ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

記憶と現実の歩み寄りの旅。『ホロコースト最年少生存者たち』を読んで

おはようございます、ゆまコロです。

 

レベッカ・クリフォードさん、山田美明さん訳、芝健介さん監修『ホロコースト最年少生存者たち〜100人の物語からたどるその後の生活』を読みました。

 

 シビルを引き取り、収容所から連れ出してくれたこの女性は、レジスタンス活動のためアウシュヴィッツに派遣されていた、ヴァラ・Dというカトリックポーランド人だった。ヴァラは病棟でシビルのおばと一緒に働いており、おばに会いにやって来るこの子をよく知っていた。ソ連赤軍によりアウシュヴィッツが解放されると、ヴァラはシビルを連れてポーランドのタルヌフにある実家に帰った。シビルはそこで、一九四五年の一月から五月までヴァラやその家族と一緒に過ごした。この期間はさほど長くはないが、子どもが愛着を抱くには十分な時間だった。その間に、シビルが実の家族を見る目は大きく変わった。カトリックのヴァラの家庭で暮らした数ヵ月のあいだに、ユダヤ人に深い疑念を抱くようになったのだ。 一九四五年五月、シビルの母親がようやく子どもの居場所を突き止めた。だがシビルの話によれば、「ヴァラは私を手放したくないと思っていたし、私も離れたくなかった」という。母親の姿は、飢えと重労働のせいですっかり変わっていた。「この女性が自分の母親だとわかってはいた。 そうだと気づいていた。でも、どこかでそれを認めたくなかった。拒んでいた。 母がユダヤ人であることに我慢できなかったんだと思う。そのころにはすっかり反ユダヤ主義に染まっていたから」
 シビルは、ゲットーや労働収容所や強制収容所で過ごしてきたあいだずっと、殺される可能性を自覚しながら生きてきた。それがごく平凡な普通のことと思えるようにさえなっていた。ところが、そこから解放されたいまになって、また別種の不安が襲いかかってきた。自分がユダヤ人であることからも、それが間違いなくもたらす死の恐怖からも逃れられるチャンスを与えられていたのに、そこへ突然、自分の母親だというやせこけた女性が姿を現したのだ。 シビルにしてみればそれは、ユダヤ人という自己を脱ぎ捨てる安心感を奪われるようなものだった。それに、解放後の新たな世界がポーランドユダヤ人にとって安全だという保証もなかった。実際、母に連れられてクラクフに戻ってみると、そこには虐殺の脅威が満ち満ちていた。そのためシビルと母、おじとおばは、間もなくポーランドからオーストリア密入国し、そこに短期間滞在したのちにシュトゥットガルトの難民キャンプにたどり着くと、そのキャンプで二年間を過ごした。西ヨーロッパへと非合法的に国境を越える際には四歳のシビルにまた薬を飲ませた。 これが最後の睡眠薬だった。
 ホロコーストを研究する歴史家は最近まで、終戦直後から数カ月あるいは数年にわたる時期をあまり重視してこなかった。この期間を、 戦争の恐怖とその後の生活の再建とのあいだにある境目の時期として扱う傾向は、いまだにある。だがそのような見方をしていると、その時期は大して重要ではなく、その後の生活に及ぼす影響もほとんどないような錯覚に陥ってしまう。だが、ホロコーストから生還した子どもたちには、 これはまったくあてはまらない。 ホロコーストに限らず、戦争によって生活を破壊された子どもの多くがそう言うに違いない。戦争が幕を閉じた瞬間、子どもたちの心のなかでもう一つの闘いが始まった。自分は何者なのか、どんな人間になるよう期待されているのかという意識そのものをめぐる闘いが、家族や親族、私的な生活空間といった親密圏で展開された。 この闘いは、終戦の日からわずか数カ月で終わるとは限らない。 数十年にわたり続く場合もある。それは、残りの子ども時代のあいだずっと、そして大人になってもなお、自分の過去の理解に影響を及ぼすことになった。
(p58)

 

戦争が終わって、本当の母親が見つけに来てくれたのに、「母がユダヤ人であることに我慢できなかったんだと思う。そのころにはすっかり反ユダヤ主義に染まっていたから」というシビルの心変わりが辛いです。でも、ユダヤ人であることから逃れられなければ、生きていけなかったという状況がそうさせているのかなと思いました。シビルのお母さんはどう感じたんだろう。せっかく家族として馴染んだ頃に、突然引き離されるヴィラさんも困惑しただろうなと思います。それにしてもカトリックの家庭で一時期を過ごしただけで、こんなに反ユダヤ主義に染まってしまうというのもすごい。

 

目的を達成するために問題行動を起こす場合があることを、フリードマン自身もよく知っていたことを示唆している。逆に、状況によりそうしたほうがいいと判断した場合には、「正常」に戻す場合もある。子どもたちは戦後初期のあいだ、 大人が重視する問題にうまく対応しただけでなく、それを巧みに利用もした。子どもが持つべき好ましい感情を大人が定めると、子どもは正しいとされる感情にみがきをかけ、それを大人に提示すると同時に、好ましくないとされる感情をひそかに育てる術を覚えた。その証拠は、文書史料にも、のちの回想録にも、口述史料(インタビュー記録)にも見られる。たとえば、終戦時に六歳だったフリッツ・フリードマンは、その後間もなくイギリス・サリー州のウィア・コートニー養護施設に連れてこられた。二〇〇九年に執筆した回想録のなかで、当時のことをこう述べている。この施設では、寮で同部屋だった年長の二人の少年にいじめられた。そのため、夜に寮母が子どもたちを寝かしつけにやって来ると、「私はときどき泣いた。母のことを思い出したのだと言ったが、実際には思い出してなどいなかった」。悲しみの本当の原因をスタッフに告げる勇気はなくても、子どもたちの様子に注意を払っている大人に自分の悲しみを受け入れてもらう方法はよく心得ていたのだ。
 確かに、ホロコーストを生き延びた子どもに対する大人の見方は、思い込みや先入観、当時の認識に基づいたものではあったが、大人が採用した手法が何の役にも立たなかったわけではない。もちろん、戦後に子どもたちが受けたケアの内容は一様ではない。本章に記載したような不安や希望を抱いていた大人は、それぞれが採用する手法の有効性を信じ、保護している子どもを何とかして助けようと全力で仕事に取り組んでいたが、それほど寛大で思いやりのある女性や男性の世話を受けられなかった子もいる。それでも、ホロコーストを生き延びた子どもたちの記憶はたいてい、世話をしてくれた大人への好意や敬意に満ちている。大人になってから幼年時代を思い返してみた際に、スタッフが採用した手法に反発を感じることもあったが、それでも彼らの世話により大いに助けられたと認めている。本章の冒頭で紹介したブーヘンヴァルトの少年たちも同様である。この子どもたちは、最初に彼らを助けようとした大人たちを困らせ、怯えさせた。だが最終的には、彼らを精神病質者だと断じたエクイの受入センター長の呪縛から解放された。なかにはのちに目覚ましい業績を残した子どももいる。その一人であるエリ・ヴィーゼルは、のちにホロコースト文学の白眉とされる作品を執筆した。アウシュヴィッツやブーヘンヴァルトでの体験を記した自伝的小説『夜』〔村上光彦訳、みすず書房、二〇一〇年〕 である。一九八六年にはノーベル平和賞も受賞している。ちょうどそのころ、ヴィーゼルは以前自分の世話をしてくれたジュディット・エマンダンジェに手紙を書いた。その手紙にはこう記されている。自分たちはフランスに連れてこられたとき、「あなたがたの助け、理解、心理テスト、施しなど一切望んでいなかった」。だが、OSEのスタッフに救われて変わった。 スタッフの取り組みに反発することもあったが、その努力は計り知れない恩恵をもたらしてくれた。「短期間のうちに、私たちはみな仲間であることに気づいた。そんな奇跡がどうして起きたのか? その事実をどう説明すればいい? 私たちが信奉する宗教のおかげなのか? あなたがたのおかげなのか?実際、子どもたち全員が暴力に走ったり、ニヒリズムに陥ったりする可能性もあった。あなたがたは、子どもたちを信頼や和解へと導く術を知っていたのだ」
(p82)

 

「「私はときどき泣いた。母のことを思い出したのだと言ったが、実際には思い出してなどいなかった」。悲しみの本当の原因をスタッフに告げる勇気はなくても、子どもたちの様子に注意を払っている大人に自分の悲しみを受け入れてもらう方法はよく心得ていたのだ。」

6歳くらいなら、相手から自分のほしい待遇を引き出すために、言い訳の体裁を整えることもするだろうなと思います。リアリティがあって心に残りました。

 

 同じような経験をしていない結婚相手に過去の話をするのは危険だったが、結婚相手を選ぶのにも危険が伴った。 アグネス・Gは、まだ幼児のころにハンガリー終戦を迎えると間もなく、生き残った両親とともにイギリスに移住したが、一〇歳のときに父親が自殺した。それにより家庭は貧困に陥り、母親との関係は「窮屈で息が詰まりそうな」ものになった。その後、一九六八年に結婚したが、結婚相手を選ぶ際には、自殺した父親が厄介な影響を及ぼしたという。


 私の結婚相手は短気な気難しい男で、よく怒鳴ったり毒づいたりしていた。でも私は、親戚などおらず、男がまるでいない環境で育ったから、十分な教育は受けられたけど、男については知る機会がなくて、男はそういうものだと思い込んでいた。そんな男ばかりじゃないと気づいたころには、もう小さな子どもが三人もいた。(中略)私が父のいない環境で育ったから、特に男の子には父親が必要だろうと思って、離婚したくてもずいぶん我慢していた。


 それから数十年後、結婚生活は終わりを告げた。 アグネスの回想によると、夫は別れぎわに、こんな言葉で彼女を責めたという。「おまえはホロコーストにとりつかれてるって言われた。でも夫は、それに対する私の気持ちを理解してくれなかった」
 ジャック・Fもやはり結婚生活のあいだ、過去に関する話ができなかった。 ジャックは戦時中を、OSEにかくまわれてフランスのタヴェルニーで過ごした。そして戦後、養親に引き取られてアメリカに渡り、一九六四年に結婚、娘と息子をもうけた。そのころになると、過去についてもっと知りたいという欲求が高まってはいたが、「過去のことを考えるようになっても、妻とそんな話をすることはほとんどなかった」という。だが一九七四年に離婚し、過去について話ができなかった結婚生活が終わると、それまでのくびきから解放され、自分の幼少期についてじっくりと考えられるようになった。「それ以来、自分はこれからどうすればいいのかという問題を、これまで以上に考えるようになった。そのころはちょうど四〇歳を迎えたばかりで、中年の危機に直面する時期でもあった。私は自分の背景にあるものをすっかり忘れていた。そんな人は大勢いるんじゃないかな」
 結婚により自分の過去との関係が複雑化する場合もあれば、子どもの誕生によりそうなる場合もあった。幼年時代ホロコーストを経験した人たちの多くは、娘や息子の誕生を喜ぶかたわら、かつて自分の誕生を喜んでくれたいまは亡き母や父に思いを馳せた。あるいは、自分が両親に育てられた経験がないため、どう子育てをすればいいのかわからないのではないか、と不安になった。 子どもが生まれたときではなく、子どもを育てていく過程で不安に苛まれた人もいる。 子どもにいつ、どのくらい話しかければいいのか? また、子どもが成長し、自分が最後に親を見た年齢になると、過去の記憶が蘇ってくることもあった。 ポーレット・Sは、娘が四歳になったときのことをこう回想している。

 

 それは、私が母親から引き離された年齢だった。私は娘を抱き上げるたびに、その当時の母はどれほど苦しい思いをしていたのだろうと思った。私がその後どうなるかはわからなかっただろうから。そんなことを考えていると、やがて娘を抱けなくなってしまった。キスをすることも、触れることもできない。この感情と闘おうとしたけど、どうにもならないの。娘には、本とかゲームとか、好きなものを買ってあげたけど、一緒には遊べなかった。


 一九七〇年代後半、幼年時代ホロコーストを経験した生存者にインタビューをした心理学者のサラ・モスコヴィッツは、彼らにとって子どもの誕生は一種の救いだったと述べている。 「象徴的な意味で、新たな世代が誕生するごとに、失われた命がそれに置き換わり、死者に約束するようにこう告げる。あなたの種も、あなたの名前も、あなたの家系も、消えてはいないのだ、と。死んだ親にちなんだ名前を子どもにつけるのは、象徴的な意味での復活なのである」。だが実際には、それほど単純な感情で説明できるものではない。子どもの誕生が、潜在的な恐怖を招き寄せ、悪夢を呼び起こし、失われた命を思い出させることもある。死んだ親にちなんだ名前を子どもにつける行為にしろ、象徴的に死者を「復活」させてカタルシスを得るためだけとは限らない。周囲の思惑に反して、それを自分のアイデンティティを主張する手段にしようと考える場合もある。こうした命名は、母や父の死を受け入れる行為になるだけでなく、家庭内での沈黙に対抗する行為にもなりうる。
(p248)

 

・40歳ころになって、自分の幼少期がどんなだったかすっかり忘れていることに気づくというのは、どのような感覚なのでしょうか。大事な物が抜け落ちてしまっている感は相当ありそうです。取り戻しに行けないというのも歯がゆい。

・ポーレット・Sさんの、娘が四歳になったときの回想がめっちゃ辛い。別離の際の、胸が張り裂けそうな母親の苦難を追体験することで、娘を抱けなくなってしまうなんて。こちらまで打ちのめされます。

 

 記憶をたどるこうした行為は、残酷で耐えられないものだ。しかし、患者が喪失した自信を回復し、最初の衝撃を乗り越えられるだけの愛情や理解さえあれば、問題はない。 極限の経験をした人を人間社会に連れ戻すためには、それが必要だ。


 フリードマンをはじめ、戦後初期の精神衛生の専門家たちは、ホロコーストを生き延びた子どもの心や情緒の回復を求めていた。 では彼らは、思い出させることで具体的にどうしたいと思っていたのだろうか? 当時の最新の児童心理学を学んでいた養護スタッフは一様に、過去の話をさせる意義を確信していた。あるスタッフはこう記している。「そうすれば子どもは、恐るべき心理的負担から解放される。そのため、子どもに話をするよう促すことが何よりも重要になる」。だが、このアプローチはまだ生まれたばかりであり、ほとんど実証されてもいなかった。そのため、患者の子どもに対話療法を実施すべきかどうかについては、著名な児童精神分析医のあいだでも意見が分かれていた。 現場で働く養護スタッフからは、大人を相手に戦争の話をさせたら子どもの情緒や行動が改善されたようだという事例報告は数多くあがっていたものの、子どもに話をさせれば心の治療に効果があることを実際に証明する証拠はさほどなかった。それでも、子どもに戦時中の話を奨励(あるいは強制)していた大人の養護スタッフがどんな結果を期待していたのかについては、一考してみる価値がある。一部の養護スタッフが、過去の話をさせることが、子どもの心を回復させる幅広い取り組みの一環として欠かせないものだと考えていたことは間違いないが、その最終的な目的は、 子どもの情緒や行動を正常な状態に落ち着かせることにあった。そのほうが、養子縁組など、その後のステップの準備をさせるのに都合がいいからだ。ウィンダミアの受入センターで子どもの世話をしていたマーゴット・ヒックリンも、ポール・フリードマン同様にこう記している。 子どもたちは「あらゆる手を尽くして、心のなかで戦争体験を歪め、忘れようとしてきたと思われる」 が、 子どもの生存者に養子縁組の
準備をさせるためには、子どもに過去の話をするよう促すステップが欠かせない。 「過去を『忘れた』ように見える子どもは、新たな家族に自分を適応させられない場合が多い」。こうした子どもは「本当の家族を失った苦しみを忘れる」ことで自己防衛を図っていた時期が長く、家庭的な雰囲気から遮断されていたため、そのような雰囲気に耐えられない」。そのためのちに、「窃盗、愛情や信頼の欠落、逃亡、不健康」などの問題行動や神経症を起こすおそれがある、と。
 そこで、話をさせることを奨励していた大人たちは、その治療効果を確信していたにもかかわらず、いわばそれを手段として利用し、所期の目的を達成しようとした。すなわち、養親や里親になってくれそうな人たちを満足させるような (あるいは少なくとも彼らを驚かせないような) 情緒や行動へと、子どもたちを誘導しようとしたのだ。話をさせることを通じて、子どもの記憶が生み出す破壊衝動を手なずけ、抑制できるようにする。つまり、その目的は、子どもたちが自分の人生の物語のなかに戦争体験をうまく組み込めるようにすることにあるのではなく、新たな家族がいる世界へと入っていけるように、重荷となっている記憶から子どもたちを解放することにあった(新たな両親やきょうだいが、戦争の恐怖について知りたがることはほとんどなかった)。過去の話をさせれば治療効果があると言いながら、実際には、生き残った子どもたちの行動・感情・心理・記憶から好ましくない部分を取り除こうとしていたのだ。 実際、子どもがこうした記憶につながるアイデンティティの一部を受け入れるのではなく、それを排除することを目的としていた事例が、少なくともある程度はあった。
 その結果どうなったかについては、すでに述べたとおりである。養護スタッフは養子縁組に向け、子どもたちを健全な状態へと仕立てあげようとした。養家でも、多くの子どもは過去への扉を完全に封鎖された。その点についてはジャッキー・Yの事例で紹介しているが、ベラ・Rの物語にも同様の傾向が見られる。ベラはジャッキー同様、幼くしてウィア・コートニーから養子に出されたが、その養親もまた、当時五歳だったベラに、それまでの記憶を消して新たな自分をつくりあげるよう強要した。

 

 過去のことは忘れろ、できるだけ過去のことは考えないようにしろと言われた。私に選択の権利はなかった。そのとき私の人生にどれほど大きな変化が起きたか想像できる? 新たな名前、新たなアイデンティティを与えられたの。まったく別の過去がつくられたわけではないけど、似たようなものね。 本当の過去はなかったことにされた。過去が記録されていたテープが消去されたような感じ。でも、消せない記憶もある。


 ベラは思春期に入り、大人になるにつれ、過去について知りたいという思いを募らせ、それを訴えては養親と衝突した。過去を封鎖するバリケードは無数にあり、それを解体するのに数十年もの時間がかかった。 養親が死ぬまで守りとおした過去もある。 ベラ自身は、こうした意図的な忘却に抵抗しようと終生努力を続けてきたが、記憶のなかでは、こうした障害が 「沈黙」と混同されていたのかもしれない。
 こうして見ると、かつてウィア・コートニーの養護施設にいた生存者たちが一人も、そこで過去の話をしたことを思い出さなかったのは、 さほど驚くべき事実ではない。話すという行為は、養護スタッフの要求を満たし、不安を解消する手段にはなったかもしれないが、それが子どもたちの要求を満たしていたとは言えない。大人の側に、望ましい養子に見えるよう子どもの心を安定させるという狙いがあったように、子どもの側にも、それに抵抗する理由があった。すでに見てきたように、養護施設という既知の安全な世界を離れ、新たな家庭という未知の世界に旅立つことを望まない子どもは大勢いた。 また、過去を語ることで何らかの褒美が得られる場合には(それがたとえ、養護スタッフに褒めてもらえるだけであったとしても)、過去の物語を話して大人に喜んでもらおうとする子どももいたが、なかには、自分の置かれた状況に合致するよう物語を捏造する子もいた。 本書の冒頭で紹介したミナ・Rの物語は、その典型的な事例である。 ミナはある日、館長のアリス・ゴールドバーガーに、自分は目の前で母が頭を撃ち抜かれるのを見たと語った。ゴールドバーガーの一九四六年八月の記録には、こう記されている。 ミナは「それ以来、落ち着きを取り戻し、意識も明瞭になって論理的に話ができるようになり、茫然とした表情をすることも、ずっとつくり笑いを浮かべたままでいることもなくなったように見える。 毎週アンナ・フロイトの児童指導診療所で治療を受けているが、そこの先生も彼女の様子の変化を指摘している」。だが、ゴールドバーガーののちの記録によると、ミナの精神状態の突然の回復は長続きしなかった。六年後の一九五二年一〇月、ゴールドバーガーは驚きもあ
らわにこう記している。 「ミナの母親はドイツで生きており、娘の行方を探しているという」
 偽りの過去の話をしたこのミナの行為を、どう解釈すればいいのだろうか? その際には、この話がある状況のなかでなされたことを考慮する必要がある。 ミナは、過去の話をするようスタッフから期待されており、そうすればスタッフが喜ぶことを知っていた。 実際、話をしてみると、そのとおりのことが起きた。医師でさえ、精神状態の改善が見られると喜んでくれた。だが、母親が殺害される場面を目撃したと述べていたにもかかわらず、実際には母親は生きていた。このミナの物語の価値は、事実にいかに忠実かという点にあるのではなく、事実からいかにかけ離れているかという点にある。ミナのような子どもは、必要とあらばためらいなく、心に思い描いた空想上の過去を大人に提示した。その物語は一見すると、母親が殺害される場面を子どもが目撃したという怖ろしい物語に見える。だがそこに、ささやかな反抗的行為、わずかばかりの意思の主張、ちょっとした子どもの主体性を読み取ることもできる。
 そう考えると、大人と子どもという上下関係に惑わされることなく、話すという行為や沈黙について、新たな視点から考察することが可能になる。 ウィア・コートニーの事例に話を戻そう。 この養護施設では戦後、過去の話をすることが奨励されたが、それにより大人が期待していたことと子どもが期待していたことのあいだに食い違いがあった。過去に関する大人と子どもの対話は、相矛盾する希望と相異なる不安に満ち、きわめて複雑にもつれ、対立を生み出すことさえあった。そのため、この対話のことは、子どもたちののちの記憶から完全に抹消されてしまった。 養護スタッフは、記憶の重荷を軽減・消去するためのツールとして対話を利用したが、子どもたちのほうは、それを口にすることを望んでいなかったのだろう。
 そこで、用心深い子どもたちは、適当な過去をつくりあげ、過去を隠蔽した。自分の思いどおりに話せないことを知っていたため、可能な限り、貴重な私的遺産として自分の記憶を守った。そう考えると、戦後初期の対話のなかに、抵抗し、隠蔽し、大人たちの要望に合致するよう過去をつくりかえようとする子どもたちの努力が無数に詰まっていたとしても、驚くにはあたらない。したがって、子どもたちの個人ファイルや戦後の「証言」のなかに存在するこうした対話記録は、さまざまな思いが交錯した情報源と見なすべきである。それは、戦後初期にホロコーストの記憶をまとめる試みがあったことを示すと同時に、その試みが失敗に終わったことを示している。
 この対話記録はまた、現在について、年齢とともに変わる記憶の意味についても、多くのことを教えてくれる。戦後初期のあの時期、対話療法を奨励していた人たちは、子どもに過去の話をさせれば、過去は鳴りをひそめるという前提に立ってそうしていた。 こうして過去を手なずけ、 封じ込めれば、子どもたちは前を向いて歩んでいけると思っていた。だが、記憶はそんなふうに作用しない。 本書でこれまで述べてきたように、幼年時代の記憶は生涯にわたり執拗に影響を及ぼし続ける。背景のなかに隠れ、ほとんどその声が聞こえないこともあれば、耳をつんざくような騒音をたてることもあるが、それを黙らせたり、退けたり、抑え込んだりするのではなく、全体のなかに組み込むべきだと絶えず主張してくる。 幼年時生存者たちは、自分の過去を手に入れようと数十年も闘ってきた。 時間をかけて、記憶している情景の意味を理解しようとしてきた。それを念頭に置けば、のちの人生の物語が「沈黙」というイメージに彩られた理由、話をしたというかつての行為が記憶に残っていない理由がよく理解できる。 話すという行為の最終目的が過去を切り離すことにあるのなら、 沈黙するしかない。
(p330)

 

目の前で母が頭を撃ち抜かれるのを見たと話していたのに、その母親が現れるエピソードに仰天しました。周囲から期待されているものを感じ取り、どうすれば大人が喜ぶかが分かっているというところに、強かさと、成長の過程での苦難が感じられます。

話をさせたほうがいいだろうと考えるスタッフと、それを口にしたくない子どもとの間に、当時の混乱ぶりというか、試行錯誤だったんだなということが窺えます。子どもが「自分の思いどおりに話せないことを知っていた」というのも、このミナさんの話が単なる虚言ではなく、身を護る術だった一面が垣間見えるようです。

 

日本の戦後でも、戦災孤児となった子どものその後の人生は苦難のものであっただろうな、と考えたことがありました。

ただ、幼少期にホロコーストを経験し、幸運にも生き延びた子どもたちにも、壮絶な将来が待っていたことがよく分かりました。その苦労は到底こちらの予想の範疇に収まるようなものではなく、身を護るために必死だったことが随処で窺えます。

「本当の闘いは1945年に始まった」と表紙にありますが、生き残れてハッピーだったと戦争が終わってからが彼らの闘いの始まりだったことが一人ひとりのエピソードから強烈に伝わってきます。

そして今、その時の困難を言葉にしてくださるのは相当に骨の折れる作業だったと思いますが、聞くことができて幸運だと思いました。

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。