ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

諜報活動のモデルケースと呻吟。『坂の上の雲 六』を読んで

おはようございます、ゆまコロです。

司馬遼太郎さんの『坂の上の雲 六』を読みました。

 

六巻は秋山兄弟よりも、明石元二郎さんのロシアの内部撹乱工作がとにかく際立つ巻です。

 

 福岡藩の出身で、かれの士官学校同窓の牧野清人が語りのこしているところでは、
「当時の士官学校生徒といえば、地方の貧乏士族の子弟の逃亡者であった。 学費など国もとから送ってくるような境遇の者はいなかった」
 という点、秋山好古、真之の場合とおなじである。窮迫のあまり、生活費から学資まで無料という士官学校海軍兵学校に逃げこんだ秀才少年がほとんどで、厳密にいえばはたして軍人になることが好きであったかどうか、その全員について疑問であった。さらにいえば、かれらが秀才であったかどうかについても、その入学試験および選考の状態から考えて、疑問であった。すくなくとも日本の諸体制は日露戦争後に確立し、官立の諸学校は全国の秀才をよりどりに選抜することができたが、明治初年では、

――士官学校というものがあるそうな。
 という情報を知ったわずかな者だけが受験した。自然、その選抜はゆるやかで、入学した者のなかには、学力だけでなく人交わりの適合性を欠いた者も多かった。
 明石元二郎も、そのひとりかもしれない。
 かれが士官学校を卒業したのは明治十六年十二月で、その在学中の一時期の席次をみると、フランス語の成績が二十七人中の一番であり、漢学と算術もほぼ上位だったが、図学というのが悪い。しかし実際には明石の才能でもっともすぐれていたのは絵画および用器画で、その構想力とその描法の精緻さは常人の域を脱していた。
「もっともすぐれた間諜は、 もっともすぐれた構想力のもちぬしである」

 ということばがあるが、明石のそういう才能は図学の才能においてあらわれているのかもしれない。ただしかれの図学の成績が劣等であったのは、その用紙が、垂れ落ちる洟(はなみず)と手垢のためにいつも真っ黒になってしまうからであり、当時の学校教師というのはできばえの小綺麗さだけで採点したようだったから成績劣等であったのもむりはない。ともあれ、劣等の成績でありながら、かれは図学となれば熱中した。
 軍人のくせに運動神経に欠けていて、走らせてもびりっこだったし、器械体操はまるでできなかったし、その上、服装という感覚においてはまるで鈍感で、自分の姿(なり)というものを自分で統御するあたまがまるでなかった。
 この点、好古もおなじだったが、好古よりもはるかにひどい。 明石は生徒のころから陸軍大将になるまで一貫してそうであった。 ポケットの底はみなやぶれていたし、ときどきボタンがちぎれており、軍服のところどころがやぶれていて、サーベルの鞘(さや)などはたいていさびていた。こういう人間は日露戦争後の士官学校にはとても入れなかったろうし、入れても学校生活についてゆけなかったであろう。明治初年の粗大な気分のなかでこそ、彼はかろうじてゆるされた。
 日露戦争後、明石が陸軍の総帥の山県有朋の自邸をたずね、自分のある構想を語って夢中になり、小便をズボンの中で垂らし、どんどん垂らしてついには床をつたわって山県の足まで濡らし、それでもなお語りつづけたというこの変な性格は、とうてい秩序が整備された時代ではうけ入れられるものではない。

(p138)

 

図学の才能に抜きん出ているのに、用紙を鼻水と手垢で汚して劣等の評価って。教える先生も困惑したことでしょう。

しかし、外国人とのパーティーで名刺を忘れた人のために、その場で印刷と見紛うような文字を入れた即席の名刺を10枚ばかり作成した、という逸話があるので、成績はともかく、製図を書いたりするのは得意だったんでしょう。

そして山県さんのお家でのエピソード、とんでもないですね。

「山縣もその熱意にほだされ、小便を気にしながら対談を続けざるを得なかったという」(ウィキペディアより)とあるから、別に怒られはしなかったのかもしれませんが、強烈すぎます。

 

 スウェーデンの首都ストックホルムへむかう途中、公使館の文官のなかには、
「とてもこのような大国と戦争をしても勝ち目がない。日本は早まったことをした」
と洩らす者がいた。が、明石は、
(やりようによれば勝てる)
 とおもったのは、帝政ロシアの官僚の腐敗と専制に対する人民の怨嗟(えんさ)の声が、その内情を知れば知るほど深刻だということがわかり、これを煽動すれば帝政はその内部から崩壊するのではないかと思ったからであった。この明石のロシアの実情把握は、文官のたれよりもずばぬけていた。さらには明石は、
(それ以外に日本の勝つ道はない)
 と、おもっていた。しかしながら明石はその決意については栗野公使にも話していなかった。
 栗野はただ、
――明石は日本に帰らず、ヨーロッパでロシア情報をあつめる仕事をするらしい。
 ということだけはわかっていた。
 しかし、明石には助手がおらず、
(たいしたことはできまい)
 とも、栗野はおもっていた。
 元来、駐露公使館には、ながくロシアにいてロシア語に堪能な武官がいた。 塩田武夫という中佐で、明石が赴任してきて以来、明石の助手をつとめ、実際上の諜報業務はこの人物がやっていたのだが、開戦にあたってかれは、
「自分は日清戦争にも従軍できなかった。こんどの戦争ではぜひ従軍したい」
 といって、これ以上ヨーロッパに残ることをいやがったため、 明石はその希望をゆるした。塩田が極東の戦場へむかって去ってしまえば、明石は一人になる。が、塩田のたすけをかりることは無用だと明石は考えていた。塩田はなるほどロシア語には明石よりはるかに堪能だが、戦略眼がなく、せいぜい情報あつめができる程度の能力しかない。明石が考えている大構想からすれば、塩田は無用の存在であった。
 このストックホルムへの列車のなかで、明石はずっと無言でいた。
 ただかれがとくに親しかった書記官の秋月左都夫(さつお)に対してだけは、多少の会話をもった。
「ロシアに革命が来るかどうかは、私にはまだわからない。しかし山の木は十分に枯れている。 火をつければ山火事ぐらいはおこせそうだ」
 ということを、明石は語った。

(p150)

 

明石さんは日露開戦までロシア公使館付武官を務めていた方ですが、

帝政ロシアの官僚の腐敗と専制に対する人民の怨嗟(えんさ)の声が、その内情を知れば知るほど深刻だということがわかり、これを煽動すれば帝政はその内部から崩壊するのではないかと」考えて、ロシアに勝てるかもしれない、と判断するのがすごい。

インターネットもメールもない時代に、肌感覚でその国を俯瞰して見るだけでなく、資源や兵力で劣る自国がどうやったら凌駕できるか?を考え、先回りするのがさすがです。

 

 要するに明石元二郎の諜報と革命煽動の基盤は、ストックホルムのカストレンの隠れ家でできあがった。
「煽動」
 といったが、厳密には明石は煽動ということばに値いするような言辞は一度もつかっていない。
 使ったといえば、
「日本は、ポーランドフィンランドになりたくない。東京がワルシャワヘルシンキになって、東京の宮城にロシアの総督をむかえるなどはごめんである」
 ということをいっただけであった。
 明石はロシア通だけに、この戦争にロシアが勝てばどうなるかがよくわかっていた。
 朝鮮半島は、ロシアの領土になるだろう。日本は属邦になることはまちがいない。
 ロシア帝国はその威容を示すために、ヘルシンキでやったと同様、壮大な総督官邸を東京に建てるだろう。さらに太平洋に港をもちたかったというながい願望をはたすために、横須賀港と佐世保港に一大軍港を建設するにちがいない。
 憲法は停止し、国会議事堂を高等警察の本部にするに相違なく、さらに幕末以来、ロシアがほしがった対馬日本海の玄関のまもりにすべく大要塞を築き、島内に政治犯の監獄をつくるであろう。銃殺刑の執行所をもうけるであろう。
 いまひとつ、東京には壮麗な建物ができるにちがいない。ロシア帝国はその国教であるギリシャ正教をその軍隊同様、専制の重要な道具にしており、げんにヘルシンキの中央広場にこの異教(フィンランド人にとって)の大殿堂がつくられているように、日比谷公園に東洋一の壮麗な伽藍をつくるであろう。
 明石はロシア語をまなんだとき、極東のウラジオストック (Vladivostok) という町の名は東を征服せよという意味であることを知ったが、運命のしだいではロシア帝国の東 (vostok)が東京になるかもしれないということをおもった。
 明石が、反露党のどの志士に会ってもそのことだけを言った。それさえいえば、すでにロシアの侵略政策の犠牲になっている国々のひとびとは、
「日本までが自分たちの国とおなじ運命になってはいけない。逆にもし日本がロシアに勝てばロシアの爪がゆるみ、われわれはこの現況からのがれられるにちがいない」
 と言い、かれらは日本と運命を共同している感をふかく持った。純露人の不平分子に対しても右と同様のことをいった。
 かれらも、この言葉に共感した。
「われわれ純露人も、ロシアの専制皇帝に支配されており、属邦のひとびと以上のくるしみを受けている。日本国民の恐怖はよくわかる」

(p170)

 

日本がロシアに負けたらどうなるか、という具体的な想像が怖い。ロシア語を学んだ際に既に、東京も征服されるかもしれない、とイメージしているのもリアルですね。

明石さんはロシア語の他フランス語、ドイツ語、英語も完璧に理解していたらしいです。

個性豊かな人材が士官学校に入ってきたことからは、今よりもおおらかな空気を感じますが、実際には、諸外国に追いついて追い越さなければ、日本の領土はなくなるという緊迫感のある時代であったことがうかがえます。

 

 このブント党が、
「シリヤクスは、明石という日本の将校の手先になっている。だから参加しない」
 と、いちはやく表明していた。ブント党が明石をきらう理由は理論的にはありえないのだが、内実はそれは口実で、ブント党の友好団体である「ロシア社会民主労働者党」が、不参加を表明したため、それに同調しただけであるともいえた。ついでながらこの「ロシア社会民主労働者党」が参加することをやめた理由は、いちがいにいえないが、要するに大党派の面目としてシリヤクス程度の提唱でパリへ代表を送るということがおもしろくないというような気分的要素があったであろう。すくなくともシリヤクスはそうみていた。
 ただし、この党はすでに二つに分派していた。一九〇三年、ボリシェヴィキメンシェヴィキの両派にわかれ、レーニンボリシェヴィキをひきいた。
 そのレーニンはシリヤクスの提案に対して好意的であった。
「われわれは大会には参加しない。しかし革命のための具体的運動の段階で協力すべく努力する」
 という意味のことをシリヤクスに明言した。事実、この派はのちにそのことばを裏付ける行動をとった。
 またポーランド関係の諸党のうちには、

「そういう大会をひらくことはかえって危険ではないか」
 と、ためらう空気があった。
 ポーランド人は、歴史的にロシアの武力弾圧をもっともつよくうけてきたため、あらゆる反抗運動において消極的もしくは細心であり、用心ぶかかった。


 ロシアとポーランドの関係は、歴史時代における日本と朝鮮の関係にやや似ている。
 ふるい時代、日本は朝鮮を通じて大陸文化を受容した。朝鮮が日本の師匠であったが、はるかな後年、いちはやく近代化した日本が朝鮮を隷属させようとし、げんにこの日露戦争のあと、日韓合併というものをやってしまい、両国の関係に悲惨な歴史をつくった。
 ロシアの場合も、
「すべてはポーランドからきた」
 とまでいわれたほどに、西方のゲルマン文化を東方のロシアにうけわたす役割をした。
 しかもその統一国家の歴史は十世紀にはじまっているから、十五世紀になってようやくロシア人出身の王を持ったロシアよりも国家としての歴史がふるい。さらには、西洋の中世において高い文化をつくりあげたため、民族的自負心の上でも、ポーランド人はロシア人を軽悔していた。
 そのポーランドが、ロシアの属領になってしまっているため、壮丁が大量に徴兵され、極東の戦線で斃(たお)れつつあり、かれらの死は民族のためにまったく無意味であるばかりか、帝政ロシアを倒してくれるかもしれない日本人を殺すことは民族のために有害でさえあった。そのことはポーランドにおけるすべての反露運動家がそう信じていた。
 明石は、そういう背景のもとに、
ポーランド人をこそこの大会にひき入れねばならない」
 とおもっていたが、しかしすでに触れたようにポーランド反露諸派のなかには、ロシアの弾圧をおそれるあまり、この大会に参加すまいという動きがあることも事実であった。
 九月のはじめ、明石はストックホルムからロンドンに転じた。
 そのとき、ロンドンの日本公使館にポーランド社会党の首領のヨードコーとその幹部数人がたずねてきたのである。
「こんどの大会について、一部に疑念がある」
と、ヨードコーがいった。ヨードコー自身はこの大会に賛成であったが、その傘下(さんか)の者には、
――背景に日本のスパイの明石がいる。
 ということで不参加を主張する者があり、ヨードコーとしてそれをおさえきれない、というのである。
 明石は、即座にいった。
「この大連合を立案し、 推進させているのは、 あくまでもフィンランド人のシリヤクスである。シリヤクスの誠実、シリヤクスの度量、シリヤクスの勇気については諸君もよくご存じであろう。自分もまた彼の身命をなげうっての活動に感じ入り、自分にできることがあればこれをたすけたい、とおもっているだけのことで、自分にはなんの関係もない。諸君がこのシリヤクスの誠実な運動に対していたずらに猜疑(さいぎ)の目で見、共同の敵が何者であるかを見うしなうのは遺憾なことであるが、しかし元来この運動が自分の関知せぬところだからどうなってもよろしい。むろん貴党がこれに参加しようとしまいと、それは貴党の問題であってこの明石になんの関係もない」
 と、いった。この明石の言葉が、ヨードコーの気持をあかるくした。


 明石とシリヤクスの事業――パリ大会はその実現にむかって急坂をのぼりつつあった。
 この途中での苦心は無数にあったが、明石は晩年になってもほとんど語っていない。
 (p198)

 

ロシアとポーランドの関係を、日本と朝鮮の関係になぞらえる考察が面白いです。

ロシアの属領になってしまっているけど、歴史は古いし、民族的な自負心もあるから、ロシアの兵力として投入されるという事態は受け入れられない、とポーランドの人が感じるのももっともだなと思います。

 

 パリをめざしたのはその後のロシア国の事情を知るには、ストックホルムのような田舎よりもパリのほうが便利だろうとおもったからでもある。

 

 この時期の明石は、その後かれの名を高からしめた「反乱用の兵器の購入」という大仕事のために奔走していた。
 この兵器購入はかれが企画したものではなくシリヤクスその他不平分子の企画と要請によるものであり、明石は財布といっしょに潮流に乗っていればよかった。明石のくわだてはつねにそうであった。むこうからの要求にあわせてゆくものであり、その点つねに無理がなかった。
 ただ無理をしなければならなかったのは、この購入と輸送についてロシア官憲の目をどのようにしてくらますかというところにあり、この点でこの事業は半ば失敗した。
 いずれにせよ、明石が、スイスで買いつけた兵器弾薬は、小銃一万六千挺(ちょう)、小銃弾百二十万発というばく大なものであった。これだけで後備の一個師団は編成できるであろう。
「これだけの兵器でパルチザンをつくれば、ロシア国内は名状しがたい混乱におち入り、とうてい極東で戦争などしておれなくなる」
 と、シリヤクスは大よろこびであった。
 ところでこの輸送方法をみつけるのが大変であった。これらの兵器弾薬をまずスイスから陸路運びだすには、貨車八輛を必要とした。さらにそれをバルチック海沿岸にもってゆくには汽船を必要とする。このため明石はジョン・グラフトン号(七〇〇トン)という中古汽船を一隻買った。
 スイスでの兵器買いつけは、スイス人の無政府党員で自動車商会を経営しているボーという人物がやってくれた。スイス陸軍の砲兵工廠(こうしよう)の長官にわたりをつけてその点はうまく行った。
 その輸送については、日本の在欧商社で高田商会というものに依頼した。
 この兵器輸送は明石が滞欧中もっとも苦心したところであり、半ば成功したが、しかし実際にそれらがロシアの革命分子の手にわたるのは日露戦争の講和後のことであり、従ってロシア革命史にとって意味があるにしても、日露戦争には直接の影響はなかった。このため、その詳細については省略する。
 ガポンはロシアを亡命した。
 かれは「血の日曜日」事件のため国内におれなくなり、国外の革命組織にとびこみ、身をゆだねた。
 この時期のどの革命組織の指導者もかならず明石に会った。ガポンも、シリヤクスの手をへて明石に会うべくイギリスに渡った。
 明石はこのときロンドンのチャーング・クロスというホテルにとまっていたが、ガポンが偽名をつかってたずねてきた。
 明石はガポンと会った翌日、ロシア密偵につけられていることをさとり、他の旅館に移った。明石とガポンとのあいだにどのような会話があったかは不明だが、ガポンが明石の兵器調達を知っていたことはたしかであった。


 この項をおわらねばならない。
 明石は晩年、
「往時をおもえば、胸がいたむ」
 と、しばしば述懐した。かれとともに欧州を舞台に反露運動をやった多くの志士たちはあるいは非業(ひごう)に斃れ、あるいは捕縛されてシベリアに送られ、生死の消息もわからなくなった。それらをおもうにつけて、元来詩人気質の明石は恨然とし、
「自分はよほど罪深いことをしたように思う」
 といったりした。かれは軍人である以上、野戦攻城の人であることをのぞみ、敵国の内乱をひきおこすためのしごとなどを痛快とはしていなかったようであった。
 さらにかれにとって戦友というのは日本軍人ではなく、ロシア人であり、フィンランド人であり、ポーランド人であった。戦後、従軍軍人たちが、酒席などで野戦における武功談などをしはじめると、明石はつねに不快そうな表情をした。かれはロシアをたおすしごとをしながら、ロシア人に対して深刻なほどの愛情をもってしまったようであり、さらにはロシア革命の行方にも細心な関心をもちつづけていた。
 ガポンが、一九〇六年四月、何者かに殺されたという記事をよんだとき、
「おそらく革命分子にスパイとして殺されたのだろう」
 と、判断した。明石はロンドンのチャーリング・クロス・ホテルでガポンと会ったとき、この僧侶に暗い翳(かげ)をよみとった。明石が察したとおり、ガポンはその仲間に殺された。
「ガポンは食わせ者だったかもしれないが、かれの名は永久に消えまい」
 とも、明石はいった。
 ガポンの名で象徴される「血の日曜日」事件があったあと、これに憤激した労働者大衆はストライキをもっていた。ストライキの波はひろがり、ロシアの戦時生産と輸送は、重大な支障をきたすようになった。
 さらに貴族の邸宅がしばしば襲撃され、首都の治安状態は悪化した。
 当然ながら内務大臣ミルスキー侯爵の責任が問われた。かれは皇帝から罷免(ひめん)された。
「ミルスキーは自由主義者だから」
 と、皇帝は他の者に洩らした。 ミルスキーが就任したとき皇帝はミルスキーでなければロシアは救えないというほどの熱の入れようだったが、結局はすてた。皇帝はそういう性格のもちぬしだった。ミルスキーはあとでウィッテに、
「いっさいの不幸な事件は、皇帝の性格が原因である」

 と、こぼした。 いっさいの不幸のなかには、むろん日露戦争もふくまれていた。
「今日は許可するかとおもえば明日は禁ずるという。ああいう当てにならない性格では、とうていロシア帝国を安定させることはできない」 
 皇帝は、つぎの内相として暴力政治家という異名のあったトレポフ将軍を任命した。同時にペテルブルグ総督の職を兼務させ、弾圧政策に乗りださせた。
 が、その報復はすぐ来た。皇帝の叔父であるモスクワ総督セルゲイ・アレクサンドロウィッチ大公が、モスクワの街頭で社会革命党員の投げた爆弾のために馬車ごとくだかれ、殺されてしまったのである。
 ともあれ、一月以後、ロシアの社会不安は、もはや革命前夜という様相を呈しはじめた。

(p237)

 

「ロシア国内にも貧困層を中心に皇帝専制への不満が渦巻いていたこともあり、潤沢な資金をばらまく明石の工作は功を奏してロシア国内でデモや暴動が頻発し、ロシア宮廷は日本との戦い以上にこうした獅子身中の反乱分子に大いに悩まされることとなる。」(ウィキペディアより)

こうやって反抗運動に加わってもらったり、のちのロシアの革命分子と接触して信頼を得たりと暗躍する場面は、読んでいてなかなか心躍ります。

ただ、敵国とはいえ混乱を引き起こす事態に関わったことを快く思っていなかった、と振り返る明石さんの言葉からは、協調性がないと評されながらも、国を超えて知り合った人を戦友とみなす彼のまっすぐな心根が見えるようで、多くの葛藤があったであろうことが伝わってきます。

 

今回突然六巻の感想を書きましたが、前回五巻を読んだのがいつだったか分からないくらい間があいています。このブログに記録がないことから、もう何年も前だったことは確かです。全巻を読み終わるのにはどのくらいかかるのか。司馬遼太郎先生に申し訳ない気持ちです。

ただ、久々にこの本に戻ってきても、いま何の話だっけ?とならないで、すっとこの話に入っていけるのが安心感があるなあといつも思います。

 

次に松山を訪れる際には「坂の上の雲ミュージアム」へ行ってみたいので、それまでには読み終えるぞ、と思っています。

 

www.sakanouenokumomuseum.jp

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。