おはようございます、ゆまコロです。
山中恒『ぼくがぼくであること』を読みました。
子ども向けの本だと思っていたのですが、大人や社会に対する不信感が色濃く出ていて、ちょっとドキドキしました。
作者は1931年生まれとのことですが、1944年に日本の戦況について面接で聞かれた際、「負け戦です」と述べるなど(ウィキペディアより)、戦争に対し懐疑的な視点を持っていたことが窺えます。
ドキドキした個所はこちら。
「「しょうじきいって、ぼくもいままでおふくろさんのように学生運動なんかやるやつは、ひまで金にこまらないやつだと思ってた。でもね、ああやって警察へつれていかれたら、ホテルに招待されるようなわけにいかないんだぜ。それに起訴されれば前科もつくし、就職もふいだろうし、へたすれば学校まで追いだされるかもしれない。たぶん、一生をぼうにふるだろう。だれがすきこのんでそんなことをするもんか。そこにはたくさんの不正があるからだよ。なぜこんなことになったんだい。そいつはね、おふくろさん!あんたの責任だよ!」
「なにをいうの、この子は!」
「だまって、ききなさい!おかあさんのように人を愛することもしないで、めさきのことだけで結婚し、ただ自分の気分のためにだけ、子どもを勉強へ追いやり、自分のめさきのちっぽけな安楽のためにだけ、子どもを大学へやり、一流会社へいれて、なにごともなくぶじにすごしたいというおとなたちが、この不正でくさりきった社会をつくってしまったんだよ。その責任はおかあさんにもある!」
「ばかなこといわないで!わたしはただのまずしいサラリーマンの家庭の主婦です。そんな、社会をどうのなんて…。」
「そう、そのとおり。社会に無関心だったおかあさんたちが、このどうしようもない社会をつくってしまったんだ。だから、あの連中がそれをこわしてつくりなおそうとみんなによびかけているんだよ。それがわからないなら、おかあさんも敵だ!」
「わたしは…わたしは…そんなことをいわれるためにあんたをそだてたんじゃないわ。」
「じゃ、なんのためにぼくを生んで、ぼくをそだてたんです。ぼくばかりじゃない、優一(まさかず)や、トシミや、秀一たちを、なんのために生んで、なんのためにそだててるんです。こたえてください!ぼくや、優一や秀一たちのためにも、こたえてください!」
母は何もいわなかった。いえなかったのかもしれない。よろめくように自分のへやへかけこんでしまった。」
作者がこんなふうに感じたことがあったんだろうな、と思わせる場面です。
もっと自分の頭で考えられるようになりたいと思いました。
最後まで読んで下さってありがとうございました。