おはようございます、ゆまコロです。
永井均・小泉義之『なぜ人を殺してはいけないのか?』を読みました。
哲学者二人による対談集です。
この本のタイトルのように問われたとき、どうやって相手を納得させるか?ということについて議論されています。
面白いなと思ったのは、本書のタイトルと同じようなテーマで、子どもから「なぜ、人をいじめてはいけないのか?」と問われたときの答えを考える章です。
先ほどの「いじめ」の例でもういちど考え直してみよう。問答がこう続く場合である。
「でも、あなただってもっと強い子からいじめられたら嫌でしょ?」
―― 「いいえ、ちっとも嫌じゃありません」。
これに対して大人が実際にどう答えるのかは別にして、本質的には
「たとえあなたが嫌じゃなくても、みんなは嫌なの。だからやめなさい」という路線で答えるほかはないだろう。そこで理性的な子どもならこう問うべきであろう。
「ということは、最初の「あなただってもっと強い子からいじめられたら…」云々という論拠の方は放棄したんですね?」。
実際の大人は誤魔化すだろうが、実はそうなのである。
このとき、たいていの大人は気づかないだろうが、大人が持ち出してもよいもう一つの論点がある。それは、
「たとえあなた自身が嫌じゃなくても、それが嫌であるような人のあり方を理解することはできるでしょ?実際にはあなた以外のほとんどの人がそういう人なの。そして、あなた自身がそういう人である場合を想定してみることもできるでしょ?だから、あなたはいじめをやめなければならないのよ」という路線である。
しかしふつう、大人はそうは言わずに、こう言うのではないだろうか。「弱い者いじめばかりしていると、みんなから嫌われて誰も友達になってくれなくなりますよ」。あるいは「そんなことをすると、私があなたを罰しますよ」と。もし、子どもがどちらもなんとも思わないと言い、実際にそうであるなら、問答はこれで終わりである。問答どころか、すべてはこれで終わりである。そして、実際、この子どもに類する人間は実在するのである。(p180)
上記の説明で子どもに納得してもらえるのかは分かりませんが、こちらも、筋道立てて考えるトレーニングになりそうな気がします。
殺人はなぜタブーなのか?それはどんな場合においても絶対なのか?
これまで疑問にも感じていなかったことですが、「なぜ?」と問われると、どうしてなのだろうと思考が止まってしまいます。
誰を前にしても納得させられる、明確な回答は無いのではないかとも思える問いに対して、自分はどう考えているのか、深く考えさせられました。
そんなに厚くない本なのですが、じっくり進まないと、お二人の会話についていけなくなりそうになります。
興味深い論議でした。
最後まで読んで下さってありがとうございました。