ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

国際社会の直視と連携が不可欠では。『ウイグル大虐殺からの生還〜再教育収容所地獄の2年間』を読んで

おはようございます、ゆまコロです。

 

グルバハール・ハイティワジさん&ロゼン・モルガさん、岩澤雅利さん(訳)『ウイグル大虐殺からの生還〜再教育収容所地獄の2年間』を読みました。

 

タイトルに「ウイグル大虐殺」とあるように、新疆ウイグル自治区で起きていることはジェノサイドとして報じられています。

「大虐殺」や「ジェノサイド」と聞くと、多くの人が殺害されているような印象を受けますが、ここで行われているのは、もっと手が込んでいて、異なる文化圏や思想集団の人達を蹂躙する処置でした。

 

 会社からの連絡など、もう何年も来ていない。男の急いでいるような話し方を私は感じが悪いと思ったが、話し終えたあと、十年前のことが頭に浮かんできた。ブーローニュの自宅のキッチンを歩きまわりながら、私は黄土色の石でできた大きな建物を思い出した。 金属探知機を通ると庭が現れ、バーゲートが客を歓迎するように持ち上がる。 私は電話の男を思い浮かべた。おそらく小柄で、長方形の眼鏡をかけた顔で、キャスター付きの椅子に腰かけている。電話の声の向こうからかすかに音が聞こえたエアコンは、彼の後頭部と、勢いよくパソコンのキーボードをたたいている秘書の指先に風を送っていることだろう。彼らのいる部屋はきっと狭くて、外気がほとんど入らず、 黄ばんだ壁紙は角のところが剥がれかけているだろう。
 私はあの会社が好きだった。そしてあの仕事がたまらなく気に入るようになった。以前は医師か看護師になりたくて、高校を卒業したあと新疆の医科大学すべてに願書を出した。しかし私の成績は合格ラインに届かなかった。それで、石油関係の技術者になるためウルムチ石油大学に入学することになった。好むと好まざるとにかかわらず、私は自然に数学と機械工学になじんでいった。医学生が解剖に臨むように私たちは、電気配線のコネクターからギアボックスにいたるまで、たくさんの機械の腹をあけて内部を研究した。私はとびぬけて優秀というわけではなかったが、なんとか勉強をこなした。製油所の設計図を考えるのはほんとうに好きだった。大判の紙に、鉛筆でまるで建築家のように、煙突やクレーンやポンプを複雑に組み合わせた製油所の輪郭を描いていく。毎月、先生が教室の壁に、できのよかった四つの設計図を貼ってくれる。私はいつもそのなかに入っていた。誇らしかった。
 ケリムと私は入社後カラマイに配属された。そのころは、保証される給料が、石油会社での厳しい労働を埋め合わせてくれる額だった。 砂漠のなかで、 クレーンのすさまじい音を聞きながら働くことに魅力を感じたわけではないが、会社の規則で新入社員は一年間を工場で過ごすことになっていた。倉庫の横に水平に積み上げられた、大きく口をあいた何本ものパイプライン。空中を舞う機械の絶えまない動き。そうした機械の鋭いバケットが、 できたばかりの白熱した鉄管を炉から引っぱりだす様子。 焼けるようなにおいのする溶接部がきしむ音。 そして二本の鉄管の端を作業員が青い火花を散らしながらつなぐ様子を、私は一生忘れないだろう。
 次の年、私は郊外に点在する採掘地ではなく、カラマイ支社に配属されたのでほっとした。そこでは生産の安全管理施設を任された。 今度もまた大学で習ったことのない仕事にぶつかったのだが、 やがてこの仕事が好きになった。数年が過ぎ、私は自分を成長させてくれた会社に感謝の気持ちを抱いていた。ウイグル人に対する差別はあるにしても、会社はケリムと私に、生活の不自由なく娘たちを育てるのにじゅうぶんな給料を払ってくれた。
 そして二〇〇二年、ケリムが新疆を出発した。 彼がいなくなって、生活は綱渡りのようになった。来る日も来る日も長いトンネルのなかにいるようで、考える余裕もなく、ただうなだれてそのトンネルに飲みこまれていた。私は仕事と育児と炊事と掃除をこなし、どうしているか心配なケリムとは電話で話をするだけだった。
(p34)

 

ウイグルで技術者として仕事をし、子どもを産んで、充実した日々を送っていた頃のグルバハールさんの眩しい思い出です。こんなにやりがいを持って臨んでいた職を、ある日突然会社に乗り込んできた人たちに奪われるという出来事だけでも相当に受け入れがたいのですが。

グルバハールさんはパリ西郊に移り住んだあと、帰国を促す電話に応じたため、留置所、そして再教育収容所に送られることになります。

 

 かくして、その日がやってきた。 一八日の午前中、私たちは全員、教室の自分の席についた。この日のために、自分の青い制服もしっかり洗った。テレビのスクリーンだけが光っている教室のなかで、石鹸の香りが汗のにおいと混ざりあっていた。 画面には宣伝バナーがくり返し流れていた。緊張感が高まってくる。 ついに北京からの中継が始まった。人民大会堂のえんじ色の分厚いカーテンの下で、何千人もの忠実な党員の割れんばかりの拍手を受けて、中華人民共和国主席が演壇に現れた。
 その人の顔は、写真や肖像画、テレビですでに見たことがあった。けれども、これまでほんとうの意味で注意して、その姿を見たり話を聞いたりしたことはなかった。 すでに述べたとおり、政治は私の関心事ではなかった。 なるほど、習近平とはこういう人なのか。テレビ画面のフレームに収まったその姿は、私にはむしろ無害な人のように思えた。 肉づきのいい顔をして、ボタンつきの黒いジャケットをまとった堂々たる恰幅の上半身は、人当たりがよさそうに見えた。演説はとても長く、熱がこもっていた。収容所にひびきわたった愛国歌も忘れられない。 椅子から立ちあがってもいいタイミングを見はからって教官が音頭を取りはじめ、私たちは精一杯大きな声を出して、習近平と彼が率いる国家の栄光をたたえる歌を歌った。

 

 共産党がなければ新しい中国はない
 共産党は国民のために労苦をいとわない
 共産党は心血注いで中国を守る

 

 とりわけ私が覚えているのは、習近平が党書記に再選されると、バイジャンタンでの生活が変わったことである。ところが残念なことに、期待していたとおりに変わったわけではなかった。
 まず自由時間がなくなった。もともとここでは週末などというのは存在しておらず、毎週休まず夜明けから日没まで学習していた。どの日も前日と似たり寄ったりで、かれこれ何カ月もそれが続いてきたのだ。それでも土曜日と日曜日はいつもと違っていた。その日にこなさなければならない授業や掃除などの日々の雑用があっても、一日の終わりに数時間だけ、自分たちの居室から出ることができたからだ。そうした恩恵は必ず与えられるというわけではなく、監視員の機嫌に左右されたが、このめったにない休息の時間のあいだに、私たちはほかの部屋からの訪問を受けたり、自分たちも収容所の「お友だち」の部屋に行ったりした。 囚人生活ではあったが、 それでもある程度は人間らしい生活だった。
 監視員の見張りがゆるくなるこうした休みのあいだに、収容所について多くを知った。 サイコロや角が折れたトランプを囲みながら会話がはずむ。 中国語の歌が廊下にひびきわたるなか、この一週間のバイジャンタンの最新情報は口コミで私たちのあいだに伝わっていく。ここのところ誰もが口にした話題があった。 ワクチン接種―私たち全員が強制的に注射を打たれたのだ。
 ある朝のこと、監視員が私たちを順番に保健室へ連れていった。私たちを待ち受けていたのは白衣を着た漢人のグループだった。延々とわめき、拒否しつづけても、私は注射を打つか打たないかの自由を与えてもらえなかった。職員のひとりが診察台の横に置いてあった注射器一式を指差しながら私に言った。「グルバハール、あなたにはワクチンを打たなければならないの。あなたは五十歳だし、免疫力が落ちているから接種しないとインフルエンザにかかりかねない。ね、私もあなたと同じようにこれからワクチンを打つのよ」。 あとで報復されるのが怖くなった私は、同意書に署名をし、腕を差し出した。 さきほどの職員の同僚が私に注射を打った。 おろかだった。いまならあの職員が私に嘘をついていたのがわかる。 彼女はほかの収容者たちにも同じことを言っていた。けれどもそれだけではなかった。自由時間のあいだに、多くの女性たちが恥ずかしそうに、生理が来なくなったと打ち明けたのだ。なんでも、ワクチンを打った直後から月経が止まってしまったという。若い娘たちは泣いていた。その多くが婚約中で、収容所を出たら家庭を築きたいと願っていた。すでに閉経を迎えていた私は、「だいじょうぶよ」と彼女たちを安心させようとしたが、心の底では恐ろしい想像がふくらんでいた。彼らは私たちに不妊処置をほどこしているのだろうか......。
 さらに、あの共産党全国人民代表大会が終わってからというもの、私たちはたがいに視線や笑みを交わすことすら許されなくなった。「視線を下に! 目を合わせるな!」と監視員たちがどなる。 収容者たちの列がそばを通ると、私は床に目をやり、自分の見苦しい黒い上履きをひたすら見つめる。食堂でも、衛生管理の名目で集められるときも同様だった。なぜこうしたなけなしの自由ですら奪われなければならないのだろう? 毎日、新しい女性たちが収容所に送られてくる。 隣りの居室は最近着いた者でいっぱいになった。彼女たちのおびえた顔が目に入る。 元気づけてやりたいし、注射を打たれないようにしなさいと大声で注意したい。けれどもそうしたところで、どうなるというのだろう? 結局彼女たちは注射を打たれてしまうだろうし、私は罰を受けるはめになるだけだ。だから私は何も言わなかった。バイジャンタンではどんどん人が増えているのに、私はこれまでになく孤独だった。
 外では何か奇妙なことが企てられている。そんなふうに感じる。新疆での混乱状態が収容所の壁に反響して、遠くからひびいてくる声が私たちの耳にも届いていた。 監視員たちはとくに神経質になっていて、公的機関の視察があると言った。ウルムチ共産党地方支部の幹部が「衛生状態と教育内容を調べるため」近日中に収容所にやってくるという。「優秀な生徒には、彼らの質問に答えてもらいます」。私もそのうちのひとりだった。まったくお笑いぐさだ。 答えといっても、暗記するように命令された嘘のかたまりでしかない。もし誰かが私に質問をしたら、このように答えなければならない。
「職業教育訓練センターでの生活はとても幸せです。 ここでは仕事を学び、じゅうぶんな食事をとらせてもらっているからです。 少しお給料ももらえるんですよ。 服や生活必需品はすべて支給してもらっています」。 でたらめばかりだ! 私たちは、衣服も洗面用具もほとんどもらっていなかった。ここで私たちがくり返し言われたただひとつのこと、それは、ウイグル人はテロリストなので自己批判しなければならないということだった。なぜ私たちはそんなふうに嘘をつけと命令されなければならないのだろう。彼らには何かやましいことがあるのだろうか?
(p112)

 

互いに目を合わせることを禁じられるのは何の意図があるのでしょう。結束するのを防ぐためでしょうか。

ワクチンと銘打った注射で生理を止めてしまう描写が恐ろしいです。そしてそれを、後からやってきた仲間に伝えることもできないなんて。

 

 家族は、私が意志に反して新疆にとどめ置かれていると確信していた。私は十三年前に新疆を離れ、フランスに政治亡命した男性と結婚しているので、事実上、中国共産党にとってまたとない標的だった。水面下で動いている外務省の担当グループは、フランスにいる私の家族に助言や励ましを与えてきたが、有力な手がかりはひとつも得られないままだった。そのようななかでようやく、二〇一七年六月にカラマイの隣人がグルフマールからの電話に出て「あなたのお母さんは学校にいて、無事よ」と教えてくれた。
 悪い予感が当たったのである。いまや私が「再教育」を受けていることは明らかだった。 これらの「学校」あるいは「職業教育訓練センター」は、実際のところ砂漠に建てられた収容所だ。NGOによれば、一〇〇万人以上のウイグル人がこうした「再教育収容所」に監禁されている可能性があるという。
 ヨーロッパやアメリカでは在外ウイグル人を代表する組織が、これは民族的・文化的なジェノサイドだと声を上げている。これらの組織はくり返しデモを行って、中国政府によるウイグル人への弾圧を糾弾しているが、それも裏づけとなる証拠があるからだ。 在外ウイグル人によって蓄積された情報のインターネット・データベースである《新疆被害者データベース》 には、収容所に入れられた人々の一覧が掲載されている。
「アリム・スレイマン(四〇一四番)、三十三歳、男性。 職業:医師、逮捕:二〇一七年、判決:十年、判決理由: 外国に居住したため」 「シャディエ・ザキール (一五九七番)、五十七歳、女性。 職業:技師、逮捕: 二〇一八年、判決: 七年、判決理由: 外国に居住したため」「ミネウェル・トゥルスン(一六〇一番)、四十三歳、女性。 職業: 主婦、逮捕:二〇一七年、判決:情報なし、判決理由:外国にいる人々と連絡をとったため」「コナイ・カシムハーン (二四四四番)、 四十一歳、男性。 職業:情報なし、逮捕:二〇一八年、判決: 十四年、判決理由: 宗教」......。
 こうした収容所には数十万人のウイグル人が拘留されている。だが、中国の「ネット版万里の長城」によって、新疆ウイグル自治区の位置情報はアクセスを遮断されているので、そうした収容所の正確な位置を特定することはできない。海外に亡命したごくわずかの生存者の証言によって、収容所の存在が確認されているのだ。 こっそり撮影され公開された写真には、青いつなぎを着た丸刈りにされた収容者たちが砂漠の真ん中で列をなしてすわっているようすが写っている。
 私の窮状を説明するために、グルフマールはアメリカとトルコで難民として暮らすふたりの生存者の話にもふれた。それらの話はとても信じられないものであった。同室のほかの四十名の女性たちとともに、交代で寝ずの番をしているというものである。 食事には味がなく、謎の薬によってしだいに記憶が失われ、懸念が生じるほどの無気力状態におちいってしまう。女性たちは月経を失うと同時に時間の感覚も失ってしまう。さらには電極がついたヘルメットをかぶせられて、電気ショックを与えられることもあるという。
 だが、その夜、《フランス2/24》のスタジオで、グルフマールが語らなかったことがあった。 ブーローニュの自宅のすさんだ状態だ。かつてはきれいに保たれていた居間の書棚の本にはほこりが分厚くかぶっていた。ケリムはタブレット端末でいらいらしながら新疆のニュースを指でスクロールするとき以外は、居間をぐるぐると歩きまわっている。煙草を何本も吸いつづける。 放置されたプランターの横に置いてある灰皿には《ウインストン》の吸い殻がたまる一方だった。グルニガールは自室に引きこもり、スマートフォンに見入っているとき以外は枕に顔をうずめていた。
 私の失踪以来、長女のグルフマールが家事をやっていた。 週三回、仕事帰りに立ち寄り、食事のメニューを考え、冷蔵庫に食事を詰め、使われていない家具にはたきをかけてきれいにした。明かりのついていない放置された部屋のドアを開ける気力が起きないこともたびたびだった。グルフマールの乱れた心を映しだすかのように実家の散らかりぶりはひどく、夜、くたくたになりながら自分の夫カイセルと暮らしているナンテールの住まいに帰ってくると、感情を抑えきれなくなった。 心の痛みをぶちまけ、涙にぬれた顔のまま眠りに落ちてしまう。それでも朝になると、怒りで目が覚めた。彼女のアルタイ出身の祖母が言っていたように、その怒りはカザフ人としての出自に由来するものだった。この「気が強い」 グルフマールの性格は、私もよくわかっていた。

 

 二〇一九年二月末、《フランス24》 に出演したグルフマールの告発は、一般大衆にはほとんど気づかれずに終わった。しかしながら、とくに学生を中心とした、これまで目立たなかったフランスのウイグル人コミュニティには、文字どおりの衝撃を引き起こした。 フランスに住むウイグル人は、なかば恐怖を感じながらも、SNSで次々にその動画をシェアした。グルフマールは彼らに新鮮な空気を送りこんだのだった。というのも、数ヵ月前から彼らは、中国の知らない番号から電話がかかってきたりショートメッセージを受信したりしていたからだ。 メッセージは新疆の警察署からだった。情報機関が口述したものを、新疆当局の職員たちが送信していた。職員たちは外国へ移住したウイグル人を調査し、スパイする役目を担っており、そうした「裏切り者」を帰国させて、私と同じ運命をたどらせようとしていた。
 当局による在仏ウイグル人に対する要求はくり返され、ますます高圧的で具体的になっていった。賃貸契約書や在学証明書、卒業証書といったコピーを送るように求められた。ひとたび学生が罠にかかると、電話の向こうの正体不明の相手はしたたかになり、任務を押しつけてくる。 学生たちはフランスウイグル協会のイベントに参加し、その内容を報告するよう命令される。あるいはウイグル人コミュニティの影響力のある活動家に近づくよう命じられることもある。つまり、経済的に不安定な状態にある学生たちのうち、とくに従順な学生が、援助の見返りとして中国のためにスパイ行為をしてしまうのだ。 在仏中国大使館は「外国にいる少数民族を重視する」という名目で奨学金を出している。とはいえ、 在外ウイグル人のなかでそれを額面どおりに受けとる者はいない。 奨学金を支給される者たちは落ち着いていられない。 奨学金は警戒を要するものなのだ。
 もし学生が拒否したらどうなるのだろうか? 中国の情報機関は、新疆の彼らの家族が監視下にあるという、ゆるぎない事実を突きつけるのだ。謎の番号からのショートメッセージに何日も答えずにいると、身内のひとりから新たにメッセージが送られてくる。「お願いだから彼らの言うとおりにして」と。 まるで身内からの最後の願いであるかのようなこのメッセージは、ほとんどの場合、期待どおりの効果を発揮する。学生たちはしたがい、こっそりと情報を提供する。


 中国大使館は数カ月前から、まったく動じない在外ウイグル人服従させるのを目的とした新たな対策を着々と講じはじめていた。 パスポートの更新を申請しても、納得できるような理由なしに拒否されるようになった。 「あなたは新疆出身だから、新しいパスポートの発給はできません。新疆に帰って手続きをしなさい。 これは命令です」とパリの大使館の窓口で突っぱねられてしまう。パスポートがなければ、フランスで勉強を続けるために必要な滞在許可証をとることができなくなる。 在外ウイグル人学生のすぐ目の前に、危険が迫っているのである。不法滞在へと追い込むことによって、大使館は彼らを新疆に帰らせようとしている。だが、学生たちは誰ひとりとしてその手には乗らない。向こうに帰ったら最後、収容所に入れられるに決まっているからだ。


 あの晩、誰が友人で誰がスパイなのかわからない不信感に包まれたなかで、グルフマールの言葉は、フランスで中国政府から目をつけられているウイグル人の救いとなった。メディアに匿名で恐怖を語るすべての学生たちが、彼女の言葉から勇気を得た。私の娘は、《フランス24》の収録を終えたときに、自分が中国政府の反感を引き起こしたことに気づいていなかった。顔を出したまま、中国の非人道的な扱いを糾弾したのだ。
(p157)

 

グルバハールさんが収容所にいる間、長女のグルフマールさんが母親を解放するためにフランス外務省やメディアに働きかけを始めたことから、フランス人ジャーナリストの著者ロゼン・モルガさんがこの家族を知ることになります。

奨学金の見返りにフランスウイグル協会のイベントの内容を報告するよう命令されたり、ウイグル人コミュニティの影響力のある活動家に近づくよう命じられたりして、中国のスパイ行為をさせられてしまうというところに、巧妙さを感じました。

 

 そんな乱闘があったという話は聞いたことがないと答えると、警察署に連行された。取り調べ中、警官は、彼女がウイグル語での教育を優先し、いまや規則となっている中国語での教育を行わなかったと言って非難した。 アルミラはなぜそんなことを言われるのかがわからなかった。 そもそも自分は、生徒同士の乱闘について話すために警察署に連れてこられたのではないか。でも、どうやらそうではないらしい。警官たちが関心を持っていたのは、彼女の職務、授業の内容、政治的意見、信仰についてだった。自分はただの国語教師にすぎないといくら主張しても聞き入れられなかった。警官たちはアルミラを取り囲んでどなりながら、おまえは授業で分離主義を支持した、 と言った。そうこうするうちに、警官たちは彼女を殴りはじめた。 彼女が殴られるときはつねに医師が立ち会い、「ちょっとやりすぎた」せいで彼女が気を失うと、警官たちは殴打をやめ、医師が介入して手当てする。 そしてまた殴りはじめる。 アルミラは何も自白しなかった。自白するようなことがなかったからだ。ところが二週間後、彼女はここに移送された。 三ヶ月前のことだった。
 気の毒なアルミラの話はその後も私の頭によみがえった。次いで、カラマイでのもうひとりの旧友であるザヒーダにも会った。彼女も拘留生活のせいで、見る影もなかった。 ザヒーダは私から数床はさんだ向こうのベッドに寝ていた。 居室で要領をえない話をいく日かくり返したあとに、ようやく何をされたのかを私に話してくれた。その話を聞いた私は、洗脳によって刃物のように研ぎ澄まされた警官たちには、私たちに対してひとかけらの哀れみもないことを実感した。 必要とあらば、私たちを血の海のなかに引きずり込み、私たちが正気をたもてなくなるまで弾圧するつもりなのだ。   

 私たちがカラマイに住んでいたころ、ザヒーダの息子ドルクンはグルフマールと同じクラスだった。いつもごきげんで、人好きのする、落ち着いておだやかなこの少年のことを、グルフマールは好ましく思っていたが、私たちが新疆を離れたときから、ふたりはおたがい疎遠になっていた。 ドルクンは母親によく似ていた。そう私が思うのは、寡婦だったザヒーダのことを以前からよく知っていたからかもしれない。 ザヒーダの夫は若くして亡くなった。その死は家族に癒やしようのない悲しみを与えたうえに、金銭的な問題を次々と引き起こしたため、隣人である私たちはなんとか力になろうとしていた。けれどもザヒーダは、自分ひとりの収入で子どもふたりを育てるのに苦労しても、不満を言うことはなかった。小柄で本当に華奢な女性だったが、あふれるほどのやさしさと勇気の持ち主だった。
 二〇一七年五月のある朝、警官たちが彼女の家までやってきて逮捕した理由についても、ザヒーダは話のなかでふれもしなかった。そもそも警察にしてみれば、逮捕するのに理由など必要ない。警察署のなかで彼女の書類を読むときになって、適当に作り上げるのだろう。ザヒーダが警官について行ったとき、彼女は何もおかしいとは思わなかった。おそらく、何リットルものお茶を飲みつくして数時間の事情聴取でも受ければ、日暮れ頃には警察署から出られるぐらいに思っていたはずだ。ところが今回、警官たちが求めていたのはザヒーダが自白調書に署名することだった。彼女がうんざりしながら何もしていないと説明しているのに、その目の前で一枚の紙をちらつかせ、彼女がにぎろうとしないペンをにぎらせようとする。彼女は自分が何もしていないことを説明しつづけ、人違いとしか考えられないと主張した。 ザヒーダは頑固だったが、警官もそうだった。 それで彼女は留置場に送られた。毎日、警官は書類を手にゆずらず、彼女は彼女で署名するのを拒否していた。どれぐらいそれが続いたのかは知るよしもないが、ある朝ザヒーダは、取調室で自分の無実を訴えていたとき、叫び声を聞いた。最初はくぐもった悲鳴だった。耳をすますと、その声はどんどん大きくなった。 すぐ隣りの部屋で誰かが拷問されているのだ。 こんなうめき声を上げるなんて、どんな苦痛を加えられているのだろうか。想像できないほどの苦痛にちがいない。ともかくこんなことはやめさせるべきだ。 「やめて! やめてください!」 ザヒーダは自分を平然と見つめている警官たちに向かって叫んだ。 そのとき彼女は、苦しみうめく声の主が誰なのかに気づいた。ドルクンだ。あれは息子の声だ。拷問を受けているのは自分の息子なのだ。 彼女の前の机には、署名を待つ自白調書が置いてあった。ふるえが止まらないまま、ザヒーダは指示にしたがった。 書類にサインすると、うめき声はしだいに消えていった。こうして彼女は、裁判の結果、刑務所に十五年服役することになった。以来、刑務所への移送を待ちながら、この留置場で抜け殻のように生きている。 かれこれ二年になるという。 ドルクンがどうなったかは何も知らされていない。 あの隣りの部屋で死んでしまったのか、自分と同じように有罪宣告を受けて拘束されているのかわからないという。
 そして私の場合、この二年間自分の身に何が起きただろう? 私の苦しみはアルミラの苦しみに匹敵するといえるだろうか? ザヒーダの苦しみには? いや、匹敵するとはいえない。たしかに私はひどい扱いを受けた。暴力もふるわれた。警官も監視員も教官もあらゆる脅迫のテクニックを使い、彼女たちと同様に存在しない罪を自白させようとした。それでも、いくつかの平手打ちや処罰をのぞけば、やはりアルミラがされたように私を殴った人は誰もいなかったと断言できる。あのけだもののような輩たちがザヒーダにしたように、私の子どもを拷問するような者はいなかった。彼女たちと同じように再教育という大計画の犠牲者であるとはいえ、私は特殊な層、つまり亡命者という層に属する囚人なのだ。そこで、 それが意味するものを考えてみたところ、私が予想できたのはふたつの両極端な未来だった。ひとつはそれが私にとって有利に働いて、家族がフランスから私の釈放を交渉できれば) この悪夢から抜け出すことができること。もうひとつは、(中国当局の目には、私は新疆を捨ててフランスを選んだというとり返しのつかない罪を犯したと映っているので)さらに深い奈落の底に突き落とされて恐ろしい運命が待ち受けていること(しかも、私は七年間の再教育という判決を受けたあと、数週間で収容所から連れ出された。 よい兆候だとはとても言えそうにない)。
 アルミラとザヒーダは、新疆の何百万人ものウイグル人に属している。私はウイグル人政治亡命者としてフランスに帰化した男の、つまりはフランス人の妻だ。この呪われた場所を出てしまえば、彼らは私を新疆にずっと置いておくことはできない。 ケリムは私に何度もそれをくり返していた。だから私は、自分の立場を喜ぶ気になどなれず、友人たちの運命を思って悲しくなった。 しかも彼女たちの未来は、刑務所だろうと、収容所だろうと、それらの外であろうと、私の目には等しく暗いものにしか映らなかったので、なおさらだった。私にはいつになってもザヒーダのことを考える勇気が起こらない。考えようとするだけでひどい不安に陥ってしまう。彼女はこれから十五年も拘束されるのだ。十五年も!アルミラにしても、この先、人生にどんな展望を持てるというのだろう? 
(p168)

 

グルバハールさんが収容所で再会した2人の旧友の受けた処遇の酷さに気が滅入ります。友人たちのこれからを考えることができないほどの卑劣極まりない行為に、読んでいるこちらも胸が痛みますが、彼女たちの経験したことを知って、それがフラッシュバックしているグルバハールさんも大変に辛かったであろうことが伝わってきます。

 

 ケリムはいまもプーローニュの住まいで暮らしていた。 グルフマールは仕事で旅行中だった。ふたりはグルニガールも元気にしていると私に言った。 彼らの生活から二年あまり離れていた私は、彼らが自由で幸せに暮らしていることを知った。 電話を切ったとき、警官が手帳にペンを走らせている部屋のなかで私は一瞬幸せな気持ちになったが、またすぐに気が重くなってしまった。いつかここから出られる日が来て、ブーローニュでの平穏な日々を取り戻したら、家族にここ新疆で経験したことを話さなければならない。すべてが聞くに耐えないことで、語るのがつらいことだ。けれどもそうしなければいけない。
 私の話をどうやって聞かせればいいのだろう。私が警官たちの言うことをきいて生きのびたことを、どう家族に伝えればいいのだろう。その警官たちも私と同じウイグル人で、警察組織の特権によって、私たちの身も心も好き勝手にできる立場にある。人間性を失ったロボットのように、洗脳された男女が、告発しないものは告発され、罰しないものは罰せられるという大きなシステムのなかで、小役人として命令を実行している。彼らは私たちを、打ちのめすべき敵で裏切り者でテロリストだと確信して、悲惨な収容所生活に追いやった。私たちが獣であるかのように、世界の動きからも時間の流れからも遠い収容所に閉じこめた。そのような男女が私たちを収容所で洗脳し、間違った考え、悪い考えを延々と吹きこんだ。私たちを「再教育」しようとした。窓のない教室で、国歌に合わせて行進することを私たちは教えられた。そこでへとへとになり、息が切れて倒れた女性たちは、監視員によってどこかへ連れていかれた。収容所では、生と死はそれまでと同じ意味ではなかった。夜、監視員の足音で目がさめると、私は銃殺されるのだと何度も思った。 バリカンを持った手で雑に頭を刈られ、ほかの手で肩に落ちたその髪の房をつかみとられたとき、私はそのときが来たのだと思い、涙をためた目を閉じた。絞首刑、電気ショック、あるいは溺死を覚悟した。死はいたるところにひそんでいて、待ち伏せをしていた。
「ワクチンを打つ」ために、職員が氷のように冷たい手で腕をつかんだときも、私は毒を注射されるのではないかと思った。 実際になされたのは不妊処置だった。そのとき、私は収容所のやりかた、つまり冷酷に殺すのではなく、 ゆっくりと絶滅させるために仕組まれたシステムがいかに洗練されているかを理解した。 それはあまりにもゆっくりなので、誰にも気づかれないのだ。
 私たちはあるがままの自分を否定するように要求された。私たちの伝統につばを吐 き、私たちの言語を批判し、私たちの民族を侮辱するように求められた。収容所を出た私のような人間は、もう自分がなにものであるかわからなくなっている。影でしかなく、精神の抜け殻でしかない。 私は、ハイティワジ家の人間がテロリストだと信じるように仕向けられた。私は家族からあまりにも離れ、あまりにも孤独で、あまりにもくたびれはてたせいで、それをもう少しで信じそうになっていた。 ケリム、グルフマール、グルニガール……。 私はあなたたちの「罪」を告発してしまった。私は共産党に、あなたたちも私もやっていない行為について許しを乞うた。いまは自分が言ったことすべてを後悔している。自分はもう死ぬのだと何百回も思った。現在、私は生きていて、真実を大声で叫びたい。そんな私をあなたたちが認めてくれるかわからない。あなたたちが私を許してくれるかわからない。そう、こんなことすべてをどうやって彼らに言えばいいのだろう?
 とりとめもないことばかり考えてしまう。 明日になればもっと考えがはっきりするだろう。いや、もう忘れてしまうかもしれない。ときおり、すべてがどのように始まったのか、いつ始まったのかわからなくなることがある。記憶力や気力が消えてしまっているのだ。明日になったら極度の疲労におそわれるだろう。 相反する気分、混乱した感情が数分おきに押し寄せる。 私の心は使い古されたスポンジのようになっている。何度もしぼられてくたびれてしまって、もう思考という水をたくわえておくことができない。朝になると、ぶるっとふるえて目を覚ます。まだ悪夢が続いているようで、汗をびっしょりかいている。制服姿の人影、中国語でどなる小男たち、許しを求めるウイグル人女性の影が出てくる収容所の夢だ。ケリム、グルフマール、グルニガール、あなたたちは私を信じてくれるだろうか? いつの日か私がこの陰鬱な話をする気になったとして、言葉どおりに受け取ってくれるだろうか? 私をとり囲んで、わけ知り顔で視線を交わすかもしれない。 新疆滞在中の警察の取り調べで、私の頭がおかしくなったのだと考えて。
 収容所生活で正気を失ってしまったのは事実だ。けれども、私の話はすべて真実だ。私が経験したことは、囚人が自分のおかれた状況を誇張した病的な妄想などではまったくない。私は、ほかの何千人もの人々がそうだったように、中国の異常なうずに巻き込まれたのだ。収容所送りにする中国、拷問する中国、自国民であるウイグル人を殺す中国の異常なうずに。いつか、私が気力を取り戻したら、そのことを話そう。 ケリムやグルフマール、グルニガールに知ってもらうために。
(p196)

 

グルバハールさん自身も、巧妙な当局の仕打ちに人間としての正常な思考能力を失ってしまい、犯してもいない「罪」を認める書類に署名してしまいます。

 

 三月二〇日のノウルーズの日に話はさかのぼる。私がグルフマールに電話したのは、ちょうど彼女が友人たちと《イケア》にいるときだった。彼女はすぐに電話に出た。 彼女の背後からは、合成音声の店内アナウンスや子どもたちの泣き声、ショッピングカートを押す音が聞こえていた。典型的な《イケア》での土曜日だ。 フランスではまだ早い時間だったので、おそらくグルフマールや彼女の夫、そして友人たちはそのあといっしょに、私たちウイグル人にとっての新年を祝うためにランチをともにする予定だったのだろう。警官は手帳を差しだし、私は口をきった。
「あなたどこにいるの? フランスにいるの? それならどこにも行かないでね」
「ええ、心配しないで。 今年はウイグルのコミュニティとノウルーズを祝うことはしないから。 どこにも行かない。家にいる予定よ」
「ノウルーズのことを言ってるんじゃないの、グルフマール。外国で行われる会議のことよ」
 電話の向こうが静かになった。グルフマールは友人たちから離れたようだ。急に彼女の声がはっきり聞こえるようになった。「じつはジュネーヴに行くつもりだったの。 人権理事会の年次会議に招待されてたから。でも心配しないで。私はお母さんから初めて電話があった時点で、すぐにその招待を断ったから。中国の情報機関がそのことをまだ知らなかったなんて意外ね」
 私のまわりにいた男たちは険しい表情で視線を交わした。怒り心頭だった。部屋のなかの緊張が一気に高まった。グルフマールは彼らをからかったのだ。もうひとりの警官が私に手帳を差しだした。
 私はそこに書いてあった言葉を、なんの抑揚もつけずにくり返した。「あのね、グルフマール、とてもまじめな話なの。もし違法なことをしているのなら、やめてちょうだい。もしまだやっていないのなら、やらないでちょうだい。 よく聞いてね。 あなたのフェイスブックのプロフィールから私にかんする投稿を全部削除して。 メディアでウイグル問題について話したり、中国政府を批判したりするのはやめて。これは重大なことなのよ。 もし私と再会したいなら、全部削除するのよ」
 どうしたら正気を失わずにいられるのだろう? いやしい餌のように使われながら、私は自分の家族を恐喝している。家族を脅している。 フランスで、グルフマールとケリムは、考えられる支援はすべて利用して、私の解放のために活動している。だが、彼らが語りつづけるかぎり、私は解放されなくなってしまう。したがって、私が完全に目立たない状態でフランスに帰れるようにしてもらうためには、グルフマールとケリムには黙ってもらい、私の事案がフランス当局とメディアの関心から遠のくことが必要だった。その考え方からして、中国流のかけひきは巧妙だった。新疆当局は、大規模な再教育計画を国際的な批判からかわすために、私を収容所から出そうとしている。 抜け目のないやり方だ。 同時に私の新疆での収容生活のあらゆる証拠を消すことは言うまでもない。 すでに彼らは、私の自白を録画した動画を持っている。私がひとたび解放され、証言したいと思ったとしても、その動画を反論の材料にすることができる。そしていま、彼らはケリムとグルフマールがやったことの後始末をしている。 新疆に収容所が存在すること、私がそのひとつにいたことを証明するメディア記事
署名嘆願書、証言などを削除するよう、ふたりにうながしているのだ。
 通話が終わるとすぐに、ケリムとグルフマールは投稿を削除しはじめた。警官たちは消すべき記事の一覧を作成していて、次の通話のときに、私たちはこの「大掃除」の進捗状況を確認した。中国当局の戦略は功を奏した。 ソーシャルネットワーク上で在外ウイグル人による議論がわき起こった私の話は下火になっていった。そしてそれを電話でのやりとりによって支えたのが、ここでとらわれの身になっている私だった。まったく、巧妙なやり方だ。
 ある日の朝、あと数分で通話を始める、と警官が言いにきたとき、私は感情を爆発させた。目に涙をいっぱいうかべながら「いくらなんでもあんまりだ」とわめいた。「こんなばかな真似を続けるのはうんざりよ!」収容所に逆戻りさせられようとどうでもいい。もう、自分にとっては同じことだ。ケリムとグルフマールに二度と嘘をつきたくない。「もう嘘はつきたくないの!」私は自分をおさえることができずに叫んだ。怒りのあまり全身がふるえ、のどが焼けるように痛かった。「もう家族には電話しません!」警官は荒れ狂った。彼も中国語でどなっていた。私たちの大声に気がついたのだろう、ほかの警官たちが少し開いていたドアのすき間からいきなり姿を現した。警官は私を指さして糾弾した。「せっかくここまでやってきたのに、みんなむだにするつもりか? がっかりさせるんじゃない。もしおまえが電話しなかったら、俺は上司になんと言えばいいんだ?」私は、これまで流さなかったぶんまで涙を流した。それでも態度は変えなかった。その日、警官たちはスマートフォンを持って戻ってくることはなかった。私は目を泣きはらしたままテレビをつけ、ソファーに沈みこみながら、収容所に戻る可能性について思いをめぐらせた。戻ればもう生きのびることはできない。それは確実だ。警官は夕方になってから戻ってきた。上司からの圧力、警察署での任務、妻や子どもたちのことなどあれやこれやを引き合いに出しながら、許してほしいと言った。私はなんと答えていいのかわからなかった。怒りにまかせて一日を過ごしたあと、結局、自分には協力する以外の選択肢がないと知った。反抗を続けたところで先はない。「心配しないで。もういいですから」と私は答えた。私を使って欧米での収容所批判を封じ込める、その任務の再開を上司に報告できることになって、彼は安心したようすで帰っていった。翌日、その警官は現れなかった。その次の日、私たちは通話を再開した。
 嘘と恐喝と脅しとともに。

(p202)

 

当局はなぜこんなに回りくどいことをして人々を収容しているのだろうと疑問に思っていましたが、読み進めるうちに、ここでは収容者の命を脅かすのではなくて、彼女たちの思想や思考能力を奪って、文字通り「再教育」し、違う思考を持つ人間に変えようとしているのだということが分かってきます。

 

 自由になったものの、グルバハールはなお、妹たちが自分の連絡に答えなくなるのではないかという恐怖を克服できないまま暮らしている。そうなることを考えると胃がひきつるように痛む。
 アイヌールはどうしただろう? ディルヌール、アルミラ、ザヒーダ、そして収容所で生活をともにした女たちみんなはどうなったのだろう? 《WeChat》 と 《TikTok》 に知人が投稿した動画に目を通しながらグルバハールは調べつづけているが、手がかりはない。みんなまるで蒸発したように消えてしまった。ある日偶然、バイジャンタンの収容所でいっしょだったカザフ系の女性の手がかりが見つかった。 グルバハールは手紙を書いた。「お久しぶりです。 元気ですか。 私は九番の収容者です」。
 しかし返事はなかった。 その女性が鏡の国に身を置いているいま、グルバハールは明白な事実に気づいて震えあがった。 新疆はこれまで以上に自らを閉ざし、まるでブラックホールのように、収容所に送られる前にはまだ接触できていた親しい人たちを吸いこんでしまう。グルバハールは落ち着きを取り戻そうと、帰国して二ヶ月後に外務省の職員が電話番号を教えてくれたことを思い出す。「何かよくない兆候や身の危険を感じたら、いつでも電話してください」と職員は言った。そのことをグルバハールは忘れていない。母やネジマやマディーナに送ったメッセージにいつまでも返事が来なかったら、ためらうことなく電話するつもりでいる。
 現在、グルバハールは自分の生活についてはもう心配していない。買物に出かけると、ときおり以前の習慣で肩ごしに後ろを見て、つけられていないか確かめることはあるが、危険を感じたこともなければ誰かに脅されそうになったこともない。これまでのところ、家族をまじえた穏やかな日常生活を何者かがじゃまするような気配はない。 ブーローニュの家で彼女は、姿を消したときぽっかりあけた場所をふたたび占めているが、それだけではない。 新疆をめぐる会話に熱がこもってくるとなるべく目立たないようにしていた、ひかえめだったグルバハールが、家族に不自由な思いをさせないよう気を配るだけではなくなった。食事中に政治の話が出ると、彼女は耳をそばだてる。彼女にも言うべきことがいろいろある。 ラグマンの皿をほかの皿のあいだに置くと、彼女は新疆で経験したことを話しはじめる。みんな静かに耳を傾ける。 何年も前から弾圧に我慢できない思いをしているケリムは誇らしさで目を輝かせる。グルバハールは心と体の傷を力に変えようと決めた自由な女として、家族のなかで新しい立場をすすんで引き受けている。
 しかし、自由の味がこれほど苦いとは想像していなかった。再教育収容所で死んだような生活を送っていたときは、フランスへの帰国ほど幸せなことはないように思えた。彼女は「秘密の庭」で、空港での再会、抱擁、すすり泣き、娘たちを左右の腕に抱える場面を何度も思い浮かべた。 帰国から数週間ほどすると、在仏ウイグル人の友人とふたたび連絡をとりあうようになった。どの友人も、グルフマールの陳情やインタビューを通じて事件のなりゆきを追いつづけていた。 こちらからは知らせていないのに、グルフマールの出産を知ってプレゼントを持ってきた人もいたし、お祝いのメッセージを寄せた人もいた。グルバハールはそこにしっくりしないものを感じた。そして、中国には勝てなかったと認めるほかなかった。新疆ウイグル人に対する弾圧の影響は在仏ウイグル人コミュニティにまで及んでいるので、友人たちの歓迎ぶりはグルバハールが期待したような熱烈なものではなかった。彼女はおずおずした、ほとんど冷たい迎え方をされた。 不安げな表情や、メッセージに返信しない対応などに、相手の気まずい思いがうかがえた。 かすかな恐怖が感じられるのだ。「会いたくないわけじゃないのよ。でも落ち着いて過ごすことができないの。あなたの家はまちがいなく盗聴されているから」と、親しい友人がとうとう打ち明けた。ハイティワジ家をめぐってはさまざまなうわさがささやかれていた。グルバハールが解放されたことはどんなふうに説明がつくのだろう? 再教育収容所から途中で出てくる者は誰もいないのに。当局が目をつけているウイグル人の名前を伝えたのだろうか? とにかく、解放されたのは不思議だ。きっと中国当局に協力したのだろう.....。そうしたことを人々はささやきあっていた。気まずい沈黙にぶつかるうちに、グルバハールは自分が犠牲者と見られているのではなく、隣人の行動を探るスパイ、仲間のあいだに潜りこんだ裏切り者とみなされていることを知った。
 国際情勢も不利にはたらいた。中国の弾圧が強まれば強まるほど、国外のウイグル人コミュニティにパニックが広がった。 中国は歩みをゆるめるどころか、新疆で大規模な再教育を続けている。 対外的には、計画の妨げとなる声を封じるために手を打っている。たとえば二〇二〇年四月、国連人権理事会の信頼性に最初の打撃が加えられた。人権調査官を選ぶ諮問グループの地域代表に、中国人の蔣端が任命されたのだ。さらに同年一〇月には人権理事会の理事国に、中国が三年の任期で選ばれた。
そのあいだにも、多数の世界的企業の下請け工場でウイグル人が強制労働させられている事実が次々に報じられた。報道を受けてアメリカとヨーロッパは、国際的な視察団を新疆ウイグル自治区に派遣するよう国連で求めている。 しかし中国は無関心または拒絶の態度をくずしていない。いくつもの民族の上に君臨し、死刑制度を存続させる中国、ウイグル人を収容所に閉じこめて再教育し、強制労働に従わせ、 拷問する中国、その中国がいまや、人権のための法律を定める国々の一員になった。
 傷つき、落胆しながらも、がまん強く、グルバハールは友人たちの警戒心に自分を慣らしてきた。
「生きながらえて自由でいられるための代償ならしかたがない」と彼女は言う。再教育収容所の生活を絶望せずにもちこたえた回復力によって彼女は、いまの生活がかつての生活と似ても似つかないことに気づいても、それを受け入れ、乗りこえようとする。 彼女が以前のグルバハールに戻ることはけっしてない。収容所の思い出は彼女の記憶のなかに出現しつづける。彼女の体にも心にも、いまなお収容所のことが染みついているのだ。だから、解放されたことを恥ずかしく思ったりはしないだろう。そして、 一度離れていった人々から新疆で何があったのか聞かれたら、次のようなことを話すだろう。取り調べを受けるにつれて心の健康が損なわれ、 再教育が進むにつれて無関心になり、記憶力が弱くなる。さらには、自分のことさえどうでもよくなってくる。 ついたままのまぶしい蛍光灯の下、遠くからひびいてくる別の収容者の声に不安を覚えながら夜を明かす。 押し殺したすすり泣きが、部屋のドアの閉まる音でぴたりと聞こえなくなる。何人もの仲間が警察の圧力に屈する….....。 グルバハールは、自分がラビア・カーディルのように、カメラの前で強いられて罪を認めたのだと打ち明けるだろう。また、新疆の党委員会が、彼女の証言の信用性を失わせるため、いずれまちがいなくインターネット上にその動画をのせると伝えるだろう。 友人たちが自分の誠実さを疑ったことについては、ためらわずに許すだろう。中国の徹底的な抑圧を逃れられるウイグル人などひとりもいないことを知っているからだ。
(p247)

 

イスラム教からの離脱の強要という宗教的要因が絡むために、日本からはなぜ新疆ウイグル自治区でこのようなことが起きているのか、なかなか見えにくい部分もあます。

ただ本書からは、文化大革命の頃と同じように民衆の思考能力を失わせ、権力に都合の良い人間に作り変えようとする作為を感じました。

 

現実を直視しなければならないと強く思わされます。

グルバハールさんの命がけのこの証言が、多くの人に届きますように。

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。