おはようございます、ゆまコロです。
北杜夫『幽霊ー或る幼年と青春の物語』を読みました。
この本は、北杜夫先生の23歳の時の作品で、デビュー作ということです。(すごい!)
美しさと死についての考え方が印象的でした。
「たとえば、生きるために生れてくるのではなく、むしろ死ぬためにのみ生れてくる人もいるように思われる。しかもそういう<死>に選ばれた人にかぎって、ことさらやさしく、ことさら繊細に造られているもののようだ。さながら<死>が<生>に対して自らの優位を示そうとするかのように。
ぼくの姉は、たしかにそういうひとの一人だったにちがいない。あとあとになってからも大人たちはぼくの容貌のおかしなことを言うのに、かならず彼女を引合にだしたものだ。「姉さんはあんなに可愛かったのに」と祖母は老年に特有の客観性をおびた調子でいうのだった。「お前はどうしてそんなにムササビに似てるのだろうね」祖母はなにか動物の名をもちだす癖があったが、悪口をいうたびにそれが変化した。おかげでぼくは蛙にされたり、駝鳥にされたりしたが、もとより不服を言えるものではなかった。姉の姿には、しなやかな、きわどく脆い、丹念につくられた人形を思わせるものがあったのだ。
そういう彼女を、まだ少女にもなりきらない年なのに、<死>は仮借ないすばやさで連れていった。<死>は、そのために彼女をそのしめやかな冷たい手で愛撫し、並はずれて優雅に育てあげたのだろう。だから彼女を召そうと思いこんだ<死>のやり口には、敬虔なまでに装飾された謐(しず)かさがあった。ある朝、みんなが騒ぎたてたときには、もう彼女はぐったりとなって、まったく口もきけなかったのだ。大人たちは疫痢(えきり)だと判断したが、おそらく<死>がじきじきに迎えにきて、憂鬱な、多少悲しげな目つきで、横たわっている彼女をじっと見守っていたのにちがいない。」
綺麗な文章だと思いました。
ストーリーとしては、大きな出来事があるわけではないのですが、上記のような死生観も、少年時代の頃の思い出が影響しているのだろうということが分かります。
北杜夫先生は少年の頃は昆虫採集に熱中していたとのことですが、本当に昆虫が好きなんだなあ、ということが伝わってきて、なんだかほほえましくなります。
最後まで読んで下さってありがとうございました。