞれの専門家が個別に出した数字を合計したかたちで犠牲者総数の最大と最小を導き出している。
 長らくアウシュヴィッツ研究プロジェクトに関わり Auschwitz. A History, 2005 (『アウシュヴィッツ』)を記して絶滅収容所研究の第一人者として知られるジビュレ・シュタインバッハー(ルール大学准教授)の新しい研究を参考にしつつ、ここで筆者なりの総数を挙げておきたい。
 行動部隊(アインザッツグルツペン)、武装親衛隊国防軍などの部隊によって大量射殺された人びとが約一三〇万名。ベウジェツ、ソビブル、トレブリンカ、マイダネク、アウシュヴィッツという五つの恒久的絶滅収容所でガス殺された人びとが約三〇〇万名。ヘウムノ絶滅収容所ベラルーシ(特にミンスク)、エストニアをはじめ、本文では言及しなかったがクリミア地方、カフカース地方で多用されたガス・トラックで殺害された人びとが約七〇万名。ゲットーで亡くなった人びとが約一〇〇万名(飢え・病での死者が約八割)。さらに、強制収容所で亡くなった人びとや、戦争末期収容所解体後、「死の行進」の途次亡くなった人びとを加えれば、六〇〇万名は下らないと見積もられる。
(p232)

 

多くの研究を経ても、一体何人の人が犠牲になったのか、その数すら判然としないところに、今更ながら恐ろしさを感じます。

ニューヨーク・ユダヤ人問題研究所と、『ホロコースト百科事典』は要チェックだと思いました。

 

 これまで筆者は、武装親衛隊ニュルンベルク戦犯裁判の研究を通して、またいくつかの翻訳・監修を通じてホロコーストの問題に接してきた。本書をあえて記したのは、映画などで断片的なホロコーストの情報があふれるなか、多くの人に向けて、基本的事実の整理、 重要なポイントの把握、事態の連関の発見などをいささかでも提供できたらとの思いからである。
 その分、最近の歴史学で大きく議論されるヒトラーの決定的指令の存在、時期をめぐる議論については、終章で整理するにとどめている。また、残念ではあるが、ゲットーや収容所内でのユダヤ人の果敢な抵抗やアウシュヴィッツ絶滅収容所での人体実験などにはほとんど触れていない。とりわけ、犠牲者側のホロコーストへの対応については、ユダヤ人のあいだでも圧倒的多数の人びとがどうして無抵抗に殺害されたかをめぐってさまざまな議論がある。
 さらには、デンマークのようにナチ占領下にありながら、七〇〇〇人を超えるユダヤ人のほとんどを救った事実についても述べることができなかった。デンマークは、ハイドリヒに次ぐ国家保安本部高官ヴェルナー・ベストがトップに君臨していた地である。彼はデンマークで戦後戦犯裁判を受けたが生き延び、ドイツでは処罰されず、親衛隊将校有罪犯の釈放運動を推進した。その後もしたたかに生き、一九八九年に八六歳で死んでいる。
(p266)

 

ここで触れられている、デンマークがナチ占領下でユダヤ人を救ったという事実を初めて知りました。ナチ占領下のデンマークがどんな状況だったのか、これは気になります。

 

本書ではホロコーストはなぜ行われたのか?という議論を巡る論争についても触れられており、ホロコーストが生じてしまったことに対する官僚、軍人、あるいは一般国民の責任はどう捉えられているのかについてある程度議論がまとめられていて、学びが深まりました。

 

アウシュヴィッツを訪れる前に、これは読んでおいたほうがいいという本をご存知の方がいらっしゃいましたら、教えてもらえると幸いです。

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。