ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

勝利の後に大切なもの。『坂の上の雲 八』を読んで

こんばんは、ゆまコロです。

 

司馬遼太郎さんの『坂の上の雲 八』を読みました。

長い時間をかけて(読むのが遅い)、ようやくたどり着いた最終巻です。

 

    ともあれ、ネボガトフ艦長は機関をとめて、漂泊した。東郷は、
「秋山サン、ゆきなさい」
    と、受降のための軍使として真之をえらんだ。 旗艦ニコライ一世へ乗りこんでゆき、ネボガトフと対面して降伏についてのうちあわせをせよ、ということであった。

    敵艦へゆくためには短艇(ボート)が必要だったが、たまたま三笠のそばに「雉(きじ)」という名前のついたちっぽけな水雷艇がちかづいてきたので、
「関よ」
   と、真之は艦上からまねいた。雉の艦長は大尉で、関才右衛門といった。
    真之は、それに乗った。かれは東郷のまゆをひそめさせた例のふんどし姿(剣帯を上衣の上から締めた恰好)をやめていた。武器は腰に吊っている果物ナイフのような短剣だけで、拳銃ももっていない。
(帰って来れるかどうかわからない)
    とおもったのは、随行の山本信次郎大尉である。山本は三笠の分隊長をつとめていたが、フランス語が堪能であるため、通訳として従ったのである。
__私は死を決していた。
山本信次郎がのちに語っている。以下、その談話である。
「秋山参謀と二人、水雷艇の〝雉〟に乗って本艦を離れ、敵の旗艦へ行った。その日は波が荒かった。その上、"ニコライ一世〟という軍艦は舷側の斜角が急なので上にあがれない」
    木の葉のような水雷艇の上から仰ぐと、舷側がそそり立って大要塞を見るような感じがした。
    そのうち上から索梯(つなばしご)が降りてきた。ちょうど山本のいる場所のほうに降りたため、山本は、
「お先に」
    といって足をかけた。かれはいま登ってゆく艦内には降伏に反対する反乱兵とか、衝撃で気が変になっている連中とかが存在すると覚悟していたし、もし殺されるなら自分がさきに殺されるのが後輩としての道だとおもって一足さきに艦上にのぼったのである。すぐ真之ものぼってきた。
「艦内ではやはり異様な昂奮状態にあった」
    水兵や将校が、口々になにかののしりわめきながらあちこちを駆けまわっている。
「容易ならぬ形勢の不穏さ」と山本は形容しているが、実際には恐慌(パニック)がおこっているのでもなんでもなかった。かれらは水葬の支度をしていたのである。上甲板には戦死者の骸がたくさん横たえられていて、それを運ぶ者、屍(しかばね)を包む者、それらを指揮する声、さらにはひざまずいて大声で祈禱をあげる者などの諸動作や声がそのあたりを駆けまわっている感じで、緊張の極に達している山本からみればそれがパニック状態にみえたらしい。
    これが水葬の光景であると山本が気づいたのは、真之がそれら屍体のむれのそばへどんどん歩いて行って、ひざまずいて黙祷(もくとう)したからである。
    山本の談話によると、
「こんなときでも、秋山という人は変に度胸がすわっていた。ツカツカといって前に跪(ひざまず)き」
 と、ある。
 真之は敵の人心を撹(と)るためにこの動作をしたのではなく、いずれこの戦いがおわれば坊主になろうと覚悟を決めていた彼は、自分の艦隊の砲弾のためにたったいま死んだばかりの死者たちの破損された肉体をみてひどく衝撃をうけ、おもわず冥福を祈る動作に移行しただけのことで、山本の語るところでも、「その黙禱の様子に偽りならぬ心が溢(あふ)れていた。敵の兵員たちはじっとその様子を眺めていたが、その眺める目にも正直な感謝の情が動いており、それ以後、彼らの態度から反抗の色が消え、親しみに似た感情さえ仄見(ほのみ)えた」とある。

 

 上甲板で出むかえたのは、参謀長のクロッス中佐であった。かれはまだ三十代であったし、それにもともと威勢のわるくない人物なのだが真之の目には雨に打たれたむく犬のような印象にうつった。ひとつには口ひげが伸びすぎ、潮風やら爆煙やらがこびりついてすだれのように垂れてしまっていたせいだったかもしれない。
 真之と山本大尉は、司令官室に通された。他にたれもいなかった。どこかから叫喚の声がひびいてくる。 やはり尋常な空気ではなかった。
(つまらない目に遭うものだ)
 と、真之は敵に対してではなく、自分に対しておもった。降敵の城に軍使として乗りこむというのは絵物語ならいかにも爽快な光景なのだが、いざその役目を自分に割りあてられてみると、陰惨さのほうが先立った。おそらくネボガトフが出てくるであろう。
 それに対してどういう態度をとっていいのか、真之は戸惑うおもいがした。待つあいだも通路をしきりに叫び声が走っている。
 山本の顔が、緊張でこわばっていた。「いざとなれは武士らしくいさぎよく死のう」
と山本はくりかえし自分に言いきかせては落着こうとしていたが、真之はべつにそう思わなかった。かれには通路の叫び声の正体がわかっているのである。真之はここまで案内されてくるまでのあいだに、将校や兵たちがなにをしているかを一瞥(いちべつ)して見当をつけてしまっていた。かれらは信号書や機密書類などを海中に投棄するために号令を発したり、注意事項を叫んだりしているだけのことだとみていた。そういう書類の始末というのはかれらがはっきり戦闘を放棄し降伏しようとしている証拠で、むしろあの騒ぎは真之らが軍使として安全な状態にあることを傍証づけているようなものなのである。

(p254)

 

真之さんが敵の旗艦へ赴くシーンです。相手はすでに降伏しているとはいえ、敵艦に乗り込んでいくというのはかなり勇気を要することだと思います。

しかしここで、戦死した敵の死体にひざまづいて黙とうする真之さんの行動がちょっといいなと思いました。この時点でいずれ出家しようと思っているのだから、戦死者に対して敵も味方もないとお考えなのかもしれません。

生きて戻れるか分からない、と思っている通訳の山本さんと、まあ安全だろうと思っている真之さんの温度差がすごい。笑

 

 提督の体が汽艇におろされたとき、かれの意識がわずかに醒(さ)めた。山本信次郎がフランス語で東郷の意志を伝えると、提督の肉体は意外なほど活撥で毛布の中から腕をのばし、山本の手をにぎった。山本によればロジェストウェンスキーは涙を流したという。
 数日後に、東郷が佐世保海軍病院ロジェストウェンスキーを見舞うことになる。
 同行者は秋山真之と山本信次郎のふたりだけであった。
 案内は戸塚環海海軍軍医総監である。この病院の廊下は足がくたびれるほど長かった。
 この間(かん)、東郷は無言であった。やがて病室に入ると、病床のロジェストウェンスキーがわずかに顔をうごかし、東郷をみた。この両将がたがいに顔を見たのはこの瞬間が最初である。


 ロジェストウェンスキーは、かれが演じたあれほど長大な航海の目的地がこの佐世保海軍病院のベッドであったかのようにしずかに横たわっている。そのことが一種喜劇的ではあったが、元来、戦争とはそういうものであろう。戦争が遂行されるために消費されるぼう大な人力と生命、さらにそれがために投下される巨大な資本のわりには、その結果が勝敗いずれであるにせよ、一種のむなしさがつきまとう。
「戦争というのは済んでしまえばつまらないものだ。軍人はそのつまらなさに堪えなければならない」
 という意味のことを、日本の将軍のなかでもっとも勇猛なひとりとされる第一軍司令官黒木為楨(ためとも)が、従軍武官の英国人ハミルトンに言ったというが、この場合のロジェストウェンスキーの役割はその最たるものであったかもしれない。そのことを、かれの病床に近づいた東郷がたれよりもよく知っていた。
 東郷は、相手の役割のつまらなさに深刻な同情をもっており、相手の神経をなぐさめるためにのみ自分は存在していると思い、そのことを相手にわからせるために彼が身につけているほんのわずかな演技力でもって精一杯にふるまおうとした。
 かれは白い夏衣を着ていた。 病床の提督に手をさしのばして握手をし、そのあと、相手に威圧をあたえないようにベッドのそばのイスに腰をおろし、ロジェストウェンスキーの顔をのぞきこむようにしていった。
 東郷は無口で知られた男であったのに、この場合だけはひどく長い言葉をしゃべった。
 東郷の言葉は、通訳の山本大尉が記憶しているところでは以下のようである。
「閣下」
 と、東郷はひくい声で語りかけた。
「はるばるロシアの遠いところから回航して来られましたのに、武運は閣下に利あらず、ご奮戦の甲斐なく、非常な重傷を負われました。今日ここでお会い申すことについて心からご同情つかまつります。われら武人はもとより祖国のために生命を賭けますが、私怨(しえん)などあるべきはずがありませぬ。ねがわくは十二分にご療養くだされ、一日もはやくご全癒くださることを祈ります。なにかご希望のことがございましたらご遠慮なく申し出られよ。できるかぎりのご便宜をはかります」
 東郷の誠意が山本から通訳される前にロジェストウェンスキーに通じたらしく、かれは目に涙をにじませ、
「私は閣下のごとき人に敗れたことで、わずかにみずからを慰めます」
 と、答えた。かれは戦闘概況をロシア皇帝に伝奏したいがその便宜をはかってもらえまいか、と東郷にたのんだ。東郷にはそれを許可する権限はなかったがすぐさま承諾した。

 

 真之は佐世保において、
――満州はどうか。
 という、陸軍の戦況について知ろうとした。東京からきた大本営の作戦関係者のはなしでほぼあらましはわかった。
 兄の好古は左翼の乃木軍に属し、北から南下してくるミシチェンコ騎兵団を押しかえし、大小の戦闘をまじえつつかろうじて対峙(たいじ)の形勢を保持していた。
 クロパトキンと交代したロシア軍総司令官リネウィッチ大将は公主嶺の台地に総司令部を置き、
「雨期が終わらば日本軍を殲滅(せんめつ)すべし」
 かれはシベリア鉄道によって送られてくる兵員、資材の補充が攻勢再興の能力を満たすにいたるのは満州にみじかい秋が訪れるころであろうとみていた。
 それまでは陣地防御に専念していた。日本側もそれをすすんで覆滅する能力をもっておらず、作戦計画だけは公主嶺決戦とハルビン決戦を目標としてたてられているだけで、有能な下級将校の欠乏と砲弾の不足をおぎなうにはあと一ヵ年以上を要するという悲惨な実情にあった。
 要するに、戦線は日露双方の事情によって膠着(こうちゃく)している。ただわずかにロシア側は得意のコサック騎兵団を放って日本軍の戦線をしきりに刺戟していた。好古の騎兵団はそれに対しいちいち対応せねばならなかった。
 バルチック艦隊が五月二十七、八日の両日で全滅したにもかかわらず、満州の最前線にいる好古は六月十五日豪雨を衝いて基地を出発し、一両日のあいだミシチェンコ将軍の騎兵団と激烈な戦闘をまじえ、かろうじてこれを撃退したが、しかし新占領地を保持するほどの兵力がなかったためそれをすてて後方へ撤収した。 ミシチェンコはふたたびその地へやってきて根拠地にするという押しつ押されつの戦況がつづいていた。
 その戦場で好古は母親のお貞が病没したというしらせを受けた。真之は佐世保で知った。
__淳、お前もお死に。 あしも死にます。

 といって幼いころの真之の腕白に手をやいて本気で短刀をつきつけたこの母親の死の報に接し、真之は佐世保の旅館の一室で終夜号泣した。 兄の好古がこの報に接したのは花楊樹という村に駐屯(ちゆうとん)していたときだったが、松山の友人の井手政雄にハガキを書き送っている。
「真之が働キシ故、号外ヲモチテ亡父ノ処二参り候(そうろう)ナラント存候。コノ端書ノ面白味ヲ知ルモノハ大人ノミニ候」
 とある。好古は母のお貞が「淳」という真之の腕白に手を焼いていたことも知っていたし、終生真之をもっとも愛していたことも知っていた。「あの腕白小僧をなんとか成人させたことは無駄ではなかったということを母は日本海の戦闘結果を知ってつくづく思ったことだろう」という意味を、好古は「面白味」という言葉の裏に籠めているのである。


 戦争がつづいているあいだ第三国から講和を調停する意思表示が非公式ながらも何度かおこなわれたが、ロシア側の態度はそのつど硬かった。奉天での敗報が世界につたわったあとでさえロシア宮廷の空気はたじろぎもみせていない印象だった。
 日本海海戦が、人類がなしえたともおもえないほどの記録的勝利を日本があげたとき、ロシア側ははじめて戦争を継続する意志をうしなった。というより、戦うべき手段をうしなった。
 このときロシアに働きかけたのは、米国大統領セオドル・ルーズヴェルトであった。
 かれは日本海海戦におけるロシア艦隊の全滅をまるで自国の勝利であるかのようによろこび、その勝利から九日後に駐露大使のマイヤーに訓電し、ロシア皇帝ニコライ二世に直接会って講和を勧告せよ、と命じた。 ルーズヴェルトの友人である金子堅太郎にいわせれば「アメリカはワシントンが合衆国を創立し、リンカーンが奴隷を解放した。いずれも偉大な事業であるが、しかしそれらは国内での事業にすぎない。この合衆国大統領がみずからすすんで国際的な外交関係に手を出したのはアメリカ史上このときが最初である」とし、そのことをルーズヴェルトにもいった。
「それによって君は世界的名誉を獲得するだろう」
 と、金子はいった。
 ルーズヴェルトより前にドイツ皇帝がニコライ二世に講和を勧告する電報を発しているし、同時にドイツ皇帝はルーズヴェルトに対しても、
「もしこの重大な敗戦の真相がペテルブルグに知れわたれば皇帝(ツアーリ)の生命もあやういだろう」
 との電報を送っている。たしかにその危険はあった。ロシアの帝政は強大な軍事力をもつことによってのみ存在し、国内の治安を保ってきた、とウィッテもいっている。それが崩壊した以上、日露戦争はロシア国家にあたえた衝撃よりもむしろロマノフ王朝そのものを存亡の崖ぶちに追いこんでしまったことになる。
(p278)

 

「あの腕白小僧をなんとか成人させたことは無駄ではなかったということを母は日本海の戦闘結果を知ってつくづく思ったことだろう」

秋山家の好古・真之兄弟がお互いのことをどう評しているのか、この物語ではあまり出てきませんが、この好古さんの言葉からは、弟・真之の仕事ぶりを誇らしく思っている感が出ていて、なかなか印象深い箇所です。

 

そしてなんと言っても、見舞いに来た東郷さんがロジェストウェンスキーにかける言葉が好きです。もしかしたらお互いの立場が逆になっていたかもしれない、という思いがあったのかもしれませんが、相手が憎いから戦うわけではないのだということや、部下を指揮する立場の大変さから、ロジェストウェンスキーと同じ目線に立っているがよく伝わってきます。

 

 好古が若いころフランスに留学していたとき、しばしば酒場へ行った。かれのゆきつけの酒場は社会主義者のあつまる所で、ある日、袖をひかれた。
 袖をひいた男が、社会主義者だった。かれは好古にむかって社会主義がいかに正義であるかを説いた。やがて親しくなると、地下室に案内された。そこでその方面のいろんな連中と会った。
「決して悪いものじゃないよ。いい所もあるよ」
 と好古はこのとき清岡にもいったが、かれの晩年共産党の問題がやかましくなったときも「悪意をもって共産党の問題を考えるようでは何の得るところもない」といったりした。
 ロシアが社会主義国になるだろうという好古のかんは、ロシアがその栄光とする陸軍が日本のような小国にやぶれたからだという。

「ロシア陸軍は、国民の軍隊ではないからな」
とだけいった。ロシアのその世界最大の陸軍は皇帝(ツアーリ)の私有物であるにすぎない、ということであろう。その軍隊が外国に負けたとき人民の誇りはすこしも傷つかず、皇帝のみが傷つく。皇帝の権威が失墜し、それによって革命がおこるかもしれいない、ということであるらしかった。日本の軍隊はロシアとはちがい、国軍であると、好古はよくいった。好古は生涯天皇については多くを語らなかったが、昭和期において濃厚なかたちで成立する「天皇の軍隊」という憲法上の思想は好古の時代には単に修辞的なもので、多分に国民の軍隊という考え方のほうが濃かった。
「ナポレオンはフランス史上最初の国民軍をひきいたから強かったのだ」
 と好古はよくいったが、日露戦争における両軍の強弱の差もそこから出ている、と好古は考えていたらしい。好古にすれば日本軍は国民軍であった。ロシアのように皇帝の極東に対する私的野望のために戦ったのではなく、日本側は祖国防衛戦争のために国民が国家の危機を自覚して銃をとったために寡兵をもって大軍を押しかえすことができたのだ、という意味であるようであった。

 

 社会主義についての好古の理解の度合がどの程度のものであったかはよくわからない。
 ただ、こういう話がある。
 好古は乃木希典との縁が浅くなかったが、その最初の出会いはパリにおいてであった。
 乃木は陸軍少将のときに外遊した。ときに三十九歳で、明治二十年のことである。パリへ行き、フランス陸軍省を訪ねたとき、ちょうど留学中だった好古が通訳した。
 そのとき新聞記者が訪ねてきて乃木に会見を申し入れた。 乃木は承諾し、好古が通訳した。
 その記者の質問が、
社会主義をどうおもうか」
 であったのである。乃木は社会主義についてさほどの知識はなかった。好古は乃木のために社会主義についての簡単な解説をした。
 その解説が、
「平等を愛する主義です」
 という簡単なものだった。身分も平等、収入も平等の世の中にするということです、というと乃木は大きくうなずき、
「しかし日本の武士道のほうがすぐれている」
 と、多少質問の趣旨と食いちがっているとはいえ、ひどく断定的な調子でいったため、記者のほうが圧倒された様子だった。
 乃木は、いう。
「武士道というのは身を殺して仁をなすものである。社会主義は平等を愛するというが、武士道は自分を犠牲にして人を助けるものであるから、社会主義より一段上である」
 乃木という人物は、すでに日本でも亡びようとしている武士道の最後の信奉者であった。この武士道的教養主義者は、近代国家の将軍として必要な軍事知識や国際的な情報感覚に乏しかったが、江戸期が三百年かかって作りあげた倫理を蒸溜(じょうりゅう)してその純粋成分でもって自分を教育しあげたような人物で、そういう人物が持つ人格的迫力のようなものが、その記者を圧倒してしまったらしい。
 好古は乃木がきらいではなかった。しかし乃木の旅順要塞に対する攻撃の仕方には無言の批判をもっていたようであり、たとえば、
「日本の非力な騎兵が、数倍のミシチェンコ騎兵団をなんとか追いはらってゆくことができたのはおれの功績ではない。日本の騎兵が最初から機関銃を装備していたのに対してむこうが持っていなかったからである。精神力を強調するのあまり火力を無視するという傾向はどうも解(げ)せない」
 とよくいっていたのは、あるいは一種の乃木批判になるかもしれない。
 乃木は身を犠牲にすると言いつつも、台湾総督をつとめたり、晩年は伯爵になり、営習院長になったりして、貴族の子弟を教育した。
 しかし好古は爵位ももらわず、しかも陸軍大将で退役したあとは自分の故郷の松山にもどり、私立の北予中学という無名の中学の校長をつとめた。黙々と六年間つとめ、東京の中学校長会議にも欠かさず出席したりした。従二位勲一等功二級陸軍大将というような極官にのぼった人間が田舎の私立中学の校長をつとめるというのは当時としては考えられぬことであった。第一、家屋敷ですら東京の家も小さな借家であったし松山の家はかれの生家の徒士屋敷のままで、終生福沢諭吉を尊敬し、その平等思想がすきであった。 好古が死んだとき、その知己たちが、
「最後の武士が死んだ」
 といったが、パリで武士道を唱えた乃木よりもあるいは好古のほうがごく自然な武士らしさをもった男だったかもしれない。

(p296)

 

「日本の非力な騎兵が、数倍のミシチェンコ騎兵団をなんとか追いはらってゆくことができたのはおれの功績ではない。日本の騎兵が最初から機関銃を装備していたのに対してむこうが持っていなかったからである。精神力を強調するのあまり火力を無視するという傾向はどうも解(げ)せない」

自軍の数倍の騎士団を追い払えたのは好古さんの力量によるところが大きいと思われますが、冷静ですね。こういう天狗にならないところも好きです。

好古さんはじめ、この時代にロシアと戦った人たちが現在のウクライナ侵攻を知ったら、どんなふうに感じるだろうか、と思ってしまいます。

 

文庫版の最終巻である8巻を読んでいて、初めてあとがきがあることに気が付きました。(この話はもともと単行本では全6巻だったため、文庫版の8巻にはあとがきが6個ついているのだそう。)

 

 古今東西のどの戦争の例をみても、日露戦争の日本ほどうまくやった国はないし、むしろ比較を絶してすぐれていたのではないかとおもわれる。
 しかし、勝利というのは絶対のものではない。敗者が必要である。ロシア帝国における敗者の条件は、これはまた敗者になるべくしてなったとさえいえる。極端にいえば、四つに組んでわれとわが身で膝をくずして土をつけたようなところがある。
 たとえばクロパトキンが考えていた大戦略は、遼陽での最初の大会戦で勝つことではなかった。遼陽でも退く。奉天でも退く。ロシア軍の伝統的戦術である退却戦術であり、最後にハルビンで大攻勢に転じ、一挙に勝つというもので、それは要するに遼陽、沙河、奉天で時をかせぐうちに続々とシベリア鉄道で送られてくる兵力を北満に充満させ、その大兵力をもって日本軍を撃つということであった。もしこの大戦略が実施されておれば、当時奉天の時点ではもはや兵力がいちじるしく衰弱していた日本の満州軍は、ハルビン大会戦においておそらく全滅にちかい敗北をしたのではないかとおもわれる。この大敗北の予想と予感は、クロパトキンよりもむしろ日本の満州軍の総参謀長の児玉源太郎自身の脳裏を最初から占めつづけていたものであり、敗北はまぎれもなかったであろう。むろん、奉天大会戦のあとに日本海海戦があり、ロシアのバルチック艦隊は海底に消えた。しかし海軍が消滅したとはいえ、ロシア帝国にその決意さえあれば講和をはねつけて満州の野で日本陸軍をつぶすこともできたのである。
 しかし、ロシアはそれをやらなかった。ここにロシアの戦争遂行についての基本的な弱さがあり、満州における諸会戦のあとを見てみても、その敗因は日本軍の強さというよりもロシア軍の指揮系統の混乱とか高級指揮官同士の相剋とか、そのようなことがむしろ敗北をみずからまねくようなことになっている。ロシア皇帝をふくめた本国と満州における戦争指導層自身が、日本軍よりもまずみずからに敗けたところがきわめて大きい。むろん、ロシア社会に革命が進行していたということも敗因の一つにかぞえられるが、たとえこの帝国がそういう病患をかかえていたとしても、あれだけの豊富な兵力と器材をうまく運営しさえすれば勝つことは不可能ではなかったのである。兵員に革命思想が浸透していて厭戦気分になっていたということを過大にみる人があるが、それは結果から見すぎる見方であろう。兵員というものはすぐれた指揮官のもとではほとんど質を一変させて戦うもので、旅順要塞におけるコンドラチェンコ少将や野戦軍におけるケルレル少将、それに旅順艦隊の二人目の司令長官マカロフのもとではロシア兵は他のロシア兵の数倍のつよさを示し、戦意はまるでちがっていた。この三人の将はいずれも相次いで戦没し、かれらが戦没したあと、その麾下(きか)の軍は虎が猫になったようなくっきりしたちがいで弱くなった。
 要するにロシアはみずからに敗けたところが多く、日本はそのすぐれた計画性と敵軍のそのような事情のためにきわどい勝利をひろいつづけたというのが、日露戦争であろう。
 戦後の日本は、この冷厳な相対関係を国民に教えようとせず、国民もそれを知ろうとはしなかった。むしろ勝利を絶対化し、日本軍の神秘的強さを信仰するようになり、その部分において民族的に痴呆化した。 日露戦争を境として日本人の国民的理性が大きく後退して狂躁の昭和期に入る。 やがて国家と国民が狂いだして太平洋戦争をやってのけて敗北するのは、日露戦争後わずか四十年のちのことである。敗戦が国民に理性をあたえ、勝利が国民を狂気にするとすれば、長い民族の歴史からみれば、戦争の勝敗などというものはまことに不可思議なものである。
 昭和四十四年十月

(p320)

 

正直なところ、このあとがきたちが、読んでよかった感を増幅させました。

「兵員に革命思想が浸透していて厭戦気分になっていたということを過大にみる人があるが、それは結果から見すぎる見方であろう。」

著者と好古さんの考え方、ちょっと似ているように思います。

 

「乃木軍司令官の気持がわからない。 なぜ状況に一致しない命令を出すのだろうか」
 と声を放ったというが、ともかくも乃木軍司令部がやった最大の愚行は、この第一回総攻撃において強襲法をとったということよりも、前線がどうなっているかも知らず、そのあまりにも大きな損害におどろいていっせいに退却せしめたことであった。
 一戸兵衛は、温厚な人物だけに、
「その理由が、あとでわかった」
 と、語っている。ただし、事実は明かさない。明かさなかったのは、乃木・伊地知の名誉にかかわるからであり、これについてはできれば永久に沈黙しておかねば国民の反撥がどれだけ大きいかわからぬと思ったからであろう。第一線の実情がわからなかった最大の理由は、軍司令部がぜったいに砲弾のとどかない後方にあったからであった。 本来なら軍司令部の位置をすすめて各師団の動きがみられるところへ置き、地下に壕を掘り、上を掩堆でかためればよい。 それをせず、軍司令官以下が前線を知らなかったことがこの稀代の強襲計画を、それなりに完結させることさえせずにおわらせてしまった。この時期の満州軍総司令部の参謀たちの一致した意見では、
「第一回で奪れていたのだ」
 ということであり、それだけに乃木軍司令部への風あたりがつよかったのである。

 

 この日露戦争の勝利後、日本陸軍はたしかに変質し、別の集団になったとしか思えないが、その戦後の最初の愚行は、官修の「日露戦史」においてすべて都合のわるいことは隠蔽したことである。 参謀本部編「日露戦史」十巻は量的にはぼう大な書物である。戦後すぐ委員会が設けられ、大正三年をもって終了したものだが、それだけのエネルギーをつかったものとしては各巻につけられている多数の地図をのぞいては、ほとんど書物としての価値をもたない。作戦についての価値判断がほとんどなされておらず、それを回避しぬいて平板な平面叙述のみにおわってしまっている。その理由は、戦後の論功行賞にあった。伊地知幸介にさえ男爵をあたえるという戦勝国特有の総花式のそれをやったため、官修戦史において作戦の当否や価値論評をおこなうわけにゆかなくなったのである。執筆者はそれでもなお左遷された。かれは青島守備隊の閑職にまわされ、大佐どまりで陸軍をひかされた。
「わしがこのようになったのは、日露戦史を書いたからだ」
 と、その人物は青島の配所にいるとき、しばしばぼやいていたという。
 これによって国民は何事も知らされず、むしろ日本が神秘的な強国であるということを教えられるのみであり、小学校教育によってそのように信じさせられた世代が、やがては昭和陸軍の幹部になり、日露戦争当時の軍人とはまるでちがった質の人間群というか、ともかく狂暴としか言いようのない自己肥大の集団をつくって昭和日本の運命をとほうもない方角へひきずってゆくのである。

(p340)

 

本来、報酬を与えられるような働きをしなかった人にも爵位を与えてしまったから、作戦についての価値判断なく戦史をまとめざるを得ず、結果国民は都合の悪いことを知らないまま、自国は強いと思いこんで次の戦争に突入してしまう。

今の感覚で考えると、あちゃーという感じですが、戦地に赴いていない国民や、戦勝国としての歴史を学んだ子供は、特に疑うことなく、自分の国を誇らしく思うだろうな、ということが予想できます。

 

 この作品は、執筆時間が四年と三ヶ月かかった。書き終えた日の数日前に私は満四十九歳になった。執筆期間以前の準備時間が五年ほどあったから、私の四十代はこの作品の世界を調べたり書いたりすることで消えてしまったといってよく、書きおえたときに、元来感傷を軽蔑する習慣を自分に課しているつもりでありながら、夜中の数時間ぼう然としてしまった。頭の中の夜の闇が深く遠く、その中を蒸気機関車が黒い無数の貨車の列をひきずりつつ轟々と通りすぎて行ったような感じだった。 遠ざかってゆく最後尾車の赤い灯をいつまでも見ている自分を滑稽にもおもえて、そのことをわざわざここに書くのが面映(おもは)ゆくある。 この十年間、なるべく人に会わない生活をした。明治三十年代のロシアのことや日本の陸海軍のことを調べるという作業は、前半は苦しくはあったが、後半は何事かが見えてきて、その作業がすこし楽しくなった。いずれにしても友人知己や世間に生活人として欠礼することが多かった。友人というほどではないが古い仲間の何人かが、その欠礼について私に皮肉をいった。これはこたえた。しかしやむをえないじゃないかと私は自分に言いきかせた。
 しらべるについて、無数の困難があった。そのひとつはロシア語だった。私は若いころ一年間ロシア語を習ったが、その実力は辞書がやっと引ける程度にすぎない。そこで、頻出度の高い軍隊用語の単語帳を自分でつくってみた。面倒な文章は、ロシア語のできる友人に大意を口頭で訳してもらった。みじかい文章がわからなくて、深夜に起きていそうな知人をあれこれ物色して電話をかけたりしてその人を不愉快にさせたりした。

 

 この作品世界の取材方法についてだが、あれはぜんぶ御自分でお調べになるのですか、と人に問われたことがあって、唖然としたことがある。小説の取材ばかりは自分一人でやるしかなく、調べている過程のなかでなにごとかがわかってきたり、考えがまとまったり、さらにもっとも重大なことはその人間なり事態なりを感じたりすることができるわけで、これ以外に自分が書こうとする世界に入りこめる方法がなく、すくなくとも近似値まで迫るのはこれをやってゆくほかにやり方がない。
 私はわずかな年数ながら、陸軍の下級士官を体験した。速成教育ながら戦術も教わった。このことは梯子(はしご)として役に立った。
 小説とは要するに人間と人生につき、印刷するに足るだけの何事かを書くというだけのもので、それ以外の文学理論は私にはない。以前から私はそういう簡単明瞭な考え方だけを頼りにしてやってきた。いまひとつ言えば自分が最初の読者になるというだけを考え、自分以外の読者を考えないようにしていままでやってきた(むろん自分に似た人が世の中には何人かいてきっと読んでくれるという期待感はあるが)。

(p358)

 

この文章のように、司馬遼太郎先生がどのように取材したり、どんなところに苦労したかがうかがえると、物語もより身近に感じられていいですよね。4年以上もかかる執筆…、頭が下がります。関わっている時間が楽しいものでもそうでなかったとしても、書き終わったら抜け殻になってしまいそう。そしてその心境を表す文章がまたステキ。

 

「頭の中の夜の闇が深く遠く、その中を蒸気機関車が黒い無数の貨車の列をひきずりつつ轟々と通りすぎて行ったような感じだった。 遠ざかってゆく最後尾車の赤い灯をいつまでも見ている自分を滑稽にもおもえて、そのことをわざわざここに書くのが面映(おもは)ゆくある。 」

このたとえ好きです。

 

(…)現実の問題として戦場における前後左右との釣りあいがとれなくなり、なにも書けなくなる。このため功も罪も書かず、いっさい価値論をやめて時間的事実と兵力の出し入れの物理的事実のみを書くことによってこの全十巻は作りあげられたらしい。
「そこまで譲歩しても気に入られなかった」
 と、執筆責任者のある大佐が言い、このためかれは編纂が終わると青島(チンタオ)の守備隊司令官という閑職に追いやられたというのである。
「自分はかの日露戦史を書かされたことで、軍人としての生命がおわった」
 と、この人物はそのことをこぼしては酒ばかり飲んでほどなく予備役に編入されてしまった。この大佐が青島で配所の月をながめて鬱々としていた光景の目撃者は小川琢治(たくじ)博士であった。 小川博士は日露戦争にも地質調査の技師として従軍した。陸軍は戦争を遂行しつつ石炭を得るために地質調査していた。このため当時まだ農商務省の技師だったこの高名な地理学者が派遣され、大山巌の総司令部付で参謀たちと同じ建物のなかで仕事をしていたのである。 旅順包囲中の乃木軍司令部の無能についてのごうごうたる非難の声も総司令部できいた。記憶力のいい人だからそれらの作戦批判のことばをほとんど覚えていた。 小川博士の子息たちが貝塚茂樹博士や湯川秀樹博士らであるが、その当時の総司令部の空気をよく子息たちに話された。その後、第一次世界大戦で日本が青島を占領したときも、小川博士は政府の命令で青島付近の地質調査をされた。そのときに旧知の右の大佐に会われたのである。
 その戦争を遂行した陸軍当局が、みずから戦史を編纂するということほどばかげたことはない。たとえば第二次世界大戦が終わったとき、アメリカの国防総省は戦史編纂をみずからやらず、その大仕事を歴史家たちに委嘱した。 一つの時代を背景とした国家行動を客観的に見る能力は独立性をもった歴史家たちの機構以外には期待できないのである。また英国の場合は、政府関係のあらゆる文書は三十年を経ると一般に公開するという習慣をもっている。その文書類を基礎に、あらゆる分野の歴史家が自分の研究に役立ててゆく。アメリカもイギリスも、国家的行動に関するあらゆる証拠文書を一機関の私物にせず国民の公有のもの、もしくは後世に対し批判材料としてさらけ出してしまうあたりに、国家が国民のものであるという重大な前提が存在することを感ずる。
 日本の場合は明治維新によって国民国家の祖型が成立した。その後三十余年後におこなわれた日露戦争は、日本史の過去やその後のいかなる時代にも見られないところの国民戦争として遂行された。勝利の原因の最大の要因はそのあたりにあるにちがいないが、しかしその戦勝はかならずしも国家の質的部分に良質の結果をもたらさず、たとえば軍部は公的であるべきその戦史をなんの罪悪感もなく私有するという態度を平然ととった。もしこのぼう大な国費を投じて編纂された官修戦史が、国民とその子孫たちへの冷厳な報告書として編まれていたならば、昭和前期の日本の滑稽すぎるほどの神秘的国家観や、あるいはそこから発想されて瀆武(とくぶ)の行為をくりかえし、結局は日本とアジアに十五年戦争の不幸をもたらしたというようなその後の歴史はいますこし違ったものになっていたにちがいない。

 

 このため、日露戦争における陸戦をしらべるについて、ときにこの作業をやめようかと思うほどに難渋した。ただ右の官修戦史にはすばらしい付録がついていた。各巻ざっと五十枚ずつ、通計五百枚ほどの精密な地図が、戦局の推移が一目でわかるようにして付けられていたのである。内容の記述よりもこの地図を見てゆくほうがはるかにこの戦争が理解できた。編者はあるいは暗にその意図があって、いちいち変化に対して忠実すぎるほどの地図をつけておいたのかもしれない。
 この地図と、敗戦側であるロシア側の記録をつきあわせ、その局面に関するあらゆる資料や雑書のその部分と照合してゆくことによって、一つずつの局面が立体化して見られるようになった。その作業が後半から面白くなったのは、展望がようやくひらけてきて、ある局面と他の局面群の相関関係がすこしずつわかり、それらの因果関係もわかってきて、全体が一個の凹凸のある風景として目に映るようになったからである。
 日露戦争は陸戦においては決して勝ってはいなかった。敗けてはいなかったが、押し角力にすぎなかった。たとえばクロパトキンは一九一三年(大正二年)に「満蒙処分
論」というロシアの侵略主義国策を積極的に理論化した書物を出したが、かれはその著書のなかで「日露戦争はわずかに前哨戦にすぎなかった」と書いているように、ロシアの伝統的な戦法は、ナポレオン戦争ヒトラーソ連侵入戦の場合においてもみられるように、一つ土俵に執着せずつぎつぎに土俵を空けては後退してゆき、最後に敵の補給線が伸びきったところではじめて大攻勢に出るのである。満州におけるロシア軍のとった戦法も多分に伝統的なものであった。

 

 日本軍は一局面ごとに勝った。つまり相手の土俵―陣地―を奪(と)った。しかし相手はさほどの損傷もうけずに後退してあたらしい陣地をつくってふたたび対峙するのである。そのくりかえしであった。ところが、一局面ごとに国際世論は、
「日本が勝ち、ロシアが敗けた」
 と、世界にむかって報じた。 元来、一戦闘における勝敗の定義は軍事学の立場からいえばひどく定義づけの困難なものなのである。その定義が幾通りあるかはここではのベないが、すくなくともロシア側はその戦略的立場からみて「これは敗けではない。単に陣地転換をしただけである」といえば言うことができた。しかしそういう軍事学的な基準よりも、素人の国際ジャーナリズムが一戦局ごとに日本の勝ちを宣言し、すばやく世界中に宣伝してロンドンの金融街だけでなく、ペテルブルグの宮廷までにそれを信じさせたのである。 二十世紀初頭までの戦争としては稀有の現象であるようにおもえる。国際情報が日本をどんどん勝たしめて行ったのである。

(p362)

 

「もしこのぼう大な国費を投じて編纂された官修戦史が、国民とその子孫たちへの冷厳な報告書として編まれていたならば、昭和前期の日本の滑稽すぎるほどの神秘的国家観や、あるいはそこから発想されて瀆武(とくぶ)の行為をくりかえし、結局は日本とアジアに十五年戦争の不幸をもたらしたというようなその後の歴史はいますこし違ったものになっていたにちがいない。」

日露戦争には(上記では勝ったとは言っていませんがとりあえずは)勝って、第二次世界大戦には負けた、という認識だけでは、自国のことながら他人事というか、事実としてしか頭に入ってきませんが、なぜ日本が第二次世界大戦へ突き進んでしまったのか、そしてなぜ勝利できると思ったのかを考えた時、その原因の一つは日露戦争の振り返りと伝え方にあったのかと感じました。歴史を学ぶことの意義が重くのしかかってきます。

 

明治の人たちが自分たちの国のあり方を考え、国力的にまったく余裕のないなかで諸外国と対峙したこと、そしてその激動の時代をわかりやすく紐解いてみせてくれた司馬先生に、読み終えて感謝の気持ちが生まれました。

ウクライナ侵攻で戦争が身近になってしまった今、外交はもちろん、戦況の報じ方の難しさと重要さを改めて感じました。メディアからの情報をどう受け止めるか、そしてどのような展望を自分の国に求めるのか、今一度考えるべきだと思わされます。

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。

 

今年こそ定番を見つける。『クローゼットは6着でいい』を読んで

こんばんは、ゆまコロです。

 

日中はすっかり薄着になったけど、朝晩は冷えるので、コートをしまっていいのか迷う季節です。

 

二神弓子さんの『クローゼットは6着でいい』を読みました。

 

コロナ禍以前はクローゼットに洋服が入りきらなくて、恥ずかしながら部屋の隅にも服が積んでありました。

朝から、翌日仕事に着ていく服をどうしようかとよく考えていて、出先でもネットでも、年中お洋服を探していたように思います。

それにもかかわらず、毎朝着て行きたい服がないという妙な事態に。

 

現在は通勤する時の洋服をレンタルするようになって、手持ちの服がだいぶ減りました。

それでもまだまだ6着にはほど遠い量です。

そんなに減らせるわけないだろうと思いつつも、クローゼットの中を6着にできるなら、ぜひやりたいという気持ちは超あります。

 

本書によれば、洋服選びで消耗しないためには、「自分らしくて心地いいこと」を大切にするべきで、そのために

・骨格診断

・パーソナルカラー診断

の2つを活用することを提案してくれています。

 

そしてタイトルにもある厳選した6着とは、

①ジャケット

②ブラウスもしくはシャツ

③ニット(春夏ならカットソー、Tシャツ)

④パンツ

⑤スカート

⑥ワンピース

のアイテムのこと。ここにコートなどの防寒具は含まないとのこと。

 

下着やスポーツウェアは含まれないので、そこは安心しました。一年を通して主軸となる服を選ぶと考えれば、なんとなく今後何を残すか、また本当に気に入っている主力アイテムとして何が足りないのか、この時点でちょっと見えてくるものもあるように思います。

 

そして肝心の「骨格診断」は、体の質感やラインの特徴から

・ストレート

・ウェーブ

ナチュラ

の3タイプに分けるというもの。

セルフチェックがあるので、これは自分でだいたいわかる気がします。

また特徴によって、避けたほうが無難な素材、見せたほうがキレイに見える体の部位についての記述があるので、これまでの自分の好みや周りからの評判から、自己判断できることもあると思います。

 

これまで、イエローベースとブルーベースについても、言葉は聞いたことがあるけどぜんぜん意識していませんでしたが、本書を読んでちょっと関心が出てきました。

 

こちらのサイトが分かりやすいです。

(こんなに長年洋服選びに難儀しているのだから、もうちょっと主体的に自己分析すればいいのに、と今更ながら思わなくもない。)

 

depaco.daimaru-matsuzakaya.jp

 

ゴールドとシルバーのアクセサリー、どちらがしっくりくるか?という判断基準が、なるほど!と思いました。

 

もう一つの判断基準であるパーソナルカラー診断は、下記の4つから似合う色、似合わない色を判断するというもの。

・スプリング

・サマー

・オータム

・ウィンター

 

こちらも、各タイプの特徴について、髪色や似合うリップの色から判断できます。

そして顔の近くに当てて、顔映りの良し悪しをチェックできる「パーソナルカラーチェックシート」が便利で良い。鏡で見て自分でもなんとなくわかるけど、他の人に見てもらうと即分かります。

母にもチェックシートを当ててチェックしてみましたが、親子でも似合う色は全然違っていて面白い。

 

似合うマスクカラーについての記述も良かったです。

なんとなく、着ている服に合わせることもあったけど、写真で見ると全然受け止められ方が異なっていることが分かります。

 

似合う服と好きな服が必ずしも一致しない、ということも分かって、ちょっとさみしい気持ちにもなりました…。

(ストレートタイプなのに、ウェーブタイプの人に似合う、キラキラとかふわふわな靴を選びがちだった。)

 

なにはともあれ自分のタイプが分かったので、あとは「自分らしくて心地いいこと」を追求したアイテムを探して6点を厳選するだけです。

 

できないだろうな〜、と思って手に取ったけど(二神さんごめんなさい)、読み終わってみると、なんだかそれほど苦労せず減らせそうな気もしてきました。

まずは、道理で似合わないはずだー、と思ったものから手放すことができそうです。

 

お洋服を減らしたい人におすすめです。

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。

ガマンの先に待つ未来。『年収443万円 安すぎる国の絶望的な生活』を読んで

こんばんは、ゆまコロです。

 

小林美希さんの『年収443万円 安すぎる国の絶望的な生活』を読みました。

 

インパクトのあるタイトルが気になっていました。

443万円は、「一年を通じて働いたこの国の給与所得者の平均年収の金額」とのことです。この平均年齢は46.9歳で、ちょうど就職氷河期世代と重なるのだそう。

 

本書は平均年収よりも稼いでいる人、そうでない人、様々な社会人が抱える生活の悩みをインタビューする形式で書かれています。

 

まず心に響いたのは、月収9万円のシングルマザーの方(41歳)のインタビューです。

 

 最近、ロボットでもできる仕事が多いような気がして、なんとかならないものかと思います。工場で働いていた時は、機械の歯車と化すような仕事に心も身体もくたくたになって。朝またあのいつもの一日が始まるかと思うと絶望するんです。その繰り返しが永遠に続く。
 それでも工場を辞められなかったのは、たとえ欠勤扱いで減給されても子どもの急病などの事情で仕事を休みやすかったから。そんな職場は他になかったから、なかなか辞められなかったのです。
 年次有給休暇の権利がパートにもあることを知り、それを恐る恐る社長に聞くと「そんなものやってたら会社が潰れてしまう!」と話にもなりませんでした。従業員の女性たちにも年次有給休暇の権利があるのだと話しても「そんなこととても言えない」 「雇ってもらえるだけでありがたいのに」と、自分たちの待遇に疑問をもつ人はいませんでした。権利はまず知識として知っていなければ、そして主張しなければ手に入らないのだと痛感しました。
 女性だから、非正規雇用だから、人として扱われずに使い捨てられる。そんな時代が早く終わってほしい。義務教育では、国民の三大義務として「勤労の義務」は教わりますが、自分を守るための労働者の「権利」は教えてもらえません。私は自分の失敗や教訓を生かし、我が子たちに政治の話も労働者の権利についても日常的に話すようにしています。
 やりがいを感じることを仕事にするのが一番いいと今、実感しています。必要とされる今の職場で働ける環境がなければ、生きている実感もない。
 息子を見ていても、今は野球チームで満足しているけど、これから夢に向かって挑戦をしたくなることも出てくるんじゃないかと。その時、したいことをさせてあげたいです。そういう世の中を作りたい。
(p114)

 

年次有給休暇の権利がパートにもあるのに、その存在を知らないこと、知っていても声を上げられないことが歯がゆく感じられます。有給休暇をあげたら会社が潰れてしまう、という社長も苦しい立場なんでしょうけど、労働者に寄り添った職場環境に近づけるために、なにか講じられることはないのかなと思いました。

労働者の権利については、たしかに社会人になっても、自分から知ろうとしなければ知らない事柄が多いかもしれません。誰かに言われて、へぇそんな権利があるのか、とか、こういう時ここに相談するのか、とか、遭遇してみないとわからないこともありますし。

 

この女性の話からもかなりしんどそうな様子が伝わってくるのですが、現状をなんとかできないのだろうかと一層苦しくなったのは、認知症の母親と生活する年収200万円の非常勤講師の男性(56歳)のお話です。

 

 なんでマスコミは中高年の貧困に目を向けてくれないんですかね。もう何もかも疲れました……。気づいたらもう50代後半です。 還暦まであと数年かと思うと、本当にこの状況から抜け出せるのか、絶望的になります。

 研究者を目指して大学院でも学んだのに、ずっと大学の非常勤講師のまま。年収は200万円程度で、典型的な「高学歴ワーキングプア」です。だから、大学院時代に借りた奨学金の返済がまだ250万円も残っています。
 結婚して子どもができてという当たり前の生活、ささやかな幸せを望んでいたけれど、そんなことを考えるのも空しいんです。誰か、「年収なんて関係ない」と言ってくれる女性はいないものでしょうか….…。現状、誰も相手にはしてくれないでしょうけど。
 埼玉県にある実家で暮らし、10年前に父は癌で亡くなり、母は5年前に脳出血を起として認知症になってしまいました。自分が母の介護をしています。
 振り返ると、父を亡くしてから、私の「失われた10年」が始まったのでしょう。でも、もっと遡れば、研究者を目指した時からワーキングプアの道を歩むことになったのだと思います。


 平均月収15万~16万円、同額のパソコン購入が痛手


 大学の先生といっても、教授もいれば、講師もいます。講師のなかでも、専任講師であればフルタイムで雇用期間の定めがないのでいいですが、私は非常勤講師。
 私はちょうど「ポストドクター」問題の世代に当たります。1990年代に大学院の定員が大幅に増えたことで博士課程に進む人も増えたのに就職先が限られ、キャリアパスが描けないまま不安定な立場に置かれるという問題です。
 非常勤講師だと、授業単位での仕事になるので、「毎週何曜日の何時限目のコマで」という単位で働きます。今は大学の多くが2学期制なので、4月からの春学期と、9月からの秋学期それぞれで何コマ授業を持てるかにかかっています。
 大学の授業は1コマの報酬がせいぜい月3万2000円くらい。1コマ2万円という条件の悪い仕事もあるので、3万円を超えたらマシなんです。それをいくつもかけもって、やっと月収いくらかになる。
 今年の春学期の4月から7月までの平均月収は15万〜16万円。1年前の年収は235万円でした。今年は持っていた授業が2コマ減ってしまうので痛手が大きくて。2コマなくなることで月6万円、年収で50万円から70万円減ってしまいます。 今年度、専門学校で2ヵ月間の集中講座の仕事があったことで入る3万円は、自分にとっては、とても大きいんですよね。

(p145)

 

大学時代を振り返ると、結構な割合で非常勤講師の先生がいらっしゃったような気がするのですが、ひと月のお給料はこんな感じだったんですね。何の講義にせよ、内容はかなり専門的なのに、ちょっと安すぎる気がします。生徒の授業料だって決して安くないのに、もう少し還元できないものなのでしょうか。

収入の面だけを切り取っても大変そうなのに、ワンオペ介護の話がまた辛い。

 

 つい先日、ちょっと余裕ができたので、母がデイサービスに行っている間の3時間くらい、市内にあるスーパー銭湯に行ってきました。 コロナに感染するといけないから、移動は奮発してタクシーで。スーパー銭湯の入浴料800円とお昼代、タクシー代で3000円くらい使ってしまって。今、思えば、少しお金を使いすぎてしまいましたが。
 もし叶うなら、母を連れて近場の温泉に一泊旅行に出かけたいですね。でも、お金もかかるし、僕は車を持っていないから母を連れての移動は大変そうだし、きっと難しいかな。 コロナもあるし、リスクばかり。母の実家が東北にあって、連れていってあげたいけど、それも難しいでしょうね。
 今年度、さらに1コマ授業が減ってしまって、このままだと50万円前後の減収になって、いよいよ年収が200万円を切りそうです。知人に仕事を紹介してもらって、やっと20万円は補えるでしょうか。せめて年収が300万円あったら、ゆとりのある生活を送ることができるのに。
 副業したとしても、やはり、コロナの感染リスクは避けたいです。僕が倒れたら母を誰がみるのかと思うと、電車やバスの人混みのなかにいたくない。副業で出かける間、もしホームヘルパーを頼めば費用のほうがかかるだろうし。いろいろ考えると、やっぱり年収300万円が理想です。幸い、家があるので、なんとかなる。


 孤立した介護でいろんなものを失った

 

 もっと言えば、うちのような低所得の世帯の介護保険の自己負担分が軽減されると助かります。2022年10月からは、これまで1割だった高齢者の医療費の自己負担が2割になったじゃないですか。 これ、ちょっと本当に低所得世帯には勘弁して、という感じですよ。物価も上がっているし、もう、今までさんざん自助努力で節約してきて、これ以上、もうどうにもできないです。
 そして、僕のように孤立した介護は、やはりつらい。公的な補助で介護する側のメンタルケアが受けられると良いのですが。離れて暮らすきょうだいは自分の価値観で勝手なことばかり言うので、腹も立つし。毎日の介護は本当に大変です。 母を見て、あぁ、またか、って。

 これから収入が増えることはないと思うのです。 年金保険料の未納もあるので、年金受給は諦めています。非常勤の大学の仕事は、続けられても70歳まで。それ以降は、何かアルバイトをするのか。働けるのかどうかも分からない。生活保護の申請をするしかないかもしれませんね。
 老親の介護を始めて5年が過ぎて、自分はいろんなものを失ったなぁ。世の中じゃ、女性のワンオペ育児が大変だといって取り上げられるけど、介護も同じ。独身男性の介護、そしてコロナ禍での非正規雇用への打撃。 誰かに声をあげてほしいんです。
 もし専任講師のポストが増えれば、こんなに追い詰められずに済むのに。 個人ではどうにもできない。メディアに提言してほしくて、取材に協力したんです。

(p162)

 

食事に通院に、ほとんど目を離せない状態の母親の面倒を見ながら働くのは、想像を絶する大変さだろうと思います。しかもこの方、きょうだいがいらっしゃるけど何の援護もなくほとんどお一人で介護をされているのに驚きます。離れて暮らしていると、それも致し方ないのかもしれませんが。

私が働くから心配ないよという女性ばかりの世の中なら良いのかもしれませんが、平均年収から考えると難しいかなという気もします。

 

最後に著者は今後の課題と先進的な取り組みとして富山県の事例を挙げています。

中小企業が「合同で新人研修やフレッシュマン・フォローアップ研修を行うなど、協力し合って若手社員を育てる」というのがいいなと思いました。

 

 UIJターン就職に注力する富山県

 

 地元の中小企業と学生とのマッチングを図るため、継続してUIJターン就職に力を注ぐのが富山県だ。富山県は、地元の知られざる優良中小企業の紹介を積極的に行う。それと同時に、地域の魅力も伝えることで 「富山で暮らし、働く」というイメージを膨らませている。
 筆者が最初に富山県に関心を持ったのは、週刊「エコノミスト」で働いていた時だった。富山県が15~34歳の正社員比率が全国1位だったことで注目した。 女性就業率の高さなども際立ち、取材を重ねた。日本海側は工業集積地で、一人当たり製造品出荷額や一人当たりの付加価値額も全国平均と比べ高い。可処分所得の高さや、持ち家比率の高さなど客観的な指標からも、豊かな暮らしが期待できる。

 ニッチな市場で圧倒的なシェアを誇る企業が多く、高い付加価値あるものづくりが行われている。YKK不二越など有名企業はもちろん、シーケー金属の「環境対応型溶融亜鉛めっき」、富山村田製作所の「パソコン用ショックセンサ」は世界シェアトップクラスで、その他にも数多くの優良企業がある。また、富山は「薬売り」で知られるように、医薬品生産拠点として工場が集まっている。
 県の事業として2005年度から始まった、東京や大阪などで開催されるUターン就職セミナー「元気とやま!就職セミナー」は継続して行われ、年々、工夫が凝らされている。富山県で行われる合同説明会は、学生が実家に帰省する正月を狙って行われる。
 富山市高岡市にある企業巡りをする「とやま就活バスツアー」、女子学生が富山の企業の女性社員とお茶をしながら語り合う 「就活女子応援カフェ」(現在はオンライン開催)が企画されるなど、あの手この手で、進学で都市部に出た学生に地元の企業を知ってもらうチャンスを作っている。
 バスツアーは夏休みなどを使って大学3年生が県内の企業2~3社を回る。いくつかのコースがあり、各コース20人を定員に、会社説明会、職場見学、若手社員との座談会が行われる。バスツアーで訪問する2~3社は、学生が好みそうな目玉となるネームバリューのある企業とセットで、学生にとっては身近に感じないだろうけれどニッチ市場でトップをとっているような地元の優良な中小企業を意図的に組み合わせている。
 こうした取り組みが奏功するのには土壌があり、富山県では全国に先駆けて中学2年生が地元企業で5日間の本格的な職業体験をする 「14歳の挑戦」が行われていた。それは、単なる職業体験ではなく、地域が子どもを見るという意味合いが強い。
 Uターン事業などを担当していた富山県庁の山本慎也さんは、過去の取材でこう語っていた。
富山県では、リーマンショックの後も高校生の内定率は落ち込まなかった。それは医薬品会社などの業績の伸びだけではありません。地元の中小企業はたとえ経営が苦しくても、高校生を採用しようと、高校との信頼関係を大事にしていました。14歳の挑戦、高校生や大学生のインターンシップを引き受けるのは企業に負担がかかるものですが、つながりを大事にする富山県らしさがあるのです」
 その言葉通り、地元企業が社員を育てようとする意識が高い。中小企業は各社が毎年新卒採用しているわけではないため、富山県中小企業家同友会は合同で新人研修やフレッシュマン・フォローアップ研修を行うなど、協力し合って若手社員を育てる。就職氷河期世代についても、ある社長は「誰にとっても、何かしらできる仕事はある。丁寧に教えていけばスキルアップも可能なはずだ」と採用意欲を見せる。
 就職氷河期世代支援とは異なるが、最近では、富山県中小企業家同友会は「お試し就労」に取り組もうと準備を進めている。地元の産婦人科医であり県議でもある種部恭子さんが児童養護施設、 母子支援・女性支援団体と取り組む、ドメスティック・バイオレンスや虐待などの影響で発達の課題やトラウマを抱える人への就労支援に協力する。
 傷ついた体験から仕事が続かないケースがあることから、中小企業がリハビリ的に「お試し就労」として受け入れ、家庭機能がない子どもや若者の就労に寄り添う「職親」になる。小さな仕事を作って、仕事という名の居場所を作り、寄り添うことで自立を支えるというもの。ある中小企業家同友会のメンバーは、「同じように就職氷河期世代に向けてもいい取り組みだ」と展望しており、ここに、一筋の希望の光が見える。
 鍵となるのは、人と地域を大切にする優良な中小企業との出会いだろう。

(p208)

 

また、コロナ禍で多くの人が職を失ったことについても、「これまで外国人旅行客を狙ったインバウンド政策に安易に頼ったツケが回り、多くのコロナ解雇につながった。今こそ、産業構造の転換が迫られている。それには、薄利多売のサービス・飲食業から、高付加価値のものづくりへの原点回帰が必要」と述べています。

良質な雇用を生み出せる、付加価値の高い製造業を見直すべきで、教育界で”効率経営”が求められ、機械設備費などが高い工業高校を廃校にする傾向があることへも、警鐘を鳴らしています。

 

結論として、安すぎる国から脱却する方法を、著者は次のように締めくくっています。

 

    安すぎるこの国の絶望的な生活
 

 そして、不安定な非正規雇用をなくさなければならない。これこそ、原則、正社員にするよう大胆な改革が必要だ。企業が社会保険料の負担を逃れたいために業務請負契約などを拡大させるのであれば、もう、その仕組みそのものを抜本的に変えて、労働者全員に社会保険雇用保険が適用されるようにしなければならない。社会保障をどう変えていくのか、国は正面から取り組む時に来ている。
 筆者はこれまでも提案しているが、たとえば「格差是正法」を作り、行き過ぎた規制緩和を正していかなければならないのではないか。あたかも何かが変わるような気になるだけの「改革」から目を覚まさなければならない。
 それは、年収443万円という、実は安すぎるこの国の絶望的な生活を直視することから始まる。

(p215)

 

本書には、スタバやマック、外でのランチなど、低所得なゆえに(あるいは平均以上の所得があったとしても)できないこと・諦めていることの例がこれでもかと出てきます。

政治家も官僚も、多くの国民がこのような生活をしているなんて夢にも思わないかもしれませんが、絶望的な生活を直視すること、そしてどのように仕事をしていきたいかをリアルに考えることが求められていると感じました。

苦しいエピソードを聞くとつい節約しなくちゃ、という気持ちになりますが、もっと変えなくちゃいけない部分があると強く思わされます。

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。

 

高カカオチョコレートの真価がわかる。『自力でみるみる改善!脂肪肝』を読んで

こんばんは、ゆまコロです。

 

何年か前から高カカオチョコレートを毎日食べています。便秘に効くと聞いて。

 

γ-GTP高めで健康診断に引っかかっている弟から、「最近読んだ本にも、一日25gの高カカオチョコレートを摂れって書いてあった」と聞き、え、便秘対策だけじゃないの?と無性に気になって借りました。

 

と、いうわけで栗原毅さんの『図解ですぐわかる 自力でみるみる改善!脂肪肝』を読みました。

 

「図解」とあるように、全ページカラーでとても読みやすいです。

本書によると、高カカオチョコレートの健康効果は、便秘解消以外にもいろいろあるようでした。

 

脂肪肝の予防(肝臓の活性酸素を除去するため)

・血圧を下げる(血管を広げる作用が期待できる)

冷え性の改善(カカオポリフェノールやテオブロミンという成分が末梢血管を拡張し、手足の血流を促す働きがある)

・血糖値を下げる(消化吸収を緩やかにすることで食後血糖値の上昇を抑える)

歯周病を予防する(カカオポリフェノール歯周病菌を減らす)

アトピー、花粉症などアレルギーを改善(カカオポリフェノールが、活性酸素の働きを抑えアレルギー予防や軽減の効果が期待できる)

 

便秘の解消になる、というのは効能のうちのほんの一部分だったんですね。

ポリフェノールが、人間の体の中で起こる酸化を抑えてくれることはなんとなく知っていましたが、リンゴや赤ワインよりも含有量が多いことは初めて知りました。(100gあたりのポリフェノール含有量は、高カカオチョコレート840mg、リンゴ220mg、赤ワイン180mg)

 

そしてこの本で一番印象的だったのは、「血液検査のアルブミンで肝臓の元気度がわかる」という項目です。

 

 アルブミンアミノ酸などの栄養素を運搬する役割を担うため、アルブミンが不足すると、体内の必要なところに栄養素が届かないという不具合が生じます。アルブミンが低下すると、肝臓だけでなく、体全体から元気がなくなってしまいます。

 厚生労働省が出しているアルブミンの基準値は3.8〜5.3です。私はそれよりも厳しく、4.5以上を推奨しています。

 アルブミンを上げるためには、やはり肉と卵がおすすめです。どちらもたんぱく質を多く含み、アルブミンの原料となるからです。

(p54)

 

このページを読んで、去年の健康診断の結果を見てみると、かろうじて厚生労働省の基準値内なのだけど、本書によると「新型栄養失調」というカテゴリにいました。

結構意識してたんぱく質摂ってるつもりだったのに…。実は栄養失調だったのね自分。

また栗原先生によると、アルブミンの値4.6(g/dl)になると「肌が艷やかになる」、4.7(g/dl)になると「髪が元気になる」、4.8(g/dl)だと「爪がきれいになる」とのことなので、やる気が湧いてきました。がんばって卵とお肉を食べようと思います。

 

他にも、歯周病菌が血管に入ると、インスリンの働きを阻害して血糖値を悪化させるため、歯磨きの他に歯間ブラシを使うことや、有酸素運動(ウォーキング、水泳など)と無酸素運動ダンベルや筋トレなど)をバランスよく組み合わせて代謝を盛んにする方法など、参考になる項目がありました。

 

生活習慣に関することや、お風呂に入ってできるストレッチ、食べ方のコツなど、アプローチがいろいろあるので、肝臓の値が気になる時に参考にしやすいと思います。

個人的に割と肝臓は丈夫だと過信していたけど、けっこう危ういこともわかって良かったです。脂肪肝じゃないから、と思わずに開いてみてよかった。

 

 

父がホワイトデーにくれたカレ・ド・ショコラたち。

 

今年はアルブミン値を上げられるよう頑張りたい。

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。

 

カギは、機能運動性を高めること。『究極の疲れないカラダ』を読んで

こんばんは、ゆまコロです。

仲野広倫さんの『世界の最新医学が証明した究極の疲れないカラダ』を読みました。

 

平日、仕事をしながら「休日になったら、あれをしよう、ここに行こう」と考えているのに、いざお休みになると、疲れててもう別に何もしなくてもいいや…という状態によくなっています。

単に怠け者な性格なだけなのかもしれませんが、疲れに関してなにか打開策があれば嬉しいと思って本書を手に取りました。

 

著者は2021年東京五輪アメリカチームに帯同したスポーツカイロドクターです。

 

 私たちのカラダは毎日怪我をしている


    疲れにくい動けるカラダとは、どんなイメージがありますか?
     理科室にある骨格標本が自由自在に動くようなカラダを想像する人がいます。
     開脚や前屈ができるというのもそのイメージのひとつです。
    ストレッチや体操をして、180度開脚ができたり、前屈で地面に手がつくようになると、いかにもカラダが動くようになった気がします。
     しかし、必要以上に柔軟性を追求するとむしろ怪我のリスクが高まります。 ヨガインストラクターやプロダンサーは、カラダがやわらかすぎるために一般の人よりも故障しやすいのです。そもそも柔軟性は遺伝の要素もかなり強く、5歳児でもカラダの硬い子と柔らかい子がいます。
 疲れ知らずの動けるカラダをつくりたければ、毎日ストレッチをしても、ほとんど意味はありません。なぜなら、日々、歩いたり、階段を上がったり、走ったり。私たちの日常動作は、ストレッチの動きではないからです。

 生きて活動していれば毎日が怪我の連続です。久しぶりに階段を上がる、慣れない靴を履く、走る、長時間立ちっぱなしになる。このとき私たちのカラダは軟部組織(筋肉・靭帯)のマイナーテア、すなわち細かい筋繊維の故障、破れを起こしています。筋肉は負荷により疲労し、耐えられなくなると壊れます。
 すると、修復する際にかさぶたのような癒着、硬い状態がつくられます。 十分に回復しないと、筋肉が硬く、短く、弱くなるという負のサイクルが始まります。これが軟部組織の損傷が慢性化する大きな理由です。
 次に関節まで動きが制限されて、カラダは硬く動かなくなっていきます。 あぐらがかけないというのは、股関節が硬くなってしまっている症状です。
 そこで開脚できるように、股割りなどをおこなうわけですが、動けるカラダにはなりません。なぜなら、ストレッチは筋肉を長く伸ばすだけで、歩いたり走ったりするために必要な安定性やバランス感覚は鍛えられないからです。

 普段どおりの生活を送っていても、私たちのカラダは毎日疲労し、壊れては修復しての繰り返しだということを知ってください。
 だから、激しい運動は何もしていないのに「なぜか最近、椅子から立ち上がるのがおっくうになった」「階段を上がるのがつらい」「靴のへり方が左右異なる」 「つまずくことが多くなった(普段つまずかないところでつまずく)」といった、ちょっとした不具合は簡単に起こります。
 これは、機能運動性が衰えているサインです。機能運動性とは柔軟性(関節の可動域)、安定性(筋肉の強さ)、バランス(動きの協調性)の総合得点で、 カラダを動かしたいように動かせる能力です。一生動ける疲れ知らずのカラダをつくる鍵は機能運動性の向上にあると断言します。
 カラダはすぐにサボるので、普段使っていることにしか機能しなくなります。
猫背の人は前にばかり背骨を曲げているので後ろにそりにくくなります。毎日デスクワークをして、家に帰ってテレビを見て寝る生活。運動しないからではなく、同じ使い方しかしないから機能運動性がどんどん失われます。
 体力の衰えを実感するとは、機能運動性が落ちているのです。人間の機能運動性について、医学的見地から突き詰めている理論を機能運動医学 (Functional Performance Medicine) と言います。

 カラダのやわらかい人は、筋肉が伸びるように思います。しかし、筋膜や関節もよく動かなければ開脚はできるようになりません。筋肉、筋膜、関節の動きの総合点数で柔軟性は決まりますし、カラダのやわらかさは、筋肉よりも関節の動きのほうが大切です。たとえば、股関節自体が変形してしまえば、どれだけ筋肉が伸びても絶対に180度開脚はできません。
 機能運動医学から見れば、柔軟性において大事なのは、20歳前後の自分と比べて今はどうかです。昔は前屈で地面に手がついたのに、今は全然つかない人は、筋膜や関節の動きが制限されているので、ほかの部位に負担がかかっており、いつか故障を起こす可能性が高いと言えます。

(p20)

 

「疲れ知らずの動けるカラダをつくりたければ、毎日ストレッチをしても、ほとんど意味はありません。」

すっごく眠くても、毎晩寝る前に結構頑張って腰とか背中を伸ばすストレッチをしていたというのに。序章からえぇ〜という感じになりました。

ただ、体力の衰え=機能運動性の低下という話は分かりやすいと思いました。

過去に、特に何にもしていないのに腰が痛くなった、ということがありましたが、「同じ使い方しかしていないから機能運動性」が失われた結果だったのだと思えば、別に何の不思議もなかったわけです。

 

 裏を返せば、運動をしていない人ほどチャンスなのです。たとえば35歳で何も運動していない人が、週1回のランニングを欠かさずに続けるようになれば必ず心肺機能が高まって疲れにくくなりますし、足も速くなります。
 使われていなかったカラダの機能運動性が上がるため、35歳のときよりも40歳のほうが元気なカラダになっていると言えます。老化は進んでもカラダは若返らせることができます。患者さんにも必ずお伝えしていることです。

 衰え知らずのカラダづくりのために、するべきことはそれほど多くはありません。先に述べたバランスのよい食事と十分な睡眠。たばこは吸わない。お酒は飲みすぎない。ストレス過多の生活を送らない。これが基本です。
 運動はプラスアルファです。どれだけ運動しても、たばこを吸って悪い食生活を送っていれば、衰えは早いでしょう。

 効果的な運動とは、有酸素運動とストレングスコンディショニング(筋力トレーニング)です。 これはさまざまな団体が「ポジションペーパー」を出していて、議論に決着がついています。
 ポジションペーパーとは多数のエビデンスを何十、何百と見直してつくるガイドラインです。ひとつの記事や調査などとは比べ物にならない重みをもちます。
 アメリカ疾病管理予防センターでは、中程度の有酸素運動(Moderate-intensity aerobic activity:10点満点中5~6点の強度でおこなうトレーニング)を1週間に150分と、カラダのおもな部位をすべて使った週に2回以上の筋肉トレーニングを推奨しています。
 これは6つの大きなリサーチとアンケートを組み合わせて分析され、21歳から98歳までの661137人を対象に、1年間の死亡者と運動量の関係を調べた大規模な調査の結果からです。
 ガイドライン以下の運動しかしていない人でもまったく運動をしない人に比べて死亡率は20パーセント低く、ガイドラインどおりにこなした人は31パーセント、3倍の1週間に450分をこなした人はまったくしなかった人よりも39パーセントも死亡率が低くなっています。
 それ以上はあまり変わらず、ガイドラインの10倍(1日3時間半)運動しても、450分こなしたグループと結果はほぼ同じでした。 多少運動量が多いくらいでは早死にならないので、どんどん運動するべきと言えます。日々の運動がどれだけ大切かわかるリサーチです。

    ただ、これはガイドラインであって面白味がありません。わたしはできるだけいろいろなスポーツを週に150分以上楽しめばよいと思っています。
(p34)

 

有酸素運動と筋力トレーニング、やはりこの2つは欠かせないようですね。

「できるだけいろいろなスポーツを週に150分以上楽しめばよい」とあるように、気負わず、しかし軽く考えずに、継続することが大切なように思いました。

「老化は進んでもカラダは若返らせることができます。」という言葉に勇気づけられます。

 

Q.年齢、性別、体重がまったく同じとき、どのタイプにいちばん腰痛が見られるでしょうか?
①姿勢の良い人
②姿勢の悪い人

 

 正解は「どちらとも言えない」です。よく姿勢の悪い人が腰痛を起こしやすいと思われがちです。 これは間違いです。
 姿勢と痛みの関係にもいろいろなリサーチがあります。あるリサーチでは腰痛のある人とない人(計36名)の写真を、カイロプラクター、理学療法士理学療法専門医、リウマチ専門医、整形外科医ら23名が、「正常、増加、低下」の3つで姿勢(横から見た首のカーブ、腰のカーブ)を判定した結果、姿勢に対する見立てはほぼ全員が一致するものの、痛みの有無には関連がないことが明らかになりました。
 そり腰だろうが、猫背だろうが、どれだけ姿勢が良かろうが痛い人は痛い、痛くない人は痛くないのです。
 しかしここでややこしいのが、悪い姿勢だと故障しやすいのです。 猫背で座る。腰を曲げて荷物を抱える。足を組んでだらっと座る。こうした姿勢は腰、首の椎間板に負担をかけるため、故障を起こしやすい、つまり怪我のメカニズムと同じなのです。
 ですから、もし腰痛患者の姿勢が悪ければ、姿勢の改善を図ります。ただ、医者が「あなたは姿勢が悪いので、将来腰痛になります」と予言したら嘘になります。これが痛みと姿勢の関係です。
 痛みの原因は姿勢や骨の歪みではなくディスファンクション (Disfunction)、機能障害です。ではそれですべての説明がつくかと言えば、それほど甘くはありません。痛みは、年収、学歴、性別、職業、飲酒、肥満、喫煙などとの相関が、さまざまな角度から研究されています。
 とくにたばこと痛みの関係は1980年代から調査されていて、それだけで1冊に収まりきらない情報量があります。
 慢性的な痛みを首、腰に一生抱える人と喫煙率との関係は非常に高いことがわかっていて、さらに頭痛、線維筋痛症、慢性関節性リウマチといった症状とも相関関係が見られます。 今すぐ禁煙をするのに十分説得力のあるリサーチです。

 ニコチンには一時的に痛みを抑える働きがあるものの、喫煙者のほうが痛みの感じ方が強いとのデータも出ています。 血液循環が悪くなるというのも一理ありますが、脳の神経伝達物質や回路にニコチンが影響して痛みにつながるようです。
「姿勢と痛みは関係ない」のは痛みを感じるのは脳だからであり、喫煙はその痛みを感知する認識システムに問題を起こすと言われています。
 また、痛みの強さとニコチンの量、 つまり中毒性のひどい人ほど痛みは増すという研究もあります。

(p42)

 

「悪い姿勢だと故障しやすい」が、姿勢が悪いからと言って腰痛が起こるとは限らないというのが少し意外でした。だからといって、姿勢悪くしている理由もないわけですが。

「慢性的な痛みを首、腰に一生抱える人と喫煙率との関係は非常に高い」というデータが怖いです。

 

    スマホはパソコンよりも画面が小さいので1ヵ所に視線が集中し、首をサポートする後頭下筋に負荷がかかります。腕を動かすよりも、水平に上げたまま固定したほうがつらいのと同じ理屈です。 1ヵ所の小さな画面を凝視することは、目だけでなく首の筋肉にとってもたいへん疲れる行動なのです。
 仕事量 ×時間=負荷になります。仕事量(重さ)が増えても、時間が長くても負荷は大きくなります。

 姿勢の悪い座り方なども同じ理由で首の筋肉損傷につながります。激しい運動をしていなくても、日常の何気ない動作で知らないあいだにカラダを酷使しているかもしれません。機能障害は生活習慣から起こります。
 そこで機能運動性の低下をチェックする項目をつくってみました。ご自身が当てはまっていないかテストしてみてください。


機能障害の予備軍チェックリスト
□椅子から立ち上がれない
□姿勢が悪くなったと言われる
□ 疲れやすい
□ ひざ・腰などに重みを感じる
□若い人の歩くスピードについていけない
□電車に乗るとき、ホームとの空いている間隔が恐い
エスカレーターにスムーズに乗れない
□階段を上がると疲れる
□車を降りるときに足が上がりにくい
□過去1年以上運動をしていない
□電車の椅子にすぐ座りたくなる
□スタンディングデスクは疲れるから使えない
□座っているだけで腰が痛い
□ 歩くとき慎重に一歩を踏み出すようになった

□歩行中に人とぶつかったり転びやすくなった
□買い物の荷物を持って帰るのがつらくなった
□つま先立ちができない
□手を使わずに床から立てない
□靴ひもを結んだり、靴下をはくのがつらい
□片足だとズボンが履けない
□靴の片方だけが極端に減り出した
□足を組まないと座れない
□まっすぐ背中を伸ばして座れない
□ 和式トイレがつらくて使えなくなった
□ あぐらをかけない
□ 体育座りができない

※チェックが多いほど機能運動性が低下しています

(p85)

 

「疲れやすい」、「電車の椅子にすぐ座りたくなる」はものすごく当てはまります。

「激しい運動をしていなくても、日常の何気ない動作で知らないあいだにカラダを酷使しているかもしれません。機能障害は生活習慣から起こります。」

スマホをじっと見る動作だけで首に負担がかかっているのだから、特に何にも気を使わず生活していたら、知らずしらずのうちにカラダに負荷をかけていたということはたくさんありそうです。体育座りなんて大人になってから日常でほとんどしないし、和式トイレに遭遇する機会も減りました。

 

5章の、「ちょっとヘンな日本人の健康常識」という項目が、割と自分の予想と違う回答であれっと思いました。例えば、水泳と骨密度に関する問いについて。

 

Q.長年、運動をしていなかった人が骨粗しょう症の予防として始めるべき運動はどちらでしょうか?
①カラダへの負荷が軽い水泳
②重りを持った筋トレ

 

 水泳は骨密度を減らす運動!?


 毎日歩いている人と毎日寝てばかりいる人がいるとしたら、歩いている人は翌日も歩ける可能性が高く、寝ている人は寝ることにしか機能運動性を発揮していないわけですから、翌日は立てなくなる可能性が高くなります。
 もし毎日寝てばかりいる人がいれば、まずは起き上がって立っている時間を増やすことからおすすめします。赤ん坊の成長過程を見ればわかるとおり、寝るというのはいちばん低い機能運動性でできる行動です。
 もう少し健康意識が高く、週に何回かプールに通われている人もたくさんいると思います。しかし、水泳や自転車は骨にインパクトを与えないので、怪我をしにくい競技であるものの、骨密度を維持することはできないどころか減らす可能性もあります。

 骨密度はたいへん重要です。これが低くなると股関節、背骨だけではなく身体中が骨折しやすい恐ろしい状態になってしまいます。
 骨粗しょう症の人が転倒して骨折、入院すると、その寝たきり生活でさらに骨密度を減らしてしまい、骨折しやすくなってしまうのです。
 ウルフの法則 (Wolff's law) といって、骨も筋肉と同じように負荷をかけなければ強くなりません。無重力の宇宙空間で長くいると筋力が衰えて、カラダを支えられなくなるのと同じです。骨も重力を感じない運動では強くなりません。
 また、関節の老化によって起こす変形性関節症を治す手術もありますが骨粗しょう症が進むとこれも難しくなってしまいます。新しい関節のベースとなる骨自体が壊れやすくなっているからです。
 骨粗しょう症の予防にはレジスタンス(ウエイト)、重力をかけるトレーニングが絶対で、これをなくして老化の予防はできないのです。

 残念ながら骨量は30歳をピークにして減るばかりです。それまでに食生活や運動によっていかに骨密度の貯金がされているかが重要です。
 私たちが若いアスリートの診療でもっとも気をつけているのは食生活です。とくに体操選手やダンサーなどは体重を気にして食事をカットするので、骨密度を計測して将来のための食事指導をします。30歳がピークですから、それまでにいかに骨をつくって蓄えられるかに掛かっています。

 減るスピードをいかに遅らせることができるか、そのためには食事とトレーニングしかありません。
 水泳のよいことは怪我をしにくい運動だということです。 水中歩行をすると腰痛がラクになる人はいます。ただ、ずっと続けてもそれ以上は強くなりません。さっさと陸地に上がって重力に対抗できるようにならなければなりません。
 わたしもサーフィンのトレーニングがてら週に2回は水泳をトレーニングに入れています。ただ、加えてランニング、バイク、筋トレを組み合わせています。動けるようになったらどんどん負荷を上げていきます。

 日光にあたりビタミンDを合成すること、カルシウムの摂取と自分の体重を使ったトレーニングも必要です。ビタミンDは太陽の光に当たらないとつくられないので日に当たるようにしましょう。 肌を守ることも大切ですが、 日焼け止めを塗ると効果はなくなります。 肌を焼かない程度に日光に当たってください。
 足りない人はサプリメントも有効です。 冬のニューヨークは日照時間が短く、寒くて肌を露出できないので、全員にビタミンDサプリメントをおすすめしています。血中のビタミンD数値が知りたい方は病院の血液検査で簡単に調べられます。
 カルシウムと言えば牛乳を思い浮かべる方が多いと思いますが、牛乳の摂取量と骨折のリスクが関係ないことを証明するデータもあり、牛乳大国のアメリカでさえ「牛乳離れ」が進んでいます。カルシウムとビタミンDは骨の形成にたいへん重要です。カルシウムについて日本食は小魚などで摂取できますし、食事で摂りにくい場合はサプリメントも有効です。

(p195)

 

「骨量は30歳をピークにして減るばかりです。それまでに食生活や運動によっていかに骨密度の貯金がされているかが重要です。」

学生時代に特に何も運動をしてこなかった私にとって、悲報以外の何物でもない言葉ですが、でも遅きに失するからといって、何もしないでいいということにはならないし。

血中のビタミンD数値は今度測ってみたいと思います。

 

Q.病院でレントゲンを撮ってもらうと、医者から「関節が変形しているので治らない」と言われました。あきらめるしかないのでしょうか?

①YES

②NO

 

 そろそろ画像診断神話から抜け出しましょう


 レントゲン・MRIなどの画像診断が症状と関係しないことや、薬や注射で腰痛が治らないことは最近では浸透してきました。
 わたしも毎週何度も画像診断をおこなっています。 症状によって画像診断は筋肉骨格系の診療になくてはならないものです。
 しかし、レントゲンやMRIの結果が痛みに結びつかないことが多くあります。また基本的に慢性痛の画像診断の"見た目”は今後よくなることはありません。
 これが病院で言われる「治らない」 のほんとうの意味です。 医者も「症状が治らない」とは言っていないのです。
 画像の見た目が症状と一致するとは限りません。治らないと医者に言われても落ち込まずに、"画像の見た目"が治らないのか”症状”が治らないのかをはっきりさせましょう。

 まったく症状の出ていない男性50人、女性48人の腰椎をMRIで調べた結果、すべての腰椎椎間板で正常な状態だと診断されたのは、たったの36パーセントでした。52パーセントの人には最低でも1つの椎間板に問題があり、27パーセントの人には椎間板の突出がありました。この傾向は年齢とともに増加します。
 日本でも似たような研究が2009年に35歳から50歳の200人を対象におこなわれました。半分の人の腰椎椎間板に損傷があり、25パーセントの人に椎間板ヘルニアがありました。
 この人たちがある日腰痛を訴えて病院に駆け込めば、腰椎椎間板ヘルニアという手術の対象になる診断が下ります。画像診断がいかに間違えた結果を招くかがわかっていただけると思います。
 これらはもうかれこれ20年以上も前から常識的に知られている話です。股関節の関節唇損傷、ひざ関節の半月板損傷、頚椎の椎間板、肩関節のローテーターカフの損傷……。あらゆる部位ですべて同じようなリサーチがおこなわれて、似たような結果が出ています。
 では、どうやって検査をすればいいのでしょうか?
 わたしは初回診療の場合は少なくとも20分は問診をおこない、さまざまな情報を収集します。たとえば腰痛を訴える患者さんが、最近急に体重が減った、夜中に痛くて目が覚める、尿の出が悪いなどの症状がある場合は、内臓疾患が痛みの原因の可能性があります。
 また、生活習慣、既往歴、運動歴などに原因が隠れていることもあるので質問します。問診はそれだけで8割近くの問題が見つかる非常に有効な検査です。
 ゴルフやウォーキング、テニスをしていて腰を傷めたという人は、スポーツが原因というよりは、体幹(胴体)が弱くてカラダの安定感がない、背骨の関節がうまく動いていない、筋肉が損傷しているなど、カラダの状態に問題のあることが多く見受けらます。

(p221)

 

「ゴルフやウォーキング、テニスをしていて腰を傷めたという人は、スポーツが原因というよりは、体幹(胴体)が弱くてカラダの安定感がない、背骨の関節がうまく動いていない、筋肉が損傷しているなど、カラダの状態に問題のあることが多く見受けらます。」

30歳を過ぎてテニスを始めたばかりの頃、しょっちゅう腰を痛めていましたが、私は「体幹(胴体)が弱くてカラダの安定感がない」ことが原因だったのかなと思います。

 

本書では、機能運動性を高めるエクササイズの他に、デスクワークの時の姿勢や、正しい寝る姿勢についても解説されています。

「テニスや野球はたしかに回旋動作が入ります。だから禁止したほうがいいのではなく、テニスを楽しみたいときのために、普段から正しい腰の使い方で負担をかけないようにしておくのです。(p105)」

何度もぎっくり腰を経験している身としては、これはしっかり肝に銘じたいと思います。

 

Q.症状とうまく付き合っていくしかないと診断されたときに取るべき選択肢は
どちらでしょうか?
①医者の言うとおり、ほかの腰痛患者と同様に何年も病院通いを続ける
②自分なりに症状を調べて医者に質問しながら来院目的を明確にする

 

 自分の症状を自分でよくできないなんてナンセンス

 

 アメリカには風邪を引いた患者さんが病院へ行けずに亡くなってしまうような最悪の医療も、ドバイから大金持ちがプライベートジェット機を飛ばして手術を受けに来るような最先端の医療も存在します。
 医療も実力主義自由診療で医者が治療費を決めるので医者、病院によって治療費には差があります。日本のように医療が安い値段で受けられて当然との認識はまったくなく、カラダの不調は自己責任であり医療費は高いものと認識されています。病気になって入院し、医療費が払えずに自己破産せざるを得ない人がいるほどです。
 カラダの不調は自己責任だという意識は極めて高く、保険でカバーされない領域におよべば治療費も高額であることを認識されています。

 ですから、症状についてもよく学んで来られますし、医者や医療を自分で選んで来ます。こちらの説明も納得するまで聞いてきます。「大丈夫でしょう」という表現で帰ってくれる人はなかなかいません。
 たとえば腰痛で来られた方には「デスクワークが続き股関節の動きが低下したことで股関節の動きが制限され、伸展機能が落ちているために骨盤の前傾が慢性的にある。結果として腰を支える脊柱起立筋群が日常生活で必要以上に働かされることになり、筋肉が疲労して腰痛につながったため、股関節からの機能運動性を治療して、生活を変えつつ体幹のトレーニングをおこなう必要があります。筋肉の症状なのでレントゲンの必要はありません。 数回の治療で改善しない場合は関節の変性などを調べるためにレントゲンを撮りましょう」とかなり詳しい説明を求められます。
 一般的に日本人は「腰の筋肉が張っているので腰痛です」で納得してしまう傾向があります。「首の痛み」も「デスクワークが長いので」「寝違い」で、日本人は納得してくれますが、アメリカ人は「デスクワークで胸椎が後弯、頭が前に突出する姿勢を長く続けることによって、頚椎の深屈筋群が働かなくなり、斜角筋、胸鎖乳突筋、上部僧帽筋が過度に緊張する『アッパークロスシンドローム(Upper cross syndromes)』 を起こしています。これらの機能運動性を元に戻す使い方、治療、トレーニングが必要です」と具体的に説明してはじめて納得して治療を受ける姿勢をもってくれます。
 診断名がはっきりと伝えられることも絶対に必要です。 ひざの痛みではなく「半月板損傷」ですし、筋肉の怪我ではなく「ハムストリングスのグレード2損傷」と言った具合です。曖昧な表現は通用しません。
 これはわたしの専門分野に限らず医療機関に共通で、日本に滞在するアメリカ人はできるだけ本国に帰国して病院に行くのは有名な話です。 アメリカの医療費はおそらく世界一高額で日本の倍どころの金額ではありませんが、医療にはっきりとした結論を求めるアメリカ人の気質を表しています。

(p231)

 

「カラダの不調は自己責任であり医療費は高いものと認識されています。」

安い値段で医療が受けられて幸せと思っていましたが、不調は自己責任という意識は確かに低かったかもしれません。

健康への投資は本当に大切、という感覚が日本人には欠落している、という著者の言葉にしゅんとなってしまいました。

 

 私たちがアメリカでおこなう診療は、医学的な診断に基づく副作用の少ない治療法です。現代のリサーチ、EBM(科学的根拠に基づく治療)を追求しているため、医師、理学療法などの分野を問わず治療法が似たものになってきます。
 対して日本では診断、画像診断が病院でしかできません。しかしながら整形外科などで効果の高い徒手療法、最新の機能運動性トレーニングなどをおこなう機関をわたしはまだ知りません。
 また日本の保険診療をおこなう医療機関では治療内容が保険点数によって決まっているのでどの医療機関で治療を受けても、ベテラン医師が時間をかけて診療しても、そうでない医師が短時間で診療しても同じ治療費しか請求できません。これは新しくよい医療を取り込む際に、非常に大きな足枷となってしまいます。

(p268)

 

「ベテラン医師が時間をかけて診療しても、そうでない医師が短時間で診療しても同じ治療費しか請求できません。これは新しくよい医療を取り込む際に、非常に大きな足枷となってしまいます。」

日本で受けられる医療しか知らなければ疑問に感じることもないのかもしれませんが、このような弊害もあるのかと思いました。

 

ぶっちゃけ「運動前のストレッチはパフォーマンスを下げる」とか、良かれと思っていたことがそうではなかった、ということが判明してちょっと混乱しました。

ただ、疲れにくいカラダには機能運動性の向上が必須であること。これが分かっただけでも良かったかなと思います。

片足立ち筋肉リリースとかは難しくないので、続けてみたいと思います。

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。

 

データで克服する財政難。『マネー・ボール』を読んで

こんばんは、ゆまコロです。

毎日寒いですね。

WBCが楽しみなので、なにかテンションを上げる野球の本が読みたいと思い、マイケル・ルイスさん、中山宥さん(訳)『マネー・ボール(完全版)』を読みました。

 

以前映画を観たことがあり、かなり好きな話なのですが、映画とは全然違っていてちょっと意外でした。

映画では主人公のビリーのGMとしての仕事や私生活を中心に物語が進んでいきますが、原作ではそれ以外の登場人物がしっかり掘り下げられていて、とても良いです。

 

 ロン・ワシントン(通称ワッシュ)は、アスレチックスの内野守備コーチを務めている。現役時代ミネソタ・ツインズにいて、ビリー・ビーンといっしょにプレーしたことがある。ただ、そのよしみでコーチに就任したわけではなかった。選手の向上心をかきたてるのが天才的にうまく、かといって、うぬぼれたりしない。そこを買われたのだった。ワッシュの仕事は、ビリー・ビーンが春季キャンプに送り込んでくるとんでもない集団を指導し、開幕日までにひととおりの基礎訓練を終えることだ。ビリーが送り込んでくるとんでもない集団とは―――少し説明が必要だろう。この球団のゼネラルマネジャーは守備能力にあまり金を使うつもりがない。だから、選手は誰もかれも、出塁率が高いけれど守備はさっぱりだめ、という連中なのだ。グローブをつけてもつけなくても同じではないか、とワッシュが首をひねることも多いらしい。いっそ、バットを持って守備について、打球を打ち返すほうがましかもしれない。

 スコット・ハッテバーグを先発一塁手に仕立て上げるまで、ワッシュに与えられた時間は約六週間だった。アリゾナ州の練習場で、ゴロを捕る訓練を繰り返し、フットワークを教えようとした。当時の忌まわしい記憶をたどって、のちにワッシュはこう語る。
「彼が一塁に向かないことはすぐわかった。かかとをべったり地面につけて立っていた。どう動いて、なにをどうすればいいのか、まったくわかっていなかった。『おれの守備範囲内にボールが来ないでくれ』と思っているのがみえみえだった。観客席のファンに『ぶざまな奴!』となじられるようなことばかりする。だけどしかたないだろう?一塁の守備についてまるっきり知らなかったんだし。それにまあ、ファンになじられて当然だ。ほんとに、ぶざまだったんだから」
 しかしハッテバーグの面前では、そんな思いはおくびにも出さなかった。まず、ハッテバーグに自信を持たせなければいけなかった。自信を持てるほどの守備ではないにしても……。
(中略)
 最初、ハッテバーグの守備はぎこちなかった。ベースに着いて一塁送球をキャッチするという、いちばん基本的な動作にさえ苦労しているようすだった。「はたから見ると簡単そうかもしれないが、実際はなかなか難しい。ほんとだよ」と彼は言う。捕手だったときにくらべて、時間が早回しになっているように感じた。鋭い打球をショートやサードがつかんで、一塁へ送る。しかし、ハッテバーグはベースに着くのが間に合わない。うしろの足はどこだ?ちゃんとベースを踏んでいるか?観客に笑われていないか?簡単なポップフライを見失って、本拠地の広いファウルゾーンをうろつくうち、一〇メートル遠くに球が落下する。「フライをたくさん落したけど、エラーに見えなかったかもしれない。あんまり遠くに落ちたから」

 だが、やがて変化が表れた。何度も守っているうちに、だんだん慣れてきたのだ。六月が終わるころには、笑顔でこう言えるまでになった。「春季キャンプのときといまとじゃぜんぜん違う。ゴロがころがってきても、血圧がはね上がらなくなったんだ」

 なによりワッシュのおかげだった。ワッシュがいわば頭のなかに住みついた。ハッテバーグ自身がそれを望んだといっていい。どんな当たり前のプレーだろうと、プレーをひとつするたびに、ベンチへ戻ったあとワッシュに感想をたずねた。ワッシュに評価してもらうと、なにやら自信がわいてくる。いまのプレーは落第レベルだなとがっかりしていても、ワッシュの言葉を聞くうちに、ぎりぎり合格点だったような気がしてくる。そのうえ、回を重ねるごとによくなっていくように思える。「しごく当然のプレーでも、おれにとっては当然じゃない。ワッシュはそうわかってくれていた」

 おだてられて、実際以上にいいプレーをしたような錯覚に陥っているうちに、やがて本当に、以前よりいいプレーができるようになった。本拠地<ネットワークアソシエイツ・コロシアム>は、一塁とダグアウトがかなり離れている。にもかかわらず、ハッテバーグがゴロを拾い上げるたびに――普通の一塁手なら目をつぶってもできるプレーなのに――ワッシュの大声がハッテバーグの耳まで届く。

「いいぞ、ゴロさばき機械(マシン)!」

 ハッテバーグが、ダグアウトのワッシュを見やる。その意気揚々たる顔に、こう書いてある。

《おれは、ゴロさばき機械(マシン)!》

 並たいていの一塁手より運動神経がすぐれているんじゃないのか、とハッテバーグは思い始める。実際、そうなのだ。妙な気負いが消えて、打球よ飛んでこいという意欲が出てくる。リラックスしてくる。自信がみなぎってくる。

 

 捕手だったころは、相手チームの打者に話しかけるのが楽しみだった。一塁手も、ほかの野手より会話の機会に恵まれている。いや、その点では、キャッチャーよりもっと都合がいい。キャッチャーだと、主審がすぐそばにいるし、ファンやカメラの注目を浴びている。一塁なら、いくらでもしゃべれる。

(P256)

 

長年キャッチャーを務めてきた選手が一塁につくということが、どのくらい困難なことなのか、野球をしたことのないゆまコロには分からなくて申し訳ないのですが、それでもこのワッシュとハッテバーグの練習の様子は好きです。

一球団から古絨毯のように買いたたかれ、二八球団から完全に無視されていたのに、なぜか一球団だけ、熱烈に欲しがってくれた。不幸から幸福へ、そしてまた苦難に陥り、そこから抜け出していく。いいですねぇ。でも、ハッテバーグのメジャー初日はもっと印象深いお話になります。

 

 どんな打者にも弱点がある。メジャーでたびたび打席に入れば、研究されて、そのうち弱点がばれてしまう。「ばれたら最後、修正するか引退するしかない。打者の弱みを見抜けないピッチャーなんて、メジャーにはいないんだから」適応できなければ、淘汰される。もしボール球に手を出す癖がある場合、それを埋め合わせるよほどの取り柄がないかぎり生き残れない。ハッテバーグはさらに一歩突っ込んで考え、「たとえストライクだろうと、自分が不得意な球に手を出す打者は生き残れない」と肝に銘じている。「もしおれがバットをただ振り回すだけの選手だったら、メジャーに入るはるか前に淘汰されてしまったと思う」それぞれの投手について、自分はどの球が打てるかを調べ、その球が来るのを待つ訓練をした。自分は何ができるかだけでなく、何ができないかを頭に入れた。打てない球はどれなのか。

 

 ビリー・ビーンは、自分がメジャーリーグに向いていないことを悟った。スコット・ハッテバーグは、自分がメジャーリーグに向いていることを実感した。一九九五年のシーズン終了が押しせまったころ、ハッテバーグは初めてメジャーに昇格できた。すでに地区優勝チームが決まっており、レッドソックスは敵地ヤンキースタジアムで消化試合をすることになっていた。レッドソックスヤンキースとなると、べつに消化試合ではなくても結果は目に見えている。ハッテバーグは、ブルペンで控えピッチャー相手にマスクをかぶる予定だった。試合に出場するはずではなかった。しかし、とりあえず早めに球場に着いた。ヤンキース一塁手ドン・マッティングリーの打撃練習を見逃したくなかったからだ。試合そのものはひどかった。レッドソックスはたちまちリードを許した。ヤンキースのデイビッド・コーン投手が八回表まで二安打ピッチングで、スコアは〇-九。ここでレッドソックスの監督がブルペンを呼んで、ハッテバーグを代打に出すと告げた。ハッテバーグは急いでバットを引っさげ、打席に入って一塁方向を見た。ドン・マッティングリーと視線が合った。

 

 ハッテバーグは、もちろん初球を見送った。ボールワン。二球め、ボールツー。きょう、マウンド上のコーン投手は絶好調だ。三球めはストライクゾーンへ投げてくるにちがいない。予想どおりストライクが来た。「思わず力んだ」結果はファウル。四球めはきわどく外れて、ワンストライク・スリーボール。打者有利のカウントだ。ここでヒットを打てばボールをもらえるな、とハッテバーグは思った。メジャー初安打の記念ボール。しかし一方で、こうも考えた。あと一球ボールだったら、マッティングリーのところに行ける!メジャーデビューの打席だというのに、ハッテバーグは四球を選ぶことを意識したわけだ。

 

 が、四球を許すまじと、コーン投手はストライクゾーンに投げ込んできた。カウント稼ぎの甘い内角直球。ハッテバーグが“ハッピー・ゾーン”と呼ぶ、得意のコースだった。快音を残して、ボールはライトフェンスの上から10センチに当たり、外野を転々とした。ヤンキースポール・オニール右翼手二塁打だと覚悟した。ハッテバーグは無我夢中で一塁ベースを蹴り、オニールがゆっくりと球に追いつくのを確認しながら……ドン・マッティングリーに気づいた。視界の真っ正面にマッティングリーがいた。二五歳のメジャーデビューだから「初安打だ!やった!」という思いで頭がいっぱいになっていてもおかしくない。しかしハッテバーグの脳裏には別の声が響いていた。「おい、どこへ行くんだ?」一塁を回ったところで急停止して、子供時代のヒーローのそばへ戻った。「どうも、こんにちは」とハッテバーグは言った。

 

 その瞬間、実況を担当していたボブ・コスタスとボブ・ユッカーは、何が起こったのか理解に苦しんだ。このルーキー、二塁打をシングルヒットにしちゃいましたねえ。まあ、新人にミスはつきものですが……。「おい、おまえ、二塁ベースの場所を教わらなかったのか?」とマッティングリーが不思議そうな顔できいた。ハッテバーグは、続く数分間――ダイヤモンドを一周してレッドソックス唯一の得点を上げるまでのあいだ――を、ファン・アイクの絵画なみに細かく記憶している。マッティングリーがハッテバーグの背後に近寄り、盗塁を警戒するふりをしてからかった。おいルーキー、おれと同じぐらい足が速いんだろ?おいルーキー、ブレーキを点検したほうがよくないか?

 

 数週間後、マッティングリーは引退した。二人が顔を合わせる機会はそのあと二度となかった。

 緊張するはずのメジャー初日でさえ、ハッテバーグは長所をいかんなく発揮したことになる。リラックスして、試合のペースをゆるめ、自分のほうに引き寄せる。性格とプレーがじつに一体化している。いや、彼の場合、性格を生かすことが必要なのだろう。プロなのだからお気楽な態度をあらためるべきだ、と非難するのはおかしい。 

(p268)

 

「それぞれの投手について、自分はどの球が打てるかを調べ、その球が来るのを待つ訓練をした。自分は何ができるかだけでなく、何ができないかを頭に入れた。打てない球はどれなのか。」プロとしての尋常でない努力が伝わってきます。

ハッテバーグが子供時代の頃のヒーローと言葉を交わせたのは、これが最初で最後だったなんて。同じ舞台に立つことができても、接点があるとは限らないんですね。

 

試合中ずっと椅子に腰かけて、コーヒーをがぶ飲みし、初めて会った男と雑談していた。男は、バット製造会社のセールスマンだった。ハッテバーグは、見せられたバットを一本、手に取った。楓(かえで)でできた艶やかな黒いバットで、細い部分に白い線が一本入っていた。感触が気に入った。

 大半の選手と同様、ハッテバーグはマイナー時代に、有名なバット製造会社〈ルーイビル・スラッガー〉と契約した。公式試合では同社製以外のバットは使わない約束だった。しかし今夜はどうせ打席に立たないはずだから、どうでもよかった。スコアが11-0になった時点で、きょうの出番はぜったいないと信じ込み、見本にもらった黒いバットを両膝ではさんで、コーヒーを四杯、胃袋に流し込んだ。
 九回裏、スコアは11-11のままだった。 マウンドにはロイヤルズのクローザー、ジェイソン・グリムズリーが現われて、お得意の高速シンカーを連投した。ジャーメイン・ダイが右翼にフライを打ち上げて、まずワンアウト。テレビカメラがアスレチックスのダグアウトをなめる。選手たちは、すでに負けたかのように悄然(しょうぜん)としている。この先もういいことは起こらないと思い込んでいるふうだ。
 そのときハウ監督が、スコット・ハッテバーグにバットを持てと命じた。 代打起用。ハッテバーグはあわてて、誰だかよく知らない男にもらったバットを握りしめた。バット会社との契約に違反することになるが、しかたない。

 グリムズリーとはつい二日前にも、やはり同点の九回裏に対戦している。そのときは塁に走者がいたことだけが違う。今夜、ハッテバーグはビデオを見る必要がなかった。グリムズリーの決め球はわかっている。一五五キロの速球だ。二日前のグリムズリーは、六球連続で外角低めに高速シンカーを投げてきた。ツーストライクを取られたあと狙い打ちしたものの、弱いセカンドゴロに終わってしまった(続く打者ミゲル・テハダがセンターへサヨナラ安打を放った)。きょうは借りを返す番だ。前回、六球見た。球筋はつかめている。遅めのシンカーにはできるだけ手を出さないほうがいいこともわかっている。
 ツーストライクを取られるまで、ゾーンから外れた低めの球はぜったい振らないぞ、とハッテバーグは心に誓った。ぎりぎりまで狙い球を待とう。高めがいい。高めを二塁打できれば、スコアリングポジションに行ける。
 ハッテバーグは、いつもどおりオープンスタンスで構え、契約違反の黒いバットを何度かストライクゾーンで往復させた。 ティーショットを打つ前のゴルファーのように……。
 グリムズリーが捕手のサインを見る。ふてぶてしい表情。投球動作に入ったとき、その顔に不敵な笑みがよぎった。蠅の羽根をむしって楽しむ少年のような笑みだった。テレビの視聴者はぎくりとしただろう。だが、ハッテバーグはグリムズリーの顔など見ていない。手からボールが離れるであろう場所を凝視していた。タイミングを取るため、一球だけ見送るつもりだった。一球見送れば、その次あたり、高めのストライクゾーンに来るかもしれない。初球は見送れ、と何度も自分に言い聞かせた。この年"初球を振らない率"リーグナンバーワンになる男が、いつになく自分に言い聞かせなければいけなかった。コーヒーを飲みすぎたせいかもしれない。
 見送った初球は、わずかに低くボール。グリムズリーがまた、ふてぶてしい顔で投球モーションに入る。二球め。また速球だが、高めのストライクゾーン。ハッテバーグは鋭く振り抜いた。球がバットの芯と出合い、はるか右中間へ一直線に飛んで行く。
 ハッテバーグは前傾姿勢で地面を蹴った。まるで緩いサードゴロを打ったときのように、全速力で一塁をめざす。グリムズリーが地団駄ふむ姿は、目に入らなかった。五万五〇〇〇人の歓声が爆発したのも聞こえなかった。一塁手が早くもベンチに向かって歩きだしたことも、野球殿堂の担当者が飛び出してきてバットを拾おうとしていることも気づかなかった。スコット・ハッテバーグはただ、漆黒の夜空高く舞い上がった球を見つめながら走った。
 球はフェンスを越え、スタンドの上段に突き刺さった。右中間深くにある110メートルの標示より、さらに一五メートルほど奥だった。球がもうグラウンドに戻ってこないとようやくわかったとき、スコット・ハッテバーグは両手で万歳をした。うれしいというより、信じられなかった。 一塁を回り、自軍のベンチを見やった。そこには誰もいなかった。選手全員がグラウンドへなだれ込んでいた。胸の奥から幸福が突き上げてきて、ハッテバーグはチームメイトに大声で叫んだ。「おれはやったぞ!」ではない。「おれたち、やったぞ! 勝ったぞ!」そう叫びながら、五メートル走るごとに一歳若返り、本塁へ戻ってきたときには少年になっていた。


 ものの数分後。監督室にふたたび現われたビリー・ビーンは、早くも平静に戻って、わたしに目でこう語りかけた。しょせん、ただの一勝さ。
(p390)

 

「きょうは借りを返す番だ」と言って、本当にその通りに返しちゃうのがすごい。こういう起用の時、舞い上がっちゃわないのが、練習の賜物ということなのでしょう。地味なことをひたすらやり抜く力の大切さが分かります。

 

ジョン・ヘイリーからの仕事のオファーを引き受けてまる二日後、ビリーはどうしようもなく苛立ち、眠れなくなった。五月にアスレチックスがブルージェイズに三タテを食らったときのように……。ビリーはたいがいのことについて素晴らしい決断力を発揮するが、自分自身のことになると、急に身がすくんでしまう。ジョン・ヘンリーのもとで働くのは楽しそうに思えた。ジョン・ヘンリーはビリーの価値を認めている。ただ、はるか彼方の街に腰を据えて、新しいオーナーに仕えるというのは、簡単な話ではない。五日前、こんどの移籍は金ほしさのためではない、とビリーは自分を納得させていた。が、もちろん、レッドソックスが大好きだからでもない。ではいったい何が理由なのだろうか? そうだ、自分の実力を世に示したいのだ。独自の才能を、誰かに具体的な物差しで示してもらい、裏付けしてもらいたいのだ。その物差しとは?――やっぱり、金ではないか。
 ビリーは壁にぶつかった。マスコミその他はいっせいに、ビリーがもうすぐメジャー最高額のゼネラルマネジャーになるだろうと報じている。もうそれだけで、ビリーの真価は世の中に知れわたった。改めて証明する必要がなくなってしまった。ということは、仕事を引き受ける理由は、金だけということになる。
 翌朝、ビリーはジョン・ヘンリーに電話して、ゼネラルマネジャーの職を辞退した。さらに数時間後、報道陣を前に、本当は明かしたくなかった真実をぶちまけた。「わたしは、金のためだけに決断を下したことが一度だけある。スタンフォード進学をやめて、メッツと契約したときだ。 そしてわたしは、二度と金によって人生を左右されまいと心に決めたんだ」
 ビリーはそのあとも理由をいろいろ並べたが、どれひとつとして論理的でもなければ“客観的”でもなかった。しかしつまるところ、それがビリーなのだった(その後、レッドソックスゼネラルマネジャーにはセオ・エプスタインが就任することになった。二八歳のエール大学卒業生。 野球経験はない)。


 五日ほど経って、ビリーはまたアスレチックスのオフィスに腰を落ち着け、どうやったら次もまたプレーオフに進出できるか模索し始めた。かたわらには、もとどおりポール・デポデスタがいた。
ただ、ビリーの心に、ひとつだけ大きな不安が残った―――本当には誰にも理解してもらえないのではないか? いつの日か、ポールとふたりでさらに効果的な方法を見つけて、少ない資金で輝かしい球団を生み出すかもしれない。が、ワールドシリーズの優勝記念指輪をひとつかふたつ持ち帰らないかぎり、誰も気にかけてくれないだろう。そしてもし優勝できたとしても――自分には何が残るのだろうか? ゼネラルマネジャーのひとりとして一時もてはやされ、やがて忘れられる。たとえほんの一瞬でも、自分が正しくて世界が間違っていたのだということは、誰にもわかってもらえない……。
(p417)

 

お金に人生を左右されたくないけど、自分の実力を世に示したい。実力を認められているから、多額のお金でレッドソックスへ移籍することになったのならば、それはそれでいいではないかと思ってしまいますが、ビリーの中ではそうではない、というのがいいですね。

選手として打席に立った時は、感情を爆発させていたビリーなのに、選手を探す時は努めて冷静で、自分とまったく異なるタイプの選手を評価している姿が素敵です。

 

ところでビリーを補佐したポールは、どうして映画のときと名前が異なっているんだろうと思っていましたが、その理由が「映画化にあたり、あまりに自分とは異なる外見の俳優がキャスティングされたこと、データおたくのようなキャラの描かれ方に納得できず、実名の使用を拒否している。」とウィキペディアにありました。

 

他人は変えられないけど、適材適所に配置すれば能力を発揮することが出来る。目標のために数値化する方針は、一般企業でも学ぶものがあるように思いました。

 

早く季節が巡って、野球のシーズンが来るのを楽しみにしています。

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。

自らを癒す力と、他者を許す心。『アウシュヴィッツでおきたこと』を読んで

こんばんは、ゆまコロです。

マックス・マンハイマーさん、大友 展也さん(訳) の『アウシュヴィッツでおきたこと』を読みました。

 

「ぼくなんか、毎日、五回もぶたれるんだよ。兄さんも今にきっとぶたれることになるよ」
 私に与えられた仕事は、革靴に釘を打ったり、革を切ったりすることです。いつも身をかがめてしなければならない作業なので、体のあちこちが痛くなりました。また、最初はなかなかうまくできません。夕方、仕事が終わる頃になると、親方は怒って、
「大きさがぜんぜん違うじゃないか! 数だって足りないぞ!」
 といって、堅い靴型で私をぶちました。弟のいったとおりになりました。
     でも、その怒り方にもどこか愛情のようなものを感じます。親方は本当に怒ってぶつわけではないのです。
    数日もすると、ようやくコツが分かり、なんとかできるようになりました。
    仕事に慣れてきてホッとしたのも束の間。私は、右胸のあたりに赤茶色のとても大きな腫れ物があるのに気がつきました。 ジグジグして膿が出てとても痛く、がまんできません。丹毒のようです。

    この日の晩、
「99728番! 病棟へいかせてください!お願いします!」
     と私は自分で病棟へいくと申し出ました。


    また手術!

 

    私は、またもや手術されることとなりました。
    病棟へいく途中に女性実験棟があります。 中で何が行われているのか見ることはできませんが、見るからにぞっとする建物です。そこでは、クラウベルクという教授が毎週やってきて子供を産めなくするような人体実験をしているそうです。

    実験棟のそばを通ると、ちょうど女性たちが散歩から戻ってきたところでした。清潔そうな収容服に身を包んで、そよ風のように歩く可愛らしい女の子たち。彼女たちには散歩も許されているのです。
    でも、食べられる前に太らされた子羊たちが自分から肉屋に入っていくようで、私は、怖くて怖くて、足早にここを通り過ぎました。
     体中の骨を震わせる冷水シャワー。胸に書かれた収容者番号。前とまったく同じ手順です。
《今度こそ、生きて戻れないかもしれない》

    私はいよいよ選別されるかもしれない、と絶望的な気分になりましたが、努めて考えないようにしました。
《エディ、これでいよいよ最後かな。もう会えないかもしれない。さようなら!》
    今度は麻酔を打たれても、数を数えるのをやめました。
    でも、しばらくすると麻酔から目が覚めました。
    目玉を左右にギョロリと動かしてみます。
《あれ、生きている》
     なんとか今回の手術も切り抜けることができたようです。それから、病室のベッドに横になったまま数日が過ぎました。
    骨と皮だけの男が、一歩、また一歩と本物のガイコツに近づいていきます。ガイコツをすっぽりと薄い皮がおおっているみたいです。もともとガイコツだから何も食べ物をやらなくてもいいと思ったのでしょうか? 配給食はいつもほんの一握りしかくれません。
    腹をすかせてベッドに横たわっていると、あるとき、朝の点呼が始まる前、病室の窓からヒュッと口笛の鳴るのが聞こえました。
    私は、ふらつきながら窓辺へ歩いていきました。
《エディがきてくれたんだ!》
    口笛をヒュッと鳴らすのは、私たち兄弟の子供の頃からの合図なんです。
    でも、私のいる二階の大病室の窓からはエトガルの姿は見えません。もちろんエトガルにも私の姿は見えません。
    エトガルは、頭を上に向けていいました。
「具合はどうだい?」
「まあ、なんとか生きているよ」
エトガルは「さぁ、受け取って!」といって、パンを窓の中へ投げ入れました。自分が食べる分のパンを私のためにくれたのです。これでエトガルは今日一日何も食べる物がありません。
「もらってもいいの?」
    するとエトガルはいいました。
「マックス、早く元気になって! 明日またくるね!」
    エトガルはくるたびにパンを投げ入れてくれました。そのおかげで私は生きていられたのです。
    二週間ぐらいたったでしょうか。「99728番。もとのバラックへもどれ!」
     と医者はいいました。
    階段を下りて病棟の入り口を出ると、エトガルが私を待っていました。弟は無言で、やせ細った私の体をそっと抱きしめました。
    骨が軋む音をたててこすれ、目から大粒の涙があふれ出そうです。もし涙が出ていたら、きっと目玉も涙と一緒に流れ落ちてしまったことでしょう。
    でも、恥ずかしいから、エトガルも私も、涙を見せないようにしました。
     ふたつのガイコツが抱き合った姿は、骨と骨がひとつに重なり合って一体のガイコツのように見えたことでしょう。
    私は、このとき私を支えてくれる力が存在しているから生き延びたいと思いました。その力は弟がいてくれることなんです。 でも、ほかの収容者たちを支えてくれるものとは一体なんでしょうか? 《神様?》神様はもうとっくに消えてしまいました。もし神様がいるなら、こんなことは起きないはずですから。
《もしこれが試練というなら、なんのための試練なの? どうしてこんなに死人が必要なの? なぜ?》


    魔法のトランク


    退院すると、さっそくルーディが私に声をかけてくれました。
「やあ、マックス、元気になったかい?」
    プラハ出身のルーディ・ミュラーとは大の仲良しです。以前同じバラックで寝起きし、同じ班に属していました。
    ルーディは、その頃、空のトランクを選り分ける作業に従事していました。積まれたトランクの山からまだ使える物を選び出す作業です。
    毎日、大勢のユダヤ人が移送されてきたので、彼の目の前にはいつもトランクの山ができます。ルーディは、くる日もくる日もその前に座って、何も入っていないトランクを手に取っては、人に話すようにトランクに語りかけていました。
「ねぇ、赤いトランク君。君はどこからきたの?」
「ぼくはプラハからきたんだよ」
    何も入っていなくても、思い出がたくさん詰まったトランクたちです。 トランクを開けると、たくさんの思い出が小鳥のように空へ飛んでいきました。 でも、思い出の小鳥たちは永遠に戻ってこないでしょう。

    そんなあるとき、ルーディは、トランクの中にある物を見つけました。そして、それをずっと大切に持っていました。
「マックス。実は君にプレゼントがあるんだ。君に会ったら渡そうと思ってね」
    そのとき、カポが私たちが話しているのに気がつき、ルーディを同じ作業班に入れてくれました。
    夜になってから私はバラックの中で、「何を持っているの?」とルーディに聞きました。
    ルーディは私に一枚の写真を手渡しました。
私はその写真を見て、驚いて声を出すことすらできません。なんとその写真は、私たちの家族写真だったのです!
「マックス。空のトランクの中に君たちの写真があったんだよ」
たまたまルーディが手に取ったトランクが私たちのトランクだったなんて、本当に奇跡のようです。
 思い出の小鳥は飛んでいってしまう前に、私とエトガルのために一枚の写真を残しておいてくれたのです。本当に魔法のランプのようです。いや、魔法のトランクかな?
 私たちは、みんな失いました。故郷も帰る家もありません。父も母もいません。私たちのトランクの中にあった物も、みんな抜き取られてしまいました。 でも、たった一枚、写真が残っていました。他人には価値がない物だから取られなかったのでしょう。でも、私たちにはとても大切な宝物です。 たった一枚の写真でも!
 私は写真をふたつに折って、ベルトの間へ差し込みました。
《ぼくたち家族は、いつも一緒だよ》

(p114)

 

著者のマックス・マンハイマーさんはチェコスロヴァキア生まれのユダヤ人で、1943年、23歳の時にアウシュヴィッツ強制収容所に移送されています。

アウシュヴィッツで2度手術を受けて無事だったこともすごいですが、同年に労働用ユダヤ人としてワルシャワに移送され、翌年はダッハウ強制収容所に移送されているので、3度も囚人番号を付けられていることに驚きました。

 

弟のエトガルさん以外の家族は全員が収容所で亡くなっていますが、お互いの存在が生き延びるための原動力として強く作用したことは随処でうかがえます。

前述の記載にあるように、慣れない仕事のコツを教えてもらったり、食べ物を融通し合ったり、また違う収容所へ送られる際も、兄弟が離れ離れにならないよう根回ししたりしています。

 

そして何気なく載っているような表紙の家族写真が、こんなに大きな意味を持つものだったとは。

 

 自由へ通じる扉

 

 その後も移送は続きました。
 そして、一九四五年四月三〇日のことです。
 突然列車は駅でもないところに停車しました。貨車の板の隙間から外をのぞいてみると、遠くに機械化部隊の長い車列が見えました。
 護送兵はいつの間にかひとりも残らず消えています。私たちは貨車の扉を恐る恐る自分たちの手で開けてみました。
 ガラガラッ、ガラッと扉の開く音とともに明るい外の景色がとび込んできました。
《あっ、あれはアメリカ軍だ!》
 なんと、二、三〇〇メートル先にアメリカ軍が駐留しているではないですか!
 このとき、私たちの【自由を遮断していた扉】が【自由へ通ずる扉】となったのです。
《ぼくたちは今度こそ、本当に自由だ!》
 私たちは、最初、この本物の現実をなかなか理解できませんでした。
《本当なの? 夢?》
 私は衰弱しきっていましたので、ひとりで貨車を降りることができません。

 エトガルの肩をかりて自由への第一歩を踏み出しました。
 列車の脇には、臨時の野外診療所が設営されていて、 ふたりの衛生兵が病人たちを迎え入れていました。
 ガイコツたちは軍用の簡易寝台に寝かされて、体をふいてもらってから強壮剤を打たれました。衰弱がひどい者は、病院へ搬送されました。
 こうして私たちはまた人間として扱われるようになったのです。
 今度こそ私たちは、死の恐怖におびえることなく、病院へいくことができるのです。
 これで、やっと自由になれたのです。
 私は、この日のことを忘れることはできません。
 私もエトガルも生き残ることができました。
 でも、いまだに存在すら知られずにアウシュヴィッツダッハウに眠っているたくさんの人々がいます。
 戦後、私はこの恐ろしい体験を忘れようと努力しました。
 政治家のお手伝いをしたり、絵を描いたりして。
 そして私たちを虐待した恐ろしい国、ドイツへは二度と足を踏み入れないぞ!と心に決めていました。
 でも、この悪夢から逃れることはできませんでした。私の心は相変わらず収容所にとらわれたままだったのです。
 それで私は決心しました。
《この事実を伝えなければいけない》
 そして、今度は自らの意志で、私が入れられていた収容所のひとつ、ダッハウ強制収容所へ戻ったのです。
 ここを訪れる多くの人々に私の体験を伝えるために......。
 私は、今、ミュンヘン近郊の小さな町に住んでいます。
 ここはダッハウにとても近いのです。
 私は、命の続く限り、ここを離れることはないでしょう。
(p156)

 

一九四五年一月一六日にアウシュヴィッツの撤収が決定し、一月二七日、ソ連軍によってこの収容所は解放されました。

マンハイマーさんが自由になったその日(四月三〇日)に、ヒトラーが自殺しているのが不思議な感じもします。

 

辛い思いをした記憶ばかりの国にわざわざ戻るという選択を、自分だったらするだろうかと考えてしまいました。ましてや、著者にとっては生まれ育った国でもないわけです。それでも、ドイツの強制収容所近くに居を構えたのには、強い思いがあったからだということが、あとがきから分かります。

 

 

 日本の読者のみなさんへ


 みなさんが私の体験談 (原題 Max Mannheimer : Spätes Tagebuch. Theresienstadt-Auschwitz-Warschau-Dachau. Zürich, 9. Auflage 2007) を手に取りお読みになると、数十年も前の時代へタイムスリップしたかのように思われるでしょう。 こんなに長い時間的な隔たりがあるにせよ、私は八八歳になった今でもすべてのことを鮮明に記憶しています。 二二年以上も前から私は、ドイツの学校で、青少年を前に数多くの講演を行ってきました。 それは独裁政治がどんなに恐ろしいものなのか知ってもらうためなのです。
 私はこの講演で、「ドイツ人だからという理由で負うべき罪はありませんし、罪自体が次の世代へ相続されるものでもありません。 起きてしまったことには、若い人たちに何の責任もないのです」と話しています。でも私は、「同じ事を二度とくり返してはならない、ということには責任があるんだよ」 (Ihr seid nicht verantwortlich für das, was geschah.  Aber dass es nicht wieder geschieht, dafür schon.) と最後につけ加えて います。 これが、私がもっとも伝えたいことなのです。
 残念なことですが、戦後五〇年で一区切りついたのだからホロコースト(大量殺戮)の時代への関心はもう過去のものだ、と思う人がたくさんいます。でも実情は、それとはまったく正反対です。 民主主義の中で育ってきたドイツやオーストリアの子供たちは、自分たちの先祖がどうしてそんなひどいことをすることができたのか、理解することができないのです。
 私は、アウシュヴィッツガス室で家族六人を亡くしました。 その体験が、戦後、故郷のチェコスロヴァキアへ戻った私をして二度とドイツへは足を踏み入れないぞ、と決心させた理由でした。

 そんなあるとき、私は、ひとりのドイツ人女性と出会いました。彼女は戦争中、故国ドイツにとどまり抵抗運動に身を捧げていたのです。彼女は「ドイツは将来きっとすばらしい民主国家になる」と私にいいました。実際ドイツにはユダヤ人をかくまった勇気ある人たちがいたのも事実です。私は、彼女に心惹かれ、彼女とともに再びドイツへ戻ることを決心したのです。
(p165)

 

物語全般を通して、やさしい語り口でつづられていて、穏やかな文章からマンハイマーさんが若い人たちに伝えるべく努力を重ねて過ごしてこられたことが伝わってきます。

父親との別離のシーンも、さらっと書いてあるので、読んでいる方は結構衝撃を受けました。

そして日記のように日付もかなり克明に記されているのがすごい。

 

「起きてしまったことには、若い人たちに何の責任もないのです」

でも「同じ事を二度とくり返してはならない、ということには責任がある」。

この言葉が強く印象に残りました。

「自分たちの先祖がどうしてそんなひどいことをすることができたのか、理解することができないのです。」という意見も、歴史から学ばずにいる姿勢を正されるような気持ちになりました。

 

思い出すのも痛みを伴う作業であったことは想像に難くないのに、それでもドイツに戻って講演をするということは、誰もが出来ることではないと思います。

他者を許容する気持ちが無いままでは、自分を癒すことはできないということなんだろうか、と考えさせられました。

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。