ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

自らを癒す力と、他者を許す心。『アウシュヴィッツでおきたこと』を読んで

こんばんは、ゆまコロです。

マックス・マンハイマーさん、大友 展也さん(訳) の『アウシュヴィッツでおきたこと』を読みました。

 

「ぼくなんか、毎日、五回もぶたれるんだよ。兄さんも今にきっとぶたれることになるよ」
 私に与えられた仕事は、革靴に釘を打ったり、革を切ったりすることです。いつも身をかがめてしなければならない作業なので、体のあちこちが痛くなりました。また、最初はなかなかうまくできません。夕方、仕事が終わる頃になると、親方は怒って、
「大きさがぜんぜん違うじゃないか! 数だって足りないぞ!」
 といって、堅い靴型で私をぶちました。弟のいったとおりになりました。
     でも、その怒り方にもどこか愛情のようなものを感じます。親方は本当に怒ってぶつわけではないのです。
    数日もすると、ようやくコツが分かり、なんとかできるようになりました。
    仕事に慣れてきてホッとしたのも束の間。私は、右胸のあたりに赤茶色のとても大きな腫れ物があるのに気がつきました。 ジグジグして膿が出てとても痛く、がまんできません。丹毒のようです。

    この日の晩、
「99728番! 病棟へいかせてください!お願いします!」
     と私は自分で病棟へいくと申し出ました。


    また手術!

 

    私は、またもや手術されることとなりました。
    病棟へいく途中に女性実験棟があります。 中で何が行われているのか見ることはできませんが、見るからにぞっとする建物です。そこでは、クラウベルクという教授が毎週やってきて子供を産めなくするような人体実験をしているそうです。

    実験棟のそばを通ると、ちょうど女性たちが散歩から戻ってきたところでした。清潔そうな収容服に身を包んで、そよ風のように歩く可愛らしい女の子たち。彼女たちには散歩も許されているのです。
    でも、食べられる前に太らされた子羊たちが自分から肉屋に入っていくようで、私は、怖くて怖くて、足早にここを通り過ぎました。
     体中の骨を震わせる冷水シャワー。胸に書かれた収容者番号。前とまったく同じ手順です。
《今度こそ、生きて戻れないかもしれない》

    私はいよいよ選別されるかもしれない、と絶望的な気分になりましたが、努めて考えないようにしました。
《エディ、これでいよいよ最後かな。もう会えないかもしれない。さようなら!》
    今度は麻酔を打たれても、数を数えるのをやめました。
    でも、しばらくすると麻酔から目が覚めました。
    目玉を左右にギョロリと動かしてみます。
《あれ、生きている》
     なんとか今回の手術も切り抜けることができたようです。それから、病室のベッドに横になったまま数日が過ぎました。
    骨と皮だけの男が、一歩、また一歩と本物のガイコツに近づいていきます。ガイコツをすっぽりと薄い皮がおおっているみたいです。もともとガイコツだから何も食べ物をやらなくてもいいと思ったのでしょうか? 配給食はいつもほんの一握りしかくれません。
    腹をすかせてベッドに横たわっていると、あるとき、朝の点呼が始まる前、病室の窓からヒュッと口笛の鳴るのが聞こえました。
    私は、ふらつきながら窓辺へ歩いていきました。
《エディがきてくれたんだ!》
    口笛をヒュッと鳴らすのは、私たち兄弟の子供の頃からの合図なんです。
    でも、私のいる二階の大病室の窓からはエトガルの姿は見えません。もちろんエトガルにも私の姿は見えません。
    エトガルは、頭を上に向けていいました。
「具合はどうだい?」
「まあ、なんとか生きているよ」
エトガルは「さぁ、受け取って!」といって、パンを窓の中へ投げ入れました。自分が食べる分のパンを私のためにくれたのです。これでエトガルは今日一日何も食べる物がありません。
「もらってもいいの?」
    するとエトガルはいいました。
「マックス、早く元気になって! 明日またくるね!」
    エトガルはくるたびにパンを投げ入れてくれました。そのおかげで私は生きていられたのです。
    二週間ぐらいたったでしょうか。「99728番。もとのバラックへもどれ!」
     と医者はいいました。
    階段を下りて病棟の入り口を出ると、エトガルが私を待っていました。弟は無言で、やせ細った私の体をそっと抱きしめました。
    骨が軋む音をたててこすれ、目から大粒の涙があふれ出そうです。もし涙が出ていたら、きっと目玉も涙と一緒に流れ落ちてしまったことでしょう。
    でも、恥ずかしいから、エトガルも私も、涙を見せないようにしました。
     ふたつのガイコツが抱き合った姿は、骨と骨がひとつに重なり合って一体のガイコツのように見えたことでしょう。
    私は、このとき私を支えてくれる力が存在しているから生き延びたいと思いました。その力は弟がいてくれることなんです。 でも、ほかの収容者たちを支えてくれるものとは一体なんでしょうか? 《神様?》神様はもうとっくに消えてしまいました。もし神様がいるなら、こんなことは起きないはずですから。
《もしこれが試練というなら、なんのための試練なの? どうしてこんなに死人が必要なの? なぜ?》


    魔法のトランク


    退院すると、さっそくルーディが私に声をかけてくれました。
「やあ、マックス、元気になったかい?」
    プラハ出身のルーディ・ミュラーとは大の仲良しです。以前同じバラックで寝起きし、同じ班に属していました。
    ルーディは、その頃、空のトランクを選り分ける作業に従事していました。積まれたトランクの山からまだ使える物を選び出す作業です。
    毎日、大勢のユダヤ人が移送されてきたので、彼の目の前にはいつもトランクの山ができます。ルーディは、くる日もくる日もその前に座って、何も入っていないトランクを手に取っては、人に話すようにトランクに語りかけていました。
「ねぇ、赤いトランク君。君はどこからきたの?」
「ぼくはプラハからきたんだよ」
    何も入っていなくても、思い出がたくさん詰まったトランクたちです。 トランクを開けると、たくさんの思い出が小鳥のように空へ飛んでいきました。 でも、思い出の小鳥たちは永遠に戻ってこないでしょう。

    そんなあるとき、ルーディは、トランクの中にある物を見つけました。そして、それをずっと大切に持っていました。
「マックス。実は君にプレゼントがあるんだ。君に会ったら渡そうと思ってね」
    そのとき、カポが私たちが話しているのに気がつき、ルーディを同じ作業班に入れてくれました。
    夜になってから私はバラックの中で、「何を持っているの?」とルーディに聞きました。
    ルーディは私に一枚の写真を手渡しました。
私はその写真を見て、驚いて声を出すことすらできません。なんとその写真は、私たちの家族写真だったのです!
「マックス。空のトランクの中に君たちの写真があったんだよ」
たまたまルーディが手に取ったトランクが私たちのトランクだったなんて、本当に奇跡のようです。
 思い出の小鳥は飛んでいってしまう前に、私とエトガルのために一枚の写真を残しておいてくれたのです。本当に魔法のランプのようです。いや、魔法のトランクかな?
 私たちは、みんな失いました。故郷も帰る家もありません。父も母もいません。私たちのトランクの中にあった物も、みんな抜き取られてしまいました。 でも、たった一枚、写真が残っていました。他人には価値がない物だから取られなかったのでしょう。でも、私たちにはとても大切な宝物です。 たった一枚の写真でも!
 私は写真をふたつに折って、ベルトの間へ差し込みました。
《ぼくたち家族は、いつも一緒だよ》

(p114)

 

著者のマックス・マンハイマーさんはチェコスロヴァキア生まれのユダヤ人で、1943年、23歳の時にアウシュヴィッツ強制収容所に移送されています。

アウシュヴィッツで2度手術を受けて無事だったこともすごいですが、同年に労働用ユダヤ人としてワルシャワに移送され、翌年はダッハウ強制収容所に移送されているので、3度も囚人番号を付けられていることに驚きました。

 

弟のエトガルさん以外の家族は全員が収容所で亡くなっていますが、お互いの存在が生き延びるための原動力として強く作用したことは随処でうかがえます。

前述の記載にあるように、慣れない仕事のコツを教えてもらったり、食べ物を融通し合ったり、また違う収容所へ送られる際も、兄弟が離れ離れにならないよう根回ししたりしています。

 

そして何気なく載っているような表紙の家族写真が、こんなに大きな意味を持つものだったとは。

 

 自由へ通じる扉

 

 その後も移送は続きました。
 そして、一九四五年四月三〇日のことです。
 突然列車は駅でもないところに停車しました。貨車の板の隙間から外をのぞいてみると、遠くに機械化部隊の長い車列が見えました。
 護送兵はいつの間にかひとりも残らず消えています。私たちは貨車の扉を恐る恐る自分たちの手で開けてみました。
 ガラガラッ、ガラッと扉の開く音とともに明るい外の景色がとび込んできました。
《あっ、あれはアメリカ軍だ!》
 なんと、二、三〇〇メートル先にアメリカ軍が駐留しているではないですか!
 このとき、私たちの【自由を遮断していた扉】が【自由へ通ずる扉】となったのです。
《ぼくたちは今度こそ、本当に自由だ!》
 私たちは、最初、この本物の現実をなかなか理解できませんでした。
《本当なの? 夢?》
 私は衰弱しきっていましたので、ひとりで貨車を降りることができません。

 エトガルの肩をかりて自由への第一歩を踏み出しました。
 列車の脇には、臨時の野外診療所が設営されていて、 ふたりの衛生兵が病人たちを迎え入れていました。
 ガイコツたちは軍用の簡易寝台に寝かされて、体をふいてもらってから強壮剤を打たれました。衰弱がひどい者は、病院へ搬送されました。
 こうして私たちはまた人間として扱われるようになったのです。
 今度こそ私たちは、死の恐怖におびえることなく、病院へいくことができるのです。
 これで、やっと自由になれたのです。
 私は、この日のことを忘れることはできません。
 私もエトガルも生き残ることができました。
 でも、いまだに存在すら知られずにアウシュヴィッツダッハウに眠っているたくさんの人々がいます。
 戦後、私はこの恐ろしい体験を忘れようと努力しました。
 政治家のお手伝いをしたり、絵を描いたりして。
 そして私たちを虐待した恐ろしい国、ドイツへは二度と足を踏み入れないぞ!と心に決めていました。
 でも、この悪夢から逃れることはできませんでした。私の心は相変わらず収容所にとらわれたままだったのです。
 それで私は決心しました。
《この事実を伝えなければいけない》
 そして、今度は自らの意志で、私が入れられていた収容所のひとつ、ダッハウ強制収容所へ戻ったのです。
 ここを訪れる多くの人々に私の体験を伝えるために......。
 私は、今、ミュンヘン近郊の小さな町に住んでいます。
 ここはダッハウにとても近いのです。
 私は、命の続く限り、ここを離れることはないでしょう。
(p156)

 

一九四五年一月一六日にアウシュヴィッツの撤収が決定し、一月二七日、ソ連軍によってこの収容所は解放されました。

マンハイマーさんが自由になったその日(四月三〇日)に、ヒトラーが自殺しているのが不思議な感じもします。

 

辛い思いをした記憶ばかりの国にわざわざ戻るという選択を、自分だったらするだろうかと考えてしまいました。ましてや、著者にとっては生まれ育った国でもないわけです。それでも、ドイツの強制収容所近くに居を構えたのには、強い思いがあったからだということが、あとがきから分かります。

 

 

 日本の読者のみなさんへ


 みなさんが私の体験談 (原題 Max Mannheimer : Spätes Tagebuch. Theresienstadt-Auschwitz-Warschau-Dachau. Zürich, 9. Auflage 2007) を手に取りお読みになると、数十年も前の時代へタイムスリップしたかのように思われるでしょう。 こんなに長い時間的な隔たりがあるにせよ、私は八八歳になった今でもすべてのことを鮮明に記憶しています。 二二年以上も前から私は、ドイツの学校で、青少年を前に数多くの講演を行ってきました。 それは独裁政治がどんなに恐ろしいものなのか知ってもらうためなのです。
 私はこの講演で、「ドイツ人だからという理由で負うべき罪はありませんし、罪自体が次の世代へ相続されるものでもありません。 起きてしまったことには、若い人たちに何の責任もないのです」と話しています。でも私は、「同じ事を二度とくり返してはならない、ということには責任があるんだよ」 (Ihr seid nicht verantwortlich für das, was geschah.  Aber dass es nicht wieder geschieht, dafür schon.) と最後につけ加えて います。 これが、私がもっとも伝えたいことなのです。
 残念なことですが、戦後五〇年で一区切りついたのだからホロコースト(大量殺戮)の時代への関心はもう過去のものだ、と思う人がたくさんいます。でも実情は、それとはまったく正反対です。 民主主義の中で育ってきたドイツやオーストリアの子供たちは、自分たちの先祖がどうしてそんなひどいことをすることができたのか、理解することができないのです。
 私は、アウシュヴィッツガス室で家族六人を亡くしました。 その体験が、戦後、故郷のチェコスロヴァキアへ戻った私をして二度とドイツへは足を踏み入れないぞ、と決心させた理由でした。

 そんなあるとき、私は、ひとりのドイツ人女性と出会いました。彼女は戦争中、故国ドイツにとどまり抵抗運動に身を捧げていたのです。彼女は「ドイツは将来きっとすばらしい民主国家になる」と私にいいました。実際ドイツにはユダヤ人をかくまった勇気ある人たちがいたのも事実です。私は、彼女に心惹かれ、彼女とともに再びドイツへ戻ることを決心したのです。
(p165)

 

物語全般を通して、やさしい語り口でつづられていて、穏やかな文章からマンハイマーさんが若い人たちに伝えるべく努力を重ねて過ごしてこられたことが伝わってきます。

父親との別離のシーンも、さらっと書いてあるので、読んでいる方は結構衝撃を受けました。

そして日記のように日付もかなり克明に記されているのがすごい。

 

「起きてしまったことには、若い人たちに何の責任もないのです」

でも「同じ事を二度とくり返してはならない、ということには責任がある」。

この言葉が強く印象に残りました。

「自分たちの先祖がどうしてそんなひどいことをすることができたのか、理解することができないのです。」という意見も、歴史から学ばずにいる姿勢を正されるような気持ちになりました。

 

思い出すのも痛みを伴う作業であったことは想像に難くないのに、それでもドイツに戻って講演をするということは、誰もが出来ることではないと思います。

他者を許容する気持ちが無いままでは、自分を癒すことはできないということなんだろうか、と考えさせられました。

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。