おはようございます、ゆまコロです。
立花隆+東京大学教養学部立花隆ゼミ『二十歳のころⅠ 1937~1958』を読みました。
どの調査の話も興味深く、身を乗り出して聞きたくなる言葉が多いのですが、とくに覚えておきたいと強く感じたのは、長崎の原爆被害者の下平作江さんのお話です。
「昭和三〇年のことです。妹が苦しみ始めました。養父が妹を市民病院に連れて行きました。盲腸が悪いのだろうと、妹は盲腸を手術しました。ところが盲腸が治らないんですよ。白血球が少なすぎたんです。放射能を浴びてますから。それで盲腸の傷がどんどんどんどんと腐って、ウジがわいてきました。取っても取ってもウジがわいて、悪臭がします。さらに、包帯なんてなくてボロ切れでちょっと押さえるだけだから、膿がたらたらと足に伝うんです。妹は学校に行っても、あなたは臭い、と言われていました。」
六月二三日、雨がしとしと降る夜だった。一八歳の妹は帰って来なかった。被爆して一〇年後、少女は自らの体を列車に投げ出したのである。
この話を母にしたところ、昭和30年くらいじゃ、包帯なんか年中替えられるほどなかったかもしれない、と言っていました。
他にも、下平さんが火の海の中、足の裏がべっとりとくっついた半焼けで死んだ人の靴を盗んで履いて、家まで帰ったこと、原爆投下の3日後に見つけた、黒焦げで目も空洞となった母親の死体に「お母さん」と手を触れたら、ばらーっと崩れたこと、指で押さえて焼けていなかった姉の顔を、八歳の妹と焼いたこと、自殺した一八歳の妹の胴体を木箱に入れ、その板と板の隙間からたらたらと血が流れるまま、リヤカーで火葬場へ運んだこと、長崎が最後の被爆地となるよう努力してくださいと言ったこと、忘れないようにしたいと思いました。
一方で、こう語る長崎の原爆被害者の方のお話もありました。
「加虐の歴史・南京大虐殺や朝鮮人差別のこともふまえて語ることにしているんです。被害の面ばかり強調しても、受け入れてもらえません。」
(恒成正敏、長崎原爆被害者)
このページをめくるのも辛くなるようなお話のあとに掲載されている、中松義郎さんの話がぶっ飛んでいて目を見張ります。
胸に響く20歳の頃のお話がきっとあると思います。
最後まで読んで下さってありがとうございました。
二十歳のころ〈1〉1937‐1958―立花ゼミ『調べて書く』共同製作 (新潮文庫)
- 作者: 立花隆,東京大学教養学部立花隆ゼミ
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2001/12
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