ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

先人たちの教えから足元を見直す。『内村鑑三「代表的日本人」を読む 西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳・中江藤樹・日蓮』を読んで 

おはようございます、ゆまコロです。

 

童門冬二さんの『内村鑑三「代表的日本人」を読む 西郷隆盛上杉鷹山二宮尊徳中江藤樹日蓮』を読みました。

 

佐藤優さんの『危機の読書』を読んでいて出てきた本です。

 

ただ、もともとは諸外国に日本人とはこういう民族である、ということを伝えるために英語で書かれたらしいので、これは難しそうだなと思い、わかりやすそうに見えた本書を選んでみました。

 

タイトルにある5人の日本人の生涯や人物像について書かれています。

 

西郷隆盛さんの話で面白いと思ったのは、このエピソード。

 

 十八歳の西郷隆盛が赴任した郡方では、先輩役人のほとんどが賄賂(わいろ)を取り、その多寡(たか)によって「年貢の割り当て」を決めていた。そうなると、富裕な農民でも賄賂を納めれば年貢が安くなる。が、反対に賄賂を届けられない農民の負担はその分だけ大きくなる。したがって、「正直者はバカを見る」という現象が横行していた。
 西郷は怒った。
 西郷はある農家の一隅(いちぐう)に寄宿していた。当時、農家のトイレ(厠)はたいてい屋内ではなく庭にあった。ある夜、西郷が風にいったとき、 深夜なのに牛小屋のほうから話し声が聞こえた。近づくと、この家の主人が牛に話しかけている。内容は、「おまえにもずいぶん協力してもらったが、明日は売りに出す。賄賂を届けなかったので年貢が高すぎて納められないからだ。かわいそうだが、おまえを売って年貢を納める。堪忍(かんにん)してほしい」というものだった。
 西郷は農家の主人の身になって悲しんだ。同時に、汚職役人に対する怒りがふつふつと湧き上がってきた。
──正義感にかられた西郷は、この事実を上役である郡奉行、迫田太次右衛門(さこたたじえもん)に告発し、その処分を迫った。ところが迫田は、「この汚職は構造的なものであって、一奉行所だけでどうにかなるものではない。藩庁の改革から始めなければだめだ」と言った。同時にかれは良心的な役人だったから、自分の無力さを恥じて、西郷の正しさを容認し、辞任した。
――このとき迫田は自作の歌を西郷に与えた。

 

虫よ虫よ五(いつ)ふし草の根を絶つな 絶たばおのれも共に枯れなん


 というものであった。「虫」というのは汚職役人だ。 そして「五ふし草」というのは稲のことだ。つまり、この歌の意味は、「汚職役人よ、稲の根まで食いつくすな。そんなことをすればおまえたち自身も一緒に死んでしまうぞ」というものである。
──西郷は迫田からもらった歌を紙に書いて自分の机の前に貼り付けた。「それはどんなことがあっても私だけは絶対に汚職はしないぞ」という自戒の意味であり、同時に周りに机を置く先輩・同僚たちへの嫌味でもあった。勢い、西郷は嫌われた。(p64)

 

 

西郷さんらしい話だと思いました。その後の「勢い、西郷は嫌われた。」というのも彼らしくて、ちょっと微笑ましい。

迫田さんも良い人だなと思いました。

 

上杉鷹山編でなるほどと思ったのはここです。

 

 為政者は民の父母でなければならない


 わたし(童門)なりに調べた上杉鷹山の事績から、思い切ってかれの姿勢に加えたものの一つに、「身分制の破壊」がある。徳川時代士農工商の身分制によって、日本人は“生きるマニュアル" を強いられていた。
 ところが鷹山は、
――士農工商は職業区分であって、 すなわち横の区分であって、縦の身分制ではない。
――サムライであっても農業の得意な者は農村にいけ。技術のある者(工)は山に入ってダムをつくれ。そして商業感覚のあるものはいまで言えばJA(農業協同組合)をつくって商人になれ。
――これは非常の措置であって恒久的なものではない。 籍はあくまでも城に置き、給与も城から支給する。
 と告げた。
 特に鷹山の「主権在民思想」は、養子(養父の実子)に譲るときに与えた「伝国之辞」(でんこくのじ)にはっきり表れている。意訳すれば、「大名とその家臣のために地域住民は存在しているのではない。逆に、地域住民のために大名とその家臣が存在している」ということだ。
 鷹山は、「年貢の納め手が地域行政の主人である」と断じたのだ。
 まだフランス革命も起こっていないときの発言だ。これは驚嘆すべき思想である。その思想はあげて師の細井平洲から教えられた、「為政者は民の父母でなければならない」というひと言につきている。鷹山は徹頭徹尾、この教えを守り抜いた。

 

 心の赤字を克服しなければならない

 

 内村鑑三さんの『代表的日本人』における上杉鷹山は、危機に直面したときに、しばしば神に対する敬虔な信仰心を発揮する。この信仰深さが内村さんのキリスト教への信仰に重なり、その点が内村さんにとっては好もしく、また尊敬すべきものに見えたのだろう。が、やはり江戸時代の武士である鷹山にとって、なによりも心の支えになったのは「儒教」である。 細井平洲も実学の人ではあったが、根本とするところは儒教だ。
 したがって細井平洲が唱える、「為政者は民の父母でなければならない」という教えは、そのまま鷹山が大名として担うべき責任を果たすうえでの信仰の対象であった。つまり鷹山を支えた精神的な柱は、この”民の父母を貫く”という思想である。(p94)

 

 

江戸時代中期に、「地域住民のために大名とその家臣が存在している」という考え方をする大名が存在したなんて、なんだかドラマチックです。なぜか心強い気持ちになってきます。

 

もう一つ、上杉鷹山さんの話でいいなと思ったのはこれです。

 

 鷹山が成人する前に両親の勧めるままに結婚した相手には、生まれつき知的障害があり、思考力は十歳の子どもにも達していなかった。けれども鷹山は妻に真の愛情と敬意をもって接し、妻のためにおもちゃや人形をつくらせるなど、さまざまな方法で慈しんだ。

 もちろん鷹山は父親としても温厚柔和で、子どもの教育にたゆまず力をつくした。息子たちには「貧しい人を思いやること」つまり「自分勝手な目的のために大切な使命を忘れたり、犠牲にしたりしないこと」を教育した。

(p90)

 

優しいお人柄が窺えるようです。この奥さん(幸姫(よしひめ)) は30歳で亡くなってしまったそうですが、幸姫の父親が彼女の死後、鷹山さんの心遣いに涙したとウィキペディアにはあります。

 

そして私が一番読んでよかったと思ったのは、二宮尊徳編です。

 

――二宮金次郎、別名尊徳(「徳を尊ぶ人」の意)は天明七年(一七八七)に生まれた。
――父親は相模の国(現在の神奈川県)の名もない村の貧しい農民だったが、深い慈悲と高い公徳心で知られていた近隣の人は“ホトケさま”と呼んでいた)。
――尊徳が十六歳のとき、 尊徳と二人の弟は孤児となった。親戚が集まって話し合った結果、家族は引き離され、年長の尊徳は父方の伯父の一人に養育されることになった。
――少年はできるだけ伯父の重荷にならないようにと、一所懸命に働いた。大人の男にできることが自分にできないと言って嘆き、未熟なために日中にやり終えられなかった仕事を深夜まで続けた。
――そのころ尊徳は学問に関心を持ち、字の読めない人間にはなりたくないと考えた。
――尊徳は孔子の『大学』の写しを手に入れ、仕事を終えたあと夜遅くまで勉強に没頭した。
――ところが勉強しているところを伯父に見つかってしまった。伯父は自分にとってなんの得にもならない、そして尊徳にも実践的でない勉強のために貴重な油を使ったことをきびしく叱責した。 尊徳は伯父が怒るのももっともだと考え、自力で灯り用の油を手に入れられるようになるまで勉強をあきらめた。
――翌春、尊徳はだれのものでもない川の堤防沿いのわずかな土地を開墾し、アブラナの種を蒔き、休日は自分の作物を育てるために費やした。一年がたち、かれは袋一杯の菜種を手に入れた。 尊徳はこの菜種を近所の油屋へ持っていって油と交換した。
――尊徳は勇んで夜の勉強を再開した。伯父から忍耐や勤勉をほめてもらえるのでは、と期待しないでもなかった。ところが伯父は、「養ってやっているのだから、おまえの時間はおれの時間でもあり、おまえたちのような者に一銭にもならない読書をさせる余裕などない」と言った。
――尊徳はまたもや伯父の言うことは当然だと考え、命令に従って日中は田畑で重労働をこなし、その後は筵(むしろ)づくりや草鞋(わらじ)づくりに精を出した。
――それ以来、尊徳は伯父の家で使う干し草や薪を取りに山を往復する道々で勉強を続けた。

(p106)

 

二宮金次郎の像で有名なあの姿は、道々で勉強をしているところだったんですね。

像を見たときには特になんの興味も抱いていませんでしたが、こうやって話を聞くとたしかに只者ではない感があります。

しかし、伯父さんの言うこと聞きすぎでしょ、と今の感覚では思わなくもない。彼が生きているのがそもそもそういう時代なんでしょうけど。

そしてこの先のお話も好き。

 

――そのころ尊徳は、村の中で洪水によって沼地のようになってしまった場所を見つけた。
――尊徳は沼地から水を取り除き、底を平らにならして、ささやかな田んぼに変えた。そこに農民ならふつう捨ててしまうような余った苗を植え、夏の間、丹念に手を入れた。その結果、秋には二俵分の黄金色(こがねいろ)の米が収穫できた。
――この秋の収穫は、かれが波乱に富んだ人生を始めるうえでの財政的基盤になった。
――尊徳は努力を惜しまぬ正直な人間に対して自然は必ず報いてくれるということを学んだのだ。
――数年後、尊徳は伯父の家を出ていった。自分で見つけ、改良した、村の見捨てられた土地で自らが収穫したわずかな穀物を手に、何年も打ち捨てられたままになっていた親の小屋に戻った。
――尊徳は忍耐、信念、勤勉をもって荒れ地を豊穣な土地に変えていった。山の斜面、川の堤、道端、沼地など、あらゆる不毛の地がかれに富と財をもたらした。
――数年のうちに尊徳はかなりの資産を有するようになった。その模範的な倹約ぶりと勤勉さは近隣の人びとの敬意を集めるところとなった。


尊徳の能力への試練

 

――尊徳の名声は日ごと高まり、そのすばらしさは小田原藩主、大久保忠真(おおくぼただざね)の耳にも届いた。
――藩主は当時、幕府の老中として国内で比類なき影響力を発揮していた。
――価値ある領民を、名もない田舎暮らしに埋もれさせておくのはもったいない。しかし当時の封建制のもとで一介の小作農が影響力のある立場に昇進するには、並外れた能力を示さなければならなかった。旧(ふる)い社会規範を打ち破るには、それに反対する人びとを押し黙らせるだけの能力が必要だった。
――このため尊徳に課された仕事は、不屈の精神を持つ尊徳のみがやりとげられるような困難なものだった。
――小田原藩の所領の中に下野の国(現在の栃木県)の物井(ものい)、横田、東沼(ひがしぬま)という三つの村があった。何世代にもわたって捨て置かれていたため、恐ろしいほど荒れ果てていた。
――かつては四百五十世帯が住み、米四千俵を領主に年貢として納めていた。 しかしいまではキツネやタヌキが人家に入り込み、人口も三分の一に減っていた。
――貧しい農民から徴収できる年貢は多くて八百俵ほどだった。
――貧困は道徳的荒廃をもたらし、かつて豊かだった村々は博徒たちの巣窟と化していた。
――村の復興は何度も試みられたが、村人自身が怠け者や泥棒だったため、お金を投じ、権力を行使してもまったく役に立たなかった。
――しかしこういったなんの役にも立たない村こそ、 小田原藩主が目論んでいた目的にふさわしかった。
――この三村に富と繁栄を取り戻すことができる人間なら藩内のすべての廃村(廃村は非常にたくさんあった)の再興を任せられるだろう。その成果を知れば、尊徳の登用に対して人びとが不満を持つこともない。
――しかし尊徳は自分は地位が低いし、公の性格を持つ事業に関してまったく無能だと言って、この栄誉を辞退した。土地を耕すだけの人間に望める最高の成功は、自分自身の家族の財産を復興させることであり、それさえも自分の能力だけでなく祖先から受け継いだ徳によるものだと考えていたのだ。
――三年もの間、藩主は尊徳に要望を容れるように迫りつづけた。一方、尊徳は頑なに謙虚な態度を保ちつづけた。
――立派な領主の熱心な要求に抵抗しきれなくなったとき、尊徳は復興を託されている三村の状況を詳細に調査する許可を求めた。
――目的地までの約二〇八キロメートルを自分の足で歩き通し、数カ月を村人と過ごし、家を一軒ずつ訪ね、注意深くかれらの暮らしぶりを見てまわった。
――土壌の質、荒廃の程度、排水、灌漑の可能性など、緻密な調査を行い、荒廃した一帯を復興することができるかどうか、徹底的に試算するための情報を収集した。
――小田原藩主に提出された尊徳の報告書は、きわめて悲観的なものだった。
――が、まったく手も足も出ないというわけではなかった。「仁術(じんじゅつ)さえ施せば、貧しき人びとに平和と豊かさを取り戻すことができる」と尊徳は報告書の中で述べている。
――その方法を、「金銭を与えたり、年貢を免除したりしても、かれらを不幸から救い出せません。ほんとうに救済するには、荒廃した土地を自らの力で切り開き、貧困から自力で抜け出させなければなりません。殿にはこの痩せこけた土地からあがってくる収入がどれほどであっても、それを妥当なものとして受けとめ、それ以上多くを望まないでいただきたいのです。一反(約一〇アール)の田から二俵の米がとれるとすれば、一俵は人びとの必需品のために、もう一俵は残りの荒廃地の開墾の資金にあてるべきです。 仁愛、勤勉、自助これらの徳を厳格に実行することによってのみ村に希望が見えてきます」と述べた。
――計画は採用され、尊徳は十年間、実質的な村の長となった。一方で尊徳は祖先の資産を復興する仕事が道半ばであることを悲しんだ。
――しかし公の仕事に着手したうえは、個人的な利益を顧みることはできない。「千軒もの家を救うためには自分の家など犠牲にしなければならない」。尊徳は自らにそう言い聞かせた。
――尊徳は妻の許しを得て、自分の決意を 「声に出して祖先の墓前に報告」し、家をあとにした。 別世界に旅立つかのように退路を断ち、生まれ故郷の村を離れ、主君と領民に誓った仕事にとりかかった。
――尊徳の「荒廃した土地や人心との闘い」について、ここでは詳細に述べない。尊徳は智謀・智略に長けていたわけではない。尊徳にあったのは、「魂の誠は天や地を動かすほどに強い」という信念だけだった。
――尊徳は贅沢を退け、身につける衣服は木綿に限っていた。他人の家でもてなしを受けることはなく、睡眠は一日二時間。田畑にはだれよりも早く向かい、だれよりも遅くまで残って働いた。 尊徳自ら、貧しい村人に降りかかった困難を耐え忍んだ。
――部下に対しては、尊徳は自分自身を評価するのと同じ基準、つまり動機が誠実かどうかで判断した。尊徳にとっての最高の働き手はたくさんの仕事をこなす者ではなく、もっとも崇高な動機で働く者だ。ある男が人の三倍働くほど勤勉なうえに人あたりもよいという理由で、尊徳のもとに推薦されてきた。
――尊徳はその男を呼び寄せ、かれがほかの役人の前でやったとされているのと同じ方法で、尊徳の目の前で一日の仕事をやってみせるように求めた。しかしその男にはやれるだけの能力はなかった。男はすぐに、役人の前でだけ三人分の仕事をしてみせたと邪(よこしま)な動機を白状した。
――働き手の中に、高齢で一人前の仕事がほとんどできない男がいた。いつも木の切り株を取り除いていた。それは骨の折れる仕事で、しかも目立たない。この男は自分が選んだ仕事に満足している様子で、ほかの人間が休んでいる間も働きつづけた。かれは「切り株掘り」と呼ばれ、だれにも気にとめられることはなかった。
――尊徳の目がその男に向いた。給料が支払われる日のこと、いつものように尊徳が働き手たちに手当てを渡していたが、 もっとも高い名誉と報酬を与えられたのはほかでもない、その「切り株掘り」だった。
――これには全員が驚いた。が、だれより驚いたのはその男だった。男は言った。
「私には一人前の価値などございません。ご覧のような年寄りで、私の働きはほか
の人にはるかにおよびません」
それに対し、尊徳はこう言った。
「いや、違う。おまえはだれもやりたがらない仕事をした。おまえが切り株を取り除いたおかげで障害物がなくなり、われわれの仕事が格段に進んだのだ。これはおまえの実直さへの天の褒美なのだ。おまえのような実直な人間と出会えることほどうれしいことはない」
――尊徳に反対する者も数多くいた。しかし尊徳は「仁術」によって克服していった。小田原藩主が尊徳の同僚として差し向けた男と折り合いをつけ、自分のやり方に従わせるために三年を要したこともある。
――村には救いようのないほど怠惰な人間もいた。その男は尊徳のあらゆる計画に対して激しく反発した。 かれの家はいまにも壊れそうな状態で、自分の貧しさは新しい行政の弱さを示すものだと近所にふれまわっていた。
――あるとき尊徳の家人が、この男の家の便所を使わせてもらったことがあった。便所は長年手入れをしていなかったために腐った状態で、ほんの少し触っただけで地面に崩れ落ちてしまった。男の怒りは収まることを知らず、不始末を詫びる家人を持ち出した棒で一、二度殴り、尊徳の家まで追いかけていった。尊徳の家の前に立ち、自分が被った損害や、尊徳が地域に安寧・平和をもたらすうえで無能だということを、周囲の群衆に聞こえるように大声で叫んだのだ。
――尊徳はこの男を呼び入れ、家人の不始末をできるかぎりの丁寧さを込めて謝罪した。 そしてつぎのように言った。
「便所があれほど壊れやすい状態だったことからすれば、家もよい状態とは言えないのではないか」
「見てのとおりの貧乏人で、家の修繕などできるものか」
男は無愛想に答えた。
「では、修理をする者を差し向けようと思うのだが、どうだ、異存はないか」
尊徳は穏やかにこう尋ねた。
――古い家を取り壊し、新屋を立てるための地ならしをするために、男はすぐに家に戻された。翌日、尊徳の部下が新築用の資材を持って現れ、数週間のうちに近所でもっとも見栄えのよい家が完成した。 便所も修理され、だれが触れても壊れなくなった。こうして村一番の厄介者が屈服した。 この男はそれ以来、 尊徳に対してだれよりも忠誠をつくすようになった。

(p106)

 

「努力を惜しまぬ正直な人間に対して自然は必ず報いてくれるということを学んだ」とさらっと書いてありますが、この結論に至るまでに二宮尊徳がどれほど仕事に打ち込んだか、おそらく想像以上のものなんだろうと思います。睡眠2時間ってちょっと考えられません。

「金銭を与えたり、年貢を免除したりしても、かれらを不幸から救い出せません。ほんとうに救済するには、荒廃した土地を自らの力で切り開き、貧困から自力で抜け出させなければなりません。」

という報告書のこの言葉、現代にも通じるように思いました。

 

次の中江藤樹さんのお話で心に残ったのは、次のエピソードです。

 

――二十八歳のとき、 藤樹は村に塾を開いた。 自宅を校舎にした。 学科目は中国の古典・歴史・作詩・書道である。
――塾における教育効果は少しずつ地域に浸透していたものの、これは天使は羨むけれど、目立ちたがりの世の人間には軽蔑される仕事だった。
――藤樹は辺鄙なところにとどまり、生涯の最後のときまで安らかな喜びに満ちた穏やかな日々を過ごした。単に学問を教えるだけでなく、すぐに村の中に溶け込み、村人たちのためにいろいろと汗を流した。つまり〝積善〟(せきぜん)である。
 これについて、かれはつぎのように語っている。
「すべての人間は悪評を嫌い、名声を愛する。小さな善行を積まなければ名声は得られないが、小人はそのことに考えがおよばない。一方、君子は日々自分にもたらされる小さな善行を見過ごしはしない。大きな善行も彼のもとに訪れれば行う。ただし自分からは求めない。大善はほとんどなく、小善は多い。大善は名声をもたらし、小善は徳をもたらす。世の中は大善を求めがちである。というのも世の中が名声を愛するからである。しかしながら、いくら大きな善行であっても名声のためだけに行えば、それは小さなものになってしまう。 君子とは多くの小善から徳をつくりだす人である。もちろん徳にまさる行いはない。徳はすべての大善の源である」
 こう言うように、藤樹は「学んだことは必ず実行する」という信念を持っていたから、弟子に教えるときも「徳と人格」を重んじ、「学問と知識」を軽んじた。
――突然、藤樹の教育の成果が現れる事件が起こった。それは岡山からやってきた一人の青年武士が媒体になった。この青年が熊沢蕃山(くまざわばんざん)である。内村鑑三さんは熊沢蕃山が岡山を旅立ったときの動機を、「かつて東方の三博士がユダヤの王を探し求めたのと同じだった」と書いている。キリストの誕生を予知してかけつける博士たちが、一路その地に急ぐのになぞらえたのである。
——青年、熊沢蕃山が目標にしたのは、「近江にいけば聖人に出会えるかもしれない」という期待であった。宿に泊まった。同宿者が二人いて、一人はサムライだ
った。 サムライがこんな話をした。
――主君の命で自分は数百両の金を託され帰る途中だった。
――途中で馬に乗った。馬の鞍に金を括りつけた。
――宿に着いてハッとした。馬に括りつけた金を忘れてしまったのだ。 馬子(まご)の名は知らない。どこに住んでいるのかも知らない。私は真っ青になった。弁明の余地はなく、この不始末は切腹以外にない。 私は遺書を書いた。
――この救いようのない状況に陥っていたとき、宿の主人が、私に面会を求める馬子がきていると知らせてくれた。 あるいは、と思って走るように階段を下りて土間に出ると、そこにさっきの馬子が立っていた。そして、私の忘れた金を差し出した。
――私はうれしさのあまり、「あなたは私の命の恩人だ。お礼にこの金の四分の一を差し上げる。どうか受け取ってほしい」と言ったが、馬子は聞き入れない。 馬子の論理は、もともとそれはあなたのお金なのだから持ち主に返しにきた、なにもお礼をもらう必要はない、というものだ。
――最後にはわずかな金を手間賃として受け取ったが、私は疑問に思った。「おまえさんは、どうしてそれほど無欲で正直なのか」と聞いた。馬子は答えた。「私のところの小川村に中江藤樹先生という人が住んでいて、私どもに『無欲・正直・誠実で生きよ』と教えてくださっているからです。私ども村人一同は、先生の教えに従って生きているだけです」
この話を聞いていた岡山の青年は、はたと膝を打って叫んだ。
「その人こそ、自分が探し求めていた聖人だ。明日は早速訪ねて、使用人なり門人なりにしてもらおう」
と心を決めた。
――青年は翌日、中江藤樹のもとを訪れ、弟子にしてほしいと願した。しかし藤樹は断った。自分は一介の村の教師である。遠い地方からやってこられた立派な人物から教えを請われるような人間ではない。「どうかお引き取りください」。どのように頼んでも、藤樹は言(げん)を曲げなかった。
そのとき、藤樹の母親が出てきて青年に同情し、家の中に入れるように 戒めた。藤樹は親孝行だから、母の言い付けに従い、青年は藤樹の弟子になることができた。
――この青年(熊沢蕃山)はのちに強大な岡山藩の財務・行政を任されることになる。後世に影響を与える数多くの改革を行った。

(p142)

 

中江藤樹さん自身の人となりを表す話ではないのかもしれませんが、彼の教えが生徒にしっかり浸透しているのがすごいなと思いました。

さらにもっと時間が経ってからも、彼の精神が地域で息づいていることを童門冬二さんが体験されています。

 

JR京都駅から湖西線に乗って安曇川駅で降りると、駅前で大きな藤樹像が出迎える。どっかと坐ってにこやかに私たちを迎える藤樹の表情は奥行きが深い。藤樹神社に詣で、藤樹書院を見学する。
 驚いたことがある。藤樹書院の前は溝になっている。いわば下水だ。ところがこの水の中にたくさんの錦鯉が美しく泳いでいる。 しかも溝の中には地域の人びとによって、それぞれ趣向を凝らした木の台がしつらえられ、その上に盆栽が載っていた。
 通りすがりの人に聞くと、
「藤樹先生の精神を生かして、町をきれいにしようという私たちの気持ちの現れですよ」
 と説明してくれた。盆栽は時折取り換えるのだという。
 もう一つおもしろい話を聞いた。それは、この町に進出してきたオートバイ会社の話である。あるエンジン関係の会社が、中江藤樹の遺跡を多く遺すこの地域に支店を設けた。住民たちは喜ばなかった。 エンジンが騒音を立てるため、一種の公害と見られたからである。
 その住民感情を支店長が敏感に察知した。しかしかれにすれば、やはりいったん設けた支店をそのまま撤収するわけにはいかない。支店長は、「なんとかしてこの地域に溶け込みたい」と考えた。そして、「この地域の特性はなんだろうか」と探った。結果、前に書いた藤樹書院の前を流れる溝の中の錦鯉の群れや、あるいは市民たちが交代でその溝の中にしつらえる台の上の盆栽を見た。
 支店長の胸にひらめいたものがあった。(これだ!)と思った。これだというのは、「中江藤樹先生の精神をわれわれも大切に生かそう」ということである。藤樹書院の前を流れる溝に示されているのは、「きれいな町づくり」の精神だ。支店長は支店員に頼んだ。
「われわれはこの地域に溶け込みたい。それには、やはり地域の人びとの感情をよくすることが大切だ。この地域に伝わっているのは中江藤樹先生の精神で、それは町をきれいにするという伝統だ。これに従おう。そのために、われわれは一時間ばかり早く出勤して、近辺の掃除をしたいと思う」
 支店に勤める人たちも、住民感情が悪化していることは知っていた。そこで支店長のことばに従った。黙々と近辺を掃除する支店員の姿を、住民たちはしばしば目にした。やがてそんな支店員の姿を見ながらささやきだした。
「あの支店の人たちは感心ね」
「藤樹先生のお気持ちを自分たちのものにしている」
 無言の奉仕が住民たちの気持ちを少しずつやわらげていった。
この地域には高校生もたくさんいた。 高校生の通う学校は遠い。そのためにかれらはつねに「軽エンジンのオートバイ(原付き)がほしい」と思っていた。軽エンジンのオートバイはその支店で扱っている。店にも展示されていた。
 高校生たちはしばしば展示品を眺めては、互いに(ほしいなあ) と語り合ってきた。そこで親にせがんだ。 親も以前だったら、「絶対に駄目よ。 あんな店では買わせません」と言ったことだろう。しかし無言の清掃行為がものをいって、親も承知した。支店に軽エンジンのオートバイ購入の申し込みが増え、それが口コミで伝わって、ほかの地域からも買いにくる客が増えた。支店長の、「藤樹精神をいまに生かす」という方針が成功したのである。
 この話はわたしが実際に体験したことで、実を言えば、そのエンジン会社の社長をよく知っている。社長は、「商売はソロバンだけではだめだ。心が大切だ」と言って滋賀県から出た“近江聖人”を尊敬していた。
(p155)

 

こんなに後世までうまくいくことなんてあるんだ、と関心してしまいました。

中江藤樹さんは40歳で亡くなっていますが、本当に真摯に村人と教育に向き合ったことが実を結んでいるようです。

いつか住居跡を訪れたいです。

 

takashima-kanko.jp


最後に紹介されている日蓮の人物評は、内村鑑三キリスト教思想家としての考え方が色濃く反映されているように思いました。

 

――日蓮ほど謎に満ちた人物はいない。 敵から見れば、日蓮は冒演者、偽善者、私利私欲の輩(やから)、山師であった。 かれのいかさまぶりを証明しようとさまざまな本が書かれた。 非常に手の込んだものもある。 かれほど日本で誹謗中傷の的となった人物はいない。しかも日本ではキリスト教徒もこれに加担していた。
――しかし私はこの人間のために、必要ならば自分の名誉を賭けてもよい。 日蓮の教義の多くが今日の批評の試練に堪えられないことは認める。 日蓮の論は洗練さに欠け、全体的な論調にも錯乱が見られる。かれはたしかにバランスを欠く性格の持ち主で、一方向に偏る傾向があった。
――知性のうえでの誤りや、生まれながらの激しい気性、そして日蓮の生きた時代と環境がおよぼした影響などを取り除いてみよう。そこに見えてくるのは、心の芯まで誠実で、だれよりも正直で勇敢な日本人の姿である。単なる偽善者であれば、二十五年以上もその偽善を続けることはできない。 かれのためなら命を差し出してもよいという何千人もの信奉者を持つこともできない。 「不誠実な人間に宗教を興せるだろうか。そんなはずはない。 偽りの人間はレンガの家さえ建てられないからだ」とカーライルは主張している。
 現在の日蓮宗の浸透状況を見定めた内村鑑三さんは、
日蓮こそ恐れを知らない人間であり、その勇気の根底には、自分は仏陀 がこの世へ遣わした特別な使者だという確信がある。日蓮自身は“海辺の貧しき民”でしかない。しかし法華経を伝える媒体としての能力について、日蓮は天地全体と同じほど重要だった」
と熱を込めて日蓮を評価する。
「ルターにとってキリスト教の聖書が尊いのと同様に、法華経日蓮にとって尊いものだった」と繰り返し、「わが経のために死ねるなら、命など惜しくない」
と、危機に直面するたびに日蓮が口にしたことばを繰り返しておられる。そして、「日蓮を罵倒している現代のキリスト教徒には、自分の聖書がほこりをかぶっていないかよく見ていただきたいものだ。毎日聖句を口にしていても、その教えを熱心に守っていたとしても、十五年もの剣の圧力や流刑に耐えられるだろうか。 人びとに受け入れてもらうために天から遣わされたとしても、そのために人生や魂を捧げられるだろうか。 聖書ほど人類の福利に供してきた書物はほかにない。その聖書の持ち主が日蓮に石を投げつけるなど、もっともすべきではないことだ」

 と、キリスト教徒に対してもきびしい苦言を呈されている。
 結びで、内村さんは日蓮マホメットにたとえる。 マホメットも長い間、偽善者の汚名をかぶせられた。しかし歴史がマホメットをその汚名から解放したように、日蓮の正当な評価に向けて、もっと取り組むべきだったと言われる。

 たどたどしいダイジェストの仕方だが、内村さんが日蓮に託した自分の姿は余すところなく伝えられている。 文中に出てくる、 宗教改革者であるマルティン・ルターの中にも、内村さんは自分と日蓮とを重ね合わせている。 無教会主義の敬虔なクリスチャンだった内村さんは、それなりに社会からの批判を浴びた。まさに「孤立した山の上の一本杉」のように、強い風当たりの中で生きた。
 しかし、同じ目に遭いながらも、敢然として自分の信念を貫いた日蓮の姿が、どれほど内村さんを励まし、力づけたことか。同時に内村さんは、自らの姿を日蓮の行動の中に見たことだろう。

(p194)

 

伝道師として生きる内村さんが、自らと同じように批判された日蓮を拠り所にした、というところに、共鳴できるものがあったんだろうなと思いました。

またそれだけ、ご自身の生き方に大きな使命と困難があったであろうことも窺えます。

 

童門冬二さんの書いた内村さんの文章を引用することで、孫引きになってしまってわかりにくい説明となってしまい、お詫びいたします。

 

それほど厚みのない本ですが、どの人物評もとても興味深かったです。

内村さんが外国の人に日本人を分かってもらうために、各人物を研究して掘り下げて、ここを知ってもらいたいと力を尽くしたことが分かりました。

また童門さんが内村さんの気持ちをいることも伝わってきました。

 

伝記を読むのが苦でない人は、きっと得るものがあると思います。

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。