ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

既成概念の縛りからの開放感。『異性装 歴史の中の性の越境者たち』を読んで

こんばんは、ゆまコロです。

中根千枝さん他の『異性装 歴史の中の性の越境者たち』を読みました。

 

異性装とは、文化的に自らの性役割に属するとされる服装をしないこと(ウィキペディアより)を言うそうです。

もくじを見て、阪本久美子さんの「シェイクスピアのオールメイル上演の愉しみ方」が気になり、手に取りました。

 

シェイクスピア作品が好きなのですが、男装の女性が出てくると、実はちょっと混乱していました。『十二夜』のヴァイオラとか『お気に召すまま』のロザリンドとか。しかも、当時は役者がみんな男性だったらしいではないですか。そんなわけで劇中で恋をしたり惚れられたりすると、ええと、今は男性の姿だからこれでいいんだっけ?とか考えて思考が止まってしまいます。

シェイクスピアの上演批評を専門とする阪本さんは、どんなふうに作品を観ているのか、興味がありました。

 

異性装がエンターテインメントとして提供される場合、中根千枝さんはまず、

「どちらかの性を選ばざるを得ない悲しみ、どちらの人生も謳歌する生きることの喜びといった感情、あるいは、現実の不条理な社会を風刺するような視点」が存在することを意識する必要があるとしています。

その上で本書における異性装へのアプローチの手法を、次のように説明しています。

 

 本書では、「時代を超えての多様な性、多様な生き方」をコンセプトとし、異性装を含む、女性が男性の振る舞いをし、男性が女性の振る舞いをするような物語や演劇の場面をとりあげ、 古典文学を研究する専門家の立場から、主人公が異性装によってそれぞれの性のジェンダーの縛りからどのように解き放たれ、また、どのような結末を迎えるのか、各場面を丁寧に分析することで、 古典文学から現代までの異性装を論じてみたいと考えています。
(p7)

 

ということなので、「異性の衣類を着用することで繰り返し強い性的興奮を得る」といった異性装は、本書ではちょっと脇に置かれている感じです。

 本書に出てくる作品の中で、シェイクスピア以外で気になったのは『新蔵人物語』のお話です。

 

 『新蔵人物語』以外の物語では、異性装の主人公たちはやがて異性装を解除し、天皇の后として皇子を産み、国母となったり、社会的地位を得たりして、一家繁盛となって終わります。しかし、『新蔵人物語』では主人公は結局最後まで異性装を解除しません。また、一時は帝に寵愛されるものの、後にその愛を失って出家をします。
中世の物語では主人公が失恋して出家するような話型を出家遁世(しゅっけとんせい)譚と呼びます。 出家遁世をするのはほとんど男主人公ですが、この『新蔵人物語』も一種の出家遁世譚と見ることもできます。つまり、他の異性装の物語のように一般的な「幸福な結末」を迎えていないのです。


 新蔵人の男装の理由


 数ある作品の中で唯一、完全に自発的な意思で男装をしているのが『新蔵人物語』ですが、では彼女はなぜ男装を望んだのでしょうか。第一段の絵では「男になって走り歩きたい」(画中詞)という新蔵人の願いが明らかにされています。
 木村朗子はこの新蔵人の男装を「見た目どおりの男性としての性を生きるために、装いの性を一致させるためのもの」(「宮廷物語における異性装」/服藤早苗・新實五穂編『歴史のなかの異性装アジア遊学二一〇』勉誠出版、二〇一七)と評しています。『新蔵人物語』では、それ以外の男装の物語に比べて、主人公の女性としての身体性に言及がありません。本人も周囲も新蔵人のことは男性と認識しており、本人の自認している性にあわせて男装しているわけだから、これは異性装ではないと論じています。シュミット堀佐知も、新蔵人は男装することによって顔立ちと装いを一致させたと指摘しますが、その思惑は野心的なものであったとみなします。つまり、新蔵人は男性的な容貌を持つ自分は女性の装いのままでは男性から女性として寵愛を得るには不利であると認識した上で、帝から寵愛を得るために、戦略的に男装したのだとするのです 。
 なぜ、男装をすることが帝からの寵愛を得ることに繋がるのかというと、実はこの物語の帝は新蔵人の兄蔵人と性的関係を持っていたと考えられるためです。新蔵人は男装出仕を両親に申し出る際に、「兄の蔵人が帝の伽(とぎ)にお仕えしないこともあるので、代わりに自分が伽を務めよう」(第五段)と主張しています。ここでいう「伽」とは夜に主人の無聊(ぶりょう)を慰めるために側にお仕えすることですが、『児今参り』でも登場した「添い臥し」のように、性的な関係の隠れ蓑になります。事実、新蔵人は兄の代わりに帝の側仕えをするうちに帝から寵愛を得るようになりました。
 つまり、新蔵人は異性愛ではなく同性愛を動機として帝の寵愛を得ることに成功するのです。図3は新蔵人が帝と恋仲になる第八段です。この場面は第三段の姉中君が帝の寵愛を得る場面(図4)の構図を踏襲し、男装の新蔵人が帝の寵愛を得たことを表しています。
 第一段の画中詞で新蔵人は「男になって走り歩きたい」と述べていますが、彼女の性自認は女性であったろうと推測されます。それというのも、第七段で姉の中君が帝に寵愛されている様子を見た新蔵人はやはり画中詞で「女房にて参りて、我が身も宮を産みまゐらせて。(あたしだって女として参内して、宮をお産み申し上げることだってできたかもしれないのに)」と独り言を漏らしているためです。 産む性である自分をはっきりと意識しています。 姉への対抗心は続く第八段でより明確になり、姉に勝る寵愛を得た新蔵人はしてやったりと思います。どのような形であろうと帝の寵愛を得れば宮中では勝ち組です。そのために帝の性的指向を利用した可能性は大いにあります。
 新蔵人の男装は帝の寵愛を得るという社会的成功を目指すための戦略的なものであったとするシュミット堀佐知の見解は説得力があります。しかし、彼女の社会的成功は一時的なものでした。この物語の特異な結末を考慮すると、たびたび描写される新蔵人の容貌の男性性と男装にはさらなる意味があると考えられます。

(p116)

 

男装して宮中にあがり、帝の愛をめぐって姉と争う少女の物語絵巻であるという『新蔵人物語』を、本書で初めて知りました。

同性愛を動機として帝の寵愛を得るとか、漫画のような展開だと思われますが、なんだか現実にあってもおかしくないような気がしてきます。

主人公は一時的に帝との愛を手に入れるけど結局出家しちゃうとか、

「どのような形であろうと帝の寵愛を得れば宮中では勝ち組です。そのために帝の性的指向を利用した可能性は大いにあります。」

とか言われちゃうと、意外とありそうな話かも、みたいに感じられます。

 

そして気になっていた阪本久美子さんのシェイクスピアの章です。

 

 将来自分のことを演じることになる役者について、「きんきん声のクレオパトラ役の少年(松岡和子氏訳)」とクレオパトラが言う台詞があります。もし本当に少年俳優が演じていたとすると、これは自虐ネタになり、笑いを引き起こしたことでしょう。しかし、この台詞が発話されるのは、シーザーの戦利品としてローマに引き立てられるよりも死を選ぶという決意を語る重苦しい場面です。 しかも、クレオパトラは、熟練した「女優」のようであると解釈される登場人物です。くりくりと主張を変えて、嘘と本当を混ぜ合わせて、周りの登場人物を翻弄するクレオパトラのような複雑な大人の女性役は、少年俳優では演じきれなかったのではないかという疑問から、異性を演じた男性の年齢が再検証されることになりました。掘り起こした配役表や登場人物一覧などの照合により、女性役を演じた役者の年齢は主に十三歳から二十一歳であったという、デヴィッド・キャスマンの研究成果が発表されて、現在はマクベス夫人やクレオパトラのような成熟した女性は、変声期を過ぎた若手の男性によって演じられたと考えられています。
 オールメイル上演の裏には、シェイクスピアの時代には、どういうわけか、女性が公共の劇場でプロとして舞台に立つことが禁じられていたという事情があります。「どういうわけか」と付け加えたのは、風紀のためという比較的曖昧な理由があげられても、実際のところなぜかがはっきりしていないためです。職業的な女優が存在しなかったことを考えると、役者は男の仕事だと認識されていたからかもしれません。ちょうど同じ時代に、ヨーロッパ大陸では、女性が職業選択のために男装をすることがありました。土地を所有しない、生活の糧を持たない階級に生まれつくと、自活のためには男性は兵士、女性は売春婦になることが最も一般的でした。売春婦になりたくなかった女性の中には、男装をすることにより兵士になった例が記録されています。 兵士になった女性の中には、妻を娶った者もいたそうです。要は、男装しなくてはいけないくらい、性別に基づく職業の区分がはっきりしていた時代だったということです。
 役者が男性の職業であると認識されていた裏には、当時の劇団の運営形態があるのかもしれません。シェイクスピアの時代のイギリスでは、正式に劇団員になるには株主になる必要がありました。劇団に投資することにより、共同事業者として運営に責任を持つということです。
 自ら経済的負担を担うほどに自立した女性は一部の特権階級に限られていたことが、男性による独占の理由に関係していたのではないかと思います。
 ただし、演劇というビジネスの外では、女性が舞台に立たなかったわけではありません。職業的な女優がいなくても、アマチュアはいたということです。宮廷や貴族の館で催された仮面劇には、上流階級の女性が参加しました。エリザベス一世の母親アン・ブーリンも、仮面劇に参加したことが知られています。また、地元名士の奥方たちが、教区内の上演やページェント、人前でのダンス・ショーなどのために舞台に立つことはあったそうです。さらに、イタリア、スペイン、フランスといった大陸からやってきた旅芸人たちの中には女優がいて、女性の登場人物を演じていました。このように、イギリスの職業劇団がオールメイル上演を行なっていた時代にも、何らかの形で舞台に立った女性は存在しており、女性の身体を視線の対象とすることもあったわけです。 王政復古期の一六六〇年に初めて職業的な女優が現れても、女性が舞台に立つということ自体に関しては、その前の時代からの連続性がありました。一方、男性が女性登場人物を演じる伝統のほうは、プロの女優の登場と共に消えてしまったのです。
 風紀上の問題と言えば、清教徒が劇場の存在自体に目くじらを立てた時代です。プロの外国人女優への反応は、非難のほうが称賛よりも圧倒的に多かったという記録が残っています。 また、オールメイルの舞台では、異性同士の恋愛関係の場面が同性同士によって演じられるため、バガリー法によって禁じられていた男色を舞台上で堂々と表現していたことになります。その結果、劇場は、同性愛のエロティシズムを表現している場所として非難されることもあったわけです。


 異性配役と虚構性

 

 舞台は、テレビや映画に比べると、基本的にその世界が虚構であることを意識せざるを得ない様式です。観客席から舞台を観ているという状況下で、舞台上のことを本物であると認識することはあり得ないからです。時間および空間を役者と共有している以上、目前の人間への意識は消えません。上演時の身体には、まず台詞による叙述定義に基づいて創られた登場人物の身体があります。次に、実際にその登場人物を演じる、生身の役者の身体があります。そして、第三の身体として、舞台上の二つの身体の組み合わせから、観客が認識する身体があります。
 最後の身体が、観客により受容される身体となるわけですが、観劇中、三つ目の身体は固定していません。観客の意識は、時には三位一体となった身体にではなく、別々に別れた身体、それも上演のストーリーから離れた、目の前にある身体、役者の身体に向かうこともあります。
 宝塚歌劇の男役について、ストーリーの中の男性登場人物だけではなく、トップスターの男装と男性性の表象のほうに注目することもあるということです。二重写しになっているはずのものが、時々一重になったり、逆のことが起こったりします。
 また、観客は当然芝居全体が伝える意味も認識し、頭の中で筋が通ったストーリーを組み立てます。こういうマクロ的、全体的な行為と同時に、場面ごとの知覚も存在します。観客は、芝居全体も楽しみますが、芝居の一部、場面も楽しむということです。異性配役の愉しみ方は、少しこの場面ごとの味わい方に似ています。観客の知覚においては、異性配役への感情が一瞬わいて、でも次の瞬間はストーリーの認識のほうが強くなったりします。 異性が演じているからこそ感じるものも共存しているのです。

(p198)

 

阪本さんが上記で述べている、

観劇時における、①登場人物の身体②生身の役者の身体③観客が認識する身体

の3つの認識から、異性配役とストーリーを愉しむ、という味わい方が、ちょっとだけ腹落ちした感がありました。なるほどこうやって分けて考えれば良かったのか。実際にお芝居を見たときに混乱しないか、忘れないうちに見てみたいと思いました。

 

「土地を所有しない、生活の糧を持たない階級に生まれつくと、自活のためには男性は兵士、女性は売春婦になることが最も一般的でした。売春婦になりたくなかった女性の中には、男装をすることにより兵士になった例が記録されています。」

16世紀頃は、イギリスにあっても女性の人生は過酷だったんだなあとこの文章で思いました。

 

「正式に劇団員になるには株主になる必要がありました。劇団に投資することにより、共同事業者として運営に責任を持つということです。」

そういう理由で役者は男性による独占だったというのも初めて知りました。

 

「法によって禁じられていた男色を舞台上で堂々と表現していたことになります。その結果、劇場は、同性愛のエロティシズムを表現している場所として非難されることもあったわけです。」

法律で禁じられても劇場で堂々と演じちゃっていたというのがなんかいいですね。観客が見たいものをエンターテインメントとして提供しているのが頼もしく感じられます。そしてそんな観客の欲求をうまく利用してシェイクスピアが戯曲を書いていたのかもと思うと、ちょっと身悶えします。

 

 オールメイル上演と観客


 オールメイル上演について、観客の反応、受容と呼ばれるものに注目してみます。シェイクスピアの劇場グローブ座の跡地とされる、ロンドン・テムズ川南岸のサザーク地区に建設された新生グローブ座では、一九九七年の柿落(こけらお)としから約十年間、オリジナル・プラクティスという名のもとに、オール・メイル上演(OP)から、その逆のオール・フィメイル上演 (OPF)、そして異性配役が交ざった上演(OPMG) まで、様々な異性配役上演が試みられました。
 一九九九年に上演された『アントニークレオパトラ』(ジャイルズ・ブロック氏演出)では、初代芸術監督のマーク・ライランス氏自らがクレオパトラを演じました。当時三十九歳の男性によって演じられた「美女」が登場すると、観客席から押し殺した笑いが漏れます。これは、「パントマイム」と呼ばれるクリスマス・シーズンに上演される、子供向けの滑稽劇に登場する大柄の男装女性という伝統にも関連しているかもしれません。笑いを取るための配役であり、子供たちは、わざと高めの声を出す、変な「女性」を見て大笑いします。一種の条件反射なのか、または観客が異性配役自体に慣れていないのか、イギリスでは普通のシェイクスピア劇の上演でも、女装した役者は失笑を買うことがあります。
 日本では、笑って良い、または逆に笑うべきではない異性配役がはっきりしています。歌舞伎や能、宝塚歌劇における異性配役の伝統ゆえに、明らかに観客が異性配役に慣れている、異性配役によって創り出された虚構の受け止め方を理解していると言えます。
 ライランス氏のクレオパトラの場合は、クスクス笑いだけでは済みませんでした。一幕五場でアントニーへの恋心を語る場面では、観客から非難の言葉が発せられて、上演が中断されるという事件に発展しました。「なぜ(女性を演じては)悪いんだ」と尋ねるライランス氏と観客の論争が、この日の上演のログ・ブックであるショー・レポートに記録されています。この観客はオールメイル上演だと知っていたら観に来なかったと主張したため、チケット代を返金してもらって劇場を後にしたそうです。

 公演期間が始まる前に、演出家のブロック氏は、「クレオパトラに扮したマーク(ライランス)を見た最初の衝撃の後は、ストーリーと登場人物の人生が重要になり、観客は配役のことを忘れてくれたらと思います(筆者訳)」と語りました。では、なぜわざわざ異性配役を行ったのでしょう。実際、劇評のほとんどは、男性や女性の壁も超えた人間としてのクレオパトラ表象の素晴らしさを称賛しています。イギリスにおける異性配役上演の劇評では、異性配役という舞台上の現実の否定が目立ちます。「性別が異なっていることが気にならないくらいだ」というのは、褒め言葉です。観客が異性配役であることを忘れてしまうくらい役者が素晴らしく、さらには男女どちらが演じても同様な、登場人物の普遍的な人間性の表象であったという結論に到達します。つまり、役者の異性を演じる演技ではなく、登場人物を演じる演技のほうが、役者の技量を測る尺度として用いられています。
 私は、ライランス氏のクレオパトラについては、異性配役のおかげで、言語的に表現された「美」や「魅力」といった抽象的な観念が、観客の想像力をかき立てる形で伝わったと考えます。女形の最高峰にあると賞賛された六代目中村歌右衛門が、女形は現実の女性に近づけば近づくほど魅力が減少してしまうと発言したという話が思い出されます。これは、効果という点から見た虚構の現実に対する優位性を示唆しています。
 生身の人間が「美」や「魅力」を表現しようとすると、個々の観客の好みという障壁にぶつかります。美醜の判断もその人次第ですが、魅力はというと千差万別な基準が存在すると思います。異性という全く異質で現実味を帯びていない、リアリズムに則さない役者の身体ゆえに、シェイクスピアのテクストにより創造された美女が、視覚的な現実に邪魔されることなく、客に「美女」として感じられたのではないでしょうか。さらには、視覚により認識される外観、聴覚により認識される声と、登場人物の性別、外観の特徴との間の徹底的なずれが、高度な演劇性と舞台の面白さを強調したのだと思います。


 日本のオールメイル上演の特異性

 

 イギリスの異性配役上演事情から日本の場合を見直してみると、もう一つ目に付くことがあります。シェイクスピア劇全三十七作品の上演を目指して始まった、故蜷川幸雄氏による「彩の国シェイクスピア・シリーズ」という企画には、オールメイル・シリーズも登場しました。
 このシリーズを始める意図を問われて、蜷川氏は「カッコいい青年が女性も演じるという、妖しい魅力」という「付加価値」を加えたいと語ったそうです。まさにその通りです。 異性配役という特殊な配役は、新しい創作の原動力として利用しない手はないのです。このことはイギリスでも同じなのですが、異性配役上演の受け止め方はかなり異なっています。 蜷川氏がオールメイル上演で目指した「妖しい魅力」は、イギリスではクイア理論による分析の対象となっても、上演の魅力として論じられることはないかもしれません。
 同性愛的なエロティシズムは、どちらの国でも仮定されますが、その後が違います。例えば、二〇〇二年(二〇一二年再演)のグローブ座における『十二夜』のオールメイル上演について、ジェイムズ・C・ブルマン氏はクイア理論を駆使した論考で、「劇の異性愛肯定をここまで明白に問題視した上演作品は他に見たことがない(筆者訳)」と結論づけています。
 日本では、異性愛と同性愛を、デカルト以来の西洋思想の特徴である二項対立的に論じません。そもそも、男性性と女性性の境界線自体も比較的曖昧です。 ヘテロの男性が、他の男性をかっこいいと思うことや、そのことを公に語ることが必ずしも同性愛と結び付けられない文化です。竹宮惠子氏の『風と木の詩』のような少年愛を扱った作品が、少女向けの漫画として発売された社会なのです。 性社会・文化史研究家の三橋順子氏は、キリスト教圏の外に位置する日本では、異性装や同性愛に対して寛容な伝統があることを論じています。 高度に発達した性別越境の文化が、能や歌舞伎、宝塚歌劇などの演劇の伝統と相関関係にあるという指摘です。
 現代日本の異性配役も、性別越境およびそれによって生じる舞台上のホモエロティシズムに関して柔軟な文化を反映しており、同性愛を禁じられたものという前提に基づいて論じるイギリスの文化とは異なっています。倫理的な問題意識なしに、同性愛的な妖しさが面白いと感じるのは、日本風の反応と言えます。したがって、日本の上演では、純粋に虚構性の強調や演出上の装置として、かなり自由に様々な異性配役が実施されており、同時に観客も異性配役を鑑賞することに慣れています。


『じゃじゃ馬馴らし』の上演


 異性配役とは切っても切り離せない、ジェンダーに関する問題が最も顕著で、そのため非常に上演しにくいと言われているシェイクスピア劇『じゃじゃ馬馴らし』に話を進めます。タイトルから予想がつく通り、じゃじゃ馬という蔑称の使い方から、ジェンダーだけでなく人権という点からも問題を含んだ内容であることがわかります。
 「馴らし」の対象となるのは、イタリアのパデュアの街に住むキャタリーナという女性登場人で、じゃじゃ馬だという評判から縁遠くなっています。街の名士である父親のバプティスタは、お淑やかな妹のビアンカの求婚者たちに、まずは姉の相手が見つからなければ結婚は許さないと宣言します。そこに、求婚者の一人の友人であるペトルーチオが登場し、ちょうど結婚相手を探していたところなので、キャタリーナと結婚しようと申し出ます。一方で、パデュアを訪れたルーセンショーがビアンカに一目惚れします。こうして主筋と副筋の二組のカップルによる恋のゲームが繰り広げられます。ただし、キャタリーナとペトルーチオの場合は、後者がじゃじゃ馬である前者を馴らすという行為となります。最終的には、この二組にペトルーチオの友人ホーテンシオとお相手の未亡人も加わり、シェイクスピアのコメディらしい、集団結婚で芝居は幕を下ろします。
 前述の『アップスタート・クロウ』ですが、第三シリーズの放送を前にして作られたティーザービデオ 「史上最高の作家からのメッセージ」で、シェイクスピア役を演じるデヴィッド・ミッチェル氏が以下のように語ります。


……明らかに、私の書いた物はつまらない。四〇〇年前に書かれたものなんだから。 ハムレットの台詞がちょっと長いのはわかるけれど、他に娯楽になるものがなかったんだ。もし今書いていたら、おそらく短いラップで終わらせただろうよ。その通り。私のジョークは面白くない。でも、君らの「爆笑」ミームが二五世紀になっても笑いを誘うと思う?
私に言わせれば、今だって面白くもない。(筆者訳)


 この後、作品が性差別的かという質問への答えとして、女性が文字通り男性の所有物だった時代に生きていたのだからという弁明を行います。四〇〇年以上昔に書かれた、つまり全く異なった文化とジェンダー認識の時代に属するのだから仕方がないという主張です。しかし、実際の上演時に、例えばペトルーチオがキャタリーナに食事を与えず、眠らせず、怒鳴り散らすという完全なDVの場面で、「観客の皆様、特に女性の皆様、四〇〇年以上前の芝居ですので、気を悪くなさらないでください」とでも解説を入れるわけにはいきません。有名なロンドンの劇評家マイケル・ピリントン氏が、この「野蛮で実に不快な芝居」はお蔵入りにして、二度と舞台に載せるべきでないと書いているくらい問題があるのです。
 シェイクスピア劇を読む場合とは異なり、キャタリーナを差別的に扱うペトルーチオが、目の前の人間(男性)によって体現されているのが上演です。たとえ演じるという虚構の中の行為であることを意識していても、劇場のスペースを共有した観客は、生身の人間の行動を体験します 。この知覚経験は、思考の上での理解とは必ずしも一致しません。ペトルーチオによるDVを全く価値観が異なった時代のものだと観客が考えて納得する前に、瞬時の知覚によってもたらされる感情としての不快感が残ります。舞台上での出来事を観客が体験するという上演の性質上、ペトルーチオ、彼に加担する他の男性登場人物たち、そして作者シェイクスピアのための言い訳をどんなに考えても、後味の悪い芝居であることに変わりはありません。


 様々な取り組み

 

 ところが、なぜか『じゃじゃ馬馴らし』は上演回数の多い戯曲です。十分な客足を確保できる、つまり観客に人気のある芝居だからです。これは、恐らくこの芝居が恋愛を含んだコメディであるというイメージゆえかもしれません。なぜか人気のあるこの劇を上演するにあたり制作側はジェンダーの問題と向き合い、どのようにしてこの芝居を現代社会でも受け入れ可能にするかについて試行錯誤せざるを得なくなります。
 一つの方法としては、シェイクスピアのテクスト内の小さなヒントに基づいた工夫があります。例えば、召使いの台詞から、ペトルーチオも相当気性が荒い人物であることがわかります。そこで、キャタリーナとペトルーチオは似た者同士という設定にして、個性的な男女、なかなかお互いにふさわしい相手に巡り会えなかった男女が結ばれるという、良くある恋愛ドラマのパターン、同じくシェイクスピア作の『から騒ぎ』のベアトリスとベネディックの場合に近づけます。他にも、イタリアを舞台にした劇であることを前面に押し出して、性的エネルギーに満ち溢れた情熱的なカップルの恋愛ゲームとすることを、多少の行き過ぎの言い訳にしている場合もあります。四〇〇年以上昔の劇が現代イギリス人にとって異文化ならば、いっそのこと外国人の話にしてしまおうという試みです。
 グローブ座では、二〇〇三年にオールフィメイルの「じゃじゃ馬馴らし』(女性演出家フィリダ・ロイド氏演出)が上演されました。ペトルーチオ役を演じたジャネット・マクティア氏は、男性性の徹底的な強調を試みます。腕組みをして堂々と立ち、「男」同士で背中を乱暴に叩き合い、立ちションの真似までしてみせます。男らしさの演技は、男性の身体のパロディをもたらします。舞台上の生身の男性が生身の女性を酷く扱うことを再現していることが、上演時の不快さの元凶ならば、舞台から男性の身体をなくす配役を行うという試みです。その結果、脅威をもたらさない、ペニスを持たない「ペトルーチオ」が笑いの対象となり、パロディ化された身体は、「男らしさ」のような男性性の虚構性を証明しています。
(p204)

 

「日本では、笑って良い、または逆に笑うべきではない異性配役がはっきりしています。歌舞伎や能、宝塚歌劇における異性配役の伝統ゆえに、明らかに観客が異性配役に慣れている、異性配役によって創り出された虚構の受け止め方を理解していると言えます。」

オールメイル上演をしていたイギリスよりも、日本のほうが、異性の配役によって作られたお芝居の受け止め方に理解がある、というのがちょっと意外に感じました。

 

ヘテロの男性が、他の男性をかっこいいと思うことや、そのことを公に語ることが必ずしも同性愛と結び付けられない文化です。」

ここを読んで、キリスト教圏の外に位置していても、良い面もあるんだなと思いました。

 

阪本さんも「じゃじゃ馬という蔑称」と書いていますが、『じゃじゃ馬馴らし』の原題は「The Taming of the Shrew」だと知った時、「口やかましい女を飼いならす」みたいな意味?すごいタイトルだなと思うと同時に、上手な邦題だと思ってしまいました。

封建的な性のイメージがあったり、DV表現があったりするのに、お蔵入りとならないところにやはりシェイクスピア作品の力強さを感じました。

制作者は現代でも受け入れられるよう苦心しているとか、また観客も誇張された性差のコメディとして受け止めるなど、不自由を強いられながらもこの物語を今も楽しんでいると知ったら、これはやはり沙翁の狙い通りなんでしょうかねぇ。

 

読み終えて、面白がれた方が得という気分になり、結構気楽に男装の女性が出てくるシェイクスピア作品を観られそうな気がしてきました。

 

本書では他にも、巴御前についての章があり、そちらも面白かったです。

「鎌倉殿の13人」の理解が深まりました。

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。