ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

村上春樹『スプートニクの恋人』

おはようございます、ゆまコロです。

 

村上春樹スプートニクの恋人』を読みました。

 

長くない本なのですが、随所に覚えておきたいと思った会話があります。

 

 

「もしそれが性欲じゃないと言うのなら、わたしの血管を流れているのはトマト・ジュースよ」

「うむ」

とぼくは言った。返事のしようがない。

「そういうふうに考えると、これまでのいろんなことにすっきりと説明がつくのよ。どうして男の子とのセックスに興味が持てなかったのか。どうしてなにも感じなかったのか。どうして自分はほかの人たちとどこか違うとずっと感じつづけてきたのか」

「意見を言っていいかな?」

とぼくは言った。

「もちろん」

「あまりにもすんなりとすべてを説明する理由なり論理なりには必ず落とし穴がある。それがぼくの経験則だ。誰かが言ったように、一冊の本で説明されることなら、説明されないほうがましだ。つまり僕が言いたいのは、あまり急いで結論に飛びつかないほうがいいということだよ」

  

 

結論を急がない方がいい、というのは、村上春樹作品に登場する主人公っぽい意見のような気がします。

 

 

「君の住まいが国立から遠くなってしまったことはいささかさびしいけれどね」

「ほんとうにそう思うの?」

「もちろん。この混じりけの心を、そのまま取り出して見せたいくらいだ」

 

 

「もちろん」の後の切り返しが好きなのですが、この後、強烈な欲求で涙をにじませる「ぼく」をいじらしく感じました。

 

 

彼女を愛することはできなかった。すみれと一緒にいるときにぼくがいつも感じる、あのほとんど無条件と言ってもいいような自然な親密さが、彼女とのあいだにはどうしても生まれなかったからだ。

 

 

ここで言うような「自然な親密さ」は、生みたいと思っていても全然生まれない時もありますよね。

 

 

ぼくが彼女と会うことによっていつも確認するのは、自分がどれくらいすみれを必要としているかという、動かしようのない事実だった。

 

 

こんな思いを抱きっぱなしの状態が辛いです。

 

 

 ぼくとすみれが保っていた微妙な友情のような関係は、たとえどれほど賢明で穏やかな考慮を払われたにせよ、いつまでもは続くものではなかっただろう。そのときぼくらが手にしていたのは、せいぜいが引き延ばされた袋小路のようなものでしかなかった。それはよくわかっていた。

 

 しかしぼくはすみれを誰よりも愛していたし、求めていた。どこにもたどりつけないからといって、その気持ちを簡単に棚上げにしてしまうわけにはいかなかった。それにかわるべきものなどどこにもないのだから。

 

 

“自然な親密さ” を尊重しながらも、今の関係がいつまでも続くものではないと腹を決めているのが潔いと思いました。

 

万引きしたにんじんを前に、ギリシャでの出来事と自分のことを語るシーンも好きです。

 

 

「ぼくはその友だちのことが好きだった。とても好きだった。誰よりもなによりも大事な人間だった。だから飛行機に乗ってギリシャのその島まで探しにいったんだ。しかしだめだった。どうしても見つからない。それでね、その友だちがいなくなってしまったら、ぼくにはもう誰も友だちがいないんだ。ただの一人もいない。」

(中略)

「でもぼくはやはり問題の一部になるわけにはいかない。いろんな人のためにもね。問題の一部でありながら、解決の一部になることはできないんだ。」

 

 

ただ、理性的にふるまっているようで、何故にんじんの母親と関係を持ち続けるのか、疑問にも感じました。

 

ミュウの観覧車の話が怖かったです。『海辺のカフカ』と、少し似ているような印象を受けます。

 

好きな人と交わした会話を、大事にとっておきたくなるような本でした。

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。

 

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

スプートニクの恋人 (講談社文庫)