おはようございます、ゆまコロです。
玄侑宗久『現代語訳 般若心経』を読みました。
著者は臨済宗の僧侶です。
パラパラとめくったときに般若心経を絵で描いた「絵心経」が目に留まり、面白そうだと思って手に取りました。
絵心経は、元禄時代に文字を読めない人や子どものために経文を絵文字に置き換えたのが始まりなのだそうです。(この本では可愛らしく書き下ろされています。)
「絵心経」の他にも、著者が小学校三年生の頃、いずれ来たるべき「死」を想って毎晩のように泣いていたことなど、興味深いエピソードがいくつかありました。
あと、もう少し整理して考えたいと思ったのがこちらのお話です。
「「原子物理学と人間の認識」というボーア(※ニールス・ボーア。量子力学の創始者の一人。)の論文のなかには、「われわれは仏陀や老子がすでに直面した認識論的問題に向かうべきである」と書かれています。自らの思想がいかに東洋に傾斜しているか、またそこを目指すべきだ、という自覚も彼には明確にあったのでしょう。
彼はまた続けて「それには、存在の一大ドラマの中に、観客であり役者でもあるというわれわれの状況をうまくはめ込むよう努めることだ」と云っています。
これはどういうことでしょう。
これはおそらく、観客として観察する自分の存在が、観察されるドラマ全体に微妙な影響を及ぼす。つまり役者としての自分も含んで展開するドラマを、観客としての自分はドラマの内側から見ているのだということです。」
「般若心経」は、現代語訳で読んでも難しい内容だなと思いました。
最後まで読んで下さってありがとうございました。