ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

思い込みに気づかせる本。『見えない性的指向 アセクシュアルのすべて』を読んで

おはようございます、ゆまコロです。

ジュリー・ソンドラ・デッカー さん、上田 勢子さん(訳) の『見えない性的指向 アセクシュアルのすべて〜誰にも性的魅力を感じない私たちについて』を読みました。

 

『来世ではちゃんとします』に、アセクシュアルの女の子が出てくるのですが、どのようなことをさすのか気になっていました。

 

 アセクシュアリティ性的指向です


アセクシュアルだというのは、どういう意味でしょうか?


 誰かが「私はアセクシュアルです」 と言った場合、 それは通常、他者に性的に惹かれないと言っているのです。


アセクシュアル:性的指向の一つで、誰にも性的に惹かれないことが特徴。100人に1人がアセクシュアルである。

 また、セックス自体が本質的に追求する価値のないものだと思っていたり、セックスに興味がなかったり、セックスを楽しむことはないし楽しみたいとも思わない、セックスを人との関係の一部にしたくない、というようなことを意味している場合もあります。その人がどのような定義を選ぶとしても、アセクシュアリティ性的指向として尊重されるべきものです。 アセクシュアルの人の中には「アセクシュアリティとは性的指向がないこと」と定義することを好む人もいて、それはそれで有効な解釈ではありますが、 多くの人は、ただ単に、誰にも惹かれないというのが自分の性的指向だという言い方を好むようです。

 

100人に一人。私は『来世ちゃん』で初めてそのような指向の方がいらっしゃることを知ったのですが意外と多いなという印象でした。

アセクシュアルの人が遭遇する困りごとには、例えば以下のようなものがあります。

 

 宗教的な圧力と差別


 ヘテロノーマティブでない行動を罪深いとする宗教の信条によって、多くの LGBTQ の人たちがひどい扱いや攻撃を受けてきましたが、アセクシュアルも同じです。アセクシュアルは禁欲をしていて「純粋」だと見なされるから、宗教に関わる個人や宗教団体からはむしろサポートされるのではないか、と考える人が多いかもしれません。しかし、同時に「産めよ殖えよ」という旧約聖書の言葉から、異性と付き合ったり配偶者を持ったりしないことによってハラスメントを受けることもあるのです。 繁殖を促す衝動を感じないことは、神に背く不自然な行為であり、宗教上の義務に反していると見なされることもあります。 生殖できないこと自体が罪と見なされることはまずありませんが、 生殖への努力 (結婚を通してのみ) を怠るのは、聖職者でない限り、宗教的には受け入れられません。 結婚生活に性が期待されることによって、 既婚のアセクシュアルの人々は、 無理に性行為をしなくてはならないと感じることがありますが、これは、虐待ですらあります。


 「矯正」という名のレイプ


 アセクシュアルの人は、「矯正」という名のレイプを受けるリスクが高いのです。 アセクシュアルの人を「変える」ことは、攻撃的で自信過剰の人の格好のチャレンジになるからです。 セックスを重視しない人間などいるはずはないという思い込みから、無理強いししてでも目覚めさせてやると、 強姦されることもあります。
(p99)

 

宗教についての圧力はこの後詳しく述べられています。

「セックスを重視しない人間などいるはずはないという思い込み」、これはある意味共通認識に近いような気がするので、アセクシュアルの人は納得してもらったり無理強いから逃れたりするのに、相当なエネルギーを必要とするだろうなということが予想できます。

もっとも、本書はアメリカで出版されたので、ちょっとそのまま日本人の感覚には当てはまらないかな、という感じもしますが。

 

 自分の性的指向を外へ向かって発信しようというアセクシュアルの人の中に、 右手の中指に黒い指輪をする人もいますが、まだあまり浸透していないので、ほかのアセクシュアルの人も気づきませんし、相手の出すシグナルを求めている人にも通じるサインとはいえません。それでも、自分の性的指向を忘れないためや、 面白いと思って、指輪をする人もいます。 アセクシュアルの可視化運動に参加している人が黒い指輪をしていることは、わりとよくあることです。
 アセクシュアル啓発週間というのもあって、だいたい 10月中旬に行われてきましたが、この本の執筆時には、まだはっきりした日取りは決められていません。 www.asexualawarenessweek.com でイベントや日取りをチェックするのがよいでしょう。 啓発週間には、アセクシュアル・フレンドリーなメッセージの書かれたTシャツを着たり、啓発の資料を作ってシェアしたり、イベントを計画したりして、参加する人も大勢います。 
(p134)

 

「右手の中指に黒い指輪」、このサインは覚えておこうと思いました。

アセクシュアルの旗も紹介されているのですが、こちらも初めて目にしました。よく見ると、この本の表紙はアセクシュアルの旗のカラーが配置されています。

 

www.harpersbazaar.com

 

人が魅力的になりたいと思うのは、性的に注目されたいからだけではありません。 アセクシュアルの人にはよく、「相手を探す気がないのなら、なぜ服や髪型に気を使ったり、お化粧をしたりするの?」という質問が投げかけられます。 これは明らかに間違った質問です。 身づくろいをするのが、 セックスや恋愛を誘う意図的なシグナルというわけではないからです。 これは誰にでもいえることです。すでにパートナーのいる人も (通常は)まだ素敵な服を着続けるし、お化粧や髪型にも気を使うでしょう。 きれいに見せたいと心がけることは、パートナーを惹きつけるためだけではありません。
気分がよくなるからきれいにしているのであって、性的に人を惹きつけようとしているとは限りません。 美しい人や、きれいになる努力をしていると思われる人が、パートナーを得るため(あるいは性的に相手をじらすため)にしていると決めつけるのは間違っています。
 アセクシュアルの人もみんなと同じようにルックスに気を使いますし、ときには、ボディーイメージやディスモーフィア(異形態症)で悩んだり、摂食障害になったり、容姿のせいで自尊感情が低下したり、メンタル障害を起こすこともあるのです。 わざわざ容姿を保ってセックスのパートナーを求める必要がないからといって、 アセクシュアルの人が社会の批判を受けない夢の世界に生きているというわけではありません。
 アセクシュアルの人の容姿を(それが相手を惹きつけようと惹きつけまいと)理由にアセクシュアリティという性的指向を否認するべきではありません。
(p154)

 

「相手を探す気がないのなら、なぜ服や髪型に気を使ったり、お化粧をしたりするの?」この質問、たしかに言われそうです。

でも、「すでにパートナーのいる人も (通常は)まだ素敵な服を着続けるし、お化粧や髪型にも気を使うでしょう。」と言われれば、そりゃそうだという気持ちになります。

何気なく放った質問が的外れなだけでなく、その人の姿勢までも批判することにつながることもあるな、と思いました。

 

 アセクシュアリティについての多くのうそ

 

Q、ぴったりな人にまだ出会っていないだけじゃないの?
 

 そうでしょうか? アセクシュアルの人が性的魅力を感じられるようなぴったりな人にまだ出会っていないのかもしれないという理屈なら、ヘテロセクシュアルの人も同じジェンダーのぴったりな人にまだ出会っていないから、自分がストレートでないことに気づいていない、ということにはなりませんか? 女性の服装とされているものをまだ着たことのない男性は、自分によく合う女性の服に出会っていないから、まだ自分がクロス・ドレッサー〔訳注: 異性装者、反対の性の服装をする人] であることがわからないのですか? ひき肉が嫌いな人は、まだ正式のハンバーガーを食べたことがないのですか?
 これまで誰にも性的魅力を感じなかったのに、ある人に出会って急に性的に惹かれるようになるということは、科学的にはもちろん少しは可能性があるかもしれません。 それがほとんど誰にでも起こり得ることなら、まだ体験したことのない人に体験するように勧めることもよいかもしれません。しかし、ストレートでない性的指向の人に向かって「きみだって、いつか変わるかもしれないさ」と言うのは、実際的でも有効でもありません。まるでアセクシュアリティを一過性のものととらえているかのようです。性的指向は、その人のこれまでの人生の体験に基づいたパターンの説明なのです。セクシュアリティには流動性がありますが、それを理由に、その人の性的指向が変わったり、変わるべきだと言うのは理にかなっていません。

 ヘテロセクシュアルの人は異性愛であることを証明する必要はありません。ぴったりのゲイの人と出会えさえすれば、性的指向が変わるなどと言う人はいないでしょう。 でも LGBTQの人やアセクシュアルの人にとって、これはよく耳にすることなのです。 興味深いのは、アセクシュアルの人は、ヘテロセクシュアルの人だけでなくLGBTQの人にも同じことを言われることがあるということです。
 過去や現在の経験に基づいて、 誰に惹かれるかを予測する手段が、性的指向です。その経験が一定したものであれば、将来もきっと変わらないでしょう。 「変わるかもしれない」 という可能性を、他者の将来の恋愛関係やライフスタイルに課すのは現実的ではありません。
 アセクシュアルの人は、絶対に性的魅力を感じることはないと言い張っているわけではありませんが、 性的魅力を感じていない (過去も現在も)と主張する資格は、ほかの人と同じようにあります。きっと将来もそうだと信じています。 一生かけて自分を変えてくれる人を探したいというアセクシュアルの人は、まずいないでしょう。
 アセクシュアルの人が自分を変えたいとか、 今変えようとしているとかと思っている(思うべきだ) と、勝手に推測すべきではありません。それにアセクシュアルの人には、寝ているはずの性への関心を「目覚めさせてくれる」パートナーを探す義務もありません。

「誰だってある日突然、 性的指向が変わるかもしれない。でも「まだぴったりの人に出会ってないからだ」と言われるのにはとても違和感があるよ。 今の私がいったいどうだと言いたいのか? 私は現在アセクシュアルだし、 これまでもそうだった。
(略) でももし明後日、あるいは20年後に自分が実はヘテロセクシュアルだと気づいたとしても、 私はアセクシュアルの人たちを支援し続けるわ」 (アイリー、 Asexy Beast より)
(p172)

 

この項目でも、自分が間違った質問をぶつけてしまいそう、と不安になりました。

アセクシュアルだと自認する人に、良い人に出会っていないだけだ、と言うのは、ひき肉が嫌いな人に、まだ正式のハンバーガーを食べたことがないから、と同じだというのは、なるほどと思いました。

アセクシュアルの人には、寝ているはずの性への関心を「目覚めさせてくれる」パートナーを探す義務もありません。」という言葉は、アセクシュアルの人を安心させてくれるのではないかなと思われます。

 

 キリスト教の経典の中には、セックスを欲する人には婚姻を認め、セックスを欲しない人は生涯独身を通してもよいとするものもあります。 結婚が(想定される) 肉欲の解決と考えられている場合、結婚しているのに禁欲することは受け入れられないという場合があります。イスラム教では、結婚が勧められていますが、結婚しないことも許されていて、その場合に限り禁欲が勧められています。伝統的なユダヤ教では繁殖が最優先されていて、独身主義は子どもを持つという神の命令に従わないので、宗教のおきてを破ることになると言われることもあるのです。
 仏教のように、欲望を消し去ることが清廉への道だと考える哲学では、先天的に性の誘惑を感じないことを、悟りの印だと勘違いすることもあります。また逆に、そんなに早く悟れるはずはない、ごまかしているに違いないと思われることもあるのです。 自然崇拝主義などの宗教で、特に男女を象徴的にそして実際的に結びつける生殖の儀式をする人々は、セックスを崇高なものと考えていて、セックスを拒んだり性的象徴を使って自己表現をしようとしないアセクシュアルの人の参加を好まない場合もあります。主流の宗教や保守的な宗教や厳格な宗教においても、指導者や宗派にもよりますが、セックスを(婚姻関係にある場合は) 崇高なものとし、神から与えられた聖なる表現の恩恵だと考えるところもあります。

 保守的な宗教団体は、(少なくとも結婚していないカップルの場合) 禁欲を称賛すると一般に信じられています。 しかし主流派の指導者がアセクシュアリティを破壊するようなセックスに関する視点を持つ場合もあります。 例えば、信仰によってホモセクシュアルを不自然だとする人々は、ヘテロセクシュアルを唯一の自然なセクシュアリティだと自動的に考える傾向があります。 そして、ヘテロセクシュアルの性的な生活をしないアセクシュアリティは、宗教的観点により不自然だと見なされ、さらには神からの賜りものを否定するものだと攻撃したり異端視する宗教指導者さえいるのです。 アセクシュアルであるために伝統的な家族を作らないと非難されたり、実際に(セックスを)拒むことは恥ずべきことだと圧力をかけられることもあります。 アセクシュアリティという性的指向は、こうした宗教では考えられているよりもずっと歓迎されたり好まれたりしていないのです。
 しかし宗派によっては、アセクシュアリティを精神の強靭さの表れなどと誤解せずに、 (一つの性的指向として) サポートするところもあります。 性的指向への偏見のない宗教に参加したい人は、寛容性や、多様性や、個人の性的指向の選択をサポートする宗教団体を探すとよいでしょう。 LGBTQ を声に出してサポートしたり、 近代科学や偏見のない世界観の重要さを強調したりする宗教の信者や指導者や宗派は、信仰心の強いアセクシュアルの人にとって安全で健全な場所となるでしょう。 実際、性的指向をとがめない解釈をすることが、ほとんどの宗教において可能なのです。
 しかし不幸なことに、アセクシュアルの人は自分たちが優れていると思っていると、アセクシュアルについて耳にするとネガティブな反応を即座に示す人たちもいます。いわゆる動物的な性衝動を超越していると考えているはずだと言うのです。アセクシュアリティは宗教的や道徳的な声明なのではないかと考えているのです。しかしほとんどのアセクシュアルの人は、性行為が人を汚すものとも、自分の性的指向が、自分がほかの人より優れていることを示すための禁欲だとも思っていません。

 

アセクシュアルが純潔だとしても、 特に美徳としてやっているわけじゃない。美徳と考えようと考えまいと、ただ単に純潔でいたいだけなんだ。 私は純潔が美徳だと思わないし、私自身は多くのアセクシュアルの人と同じように、純潔ではない。 頼んだわけでもないのに、美徳のような価値観を押し付けてくるのは、不愉快だ」 (トリスタン・ミラー、 Skeptic's Play より)

(p176)

 

・「キリスト教の経典の中には、セックスを欲する人には婚姻を認め、セックスを欲しない人は生涯独身を通してもよいとするものもあります。」

知らなかった。それなら子孫を残せないことで自己嫌悪する気持ちも少し落とし所がある気がします。

・「イスラム教では、(…)結婚しないことも許されていて」厳格なようで寛容なところもあるんだなと思いました。

ユダヤ教は繁殖が重視されていそうな印象でしたが、さすがに厳しめです。この信仰をもってアセクシュアルでいるのは、なかなか大変そうです。

・仏教では先天的に性の誘惑を感じないことを悟りの印だと勘違いしたり、そんなに早く悟りを開けるわけがないと言われるなんて。日本人には馴染みがあって割と受け入れてくれそうでしたが、意外とここでもややこしそうですね。

 

うーん、本当に宗教からの圧力はどこであっても強そうだという感じがして、気が重くなってきます。でも、

「実際、性的指向をとがめない解釈をすることが、ほとんどの宗教において可能なのです。」

という言葉は、希望があって良いです。

 

最後の方にある、アセクシュアルの人たちはこんなふうに考えている、という項目が参考になります。

 

・セックスの夢を見ることがない。 あるいは、 セックスの夢を見ても、そこに自分は登場しないし、 ファンタジーのような快い夢でもない。

・小説や映画のセックス描写は、どうでもいいし退屈だ。セックスシーンは飛ばしてもいいと思う。


・セクシーだと言われるような服装を見ても、実用的でないし、とても変だと思う。

 

・性的に倒錯的なことは好むけれど、そこにセックスを含めたくない。

 

・自慰はするけれど、 それだけで十分で、パートナーとしたいとは思わない。

 

・自慰をすることはあっても、したいという 「衝動」でしているのではないし、いつでもやめられる。

 

・自慰をしたいと思わないし、 これからも決してしないだろう。

・セックスをしてみないとどう思うかわからないのではないかと不安に思う。でもほかの人は、性体験がなくても、セックスをしたいことがもうわかっているみたいだ。

 

・友だちが誰かのことをセクシーだと言ってもピンと来ない。また、その辺で見かけた人と「やってみたいな」などと思ったこともない。


接触について (性的なものと、 性行為以前のものを含む)

 

・パートナーやパートナー候補者が性的な触り方をしてくると、不快になる。

 

・キスや抱擁は楽しめるし、 官能的だと思うが、それ以上エスカレートしてほしくない。

 

・セックスはしてもよいと思うが、 自分から始めたり誘ったりすることはない。

 

・セックスそのものは楽しむが、 パートナーに対して性的魅力を感じることはない。 自分は 「セックスが好きなのにアセクシュアルなのかな」と疑問に思う。

 

・セックスを今しているか、過去にしたことがあるが、素晴らしいこととは思えない。 セックスを楽しめたとしても「みんながあんなに興奮するようなことだろうか?」と不思議に思う。

 

・セックスをしたり、する直前までいったことがあるが、その体験は、不安で最悪で気持ちが悪くて不自然で不快だった。 「そんな気持ちを乗り越えなくては健全ではない」と人に講釈されると余計に腹が立つ。

 

・性的な興奮からではなくて、 セックスに対する知的な興味からセックスをしたことがある。

 

・相手がどうしてほしいのかがわからないし、 自分も興味がないので、 相手を喜ばせることができない。

 

・罪の意識にかられたり、 相手を傷つけたくなかったり、 興味のない自分が恥ずかしくて、 相手の体を触ったり性行為をしたことがある。

 

 こうした体験に共通しているのは、アセクシュアルの人はセックスということに関しては自分が部外者であると感じていることです。感じ方は人によって大きく違います。 自分が部外者であっても、まるで問題ないと思う人もいます。 一方、みんなにとってそれほど大切なことに自分が参加できず疎外されていることを、つらくて嘆かわしいと思う人もいます。そのようなときにこそ自分の性的指向を認識すれば、新しい不安や疑問が起きても、アセクシュアルのコミュニティとつながることができて気持ちが解放されるものです。
 自分がいったいなんなのか、それがやっとわかればとても安堵できるでしょう!でも、自分のラベルを見つけられれば視界が開けますが、それが絶対に必要というわけではありません。自分をどう呼ぶかをすぐ決めなくてもいいのです。 アセクシュアルの人たちの言っていることに共感できて、ほかの友だちのような性的興味や魅力が感じられないのなら、アセクシュアリティについての記事を読んでみたり、 フォーラムに参加してみたり、ビデオを見たりして自分がどう感じるか考えてみるとよいでしょう。 自分に合うと思う呼び方が見つかったら、それがどれほど自分に適合しているかを試してみるとよいのです。
 忘れないでほしいのは、アセクシュアリティは人によって診断されるものではないということです。 それに自分がアセクシュアリティだと決めても、あとで変えてもいいということも忘れないでください。最終決定でなくてもいいのです。ラベルを変える必要があれば変えればいいのです! アセクシュアリティは気持ちの説明です。髪の色のようなものです。髪を染めれば、 自分の色の説明も変わります。自分に合うと思うラベルに変えればいいのです。 あとになってアセクシュアルではなかったと思ったとしても、そのとき自分に合っていたのなら、害はありません。
 でも、もしアセクシュアリティのラベルが今のあなたにぴったりなら、ようこそアセクシュアリティのコミュニティへ! ここはとても多様でフレンドリーなところです。 みんなもあなたのように、混乱したりつらい思いをしてきました。 あなたの問題がスムーズに解決できるようになって、 劣等感や疎外感を持たずに人生を送ることができれば、こんなよいことはありません。

(p220)

 

聞いたことのない言葉や概念が多く、読んでいて結構苦戦しました。

そしてセックス連呼で転記するこちらも疲弊しました。不快に感じられましたらすみません。

いざアセクシュアルの人と出会っても、この人はこれはどう思うんだろう、これを聞いたら失礼かも、みたいに考えてしまって、理解するための歩み寄りすら躊躇してしまいそうな予感もしました。

ただ、”アセクシュアルは髪の色のようなもので、そのときの自分に合うように変えていっていい。”という言葉を読んだ時、少し分かるかもと思いました。

「アセクシュアリティは人によって診断されるものではないということです。それに自分がアセクシュアリティだと決めても、あとで変えてもいいということも忘れないでください。」

周りがレッテルを貼ってとやかく言うことではなくて、目の前の人を理解するためには、もっといろんな方法があるということに、あらためて気付かされました。

 

現状、ネット以外になかなかアセクシュアルについての情報がないので、偏見や誤解、疑問に答える本書は貴重だと思いました。

もっと理解と支援が広まりますように。

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。