ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

クリストファー・R・ブラウニング『増補 普通の人びと』

おはようございます、ゆまコロです。

 

クリストファー・R・ブラウニング『増補 普通の人びと:ホロコーストと第101警察予備大隊』を読みました。

 

 

 そのメンバーが誰であったかが部分的にしか復元できない多くのナチ殺人部隊とは異なり、第101警察予備大隊の名簿は研究者に利用可能であった。隊員のほとんどはハンブルク出身であり、その多くは調査時点でまだ同地で生存していたから、わたしは、一九四二年六月にポーランドに送られた五〇〇人弱の部隊員のうち二一〇人の尋問調書について研究することができた。この尋問調書のコレクションは、年齢、ナチ党員および親衛隊隊員資格、そして社会的背景についての統計学的調査に、模範的サンプルを提供したのである。さらに、証言のうち約一二五人分は、この殺人部隊の内的ダイナミックスの分析と詳細な歴史的再構成を充分可能とする実質をもっていた。

 

 結局のところ、ホロコーストがなぜ生じたかといえば、根底において、個々の人間が多数の他の個々人を長期にわたって殺害したからである。民衆からなる加害者は「職業的殺戮者」と化したわけである。歴史家は、そうした殺人部隊について書こうとすると、数々の困難に、とりわけ原資料の問題に直面する。ソビエト領内で作戦展開していた多くの殺人部隊と対照的に、第101警察予備大隊の場合には、同時代の記録文書はごくわずかしか存在せず、殺戮活動を明示的に扱った記録文書はまったく存在しない。一握りのユダヤ人生存者の報告が、第101警察予備大隊の作戦展開したいくつかの小さな町でのこまごました行動の規模と日付を裏づけるだけである。しかし、ゲットーや収容所で継続的な接触があった人眼につく加害者についての生存者証言と異なり、第101警察予備大隊のような移動部隊については、生存者の証言はほとんど何もわれわれに伝えてくれない。見知らぬ人びとが到着し、殺人業務を執行し、去っていったのである。実際、生存者は、いかなる部隊が参加しているのかを識別させる通常警察特有の緑色の制服さえ、ほとんど記憶していないのである。(p16)

 

 

被害者からすれば、殺されるかもしれない状況下で、そんなところを記憶していないのも不思議ではない気がします。

 

 

彼らが出発点に据えた仮説によれば、パーソナリティに深く根を下ろしたある種の特徴が、「潜在的ファシスト的個人」を、特に反民主主義的に感染しやすくしたのである。探求の結果、彼らは「権威主義的パーソナリティ」に決定的な特徴(いわゆるファシズム―尺度によってテストされた)のリストを作成した。因襲的価値への厳格な固執、権威ある人物に対する服従、外部集団に対する攻撃傾向、内省や反省や独創性への抵抗、名声やステレオタイプ化への傾倒、力と「逞しさ」への心酔、破壊衝動とシニシズム心理的投射(「世界では野性的で、危険なことが進行していると信じる傾向」、そして「無意識の情緒的衝動を外部へ投射すること」)、さらに、性に対する誇大な関心。アドルノらの結論によれば、反民主主義的な個人は「心の底に強力な攻撃衝動を抱いて」おり、ファシスト運動は、公認の暴力によって、この破壊衝動をイデオロギー的に標的とされた外部集団に投射することを彼に許すのである。ジグムント・バウマンは、こうしたアプローチを次のように要約した。「ナチズムが冷酷だったのは、ナチ党員が冷酷だったからである。そして、ナチ党員が冷酷だったのは、冷酷な人びとがナチ党員になったからである。」バウマンは、社会的な諸々の影響を無視するアドルノやその同僚の方法論に対して、また、普通の人びとはファシストの権威にコミットしなかったのだと暗に思わせるやり方に対しても、きわめて批判的である。(p268)

 

 

こんなナチズムが、国家の公式イデオロギーだった時代を想像するのは、なかなか難しいなと思って読んだ部分です。

上記と似たような表現は、他の場所にも出てきます。

 

 

一九三三年が始まると、(中略)ドイツ人の間に反ユダヤ主義をはるかに計画的な方法で、ますます強化したのであった。とりわけ、ヒトラーとその体制が経済的、外交的な成功によって人気を博したことも考慮すると、こうした要因が重大な影響をもたらしたことをだれが疑うだろう?ウィリアム・シェリダン・アレンが簡潔に結論づけたように、ノルトハイムのようにナチ支持者が盤石だった町においても、多くの人びとは「ナチズムに引き寄せられた結果反ユダヤ主義になったのであって、その反対ではない。」(p316)

 

 

親衛隊や警察官のイデオロギー強化に使ったという教育資料や、論説も、今読むと複雑な心境になります。

 

 

 ドイツ民族は自然の掟によって定められた絶えざる生存競争に直面している。自然の法則によれば、「虚弱な劣等者はすべて破壊されねばならず」、「力のある強者だけが繁殖しつづけるのである。」この生存競争に勝利するために、民族は二つのことをなし遂げなければならない。すなわち、さらなる人口増大に対応できる生存圏を確保することと、ドイツ人の血の純粋性を保存することである。己れの民族の人口を増大させなかったり、人種的純粋性を維持しなかった人びとの運命がどうなったかは、スパルタとローマの例がよく示すところである。

 

 領土的拡大と人種的純粋性を要求する健康な自覚に対して、主要な脅威は、人間の本質的平等を宣伝する教義からやってくる。最初のそうした教義は、ユダヤパウロによって広められたキリスト教であった。第二の教義は自由主義であり、これはユダヤ人秘密結社フリーメーソンに煽動されたフランス革命― 「人種的劣等者の暴動」 ―以来出現したものである。第三の、しかも最強の脅威は、ユダヤマルクスによって構想されたマルクス主義/ボルシェヴィズムである。

 

 「ユダヤ人は人種的混合であり、他のすべての人びとや人種と対照的に、その本質的な特徴を、何よりもその寄生虫的本能によって保存しているのである。」論理や首尾一貫性などおかまいなしに、パンフレットは、ユダヤ人が彼の宿った主人を混血によって破壊しながら、ユダヤ人種の純粋性を保持してきたのだと主張している。人種の自覚を持つ人びととユダヤ人との共存は不可能である。「最後のユダヤ人が地上の我々の領地から出てゆく」とき、勝利が得られる闘争だけが存在しているのだ。(p290)

 

 

「虚弱な劣等者はすべて破壊され」る世の中…。

ところでタイトルになっている「普通の人びと」とは、ナチス台頭以前に教育を受け、とりたてて狂信的な反ユダヤ主義者でもなかった人びとで構成された第101警察予備大隊のことを指しています。メンバーは薬剤師や職人、木材商などの一般市民が中心でした。彼らは他の大隊と比較しても、群を抜いて多くのユダヤ人の殺害と強制移送を実行しています。

 

 

 大隊内で最大のグループは何であれ要求されたことを実行した人びとである。彼らは権威筋と対立する重荷を負いたくなかったし、臆病と見られたくもなかった。しかし彼らは殺戮に自発的に志願したわけでもなければ、殺戮を祝ったわけでもなかった。感情が麻痺し狂暴化してくるにつれて、彼らは人間性を奪われた犠牲者を憐れむよりも、彼らに負わされた「不快な」任務ゆえに自分自身を憐れむようになったのである。彼らはたいてい、自分が悪いことないし非道なことをしているとは考えていなかった。なぜなら殺戮は正当な権威によって認可されていたからである。たいてい彼らは考えようとさえしなかった。それがすべてである。警官の一人はこう述べた。「正直に言えば、当時我々はそのことについて何の反省もしていませんでした。何年もたってから、我々のうちの幾人かは当時何が起こったのかを本当に自覚したのです。」(p347)

 

 

これまで強制収容所で亡くなったユダヤ人の方々について書かれた本はいくつか読んだことがありましたが、一連の犠牲者数の2割以上が銃殺によるものであるということを、今回初めて知りました。

 

「普通の人びと」という、どこか牧歌的な表題に反して、効率的に多くの人を銃殺する方法や、作戦を行った村で撮影された写真など、内容は終始過酷なものが多くなっています。

それでもどうしてこの本を読みたかったのか、その答えは作者があとがきに書いていてくれました。

 

 

わたしはわれわれが住んでいるこの世界に不安を抱いている。現代世界では、戦争と人種差別主義がどこにでも跋扈しており、人びとを動員し、自らを正当化する政府の権力はますます強力かつ増大している。また専門家と官僚制化によって、個人の責任感はますます希薄化しており、仲間集団は人びとの行動に途方もない圧力を及ぼし、かつ道徳規範さえ設定しているのである。このような世界では、大量殺戮を犯そうとする現代の政府は、わずかの努力で「普通の人びと」をその「自発的」執行者に仕向けることができるであろう。わたしはそれを危惧している。

 

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。

 

増補 普通の人びと: ホロコーストと第101警察予備大隊 (ちくま学芸文庫 (フ-42-1))

増補 普通の人びと: ホロコーストと第101警察予備大隊 (ちくま学芸文庫 (フ-42-1))