ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

ポール・オースター『リヴァイアサン』

おはようございます、ゆまコロです。

 

ポール・オースター柴田元幸(訳)『リヴァイアサン』を読みました。

 

手に取った時、このタイトル、なんだかどこかで聞いたことがあるような気がする、と思いました。

この言葉には、2つの意味があります。

 

  1. 旧約聖書に出てくる巨大な幻獣のこと。
  2. 近代国家論の先駆をなす書物の題名(1651年)。トマス・ホッブズ著。こちらの意味で用いられるときは、絶対的権力を持つ国家を指す。

 

物語は回想という形になっているのですが、臨場感がすごいです。

私が好きなのは、親友の妻と関係を持った後のピーター・エアロン(主人公)が、今まで通りでいられるはずがないと思って泣きそうになる場面です。

 

そしてドキッとしたのが、リリアンが娘のマリアを叱る場面です。この科白ってもしかして…。

 

「恥知らずの、恩知らずの悪党!殺してやる、わかるかい!この人たちの前で殺してやる!」(p354) 

 

以下はシェイクスピアの「ハムレット」で、主人公が自分の父親を殺した叔父をののしる場面(ただし独り言)なのですが、この科白の後半と似ていませんか?単なる偶然?

 

「(前略)今ごろは、あの下司野郎の腐肉を餌に、大空の鳶を肥やしてやっていたろうに。

血にまみれた女たらし!恥知らず、恩知らずの悪党!人非人!好色漢!おお、復讐! 」

 

W.シェイクスピア福田恒存(訳)『ハムレット』第2幕第2場

 

娘を罵倒する言葉は怖いけど、したたかな美女リリアン・スターンはとても魅力的です。

 

リリアンは野性的な人間だ。美しいというだけじゃなくて、内側から光を放っている人間だ。怖いもの知らずで、抑えようがなくて、何だってする度胸を持っている。(p379) 

 

また、サックスという登場人物が主人公の予想に反していなくなってしまうのですが、その時の文章も好きです。

 

おそらく私は、無言の出奔の長い行列の最後尾に位置するにすぎないのだ。彼のリストから消された、さらなる一人でしかない。 

 

これを読んで、私はオースター作品の描く、別離や喪失に対しての、折り合いの付け方が好きなのかもしれないと思いました。

そしてタイトルの意味といい、自分の無知さ加減が露見するので、もっと教養を付けねばと思わされます。

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。

 

リヴァイアサン (新潮文庫)

リヴァイアサン (新潮文庫)

 

 

シェリー・ベネット『ラーラはただのデブ』

おはようございます、ゆまコロです。

 

シェリー・ベネット、中谷ハルナ(訳)『ラーラはただのデブ』を読みました。

 

同じ職場の女性が面白がって読んでいたので、借りてみました。

すごいタイトルだな、と思って開いたのですが、中身もなかなかインパクトがありました。

 

「痩身=美」だと思っている女の子が、どんどん太り始めるお話です。

見た目が変わったら、周りの人の接し方はどう変わるのか、ということとともに、自分がこれまで何を基準に、他の人を評価していたのか、ということも白日の下に晒される事態になってきます。

 

ただ、ラーラの弟スコットだけは、見た目に振り回されることを最初から好ましく思っていないようです。

 

 

「ここんちの家族はみんな、ものごとの本質より、外側の見た目ばっかり気にしてるってこと!」

 

 

スコットは物語の序盤から真理を語っているようなのですが、そんな彼も、どんどん変わる姉の姿には自分のスタンスを保てなくなります。

やっぱりな、と思うとともに、ほっとするところでもあります。

 

自分は他人を容姿で判断していない、と思っていたラーラは、友人からこんな言葉を浴びせられます。

 

 

「ほらね、それがそもそものまちがいなのよ。…おデブのパティって、ほんとにほんとうにかわいそー、なんて心の中で思って、いい人になった気分でいたわけ。彼女を慰めてあげて、力になって、体重を減らすのを手伝ってあげよう、なんてね。あなたって最高にうぬぼれてたわよね?私に感謝されて当然だと思っていたはず。そんなふうだから、私は誰よりもあなたが嫌いだった。」

 

 

こういう、「相手はこう思うだろう」と思って行動したことが、相手を傷つけることってよくあると思います。面と向かって言われるとショックですが、でも “そういう行為は嫌い” と言われる方が、知らずにいるよりマシな気がします。

もう一つ、自分が太ってからのラーラの言葉も辛い。

 

 

気にしない、というのは気持ちがいい。私はいまでもしょっちゅう人の気持ちを気にかけるから、よけいにそう思う。…彼らの目の前に太った体をさらすという罪を犯した私に、罰を与える権利があるとでも思ってるの?

 

 

この本で出てくる、注射針の打ちまわしからAIDSに感染した医師が、セックスで感染した人より自分の方が偉いと思っている、という例えが痛烈だと思いました。

 

いじめや偏見や差別や、誰かを見下すことや、優劣をつけることなど、しんどい話題が目白押しなのですが、読み終わると、どこかすっとするような、妙な爽快感があります。

入って行きやすい物語だからかもしれません。

面白かったです。

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。

 

ラーラはただのデブ (集英社文庫)

ラーラはただのデブ (集英社文庫)

 

 

 

ロバート・キャパ『ちょっとピンぼけ』

おはようございます、ゆまコロです。

 

ロバート・キャパ、川添浩史・井上精一(訳)『ちょっとピンぼけ』を読みました。

 

ロバート・キャパは、ハンガリー生まれの写真家です。

キャパの撮った写真からは、その時その場所で彼が聞いたであろう音が聞こえてきそうな印象を受けます。

 

戦場カメラマンの本なのに、なんとなく平和的な響きのする、不思議なタイトルだなと思っていました。このタイトルには、以下のような背景があります。

 

「1944年にはノルマンディー上陸作戦を取材。第1歩兵師団第16歩兵連隊第2大隊E中隊に従軍した。最大の戦死者を出したオマハ・ビーチにてドイツ軍と連合軍が入り乱れる中、100枚以上の写真を撮影した。

 しかし現像の際に興奮した暗室助手のデニス・バンクスが乾燥の際にフィルムを加熱しすぎてしまったために感光乳剤が溶け、まともな写真として残っているものは11枚しかなかった(8枚という説もある)。これが後に彼の写真著書『ちょっとピンぼけ』のタイトルに反映されたという。」(ウィキペディアより)

 

戦場に同行して撮影する中では、辛いことや、目を背けたくなるようなことも多かったのでは、と想像しますが、本書でキャパによって綴られる日々は冷静な視点で、淡々と過ぎて行くように描かれています。

 

印象に残った言葉はこちらです。

 

「私は戦死する最後の男の写真を撮った。この最後の日、もっとも勇敢なる兵士の数人がなおも死んでいくであろう。生き残ってゆくものは、死んでゆく彼らをすぐ忘れ去るのであろうか。」

 

恵比寿にある東京都写真美術館に行くと、入口の壁に、大きなサイズのキャパの写真が飾られています。

 

ノルマンディー上陸作戦を取材したキャパと同じ場所に立っているかのような大きさです。

 

使命を持って仕事を全うした彼に敬意を表します。

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。

ちょっとピンぼけ (文春文庫)

ちょっとピンぼけ (文春文庫)

 

 

 

 

しぶ『手ぶらで生きる。 見栄と財布を捨てて、自由になる50の方法』

おはようございます、ゆまコロです。

 

しぶ『手ぶらで生きる。 見栄と財布を捨てて、自由になる50の方法』を読みました。

 

ミニマリストに憧れます。この本は、同じくミニマリストへの道を歩んでいるお友達に借りました。

 

冒頭の「カバンの中身」の写真ページが好きです。

私自身はとにかくいつも荷物が多いので、雑誌などで、みんなの「コスメポーチの中身」とか、CAさんの「スーツケースの中身」とかいう類の特集があると、食い入るように見てしまいます。

その上で、「これは持たなくてもいいのか~」と思ったりするのですが、気が付くとまた荷物が増えています。

 

それはさておき、作者のしぶさんは、冷蔵庫もない、敷布団もない(本の途中で増えます。)というかなりの玄人ミニマリストです。

本書の中で、いいなと思ったのは以下の項目。

 

 

13. 「レンタル」「シェア」を使いこなす。

 

 毎日同じ服を着ている僕は、靴も同じコンバースのオールスターを3足揃え、それを痛まないように日替わりで履いている。

 

 しかし、「スニーカーでは、どうしてもTPOに合わない」というときも、ごくまれにだがある。結婚式やお葬式、ドレスコードのある店に行くときなどがそうだ。

 

 そんなときに便利なのが、ファッションレンタルサービス。

 

 男性、女性向けに何種類かのサービスがある。「leeap」のように全身コーディネートを基本とするサービスもあれば、「DMMファッションレンタル」のように、靴などの小物を単体で借りられる物も。僕も使ったことがあるのだが、久しぶりに「いつもと違う自分」になれて少し楽しかった。

 

 ちなみに「DMMファッションレンタル」の場合、メンズのビジネスシューズは2日間で1980~4980円程度。量販店に行けば新品を買えそうな額ではあるが、その額で買える靴の質は推して知るべし。(p80)

 

 

「その額で買える靴の質は」、と想像すると、確かに借りた方が賢明な気がします。

 

 

17. 「好き」ではなく、「大大大好き」な物を選ぶ。

 

 究極的には「必要=好き」だと、僕は考えている。それも「ちょっと好き」ではなく「大大大好き」と思えるレベルの「好き」を大事にすること。

 

 中途半端な「ちょっと好き」レベルで物を選んでいたら、心が完全に満たされることはないし、物欲も一生おさまらない。

 

 「好き」を突き詰めるには、「100の大好きリスト」が役に立つ。

 固有名詞から抽象的な物まで全部、頭にパッと浮かんだ「自分の好きなもの・こと」を描き出していく。

 僕なら、チワワ、サーモン、アボカド、寝ること、読書、アニメ、モノトーン、カメラ、心理学、サウナ…と、とにかく100個に到達するまで、どんどん書き連ねていく。おもしろいくらい、自分の好きがダダ漏れになる。

 100個を書き切るのもそうだが、100個に絞るのはもっと難しい。こうして紙に書き出すことで、自分の「好き」が可視化され、より鮮明になるのである。

 あとは、この「好き」にあてはまる物だけを残せばいい。(p96)

 

 

以前に上記と似たようなことをやったことがあります。でも、到底100個には届かず、意外と好きなものって出てこないんだな、と思った覚えがあります。ぜひ再チャレンジしたいです。

 

26. 「健康」がなによりの資産だと知る。

 

 「健康意識が芽生えるのは手遅れになってから」と堀江貴文さんが言っていたが、本当にそう思う。健康のためだけに生きるのは本末転倒だが、幸福な人生を送るのに健康は最低条件だ。

 

 「 健康を犠牲にして時間を確保する」のは近道のようで遠まわりだ。健康に関しては、効率度外視でいこう。(p135)

 

これは体調を崩してからでないと気付けないので、自分の実感として、健康であることを大切に思える、というのは、大事な経験だと思います。

 

33. 「一点豪華主義」と「コンフォート原則」を守る。

 

 お金があるように勘違いされた理由はシンプルだ。「持ち物を少なく絞っているから、一つひとつにお金を多くまわせる」だけのことである。

 

 一方、貧乏人の部屋には物が多い。ドラマの美術さんは、貧乏人の部屋には物を増やし、壁に隙間なくちぐはぐなタンスを並べたりして「貧困」を表現するそうだ。

 逆に、豪邸のセットでは物を減らし、なにも置いていない面を増やして「余裕」を表現するのだそう。

 

 物を買う→お金が減る→お金のために時間を切り売りする→物が増えたあげくに整理整頓・物の入れ替え・探し物など手間が増える→片付けに費やす時間も、精神的な余裕もなくなる→部屋が物だらけになる→ストレスを発散するために物を買う→(無限ループ) ーーこれが、「貧乏人の部屋に物が多い」カラクリだ。(p 164)

 

筆者は「お金は減り続けるのに、物が増え続ける」ループの実例として、以前住んでいた部屋の写真を載せていますが、この状況、すごくよく分かります。忙しくて部屋のことなんかなんにも考えられない時など、机の上が物だらけになっていてギョッとすることがあります。

 

42. 才能の無駄遣いをやめる。

 

 僕の才能は「収集」である。

「なんにも持ってないのに?」とお思いだろうか。実はこれ、「ストレングスファインダー(自分の強み診断)」という自己分析ツールの結果で、僕は34ある項目のうち、「収集心」という才能が1位となったのだ。

 初めはこの結果に「え?(僕、ミニマリストなんですけど…)」と驚いたのだが、分析内容を聞いて納得。物質的なことへの関心ではなく、情報や知識、経験など、「形ないもの」への収集心が強い ――とのこと。

 そして、この結果を知ることで僕は、自分が「本を読んだり、旅行などで経験を積むことを栄養にすれば、幸せになれる人間なんだ」とはっきり自覚することができた。

 

 ここ数年、世の中は「物と向き合う」ブームが続いている。しかも「増やす」よりも「減らす」ことに焦点が置かれている。断捨離、シンプルライフ、片付け術、もちろんミニマリズムだってそうだ。

 

 これは、みんな自分のことをあまり知らないからなんだと思う。物を減らしていくうちに、「自分はこんな生き方がしたかったんだ」と、自分のことを知ることができる。(p200)

 

 

安易にストレングスファインダーを受ける前に、何の目的があって受検するのか?を明確にすべきという意見もありますが、こうやって自分を知ることができると、何を持って幸せだと思えるのかも分かりやすくなりそうな予感がします。

 

とりあえず「大大大好き」探しからやってみたいです。

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。

 

手ぶらで生きる。見栄と財布を捨てて、自由になる50の方法

手ぶらで生きる。見栄と財布を捨てて、自由になる50の方法

 

 

 

 

世界報道写真展2019に行ってきました。

おはようございます、ゆまコロです。

 

東京都写真美術館(恵比寿)にて開催中の世界報道写真展2019に行ってきました。

 

訪れたのは、6月の日曜日の午前11時頃。結構人がいます。

パネル解説の文字はやや小さいので、前に人がいると若干見えにくくはありますが、同じ文章が写真の左右にあるのと、肝心の写真自体はどの展示も結構大きいので、全然見えない、というほどではなかったです。

 

私はここ5年くらい、世界報道写真展を毎年見に行っています。

内容の凄まじさに、毎年、美術館を出る頃にはヘロヘロになっています。今年も衝撃的な写真ばかりでした。

 

今年、私がショックを受けた写真は、3つあります。

一つ目は、フィリピンの首都マニラの写真です。マットレスの上で横たわっている子どもが写っています。

場所は「パシッグ川」とありますが、写真を見ただけでは川には見えません。どう見てもゴミ捨て場のようです。

ウィキペディアでこの川を調べると、「汚染が進んだパシッグ川」という写真が載っていますが、ごみの量はこんなものではなく、はちゃめちゃに多かったです。

寝ているマットレスのまわりをよく見ると、プラスチックごみだと思われるものが多く、心が痛みます。

 

少しでもプラスチックを減らした生活をしよう、と思いました。

 

ja.wikipedia.org

 

 

もう一つは、イランのサッカー競技場で、男性に扮装してサッカー観戦をしている女性の写真です。(男性ばかりの観客席で、よく見ると、女の人だなと分かります。)

以下は出品リストの解説より。

 

「イランでは、女性サッカーファンのスタジアム入場について制限がある。

2018年3月1日、FIFAのジャンニ・インファンティーノ会長がこの問題に対処するため、イランのハッサン・ロウハニと会談。2018年6月20日テヘランのアザディスタジアムについて、特定の女性グループの入場を認める決定が下された。」

 

会談後、国際試合のみ入場可となったものの、選ばれた女性しか入れず、しかものちに撤回されてしまったとのことでした。

 

男女が仕切られた別々のスタンドから観戦する写真もあります。

 

イランの女性サッカーファンも自由に応援できるようになるといいなと思いました。

 

また、2018年11月の米国カリフォルニア州の山火事で、避難させらせている馬の写真もインパクトがありました。背景が真っ赤すぎて、写真なのに逆に現実味が薄いように感じられる不思議な写真です。

 

これが、同じ時代に現実で起こっていることなんだ、と思うと、何かしたくてたまらなくなります。

 

東京・恵比寿の東京都写真美術館にて開催中〜2019年8月4日(日)まで。

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。f:id:hamletclone:20190630215041j:image

クリスチャン・ボルタンスキー展に行ってきました。

おはようございます、ゆまコロです。

 

国立新美術館(東京・乃木坂)で開催中の、

クリスチャン・ボルタンスキー展に行ってきました。

 

会期が始まって1ヶ月ほど経った後の平日、朝一で行ってきました。

国立新美術館の2階の展示室です。

 

開館の25分前くらいに到着して、まだ待っている人はいませんでした。(開館時間の10時近くになって、後ろに4人ほど並んでいました。)

 

ゆったりした展示で、見て回るには歩きやすくて良かったです。(平日だったからかも知れません。)

 

この展示の中で私が気に入ったのは、「アニミタス(白)」という映像作品です。

カナダ北部の雪原に、風鈴のようなものが無数に立っている様子が映っています。(映像からは、雪が積もっているのは分かりますが、場所は判然としません。出品リストでカナダと知りました。)

見学者の席と、スクリーンの間には、丸めたティッシュのようなものがたくさん置いてあります。

椅子に座って風鈴(?)が風に揺れる映像を見ていると、ここで何を考えていいのかよく分からなくなるような、不思議な気分になってきます。

 

もう一つ、同じ部屋にある「発言する」という作品も、強く印象に残りました。

黒い服を着た人形の前に立つと、それぞれ、

 

<自分自身の死について、そして死後の世界へはどうやってたどり着くのか>

(出品リストより)

 

ということを聞いてきます。喋るセリフは異なっているのですが、人形をめぐって話を聞いていると、だんだん怖くなってきます。

 

ただ、作品には解説板もないので、今見ている作品のタイトルなどが知りたい時は、入口で渡される地図と出品リストを頼りに探す必要があります。(新聞サイズなので、開いて見つけるのがちょっと大変です。)

 

今回の展覧会のクリスチャン・ボルタンスキーさんは、1944年9月21日にパリで生まれた現代アーティストです。

 

彼についてネットで調べている時に、気になるインタヴューを見つけました。

 

 

ーーあなた(=ボルタンスキー)はよく、「(作品を通じて)問いを発することが重要だ」とおっしゃっています。でもそれは簡単なことではありません。あなたはどうして問いを発し続けることができたのですか?

 

 この世界はとても残酷です。私は信仰を持っていませんが、我々の上に何かしらの「力」が存在するのだとすれば、その「力」はなぜ恐ろしいことが起こるのを認めているのでしょうか? 真理を追求するのは、人間の精神の一部だと思います。それぞれの個人が、なぜこんなにも恐ろしいことがたくさんあるのか、なぜ死があるのかを理解したがっている。

 

 私にも答えはありません。むしろ「答えを知っている」という人は危険だと思います。なぜならばそれを他人に強いろうとするからです。人間であるということは答えを探すということ。ユダヤ教では「赤ちゃんはすべての答えを持っている」と言われています。胎児はすべてを知っていますが、生まれると天使が来て、すべてを忘れてしまう。そして一生をかけて、そのお腹の中で知っていたことを思い出そうとするのです。この言い伝えーーすべての胎児がすべての知識を持っているという話が私は好きです。

 

ーー死ぬときにも答えは見つからないかもしれませんね。

 

 答えに近づくかもしれませんが、見つかることはないと思います。

 

 

 

bijutsutecho.com

 

 

展示を見ている時、なぜか(まだ実際に行ったことはないのですが、)アウシュヴィッツなどの強制収容所のことを考えていました。

作品の多くが、他人の人生や、誰かの不在について考えさせられる内容だったからかもしれません。

 

帰ってきてからウィキペディアの彼のページを見ると、おいたちについてこのように紹介されていました。

「1944年にナチス占領下のパリで生まれる。

父親は改宗ユダヤ人であったため、フランス人の母親と離婚して家を出て行ったように偽装し、家の床下に隠れ住んでいた。

終戦後母親やその友人から聞かされた強制収容所の話を含むこれらの経験がボルタンスキーのトラウマとなり、後年の作品制作に影響することとなる。」

 

ちなみに展覧会はズジスワフ・ベクシンスキーポーランドの画家)の作品が好きな人と行きました。作品の雰囲気はちょっとベクシンスキーと似ているような気もします。

 

東京・乃木坂の国立新美術館にて開催中~2019年9月2日(月)まで。

 

boltanski2019.exhibit.jp

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。

 

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ビョルンスティエルネ・ビョルンソン『日なたが丘の少女』

おはようございます、ゆまコロです。

 

ビョルンスティエルネ・ビョルンソン、矢崎源九郎(訳)『日なたが丘の少女』を読みました。

 

作者はノルウェーの作家です。1903年ノーベル文学賞を受賞しています。

 

ある村に、これから不幸な人生を歩むだろうと言われる男の子が生まれます。

トルビョルンという名前の男の子です。(名前が原因らしい。)

彼の物語は、本当に不幸続きで、結末もこんな感じで悲劇的なのかな、と読者に思わせるほどです。

 

もう一人、シンネーベという女の子が出てきます。彼女は、意志が強く、自分が信じているものを疑わず、周りと闘っているような印象を受けます。とても魅力的な少女です。

 

素敵な女の子なのですが、彼女の母親(カーレン)は前時代的というか保守的な感じで、賛同できないところはいくつかあります。例えば、

 

 

「つらいときには、もっともっとつらいことだってあるんだ、そう思って、じぶんの心をなぐさめなければね。」

 

 

考え方の違いといってしまえばそれまでなのですが、うーん、と思ってしまうセリフです。

母親と比べると、シンネーベの父親(グットルム)の方がまだ親しみが湧きます。

友だちがいなくなった娘・シンネーベに対し、話し相手には私たち両親がいる、と言ったカーレンに、グットルムはこう言います。

 

 

「お前はなんでもそんなふうに、理屈できめようとする。」

 

 

シンネーベの味方をしてくれて、勇気が湧きました。

 

トルビョルンもシンネーベも死の淵をさまようという凄まじい試練のあと、二人は結ばれるのですが、決して明るくない始まり方と、苦しいことばかりの展開に仰天しました。

 

子ども向けの文学全集に収録されていたのですが、とても面白かったです。

訳者を変えて再読したいところですが、入手困難なのが悔しいです。

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。