ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

美しい思い出を見つめる幸せ。『迷える夫人』を読んで

おはようございます、ゆまコロです。

ウィラ・キャザーさん、桝田隆宏さん(訳)の『迷える夫人』を読みました。

 

ドアのような緑の鎧戸は下ろされたままであった。 窓の敷居の上に花束を置こうと身をかがめた瞬間、室内から低い女の笑い声が聞こえてきた――じれったそうな、甘やかすような、じらすような、熱望しているような笑い声が。
 それから、それとは全く異なる別の笑い声、男の笑い声が聞こえてきた。それは間抜けた、気だるそうな笑い声で――最後は欠伸のようなものとなって消えた。
    気がついてみると、ニールは丘の麓にある木橋のたもとに来ていた。顔はほてり、こめかみはズキズキと脈打ち、目は怒りに眩んでいた。手には、まだ、棘の多い野バラの花束を持っていた。それを針金の棚越しに、小川の土手の下にある、家畜が踏みつけてできた泥の窪みに投げ込んだ。あの家からここまで車道を通って来たのか、それとも潅木の茂みを通り抜けて来たのか、ニールには分からなかった。
〈窓の敷居に身をかがめてから身を起こすまでの、あの一瞬の間に、人生で最も美しいものの一つをなくしてしまった。露の乾かぬうちに、朝は台無しにされてしまった。そして、これから先の全ての朝も〉、とニールは苦々しく自分に言い聞かせた。その日をもって、彼の人生の中で咲き誇っていた、一つの美しい花とも言うべき、夫人に対する賛美と忠誠は終わりを告げた。二度と取り戻すことはないであろう。
 それは消えてなくなったのだ、あの花々の朝の新鮮さのように。
「膿みただれたユリ」とニールは呟いた。「膿みただれたユリは、雑草よりも厭わしい臭いがする」「シェークスピアソネット」。

    優雅さ、多面性、魅力的な声、あの黒い目の中の戯れと気まぐれ、全ては無であった。 夫人が踏みにじったものは、倫理的な良心の咎めではなく、美の理想であった。美しい女たちよ、汝らの美しさは感覚に訴える以上のものを意味するというのにーー汝らの燦然(さんぜん)たる輝きは、いつも、野卑で、人目には触れないものによって培われていたのか? それが汝らの秘密であったのか?

(p78)

 

久しぶりに会う憧れの女性へ花を持っていったのに、男性の気配を感じて渡さずに帰るニール。相手は既婚女性だというのに、少年の頃から崇拝していて、自ら勝手に幻滅している姿が想像すると可愛らしいです。

 

ここで引用されているシェイクスピアソネットは、こんな詩です。

 

他人を傷つける力はあるが傷つけようとしない人たち、

つまり、外見(そとみ)は一癖ありげだが何も危害をくわえぬ人たち、

人の心を動かしはするが、みずからは石のように

どっしりと動かず、冷たく、誘惑に負けぬ人たち、

こういう人たちは、まことに、天の恩寵にめぐまれて、

自然の富を浪費せずにつつましく用いる者である。

彼らはおのれの顔の主人であり、持主であるが、

ほかの者たちはその優れた資質の管理人にすぎない。

夏の花は、たとえ、種を結ばずにひっそりと

枯れていくにしろ、夏にあまい香りをまきちらす。

だが、もし、この花がいやしい疫病にかかれば、

どんないやしい雑草よりも見すぼらしい姿をさらす、

 いかに美しいものでも行為しだいで忌わしくなる。

 腐った百合は雑草よりもずっとひどい臭いを放つ。

 (ソネット 94)高松雄一

 

この詩の前半で述べられた人たちをシェイクスピアが称賛しているのか(一応、優れた資質、とあるけど)、皮肉っているのかは意見がわかれるそうなのですが、外見の美しさだけでなく、その人の行為自体を問う厳しい眼差しがシェイクスピアっぽくて好きです。

ウィラ・キャザーさんが、この詩に対してどんな印象を抱いていたのか気になるところです。

 

    翌日の午後、ニールはフォレスター邸を訪ねた。大尉は、自分のバラ園と呼んでいる潅木の生い茂った一角で、どんな天候の時でも屋外に出しておける、頑丈なヒッコリー材の椅子に座っていた。そばには二本の杖が置いてあった。彼はコロラド砂岩の赤い石塊に注意を傾けていた。その石塊は、周囲にバラを植えた砂利地の真ん中にある、大きな御影石の上に据えられていた。大尉は、それが日時計であることをニールに示して、たいそう誇らしげに説明を加えた。大尉の言うには、昨年の夏、ここに座って、柱の上に乗せた四角い板を相手に長い時間を過ごし、手元の時計を見ながら、板に影の長さを印したのだが、あるとき、時々訪ねてくれる友人のサイラス・ダルゼルがその板を持ち帰り、大尉の書いた図表を砂岩の上に正確に写させて、土台に据える大きな円柱型の石と一緒に送ってくれた、とのことであった。
「あのような自然石を見つけるまで、長い間、毎朝毎朝、山々を探して回るなんて、いかにもダルゼル氏らしいことだ」と、大尉は言った。「まるで聖書時代からあったような石柱だ。 神々の園〔コロラド・スプリングス市付近の奇岩の多い砂岩地帯〕で見つかったものだ。ダルゼル氏は、あそこに夏の別荘を持っている。」
    大尉はがに股の姿勢で、長靴の底を合わせたまま座っていた。全ての点で鈍重になり、虚弱になったように見えた。顔はますます太って、のっぺりとしてきた。人形の顔が熱で溶けるように、顔の造作の一つ一つが互いに溶け合っているようだった。日焼けして黄色くなった、古いパナマ帽が目の上にかぶさっていた。浅黒い手は膝の上に置かれていたが、指の開きは大きく、締まりもなかった。口ひげは、以前と同様、麦わら色のままだったので、ニールは「少しも白髪になりませんね」と言った。大尉は手のひらで頬をさわってみた。「しばらくの間、フォレスター夫人がひげを剃ってくれた。実に上手だったが、ひげ剃りなど家内にやらせるのは嫌だった。今は、例の安全剃刀とかいうものを使っている。時間をかければ、どうにか自分でできるんだ。床屋は一週間に一度まわってくる。 フォレスター夫人が会いたがっているよ、ニール。林の中に居る。家内は、あそこに下りていって、ハンモックで休むんだ。」
    ニールは家を回って、林に通じる木戸口へと足を運んだ。丘の頂から、二本のポプラの木の間に吊されているハンモックが見えた。向こう端にある低い林間の空き地で、むかし彼が木から落ちて腕を折った場所だ。ほっそりとした白い姿に動きはなかった。急いで草地を横切っていくと、夫人の顔に白い園芸用の帽子がかぶさっているのが分かった。
(p100)

 

夫人の夫・フォレスターさんは落馬事故が原因で、鉄道建設業者としての人生が狂い始めます。ただ、没落という感じではなく、ちょっとしょんぼりしちゃったけど、穏やかな性格のままなのが好印象です。

 

ここに出てくる神々の園(Garden of the Gods)という公園へ、ホームスティ中に連れて行ってもらったのですが、巨大な岩が逆さまになっていたり、今にも崩れそうなバランスで立っている巨石があったり、自然が作ったとは思えないほど不思議な岩がたくさんありました。

jp.trip.com

 

地層や地質学に詳しくなくても、わくわくします。

そしてロッキー山脈の風景と相まって、壮大過ぎてかえって現実味がないような気分になってきます。絵画のような風景なんだけど、絵にすると嘘っぽく見えちゃうのでは、という気持ちです。青空も夕暮れも、スケール外というかインパクトがありすぎます。山も、草木がなく動物の気配も感じられない山が多くて、日本の山とは全然違った印象を受けます。

 

かなり見応え満載なのに入園無料なので、お近くに行った際にはおすすめです。

 

    その手はずは静かに、そして直ちに、つけられた。トムは台所に配置し、ニール自身は大尉の看護を担当した。彼は断固とした態度で町の女たちに臨んだ。つまり、〈御親切には感謝するが、今は何も必要ない。 家を絶対に静かにして、病人は面会謝絶にするようにと主治医から言われている〉、と申し渡したのだ。
    いったん家が静かになると、 フォレスター夫人は寝室に入って、あらかた一週間眠り続けた。大尉自身の病状も好転した。体調のよい日は車椅子に乗せて、お気に入りの庭園に連れ出すことができた。そこで大尉は、九月の陽光と終わりの季節を迎えつつあるヨーロッパ野イバラの花を楽しんだ。
    車椅子に乗せる時に、大尉は「ありがとう、ニール。ありがとう、トム」と、よく言った。「この静けさは本当にありがたい。」
    今日は外へ出さない方がよかろうと二人が判断したような日がくると、大尉は悲しげで失望した表情を見せた。
「何が起ころうと、外へ出してあげた方がいいわ」と、フォレスター夫人は言った。「あの人は自分の屋敷を見るのが好きなのですから。それと葉巻が、今のあの人に残された唯一の楽しみなのよ。」
    ゆっくり休養して元の自制心を取り戻すと、夫人は台所に出て働くようになった。それで、トムは判事のもとへ戻った。

    夜がふけて、 フォレスター夫人が寝室に退き、大尉も静かに休んでいる中で、独りぼっちになると、ニールは自分のしている寝ずの看護に、ある種の厳粛な幸せを覚えた。大学を一年休むことは辛いことであった。級友のほとんどは彼よりも年下であった。払った犠牲も少なくはなかった。でも、もう足を踏み出した今となっては、嬉しい気持ちであった。こちらの椅子から、あちらの椅子へと座り換えたり、本を読んだり、タバコを吸ったり、寝ずにいるために軽食を取ったりしながら、夜を過ごしていると、信念を貫く人間の満足感を覚えた。子供の時にとても美しいと思った古い物に囲まれて、独りきりでいることは楽しかった。この家の椅子は今でも世界で一番座り心地のよい椅子であり、ここにある「ウィリアム・テルの礼拝堂」や「悲劇詩人の家」ほど好きな絵は他になかった。トランプの独り遊びをするには、この家の古いトランプ・テーブルが最高であった。それはチェス盤を型どった、モザイク模様のある石板を最上部に張りつけたもので、大尉の友人の一人がナポリから持って来てくれたものだ。 ニールの人生に於いて、この家に取って代わることのできるような家など一軒もなかった。
    ニールは自分自身のこととか、この町に住んでいる旧友のことなど、いろんなことについて考える時間を持った。すでにニールの気づいていたことではあるが、フォレスター夫人が仕事をしている時に、「メイディ、メイディ」と大尉が妻の名を呼ぶことがよくあった。すると夫人は、どこに居ても、今いる場所から「はい、フォレスターさま」と返事をするだけで、大尉の所には行かなかった――まるで大尉がその口調で自分を呼ぶ時には別に何の用事もないのだ、ということを知っているかのようであった。

(p134)

 

大学在籍中に休学してフォレスター邸で看護をすることになったニール。美しい家具や絵に囲まれて、居心地良さげに一人の時間を楽しむこのシーンが好きです。

著者も、こんなふうにお気に入りの物に囲まれて日々の生活を愛おしんでいたのかな、と思わせます。

 

 ピーターズが台所のドアから入ってきて、夫人の背後に歩み寄り、平然と両腕を夫人の体にまわし、乳房の上で手を組んだ。夫人は身動きもしなければ、顔も上げずに、練り粉を伸ばし続けていた。
    ニールは丘を下った。「もうこれで終わりだ」。彼は夕暮れの明かりの中で、橋を渡る時に言った。「これで終わりだ」。そして、事実その通りであった。ニールは二度と再び、あのポプラ並木の道を登ることはなかった。彼は人生の一年を夫人に捧げたのに、夫人はそれを無駄にしてくれたのだ。 ニールは、自分が手を貸して大尉を安らかに死なせてあげた、と信じていた。でも今となってみると、実在性を持っているように思われるのは大尉であった。これまでずっと、あの家を他の家とあんなに異なるものにしているのはフォレスター夫人である、と考えてきた。しかし、大尉が亡くなってからは、あそこは叔父のような旧友たちが裏切られ、見捨てられて、下品な連中が我が物顔で振る舞い、現実の夫人の姿を目にして、彼女も自分たちと同類の、ただの女だ、と見て取るような家に成り下がってしまった。
    ニールは自らに言い聞かせた。〈自分にスパニエル犬のような追従根性などなかったなら、最初の裏切り事件の後で、夫人とはすっぱりと縁を切っていたことであろう。自分の目を覚ますには、苦い薬が二服も必要だったのだ。 でも、やれやれ、それはもう飲んでしまった! これからは、夫人が何をしようと、自分には全くどうでもよいことになるだろう。〉
    叔父が存命中は、時々、夫人の消息を伝えてくれた。「フォレスター夫人の名前が出るところには、いつもアイビー・ピーターズの名がある」と、手紙の中で判事は書いてきた。「夫人は幸せそうには見えない。それに、どうも健康が衰えかけているようだ。でも夫人は、大尉の友人たちが手を貸すことのできないような立場に身を置いている始末だ。」

    それからまた、「フォレスター夫人については、便りのないのは良い便りだ。夫人はひどく打ちひしがれている」とも書いていた。
    叔父の死後、ニールは「アイビー・ピーターズがついにフォレスター邸を買い取り、ワイオミングから妻を迎えて、そこに住んでいる。夫人は西部に去った――人の噂ではカリフォルニアらしい」と伝え聞いた。
    ニールが無念の思いから解放されて、夫人のことを回想できるようになるまでには、幾年もの歳月がかかった。しかし結局のところ、夫人が彼の目の届かない所へさすらっていった後のことで、ダニエル・フォレスターの未亡人が生きているのか、死んでいるのか分からなくなった頃、ダニエル・フォレスタの妻は明るい、私情をはさまぬ思い出として、ニールの心によみがえってきた。
    ニールは、夫人と知り合いになったことを、そして彼女が人生に対する開眼に手を貸してくれたことを、大変嬉しく思うようになった。あれ以来、ニールは数々の美しい女性や才気のある女性と知り合ってきた―でも、一番華やかな時代のフォレスター夫人のような女性には、ただの一度も出会わなかった。夫人の目は、一瞬こちらの目を覗き込むようにして笑いかけてくる時には、人生で初めて体験するような激しい喜びを約束してくれるように思われた。「それがどこにあるか、わたし知っているのよ。なんなら教えてあげるわ!」と、夫人の目は言っているようであった。ニールは、エンドル〔ナザレから六マイルほど東南にあるイスラエルの村〕の魔女がサムエルの霊を呼び出したように(『旧約聖書』、「サムエル記上」 26−7参照)、若き日のフォレスター夫人の霊を呼び出して、その霊に挑み、あの熱情の秘密を問いただしてみたいと思った。つまり、あなたは、本当に、絶えず咲き誇り、絶えず燃え続け、あらゆるものを差し貫く喜びといったものを見つけていたのですか? それとも、あれは全て見事な演技だったのですか?と、尋ねてみたかったのだ。たぶん、そんなものは他の人々と同様、夫人も見つけてなどいなかったであろう。しかし、一輪の花の香りが春の芳しさの全てを呼び起こすように、夫人には、自分自身よりも、もっと、もっと美しいものを暗示する力があった。


 長い間行方の知れなかった夫人の消息をニールは、もう一度聞く運命にあった。ある夕方のこと、シカゴの、とあるホテルの食堂に入ろうとしていると、肩幅が広くて、正直そうな、日焼けした顔の男が近づいてきて、昔スイート・ウォーターで育った若者の一人だと自己紹介した。
「僕はエド・エリオットです。あなたはニール・ハーバートに違いないと思いまして。同席してもよろしいですか? あなたの古い友達の一人から、「もしあなたに出会うようなことがあれば、お伝えして欲しい」と頼まれている伝言があるのです。 フォレスター夫人を覚えているでしょう? 実は、あの人と再会したのです。

 (p164)

 

フォレスター夫人があまりにも魅力的で、誰からも愛される人だったから、その人がいる場所も素敵なものに見えていたけれど、本当は彼女は夫がいたから輝いて見えたのだ、とフォレスターさんがいなくなってニールが思い至るこの場面も良いです。人と人の結び付きや、人と場所との関係が、片方の喪失によってまったく違う姿になってしまう経験は、これからもいろいろな局面で待っているのだろうな、と噛み締めながら読みました。

 

楽天にもアマゾンにもなくて途方に暮れましたが、図書館で取り寄せてもらいようやく読むことができました。

 

『マイ・アントニーア』も『迷える夫人』も、近くに存在するすごく魅力的な女性に強烈に惹かれているのに、主人公の少年の人生にどうしても交錯しない、という図式が、歯がゆいのだけど振る舞いがいちいちいじらしくてキュンとしてしまいます。

 

私がホームスティへ行ったのはもう何年も前のことですが、堂々たる自然に囲まれて、感じたことのないような開放感と多幸感に浸ったアメリカでの日々を思い出しました。

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。