ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

歴史学者が見る、人類の行く先。『ホモ・デウス(上)』を読んで

おはようございます、ゆまコロです。

 

ユヴァル・ノア・ハラリさん、柴田 裕之さん(訳)の『ホモ・デウス(上)』を読みました。

 

テレビでハラリさんがお話するのを何度か見かけて、そのたびに気になっていた本です。

タイトルのホモ・デウスが何のことかは、表紙をめくるとすぐに書いてあります。

 

 世界的なベストセラー『サピエンス全史』は、取るに足りない類人猿が、 どのように地球の支配者となったのかという、人類の過去についての物語である。 本書 『ホモ・デウス』でユヴァル・ノア・ハラリは、人類の未来を描く。 人類は自らにとって最悪の敵であり続けた、飢饉と疫病、戦争を克服しつつある。 この三つの問題を克服した我々は、 今後不死と幸福、神性の獲得を目標とするだろう。 人類は自らをアップグレードし、 ホモ・サピエンスをホモ・デウス(「デウス」は「神」の意)に変えるのだ。 生物工学や情報工学などのテクノロジーを用いて、世界を、 そして自分自身をも、思いどおりに作り替え、創造することを目指すのである。 それではこの神のような力は、すべての人々が享受するものとなるのだろうか? あるいは富む者と貧しい者との間に、想像を絶する生物学的な格差をもたらすのか? 

 

あっ、『サピエンス全史』から読んだほうが良かったのでは、とこの時点で思ったのですが、開いたら面白くて途中で止められませんでした。

まずは飢えと疫病のお話から。

 

 古代のエジプトや中世のインドでは深刻な旱魃に襲われると、人口の五パーセント、あるいは一割が亡くなることも珍しくなかった。蓄えが尽きても、輸送にはあまりに時間と費用がかかるため十分な食糧を輸入できず、統治機関も脆弱過ぎて有効な手を打つことができなかったからだ。
 どの歴史書をひもといても、飢えて狂乱した民衆の惨状に出くわさずには済まされないだろう。たとえば、一六九三年五月、フランスのボーヴェという町の役人が飢饉と食物の価格高騰の影響に触れ、自分の担当する地区全体が、「飢えと惨めな暮らしで衰弱し、困窮のせいで死にかけている無数の哀れな人々で」今や満ちあふれていると記している。「仕事も働き口もなく、お金がなくてパンが買えないためだ……東の間でも生き長らえ、少しでも空腹を癒やそうと、 この哀れな人々は、猫や、皮を剥がれて馬糞の山の上に打ち捨てられた馬の肉のような不潔なものまで口にする。牛が屠られるときに流れる血を啜ったり、料理人が通りに投げ捨てる屑肉を食べたり[する者もいる] ……イラクサや雑草を食べたり、草の根や葉を煮て食べたりする哀れな者もいる」
 同じような光景がフランス中で見られた。 それまで二年続きの悪天候で王国全土の収穫が台無しになっていたため、一六九四年の春には、穀倉はすっかり空だった。金持ちは、どうにかため込んでいた食べ物には何にでも法外な値をつけて売り、貧乏人はばたばたと死んでいった。一六九二年から九四年にかけて、全人口の一五パーセントに当たるおよそ二八〇万のフランス人が飢え死にした。それを尻目に、太陽王ルイ一四世はヴェルサイユで愛妾たちと戯れていた。翌一六九五年から九八年にはエストニアが飢饉に見舞われ、人口の五分の一が亡くなった。九六年から九七年はフィンランドの番で、国民の四分の一から三分の一が命を落とした。スコットランドは一六九五年から九八年にかけて深刻な飢饉に苦しみ、一部の地区は最大で住民の二割を失った。
 読者の大半はおそらく、昼食を食べそこなったり、宗教で定められた日に絶食したり、新式の驚異のダイエットの一環として野菜シェイクだけで数日を過ごしたりしたときにどう感じるか、知っているだろう。だが、何日も食べておらず、次にどこでわずかでも食物が得られるか見当もつかないときには、どう感じるだろうか? この拷問のような苦しみを味わったことのある人は、今日ではほとんどいない。だが、悲しいかな、私たちの祖先にとって、それはお馴染みの経験だった。「飢饉から我らを救いたまえ!」と大声で神に呼ばわるときに、彼らはまさにその苦しみを覚えていたのだ。
 過去一〇〇年間に、テクノロジーと経済と政治が発展し、人類を生物学的貧困線と隔てるセイフティネットが生まれ、そのネットはますます丈夫になってきた。ときおり大規模な飢饉に襲われる地域もあるにはあるが、それは例外であり、ほとんどの場合、飢饉は自然災害ではなく政治がもたらす。 世界にはもはや、自然に発生する飢饉はなく、政治のせいで起こる飢饉があるのみだ。 シリアやスーダンソマリアの人々が飢え死にしたら、 それはそうなることを望む政治家がいるせいなのだ。
 地球上のほとんどの場所では、人はたとえ職と財産を失っても、飢え死にする可能性は低い。個人保険や政府機関や国際的な非政府組織(NGO)は、貧困から救い出してはくれないかもしれないが、生き延びられるだけのカロリーは毎日提供してくれるだろう。集団のレベルでは、グローバルな交易ネットワークは旱魃や洪水をビジネスチャンスに変え、食糧不足を迅速かつ低コストで克服することを可能にする。戦争や地震津波で一国全体が荒廃したときにさえ、国際的な支援のおかげで、たいてい飢饉は防ぐことができる。 何億もの人が相変わらず毎日のように食べ物に困っているとはいえ、ほとんどの国では、実際に飢え死にする人は非常に少ない。
 地球上でもとりわけ豊かな国々においてさえ、貧困はたしかに多くの健康問題を引き起こし、栄養不良は平均寿命を縮める。たとえばフランスでは、六〇〇万人(人口のおよそ一割)が、栄養を安定して摂取できない状態にある。彼らは朝目覚めたとき、昼に食べるものがあるかどうかわからず、夜はお腹を空かせたまま床に就くことが多い。そしてなんとか摂取する栄養も、炭水化物や糖分や塩分が多過ぎ、タンパク質とビタミンが不足していてバランスが悪く、不健康だ。とはいえ、栄養が不安定な状態は飢饉ではなく、二一世紀初頭のフランスは一六九三年のフランスではない。ボーヴェであれパリであれ、どれほどひどいスラムでも、何週間も続けて食べ物がなくて死ぬ人はいない。
 これと同じ変化が他の無数の国でも起こった。最も目覚ましいのが中国だ。伝説の古代の帝王、 黄帝(こうてい)から赤旗を掲げる共産主義者たちまで、中国の歴代支配者は何千年にもわたって飢饉につきまとわれてきた。ほんの数十年前、中国という国名は食糧不足の代名詞だった。悲惨な大躍進政策の実施期間中には何千万もの中国人が餓死したし、問題は悪化するばかりだと専門家はきまって予測した。 一九七四年、世界食糧会議がローマで開かれ、各国代表は大惨事の到来を告げる筋書きを示された。中国が一〇億の国民を養うのはとうてい不可能で、 世界一の人口を抱えるこの国は、悲劇的な結末へと突き進んでいるとのことだった。だが実際には、中国は史上最大の経済的奇跡に向かっていた。一九七四年以来、何億もの中国人が貧困を脱し、まだ何億もの人が窮乏と栄養不良におおいに苦しんではいるものの、今や中国は有史以降初めて飢饉の心配がなくなった。
 それどころか、今日ほとんどの国では、過食のほうが飢饉よりもはるかに深刻な問題となっている。俗説では、一八世紀には、大衆が飢えていると聞いた王妃マリー・アントワネットが、パンがなければケーキを食べるように言ったとされる。そして今、貧しい人々は文字どおりこの勧めに従っている。 ビバリーヒルズの富裕な住人たちがレタスサラダや、蒸した豆腐とキヌア〔訳註 南アメリカ産の雑穀で、栄養豊富な食材〕を食べる一方で、スラムやゲットーでは貧乏人がクリーム入りのスポンジケーキやコーンスナック、ハンバーガー、ピザをお腹にたらふく詰め込んでいる。二〇一四年には、太り過ぎの人は二一億人を超え、それに引き換え、栄養不良の人は八億五〇〇〇万人にすぎない。二〇三〇年には成人の半数近くが太り過ぎになっているかもしれない。 二〇一〇年に飢饉と栄養不良で亡くなった人は合わせて約一〇〇万人だったのに対して、肥満で亡くなった人は三〇〇万人以上いた。


 見えない大軍団


 人類にとって、飢饉に続く第二の大敵は疫病と感染症だ。商人や役人や巡礼者の途絶えることのない流れで結ばれた賑やかな町は、人類の文明の基盤であると同時に、病原体にとっては理想の温床でもあった。古代アテネや中世のフィレンツェの住民は、翌週、病に倒れて死ぬかもしれないことや、感染症が突発し、一気に家族全滅の憂き目に遭いかねないことを承知して暮らしていた。
 大流行した感染症のうちでも最も有名なのが、いわゆる「黒死病」で、一三三〇年代に東アジアあるいは中央アジアのどこかでノミの体内に入ったペスト菌に、ノミに噛まれた人間が感染したのが始まりだった。 そこからこの疫病は、ネズミやノミの大群に運ばれ、アジア、ヨーロッパ、北アフリカ全土に急速に広まり、二〇年もしないうちに大西洋の沿岸までたどり着いた。 死者は七五〇〇万~二億を数え、ユーラシア大陸の人口の四分の一を超えた。イングランドでは一〇人に四人が亡くなり、三七〇万に達していた人口が二二〇万まで落ち込んだ。 フィレンツェの町は、一〇万の住民のうち五万を失った。
(p12)

 

フランスのボーヴェの記録が凄まじい。

人口の1割が飢えで亡くなるって、現代から考えるとなかなかイメージしにくいですが、松尾芭蕉(1644年〜1694年(正保元年〜元禄7年))が活躍していた頃なので、よく考えるとそんなにすごく昔の話でもないんですよね。

気がつけばあっという間に飽食の時代に変わってしまっているのも、奇妙だなと思いました。

 

文字が人々を動かすお話も面白いです。

 

 (…)何百万もの人が生き神のファラオとセベクの存在を信じ、そのために協力してダムを建設したり運河を掘ったりしたので、洪水と旱魃は稀になった。古代エジプトの神々は、石器時代の霊は言うまでもなく、シュメールの神々とも違い、偽りなく強力な存在であり、都市を建設し、軍を召集し、何百万もの人間と牛とワニの暮らしを支配していた。
 想像上の存在がものを建設したり人を支配したりすると考えるのは、奇妙に思えるかもしれない。だが今日、私たちは日頃から、アメリカが世界初の核爆弾を製造したとか、中国が三峡ダムを建設したとか、グーグルが自動走行車を造っているとか言っている。それならば、ファラオが貯水池を造ったとか、セベクが運河を掘ったとか言ってもおかしくないではないか。


 紙の上に生きる


 書字はこのようにして、強力な想像上の存在の出現を促し、そうした存在が何百万もの人を組織し、河川や湿地やワニのありようを作り変えた。 書字は同時に、人間にとってそうした虚構の存在を信じやすくもした。書字のおかげで、人々は抽象的なシンボルを介して現実を経験することに慣れたからだ。
 狩猟採集民は木に登ったり、キノコを探したり、イノシシやウサギを追いかけたりして日々を過ごした。彼らの日常的な現実は、木々やキノコ、イノシシやウサギから成り立っていた。農耕民は畑を耕したり、作物を取り入れたり、小麦を挽いたり、家畜の世話をしたりして日がな一日、野良で働いた。彼らの日々の現実とは、素足で踏み締めるぬかるんだ大地の感触や、鋤を引く牛の臭い、かまどから取り出した焼きたてのパンの味だった。一方、古代エジプトの書記は、ほとんどの時間を読んだり書いたり計算したりするのに捧げた。彼らの日常の現実は、パピルスの巻物の表面に残されたインクの印から成り立っており、その印によって、誰がどの畑を所有し、 牛一頭の値段がいくらで、その年に農民がどれだけの税を払わなければならないかが定められた。 書記はペンをさっと走らせるだけで、一つの村全体の運命を決められた。
 大多数の人は近代になるまで読み書きができなかったが、最も重要な管理者たちはしだいに、文書という媒体を通して現実を見るようになった。古代のエジプトにおいてであれ、二〇世紀のヨーロッパにおいてであれ、読み書きのできるこのエリート層にしてみれば、紙に記されたことには何でも、木々や牛や人間と少なくとも同じぐらい現実味があった。
 一九四〇年春、ナチスが北からフランスを侵略したときに、ユダヤ系フランス人の多くが、国を脱して南へ逃げようとした。 国境を越えるためにはスペインやポルトガルに入国するためのビザが必要だったので、 命を救ってもらえるその書類を必死に手に入れようとして、ボルドーポルトガル領事館に何万ものユダヤ人が他の避難民の群れとともに押し寄せた。ポルトガル政府はフランス駐在の領事たちに、事前に外務省の許可を得ずにビザを発給することを禁じたが、ボルドーの総領事だったアリスティデス・デ・ソウザ・メンデスは、外交官としての三〇年に及ぶキャリアを捨てる覚悟でこの命令を無視することにした。ナチスの戦車がボルドーに迫るなか、ソウザ・メンデスと部下たちは、一〇日間、寝る間も惜しんでひたすらゴム印を押し、ビザを発給し続けた。ソウザ・メンデスは数万人にビザを発給したところで、とうとう疲労で倒れてしまった。
 これらの難民を受け容れる気などなかったポルトガル政府は、職員を派遣し、言うことを聞かないこの総領事を連れ帰らせ、外務省から追い出した。 それでも、苦境に立たされた人々のことなど気にもかけない役人たちでさえ、公的な書類に対しては深い畏敬の念を抱いていたため、ソウザ・メンデスが命令に背いて発給したビザは、フランスとスペインとポルトガルの官吏たちが揃って尊重したので、三万もの人がナチスの魔手から逃れて国外へ脱出できた。ゴム印以外にほとんど何の武器も持たなかったソウザ・メンデスは、こうしてユダヤ人大虐殺の間に一個人としては最大規模の救出作戦をやってのけた。(※)
 文書記録の神聖さがこれほど良い結果をもたらさないことも、しばしばあった。一九五八年から六一年にかけて、共産中国は大躍進政策を実施した。毛沢東が中国を一気に超大国に変えようと望んだのだった。余剰の穀物を使って野心的な産業事業や軍事事業に資金を供給することを意図した毛沢東は、農業生産を二倍、三倍に増やすよう命じた。彼の実行不可能な要求は、北京の官庁から官僚制の階層を下り、地方行政官を経て、各地の村長にまで伝えられた。地方の役人は恐ろしくて批判を口にできず、上役の機嫌を取りたがり、農業生産高の劇的増加を記した報告書を捏造した。 でっち上げられた数字が官僚制のヒエラルキーを上へと戻っていくときには役人がめいめいペンを振るってどこかしらに「0」を書き加え、さらに誇張が積み重なった。
 そのため、中国政府が一九五八年に受け取った年間穀物生産高の報告は、現実の五割増しだった。政府はその報告を鵜呑みにし、武器や重機と引き換えに、何百万トンもの米を外国に売却し、それでも自国民を養うだけの量は残ると思い込んでいた。ところがその結果、史上最悪の飢饉が起こり、何千万もの中国人が命を落とした。
 その間、中国農業の奇跡を伝える熱狂的な報道が、世界中の人々に届いていた。 タンザニアの理想主義的な大統領ジュリアス・ニエレレは、中国の成功に深い感銘を受けた。ニエレレはタンザニアの農業を近代化するために、中国を手本にした集団農場を設立することを決意した。農民たちがその計画に反対すると、ニエレレは軍や警察を送り込んで昔ながらの村を破壊させ、何十万もの農民を新しい集団農場へ強制
的に移動させた。


※一九四〇年夏、同様の救出作戦がリトアニアの在カウナス日本領事館領事代理、杉原千畝によって行なわれた。杉原は母国の外務省の命に逆らい、何千もの通過ビザをユダヤ人難民に発給して彼らの命を救った。その数は一万にのぼるかもしれない。

 

 政府のプロパガンダは、それらの集団農場が小さな楽園であるかのように喧伝したが、その多くは政府の書類上にしか存在しなかった。首都ダルエスサラームで書かれた書類や報告書には、これこれの日にこれこれの村の居住者をこれこれの農場に移動させたと書かれてあった。実際には、村人たちが目的地に着くと、そこには何一つなかった。 家もなければ畑も農具もなかった。 それにもかかわらず、役人たちは自らとニエレレ大統領に大成功を報告した。 じつのところ、タンザニアは一〇年足らずでアフリカ随一の食物輸出国から、食物の純輸入国に成り下がり、外部の助けがなければ自国民を養えなくなってしまった。一九七九年にはタンザニアの農民の九割が集団農場で暮らしていたものの、彼らはこの国の農業生産高の五パーセントしか生み出していなかった。
 書字の歴史はこの種の災難に満ち満ちているが、少なくとも政府の視点に立てば、行政の効率向上がもたらす利益は、たいていコストを上回った。筆を振るうだけで現実を変えようとすることの魅力に抗える支配者はいなかったし、それが惨事を招いた場合の救済策はどうやら、なおさら大量の覚書を書き、なおさら多くの規準を定め、布告や命令を出すことだったようだ。
 文字で表すのは現実を描写するささやかな方法と思われていたかもしれないが、それはしだいに、現実を作り変える強力な方法になっていった。 公の報告書が客観的な現実と衝突したときには、現実のほうが道を譲ることがよくあった。 税務当局や教育制度、 その他どんな複雑な官僚制であれ、相手に回したことのある人なら誰もが知っているように、事実はほとんど関係ない。書類に書かれていることのほうがはるかに重要なのだ。
(p202)

 

・中国の実際の5割増しの穀物生産高報告が悲しい。実行不可能な要求だと分かっていながら誰も何も言えないなんて。こういう時、国民はただ翻弄されるしかないのが歯がゆいです。

・大好きな杉原千畝さんのお話がちらっと出てきて嬉しい。

ホロコーストに関心を持っていたつもりだったのに、恥ずかしながらソウザ・メンデスさんのエピソードを本書で初めて知りました。関連する本を探してみたいと思います。

 

 一九世紀後期にヨーロッパのいくつかの大国がアフリカ各地の領有権を主張した。主張の対立がヨーロッパでの全面戦争につながることを恐れた当事者たちは、一八八四年にベルリンに集まり、まるでパイでも切り分けるようにアフリカを分割した。当時、アフリカの内陸部の大半は、ヨーロッパ人には未知の土地だった。イギリス人やフランス人やドイツ人は、沿岸地域の精密な地図を持っており、ニジェール川コンゴ川ザンベジ川がどこで海に注いでいるかも正確に知っていた。ところが、これらの川が内陸でたどる流路や、その岸に沿って分布する王国や部族、地元の宗教や歴史や地理についてはほとんど知らなかった。それなのに、ヨーロッパの外交官たちはおかまいなしだった。彼らはベルリンの磨き上げられたテーブルの上に半ば空白のアフリカの地図を広げ、あちこちに何本か線を引き、この大陸を分け合った。
 やがて、合意に基づく地図を手にアフリカの内陸に入り込んだヨーロッパ人たちは、ベルリンで引かれた境界線の多くがアフリカの地理や経済や民族の実情をないがしろにしていることに気づいた。それにもかかわらず、侵略者たちは新たな衝突を避けるために、合意を堅持し、これらの想像上の線がヨーロッパの植民地の現実の境界となった。二〇世紀後半、ヨーロッパの帝国が崩壊し、植民地が独立を勝ち取ると、新生国家はみな、植民地時代の境界を受け容れた。そうしなければ、果てしない戦争や紛争に陥るのではないかと恐れたからだ。 今日のアフリカ諸国が直面する問題の多くは、国境がほとんど意味を成さないことに由来する。ヨーロッパの官僚制が書き綴った空想がアフリカの現実と遭遇したとき、現実が降伏を強いられたのだった。
 現代の教育制度も、現実が文書記録にひれ伏す例を無数に提供してくれる。私の机の横幅を測るときには、どんな物差しを使うかはあまり関係ない。二〇〇センチメートルと言おうと、七八七四インチと言おうと、横幅は変わらない。ところが、官僚制が人々を測るときには、どの物差しを選ぶかで天地の差が出る。学校が人々を厳密な点数による成績で評価し始めると、何百万もの学生と教師の生活が劇的に変化した。成績というのは比較的新しい発明だ。狩猟採集民は成果を採点されることはなかったし、農業革命から何千年も過ぎてからでさえ、厳密な成績をつける教育機関はほとんどなかった。中世の見習い靴職人は一年の終わりに、靴紐の項目でAを取ったが、留め金ではCマイナスだったことを告げる紙切れを受け取りはしなかった。シェイクスピアの時代の大学生がオックスフォードを去るときの結果には二つの可能性しかなかった。 学位をもらえたか、もらえなかったかのどちらかだ。ある学生には七四点、別の学生には八八点というふうに最終成績をつけることなど、誰も思いつかなかった。
(p206)

 

・アフリカでも机上の空論が現実を振り回したことが分かります。侵略者たちの決めた境界線に、それまでそこに住んでいた人は従わなくちゃいけないなんて、どれだけ理不尽なんだろうかと腹も立ちますが、それが今日まで尾を引いていると思うと、少し納得できるような気もします。

シェイクスピア時代の学位の話もなるほどなと思いました。こんなに長年に渡って振り回された成績という仕組みが、比較的最近作られたものだったとは。点数評価されることを疑いもしないということが、かえって恐ろしく感じます。

 

 人間の協力ネットワークはたいてい、自らが生み出した基準を使って自らを評価し、驚くまでもないが、自らに高い点数をつける。とくに、神や国家や企業といった想像上のものの名において構築される人間のネットワークは通常、自らの成功を、その想像上のものの観点から評価する。宗教は、神の戒律を字義どおりに守っていれば成功しているのであり、国家は国益を拡大していれば輝かしいのであり、企業はたっぷり利益をあげていれば繁栄しているのだ。
 したがって、どんな人間のネットワークであれ、その歴史を詳しく調べるときには、ときどき立ち止まって、何か現実のものの視点から物事を眺めてみるのが望ましい。では、あるものが現実のものかどうかは、どうすればわかるだろう? とても単純だ。「それが苦しむことがありうるか?」と自問しさえすればいい。人々がゼウスの神殿を焼き払っても、ゼウスは苦しまない。ユーロは価値が下がっても苦しまない。 銀行は倒産しても苦しまない。国家は戦争に敗れても本当に苦しむことはない。苦しむと言ったとししも、それは比喩でしかない。それに対して、兵士は戦場で負傷したら、本当に苦しむ。飢えた農民は、食べ物が何もなければ苦しむ。雌牛は産んだばかりの子牛から引き離されれば苦しむ。それこそが現実だ。
 もちろん、虚構を信じているから苦しむこともありうる。たとえば、国家や宗教の神話を信じていたら、そのせいで戦争が勃発し、何百万もの人が家や手足、命さえ失いかねない。戦争の原因は虚構であっても、苦しみは一〇〇パーセント現実だ。だからこそ、虚構と現実を区別するべきなのだ。
 虚構は悪くはない。不可欠だ。お金や国家や協力などについて、広く受け容れられている物語がなければ、複雑な人間社会は一つとして機能しえない。人が定めた同一のルールを誰もが信じていないかぎりサッカーはできないし、それと似通った想像上の物語なしでは市場や法廷の恩恵を受けることはできない。だが、物語は道具にすぎない。だから、物語を目標や基準にするべきではない。私たちは物語がただの虚構であることを忘れたら、現実を見失ってしまう。すると、「企業に莫大な収益をもたらすため」、あるいは「国益を守るため」に戦争を始めてしまう。企業やお金や国家は私たちの想像の中にしか存在しない。私たちは、自分に役立てるためにそれらを創り出した。それなのになぜ、気がつくとそれらのために自分の人生を犠牲にしているのか?
 私たちは二一世紀にはこれまでのどんな時代にも見られなかったほど強力な虚構と全体主義的な宗教を生み出すだろう。そうした宗教はバイオテクノロジーとコンピューターアルゴリズムの助けを借り、私たちの生活を絶え間なく支配するだけでなく、私たちの体や脳や心を形作ったり、天国も地獄も備わったバーチャル世界をそっくり創造したりすることもできるようになるだろう。したがって、虚構と現実、宗教と科学を区別するのはいよいよ難しくなるが、その能力はかつてないほど重要になる。
(p218

 

“あるものが現実のものかどうかは、「それが苦しむことがありうるか?」と自問すれば分かる。”

なんだかちょっと『モモ』みたいな話だと思いました。サラッと読むとふんふんと思うのですが、もうちょっと丁寧に考えたいと思った箇所です。

 

「企業に莫大な収益をもたらすため」、あるいは「国益を守るため」に戦争を始めてしまう。企業やお金や国家は私たちの想像の中にしか存在しない。私たちは、自分に役立てるためにそれらを創り出した。それなのになぜ、気がつくとそれらのために自分の人生を犠牲にしているのか?」

 

今の現実を表しているようで耳が痛いです。

 

科学と宗教の関係についての項目も興味深いです。

 

 物語は人間社会の柱石の役割を果たす。 歴史が展開するにつれ、神や国家や企業にまつわる物語はあまりに強力になったため、ついには客観的現実まで支配し始めた。人々は偉大な神セベクや天命や聖書を信じたおかげで、ファイユームの湖や万里の長城やシャルトルの大聖堂を造ることができた。だが不幸にも、こうした物語をむやみに信じたせいで、人間の努力はしばしば、現実の生きとし生けるものの暮らしを向上させるのではなく、神や国家といった虚構の存在の栄光を増すために向けられることになった。
 この分析は今もなお正しいのだろうか? 一見すると、現代社会は古代のエジプトや中世の中国の王国とは大違いのように思える。 近代科学の台頭によって、人間が繰り広げるゲームの基本ルールが変わったのではなかったか? 伝統的な神話は相変わらず重要であるとはいえ、現代の社会制度は、古代のエジプトや中世の中国にはまったく存在しなかった、進化論のような客観的な科学理論にますます依存するようになっている、と言うのが正しいのではないか?
 もちろん、科学理論は新種の神話だ、私たちが科学を信じるのは古代エジプト人が偉大な神セベクを信じるのと何ら変わりがない、と主張することもできるだろう。あいにく、この比較はまったく通用しない。セベクはこの神の敬虔な信者たちの集団的想像の中にしか存在しなかった。セベクに祈ることで、たしかにエジプトの社会制度は堅牢になり、そのおかげで人々はダムや運河を建設して洪水や旱魃を防ぐことができた。とはいえ、祈り自体はナイル川の水位を少しでも上げ下げしたりはしなかった。それに対して科学理論は、人々を束ねるただの方法ではない。神は自ら助くるものを助く、とよく言われる。これは、神は存在しない、と遠回しに言っているわけだが、もし神を信じれば何かを自らやってみる気になるのなら、それは助けになる。 抗生物質は神と違い、自らを助けない者さえも助ける。 人がその効力を信じていようといまいと、抗生物質感染症を治す。
 したがって、 現代世界は近代以前の世界とはまったく違う。 エジプトのファラオや中国の皇帝は何千年も努力を重ねたのに、飢饉と疫病と戦争を克服できなかった。近代社会はそれを数世紀のうちにやってのけた。これこそ、 共同主観的な神話を捨てて客観的な科学知識を採用した成果ではないか? そして、今後の年月にこの過程が加速すると思っていいのではないか? テクノロジーのおかげで人間をアップグレードしたり、老化を防いだり、幸せのカギを見つけたりできるようになるだろうから、人々は虚構の神や国家や企業への関心を失い、代わりに物理的現実や生物学的現実の解明に的を絞るのではないか?
 そのように思えるかもしれないが、じつは物事はそれよりはるかに複雑だ。近代科学はたしかにゲームのルールを変えたが、あっさり神話を事実で置き換えたわけではない。さまざまな神話が人類を支配し続けており、科学はそうした神話の力を強めるばかりだ。科学は共同主観的な現実を打ち砕くどころか、共同主観的な現実が客観的現実と主観的現実をかつてないほど完全に制御することを可能にするだろう。そして、人々が自分のお気に入りの虚構に合うように現実を作り変えるにつれて、コンピューターと生物工学のおかげで、虚構と現実の違いがあやふやになっていく。

(p220)

 

安易に科学に道を譲るのではなく、未だもって神話の力を軽んじていないところに、ハラリさんの慎重さが感じられて、なんかいいなと思いました。

 

気になるトピックが多すぎてお腹いっぱいな感があるのですが、気になるところをチェックした上で、下巻に進みたいと思います。

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。