ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

勝利の後に大切なもの。『坂の上の雲 八』を読んで

こんばんは、ゆまコロです。

 

司馬遼太郎さんの『坂の上の雲 八』を読みました。

長い時間をかけて(読むのが遅い)、ようやくたどり着いた最終巻です。

 

    ともあれ、ネボガトフ艦長は機関をとめて、漂泊した。東郷は、
「秋山サン、ゆきなさい」
    と、受降のための軍使として真之をえらんだ。 旗艦ニコライ一世へ乗りこんでゆき、ネボガトフと対面して降伏についてのうちあわせをせよ、ということであった。

    敵艦へゆくためには短艇(ボート)が必要だったが、たまたま三笠のそばに「雉(きじ)」という名前のついたちっぽけな水雷艇がちかづいてきたので、
「関よ」
   と、真之は艦上からまねいた。雉の艦長は大尉で、関才右衛門といった。
    真之は、それに乗った。かれは東郷のまゆをひそめさせた例のふんどし姿(剣帯を上衣の上から締めた恰好)をやめていた。武器は腰に吊っている果物ナイフのような短剣だけで、拳銃ももっていない。
(帰って来れるかどうかわからない)
    とおもったのは、随行の山本信次郎大尉である。山本は三笠の分隊長をつとめていたが、フランス語が堪能であるため、通訳として従ったのである。
__私は死を決していた。
山本信次郎がのちに語っている。以下、その談話である。
「秋山参謀と二人、水雷艇の〝雉〟に乗って本艦を離れ、敵の旗艦へ行った。その日は波が荒かった。その上、"ニコライ一世〟という軍艦は舷側の斜角が急なので上にあがれない」
    木の葉のような水雷艇の上から仰ぐと、舷側がそそり立って大要塞を見るような感じがした。
    そのうち上から索梯(つなばしご)が降りてきた。ちょうど山本のいる場所のほうに降りたため、山本は、
「お先に」
    といって足をかけた。かれはいま登ってゆく艦内には降伏に反対する反乱兵とか、衝撃で気が変になっている連中とかが存在すると覚悟していたし、もし殺されるなら自分がさきに殺されるのが後輩としての道だとおもって一足さきに艦上にのぼったのである。すぐ真之ものぼってきた。
「艦内ではやはり異様な昂奮状態にあった」
    水兵や将校が、口々になにかののしりわめきながらあちこちを駆けまわっている。
「容易ならぬ形勢の不穏さ」と山本は形容しているが、実際には恐慌(パニック)がおこっているのでもなんでもなかった。かれらは水葬の支度をしていたのである。上甲板には戦死者の骸がたくさん横たえられていて、それを運ぶ者、屍(しかばね)を包む者、それらを指揮する声、さらにはひざまずいて大声で祈禱をあげる者などの諸動作や声がそのあたりを駆けまわっている感じで、緊張の極に達している山本からみればそれがパニック状態にみえたらしい。
    これが水葬の光景であると山本が気づいたのは、真之がそれら屍体のむれのそばへどんどん歩いて行って、ひざまずいて黙祷(もくとう)したからである。
    山本の談話によると、
「こんなときでも、秋山という人は変に度胸がすわっていた。ツカツカといって前に跪(ひざまず)き」
 と、ある。
 真之は敵の人心を撹(と)るためにこの動作をしたのではなく、いずれこの戦いがおわれば坊主になろうと覚悟を決めていた彼は、自分の艦隊の砲弾のためにたったいま死んだばかりの死者たちの破損された肉体をみてひどく衝撃をうけ、おもわず冥福を祈る動作に移行しただけのことで、山本の語るところでも、「その黙禱の様子に偽りならぬ心が溢(あふ)れていた。敵の兵員たちはじっとその様子を眺めていたが、その眺める目にも正直な感謝の情が動いており、それ以後、彼らの態度から反抗の色が消え、親しみに似た感情さえ仄見(ほのみ)えた」とある。

 

 上甲板で出むかえたのは、参謀長のクロッス中佐であった。かれはまだ三十代であったし、それにもともと威勢のわるくない人物なのだが真之の目には雨に打たれたむく犬のような印象にうつった。ひとつには口ひげが伸びすぎ、潮風やら爆煙やらがこびりついてすだれのように垂れてしまっていたせいだったかもしれない。
 真之と山本大尉は、司令官室に通された。他にたれもいなかった。どこかから叫喚の声がひびいてくる。 やはり尋常な空気ではなかった。
(つまらない目に遭うものだ)
 と、真之は敵に対してではなく、自分に対しておもった。降敵の城に軍使として乗りこむというのは絵物語ならいかにも爽快な光景なのだが、いざその役目を自分に割りあてられてみると、陰惨さのほうが先立った。おそらくネボガトフが出てくるであろう。
 それに対してどういう態度をとっていいのか、真之は戸惑うおもいがした。待つあいだも通路をしきりに叫び声が走っている。
 山本の顔が、緊張でこわばっていた。「いざとなれは武士らしくいさぎよく死のう」
と山本はくりかえし自分に言いきかせては落着こうとしていたが、真之はべつにそう思わなかった。かれには通路の叫び声の正体がわかっているのである。真之はここまで案内されてくるまでのあいだに、将校や兵たちがなにをしているかを一瞥(いちべつ)して見当をつけてしまっていた。かれらは信号書や機密書類などを海中に投棄するために号令を発したり、注意事項を叫んだりしているだけのことだとみていた。そういう書類の始末というのはかれらがはっきり戦闘を放棄し降伏しようとしている証拠で、むしろあの騒ぎは真之らが軍使として安全な状態にあることを傍証づけているようなものなのである。

(p254)

 

真之さんが敵の旗艦へ赴くシーンです。相手はすでに降伏しているとはいえ、敵艦に乗り込んでいくというのはかなり勇気を要することだと思います。

しかしここで、戦死した敵の死体にひざまづいて黙とうする真之さんの行動がちょっといいなと思いました。この時点でいずれ出家しようと思っているのだから、戦死者に対して敵も味方もないとお考えなのかもしれません。

生きて戻れるか分からない、と思っている通訳の山本さんと、まあ安全だろうと思っている真之さんの温度差がすごい。笑

 

 提督の体が汽艇におろされたとき、かれの意識がわずかに醒(さ)めた。山本信次郎がフランス語で東郷の意志を伝えると、提督の肉体は意外なほど活撥で毛布の中から腕をのばし、山本の手をにぎった。山本によればロジェストウェンスキーは涙を流したという。
 数日後に、東郷が佐世保海軍病院ロジェストウェンスキーを見舞うことになる。
 同行者は秋山真之と山本信次郎のふたりだけであった。
 案内は戸塚環海海軍軍医総監である。この病院の廊下は足がくたびれるほど長かった。
 この間(かん)、東郷は無言であった。やがて病室に入ると、病床のロジェストウェンスキーがわずかに顔をうごかし、東郷をみた。この両将がたがいに顔を見たのはこの瞬間が最初である。


 ロジェストウェンスキーは、かれが演じたあれほど長大な航海の目的地がこの佐世保海軍病院のベッドであったかのようにしずかに横たわっている。そのことが一種喜劇的ではあったが、元来、戦争とはそういうものであろう。戦争が遂行されるために消費されるぼう大な人力と生命、さらにそれがために投下される巨大な資本のわりには、その結果が勝敗いずれであるにせよ、一種のむなしさがつきまとう。
「戦争というのは済んでしまえばつまらないものだ。軍人はそのつまらなさに堪えなければならない」
 という意味のことを、日本の将軍のなかでもっとも勇猛なひとりとされる第一軍司令官黒木為楨(ためとも)が、従軍武官の英国人ハミルトンに言ったというが、この場合のロジェストウェンスキーの役割はその最たるものであったかもしれない。そのことを、かれの病床に近づいた東郷がたれよりもよく知っていた。
 東郷は、相手の役割のつまらなさに深刻な同情をもっており、相手の神経をなぐさめるためにのみ自分は存在していると思い、そのことを相手にわからせるために彼が身につけているほんのわずかな演技力でもって精一杯にふるまおうとした。
 かれは白い夏衣を着ていた。 病床の提督に手をさしのばして握手をし、そのあと、相手に威圧をあたえないようにベッドのそばのイスに腰をおろし、ロジェストウェンスキーの顔をのぞきこむようにしていった。
 東郷は無口で知られた男であったのに、この場合だけはひどく長い言葉をしゃべった。
 東郷の言葉は、通訳の山本大尉が記憶しているところでは以下のようである。
「閣下」
 と、東郷はひくい声で語りかけた。
「はるばるロシアの遠いところから回航して来られましたのに、武運は閣下に利あらず、ご奮戦の甲斐なく、非常な重傷を負われました。今日ここでお会い申すことについて心からご同情つかまつります。われら武人はもとより祖国のために生命を賭けますが、私怨(しえん)などあるべきはずがありませぬ。ねがわくは十二分にご療養くだされ、一日もはやくご全癒くださることを祈ります。なにかご希望のことがございましたらご遠慮なく申し出られよ。できるかぎりのご便宜をはかります」
 東郷の誠意が山本から通訳される前にロジェストウェンスキーに通じたらしく、かれは目に涙をにじませ、
「私は閣下のごとき人に敗れたことで、わずかにみずからを慰めます」
 と、答えた。かれは戦闘概況をロシア皇帝に伝奏したいがその便宜をはかってもらえまいか、と東郷にたのんだ。東郷にはそれを許可する権限はなかったがすぐさま承諾した。

 

 真之は佐世保において、
――満州はどうか。
 という、陸軍の戦況について知ろうとした。東京からきた大本営の作戦関係者のはなしでほぼあらましはわかった。
 兄の好古は左翼の乃木軍に属し、北から南下してくるミシチェンコ騎兵団を押しかえし、大小の戦闘をまじえつつかろうじて対峙(たいじ)の形勢を保持していた。
 クロパトキンと交代したロシア軍総司令官リネウィッチ大将は公主嶺の台地に総司令部を置き、
「雨期が終わらば日本軍を殲滅(せんめつ)すべし」
 かれはシベリア鉄道によって送られてくる兵員、資材の補充が攻勢再興の能力を満たすにいたるのは満州にみじかい秋が訪れるころであろうとみていた。
 それまでは陣地防御に専念していた。日本側もそれをすすんで覆滅する能力をもっておらず、作戦計画だけは公主嶺決戦とハルビン決戦を目標としてたてられているだけで、有能な下級将校の欠乏と砲弾の不足をおぎなうにはあと一ヵ年以上を要するという悲惨な実情にあった。
 要するに、戦線は日露双方の事情によって膠着(こうちゃく)している。ただわずかにロシア側は得意のコサック騎兵団を放って日本軍の戦線をしきりに刺戟していた。好古の騎兵団はそれに対しいちいち対応せねばならなかった。
 バルチック艦隊が五月二十七、八日の両日で全滅したにもかかわらず、満州の最前線にいる好古は六月十五日豪雨を衝いて基地を出発し、一両日のあいだミシチェンコ将軍の騎兵団と激烈な戦闘をまじえ、かろうじてこれを撃退したが、しかし新占領地を保持するほどの兵力がなかったためそれをすてて後方へ撤収した。 ミシチェンコはふたたびその地へやってきて根拠地にするという押しつ押されつの戦況がつづいていた。
 その戦場で好古は母親のお貞が病没したというしらせを受けた。真之は佐世保で知った。
__淳、お前もお死に。 あしも死にます。

 といって幼いころの真之の腕白に手をやいて本気で短刀をつきつけたこの母親の死の報に接し、真之は佐世保の旅館の一室で終夜号泣した。 兄の好古がこの報に接したのは花楊樹という村に駐屯(ちゆうとん)していたときだったが、松山の友人の井手政雄にハガキを書き送っている。
「真之が働キシ故、号外ヲモチテ亡父ノ処二参り候(そうろう)ナラント存候。コノ端書ノ面白味ヲ知ルモノハ大人ノミニ候」
 とある。好古は母のお貞が「淳」という真之の腕白に手を焼いていたことも知っていたし、終生真之をもっとも愛していたことも知っていた。「あの腕白小僧をなんとか成人させたことは無駄ではなかったということを母は日本海の戦闘結果を知ってつくづく思ったことだろう」という意味を、好古は「面白味」という言葉の裏に籠めているのである。


 戦争がつづいているあいだ第三国から講和を調停する意思表示が非公式ながらも何度かおこなわれたが、ロシア側の態度はそのつど硬かった。奉天での敗報が世界につたわったあとでさえロシア宮廷の空気はたじろぎもみせていない印象だった。
 日本海海戦が、人類がなしえたともおもえないほどの記録的勝利を日本があげたとき、ロシア側ははじめて戦争を継続する意志をうしなった。というより、戦うべき手段をうしなった。
 このときロシアに働きかけたのは、米国大統領セオドル・ルーズヴェルトであった。
 かれは日本海海戦におけるロシア艦隊の全滅をまるで自国の勝利であるかのようによろこび、その勝利から九日後に駐露大使のマイヤーに訓電し、ロシア皇帝ニコライ二世に直接会って講和を勧告せよ、と命じた。 ルーズヴェルトの友人である金子堅太郎にいわせれば「アメリカはワシントンが合衆国を創立し、リンカーンが奴隷を解放した。いずれも偉大な事業であるが、しかしそれらは国内での事業にすぎない。この合衆国大統領がみずからすすんで国際的な外交関係に手を出したのはアメリカ史上このときが最初である」とし、そのことをルーズヴェルトにもいった。
「それによって君は世界的名誉を獲得するだろう」
 と、金子はいった。
 ルーズヴェルトより前にドイツ皇帝がニコライ二世に講和を勧告する電報を発しているし、同時にドイツ皇帝はルーズヴェルトに対しても、
「もしこの重大な敗戦の真相がペテルブルグに知れわたれば皇帝(ツアーリ)の生命もあやういだろう」
 との電報を送っている。たしかにその危険はあった。ロシアの帝政は強大な軍事力をもつことによってのみ存在し、国内の治安を保ってきた、とウィッテもいっている。それが崩壊した以上、日露戦争はロシア国家にあたえた衝撃よりもむしろロマノフ王朝そのものを存亡の崖ぶちに追いこんでしまったことになる。
(p278)

 

「あの腕白小僧をなんとか成人させたことは無駄ではなかったということを母は日本海の戦闘結果を知ってつくづく思ったことだろう」

秋山家の好古・真之兄弟がお互いのことをどう評しているのか、この物語ではあまり出てきませんが、この好古さんの言葉からは、弟・真之の仕事ぶりを誇らしく思っている感が出ていて、なかなか印象深い箇所です。

 

そしてなんと言っても、見舞いに来た東郷さんがロジェストウェンスキーにかける言葉が好きです。もしかしたらお互いの立場が逆になっていたかもしれない、という思いがあったのかもしれませんが、相手が憎いから戦うわけではないのだということや、部下を指揮する立場の大変さから、ロジェストウェンスキーと同じ目線に立っているがよく伝わってきます。

 

 好古が若いころフランスに留学していたとき、しばしば酒場へ行った。かれのゆきつけの酒場は社会主義者のあつまる所で、ある日、袖をひかれた。
 袖をひいた男が、社会主義者だった。かれは好古にむかって社会主義がいかに正義であるかを説いた。やがて親しくなると、地下室に案内された。そこでその方面のいろんな連中と会った。
「決して悪いものじゃないよ。いい所もあるよ」
 と好古はこのとき清岡にもいったが、かれの晩年共産党の問題がやかましくなったときも「悪意をもって共産党の問題を考えるようでは何の得るところもない」といったりした。
 ロシアが社会主義国になるだろうという好古のかんは、ロシアがその栄光とする陸軍が日本のような小国にやぶれたからだという。

「ロシア陸軍は、国民の軍隊ではないからな」
とだけいった。ロシアのその世界最大の陸軍は皇帝(ツアーリ)の私有物であるにすぎない、ということであろう。その軍隊が外国に負けたとき人民の誇りはすこしも傷つかず、皇帝のみが傷つく。皇帝の権威が失墜し、それによって革命がおこるかもしれいない、ということであるらしかった。日本の軍隊はロシアとはちがい、国軍であると、好古はよくいった。好古は生涯天皇については多くを語らなかったが、昭和期において濃厚なかたちで成立する「天皇の軍隊」という憲法上の思想は好古の時代には単に修辞的なもので、多分に国民の軍隊という考え方のほうが濃かった。
「ナポレオンはフランス史上最初の国民軍をひきいたから強かったのだ」
 と好古はよくいったが、日露戦争における両軍の強弱の差もそこから出ている、と好古は考えていたらしい。好古にすれば日本軍は国民軍であった。ロシアのように皇帝の極東に対する私的野望のために戦ったのではなく、日本側は祖国防衛戦争のために国民が国家の危機を自覚して銃をとったために寡兵をもって大軍を押しかえすことができたのだ、という意味であるようであった。

 

 社会主義についての好古の理解の度合がどの程度のものであったかはよくわからない。
 ただ、こういう話がある。
 好古は乃木希典との縁が浅くなかったが、その最初の出会いはパリにおいてであった。
 乃木は陸軍少将のときに外遊した。ときに三十九歳で、明治二十年のことである。パリへ行き、フランス陸軍省を訪ねたとき、ちょうど留学中だった好古が通訳した。
 そのとき新聞記者が訪ねてきて乃木に会見を申し入れた。 乃木は承諾し、好古が通訳した。
 その記者の質問が、
社会主義をどうおもうか」
 であったのである。乃木は社会主義についてさほどの知識はなかった。好古は乃木のために社会主義についての簡単な解説をした。
 その解説が、
「平等を愛する主義です」
 という簡単なものだった。身分も平等、収入も平等の世の中にするということです、というと乃木は大きくうなずき、
「しかし日本の武士道のほうがすぐれている」
 と、多少質問の趣旨と食いちがっているとはいえ、ひどく断定的な調子でいったため、記者のほうが圧倒された様子だった。
 乃木は、いう。
「武士道というのは身を殺して仁をなすものである。社会主義は平等を愛するというが、武士道は自分を犠牲にして人を助けるものであるから、社会主義より一段上である」
 乃木という人物は、すでに日本でも亡びようとしている武士道の最後の信奉者であった。この武士道的教養主義者は、近代国家の将軍として必要な軍事知識や国際的な情報感覚に乏しかったが、江戸期が三百年かかって作りあげた倫理を蒸溜(じょうりゅう)してその純粋成分でもって自分を教育しあげたような人物で、そういう人物が持つ人格的迫力のようなものが、その記者を圧倒してしまったらしい。
 好古は乃木がきらいではなかった。しかし乃木の旅順要塞に対する攻撃の仕方には無言の批判をもっていたようであり、たとえば、
「日本の非力な騎兵が、数倍のミシチェンコ騎兵団をなんとか追いはらってゆくことができたのはおれの功績ではない。日本の騎兵が最初から機関銃を装備していたのに対してむこうが持っていなかったからである。精神力を強調するのあまり火力を無視するという傾向はどうも解(げ)せない」
 とよくいっていたのは、あるいは一種の乃木批判になるかもしれない。
 乃木は身を犠牲にすると言いつつも、台湾総督をつとめたり、晩年は伯爵になり、営習院長になったりして、貴族の子弟を教育した。
 しかし好古は爵位ももらわず、しかも陸軍大将で退役したあとは自分の故郷の松山にもどり、私立の北予中学という無名の中学の校長をつとめた。黙々と六年間つとめ、東京の中学校長会議にも欠かさず出席したりした。従二位勲一等功二級陸軍大将というような極官にのぼった人間が田舎の私立中学の校長をつとめるというのは当時としては考えられぬことであった。第一、家屋敷ですら東京の家も小さな借家であったし松山の家はかれの生家の徒士屋敷のままで、終生福沢諭吉を尊敬し、その平等思想がすきであった。 好古が死んだとき、その知己たちが、
「最後の武士が死んだ」
 といったが、パリで武士道を唱えた乃木よりもあるいは好古のほうがごく自然な武士らしさをもった男だったかもしれない。

(p296)

 

「日本の非力な騎兵が、数倍のミシチェンコ騎兵団をなんとか追いはらってゆくことができたのはおれの功績ではない。日本の騎兵が最初から機関銃を装備していたのに対してむこうが持っていなかったからである。精神力を強調するのあまり火力を無視するという傾向はどうも解(げ)せない」

自軍の数倍の騎士団を追い払えたのは好古さんの力量によるところが大きいと思われますが、冷静ですね。こういう天狗にならないところも好きです。

好古さんはじめ、この時代にロシアと戦った人たちが現在のウクライナ侵攻を知ったら、どんなふうに感じるだろうか、と思ってしまいます。

 

文庫版の最終巻である8巻を読んでいて、初めてあとがきがあることに気が付きました。(この話はもともと単行本では全6巻だったため、文庫版の8巻にはあとがきが6個ついているのだそう。)

 

 古今東西のどの戦争の例をみても、日露戦争の日本ほどうまくやった国はないし、むしろ比較を絶してすぐれていたのではないかとおもわれる。
 しかし、勝利というのは絶対のものではない。敗者が必要である。ロシア帝国における敗者の条件は、これはまた敗者になるべくしてなったとさえいえる。極端にいえば、四つに組んでわれとわが身で膝をくずして土をつけたようなところがある。
 たとえばクロパトキンが考えていた大戦略は、遼陽での最初の大会戦で勝つことではなかった。遼陽でも退く。奉天でも退く。ロシア軍の伝統的戦術である退却戦術であり、最後にハルビンで大攻勢に転じ、一挙に勝つというもので、それは要するに遼陽、沙河、奉天で時をかせぐうちに続々とシベリア鉄道で送られてくる兵力を北満に充満させ、その大兵力をもって日本軍を撃つということであった。もしこの大戦略が実施されておれば、当時奉天の時点ではもはや兵力がいちじるしく衰弱していた日本の満州軍は、ハルビン大会戦においておそらく全滅にちかい敗北をしたのではないかとおもわれる。この大敗北の予想と予感は、クロパトキンよりもむしろ日本の満州軍の総参謀長の児玉源太郎自身の脳裏を最初から占めつづけていたものであり、敗北はまぎれもなかったであろう。むろん、奉天大会戦のあとに日本海海戦があり、ロシアのバルチック艦隊は海底に消えた。しかし海軍が消滅したとはいえ、ロシア帝国にその決意さえあれば講和をはねつけて満州の野で日本陸軍をつぶすこともできたのである。
 しかし、ロシアはそれをやらなかった。ここにロシアの戦争遂行についての基本的な弱さがあり、満州における諸会戦のあとを見てみても、その敗因は日本軍の強さというよりもロシア軍の指揮系統の混乱とか高級指揮官同士の相剋とか、そのようなことがむしろ敗北をみずからまねくようなことになっている。ロシア皇帝をふくめた本国と満州における戦争指導層自身が、日本軍よりもまずみずからに敗けたところがきわめて大きい。むろん、ロシア社会に革命が進行していたということも敗因の一つにかぞえられるが、たとえこの帝国がそういう病患をかかえていたとしても、あれだけの豊富な兵力と器材をうまく運営しさえすれば勝つことは不可能ではなかったのである。兵員に革命思想が浸透していて厭戦気分になっていたということを過大にみる人があるが、それは結果から見すぎる見方であろう。兵員というものはすぐれた指揮官のもとではほとんど質を一変させて戦うもので、旅順要塞におけるコンドラチェンコ少将や野戦軍におけるケルレル少将、それに旅順艦隊の二人目の司令長官マカロフのもとではロシア兵は他のロシア兵の数倍のつよさを示し、戦意はまるでちがっていた。この三人の将はいずれも相次いで戦没し、かれらが戦没したあと、その麾下(きか)の軍は虎が猫になったようなくっきりしたちがいで弱くなった。
 要するにロシアはみずからに敗けたところが多く、日本はそのすぐれた計画性と敵軍のそのような事情のためにきわどい勝利をひろいつづけたというのが、日露戦争であろう。
 戦後の日本は、この冷厳な相対関係を国民に教えようとせず、国民もそれを知ろうとはしなかった。むしろ勝利を絶対化し、日本軍の神秘的強さを信仰するようになり、その部分において民族的に痴呆化した。 日露戦争を境として日本人の国民的理性が大きく後退して狂躁の昭和期に入る。 やがて国家と国民が狂いだして太平洋戦争をやってのけて敗北するのは、日露戦争後わずか四十年のちのことである。敗戦が国民に理性をあたえ、勝利が国民を狂気にするとすれば、長い民族の歴史からみれば、戦争の勝敗などというものはまことに不可思議なものである。
 昭和四十四年十月

(p320)

 

正直なところ、このあとがきたちが、読んでよかった感を増幅させました。

「兵員に革命思想が浸透していて厭戦気分になっていたということを過大にみる人があるが、それは結果から見すぎる見方であろう。」

著者と好古さんの考え方、ちょっと似ているように思います。

 

「乃木軍司令官の気持がわからない。 なぜ状況に一致しない命令を出すのだろうか」
 と声を放ったというが、ともかくも乃木軍司令部がやった最大の愚行は、この第一回総攻撃において強襲法をとったということよりも、前線がどうなっているかも知らず、そのあまりにも大きな損害におどろいていっせいに退却せしめたことであった。
 一戸兵衛は、温厚な人物だけに、
「その理由が、あとでわかった」
 と、語っている。ただし、事実は明かさない。明かさなかったのは、乃木・伊地知の名誉にかかわるからであり、これについてはできれば永久に沈黙しておかねば国民の反撥がどれだけ大きいかわからぬと思ったからであろう。第一線の実情がわからなかった最大の理由は、軍司令部がぜったいに砲弾のとどかない後方にあったからであった。 本来なら軍司令部の位置をすすめて各師団の動きがみられるところへ置き、地下に壕を掘り、上を掩堆でかためればよい。 それをせず、軍司令官以下が前線を知らなかったことがこの稀代の強襲計画を、それなりに完結させることさえせずにおわらせてしまった。この時期の満州軍総司令部の参謀たちの一致した意見では、
「第一回で奪れていたのだ」
 ということであり、それだけに乃木軍司令部への風あたりがつよかったのである。

 

 この日露戦争の勝利後、日本陸軍はたしかに変質し、別の集団になったとしか思えないが、その戦後の最初の愚行は、官修の「日露戦史」においてすべて都合のわるいことは隠蔽したことである。 参謀本部編「日露戦史」十巻は量的にはぼう大な書物である。戦後すぐ委員会が設けられ、大正三年をもって終了したものだが、それだけのエネルギーをつかったものとしては各巻につけられている多数の地図をのぞいては、ほとんど書物としての価値をもたない。作戦についての価値判断がほとんどなされておらず、それを回避しぬいて平板な平面叙述のみにおわってしまっている。その理由は、戦後の論功行賞にあった。伊地知幸介にさえ男爵をあたえるという戦勝国特有の総花式のそれをやったため、官修戦史において作戦の当否や価値論評をおこなうわけにゆかなくなったのである。執筆者はそれでもなお左遷された。かれは青島守備隊の閑職にまわされ、大佐どまりで陸軍をひかされた。
「わしがこのようになったのは、日露戦史を書いたからだ」
 と、その人物は青島の配所にいるとき、しばしばぼやいていたという。
 これによって国民は何事も知らされず、むしろ日本が神秘的な強国であるということを教えられるのみであり、小学校教育によってそのように信じさせられた世代が、やがては昭和陸軍の幹部になり、日露戦争当時の軍人とはまるでちがった質の人間群というか、ともかく狂暴としか言いようのない自己肥大の集団をつくって昭和日本の運命をとほうもない方角へひきずってゆくのである。

(p340)

 

本来、報酬を与えられるような働きをしなかった人にも爵位を与えてしまったから、作戦についての価値判断なく戦史をまとめざるを得ず、結果国民は都合の悪いことを知らないまま、自国は強いと思いこんで次の戦争に突入してしまう。

今の感覚で考えると、あちゃーという感じですが、戦地に赴いていない国民や、戦勝国としての歴史を学んだ子供は、特に疑うことなく、自分の国を誇らしく思うだろうな、ということが予想できます。

 

 この作品は、執筆時間が四年と三ヶ月かかった。書き終えた日の数日前に私は満四十九歳になった。執筆期間以前の準備時間が五年ほどあったから、私の四十代はこの作品の世界を調べたり書いたりすることで消えてしまったといってよく、書きおえたときに、元来感傷を軽蔑する習慣を自分に課しているつもりでありながら、夜中の数時間ぼう然としてしまった。頭の中の夜の闇が深く遠く、その中を蒸気機関車が黒い無数の貨車の列をひきずりつつ轟々と通りすぎて行ったような感じだった。 遠ざかってゆく最後尾車の赤い灯をいつまでも見ている自分を滑稽にもおもえて、そのことをわざわざここに書くのが面映(おもは)ゆくある。 この十年間、なるべく人に会わない生活をした。明治三十年代のロシアのことや日本の陸海軍のことを調べるという作業は、前半は苦しくはあったが、後半は何事かが見えてきて、その作業がすこし楽しくなった。いずれにしても友人知己や世間に生活人として欠礼することが多かった。友人というほどではないが古い仲間の何人かが、その欠礼について私に皮肉をいった。これはこたえた。しかしやむをえないじゃないかと私は自分に言いきかせた。
 しらべるについて、無数の困難があった。そのひとつはロシア語だった。私は若いころ一年間ロシア語を習ったが、その実力は辞書がやっと引ける程度にすぎない。そこで、頻出度の高い軍隊用語の単語帳を自分でつくってみた。面倒な文章は、ロシア語のできる友人に大意を口頭で訳してもらった。みじかい文章がわからなくて、深夜に起きていそうな知人をあれこれ物色して電話をかけたりしてその人を不愉快にさせたりした。

 

 この作品世界の取材方法についてだが、あれはぜんぶ御自分でお調べになるのですか、と人に問われたことがあって、唖然としたことがある。小説の取材ばかりは自分一人でやるしかなく、調べている過程のなかでなにごとかがわかってきたり、考えがまとまったり、さらにもっとも重大なことはその人間なり事態なりを感じたりすることができるわけで、これ以外に自分が書こうとする世界に入りこめる方法がなく、すくなくとも近似値まで迫るのはこれをやってゆくほかにやり方がない。
 私はわずかな年数ながら、陸軍の下級士官を体験した。速成教育ながら戦術も教わった。このことは梯子(はしご)として役に立った。
 小説とは要するに人間と人生につき、印刷するに足るだけの何事かを書くというだけのもので、それ以外の文学理論は私にはない。以前から私はそういう簡単明瞭な考え方だけを頼りにしてやってきた。いまひとつ言えば自分が最初の読者になるというだけを考え、自分以外の読者を考えないようにしていままでやってきた(むろん自分に似た人が世の中には何人かいてきっと読んでくれるという期待感はあるが)。

(p358)

 

この文章のように、司馬遼太郎先生がどのように取材したり、どんなところに苦労したかがうかがえると、物語もより身近に感じられていいですよね。4年以上もかかる執筆…、頭が下がります。関わっている時間が楽しいものでもそうでなかったとしても、書き終わったら抜け殻になってしまいそう。そしてその心境を表す文章がまたステキ。

 

「頭の中の夜の闇が深く遠く、その中を蒸気機関車が黒い無数の貨車の列をひきずりつつ轟々と通りすぎて行ったような感じだった。 遠ざかってゆく最後尾車の赤い灯をいつまでも見ている自分を滑稽にもおもえて、そのことをわざわざここに書くのが面映(おもは)ゆくある。 」

このたとえ好きです。

 

(…)現実の問題として戦場における前後左右との釣りあいがとれなくなり、なにも書けなくなる。このため功も罪も書かず、いっさい価値論をやめて時間的事実と兵力の出し入れの物理的事実のみを書くことによってこの全十巻は作りあげられたらしい。
「そこまで譲歩しても気に入られなかった」
 と、執筆責任者のある大佐が言い、このためかれは編纂が終わると青島(チンタオ)の守備隊司令官という閑職に追いやられたというのである。
「自分はかの日露戦史を書かされたことで、軍人としての生命がおわった」
 と、この人物はそのことをこぼしては酒ばかり飲んでほどなく予備役に編入されてしまった。この大佐が青島で配所の月をながめて鬱々としていた光景の目撃者は小川琢治(たくじ)博士であった。 小川博士は日露戦争にも地質調査の技師として従軍した。陸軍は戦争を遂行しつつ石炭を得るために地質調査していた。このため当時まだ農商務省の技師だったこの高名な地理学者が派遣され、大山巌の総司令部付で参謀たちと同じ建物のなかで仕事をしていたのである。 旅順包囲中の乃木軍司令部の無能についてのごうごうたる非難の声も総司令部できいた。記憶力のいい人だからそれらの作戦批判のことばをほとんど覚えていた。 小川博士の子息たちが貝塚茂樹博士や湯川秀樹博士らであるが、その当時の総司令部の空気をよく子息たちに話された。その後、第一次世界大戦で日本が青島を占領したときも、小川博士は政府の命令で青島付近の地質調査をされた。そのときに旧知の右の大佐に会われたのである。
 その戦争を遂行した陸軍当局が、みずから戦史を編纂するということほどばかげたことはない。たとえば第二次世界大戦が終わったとき、アメリカの国防総省は戦史編纂をみずからやらず、その大仕事を歴史家たちに委嘱した。 一つの時代を背景とした国家行動を客観的に見る能力は独立性をもった歴史家たちの機構以外には期待できないのである。また英国の場合は、政府関係のあらゆる文書は三十年を経ると一般に公開するという習慣をもっている。その文書類を基礎に、あらゆる分野の歴史家が自分の研究に役立ててゆく。アメリカもイギリスも、国家的行動に関するあらゆる証拠文書を一機関の私物にせず国民の公有のもの、もしくは後世に対し批判材料としてさらけ出してしまうあたりに、国家が国民のものであるという重大な前提が存在することを感ずる。
 日本の場合は明治維新によって国民国家の祖型が成立した。その後三十余年後におこなわれた日露戦争は、日本史の過去やその後のいかなる時代にも見られないところの国民戦争として遂行された。勝利の原因の最大の要因はそのあたりにあるにちがいないが、しかしその戦勝はかならずしも国家の質的部分に良質の結果をもたらさず、たとえば軍部は公的であるべきその戦史をなんの罪悪感もなく私有するという態度を平然ととった。もしこのぼう大な国費を投じて編纂された官修戦史が、国民とその子孫たちへの冷厳な報告書として編まれていたならば、昭和前期の日本の滑稽すぎるほどの神秘的国家観や、あるいはそこから発想されて瀆武(とくぶ)の行為をくりかえし、結局は日本とアジアに十五年戦争の不幸をもたらしたというようなその後の歴史はいますこし違ったものになっていたにちがいない。

 

 このため、日露戦争における陸戦をしらべるについて、ときにこの作業をやめようかと思うほどに難渋した。ただ右の官修戦史にはすばらしい付録がついていた。各巻ざっと五十枚ずつ、通計五百枚ほどの精密な地図が、戦局の推移が一目でわかるようにして付けられていたのである。内容の記述よりもこの地図を見てゆくほうがはるかにこの戦争が理解できた。編者はあるいは暗にその意図があって、いちいち変化に対して忠実すぎるほどの地図をつけておいたのかもしれない。
 この地図と、敗戦側であるロシア側の記録をつきあわせ、その局面に関するあらゆる資料や雑書のその部分と照合してゆくことによって、一つずつの局面が立体化して見られるようになった。その作業が後半から面白くなったのは、展望がようやくひらけてきて、ある局面と他の局面群の相関関係がすこしずつわかり、それらの因果関係もわかってきて、全体が一個の凹凸のある風景として目に映るようになったからである。
 日露戦争は陸戦においては決して勝ってはいなかった。敗けてはいなかったが、押し角力にすぎなかった。たとえばクロパトキンは一九一三年(大正二年)に「満蒙処分
論」というロシアの侵略主義国策を積極的に理論化した書物を出したが、かれはその著書のなかで「日露戦争はわずかに前哨戦にすぎなかった」と書いているように、ロシアの伝統的な戦法は、ナポレオン戦争ヒトラーソ連侵入戦の場合においてもみられるように、一つ土俵に執着せずつぎつぎに土俵を空けては後退してゆき、最後に敵の補給線が伸びきったところではじめて大攻勢に出るのである。満州におけるロシア軍のとった戦法も多分に伝統的なものであった。

 

 日本軍は一局面ごとに勝った。つまり相手の土俵―陣地―を奪(と)った。しかし相手はさほどの損傷もうけずに後退してあたらしい陣地をつくってふたたび対峙するのである。そのくりかえしであった。ところが、一局面ごとに国際世論は、
「日本が勝ち、ロシアが敗けた」
 と、世界にむかって報じた。 元来、一戦闘における勝敗の定義は軍事学の立場からいえばひどく定義づけの困難なものなのである。その定義が幾通りあるかはここではのベないが、すくなくともロシア側はその戦略的立場からみて「これは敗けではない。単に陣地転換をしただけである」といえば言うことができた。しかしそういう軍事学的な基準よりも、素人の国際ジャーナリズムが一戦局ごとに日本の勝ちを宣言し、すばやく世界中に宣伝してロンドンの金融街だけでなく、ペテルブルグの宮廷までにそれを信じさせたのである。 二十世紀初頭までの戦争としては稀有の現象であるようにおもえる。国際情報が日本をどんどん勝たしめて行ったのである。

(p362)

 

「もしこのぼう大な国費を投じて編纂された官修戦史が、国民とその子孫たちへの冷厳な報告書として編まれていたならば、昭和前期の日本の滑稽すぎるほどの神秘的国家観や、あるいはそこから発想されて瀆武(とくぶ)の行為をくりかえし、結局は日本とアジアに十五年戦争の不幸をもたらしたというようなその後の歴史はいますこし違ったものになっていたにちがいない。」

日露戦争には(上記では勝ったとは言っていませんがとりあえずは)勝って、第二次世界大戦には負けた、という認識だけでは、自国のことながら他人事というか、事実としてしか頭に入ってきませんが、なぜ日本が第二次世界大戦へ突き進んでしまったのか、そしてなぜ勝利できると思ったのかを考えた時、その原因の一つは日露戦争の振り返りと伝え方にあったのかと感じました。歴史を学ぶことの意義が重くのしかかってきます。

 

明治の人たちが自分たちの国のあり方を考え、国力的にまったく余裕のないなかで諸外国と対峙したこと、そしてその激動の時代をわかりやすく紐解いてみせてくれた司馬先生に、読み終えて感謝の気持ちが生まれました。

ウクライナ侵攻で戦争が身近になってしまった今、外交はもちろん、戦況の報じ方の難しさと重要さを改めて感じました。メディアからの情報をどう受け止めるか、そしてどのような展望を自分の国に求めるのか、今一度考えるべきだと思わされます。

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。