ニジタツ読書

読んだ本の感想です。胸に刺さった言葉をご紹介します。時々美術館のことなども。

ポール・オースター『ブルックリン・フォリーズ』

おはようございます、ゆまコロです。

 

ポール・オースター柴田元幸(訳)『ブルックリン・フォリーズ』を読みました。

 

  その家族ディナーを、私はきわめて暖かい場として記憶している。誰もがグラスを掲げ、トムの成功にお祝いの言葉を述べた。私が彼の歳だったころには、まさに彼が選んだような道を歩みたいと思っていたものだ。彼と同じく、私も大学で英文学を専攻した。そしてさらに、文学を引き続き学ぶか、ジャーナリズムに挑戦するかといった夢をひそかに抱いていたが、私にはそのどちらを追求する勇気もなかった。人生が邪魔に入ったのだー 二年間の兵役、仕事、結婚、家庭を持った責任、より多くの金を稼ぐ必要。自分の思いを打ち出す度胸のない人間をじわじわ引っぱりこむ泥沼だ。それでも、本に対する興味は失わなかった。読書が私の逃げ場、慰め、癒し、わがお気に入りの興奮剤だった。読むことがひたすら楽しいから読み、著者の言葉が頭のなかで鳴り響くときに訪れる快い静けさを求めて読んだ。トムも前々から本へのこうした愛情を共有していたから、私は彼が五歳か六歳のときからはじめて、年に何度か本を送ってやるようにしていた。

(p22)

 

本が好きで本の話ができる人が身近にいるというのは、本好きにとっては幸せなことだと思います。

読んでいて、「人生が邪魔に入ったのだ」の箇所は、人生に邪魔が、の間違いかと思いましたが、本書の通りです。

 

 トムもハリーと話すことを楽しんだ。実に剽軽で率直な人物で、辛口の科白を連発し、途方もない矛盾を平然と抱え込み、次にその口から何が出てくるのか見当のつけようもなかった。見た目には、ニューヨークによくいる、老いかけたゲイというだけに思える。表向きのごてごてした装い― 染めた髪と眉、絹のスカーフ、ヨットクラブ風ブレザー、お姐(ねえ)言葉― もまさにそういう印象を強めるよう計算されていたが、少し人となりを知るようになると、実は鋭敏で挑発的な人物だった。たえず攻め立ててくる様子にはどこか刺激的なところがあって、射るような、突くようなその知性を前にすると、次々浴びせてくる狡猾な、ことさらに個人的な質問に対し、よしこっちも気のきいた答えを返してやろうという気にさせられる。ハリーを相手にしているときは、ただ返事をするだけでは決して十分でない。返す言葉に何らかの火花が、自分が単に人生の道をぼんやり歩んでいる薄のろではないことを証明する熱い泡立ちがなくてはならないのだ。当時のトムには、自分がまさにそういう薄のろと思えていたから、ハリーとの会話で互角を保つにはとりわけ気合いを入れてかかる必要があった。それがまた、彼との対話で一番そそられるところでもあった。もともと速く考えるのは好きだったから、いつもとは全然違う方向に考えを推し進めることも、つねに即応できる態勢を強いられることも気持ちがよかった。(p42)

 

ハリーはトムが出勤前に時間つぶしをしていた古本屋の店主ですが、彼のお店にすごく行ってみたくなります。

 

ネイサン  内なる逃避だよ、ハリー。現実世界がもはや不可能になったときに人間が行く場所だよ。

ハリー  ああ。前にはあたしにもそういうのがあった。誰にでもあるんだと思ってたよ。

トム  そうとは限りません。それなりの想像力が必要だから。それがある人間って、どのくらいいます?

ハリー  (目を閉じて、両の人差指をこめかみに押しあてて)何もかも思い出してきた。ホテル・イグジステンス。あたしはまだ十歳だったけど、そのアイデアが浮かんだ瞬間のこと、その名前を思いついた瞬間のことはいまも覚えてるよ。戦争中で、日曜の午後だった。ラジオがついていて、あたしはバッファローのわが家の居間にいて、『ライフ』に載ったフランスに行ってるアメリカ軍の写真を見てる。ホテルなんて入ったこともなかったけど、母親に連れられて街へ行く途中にいろんなホテルの前をさんざん通ってたから、そこが特別な場所で、日常の汚いもの嫌なものから人を護ってくれる砦だってことはわかってた。<レミントン・アームズ>の前に立ってる青い制服の男たちがあたしは好きだった。<エクセルシオール>の回転ドアの真鍮の把手(とって)の色つやも好きだった。<リッツ>のロビーに下がってる巨大なシャンデリアも好きだった。ホテルの唯一の目的は人を楽しませ、快適にすることであって、ひとたび宿帳にサインして自分の部屋に上がったら、あとはもう、頼めば何でも与えてもらえる。ホテルとはよりよい世界を約束する場だったのよ― 単なる場所以上の場所を、自分の夢のなかに生きるチャンスを。

ネイサン  ホテルってのはそれでわかった。存在(イグジステンス)って言葉はどこで見つけた?

ハリー  その日曜の午後にラジオで聞いたのよ。いい加減に聞き流してるだけだったけど、とにかくその番組で誰かが人間の存在の話をしていて、響きが気に入ったのよ。存在の掟とか、存在のただなかで人が直面する危険とか言ってたよ。存在というのは単なる生よりもっと大きい。すべての人間の生を足した総和であって、たとえあんたがニューヨーク州バッファローに住んでいて家から十キロ以上離れたことがなくても、あんたもそのパズルの一部なんだ。あんたの生がちっぽけであっても同じこと。あんたの身に起きることは、ほかのみんなの身に起きることと同じく重要なだよ。

トム  まだわかりませんね。あなたはホテル・イグジステンスという場所を思いついたわけだけど、それってどこにあるんです?何のためにあるんです?

ハリー  何のため?べつに何のためでもないのさ。それは隠れ家だったんだよ、心のなかで訪ねていける場さ。そういう話じゃなかったのかい?逃避っていう。

(p145)

 

なぜこの場面だけ脚本のようになっているのか、若干気になりますが。

このあとネイサンがとある素敵な場所を偶然訪れ、ここがハリーの言う「ホテル・イグジステンス」的な場所なのではないか?と思うシーンがあります。そこでの日々の描写が素敵なので、ここでご紹介するのは控えます。

 

 愛に関してかくも多くの肯定的展開が見られたいま、われらがブルックリンのささやかな一画にはあまねく幸福が広がったものと読者は思われるかもしれない。ああ、しかし、すべての結婚が生きのびる運命にはない。そのことは周知の事実である。とはいえ、誰が想像できただろう、この数か月間この界隈でもっとも不幸な人物は、トムのかつての憧れの人、美しき完璧な母親であったとは?たしかにプロスペクト公園の林で会ったとき、彼女の夫に私は感心しなかったが、まさか妻の愛情を当然視するほど馬鹿だとは思わなかった。この世にナンシー・マズッケリほどの女性はそうざらにいない。そういう女性の心を勝ちとる幸運に恵まれたなら、以後その男の仕事は、彼女の心を失わぬよう全力を尽くすことである。だが男たちは(この本の各章でこれまで再三示してきたように)馬鹿な生き物であり、美青年ジェームズ・ジョイスは大半の男以上に馬鹿だったのである。(p354)

 

この辺り、オースターの男性に対する悲観的な書き方が面白いです。

ナンシーはどんな姿をしているのだろうと、いろいろ想像しました。本書で最も幸せになってほしいと思った人物です。

 

 四時間ごとに血液検査の結果が出て、いずれもシロだった。午前中にジョイスが来て、トムとハニーが来て、オーロラとナンシーが来たが、みんな数分で帰らされた。午後早くにレイチェルも顔を出した。みんな開口一番、同じことを訊いた― 気分はどう? そして私もつねに同じ答えを返した― 大丈夫、大丈夫、心配しなくていいよ。もうそのころには痛みも消えていたし、ひょっとしたら五体満足でここから出られるかもしれないという思いがだんだん強まっていった。間抜けな冠動脈梗塞で死ぬためにガンを生き延びたんじゃないからね、そう私は言った。馬鹿げた発言と言うほかないが、日が進んでも血液検査の結果が依然シロのままなものだから、今回は見逃してやろうと神が決めたことの論理的証拠として私はその検査結果にすがりはじめた。昨夜の発作は単に、お前の運命は私たちが握っているのだぞという神々の意思表示にすぎないのだ。そう、私はいつの瞬間にも死にうる。そして、そう、リビングルームの床に倒れてジョイスの腕に抱かれていたときはいまにも死ぬものと信じた。死すべき運命とのこうした接触から何か学ぶべきことがあるとすれば、それは、もっとも狭い意味での私の生はもはや私自身のものではないということだ。あの恐ろしい、炎のごとき発作のあいだに体を貫いた痛みを思い出すだけで、いま私の肺を満たしている一息一息が、それら気まぐれな神々からの賜物であることを私は理解できる。これ以降は、心臓の鼓動一つひとつが、恣意的な恩寵を通して私に与えられるのだ。(p440)

 

息をしているのは当たり前ではないという事実が、重みを持って伝わってきます。

 

ところで、最近ゆまコロは本や映画でシェイクスピアの言葉を発見した際に、記録していこうと思いました。(シェイクスピア作品が好きなため。)

今回、本書で見つけたシェイクスピアの言葉はこちら。

 

 プロジェクトを「書」とは呼んだが、実のところ書物なんて代物ではなかった。メモ帳、そこらへんに転がった紙切れ、封筒の裏、クレジットカードや住宅リフォームローンなどのジャンクメール等々、手当たり次第何にでも書く。要するにランダムな書き殴りの集大成、たがいに何の関連もない逸話のごたまぜであり、話がひとつ書きあがるたびに段ボール箱に放り込むのだ。狂気ではあれ筋は通っている、とはハムレットについての言葉だが、私の狂気にはほとんど何の筋も通っていなかった。

(p12)

 

上記の出典はこちらです。

 

ハムレット  なか?誰と誰とのなかだ?

ポローニアス  その、いまお読みになっておられる本の、中味のことをおうかがいしておりますので。

ハムレット  (ポローニアスにのしかかるようにする。ポローニアス、たじたじとして退く)悪口だ。こいつ、なかなか辛辣な男で、こう書いている。老人とは白きひげあるものの謂(い)いにして、顔中しわだらけ、眼より濃き琥珀色の松脂流出し、頭脳の退化はなはだしく、あわせて膝関節にいちじるしき衰弱を示す― 一々ごもっとも、まさにそのとおり、それにしても、こう身も蓋もなく書いてしまっては、徳義に反するというもの、そうではないか、お前にしても、このハムレットとおない年くらいにはなれようかもしれぬ…もし、蟹のようにうしろむきに這うことができればな。(ふたたび本を読みはじめる)

ポローニアス  狂気とはいえ、ちゃんと筋がとおっておるわい。ええ、ハムレット様、外気はお体に障ります。おはいりになっては?

ハムレット  自分の墓穴にな。

ポローニアス  なるほど、妙案、そこならたしかに外気は防げる。ときおりみごとな返答、さっきからやられてばかりおるわい!気ちがいの一得というやつ、正気の理性には思いもつかぬ名言がとびだしてくる。

福田恒存(訳)、新潮文庫、p63)

 

(最初に読んだ時は特に何も思わなかったけれど、年を重ねるにつれだんだんこのポローニアスという人物の科白の数々が好きになってきました。息子に対してくどい位忠告してしまうところが特に好きです。)

 

全体を通して、オースター作品にしては、まあまあ明るい方かなと思いました。

彼の作品を読んでいると、読み手であるこちらがよく遭遇する、打ちのめされ感や凹まされ感も、少な目だと思います。

ただ、物語が終わった後の世界がどうなるか、それを想像すると後味が悪くなる感じは『ティンブクトゥ』とちょっと似ている気がします。

 

ネイサンが作中でイタロ・ズヴェーヴォにはまっているので、私も彼の本を読んでみたくなりました。

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。