ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

無関心は攻撃者の利益。『夜』を読んで

おはようございます、ゆまコロです。

 

エリ・ヴィーゼルさん、村上 光彦さん(訳)『夜』を読みました。

 

1940年にナチス・ドイツの占領下となったルーマニアのシゲット出身のヴィーゼルさんは、16歳のときに家族とともに強制収容所へ送られています。

 

(…)よりよい機会をわがものとするにはどういう手段があるのか。 この本を書いたのは、そうした手段として、 人々にことばや思い出を伝えるためであったのか。
 それともそれは、さらにごく単純なことで、私がうら若いころに受けた試練の痕跡を残しておくためであったのか。ふつう若者はその年齢にあっては、死と悪とについては本のなかで発見したことしか知らないものなのであるが。
 読者のなかには、私が生き残ったのはこの作品を書くためであった、と私に語る人たちもいる。私にはそうした確信はない。どのようにして生き残ったのか、私にはわからない。あまりに弱く、あまりに内気で、自分ではそのためになにひとつしなかった。奇蹟だったと言うべきか。私はそう言おうとは思わない。天が私のために奇蹟を起こすことができたか、またはそう望んだのだとすれば、私以上にふさわしかったほかの人たちのためにも、天はそうすることができたはずであるし、そうすべきであったろうに。したがって、私にできるのは偶然にたいして感謝することのみ。しかしながら、生き残ったからには、私には自分が生き残ったことに意味を付与すべき責任がかかってくる。なにひとつ意味のなかった経験を私が紙上に書きとめておいたのは、まさにその意味を掘りだすためであったのか。
 じつを言うと、振り返って思うと、打ち明けないわけにいかないことがある。私がみずからの言辞からなにごとを獲得したいと思ったのか、私にはわからない。あるいはむしろ、私にはもはやわからない。ただこれだけはわかっているのであるが、このささやかな著作がなかったなら、私の作家としての生き方は、あるいはむしろ端的に私の生き方は、いまあるとおりにはならなかったであろう。すなわち、証人としての生き方である。この証人は、敵が人類の記憶からみずからの犯罪を抹消することによって、みずからの死後における勝利を、その最後の勝利を収めたりしないようにする義務が自分にはあると、道義的にまた人間的に信じているのである。
 それというのも、今日では数多くの情報源から私たちのもとに届いた正真正銘の資料のおかげで、以下のことが明瞭だからである。すなわち親衛隊員(エスエス)は、彼らが君臨した当初、ユダヤ人がもはや存在しない社会を樹立しようと試みた。しまいには彼らの目的は、彼らが去ったのちに廃墟と化した世界を残して、そこにユダヤ人が存在したことなど一度としてなかったかのように見せかけることとなった。 それゆえにこそ、ロシアで、 ウクライナで、 リトアニアで、はたまた白ロシアで、 Ein-
satzgruppen [特別行動部隊。ユダヤ人、ロマ、共産主義者などを虐殺した]が、《最終的解決》を実行に移したいたるところで――彼らはそのさい、数百万を越えるユダヤ人を、男も女も子どもも軽機関銃で撃ち殺したうえで、まさに処刑された当人たちの手で掘ってあった共同墓穴のなかに放り込んだのであるが――そのあと特殊部隊が死体を掘り起こし、しかるのちに露天で焼却したのである。このような次第で、史上初めて、 ユダヤ人は二度殺されたうえ、墓地に埋葬されることができないままとなった。

(p6)

 

戦後ジャーナリストとなったヴィーゼルさんは、友人に強く勧められるまでホロコーストの体験を書かなかったそうですが、その経緯を記したまえがきから、深く考えさせられます。

「私が生き残ったのはこの作品を書くためであった、と私に語る人たちもいる。私にはそうした確信はない。」という言葉からも、自分はなぜ生き長らえたのか、奇跡だったとすれば、なぜ自分よりも生きるのにふさわしいと思えた人たちは生き残らなかったのか、という、答えの出ない問いと長く闘ってこられたことがうかがえます。

 

「わかっています。こんなことを言ってはならないのです。それはよくわかっています。人間はあまりにも小さく、あまりに情けなくも微小ですから、〈神〉の神秘な道を理解しようとすることなどできはせんのです。しかし、この私になにができましょう。この私に。私は〈賢人〉でなく、〈義人〉でなく、〈聖人〉ではありません。私は肉と骨とでできた一介の被造物です。魂のなかで、また肉のなかで、私は地獄の苦しみに耐えています。私には目だってあり、ここで行われていることを見ております。神の〈慈悲〉がどこにありますか。〈神〉はどこにおられますか。あの慈悲ぶかい (神)を、どうして信ずることができましょう。どうして人は信ずることができましょう」
 あわれなアキバ・ドリュメール。もし彼が〈神〉を信じつづけることができ、この受難のうちに〈神〉の下したもうた試練を認めつづけることができたとしたら、彼は選別によって運び去られはしなかったであろうに。しかし、自分の信仰に罅(ひび)が入りだしたのを感じとるやいなや、彼は戦う理由を失ってしまい、そして彼の臨死の苦悶が始まったのであった。
 選別がやってきたとき、彼は前もって刑の宣告を受けていて、みずからの首を死刑執行人にさしのべていた。 彼は私たちにただこれだけのことを頼んだ。
「三日したら、ぼくはもうこの世にはいない……。 ぼくのために〈カディシュ〉を唱えてくれ」
 私たちは彼に約束した。――三日して煙突から煙が立ちのぼるのを見たら、きみのことを考えよう。ぼくたち十人が集まって、特別の勤行をしよう[ユダヤ教徒が死者を偲んで〈カディシュ〉を唱えるには、十人の信者からなる集団(ミニヤン)を要するとの規定がある]。友だちみなで〈カディシュ〉を唱えよう、と。
 それから彼は、振り返りもせずに、まずまずしっかりした足どりで病院の方角へ去っていった。彼をビルケナウへ運んでゆくために、そこには病院車が待ちうけていた。
 それから、ものすごい日々がやってきた。私たちは、食べものより殴打を食らうほうが多かった。作業で押し潰されそうであった。そして彼が去ってから三日後、私たちは〈カディシュ〉を唱えることを忘れた。


 冬が来ていた。日が短くなり、夜はほとんど耐えがたくなった。明け方早い時刻には、 凍てついた風が鞭のように私たちを叩きのめすのであった。私たちは冬服を与えられた。いくぶん厚手の縞シャツである。古参たちは、これを機会にまたまた嘲弄した。
「さあ、おまえたちも、これからほんとうに収容所の味がわかるぜ!」
 私たちは冷え切ったからだで、いつもどおり作業に出かけるのであった。 石はひどく冷たくて、手を触れたなり、貼りついて離れなくなりそうであった。 しかし、なにごとにも慣れがくる。
 クリスマスと元日には作業がなかった。いつもほど薄くないスープにもありつけた。
(p146)

 

「〈神〉の下したもうた試練を認めつづけることができたとしたら、彼は選別によって運び去られはしなかったであろうに。」

『夜と霧』(ヴィクトール・E・フランクル)などにも出てくるのですが、収容所での苦難を、信仰によって昇華しようとしている場面に遭遇すると、つい手が止まります。自分が同じ境遇に置かれたら、こんなふうに自らに課された試練を受け入れることができるだろうかと。

 

「ひとがんばり、ザルマン……。 なんとか……」
「もうだめだ」と、彼は呻いた。
 彼はズボンを下ろして、へたへたとしゃがみ込んだ。
 それが私に残っている彼の最後の姿である。思うに、親衛隊員が彼を仕止めたのではない。それというのも、だれも彼を見ていなかったからである。彼はきっと、あとから来た数千名の足に踏み潰されて死んだのだ。
 私は彼のことをすぐに忘れた。また私自身のことを考えだした。足の痛みのせいで、一歩ごとに悪寒が私を揺すぶっていた。《あと数メートル》と、私は考えた、《あと数メートル、そうすればおしまいだ。 ぼくは倒れるぞ。小さな赤い炎。一発の銃撃》。死にくるまれて、しまいには窒息しそうであった。死が私に貼りついていた。触れれば触れられるだろう、という感じ。死ぬのだ、もういなくなるのだ、という思いが私を呪縛しかけていた。もう存在しなくなる。もう足のものすごい痛みを感じなくなる。もうなにも、疲れも、寒さも、なにも感じなくなる。 列外に飛びだし、道端のほうへふらふら滑ってゆく……。
 ただ、父がそばにいることだけが、私がそうするのを妨げていた……。 父は、私の横を、息を切らし、力も尽きかけ、追いつめられて走っていた。私には勝手に死んでゆく権利はなかった。私がいなくなったら、父はどうするのか。私は父の唯一の支えであった。

 こうした想念がいっとき私の心を占めていた。私はそのあいだ、 痛む足のことも感ぜず、自分が走っていることすらわからず、ほかの幾千人ものただなかで街道を早駆けしてゆくからだを持っている、との意識もなく走りつづけていた。
 われに返ったとき、私は少し歩度を緩めようとした。 しかし、そうしようにも手だてがなかった
あとからあとから波濤をなして続く人々は、まるで高潮のように波頭を散らせて押し寄せ、私を一匹の蟻のように押し潰してしまったことであろう。
 私はもはや夢遊病者でしかなかった。 瞼を閉ざすことがあり、すると眠りながら走っているようであった。ときどきだれかが私をうしろから乱暴に押し、私は目を覚ますのであった。 押した男はどなった。「もっと早く走れ。もし進みたくないなら、あとから来る者を先に通せ」。しかし、一秒間目をつぶっただけで、私は大勢の人がいっせいに行列してゆくさまを見ることができ、また全生涯を夢みることができるのであった。
 果てしない道。おとなしく群衆に押されてゆく、おとなしく盲目の宿命にひきずられてゆく。 親衛隊員は、疲れると交代が出てきた。私たちは、だれにも交代してもらえなかった。 走っているのに、手足は寒気に麻痺し、咽喉は乾き、腹は減り、息は絶え絶えになった。それでも私たちは走りつづけていた。
 (p162)

 

ドイツの軍事力が崩壊しかけていた頃、ナチの強制収容所に接近していた連合国軍から逃げるべく、ドイツは、前戦近くの収容所から囚人たちをドイツ国内の収容所に移す措置を取ります。これが「死の行進」と呼ばれるのですが、どの証言を見ても大変に辛く、読むのが苦しくなります。ヴィーゼルさんは父親と一緒だったから、それを拠り所にして、なんとか走りきれたのだということが分かります。しかし…。

 

 父が水を飲んではならないのを、私は知っていた。しかし、父があまりいつまでも頼み込むので、私は根負けした。水は父にとって最悪の毒なのだが、いまとなっては父のためになにをしてあげることができよう。水を飲もうと飲むまいと、どっちみち、まもなくおしまいなのだ……。
「なあ、せめて、私をあわれんでおくれ……」
 父をあわれむとは! ひとり息子である私が!


 こうして一週間経った。
「この人はきみのお父さんかね」と、ブロックの責任者が私に尋ねた。
「そうです」
「ずいぶん病気が重いね」
「医者は父のためになにもしようとしないのです」
 彼は私の目を見つめた。
「医者にはもう、お父さんのためになにもできないのだよ。そして、きみもだ」
 彼は毛深い大きい手を私の肩にのせて、つけ加えた。
「坊や、よくお聞き、 強制収容所にいるのを忘れるんじゃないよ。ここでは、めいめいが自分自身のために闘わなくては。 そして他人のことを考えてはならないのだ。自分の父親のことさえも、だ。ここでは、父親のことだって、構ってはいられんのだ。兄弟だって、友人だって。めいめいが生きるのも死んでゆくのも自分ひとりのためだけだ。いいことを教えてあげよう。 もう、配給のパンとスープを年寄りのお父さんにあげてはいけないよ。きみにはもう、お父さんのためにはなにもできないのだよ。それに、自分で自分を殺すことになる。逆に、きみこそお父さんの配給を受けるべきなんだ……」
 私は、口をさしはさまずに彼の話に聞き入った。私は心のいちばんの奥底で、この人の言うとおりだ、と考えた。 でも、われとわが心にこの考えを打ち明ける勇気はなかった。きみの年寄りのお父さんを救うにはもう遅すぎるのだ、と私は心のなかで独りごちた。きみは、二食分のパンと二食分のスープを貰っていいんだよ……。
 一秒の何分の一かのあいだだけだった。 それでも私は、自分に罪があると思った。私はいくばくかのスープをとりに駆けていき、それを父にあげた。しかし、父はあまり欲しがらなかった。父は水しか欲しがらなかった。
「水を飲んじゃだめ、スープを食べてよ……」
「熱でからだが灼けそうだ……。坊や、なぜ私にそんな意地悪をするのかね……。水……」
 私は父に水を持っていった。それから点呼のためにブロックを出た。しかし、引き返した。
(p198)

 

『夜』が読んでいて辛いのは、この父親との別離の描写があるからでしょう。ヴィーゼルさんが飢えや疲労や、重労働など過酷な環境に耐えられた理由に、父親が近くにいたことが少なからず関係していると思います。こうして目の前で肉親を失うのはどれほどの苦しみなのかと思うと、いたましくて言葉を失います。そしてそれを、

「生き残ったからには、私には自分が生き残ったことに意味を付与すべき責任がかかってくる。」

と思って自分を奮い立たせたのだとしても、こうして文章にして知らしめるのは、どれだけ惨憺たる苦しみを伴う作業だったのだろうかと思います。

 

翻訳者の村上 光彦さんのあとがきには、ヴィーゼルさんのふるさとについての紹介があります。

 

(…)《シュテートル》といって、ユダヤ人居住者が人口の半分近くに達する小都市が散在していました。 シゲットはトランシルヴァニア地方の《シュテートル》だったのです。
 トランシルヴァニアという地名からして、ローマ神話の森の神の領域である《シルヴァ》(森)を越えた向こうの地を意味しています。域外にある僻の地を思わせます。ましてカルパチア山脈の山かげの町などといえば、妖気漂う吸血鬼をめぐるドラキュラ伝説まで思いだされそうです。
 シゲットの町とともに、町の周辺に広がるマラムレシュ地方は、文化人類学者が中世民俗の《化石》として注目している地方です。 昔の空気が外界から取り残されて、いまも住民のあいだに瀰漫しているのです。この地方の古い木造の教会建築にもその表れが見られます。民家の門構え、住居の外観、絨緞で飾られた内装、古風な家具なども特徴的です。 マラムレシュ地方の民俗、風習、住民の服装、暮らし方などに関心のある方は、エッセイストで写真家として知られるみやこうせい氏の仕事を参考になさってください。この方は若いころからこの地方の魅力にとりつかれ、人情篤い住民とすっかり親しくなり、多年にわたって毎年訪れては純朴な人々と交流してきました。 朝日新聞出版の朝日選書にも早くから氏の著作が収められています。たとえば『マラムレシュ』『羊と樅の木の歌――ルーマニア農牧民の生活誌』 『羊と樅の木の人々――マラムレシュ写真集』(いずれも未知谷刊)などに収められた文章、写真はとても参考になります。
(p213)

 

地図で見るとウクライナ国境近くなので、現在は訪れるのは難しいかもしれませんが、木造の教会群などがあり、伝統を感じさせる町並みです。落ち着いたらぜひ旅行してみたい。

 

skyticket.jp

 

最後に、私がいつもちょっと難しく感じて、寄り添えなくてとまどうユダヤ教の概念についても解説があったので、理解のために載せておきます。

 

 マルティン・ブーバーは『ハシディズム』(みすず書房による邦訳あり)において、〈カバラー〉思想の中心概念の一端をつぎのように説いています。

 

 創造の恩恵の火の奔流が原初の原型(〈容器〉)に注ぎ込まれたとき、〈容器〉はその奔流を受けきれなくて壊れてしまった。 そのさい、奔流は無限の火花となって四散した [その火花こそ、イディッシュ語原稿のいう《〈シェキナー〉の炎の聖なる火花》なのです〕。それらの《火花》のまわりに《穀》が生じ、そこから 《欠如、染み、災い》がこの地上の世界に起こった。このようにして《完全な創造のなかに不完全なもの》が付着した。そのとき 〈神〉は、みずからの創造の火花のあとを追いかけた。こうして 〈神〉の栄光がみずから地上の世界に下り、世界の内へ《捕囚》となって入り込み、世界に住み、世界の染みのまっただなかで悲しみ苦しむ被造物のもとに留まるのである。――それらの救いを熱望しつつ……。


 ブーバー、ショーレム、ヴィーゼルなどの著作を読むと、ユダヤ教の〈神〉が〈宇宙の主宰者〉でありながら、みずから《捕囚》の身となるなど、およそ絶対者らしからぬ振る舞いを見せるように記してあるので驚かされます。
(p217)

 

イメージするの、難し。しかしこういう概念的な思想に触れると、宗教に関する考え方の理解も深まるかもしれない、と思いました。

もう少し、やさしい書き方の本がないか探してみたいと思います。

 

『愛の対義語は憎しみではなく無関心だ。人々の無関心は常に攻撃者の利益になることを忘れてはいけない』

 

 

ヴィーゼルさんのこの言葉は、これからも忘れないようにしたいです。

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。