ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

子どもの成長に胸震える瞬間。『サンセット・パーク』を読んで

こんにちは、ゆまコロです。

 

ポール・オースター柴田元幸(訳)『サンセット・パーク』を読みました。

 

シェアハウスで共同生活をする若者たちそれぞれの物語なのですが、視点が変わるごとに、それぞれが抱える問題と、各人とのつながりが明らかになる手法が面白いです。

 

  ひょっとして自分にも未来のようなものがあるかもしれない、そう思えてきた。妹の夫の義兄が経営しているブルックリンの不動産会社での仕事に誘ってもらって、やっと両親のアパートメントを出て一人暮らしを始めた。向かない仕事だとはわかっていた。毎日多くの人と話さないといけないのは、神経に堪える容赦ない試練になりかねないと承知していたが、それでも引き受けることにした。とにかく出ていかないと、両親のつねに心配そうな目から逃れないと。そしてこれが唯一のチャンスなのだ。

 

  それが五年前のことだった。そしていま、家の玄関ポーチでコートにくるまって立ち、朝のコーヒーを飲みながら、また一からやり直さないと、と彼女は思う。二か月前に、ミリーの言葉を聞くのはむろん辛かった。ドローイングも油絵も乱暴に、残酷に切り捨てられたけど、すべて正当な批判だった。彼女の絵は誰にも語りかけない。自分に技術がないわけではないこと、才能さえないわけではないことはわかっていたが、たったひとつの観念を追求することで袋小路に入り込んでしまったのであり、その観念は彼女が成し遂げようとしていることの重さに耐えるほど強くはないのだ。彼女としては、タッチの繊細さが導き手となってくれて、かつてモランディが達した崇高にして厳粛な境地にたどり着ければと思っていた。純粋なモノ性の音なき驚異を、モノとモノとのあいだの空間に息づく聖なる霊気を、彼女は作り上げたかった。いまこの家にいて、見えない墓場が、目には見えなくとも前に広がっているのがわかるのと同じく、彼女は人間存在を、外に、人間の彼方に、周りに広がっているものすべての緻密な表現に変換しようとしたのだ。だが、モノに信頼を、モノだけに信頼を注ぎ込んだのは間違いだった。無数の建物を彼女はスケッチし、絵の具で描いてきた。人のいない空っぽの街路を、ガレージやガソリンスタンドや工場を、橋や高架のハイウェイを、薄暗いニューヨークの光を浴びてほのめく古い倉庫の赤煉瓦を。自分ではただ、自分の気持ちを絵にしたかっただけなのに、出来上がったものは臆病な逃避に、空虚なスタイル練習にしか見えない。ふたたび一からやり直さない限り希望はないだろう。命ない物体はもうやめだ、と彼女は自分に言い聞かせる。静物画はもうなし。人物に戻って、筆遣いがもっと大胆に、もっと表現豊かになるよう強いるのだ。もっと雄弁に、必要とあらばもっと狂おしくーーー彼女のなかにある最高に狂おしい思いに負けず狂おしく。

 

 モデルになってくれるようアリスに頼もう。

(p102)

 

シェアハウスの住人の中で、一番好きなのはこの画家志望のエレンです。

モランディみたいな絵を描いたら、それは逃避にしか見えなかった、という自己評価が厳しくも、真剣みが伝わってきて好感が持てます。

紹介してもらった仕事が自分に向いていなくて、それでもお金のために神経をすり減らしながら働いているところに、無性にエールを送りたくなってしまいます。

 

レンゾーがまだ若い、大学を出たての若い書き手だったころをモリスは思い出す。彼が住んでいた、ロウアー・イーストサイドにあった月四十九ドルのアパートは、ウナギの寝床式の、台所に風呂桶がある、すべての食器棚で六千匹のG(怖いので伏せます。ゆまコロ注)が政治集会を開いている住まいで、おそろしく貧しかったレンゾーは食事も一日一度に限定し、そうやって三年かけて最初の長編小説を書き上げたのに、出来が不十分だからといって破棄してしまったーーーモリスはよせと言い、レンゾーの恋人もよせと言い、実際二人ともとてもいい小説だと思ったのだが……それがいまやどうだ、とモリスは思う、あの原稿を燃やしてから何冊本が出たことか(十七?二十?)、それらが世界中の国々で、何とイランでも出版され、授与された文学賞は数知れず、勲章、名誉市民の鍵、名誉博士号、彼の著作をめぐって書かれた書物や論文、だがそのどれひとつとしていまのレンゾーには意味がない、それなりに金があるのは嬉しいし、若いころの息が詰まりそうな苦況がなくなったのは有難いが、名声には何の感慨もないしいわゆる公的人物としての自分に対する興味はいっさい失くしてしまった。僕はただ消えたいんだ、あるとき彼はモリスに、おそろしく低い声で呟いたことがある。痛みの表情が浮かぶ目でぼんやり前を見て、まるで自分に向かって話しているみたいだった。僕はただ消えたいんだ。

 

 スープとサンドイッチを注文し、ラテン系のウェイターがメニューを持って立ち去ると(ユダヤ系レストランのラテン系のウェイター、というのが彼らは気に入る)、二人は葬儀の話を始め、コミュニティセンターの講堂でついさっき目撃した情景の印象を伝えあう。レンゾーはスキが小さかったころ一度会っただけで、彼女のことは知らなかったが、ロススタインのスピーチが力強いものであったという点はモリスと同意見である。最悪のプレッシャーの下で書かれたことを思えばほとんどありえない力強さだよ、とレンゾーは言った。たいていの人間は、ただの一言でも書く力が出ないだろうし、ましてやさっきのような情熱的で、複雑で、明敏な追悼文など書けるはずがない、と。レンゾーは言った。レンゾーには子供がいない。元妻は二人いるが子供は一人もいない。そしてモリスは、マーティとニーナがいま味わっている苦しみを想い、自分とウィラがこれまでーーーまずはボビーゆえ、やがてはマイルズゆえにーーー味わってきた苦しみを想うと、ほとんど妬みに近いものを感じる。何十年も前にレンゾーが、子育て業には近よらないと決めたのは正解だったのだ。父親である身から避けがたく生じる厄介と悲惨を避けたのは正解だったのだとモリスは思う。レンゾーがいまにもボビーのことを口にするものと彼はなかば覚悟している。並行関係はこれ以上はないというくらい明白だし、この葬儀がモリスにとってどれだけ辛いものだったかレンゾーが理解していないはずはない。が、まさに理解しているからこそ、レンゾーは何も言わない。そうするにはあまりに思慮深く、モリスの痛みに踏み込むにはモリスが何を考えているかあまりによくわかっているからだ。そして、自分の問題に友がずかずか入り込んでくる気がないことをモリス自身が理解した数秒後に、レンゾーが話題を変える。

(p130)

 

モリスは長男ボビーを事故で亡くし、次男マイルズは大学生のとき失踪して、何年も会っていません。

子どものいない友人レンゾーのことを考えると同時に、自分の息子たちの話題になるのではないか、とモリスは恐れているのですが、レンゾーはあえてその話題に触れない。この、おそらくほんのちょっとであろう時間の中でのモリスの心の動きと、そんな彼の心中を察するレンゾーの配慮がいいなと思いました。

 

モリスが長い人生を生きてきたなかで悔やまれることはたくさんあるが、悲しい気持ちがずっと残っているのは、彼の父親が孫を知るほど長生きできなかったことだ。もしもっと長く生きて、孫が十代になっても奇跡的にまだこの世にとどまっていたら、マイルズのピッチングを見るという幸福が生じただろう。若かったころの自分の右投げバージョンを祖父は見て、正しい投げ方を息子に教え込もうとさんざん費やした時間が無駄ではなかったことをこの目で確かめただろう。モリス自身は大してものにならなかったが、父の教えを自分の息子に伝えはしたのであり、高校二年の終わりにやめるまで、マイルズは有望なーーーいや、有望どころではない、大成間違いなしのーーー投手だったのだ。投手は彼にとって理想的なポジションだった。一人敢然と内野の真ん中に立ち、意志を集中させてゲーム全体を背負う一匹狼。当時は球種といっても直球とチェンジアップしかなく、二種の投げ方を追究してはてしない練習を重ねた。滑らかな動き、毎回同じ角度で腕が飛び出し、弧を描いた右脚が投球の瞬間までピッチャーズプレートを押す。カーブやスライダーはまだ投げなかった。十六歳はまだまだ成長の途中であり、よい変化球をくり出すのに必要な不自然なひねりは若い腕を駄目にしてしまいかねないのだ。むろんモリスはがっかりしたが、野球をやめたことでマイルズを責めはしなかった。ボビーが死んで自分は生きていることから生じる、罪悪感に貫かれた悲しみは、なんらかの犠牲を強いるものであって、ゆえにマイルズは人生のその時点で自分が何より愛するものを捨てたのだ。が、意志の力で何かをやめることと、心の奥でそれを放棄することとは違う。四年前、また新たに手紙が(今回はカリフォルニア州オールバニー、バークリーのすぐ外から)来たと知らせる電話をビングがくれたとき、マイルズがベイエリアのアマチュアリーグでピッチャーをやっているという報告を聞いたのだ。かつて大学でプレーしていた、力が足りなかったかその気がなかったかでプロにはならなかった連中と真剣に競いあい、本人の言によれば、互角以上、二勝一敗のペースで投げていて、カーブの投げ方もついに覚えたという。今月の後半にサンフランシスコ・ジャイアンツが誰でも参加自由の入団テストを行うことになっていて、チームメイトたちからは、お前行けよ、二十四だなんて言わないで十九だって言えばいい、と勧められていたが、マイルズとしては行く気はなかった。マイナーリーグの底辺でプレーする契約書にサインする?ありえないね。

 

 缶男は考え、思い出し、ここで息子と朝食を食べた数えきれないほどの土曜の朝を一つひとつ反芻している。そしていま、片腕を上げて勘定書を頼み、冷たい外気のなかへふたたび踏み出す寸前、もう何年も頭に浮かばなかった一瞬に彼は行きあたる。発掘された破片、ポケットに入れて持ち帰るべききらきら光るガラスのかけら。マイルズは十か十一だった。それはボビーが一緒に来なくなって間もないころで、父と子は二人きりでブースに向かい合って座っていたが、それがひょっとしてこのブースだったか、別のブースだったかはもう思い出せない。五年生か六年生だったマイルズは、授業のために書いた読書感想文を持ってきていた。いや、いわゆる感想文ではなく、六、七百語の短いレポート、課題に出された本の分析である。それまで何週間か、クラスでその本を読み、話しあった末に、読み終えた小説の解釈を一人ひとりが提出するのだ。『アラバマ物語』。温かい本だ、この歳の子供にはぴったりだ、とモリスは思った。そして息子は彼に、書いたものを読んでくれと頼んだのだった。バックパックから三枚、四枚の紙を取り出すその顔がひどく緊張して見えたことを缶男は思い出す。自分の書いた文章に父が審判を下すのをマイルズは待っていた。生まれて初めての文芸批評の試み、初の大人の課題。少年の目に浮かんだ表情から、どれだけ多くの労力と思考がこのささやかな作品に注ぎ込まれたかを父親は理解した。それは傷をめぐる考察だった。少年は書いていた。二人の子の父親である弁護士は片目が見えないし、彼が弁護を担当する強姦の罪を着せられた黒人は片腕が萎えていて、物語後半で弁護士の息子が木から落ちると片腕が、無実の黒人の萎えた腕と同じ方がーーー左か右か缶男にはもはや思い出せないがーーー折れてしまう。こうした一連のことから言えるのは、傷とは人生の本質的な要素であって、何らかの形で傷を負うまで人は大人になれないということだ、と若きマイルズは論じていた。父親は驚いた。十歳、十一歳の子供がどうしてここまで丁寧に本を読めるのか。物語内の、たがいに異質で、特に強調もされていない要素同士をつなぎ合わせて、数百ページのなかでパターンが出来上がっていくのをどうして見てとれるのか。反復された音色をマイルズは聴きとっていた。本全体を形成するフーガやカデンツァの渦に埋もれて容易に聞き逃されてしまう音を、小説のごく小さな細部に、かくも入念に注意を払う知力に父は感じ入ると同時に、かくも深遠な結論を導き出した心にも感じ入った。傷を負うまで人は大人になれない。すごくよく書けているよ、とモリスは息子に告げた。君の二倍、三倍の年齢の読者だって、大半はこの半分もいいものを書けやしない。大きな魂の持ち主でなければ、こういうふうにこの本について考えることはできないよ。とても心を動かされたよ、と十七、十八年前あの朝モリスは息子に言ったのであり、そして実のところいまも、その短いレポートで表現されていた思考に心を動かされている。レジ係から釣り銭を受け取り、寒い街に歩み出ても、依然そうした思いにふけっている。

(p162)

 

すごく好きな回想シーンです。

この話中に登場する、やけに具体的なレポートは、オースター自身が子供時代に書いたものなのかな、と思っていたのですが、オースターの娘ソフィーさんが六年生の時に書いたレポートなのだそうです。

著者オースターが子供の書いたレポートに衝撃を受けた様子が、モリスの自分の息子を褒める言葉からありありと伝わってくるようで、胸が熱くなりました。

 

真っ先に水から出たビングが池のほとりに立つと、ほか四人が二人ずつに分かれているのが見えた。カップル二組が胸まで水に浸(つか)り、どちらのカップルも抱き合っていた。そして、マイルズとアニーがたがいの体に腕を回し、口と口をしっかり重ねて長々とキスをするのを眺めているうちに、何とも不思議な気持ち、まったくの不意打ちのような思いがビングの胸に湧いてきた。アニーは誰の目から見ても美人であり、いままでビングが見たなかでも最高級の美女と言っていい。だとすれば、理屈から言って自分は、あんなに綺麗な女の子を両腕に抱いているマイルズに---あれほど魅力的な女性の愛情を勝ちとる魅力を備えているマイルズに---嫉妬するのが筋だろう。ところが、水の中でキスしている二人を見ていると、自分が感じている嫉妬がマイルズではなくアニーに向けられていること、自分がアニーの立場になれてマイルズとキスできたらと願っていることをビングは悟った。次の瞬間、二人は池のほとりに向かって、ビングのいるところに向かってまっすぐ歩きはじめ、マイルズが水から出てくると、その身が勃起しているのが見えた。その大きく完全な勃起を、硬くなったペニスを見て、まったく思ってもみなかった興奮をビングは覚え、マイルズが陸に揚がる前に彼自身も勃起していた。あまりに戸惑う展開ゆえに、ビングは池のなかに駆け戻り、気まずさを隠そうと水中に潜った。

 

  何年ものあいだ、その夜の記憶を彼は抑圧し、想像のもっとも暗く私的な領域においてすら一度も考えなかったが、こうしてマイルズが戻ってくると、マイルズとともに記憶も戻ってきて、この一か月というものビングは毎日あのシーンを五回、十回と脳内でリプレーし、いまではもう自分が誰であり何者であるかもわからなくなってしまった。十一年前に月光の下でつかの間見た、あの硬くなった男根に示した反応は、自分は女より男を好むという意味、女性の体より男性の体に惹かれるという意味なのだろうか?もしそうだとしたら、長年にわたり女性を口説いてとことん上手く行かなかったのもそれが原因なのか?わからない。唯一確実に言えるのは、自分がマイルズに惹かれていること、現在マイルズと一緒にいるたびに---つまり頻繁に---マイルズの体について考えあの勃起した男根について考えてしまうこと、マイルズと一緒にいないときは---つまりもっと頻繁に---マイルズの体に触れたら、あの硬くなった男根に触れたら、と考えてしまうということだ。だがむろん、こうした欲望に則って行動するのは重大な過ちであり、とてつもなく恐ろしい事態を招くだろう。マイルズは男との結合になど興味はない。ビングがそんな可能性をほのめかしただけ、考えていることを一言でもささやいただけで友情は失われてしまうだろう。それは絶対に避けたい。

 

  マイルズは手出し禁止である。女たちの世界へ無期限に貸し出されているのだ。

(p216)

 

ここでやっと、マイルズの親友ビングが、マイルズの父親モリスに非常に協力的な理由が明かされます。ビング自身もマイルズと再会できて嬉しいはずなのに、苦しみが増幅してしまったようで、こちらも辛くなってきます。

しかしもちろん、書いているのはオースターですから、苦難はこんなもんじゃ終わりません。

 

五時半まで二人でみっちり作業した時点で、母親にもう一度電話したいとマイルズが言うので、ビングはプライバシーを尊重し、通りを行った先の酒場に退散する。十五分後、マイルズが酒場に入ってきて、明日の夜母親と会って夕食を共にすることにしたと告げる。ビングとしては山ほど質問があるが、ひとつ訊くだけにとどめる。お母さん、どう反応した?すごくいい感じだったよ、マイルズは答える。僕のことをやくざなろくでなし、ド阿呆、腐りきった卑怯者と罵って、でもそれから泣き出して、僕も一緒に泣き出したら、そのあとは温かい、情のこもった声になって、勿体ないくらい優しく話してくれて、僕もとにかく何年ぶりかで母親の声を聞いて、もう感極まってしまいそうだったよ。自分がやったことすべてを悔やんでいるとマイルズは言う。僕ほど馬鹿な奴はこの世にいないと思うと彼は言う。この世に正義というものが少しでもあるなら、僕は外へ連れ出されて銃殺されるべきなんだ、と。

 

  こんなにおろおろしているマイルズをビングは見たことがない。少しのあいだ、マイルズがいまにもわあわあ泣き出すんじゃないかと彼は思う。もうマイルズに触らないという誓いも忘れて、ビングは友の体に両腕を回し、ぎゅっと抱きしめる。元気出せよド阿呆、と彼は言う。少なくともお前は自分ほどの馬鹿はこの世にいないってわかってる。それを認めるだけの知恵がある人間ってどれくらいいる?

 

 二人はバスに乗ってサンセット・パークに帰り、六時半の二、三分前、マイルズがアリスとキッチンで落ち合う約束の二、三分前に家のなかへ入っていく。

(p219)

 

このビングの心中を考えると、複雑な気持ちなのは十分分かるのですが、この慰めになっているんだかなっていないんだか、なセリフが可愛くて、不謹慎にも萌えてしまいました。

 

ところで、ゆまコロは読んだ本にシェイクスピア作品の引用があるとチェックすることにしています。

この本で見つけた、シェイクスピアに関する記述はこちら。

 

 彼女はサミュエル・ベケットの『しあわせな日々』に出演するためにニューヨークに来た。演じる役はウィニー、第一幕では腰まで埋められる女性、そして第二幕では首まで埋められる。彼女がいま抱えている恐ろしい難題は、こうした身動きの取れない状況を一時間半持ちこたえること、六十ページに及ぶ、おおむね姿が見えない哀れなウィリーが時おり口を挟むだけの、独白に等しい演技をやり遂げることである。これまで演じてきた、ノラ、ミス・ジュリー、ブランチ、デスデモーナ(それぞれ『人形の家』『令嬢ジュリー』『欲望という名の電車』『オセロー』の主役級人物)といった役柄をふり返っても、これほど苛酷な役は思いつかない。だが彼女はウィニーを愛していて、この劇にこもった悲哀、喜劇、恐怖の重なりあいに深く感応している。たしかにベケットはおそろしく難解で、思索的で、時には必要以上に不明瞭だが、それでもその言語はこの上なく澄んでいて精緻であり、その単純さにおいて何とも華麗であり、自分の口からその言葉が出てくるのを感じるだけで彼女は肉体的な快感を覚える。ウィニーの長い、たどたどしく取りとめのない話を彼女が発音するなか、舌、口蓋、唇、喉、そのすべてが調和している。やっと全文をマスターし記憶したいま、リハーサルの出来も着々とよくなっているし、あと十日で試演が始まるころには、思いどおりの演技ができるんじゃないかと思っている。トニー・ギルバートにはずいぶん辛く当たられている。若い演出家に演技を止められ、しぐさが違う、フレーズのあいだの間(ま)が足りない、などと指摘されるたびに、ニューヨークへ来てウィニーを演じてほしいとこの人は私に頼み込んだのだ、この役をあなた以上に演じられる女優はいないと何度も何度も言ったのだ、と考えて彼女は自分を慰める。たしかに辛く当たられてはいる。でもこの劇を演じるのがそもそも辛いのであって、だからこそこれほど頑張って、体型が滅茶苦茶になることも辞さず、ウィニーになるため、ウィニーのなかに棲むために必要と思えた余分の十キロを身につけたのであり(五十歳ぐらい、まだ色香が残っている、できれば金髪、小太り、腕と肩をむき出しにし、胸を大きくあけたブラウス、豊満な乳房……)、準備もしっかり怠らずベケット作品を通読し、初演時の演出家アラン・シュナイダーとの書簡も熟読して、いまやバンパーとはなみなみと注がれたグラスでありバストとは庭師が使う繊維状の撚り糸であることも知っているし、第二幕のはじめでウィニーが口にする栄えあれ、聖き光よが『失楽園』第三巻からの引用で、ブナの緑陰がキーツの「ナイチンゲールへの歌」から、夜明けの鳥が『ハムレット』から来ていることも知っている。この劇の舞台はどういう世界なのか、彼女にははっきりわかったためしがない。闇のない世界、熱く終わりのない光の世界、可能性が縮んでいく一方であり動きが減じていく一方である煉獄的でおそらくは人類がすでに滅びた荒野。だが彼女はまた、この世界は彼女が演じる舞台そのものではないかとも思っている。ウィニーは基本的に一人きりでそこにいて、なかば独り言、なかばウィニー一人に語りかけているとしても、自分が他人の前にいることも彼女は感じている。目の前の闇のなかに観客がいることを意識している。誰かがまだわたしを見てるわ。まだわたしを思ってくれてる。

(P166)

 

物語のラストは案の定というか、いつもより少々手厳しいというか、オースターらしい結末が待っています。ただいつも以上に、各個人がどんな思惑で、どんな悩みを抱えているのかに寄り添った書かれ方をしていて、読み手もすごくキャラクターに歩み寄りのしやすい話だと思いました。

 

文庫になった際にまた楽しみたいです。

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。