ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

杉田俊介『安彦良和の戦争と平和 ガンダム、マンガ、日本』

おはようございます、ゆまコロです。

 

杉田俊介安彦良和戦争と平和  ガンダム、マンガ、日本』を読みました。

 

本書は、アニメ監督・漫画家の安彦良和さんのこれまでの作品について、批評家の杉田俊介さんが対談と解説を交えながら、戦争と日本人について考察しています。

 

機動戦士ガンダム』の展開について、お二人の意見が分かれているこの2つの論点が興味深いです。

 

 

●母親との再会を果たすが…

 

杉田:  『機動戦士ガンダム』の第13話「再会、母よ…」では、アムロが地球に留まっていた母親に会いに行きます。僕の印象では、アムロの母親は今の言葉で言うとサイコパスというか、まったく意味不明でした。自ら育児放棄している、少なくとも自分の意思で息子から離れたのに、敵兵を撃ったアムロに対して「お前をこんな風に育てた覚えはないよ、昔に戻っておくれ」「男手で育てたからかしら」と泣きながら責めるわけです。それは人格的に壊れた感じがして、すごく不気味でした。裏設定というか、当時からアムロの母親には愛人というか恋人がいる、という可能性もあるそうですが。

 

   つまり『機動戦士ガンダム』には奇妙に歪んだオイディプス的構造があります  ―父は脳に障害を負って気付かないうちに死んでしまい、母はサイコパス的に息子を責めて見捨てる。それが重要だと思いました。それに対して、『THE  ORIGIN』のその辺りの描写はほとんど『機動戦士ガンダム』のままなんですけど、そんなにサイコパス感がないというか、わりと真っ当な苦悩を抱えたお母さん(愛情ゆえに息子を呪縛する面もありつつ)という印象があります。

 

 

安彦:   いや、そんなこともないでしょう。『機動戦士ガンダム』のあの母親の姿は非常にリアルなものですよ。あの回は非常に大事な回なので、テレビ版でもかなり手を入れたし、『THE ORIGIN』でもすごく慎重にコミカライズした。全然母親を責めていないわけですよ。育児放棄だとも思わない。大事なのは、母親が親権を主張しなかった、ってことなんですよね。父親が連れていくのに対して、「私の子よ」と言わなかった。それはアムロに対して愛情がなかったというよりも、この夫と争ってもダメだって思ったからでしょう。「わたしは行かないよ」っていうのは、父親との愛がもう冷め切ってるということ。とにかく戦災で過酷な状況になっているんだから、少しでも生活力のある、頼り甲斐のある普通の男とくっついて、普通の市民として生き延びていこうとした。

 

 そこに息子がいきなり帰ってきちゃった。やっぱり息子はかわいい。夫が死んでもまあべつに悲しくないし、それはもう仕方ない。ところが、そんなかわいかった息子がいきなり銃で人を撃つ。私が育てなかったからこんなにすさんじゃったのかしらって思う。これは普通の反応ですよ。あのお母さんには責められる点は何もない、と僕は思う。だけど、アムロはそのお母さんとコミュニケーションが取れない。会話が成立しない。そのことがリアルであり、見事なんです。ただ、その見事さをのちに富野さん自身が捨てちゃったんだけどね。『Zガンダム』では象徴的な親殺しを描く。なんでそうなっちゃうの、って思うんだけどね。

 (p58)

 

 

 

もう一つは、友情についてのお話。

 

 

●シャアが演じた芝居

杉田: ホワイトベースが地球に下りてからは、ガルマ・ザビとの戦いが描かれます。もちろん『THE ORIGIN』では、シャアとガルマの学生時代が細かく描写されているので、ガルマの「坊や」としての情けなさも魅力もいっそう際立っている。ガルマがあそこで死んでしまうのは何とも痛ましい。シャアの残酷さも際立ちます。

 

 しかしこのとき、シャアはガルマに対して、彼なりの友情を感じていたのでしょうか。嘘でないとすれば、シャアはガルマの死後、復讐が虚しくなったと言い、それがニュータイプ思想に覚醒する理由の一つにもなっています。また最終局面でキシリアを殺害する直前には、ガルマへの手向けだ、と独り言のように言います。

 

 思えばシャアには、心から気を許せる「友人」がいない。そういう人間です。彼にとって人間関係は「家族関係か、支配関係か」のいずれかになってしまう。これはアムロが案外友人が多いことと、対照的に見えます。アムロがカイに言った「あなたの全部が好きというわけじゃありません。でも今日までいっしょにやってきた仲間じゃないですか」という言葉は、友人の定義だと思うんです。

 

 

安彦: いやいや、シャアが友情なんて抱くわけないですよ!

 それにもかかわらず、ガルマのほうはシャアを親友だと思っているわけです。そこのズレこそが残酷なんですよね。シャアはそんなこと、かけらも思ってないです。シャアは「友達?何それ?」っていうタイプの人間。「友達がほしいけどいない」のではなく、「私に友達?笑わせるな」ってことです。キシリアの前で、ガルマが死んで虚しくなりましたなんて、心にもない方便ですよ。

 

 そこは徹底させなきゃいけない。そうするためにはやっぱり過去編から描かなきゃいけない。無理にそう解釈してるわけじゃないんです。キシリアを殺したことでシャアの復讐が貫徹し、成就した。そのことにもう、シャアの人生の全てが言い尽くされてる。

 最後はおまえで仕上げだ、ということです。「虚しくなりました」とか「手が震えて止まりません」とかいう辺りが、シャアにとっては、いちばんの芝居どころだったんですよね。

(p60)

 

 

安彦さんの俯瞰的な人間関係の見方が面白いです。一度さらっとアニメで観たくらいでは、共感しやすいキャラクターに肩入れするのが関の山で、なかなかここまでは分からないな、と思いました。

 

安彦さんは本の最後にこう締めくくっています。

 

 

ユダヤ教選民思想ナチス・ドイツが唱えたゲルマン民族の優越性など、これは古代からある構造です。自分たちを選民化してしまえば、そうでない人たちへの差別が生まれ、ルサンチマン(被害者意識)が拡大して再生産されます。

 

 ルサンチマンに陥っていく人間の心の在り方、そのような厄介さをたえず抱いてしまう人間の歴史、というのが「ガンダム」のメッセージなのです。そんなものはないのに、「本当のジオニズム」を希求してしまう。あとは果てしなき対立と抗争です。

 

 「ガンダム」のテーマでもある「人と人はわかり合えない」というのは、この世には差別や暴力がある、という無慈悲な現実に等しい。人はわかり合えるはずなのになぜわかり合えないんだろう、人間にとって平和に暮らすのが何よりも望ましいことなのになぜ戦争をしてしまうのか、というのはじつは考え方が逆さまで、人と人はわかり合えなくて当たり前なんです。もちろん、わかり合えないから何をしてもいい、というのもまた危うい。つまり、わかり合えない、というところからはじめて、「でも、わかり合えたらどんなにいいのだろう…」と考えると、相手のいいところが見えてきたりもするわけですね。そうやって友達や恋人も作っていく、それだけでもうめっけもんだ、と思えればいいんです。

(p291)

 

 

この話を受けた杉田さんの、

「たまたま戦争がない、という状態(state)が平和なのではない。国家や思想や宗教の違いを超えて他者とわかり合っていく、という具体的な過程(process)そのものが平和なのだ。」

という言葉も良いです。

 

出雲大社太宰府のお話も面白かったです。

島根に行く際は、菅原道真が受験勉強していた地だという三刀屋へ行ってみようと思いました。

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。