ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

ベンジャミン・ジェイコブス『アウシュヴィッツの歯科医』

おはようございます、ゆまコロです。

ベンジャミン・ジェイコブス、上田祥士(監訳)、向井和美(訳)『アウシュヴィッツの歯科医』を読みました。

 

以前読んだ、『4歳の僕はこうしてアウシュヴィッツから生還した』の話を知人にしたら、この本もおすすめと聞いたので読んでみました。

 

 

 ポーランドでは、ヒトラーの時代以前からすでに反ユダヤ主義がはびこっていた。ほかのマイノリティーが公平に扱われていても、ユダヤ人だけは例外だった。一九三〇年代後半になると、それまでどっちつかずの態度でいた人たちまでが、ナチスの人種差別政策をかかげるヒトラーに同調していった。わたしたちはポーランドで生まれたにもかかわらず、よそ者とみなされたのだ。ユダヤ人がポーランドで平等な扱いを受けるには、まずキリスト教徒になる必要があった。ポーランドの聖職者たちは、ユダヤ人に暴力を振るえとは教えないまでも、兄弟愛を注げとも教えなかった。良心の世代は社会からの抑圧に忍従していたが、わたしたちの世代になると、その状況を受け容れて暮らすのは耐えがたかった。両親のように、ポーランド人である前にユダヤ人だとは考えていなかったからだ。だから、生活のしかたを改め、ポーランドの慣習や服装や文化や言語になじめば、非ユダヤ人も寛容になってくれるはずだと思ったのだが、そう簡単にはいかなかった。なにより驚いたのは、ポーランドユダヤ人は贅沢に暮らしているというまことしやかな嘘がささやかれていたことだ。

 

 ユダヤ人は暴言を浴びせられ、昼日中から殴られることも多かった。それでも、はっきりわかる傷痕がないかぎり警察は動いてくれない。商売を営むユダヤ人は、”悪徳商人”と呼ばれた。だから、兄もわたしも父の商売を継ぐのがいやになり、自分で職業を選ぶことにした。どんな仕事を選ぼうとも、深く染みついた偏見がなくなりはしないことを、まだわかっていなかったのだ。

 

 学校でも、教科書にはユダヤ人の歴史も文化も、そしてその存在さえも書かれていなかった。ドブラの公立学校には、ユダヤ人の教師はひとりもいなかった。わたしはベレクという名前のせいで、ベイリスと呼ばれてからかわれた。帝政ロシアベイリスという名のユダヤ人が、儀式に則って少年を殺したとされる ”ベイリス事件” があったからだ。いやな気持になったわたしは、中学校に入る前に、ポーランド名のブロネクに改名した。(p21)

 

 

戦争が始まる前から殴られたり改名を余儀なくされたりと、理不尽な扱いに物語の序盤から気が滅入ってきます。

 

 

 手紙を読み終えると、わたしは目を閉じてその場に立ちつくした。ゾ-シャも、ゲットーでなにか恐ろしいことが起きたらしいと感じ、なにがあったのかと尋ねた。けれども、わたしは答えられなかった。母と姉のことなのか、と訊かれて頷く。ゾーシャはわたしをじっと見て、話ができる状態ではないと察すると、そっと立ち去った。

 

 腹部にさしこむような痛みを感じる。収容所に戻る途中、もしかしたら読み間違いではないかと思いながら、手紙をもう一度読んだ。しかし何度読んでも、そこに書かれた言葉は、わたしたちが想像していたよりも悪い事態を語っていた。

 

 あなたがこの手紙を受けとったときには、母さんもわたしもすでに生きてはいないでしょう。再定住のためと言われているけれど、どこへ連れていかれるかはわかっているし ― ヘウムノです― あそこから戻ってきた人はひとりもいないのです。ゲットーに残っているのはわたしたちが最後で、二〇〇人ほどしかいません。もはやどうにでもなれという気分です。こんな屈辱的な暮らしはもうたくさんだから。もしヨゼクに会えたら、わたしと母さんのことを伝えてください。まもなくここを離れるので、もう手紙は書かないでね。どうか、あなたと父さんとヨゼクが生きのびられますように。父さんとあなたに愛を贈ります。ポーラ

 

 そのあと、母から父とわたしにあてて、別れの言葉が二行書き添えてあった。「たぶん、どこか別の世界で家族全員がまた会えるでしょう」(p166)

 

 

この後、著者はヘウムノで人々がどんなふうに亡くなったか知ることになるのですが、恐ろしくてつい読む手が止まりました。

 

 そのとき突然、だれかがわたしに身振りで呼びかけた。見ると、フェンスの向こうからひとりの収容者が手招きしている。その男は、わたしのブーツに目を向け、「どうせそれは置いていかなきゃいけないんだ。こっちに放れ」と叫んだ。「収容所に入ったら、ちょっと食べ物をおまけしてやる。おれはブロック長(カポ)だ」。アウシュヴィッツに来て、収容者の声を聞いたのはこれが初めてだった。カポが自己紹介したのだ。

 

 彼は清潔な縞模様の服を身に着け、黒い帽子をかぶり、カポの腕章をしていた。最初はその男の言葉が信じられず、ただブーツを手に入れたいだけだろうと思った。ところが、所持品があればすべて置いていくようにと軍曹から指示が出たため、従わざるをえなくなった。わたしは片方のブーツに隠していた数枚の写真を取りだしてから、ブーツをフェンスごしに投げた。あとで、このカポを探しだす手立てがないのに気づいたが、結局のところどちらでも同じだった。いずれにせよ、収容所内では収容者同士のやりとりは許されていないからだ。

 

 家族の写真に目をやる。母、姉、兄、叔母のラケル、叔父のシュロモ、叔母のサラ。わたしにそっくりだとみなが言うイツァク叔父。そして、叔父のモルデカイ、伯父のハイム、いとこのトーバ、バルチャ、ナヘム、ヨゼク、マイヤー、メンデルの姿もあった。最後に、祖父の写真を見つめた。ずいぶんあとになって、一九四三年八月のその日のことを思い出したとき、写真をそこに置いてきたことで、写っていた親戚たちもまたアウシュヴィッツで死んでしまったように感じた。収容者たちがうつむいて班ごとに歩いていく。この光景をいつかだれかが世界に知らしめるべきだ。とはいえ、どれほどよくできたドラマでも、目の前のこの状況を再現することはできないだろう。こんなにも痩せこけた肉体を撮影用に探してくるのは不可能だからだ。(p219)

 

 

 巻頭に著者の家族の写真が載っているのですが、その写真の数々がもつ意味がとても重く感じられます。

 

 一九四三年の夏の終わり、アウシュヴィッツの隔離棟から生きて出られたことは、自由の象徴だった。わたしたちの運命が変わったように思えた。崖から突き落とされる寸前で命拾いしたのだ。こんな状況でもほぼふだんどおりに暮らしている人たちの姿が目に入ると怒りがこみあげ、ユダヤ人に生まれなければよかったと感じた。(p230)

 

 

自らの出生をも否定したくなるような状況に、やるせなさでいっぱいになります。

 

 

 一九四三年の終わりまでに、さらに多くの人たちがオランダやベルギーやモロッコノルウェーから移送されてきた。ドイツ語かイディッシュ語が話せるか少なくとも理解できる者は、ドイツ語でのカポの命令に従うことができる。コぺルマンという名の一四歳のオランダ人少年が話してくれたところによると、彼は家族とともにアントワープで逮捕されたらしい。ユダヤ人スパイが通りをうろついて、ユダヤ人を見つけてはナチスに密告していたのだ。家族は、ポーランドに再定住すると教えられた。選別の際、そばかす顔を気に入られたコぺルマンは、家族と引き離されてフュルステングルーベに移送されたという。彼と一緒に来た者たちはほとんどがまもなく”ムスリム” になってしまったが、コぺルマンは元気だった。

 

 フュルステングルーベには、さまざまな国から来たユダヤ人がいた。フランスのユダヤ人はベルギーのユダヤ人を嫌い、ベルギーのユダヤ人はオランダのユダヤ人を嫌い、オランダのユダヤ人はドイツのユダヤ人を嫌い、ポーランドユダヤ人は全員から嫌われていた。ロシアのユダヤ人は存在すら認めてもらえない。そして、運命をともにするユダヤ人と非ユダヤ人のあいだに、協力が生まれることはいっさいなかった。(p265)

 

 

 この部分を読んで、ユダヤ人の間でも憎悪の感情があることを、少し意外に感じました。

 

 ドイツは不思議な国だ。ある意味、ドイツ人はヨーロッパのほかの国民に比べれば反ユダヤ主義がさほど強くない。ユダヤ人に対してあれほど狂気じみた仕打ちをした人たちを、ヒトラーはいったいどこで見つけてきたんだろう。

 

 ドイツ人の暮らしは、ゆっくりと正常に戻りつつあった。しかし、彼らに混じって穏やかに生きていくには、わたしたちの心の傷は深すぎた。ドイツにいるかぎり、ドイツ人と同じ道を歩き、同じ食べ物を食べ、同じ空気を吸わなければならない。犯罪者が突如として聖人になり、身に覚えのある者たちは知らぬ存ぜぬを決めこむ。理解しがたいことに、よく知られたナチス幹部たちでさえ、ホロコーストへの関与を否定していた。わたしたちは自分の発言に気をつけ、信用すべき相手を見極めなければならない。内心、言いたいことはあった。それでも礼儀をわきまえ、本心を漏らさないよう口をつぐまざるをえない場合も多かった。戦後、ドイツで四年暮らしたわたしは、良くも悪くも人間について多くを学んだ。そして、その四年のあいだにドイツ内外の病院を何軒も回り、いまだに治らない十二指腸潰瘍の痛みを診察してもらった。

 

 ポーランドからは、さらに気分の悪くなるニュースが聞こえてきた。ポーランド反ユダヤ主義は衰えを見せず、ヒトラーの精神はなおも健在のようだ。ヒトラーポーランドユダヤ人の墓場として選んだのは偶然ではない。ポーランドユダヤ人は、ナチスからいちばんの標的にされたのだ。戦後、あえてポーランドに帰って財産を取り戻そうとしたユダヤ人の多くは、ドイツ人が引き揚げたあとに略奪した者たちの手で殺されてしまった。わたしも兄も、相続すべき資産がポーランドにあることはあったが、取り戻そうという気はまったくなかった。(p365)

 

 

同じ空気を吸うのも耐えられない、というのは、聞いていて辛い状況ですが、ここまで読むともうそう感じるのも仕方ないという気持ちになってしまいます。戦争が終わっても自国に帰れないのも厳しすぎる。

 

監訳者の上田さんはあとがきにて本書を、「若い読者が、ホロコースト関連の著作の中で最初に接するのに適当なものではないだろうか」(p395)と書いていますが、個人的には『4歳の僕~』よりも辛かったです。(比べるものではないのですが。)

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。

 

アウシュヴィッツの歯科医

アウシュヴィッツの歯科医