ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』

おはようございます、ゆまコロです。

 

石牟礼道子苦海浄土 わが水俣病』を読みました。

TVで石牟礼道子さんのインタビュー映像が流れた時、母が「この本良かったよ」と言ったので、手に取りました。

 

水俣病については、小学生の時、授業でビデオを見ました。猫がトランポリンの上で跳ねるみたいに飛んでいて、怖い病気だと思った覚えがあります。

 

恐ろしい公害の渦中にいる人々の話なのに、海への思慕が散りばめられた文章が不思議な感じです。

筆者が水俣病の患者さんとお話している様子が、臨場感を持って伝わってきます。

 

印象深いのが、こちらの女性のお話でした。

 

「晩にいちばん想うことは、やっぱり海の上のことじゃった。海の上はいちばんよかった。

 春から夏になれば海の中にもいろいろ花の咲く。うちたちの海はどんなにきれいかりよったな。(中略)

 

 海の底の景色も陸(おか)の上とおんなじに、春も秋も夏も冬もあっとばい。うちゃ、きっと海の底には龍宮のあるとおもうとる。夢んごてうつくしかもね。海に飽くちゅうこた、決してなかりよった。

 どのようにこまんか島でも、島の根つけに岩の中から清水の湧く割れ目の必ずある。そのような真水と、海のつよい潮のまじる所の岩に、うつくしかあをさの、春にさきがけて付く。磯の香りのなかでも、春の色濃くなったあをさが、岩の上で、潮の干いたあとの陽にあぶられる匂いは、ほんになつかしか。

 そんな日なたくさいあをさを、ぱりぱり剝(は)いで、あをさの下についとる牡蠣を剝いで帰って、そのようなだしで、うすい醤油の、熱いおつゆば吸うてごらんよ。都の衆たちにゃとてもわからん栄華ばい。あをさの汁をふうふういうて、舌をやくごとすすらんことには春はこん。

 

 自分の体に二本の足がちゃんとついて、その二本の足でちゃんと体を支えて踏んばって立って、自分の体に二本の腕のついとって、その自分の腕で櫓を漕いで、あをさをとりに行こうごたるばい。うちゃ泣こうごたる。もういっぺん―行こうごたる、海に。」(p167)

 

この激しい重篤な奇病が蔓延する中、原因が突き止められ、対策が講じられ、罹患した 人とその家族に補償が支払われるまでの、長い時間に胸が苦しくなってきます。

 

ある患者の、補償交渉に対する発言が重く響きます。

 

「「銭は一銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順々に、水銀母液ば飲んでもらおう。(四十三年五月にいたり、チッソアセトアルデヒド生産を中止、それに伴う有機水銀廃液百トンを韓国に輸出しようとして、ドラムカンにつめたところを第一組合にキャッチされ、ストップをかけられた。以後第一組合の監視のもとに、その罪業の象徴として存在しているドラムカンの有機水銀母液を指す)上から順々に、四十二人死んでもらう。奥さんがたにも飲んでもらう。胎児性の生まれるように。そのあと順々に六十九人、水俣病になってもらう。あと百人ぐらい潜在患者になってもらう。それでよか」

 もはやそれは、死霊あるいは生霊たちの言葉というべきである。」(p356)

 

解説にもあるように、この経験を生かすために、どうして水俣病が起こり、被害が拡大して、救済が遅れたのか、きちんと考えるべきだと思いました。

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。

 

新装版 苦海浄土 (講談社文庫)

新装版 苦海浄土 (講談社文庫)