ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

違う立場から見る戦争。『ボマーマフィアと東京大空襲―精密爆撃の理想はなぜ潰えたか』を読んで

おはようございます、ゆまコロです。

 

マルコム・グラッドウェルさん、櫻井祐子さん訳『ボマーマフィアと東京大空襲―精密爆撃の理想はなぜ潰えたか』を読みました。

 

「ボマー(爆撃機)マフィア」とは、米陸軍航空隊戦術学校のリーダーたちのことを指しています。

1945年1月、アメリカ陸軍航空軍の対日爆撃司令官ヘイウッド・ハンセルが解任され、後任にカーティス・ルメイが就きました。ルメイは後に同年3月の東京大空襲を含む日本全土への大規模な空爆の指揮を執ります。

著者は一晩で10万人以上の命を奪った東京大空襲に至る様々な要因を、本書で検証しています。

 

 フレデリックリンデマン、のちのチャーウェル卿は一八八六年にドイツで生まれた。父親は裕福なドイツの技術者、母親はアメリカの女相続人だった。リンデマンは物理学者で、第一次世界大戦直前の、ドイツが物理学界の中心に位置していた時代に、ベルリンで博士号を取得した。
 仲間の研究者にはアイザック・ニュートンと並ぶ知性の持ち主と称された。数字の記憶力に優れ、幼いフレデリックは新聞を読んで数字を次々とそらんじてみせた。彼はどんな相手も論破した。
 アルバート・アインシュタインとも親交が深かった。アインシュタインはあるとき夕食の席で、どうしても証明できない数学の定理があると言った。次の日、リンデマンは答えがわかったとさりげなく言った。風呂に浸かりながら思いついたのだという。
 リンデマンは話題の的だった。そしてスノーのような小説家は、リンデマンの噂話に触れずにはいられなかった。

 

 彼は現実離れした野望の持ち主でした。…….バルザックの小説に出てくるような、とんでもない偏執狂を思わせました。実際、バルザック作品の登場人物だったとしてもおかしくありませんでしたね。くり返しますが、彼は小説家の指をうずかせるような人物だったのです。
 官能的な快楽とは無縁でした。 とても偏屈なベジタリアンでした。ただベジタリアンというだけでなく、ベジタリアンが食べるような食事の数分の一しか食べませんでしたね。主に食べていたのはポールサリュという種類のチーズと卵白卵黄はあまりに動物的だったんでしょう――それにオリーブオイル、米だけ。


 リンデマンは変人で天才だった。だが彼の最大の売りは、ウィンストン・チャーチルの親友だという点にあった。二人の出会いは一九二一年、ウェストミンスター公爵夫妻主催の晩餐会だった。チャーチルは貴族で、リンデマンは大金持ち。つまり同じ世界に住んでいた。二人はたちまち意気投合した。チャーチルリンデマンに書いた手紙を読むと、リンデマンをほとんど崇めていたのがわかる。
 心理学者のダニエル・ウェグナーが提唱した、「交換記憶」という美しい概念がある。私たちは情報を自分の頭の中や特定の場所に蓄えるだけではない。大事な人の頭の中にも、記憶や知識を蓄えるのだ。わが子が教師とどういう感情を持ち合っているかを、あなたは記憶する必要がない。 妻が記憶していてくれるからだ。 リモコンの使い方をあなたは覚える必要がない。娘が覚えていてくれるからだ。これを交換記憶という。私たちの小さなかけらが、他人の頭の中に宿っているのだ。ウェグナーは、パートナーを亡くした人がよく感じる、「自分の一部も一緒に失われてしまったような喪失感」について、切ないことを書いている。それは文字通り本当のことだというのだ。パートナーが亡くなれば、あなたがその人の脳内に蓄えていたすべても失われてしまうのだから。
 ここでカギとなるのが、チャーチルの人となりである。チャーチルは大局観に優れていた。先見の明があった。人間の心理と歴史を深く直感的に理解していた。その一方で、彼は鬱に苦しんでいた。気分のむらが激しかった。衝動的でギャンブル好きだった。数字はからっきしダメだった。生涯を通じてつねに馬鹿げた投資で大損をしていた。一九三五年には今のお金で六万ドル以上を酒に費やした――一年間でだ。首相就任後ひと月も経たずに無一文になっていた。
 ここに一人の男がいる。常識がほとんどなく、数字に弱く、秩序ある生活を送ることがまるでできない男だ。彼が親友に選ぶのはどんな人物だろう? 規律正しく、ほとんど狂信的なほど一貫性のある人物だ。毎日、毎食、同じ三品を食べ続ける人物だ。幼い頃新聞を読んで数字を次々とそらんじてみせたほど、数字を自在に操れる人物だ。
 チャーチルは数字の世界に関わる一切の思考を、リンデマンの脳内に蓄えていた。そして大戦勃発直後の一九四〇年に首相に任命されると、リンデマンも一緒に連れていった。リンデマンは内閣の一員として、チャーチルの頭の門番のような役目を果たした。チャーチルの会議に同行した。晩餐をともにした。 酒はやらず、 酒豪のチャーチルと食事をするときだけ飲んだ。週末はチャーチルの別荘で過ごした。午前三時に暖炉のそばに座って一緒に新聞を読む姿が見られた。
 スノー曰く、「あれは正真正銘の、非常に深い友情でしたが、二人はそれなりの代償を支払いましたよ。チャーチルは他の取り巻きがどんなにリンデマンを忌み嫌おうと、まったく動じませんでした。どんなにリンデマンを外そうとしても、チャーチルはけっして応じませんでした」。
 リンデマンチャーチルに対してとくに影響力を持っていたのが、爆撃に関する問題だった。
 敵の士気を最も確実に粉砕するには都市を無差別爆撃するのが一番だと、リンデマンは固く信じていた。ところで、リンデマンにはこの考えを裏づける根拠があったのだろうか? いや、何も。

(p74)

 

・鬱に苦しみ気分のむらがあり、衝動的でギャンブル好き。投資で大損にお酒で浪費。ここに紹介されているウィンストン・チャーチル首相の素顔、包み隠さなすぎです。

時の首相といえども、必ずしも人格者というわけではないのが、親しみが持てます。

・「交換記憶」の話が印象的です。

「私たちの小さなかけらが、他人の頭の中に宿っている」から、親しい人がいなくなった時、自分の一部も欠けてしまったような気持ちになるのですね。すごく腑に落ちました。

 

 シュヴァインフルト爆撃の大失敗と、一九四三年の長い失意の夏と秋に話を戻そう。こうした出来事を受けて、ヘイウッド・ハンセルらボマーマフィアはあきらめただろうか? とんでもない。ハンセルは八月一七日の第一回シュヴァインフルト爆撃後、アイラ・エーカーへの手紙にこう書いた。 「レーゲンスブルク=シュヴァインフルト作戦を私がどれだけ誇らしく思ったかは、ここに書くまでもありません。損失は甚大ですが、作戦の正しさが完全に証明され、この戦争の大きな転換点になったと信じています」
 それはもちろん妄想だった。シュヴァインフルトは戦争の転換点ではなかった。だがもしもハンセルに、なぜそう信じるのかと訊ねたなら、彼はきっとそれなりの理由を挙げただろう。われわれはまだ学んでいる。今回はたまたま天候に恵まれなかった。翌週も戻って爆撃をくり返し、すべての工場を完全に破壊すべきだった。あるいは、ボールベアリング工場は最適な標的ではなかった。標的は他にもある。 石油精製施設を狙ってみたらどうだろう? これが、真の信奉者の思考の働き方だ。
 しかし、この固い絆で結ばれた集団の外に、一人の男がいた。カーティス・ルメイである。 ルメイもほかのボマーマフィアと同様、必要な訓練を受けるためにマクスウェルの航空隊戦術学校に通った。だがボマーマフィアの輪の中にいたことは一度もなかった。ルメイの人となりの何かが物事の仕組みや成り立ちへの執着に関わる何かが一切の観念的思考への憧れを退けた。
 ルメイは、操縦士に目標めざして直進させることはできた。 操縦士が怖じ気づいて逃げ出したりしないよう、規律を叩き込むことはできた。霧の中で離陸する訓練をさせることはできた。 ルメイは実際的な課題に惹かれた。だが理念には何の感銘も受けなかった。
 一九七一年のインタビューで、ルメイはさらにずけずけと語っている。シュヴァインフルト爆撃の背後にあった手の込んだ論理に納得したことは一度もなかったと言い放ったのだ。「彼らは――ペンタゴンの頭でっかちな目標分析官はそこにあったボールベアリング工場に目をつけ、そしてこう考えた。ドイツのボールベアリング生産の大半を担うというその工場を破壊すれば、ボールベアリングがなくなり、戦争が停止すると」


 ペンタゴンの頭でっかちな目標分析官。彼が言っているのは、敵を無力化する方法に関する空論をふりかざす、ヘイウッド・ハンセルらボマーマフィアのことだ。
 ルメイは続けて言った。「計画は問題なかった――基本的には問題なかった。だがわれわれは戦争に楽に勝つための方法を探そうとしていた。そんな方法などありはせんのだ」
 カーティス・ルメイにとっては、最終結果がすべてだった。 レーゲンスブルク爆撃の陽動作戦で、彼は二四機を失った。 一機に一〇人ずつ搭乗していたため、二四〇人が基地に戻らなかったことになる。つまりその翌日、ルメイと飛行隊長は二四〇通の手紙を書くことになった。 親愛なるスミスご夫妻、ご子息は… 親愛なるジョーンズご夫妻、ご子息は.....。二四〇通だ。だがその犠牲は何のためだったのか?
 空軍士官のケン・イズラエルは、晩年のルメイと親しくしていた。 二人は狩り仲間だった。あるときイズラエルは、サクラメントのすぐ北のビール空軍基地でルメイと狩りをし、仕留めたキジを届けるために南カリフォルニアのルメイの自宅を訪れた。 イズラエルはこう語っている。


 呼び鈴を鳴らしました。するとルメイが出てきて、中に入れてくれました。 「閣下、キジをお持ちしました」と言い、玄関に入ると、そこは総大理石張りでした。左の壁レーゲンスブルクの大きな写真と・・・・・・反対の壁に・・・・・・シュヴァインフルトの写真が掛けてありました。

「閣下、それはレーゲンスブルクとシュヴァインフルトですか?」と訊ねると、「ああそうだ」と言われました。 「そうなんだ、優秀な部下を大勢失った」


 カーティス・ルメイはその後どんな空軍士官よりも輝かしいキャリアを歩んだ。 レーゲンスブルク=シュヴァインフルト爆撃よりも重大な作戦を数多く計画し、指揮した。一九四八年と一九四九年には、冷戦初期の最も重要な出来事の一つであるベルリン封鎖で、空輸作戦を実行した。
 最終的には、アメリカ空軍の主要部隊だった戦略航空軍団の司令官として、アメリカの核戦力を統括指揮するに至った。在軍中は世界中のあらゆる指導者と会い、普通の人が歴史書の中でしかお目にかかれない要人たちと写真に収まった。ルメイは、そうした出来事を記念するどの品を玄関に飾ることもできた。だがそうしなかった。 彼が自宅の玄関に掲げたのは、ボマーマフィアの思想と現実に対峙したときのことを、そのときの失敗と損失を思い出させる写真だった。

(p118)

 

1943年8月17日は第二次世界大戦の連合国軍(アメリカ航空軍)がドイツに対するシュヴァインフルト=レーゲンスブルク爆撃作戦を実施した日です。

「石油」、「合成ゴム」、「ボールベアリング」などの生産工場が攻撃目標になりましたが、悪天候により二つの都市への攻撃に時間差が生じたため、ドイツ空軍から準備万端の体制で迎撃されてしまいます。アメリカ空軍が最も激しい損害を被った作戦でした。

 

ルメイが失敗した記憶を想起させる写真を飾っているというエピソードが興味深いです。

産業のどこの部分を破壊すれば経済機構全部を麻痺させることができるか、と考えるのは定石のように思えるのですが、「戦争に楽に勝つための方法などない」と言い放つルメイの言葉には重みがあります。どんな気持ちで二四〇通の手紙を書いたのだろう。

 

 ネバダ州砂漠研究所の一機関である国立暴風雨研究所のジョン・M・ルイス研究員は、大戦中に陸軍航空軍に協力していた気象学者を何人か知っている。私はルイスに、当時の気象観測気球は地上にロープでつなぎとめられていたのかと聞いてみた。彼の答えだ。「いや、まさか。気球は放たれるんです。 そして大気中を高く上れば上るほど気圧が下がるので、気球はどんどん、どんどんふくらんでいって、しまいにはボンッ!と破裂して、計器をつけたまま地上に落ちます。そして当時はどの計器の箱にも、『これを見つけた方はシカゴ大学まで返送していただけますか?住所はこちらです』というお願いが書いてありました」
 太平洋戦域ではもちろん、そうはいかなかった。
 そんなわけでここ太平洋の真ん中で、爆撃機の出撃のタイミングを判断するという、部隊全体でもとくに重要な仕事を任された気象官は困惑していた。操縦士が報告してきた日本上空の超高速の風とは、いったい何なのだろう?
 私はルイスに、富士山周辺にそんな信じがたいほどの強風が吹くと考えられる理由はあったかと聞いてみた。彼の答えだ。「彼らはそうは考えていませんでしたね、操縦士が戻ってくるまでは」

 一九四四年の日本への爆撃作戦で、基地に戻った乗員は同じことを報告した。操縦士のエド・ハイアットはのちに述べている。

 

 風がどれだけ強かったかというとですね、あるとき作戦が終わってから爆撃の有効性を調べるために、偵察機が航空写真を撮ろうとして上空に上ったんです。すると航法士が操縦士に、俺たちは時速五キロで逆行しているぞと言ってきました。それは絶対やってはいけないことでした。というのも、東から西へ向かうと、飛んで火に入る夏の虫とばかりに、日本軍の戦闘機と対空砲火の餌食(えじき)になったからです。


 操縦士たちが遭遇したのは、のちにジェット気流と名づけられた強風である。 ジェット気流とは、高度約六〇〇〇メートル以上の大気上層を地球を取り巻くように吹いている、強い西風をいう。日本では早くも一九二〇年代に、気象学者の大石和三郎(わさぶろう)が画期的な実験を通してジェット気流を発見していた。だが大石は当時一時的に流行していた人工言語エスペラント語に傾倒していて、エスペラント語でしか発見を発表しなかったため、当然論文はほとんど誰にも読まれなかった。また当時はB2が飛行するような高度を飛ぶ人がほとんどいなかったので、ジェット気流の体験談もなかった。その存在は謎だった。
「この強風の狭い帯は、季節によって南北両半球で南北方向に移動するんです。要は、極地の冷気と、中緯度と赤道の暖気とを分ける境界線のようなものですよ」とジョン・ルイスは教えてくれた。
 ジェット気流の幅を訊ねてみると、こんな答えだった。「ふつうは幅二〇〇キロくらいですね。一〇〇〇キロということはあり得ず、五〇〇キロはまれで、数百キロはたまにあります」
 ジェット気流はまったく新しい発見だったため、それが地球全体を取り巻いているなどと考える人は誰もいなかった。ルイス曰く、「それがわかったのは一九五〇年代の初めに、アメリカとヨーロッパの一部諸国で上空大気の定期測定が始まってからですよ」
 ジェット気流というこの超高速風の帯は、地球全体をめぐっている。夏には極地に後退し、冬には赤道に近づく。
 そして一九四四年の冬と一九四五年の初春、このハリケーン級の強風の狭い帯は日本の真上にあった。そのせいでハンセルの操縦士たちは、計画していた精密爆撃を一切行えなかった。
 ジェット気流を横断すれば飛行機が煽られる。気流に逆らえば、空中にとどまるだけでも必死に飛ばねばならず、日本軍の攻撃の餌食になる。気流に乗れば、速度が出すぎて目標を正確に狙えない。
 マクスウェル飛行場で一九三〇年代に温められ、カール・ノルデンの非凡な才によって命を吹き込まれた夢は、日本上空の止めようのない力に阻まれたのである。
 この障害は、ボマーマフィアがシュヴァインフルトやレーゲンスブルクで経験したものとは次元の違う問題だった。これらの攻撃では、ハンセルは自分を正当化することができた。問題は解決可能だ、初めての爆撃には学ぶところがあった、爆撃の有効性と精度を高めることは可能だ、と自分に言い聞かせることができた。急進的な変革への道のりが平坦でないことは、どんな革命家も知っている。ソフトウェア設計者がまずベータ版を開発し、それから1.0版、2.0版、と更新していくのは、最初からいきなり完成形をつくれないことを知っているからだ。
 だが日本上空のジェット気流に関しては、2.0版なるものはなかった。ハンセルの信念を強化するような改訂版などなかった。ジェット気流下での高度精密爆撃は不可能だった。
(p144)

 

第2次世界大戦注、ジェット気流の存在がまだ明らかになっていなかったという話を初めて知りました。大石和三郎さんがそれ以前に発見していたにも関わらず、論文がほとんど誰にも読まれていなかったというのが惜しい。すごいんだけど残念だったような良かったような。読んでいて脱力します。

 

M69爆弾の主な材料は、特殊処理されたゲル化ガソリンを詰めたガーゼの袋です。これに点火すると、充填されたゲルが粘着性のある火の塊と化し、直径一メートル以上にわたって飛び散り…約五四〇℃で八分間から一〇分間燃え続けます。空中投下の場合は、M69を三八発束ねたものを用います。…このクラスター弾は放出されると空中で開いてバラバラになり、一つひとつの子爆弾がガーゼの吹き流しをなびかせながら、目標に向かって落ちていくのです。


 想像してみてほしい。あなたはボマーマフィアの一員で、ダグウェイ実験場での実証試験に立ち会った。細部に至るまで忠実に再現された日本村を見た。B2からあなたの部隊のB29から――焼夷弾が風を切って落ちる鋭い音を聞いた。家々が炎に包まれるのを目の当たりにした。あなたはこのすべてをどう受け止めただろう?
  おそらく、困惑したにちがいない。 ボマーマフィアはノルデン爆撃照準器の可能性にとりつかれていた。 ノルデン照準器は、戦争のあり方を変え、より人道的な戦争を可能にし、戦場の将軍たちの殺人衝動を抑えるために、科学技術を利用するものだ。人間の創意と科学を、破壊活動の方法を改善するために使わないのならば、いったい何のために開発したのか? そのための技術革新だったはずなのに。
 だがふと気がつくと、あなたはユタ州の砂漠の奥地で、灼熱の太陽に照らされながら軍事演習を見ている。ノルデン爆撃照準器の開発費用を負担したのと同じアメリカ軍が承認し、資金を提供する演習だ。ただ、ノルデン爆撃照準器の開発とは違って、このとき科学と創意は、焼夷弾をつくるために――暴力的で無差別的な火災を引き起こす目的で上空から落とす物体をつくるために―――用いられた。 あなたはこれまで、最も重要な産業目標以外への爆撃を避けるために、計り知れない努力を払ってきた。ところが今になって陸軍は、あなたの精密爆撃用の装置を使って、一般市民の住宅を破壊しようとしている。政府は――ワシントンにいるあなたの上官は―あなたの理念に真っ向から反する戦略を推し進めている。そのうえ、ニューメキシコの砂漠では極秘計画が進行中だ。世界の最も優秀な人々が数十億ドルの予算を与えられ、国際政治を永遠に変えてしまうほど破壊的で壊滅的な影響をもたらす兵器を開発しているのだ。焼夷弾が精密爆撃の教義への裏切りだとしたら、原子爆弾はどうなるのか? なんたることだ。それは科学技術への背信行為だ。
 だが最初の怒りが収まったとき、別の考えがよぎるかもしれない。思いがけない考えが。誘惑が。
 なぜならナパーム弾は、ヘイウッド・ハンセルと精密爆撃機がこの大戦で抱えていた問題を一挙に解決するからだ。 精密爆撃は難航していた。ハンセルは、航空戦のどんな戦闘指揮官も経験したことのない困難な状況に苦しんでいた。ハンセルの爆撃機は東京上空の烈風と雲のせいで、思うように目標を爆撃できずにいた。もしかすると、そもそも何かを狙う必要などないのかもしれない。日本の都市は火薬箱も同然だ。へイウッド・ハンセルはただナパーム弾に乗り換えるだけでよかった。日本人の戦意をくじくための士気爆撃を行うだけでよかった。ただし、イギリスが対独戦で用いたものより殺傷力がはるかに高い兵器を使う。 六分以内に制御不能になる等級Aの火災を、日本家屋に六八%の成功率で引き起こす爆弾だ。
 聖書の中でイエスは四〇日四〇夜の間、荒野で悪魔の誘惑を受け続けた。 ヘイウッド・ハンセルが初めて日本に空爆を仕掛けたのは、一九四四年一一月二四日。第二爆撃集団司令官としての彼の最後の日は、一九四五年一月一九日。マリアナ諸島という荒野での五五日間、ハンセルは敵国日本を打ち負かす機会と引き換えに、それまで貫いてきた理念と信念をかなぐり捨てたい誘惑に駆られた。
 この五五日間に、ハンセルへの圧力は激しさを増していった。陸軍はマリアナ基地に数千発のナパーム弾を輸送した。軍上層部は、日本への本格的な焼夷弾攻撃を試すよう――ひとまず試すよう――ハンセルに迫った。
 ハンセルは主要作戦を行うたび、ほぼ必ずB29を失った。マリアナに帰還できる見込みが薄いと見た損傷機が、帰還中に太平洋に飛び込み、そのまま消息を絶つこともあった。士気は地に落ちた。ほんの一年前には精密爆撃の見通しをあきれるほど楽観していたあの将軍が、今や悲観し、憤っていた。作戦がまたしても失敗に終わり、第一目標を完全に外したとき、ハンセルの部下の主要な将校の一人、エメット・ロージー・オドネルが飛行士を集めて激励した。士気を高めようとしてこう言った。「君たち。大変だな。 大変な作戦だ。だが君たちはよくやっているし、われわれは善戦している」。するとハンセルが立ち上がった。そして一同を罵倒した。
「ロージーには同意できん。君たちはほめられるほどの働きをしているのか。それに、作戦も順調とは言えん。この状態が続けば作戦は失敗する」。ハンセルは部下全員の面前で将校のメンツを潰した。指揮官がけっして行ってはならないことだ。部下の敬意を失わずにいたいのならば。
 歴史家のスティーヴン・マクファーランドは、ハンセルのことをこんなふうに語る。

 

 ある意味、悲劇的な人物ですよ。彼の強みは思考力にありました。この戦略を立案し、ドイツと日本の爆撃へとつながる戦争計画を設計した立役者ですよ。ほとんど哲学的といってよかった。思想家に近かった。こう言っちゃなんですが、いわゆる線が細いタイプでした。戦闘指揮官のタマではなかった。偉大なリーダーではありませんでした。崇高な理想に立って話をしました。 けっして悪態をつかなかった。そして悪態をつかない戦闘指揮官は、操縦士にはウケないんです。彼らが求めていたのは話のわかる、現場を理解してくれる指揮官でした。
(p164)

 

この辺りから、経済活動を麻痺させるための精密爆撃から、戦意をくじくための士気爆撃へと方向転換が図られます。今のウクライナ侵攻が頭をよぎって暗い気持ちになります。

また、ヘイウッド・ハンセルとカーティス・ルメイの性格の違いが浮き彫りになることで、それが部下の動機づけや戦略そのものを方向づけることにつながるのが(良し悪しは置いておいて)、ドラマチックだなと思いました。

 

 ルメイが本当の感情をさらけ出すことができた唯一の瞬間は、機械装置に愛情を注いでいた子ども時代の思い出を語ったときだった。 ヘイウッド・ハンセルをはじめとするボマーマフィアのような人々の道徳観は理解しやすい。彼らは普遍的な道徳律をもっていた。良心にかなう方法で戦争を行えないだろうかと考えた。だがルメイのような人となると、そうやすやすとは理解できない。
 ルメイの娘のジェイン・ルメイ・ロッジが、一九九八年のインタビューでこう語っている。


 父のことを、第三次世界大戦を始めようとしていただとか、戦争屋だとか、タカ派だとか決めつける、とてもひどい記事がいくつかありました。……でも戦時中の、あの低高度爆撃を行ったときのインタビューによれば――そもそも父はあの実戦に参加することを許可されなかったんですよ――父はあの滑走路に立って飛行機を数え、何機飛び立ったかを確認していたといいます。
 飛行機を数えていたんです。 そして最後の一機が戻るまで、そこに立ち続けていました。何の思いやりもなく、残忍で、他人を踏みつけてでもわが道を通そうとする人が、そんなことをするはずがないじゃありませんか。

 

 ならば、ルメイは日本に加えようとしていた空爆を、どのように正当化するつもりだったのだろう?もしかすると、戦争の早期終結を図ることが、軍事指導者としての責任だと考えたのかもしれない。あるいは、戦争の苦しみを減らすには、手段を選ばずできるだけ早く終結させるべきだと考えたのかもしれない。部下の命を守り、そして敵に苦痛を与えるには、できるだけ徹底的で、決定的で、壊滅的な方法で戦うしかないと考えたのかもしれない。徹底的で、決定的で、壊滅的な方法によって、二年の戦争を一年に短縮できるのなら、それが何より望ましい結果と言えないだろうか、と。
 聖書の中で悪魔は、目に見えるすべてのものを支配する力を与えよう、敵対していたローマを倒す機会を与えようと言って、イエスを誘惑する。そしてそのためには、ある神学者の表現を借りると、「善をもたらすために悪を行う誘惑を、目的の崇高さによって手段のいかがわしさを正当化する誘惑」を受け入れさえすればよいのだと。 ヘイウッド・ハンセルはこの問いに、イエスと同じ答えを出した。善をもたらすために悪を行うようなことがあってはならない。しかしルメイは、悪魔に従うかどうかをじっくり考えたかもしれない。戦争をより早く、より有利に終わらせるためならばと、いかがわしい手段を受け入れたのかもしれない。
 彼自身、のちに語っている。「戦争とは卑劣で非道なものだから、どうしたって大勢を殺すことになる。それを避けて通ることはできない。 心ある指揮官は、犠牲を最小限にとどめようとするだろう。私にとってそれをする最善の方法は、戦争をできるだけ早く終わらせることだった」
 それが、ルメイが新しい作戦を説明した際に、搭乗員に伝えたことだった。私の言っていることは無謀に思えるだろう、それは私もかかっている。だがこの戦争を終わらせるにはそれいいのだ。ほかにどんな方法があるというのか? ハイウッド・ハンセルの時代に戻りたいのか?滑走路に座って天候の好転を待っていただけの時代に? 何年経っても国に帰れないぞ。ドイツではナチスが降伏寸前だった。故郷アメリカでは国民が四年の歳月を犠牲にして戦争を支え、疲弊していた。もう一刻も無駄にはできない、とカーティス・ルメイは考えた。 行動を起こす必要があった。


 そこで行われたのがミーティングハウス作戦、一九四五年三月九日夜のカーティス・ルメイによる東京への初めての本格攻撃である。
 その日の午後に作戦前の定例記者会見が行われた。 ヘイウッド・ハンセルを解任したあのローリス・ノースタッド将軍が、このときもワシントンから来ていた。 ノースタッドとルメイは従軍記者に説明を行い、何を開示していいか、いけないかを指示した。 そして、爆撃機がグアム、テニアンサイパンの基地から一機、また一機と飛び立ち始めた。計三〇〇機を超えるB29の大編隊。ナパーム弾を積めるだけ積んでいた。ルメイは滑走路に立って爆撃機を数えた。
 第一陣の爆撃機隊は、翌朝未明まで東京に到着しない。だからその日は待つほかすることがなくなった。夜になるとルメイは作戦室に入り、ベンチに座って葉巻をくゆらせた。
 基地所属の広報担当将校セント・クレア・マッケルウェイが、一人でそこにいるルメイを見つけた。午前二時のことだ。ルメイは全員を兵舎に帰していた。「いてもたってもいられなくてね」とルメイはマッケルウェイに言った。「失敗する要素は山ほどある。眠れないのだ……いつもは眠れるが、今夜は無理だ」

(p180)

 

「ルメイは日本に加えようとしていた空爆を、どのように正当化するつもりだったのだろう?もしかすると、戦争の早期終結を図ることが、軍事指導者としての責任だと考えたのかもしれない。あるいは、戦争の苦しみを減らすには、手段を選ばずできるだけ早く終結させるべきだと考えたのかもしれない。部下の命を守り、そして敵に苦痛を与えるには、できるだけ徹底的で、決定的で、壊滅的な方法で戦うしかないと考えたのかもしれない。徹底的で、決定的で、壊滅的な方法によって、二年の戦争を一年に短縮できるのなら、それが何より望ましい結果と言えないだろうか、と。」

部下を守るため、また戦争を早く終わらせるため、と考えれば、焼夷弾を用いた空襲もやむなしとなるのでしょうか。日本人からするとなかなか受け入れがたい結論ではありますが、逆の立場から考えれば、至極当然だと思います。

ルメイのお嬢さんのお話も、父親が航空軍の司令官だからこその風当たりがうかがえて、考えさせるものがあります。

 

 爆弾がB29から束で投下された。長さ五〇センチ重さ二・七キロほどの小さな鉄の筒にナパームが詰められたものだ。これらの小さな子爆弾の尾の部分に、ストリーマーと呼ばれる長いガーゼのリボンがついていた。その夜東京で空を見上げたなら、とてつもなく美しい瞬間があったはずだ。数千の鮮やかな緑色の短剣が地面に降り注いでいた。
 そしてドーン! 激突とともに、小さな爆発が何千回も起こった。強烈なガソリン臭が立ちこめる。ナパームの炎の塊が四方八方に飛び散る。するとまた次の編隊が襲う。そしてまた次も。総攻撃は三時間近くも続いた。一六六五トンに上るナパーム弾が投下された。ルメイの部下の作戦計画担当者は、これほど大量の焼夷弾が集中投下されれば、火災旋風が起こるはずだと事前に分析していた。すさまじい炎が独自の気流を生み出し、炎を伴う旋風が吹き荒れるだろう、と。その通りになった。四一平方キロにわたりすべてが焼き尽くされた。
 建物は延焼を待つことなく燃え上がった。 赤ちゃんをおんぶ紐で背負って逃げた母親は、疲れて立ち止まったとき、背中の赤ちゃんが燃えているのを知った。 隅田川の運河に飛び込んだ人々は、満ちてきた潮に溺れ、上から飛び込んできた数百人に押しつぶされた。 鉄橋にしがみついた人々は、鉄が熱せられて触れていられなくなると手を放し、転落死した。
 その夜東京の高度上空を旋回していたのは、ルメイに代わって攻撃の指揮をとった爆撃の名手、トミー・パワーである。 歴史家のコンラッド・クレインによると、パワーはコックピットに座って、目に映るすべてを絵に描いていた。
 

 パワーはこう言っています。「焼夷弾の煙が一面に立ちこめていて、その中を歩くのもままならなかっただろう」と。午前二時三七分時点で目に見える最大の延焼エリアは、 縦四〇区画、横一五区画ほどでした。 煙は上空七六〇〇メートルにまで達しました。……
 パワーが最初のスケッチの約一時間後に……最後のスケッチを描いたとき、五〇区画から一〇〇〇区画ほどの広さの二〇ほどのエリアが燃えていたといいます。彼の最後の報告には、二四〇キロ離れた地点からも火災の真っ赤な輝きが見えたとありました。


 戦後、アメリ戦略爆撃調査団報告書は次のように結論づけた。「東京の火災では、おそらく人類史上のどの六時間でよりも多くの人命が失われた」。この夜、一〇万人を超える人が亡くなった。作戦を遂行した乗員は、帰還したときひどく動揺していた。
 飛行士のデイヴィッド・ブレイデンはのちに語っている。 「正直言って、町が燃えているのを見たとき、地獄の入り口をのぞき込んでいるような気がしました。あんなにも大きな火を想像することさえできませんでした」
 コンラッド・クレインも言う。「彼らは約一五〇〇メートルの超低高度を飛んでいるわけです。 ……肉の焼けるにおいが機内に充満するほどの低空です。 マリアナ基地に帰還してから、飛行機を燻蒸(くんじょう)しなくてはなりませんでした。肉の焼けるにおいが染みついていました」

 翌日の夜、グアムのルメイは真夜中近くに起こされた。 空爆中に撮影された写真が出来上がっていた。知らせが広まると、全員が飛び起きて駆けつけた。 ジープを駆ってきた隊員たちで部屋は一杯になった。ルメイはパジャマ姿のまま、明るい光の下で大きなテーブルの上に写真を広げた。あまりの衝撃に部屋は静まりかえった。セント・クレア・マッケルウェイもみなに交じって、壊滅した広大な地域を指さしながら説明するルメイを見ていた。「このすべてがなくなった」とルメイは言った。「これもなくなった――これも、これも、これも」
 ローリス・ノースタッド将軍がルメイの隣に立って言った。 「すべてが灰になった。 あれも、それも、何もかもが※」


※ 計り知れないほど多くの命が失われたにもかかわらず、日本には今も三月一〇日の空襲を追悼する政府公認の記念施設が一つもない。あの夜を生き延びた人々は「記憶の活動家」を名乗り、政治家や世間の無関心と闘いながら、東京大空襲の体験を語り継いできた。彼らは私費を出し合って記念館を建てた。それが、東京大空襲・戦災資料センターである。映画監督のエイドリアン・フランシスは、ドキュメンタリー映画「ペーパーシティ」のなかで一九四五年の爆撃の生存者から話を聞き、彼らの物語を、また記憶を風化させまいとする彼らの闘いを後世に残そうとしている。
(p186)

 

この本を読んですぐに、東京大空襲・戦災資料センターへ行ってみました。

著者のグラッドウェルさんが拍子抜けしたのもうなずけるほど、小さな資料館ですが、東京大空襲を目撃した方の、たくさんの声が詰まっています。

1945年(昭和20年)3月10日の夜、東京都区部はどんな様子だったのか、時間帯ごとに人々がどう行動したのかを追体験できます。

また展示されていた当時の新聞記事では、ルメイは名指しでけちょんけちょんに誹謗中傷されていました。日本の動揺と憤り、深い悲しみが伝わってきました。

tokyo-sensai.net

 

これまで日本にいた人の体験で戦争を見聞きする機会が多かったですが、アメリカ側から見る同じ戦争は、少し違印象を受けました。

被害者、加害者は、戦争が終わってからはその立場に名前が付きますが、どちらも被害者であり、どちらも加害者であるということが、本書から伝わってきます。どちらの側に立っても決して楽しいことではないのに、その渦中で最善となる道を模索しなければならない。

立っている場所は遠いようで、案外身近にも感じられました。

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。