ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

差別してない、は見えてないだけかも。『あいつゲイだって―アウティングはなぜ問題なのか?』を読んで

おはようございます、ゆまコロです。

松岡宗嗣さんの『あいつゲイだって―アウティングはなぜ問題なのか?』を読みました。

 

社内報で、アウティングの危険性についての記事を読み、そこで、一橋大学アウティング事件について知りました。

 

一橋大学アウティング事件とは、2015年4月に一橋大学法科大学院においてゲイの学生から同性愛の恋愛感情を告白された異性愛の男性が、その後の共通の友人関係や告白後のゲイの学生の言動に悩んだ後に、友人ら7人にグループメッセージでその学生が同性愛者であることを暴露したこと(アウティング)をきっかけとして、ゲイの男性が心身に変調をきたし転落死したとされる事件です。(ウィキペディアより)

 

 もちろん、異性間であれ同性間であれ、告白を受け入れないことは何も問題ではないし、差別でもない。告白を受けて悩むということは、異性間であれ同性間であれ起こり得ることだ。
 第三者に相談したくなることだってあるだろう。しかし、いきなりLINEグループで暴露する以外に方法はあったのではないか。
 AはZ以外に、自らが「同性愛者であること」を明らかにしていなかった。同級生の同性愛者に対する差別的な言動を耳にしたこともあったという。そんなAが、ZからLINEグループでアウティングをされた。そのショックで勉強に手がつかなくなった。Zと会うと吐き気や動悸などのパニック発作が出て、心療内科を受診するようになった。Zと鉢合わせするのを避けるため、授業や試験に出られなくなった。法科大学院の教授にクラス替えなどを求め、学内のハラスメント相談室にも相談し、ハラスメント対策委員会に申し立てる準備もしていた。
 二〇一五年八月二四日、告白から約四か月。 Aは模擬裁判に出席するため大学に行ったが、障害の発作が起こり、午前一〇時頃、保健センターに連れていかれた。対応した保健の職員はAの置かれた事情をよく知っていたというが、Aが授業に出たいと言ったので、午後二時頃に授業に向かわせた。Aは途中で模擬裁判を抜け出し、LINEグループにメッセージを送信した。「これで最後にします」 「いままでよくしてくれてありがとうございました」。午後三時過ぎ、Aは校舎六階のベランダ部分に手をかけ、ぶら下がっているところを発見されるも、救助が来る前に転落。搬送先の病院で亡くなった。


 遺族には知らされなかった事実

 

 この間、Aの身に何が起きたかを、遺族は知らされていなかった。遺族が大学に対して当時どのような対応をしたのかを聞いても、大学側は一切答えず、事情を知る同級生たちからの連絡もなかった。遺族はAの同級生と会うことも止められ、情報を遮断されていたという。
 東京新聞の記事で、Aの父親は「病院の霊安室で息子の顔を見た時、何でだ、と頭が真っ白になった」と語っている。 二〇一五年八月二四日の夕方、病院からの連絡で息子が校舎から転落したと知り、 夜に駆け付けると、息子はすでに息を引き取っていた。翌二五日に大学関係者との面会で開口一番に告げられたのは、「ショックなことを言います。息子さんは同性愛者でした」という言葉だった。それを聞いた母親は「それが何なんですか?」と詰め寄った。

 母親はAからカミングアウトされていなかったが、大学でトラブルを抱えていたことは聞いていたという。Aは亡くなる直前に実家に帰省しているが、家族はトラブルの原因がアウティングにあることを知らなかった。両親が経緯を知ったのは事件から一か月後、息子のパソコンから資料を見つけたときだ。Aはそこに一連の事実を詳細に書き残し、ハラスメント相談室への提出書類などの資料も整理して保存していた。そこには「遺書」というタイトルの文書もあったという。
 母親はAの生前、「つらいことがあったら言いなさいね、そしたらつらいことが半分になるから。楽しいことも言ってね、楽しいことが倍になるから」と言い聞かせてきたが、「でも、やっぱり性的指向というナイーブなところでは、そんな単純な問題じゃなかったんだろうな、と。親には言えなかったんだな」と後悔を語っている。しかし、「同性愛を苦にして」 死を選んだわけではないと母親は信じている。Aのパソコンに残されていた遺書には、「僕はなにも恥ずかしいこと・行動をしていません。SNSで暴露されるようなことなのか疑問で仕方ありません」と書かれていたからだ。
(p24)

 

本人がカミングアウトしていなかったとはいえ、どうして息子が自殺したのかも分からず、大学側からの説明はなく、1ヶ月も経ってパソコンから真相を知ることになった家族の悲しみを思うと、やりきれない気持ちになります。

「一連の事実を詳細に書き残し、ハラスメント相談室への提出書類などの資料も整理して保存していた」ことから、Aさんがたった一人で悩みを抱えて、周囲の目と闘っていたことが窺えます。

辛いことが半分に、楽しいことが倍に、というAさんの母親の言葉からも、仲の良い親子だった様子が伝わってくるだけに、こうなる前になにかもっと良い方法がなかっただろうかと思ってしまいます。

 

 だからこそ、シスジェンダーの人々も含めて、自分が使いたい代名詞を示すことで、相手の性別も決め付けず、 性自認を尊重し、確認し合うような態度をより多くの人に促していける。
 もちろん、まだまだトランスジェンダーに対する差別的な言動が根強く残る日本社会において、カミングアウトはリスクをともなう大変な行為であるのは変わらない。 当事者が自身の代名詞を示すことには依然ハードルがあり、 代名詞の表示を促すことが、カミングアウトのプレッシャーになる可能性もあるという点にも注意が必要だ。


 カミングアウトとは何か

 

 ここで、「カミングアウト」について改めて考えてみたい。
 カミングアウトとは、主に性的マイノリティが自らの性のあり方を自覚し、他者に開示することを指す言葉だ。日本語訳は「出てくる、外に出る(come out/coming out)」であり、文化人類学者の砂川秀樹氏は「クローゼット(押し入れ)から出る」という、ゲイやレズビアンなどが使っていたスラングからきていると説明する。
 カミングアウトしていない状態のことを「クローゼットにいる(in the closet/closeted)」と表現し、基本的に隠さ現し、基本的に隠さない状態を「オープンにしている」と言う。私自身「オープンリー・ゲイ」という表現を用いることがあるが、この文脈からきている。カミングアウトという言葉が「クローゼットから出る」こと、性的マイノリティが「仲間のコミュニティへ出て行く」ことに由来することを考えると、砂川氏の言うようにそれは「自分の心のなかにしまうことというより、自分自身の全体に関わることであることを表している」と言えるだろう。
 カミングアウトすることは、「いないもの」とされ続けてきた性的マイノリティの存在を可視化することにつながる。それは、一人ひとりの個別具体的なコミュニケーションから、社会の規範や制度に至るまで、あらゆる場面でシスジェンダーの男女二元論かつ異性愛を前提としてきた構造に亀裂を入れる政治的なおこないとも言える。
 しかし、砂川氏も指摘する通り、「現在の日本で、『カミングアウト』という言葉は、誰かに対して、これまで話していなかった自分に関することを伝えること、特に、相手が予想していないようなことを伝えるという広い意味で使われている」。 差別や偏見がはびこる社会の中で、クローゼットから飛び出し、コミュニティへと出ていく行為を、つまり、自らの性のあり方を自分自身で受け止め、誰かに開示するという行為を、元の意味よりも広く「秘密の共有」という意味で使ってしまうことは、当事者が抱える問題の矮小化につながるのではないか。そんな懸念の声も少なくない。
 本来であれば、その人の性的指向性自認は、本人を構成する一つの要素にすぎないはずだ。

 しかし、カミングアウトという言葉が象徴しているように、このシスジェンダーの男女二元論かつ異性愛を前提とした社会の中で「性的マイノリティである」という情報を開示することは、相手との人間関係を突然、大きく変えてしまう可能性がある。
 それまで「シスジェンダー異性愛者であること」を疑われたことのない人は、「○○さんは異性愛者です」 「○○さんはシスジェンダーの男性です」といった紹介をされることがないのだし、「シスジェンダー異性愛者である」という属性に注目が集まることも、そこから何か特別なイメージを想起されることもない。それがこの社会のあたりまえだからだ。
 そんな現状においてカミングアウトするということは、本人が望むかどうかにかかわらず、突如その人の名前の前に「同性愛者の」「トランスジェンダーの」といった枕言葉が付けられるようになることを意味する。突如、侮蔑の対象となったり、奇異な目で見られたり、常に特殊な属性として想起されるようになる可能性をはらんでいる。
 セクシュアリティについて、「誰を好きになるかは勝手だ」と思う人もいるだろう。それは「どの性別に関心が向くか、向かないかの違い」であり、所詮「些末な話にすぎない」と思う人もいるだろう。確かにそうあるべきだ。にもかかわらず、社会はシスジェンダーの男/女かつ異性愛を前提につくられているため、 そもそも「そうでない存在」が想定されていない。制度から取りこぼされ、いじめやハラスメントを受け、不利益を被っている人たちがいる現状すらないことにされている。
 カミングアウトは、これまでふつうだと思われていた自分に対する周囲のまなざしを一変させる行為といっても過言ではない。単に相手の予想しなかった秘密を伝えるというレベルにはとどまらない行為なのだ。
 だからこそ、カミングアウトは「信頼の証」だと言われることがある。前述の調査からもわかる通り、性的マイノリティの当事者の多くはカミングアウトしておらず、伝える相手も一部に限定している。例えば、トランスジェンダーの人が会社や学校などで通称名を使いたい場合や、書類の性別欄について問い合わせる場合など、実務的にカミングアウトが必要となる場合もあるが、基本的にはカミングアウトする上で「この人には伝えても大丈夫か」ということを繊細に気にかけている。なぜなら、カミングアウトした結果、拒絶されたり、ハラスメントの被害にあったり、差別的取り扱いを受けたりする可能性があるからだ。
(p64)

 

「社会はシスジェンダーの男/女かつ異性愛を前提につくられているため、 そもそも「そうでない存在」が想定されていない。制度から取りこぼされ、いじめやハラスメントを受け、不利益を被っている人たちがいる現状すらないことにされている。」

悲しいけれど、現状は本当にこの通りだなと思います。

差別している認識もないから、不利益を被っている人たちがいるという気づきすらなく、いつまで経っても多様性が認められない世の中なのかなと感じました。

どうしたら事態が好転するのか、悩ましい課題です。

 

 判決後の記者会見で、代理人の南弁護士が「また、被害者が出るだろうと思うと、日本の司法はそんなものなのかと残念です」というAの妹のコメントを代読。 Aの両親が裁判のたびに
「本人の気持ちも一緒に法廷に来ているから。 弁護士にはなれなかったけど、 あなたの裁判だよ」と話していたことを紹介し、次のように述べた。


 アウティングは人を死に追い込む危険がある加害行為。 そうした不法行為が学内で行われたというのを前提に、大学にはどのぐらいの危険性があるのかを判断してほしかった。


 控訴審、尋問、母の陳述


 その後、三月七日に遺族は控訴。大学側との裁判は続いた。二〇一九年一〇月一日の弁論期日では、当時Aの相談対応を担当した相談員への証人尋問もおこなわれた。
 Aから相談を受けていた当時、確かに相談員はAの話を傾聴し、大学のルールに従い手続きをおこなっていた。アウティングはハラスメントだと認識もしていたが、その一方で「ハラスメント相談室の専門相談員の役割は限定的で、ほとんどの事例は自己解決になる」と発言。 また、原告代理人がAが転落してしまったと知らされた当時のことを質問すると、「なんでだろうと思いました」などと発言している。これらの受け答えからも、アウティングの問題の軽視、深刻さへの認識不足など、大学の相談体制に対する疑問を感じざるを得ない尋問だった。
 二〇二〇年一月二九日、控訴審の弁論が終結。最後にAの母親が、法廷で以下のように陳述した(以下、著者の取材メモより)。

 

 息子は同性愛者です。同性愛者でも生きる権利はあります。でも、息子は転落死してしまいました。子に先立たれた親の気持ちがわかりますか? いまでも亡くなったとは信じ難いです。夢であったらどれほど良かったか・・・・・・。会えない寂しさ、会話ができないつらさで気が狂いそうになります。 無性に泣ける日がいまでもあります。
 心療内科でもらった薬なしでは新幹線にも乗れません。 当然この場に立つことなんてできません。 夜も寝れません。
 美味しい物を食べたとき、面白いことで笑ったとき、心の奥で息子に申し訳なく思います。息子の二五年は一瞬でした。 私は厚かましくも生きています。それすら申し訳なく思います。
 最後に、息子のSOSがまったく届かなかった日本一の司法試験の合格率だと誇る一橋大学院へは、私の悲痛の叫びも届くことはないでしょうね。


 裁判官は両者に和解を提案し、弁論が終結した。

 

 判決


 新型コロナウイルスの影響もあり、この間、時間があくことになったが、同年八月二五日、一橋大学は「和解に応じない」姿勢を変えず、和解協議は打ち切りとなったことが原告代理人から発表された。遺族は大学に対し、謝罪も解決金も不要で、学内での理解促進・再発防止の取り組みの実施のみを最終的に求めていた。それにもかかわらず、大学は和解に応じなかった。
 Aが亡くなった二〇一五年八月二四日からちょうど五年。遺族の無念は晴らされないまま、仮に陳述した悲痛な叫びも届かぬまま、東京高裁での控訴審判決にのぞむことになった。
(p74)

 

Aさんはハラスメント相談室に相談できていたんだ、事情を話せる人もいたんだと一瞬少しほっとしたのですが、

アウティングはハラスメントだと認識もしていたが、その一方で「ハラスメント相談室の専門相談員の役割は限定的で、ほとんどの事例は自己解決になる」と発言。 」

とは…。もう少し、寄り添える存在はなかったのだろうかと思ってしまいます。

 

 当事者でも置かれた状況はそれぞれ異なるし、カミングアウトに対する考え方も異なる。だからこそ、カミングアウトする/しないも、そのタイミングも、人によって異なることを前提にしなければならない。
 「たいしたことじゃない」、または「かわいそう」などと勝手に決め付けず、相手の状況やスタンスを尊重することが求められる。


 カミングアウトを「させない」ことの禁止


 国立市の条例では、アウティングの禁止、カミングアウトの強制の禁止に加えて、「カミングアウトをさせないようにすること」も禁止している。
 これは一見わかりづらいかもしれないが、例えば、職場でカミングアウトしたいと思っても、上司や人事などから制限されてしまうケースなどが想定されるだろう。
確かに、他の従業員がジェンダーセクシュアリティに関して適切な認識を持っていない職場の場合、 突然カミングアウト することによって差別やハラスメントの被害が起きてしまう可能性は十分に考えられる
 カミングアウトしたいという従業員を守るために、さまざまな角度からそのメリット・デメリットを見定めることも、ときには重要だ。その際も、勝手な決め付けはせずに、 本人の意思を尊重し、本人と相談することが欠かせない。
 ただ、カミングアウトしたいという本人の意思に反してその行為に制限をかける場合は、きわめて注意が必要だ。例えば、カミングアウトをしないほうが良いという懸念の中には、本人のためというよりもむしろ――あるいは本人のためという名目で――「変に問題を起こしてほしくない」といった会社/マジョリティ側の都合が隠れている場合がある。トラブルを避けたいという考えには一定の合理性はあれど、その人の重要なアイデンティティを否定し、 マイノリティ個人の側に責任を押し付けることにつながってしまう可能性がある。そもそもこうした対応は、社会の差別や偏見を問い直すどころか、その温存にさえつながり得る。
 性的指向性自認が「趣味嗜好」の問題だと思われることもある現状、「そんな性的な話を会社で言う必要があるのか」「言うと他の人が変に影響されちゃうのではないか」といった反応を受けることは依然としてある。そういう「なんとなくの懸念」 から、「カミングアウトやめておいたほうが良いのでは」と思ってしまうことの背景にある社会の構造を疑わないままに、カミングアウトすることを制限ないし禁止していないか、注意が必要だ。
 なお、「そんな性的な話を会社で言う必要があるのか」という発言に近いものとして、「会社は仕事をする場所であって、 そもそも性のあり方は関係がない」という発言もしばしば聞かれる。私自身も、本来的には性のあり方は仕事と無関係であってほしいと思っているが、残念ながらシスジェンダーの男女二元論かつ異性愛を前提とした社会では、実はすでに多くの人が、毎日、毎秒、カミングアウトしながら生活していると言っても過言ではない、とも考えられる。どういうことか。
 例えば、自分のプライベートについて話す際、パートナーの存在を「妻」や「夫」といった言葉で語ることがある。飲み会などで週末にしたデートや家族や子どもとの買い物について話すときも、異性愛であることを前提とした会話は違和感なく繰り出されている。 履歴書やエントリーシートの性別欄に回答するとき、トイレや更衣室を利用するとき、制服を着用するとき、健康診断などで男女別に振り分けられるとき――。 シスジェンダーの男女二元論を前提とした扱いをされるシーンはありふれている。そして、多くの人はそこに違和感を覚えない。これはなにも職場にかぎらない。
 そしてもし、そのことに違和感なくやり過ごせているのであれば、それはその人にとって常に、「私はシスジェンダー異性愛者であること」をカミングアウトしている状態とも言えるだろう。
 このように書くと、「私は別に毎日セックスについて語っているわけじゃない」と思う人もいるかもしれない。 これまで、異性愛以外のセクシュアリティは、過度に「性的」とされてきたから、カミングアウトがいわゆる「下ネタ」と同じ文脈で受け取られることは多々ある。バイセクシュアルに対する「性に奔放なイメージ」も同様だし、ゲイやレズビアン、またはトランスジェンダーの当事者がカミングアウトした際に、真っ先に「どうやってセックスをするの?」といった質問が繰り出されることを考えれば、そうしたステレオタイプは至る所で見てとることができる。
 すでに確認している通り、性的指向性自認は、その人が自身の性別をどのように認識しているか、性的な欲望や恋愛的な指向がどの性別に向き、向かないのか、といったことを表している。これは性的マイノリティにかぎらず、性的マジョリティであるシスジェンダー異性愛者にも関係することだ。後者の場合、男性または女性という性自認を持ち、性的指向が異性に向くということになる。
 本来、性的な欲望のあり方やその度合いは、性的マイノリティであるか否かには関係なく、まさに個々人によって異なる。 そして、 そもそもマジョリティも含めて、性について語ることは恥ずかしく、下品であるなどとタブー視されている。 しかしその一方で、マジョリティの性のあり方は「普遍的」と位置付けられ、 不問となり、マイノリティの性のあり方はタブー視の延長で「過度に性的」とされ、 語るべきではないと位置付けられてきた。その非対称性を見落としてはいけない。
 カミングアウトさせないようにする「制限」や、性のあり方が語られることへの「懸念」が一体どこからきているのか。性的マイノリティを「いないもの」として扱い続けたい、公の空間から追い出したいという意識がはたらいていないか。いま一度問い直すことが重要だろう。

 

 条例が守ろうとしているもの


 これらの意味で、全国ではじめてアウティング禁止を明記した国立市の条例は画期的だった。そう言えるだけの理由がもう一つある。というのは、アウティング事件が起きてしまった一橋大学が置かれている場所が、まさに東京都国立市だからだ。
 弁護士ドットコムの取材に対し、国立市の吉田徳敷市長室長は、条例ができた経緯についてこのように語っている。
「市内の大学で起きたことなので大きな問題だと受け止めています。 〔…..〕 本件については市民委員会の議論でも話が出ました。 ただ、アウティングの部分は当初は盛り込む予定はなく、骨子案をパブリックコメントした際に受けた意見がきっかけで盛り込むことが決まりました」
 この経緯を知ったときは驚いた。つまり、国立市としては、一橋大学アウティング事件を大きな問題と受け止めつつも、 当初はアウティングをめぐる規定を条例に盛り込む予定はなかったのだが、パブリックコメントに寄せられた意見をきっかけに取り入れられることになった、というのだ。
 国立市政策経営部市長室平和・人権・ダイバーシティ推進係の市川綾子氏によると、寄せられたパブリックコメントには、「性的指向性自認について個人を尊重するという全体の印象はあるが、カミングアウトを強制するような印象にも見てとれる」という内容が書かれていたという。この点については、吉田室長も「目から鱗の指摘でした」と語っている。
(p96)

 

・「カミングアウトさせないようにする「制限」や、性のあり方が語られることへの「懸念」が一体どこからきているのか。性的マイノリティを「いないもの」として扱い続けたい、公の空間から追い出したいという意識がはたらいていないか。いま一度問い直すことが重要だろう。」

自分と違って見える存在を公の空間から追い出したいという意識は、一体どうして湧き上がってしまうんでしょうね。ただ、学校でも、電車の中でも、会社の中でも、このような空気を感じ取ることはこれまでよくありました。

アウティングの禁止、カミングアウトの強制の禁止に加えて、「カミングアウトをさせないようにすること」も禁止という条例、いいなあと思います。

 

 では、どの程度であれば「公表済み」 「オープン」なのかというと、その度合いは一概に決められるものではない。本人が「誰に知られても良い」と思っている場合もあれば、範囲を限定したい人もいる。その点についてはやはり、カミングアウトを受けた際に本人に確認するしかないだろう。勝手に「公表」していると決め付けず、「同意」を得ることが重要だ。


 大津市でのアウティング被害


 ここで三つのケースを紹介する。これらのケースは、いずれもアウティングにあたるかどうかが「グレー」であり、しかし悪質な被害の事例でもある。
 具体的には、当事者本人の氏名こそ公表していないが、簡単に本人だと特定され得るケース、メディアがゴシップとして疑惑を報道したケース、最後に、アウティングという言葉が先鋭化した結果、問題の所在がかえって見えにくくなっているようなケースだ。一つ目は、滋賀県大津市で実際に起きたアウティング被害だ。
 二〇二〇年一二月、滋賀県大津市の市立保育園に通う六歳の園児が、性別違和について同意のないまま市のウェブサイトに掲載されたとして、両親が市に情報の削除を求め、大津地裁に提訴した。
 朝日新聞の報道や共同通信による母親へのインタビュー取材によると、園児は生まれたときに性別を「男性」と割り当てられたが、幼少期からピンクの服を好み、妹の服を着たがった。
「自分は女の子」「髪も伸ばしたい」と言い、両親も「この子の心は女の子かもしれない」と思うようになったという。
 年少までは少人数の保育施設で女児向けの服で遊んでいたが、二〇一九年四月に市立保育園に入園すると、他の園児から 「おとこおんな」などからかわれるようになった。「どうしてかわいい服なの?」と聞かれ、本人が「体は男だけど心は女やねん」と説明したら「うそつき」と叫ばれたという。また、別の園児から持ち物を取られたり、仲間外れにされたりしたほか、別の日には腹部に連続パンチを受けているのを母親が目撃している。こうした暴言や暴力によるいじめを受けるようになり、園児は円形脱毛症になった。
 園児は「女で生まれたかった」「1回死んで女になりたい」と家に帰ると泣いて訴え、登園をしぶるようになった。 「なかまはずれ」 「ぼこぼこ」などと書いたメモも残っている。 両親は県内外の精神科医を訪ね歩き、同年一一月に「性別違和」の診断を受けた。
 両親は園や市に改善を求めるも、「成長過程での行為」 「じゃれあい」 「いじめとは思っていない」と回答される。 両親の継続的な求めによって、最終的に市は「いじめ」と認め、対応が不十分だったことを謝罪した。 しかし、その後も園児の不登園状態は続いたという。
 二〇二〇年一〇月、園児の母親のもとに、知人から「ねえ、これって○○ちゃん 〔園児〕のことじゃない?」と連絡がきた。 大津市のホームページを見ると、市立保育園の保育園評価書」(二〇一九年度) に、 氏名を伏せてではあるが、「今年度入所した4歳児が、自分の身体の性に違和感を感じる訴えをしたことをきっかけに、11月に受診された」「LGBT対にする知識や認識を職員が高めていくようにする」といった内容が書かれていた。明らかにその園児のことだった。園や市から事前の連絡はまったくない。母親は「入園年度や状況の記述から、分かる人には特定されてしまうのではないか」「これから通う小学校にまで知れ渡ったら、またいじめられてしまうのではないか」「もう大津で暮らせない」と感じたという。
 不安が募った母親は夫と話し合い、 弁護士に相談。 「アウティング」にあたるとして二〇二〇年一二月、ウェブサイトからの削除を求めて提訴に踏み切った。その後、市は削除に応じたため、翌年一月に訴訟は取り下げられている。
 このケースでは、市は園児の氏名を伏せて事例を掲載しているものの、二〇一九年度に保育園入所した四歳児はわずかであり、「性別違和」や受診歴の情報など明らかに今回の園児だと特定されてしまうような内容だった。園児や両親への事前の確認もなく、母親が「これから通う小学校にまで知れ渡ったら、またいじめられてしまうのではないか」「もう大津で暮らせない」と語るように、差別や偏見による被害へと結び付いてしまう可能性は大いにあった。
 市側の問題として、実際に深刻ないじめ被害に発展している状況にあったにもかかわらず、無断で掲載したことは、やはりアウティングに該当する可能性は高いだろう。
 学校や会社などのさまざまなコミュニティにおいて、たとえ名前を伏せていたとしても、その人にまつわる情報を掲載したり共有したりすることで個人が特定されてしまうシーンは多々ある。やはり、こうした場面であっても、 本人確認は大前提になる。
(p162)

 

この6歳の子のお話、本当に胸が痛みました。暴言やいじめを受けて登園できなくなるだけも相当に辛いのに、この後の展開が苦しすぎる。

同じ思いをする子がいなくなる世の中にしていかなくてはならない、と強く思わされます。

 

 差別を禁止する法律もない日本


 一方で、法制度によってアウティング行為を制限することに対しては、非当事者だけでなく当事者からも、そこまでする必要があるのかといった懸念の声がある。
 何度も触れているように、そもそも性的指向性自認に関する差別や偏見がなければ、性のあり方についての情報を暴露されたところで何の問題も起きない。しかし、残念ながら現実には差別や偏見が根強く残っている。日本では性的指向性自認に関する差別的取り扱いを禁止する法律もない。
 二〇二一年五月には、自民党性的指向性自認に関する特命委員会」が提案した「LGBT理解増進法案」について、不十分な内容ではありつつも、与野党の実務者で合意し、国会に提出される予定だった。しかし、法案の基本理念や目的に掲げられた「差別は許されない」という言葉などに対して、一部の自民党議員が強硬に反発。法案提出は見送りとなった。
 OECD諸国のうち、性的マイノリティに関する法整備状況は三五か国中三四位とワースト二位。性的指向性自認に関する差別を禁止する法は、いわゆる先進国だけでなく世界の多くの国で整備されている。差別的取り扱いの禁止という前提が抜け落ちた「理解増進」というお茶を濁すような法案さえ通らず、「差別はダメ」という認識すら示すことができないのが日本の政治の現状だ。同性婚も認められず、トランスジェンダーが法律上の性別を変更する場合も、国際社会から「人権侵害」だと指摘されるようなハードルの高い要件が課されている。性的マイノリティに対する学校でのいじめや職場でのハラスメントも依然としてあり、そのスティグマなどによって、性的マイノリティの自殺未遂の割合は非当事者よりLGB(同性愛者等)が六倍、トランスジェンダーが一〇倍も高い。そんな現状で、一体いつ差別はなくなるのか。

 いざアウティングされてしまえば、ここまで紹介してきたように、学校から追い出されたり、会社でハラスメトを受けたり、職を失ったりする可能性がある。さらに、性的マイノリティを身近に感じている人は非常に少ないし、適切な知識を有している人も多くない現状もある。
 そうであれば、アウティングそれ自体が問題だという認識すら共有するのも難しい。
 アウティングを規制する法制度は、アウティングされたところで何も問題が起きないような社会が実現するまでの過渡的な制度として位置付けられるべきだろう。しかし、過渡的と口にしてみたとき、一体いつ終わりがくるのか。差別や偏見をなくすということは並大抵のことではないということも、やはり押さえておかなければならない。


 「だったら共有されたくない」という反応


 差別や偏見をなくしていくためには、一人ひとりが適切な認識を持つことはもちろん、性的マイノリティの存在を実感として身近に感じることも必要だろう。そのためには、やはり性的マイノリティ当事者のカミングアウトが増えていかなければ、肌感覚として身近に感じることは難しいのかもしれない。
(p191)

 

恥ずかしながらアウティングの何が危険なのか、これまでいまいちピンと来ていませんでした。でもこの本を読んで、生命を脅かす可能性のある行為だということが分かりました。

本人の意志に反して暴露されることのない、またカミングアウトしない人も守られる世界になってほしいと心から思います。

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。