ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

茨の道を、選べるのはまだ幸せなのか。『母親になって後悔してる』を読んで

おはようございます、ゆまコロです。

 

オルナ・ドーナトさん、鹿田昌美さん訳『母親になって後悔してる』を読みました。

 

このタイトルを一目見て、こんなセリフ、母親から言われたらショックだけど、少なからずこういう気持ちになったことはあっただろうな、と思ってつい手に取ってしまいました。

本書は、 「母親になったことを後悔している女性を研究した本」です。

 

 誰の母でもない自分でいることは、どんな文化や社会集団においても、すべての女性に平等に手に入る権利ではない。たとえば、子どもを望まないと公に宣言する女性は、白人で、教育を受け、宗教の縛りがなく、中流階級であることが多い。これらの要素はすべて、反対の態度を前面に出すための社会的条件を与えるものだからだ。一方で、さまざまに入り組んだ形の疎外と抑圧を経験する人には、厳しく罰せられることなく同様の欲求を表明する余地が限られているかもしれない。言い換えれば、どの社会集団の女性も、母になりたくないと感じるかもしれないが、それを表明して、その気持ちに従って生きる自由を持つことについては、社会的特権が多い女性のほうが有利かもしれないのだ。ただし、多様性のある社会集団に属する女性は、母になりたくない願望を表明できたとしても、しばしば自分の立場を変えざるを得ないと感じている。

 

 リズ (1~4歳の1人の子どもの母)
 

 若い頃から、絶対に子どもを持たないとはっきり思っていました。迷いのない気持ちがありました。 [……] 母になるという決断は、完全に合理的なものでした。私の子宮は、母になりたいと叫んでいませんでした(笑)。出産しなくても欠けているものがないと感じていたし、この世での役割は子どもを持つことだとは思っていなかった。 私は幸せで、すべてが順調に進んでいたけれど、人生の別の側面を体験すべきだと思ったのです。だから私はそのことを〕ある種の冒険だと思いました。 [….....] 「自分の子どもだと違うものだよ」と言う人がいますが、そんなことはないです。 私にはあてはまりません。言わせてください、以前私が感じたことを。私はずっと欲しくない理由を知っていて、その点は変わっていないのです。


 オデリヤ (1~4歳の1人の子どもの母)

 

 私は子どもが欲しかったことが一度もありませんでした。[……]覚えているのは、ごく幼い頃……おそらく6、7歳のときでさえ、なぜか……子どもと一緒に過ごしている人のことが [……]、私にとっては悪夢、恐怖〔のように思えたことです〕。好きじゃない、自分には合わないんです。子どもの頃から、自分に子どもができたらどうなるだろうと恐れていました。でも、子どもを持たないという選択は、胸をよぎったことすらなかったです。

(p54)

 

・「誰の母でもない自分でいることは、どんな文化や社会集団においても、すべての女性に平等に手に入る権利ではない。」

日本に住む女性にこの権利が与えられているかを考えると、「手に入れようとすれば手に入る」状態だと思います。だからといって、それは当然の権利として、母にならないことを選択した人は誰からも何も口出しされることはない、という状態でもないのが難しいところだと思います。

・「どの社会集団の女性も、母になりたくないと感じるかもしれないが、それを表明して、その気持ちに従って生きる自由を持つことについては、社会的特権が多い女性のほうが有利かもしれないのだ。」

そんなこと考えたことがありませんでしたが、おそらくそうであることは、日本人の私にも想像がつきます。

 

 それぞれの女性が、母になることで報われたと感じるかどうかは、個人的な経験の結果かもしれない――各女性の認識や価値観やニーズや状況の産物かもしれないのだ。しかし、私の研究に参加した複数の女性から、母は有利であるという側面が、女性を母になるように説得するために利用されているという声が上がった。たとえば、母になることを正当化する一般的な理由として挙げられるのが、子どもが親の世話をすることで「きちんとした老後」を保証されること、そして、世代の継承に貢献する人間として認められることである。研究に参加した女性の多くが、この考えに疑問を投げかけ、この前提を拒否し、時にはあざけりさえしたが、それでも彼女たちの母親像にはある程度こういった側面が含まれていた。言い換えれば、彼女たちは、社会が有利であると告げた内容と向き合いながら、同時にそれを受け入れたり取り消したりしたのである。

 

 彼女たちの母としての経験と後悔についての説明を見ていくと、明らかになるのは、彼女たちが今の知識と感情に基づいて、誰の母でもない状態に戻れるとしたら、違ったやり方をしたということだ。異なる決定をしたかったと願うのは、まさしく後悔の感情だと言えるだろう。しかし、そのような感情を受け入れることを困難にしているのが、苦悩をふり返ることを思いとどまらせる社会的な感情のルールである。それゆえ、母になった後悔という感情は、いまだにほとんど認められないままなのだ。その理由としては、母としての感情の法則に反すると考えられていることに加えて、一般的に(母に無関係であっても)後悔という感情が、文化的・心理的に問題があると見なされているためである。後悔に「悪評」がついてまわるせいで、将来的には間違いなく改善されるという概念を受け入れる以外の選択肢が少ない。同時に、「もしも」や「~でさえあれば」という未解決の問題を避けなければならないのである。

(p146)

 

「母は有利であるという側面が、女性を母になるように説得するために利用されているという声が上がった。たとえば、母になることを正当化する一般的な理由として挙げられるのが、子どもが親の世話をすることで「きちんとした老後」を保証されること、そして、世代の継承に貢献する人間として認められることである。」

私も同様に感じることがあります。結婚してやっと一人前、とか、親に孫の顔を見せられないなんて親不孝、とか聞くと、なんとかして母になってもらわなきゃ、という世間の思惑を受け取ることがあります。

 

 フェミニスト理論家のリュス・イリガライは、美しい例示として、出産することが以前の自己の象徴的な死につながることを、娘としての自身の視点から書いている。

 

 「そして、一方は他方なしでは活動しない。しかし、私たちは一緒には動かない。一方が世界に入ると、他方が地下に潜る。一方が生命を運ぶとき、もう一方は死ぬ。お母さん、私があなたに望んでいたのは、次のことである。私に命を与えても、あなたはまだ生きていることなのだ。」

 

 多くの女性が、初期の身体経験と以前の情熱の喪失に直面したときに、「命を与えることによって命を失う」という深遠な経験を共有している。恋愛関係と非恋愛関係の両方におけるいくつかの特性の喪失、世界における以前の存在感の喪失、創造性の喪失、さらには言葉さえ喪失することがある。レイチェル・カスクは、こう書いている。「私は母になったとき、人生で初めて、言葉がなく、私が生み出した音を他の人が理解できるものに翻訳する方法もない自分自身を見つけた」
 マヤもそのように説明している。

 

 マヤ(2人の子どもの母。1人は1~4歳、 もう1人は5~9歳で、取材時に妊娠中)


 私は自分の努力を評価していますが、疲弊しています。エネルギーが奪われて、体と心と魂が疲れています。 他のことをする余裕が一切ありません。以前は文章を書いて、彫刻をつくり、絵を描いていました。創造するのが大好きでした。でも、何も残っていません。インスピレーションも活力もまったくないからです。

 

 先に述べたように、この本には私が行ったインタビューのすべてが含まれているわけではない。その理由は、母であることが非常に難しいと感じながらも後悔をしていない女性もいたからだ。
 たとえばロテムは、母であることへの思いを後悔とは定義していなかった。それでも、次の彼女の発言は、マヤの発言に似ており、出産後に自己を喪失することについて、より広い意味で理解するのに役立つだろう。


 ロテム( 5~9歳の2人の子どもの母)


 娘たちを出産した後は、まったく自分のことに構いませんでした。限界に直面したのです..... 子どもを持ったことで。もうおしまい。もはや何も.....することができない…世の中は思い通りにならないのだと。 人生の中に、自分にとってすごく大切なスペースがあります。そのスペースが恋しいです。以前は閉塞感を感じたことがなく、スペースを持てないと感じたことはなかったのに。子どもがひとりのときは、まだやりたいことができたけれど、娘が2人いると無理です。 私のスペース、私の視野、私の進歩は閉ざされてしまいました。私には一種のフェミニスト的な悟りがあります。
[……]ぜひこのメッセージを伝えてください……それから、以前にも書いたように、研究を文章にして、この声を出版してくださる方がいることを、心から喜んでいます。私には関係ありません――すでに子どもが2人いますから――でも、娘たちには、選択肢を持たせたいです。
 大局的でフェミニスト的なアプローチを使って言いますが、女性は、いったん子どもを産むと、多くのことを捨ててしまいます。男性はそうしないのに。女性は決断をするときに、そのことを考慮に入れるべきです。 [……]これまで私は、フェミニスト的な考え方ではありませんでしたが、親になってがらりと変わりました。 突然、私たち女性はフェミニストになるべきだと気づいたのです。それまでの私は「大したことない!何の問題もない! 私は何でもできる、やりたいことは何でも」と考えていました。[……]当時は、すべての選択肢が確かに開かれていたのです。でも、〔母になってから〕もはや開かれていないと理解しました……女性は、しっかりと足場を固めるべきです。私たちが暮らす文化システムが、私たちを踏みにじっているからです。なりたい姿になることが許されません。それはおかしなことです。母になると、望むことが何もできなくなる。私たちは、そのことと闘うためのシステムをこしらえなければなりません。


 マヤとロテムは、研究に参加した他の女性たちの感情を言語化している。自分の経験を「薄れていく」「消えていく」「完全に消え去った」と話し、以前の自分のほうが満たされており、完全だと感じられたと述べているのだ。この自己像は、社会的通念とはまったく相反している。つまり、母ではない女性は不完全で不満足な空っぽの人間で、子どもを得て母になることを待っており、それによって女性の完全な姿に近づくことができる、という社会的通念である。したがって、非母は社会によって総じて不完全で、時には「非人間(ノンパーソン)」とさえ見なされるが、研究に参加した母たちは、母になることで不完全な人間に変貌したと捉えている。母になる前の経験のほうが、充実していて満足のいくものであったと考えているのだ。言い換えれば、「不足」から「完全」への動きではなく、「完全」から「不足」への動きだと言える。

 研究に参加した女性の一部は、以前の(母ではない)自分を比較的ジェンダーレスであるとも捉えていた。なぜなら、女性らしさによる「劣等性」を意識することなく、概ねやりたいことができると感じていたためだ――先ほとロテムが説明したように。母になることが、女性の性別にどっぷりつかり、世界を渡り歩く自由がないという感覚を目覚めさせたのだ。社会は、母という「究極の」女らしさをポジティブに位置付けているが、研究に参加した複数の女性が、新たに体験する女性らしさと、それが家父長制社会の中で自分に課す制限を、母になった後に起こった最悪の事態のひとつだと説明した。それは、逃げ場のない罠なのである。
 母になる経験が、自己の多面的な喪失になることに加えて、母になることで、思い出したくない自己の一面が復活する可能性もある。しばしば起こることだが、母になることで、何年も埋もれていたその人の過去の痛みが新たに掘り起こされるのだ。そのため、母になることが、別の喪失を永続させる可能性がある――つまり、忘れる能力の喪失を。

 

 マヤ(2人の子どもの母。1人は1~4歳、もう1人は5~9歳で、取材時に妊娠中)


 娘は、見た目が私に似ています。浅黒い肌に巻き毛の髪――〔白人が多い社会では〕珍しい外見です。私は、なんてこと!とつぶやきます。またやり直し。もう一度これと付き合うはめになるのか、と。子どもの頃の私は、30歳になることを夢見ていました。

「すぐに大人になりたい。子ども時代も思春期も、くだらないたわごとも越えて、安定した人間になりたい」と。そして、30歳になった私は、再び同じことを経験している。
〔娘が〕これから学校に入るので、不安なんです。受け入れてもらえるだろうか?みんなとなじめるだろうか? 私のように惨めな思いをしないだろうか? これもまた、私の苦しみなんです…….どれほど胸が痛むか、わかりますか?一緒にお風呂に入っているときに、3歳の娘が言ったんです。 「ママ、色が落ちないの。ここはいいのに〔マヤは手のひらの白い部分を指す〕。ここは茶色すぎるわ 〔マヤは手の甲を指してこする]」。それからの2週間……自分がどうしたらいいのか、わかりませんでした。娘に何をしてあげたらいいのか。突然、子ども時代の不安がすべてよみがえりました。[…..….]嫌な子ども時代をもう一度やりなおすことになるのも、私が〔母であることに〕良い気持ちが持てない理由なんです。

 

 通常、子どもは、親が持つ記憶や伝統、価値観、特徴や外見の継承者と見なされる。こういった要素を世界に存続させることは、一般的に社会的に歓迎され、望ましいとされる。
 しかし、マヤが明らかにしているのは、親の特徴と人生経験が永続化することが、人種差別や同性愛嫌悪や貧困、その他の見ないようにしていた痛みを伴う経験を思い出させるかもしれないということだ。女性一般、とりわけ社会的に疎外されたグループの女性は、母になることで、社会から受けた困難が永続化する可能性がある。人種差別的で敵対的な社会秩序に直面し、子どもに安全な場所をこしらえることを余儀なくされるからだ。 母になったことで、マヤは再び人種差別的な社会で浅黒い肌を持つことの意味と結果に直面するはめになった。
(p150)

 

・「女性は、いったん子どもを産むと、多くのことを捨ててしまいます。男性はそうしないのに。」

私には子どもはいませんが、これまで知り合った女性の中には、結婚してキャリアを中断する人、出産して働き方をパートに変える人がたくさんいますが、いっそ当たり前のような光景になっていて、深く考えまいとして思考を停止しようとしていたのかなと思います。まさに、「男性はそうしない(何も捨てない)のに。」です。

・インタビューを受けているマヤさんが、娘の心配事を目の当たりにして、自分の子供時代の苦しみと再び対峙するのが辛い。

 

「ひどいことを告白するものですね。なぜ? 自分の胸にしまっておけないの? 子どもがかわいそうです。」


 (中略)このコメントは、ダットンの言葉が子どもに悪影響を与えることに言及しているため、批判の中心は、アイデンティティを隠さずに後悔を明らかにした事実にあるという考え方ができるかもしれない。しかし、子どもに知られないように仮名を使って後悔について公に話し合う母もまた、同様に厳しい批判を受けている。 次に紹介するドイツのブログ投稿では、後悔について公にではなく非公開で議論することの重要性に触れている。ちなみに、この投稿で言及する「公の場」とは私の研究に関する記事だが、私の研究では仮名を使っている。


 しかし、選べるのであれば二度と子どもを産まない、母になったことを深く後悔している、と公の場で言うことは [......] 憂慮すべきだと思う。〔それを読むかもしれない〕 他の母たち、パートナー、友人、隣人のためではなく、子どものためだ。いつの日か、子どもがその文章を読んで、自分の母ができればやりなおしたいと考えていることを知るだろう。自分が母にとって最悪の災難であるという文章を読んで、どう感じるだろう?


 仮名の文章である――それゆえ、子どもが母の後悔を知る可能性が排除される場合でさえも、後悔を表明した母が批判されるという事実は、非難の表面下に何か他のものが潜んでいることを意味する。それは、母であることについての旧態依然の「真実」の再確認である。つまり、母の経験の苦痛を表明することは不作法であり、一種の精神障害の兆候とさえ見なされるということだ。母であることを帳消しにしたいという思いは、明らかに不合理であるため、社会学者ではなく精神科医が対処すべきである。 ハッシュタグ #regrettingmotherhood (母親になって後悔してる)が2016年初めに話題になったとき、この件について当事者以外の誰もが一家言をもっていた。こういった母の病理の背後に何があるのか?と。「わがままな」母を批判するのは、女性の経験は価値が低く、文化的に劣っているという、階層的で伝統的な見方の現れでもある。私たちには、主観的な感情を沈黙させるか、社会的期待に応じて調整することが期待されているのだ。さらに、女性と母たちは、広範な社会的認識によって「泣き言の時代」にいるという批判を受ける。 身勝手という伝染病にかかっているのだと。

(p222)

 

・「母の経験の苦痛を表明することは不作法であり、一種の精神障害の兆候とさえ見なされるということだ。」

母親としての責務を担うことは当然で、辛いことは辛い、と言うのもルール違反ってことなのでしょうか。

・「「わがままな」母を批判するのは、女性の経験は価値が低く、文化的に劣っているという、階層的で伝統的な見方の現れでもある。」

そもそも文化的に劣っているから、わがままなんだとも言いたげな意見ですね。

オルナ・ドーナトさんは、自分の研究に向けられた批判を、こんなに冷静に受け止められているのがすごい。

・「私たちには、主観的な感情を沈黙させるか、社会的期待に応じて調整することが期待されているのだ。」

感情を出さないようにするか、あるいは期待に応じて調整しろ、だなんて、ずいぶん乱暴な意見だなと思いますが、後悔していると表明するのは、やはり周りからは「 身勝手」だと受け止められるんだな、と思いました。

 

最も興味をそそられたのは、ほとんどの場合、質問者は否定的な答えを聞きたいと思っていたことだ。 家庭内で母になった後悔を話すことは、考えられる限り最も邪悪な行為であると考えられる――そして、おそらく後悔そのものよりも、悪い母である確かな証拠となり得るのだ。この恐ろしい問いかけをする質問者が思いうかべるのは、母がわが子に「人生が台無しになったから、産まなければよかった」と嫌悪感を込めて伝える場面だ。わが子と家族に与える影響を考慮せずに行われる利己的な行為である。たとえば、私の研究に反応したドイツの子育てブログに書かれた懸念の言葉について考えてみよう。


「望まれていないことを母親から聞かされるべきではありません。それは残酷で、不公平で、非人道的なことです。」


 この懸念には、現実的に十分な根拠があると言えそうだ。 母になった後悔についてのオンラインフォーラムで、ある女性が、望まない子どもとしての経験について、切実な言葉をつづっている。

 

「出産後に、子どもの存在について子どもを責めるのは、簡単なことではありません。そうするためには勇気が必要なだけでなく、ナルシシズムやその他の人格障害に見られるような、感情的な冷酷さも相当に必要になります。私は神に祈ります。子どもたちが、自分の母が子どもの存在をどうこう言うのを聞くことがありませんように、と。でも、子どもたちは、自分が望まれないと察しているはずです。自分はここにいるべきではない、生きていないほうが良かった、その方がママの気分が良くなるのだと。
[………] 私はそのような母の子どもでした。違った生き方ができなかったことを、私のせいにしていました。幼い頃でさえ、私は怒鳴りつけられました。「あんたがここにいなければ、私の人生は違っていたのに。 幸せだったのに」と。そのことは私に無力感を与え、課せられた重荷は、今でも追い払えずに両肩にかかっています。母がどれほど傷つき、困っていたのかを理解するのに長い時間がかかりました。なんて未熟な人だったのかと思います。この女性は、コンドームなしでセックスをして、中絶する勇気がなかったという理由だけで私を出産したのです。」

 母の苦しみを自分のせいにされた娘による痛ましい話を無視することはできないし、無視したくないと思っている。彼女の言葉は、多くの人に、声高に届けるべきである。しかし、後悔する母と子どもとの関係には、さまざまな形がある。

(p234)

 

・「子どもたちは、自分が望まれないと察しているはずです。自分はここにいるべきではない、生きていないほうが良かった」

母親になって後悔している、と口にすることの難しさは、まさに子どもがこのように受け止めることに直結してしまうからだと思います。だから眉をひそめる人もいるし、責められることもある。それでもこうやってインタビューに答えている女性たちは勇気があると思うし、例え批難されても発露すべきである、という思いがあるのだろうな、ということが伝わってきます。

 

この本を読んでいると、読者は、こういう研究をしているこの人(オルナ・ドーナトさん)はどんな女性なんだろう、母親になって後悔しているのだろうか、という疑問が湧いてきます。

 

「私たちの社会の恐ろしい利己主義が、慈善は家庭で始まるという感情を奨励し、「子どもたちへの義務です」 や 「家族が最優先」などの高貴なフレーズを与えることで、そのような慈善を確実に行わせる。家族は最終的には本物のスポンジのように、外の世界に届く可能性のある愛するがゆえの心配事を吸収する。 [………]赤ちゃんや子ども、とりわけ自分自身によって、コミュニティの全体像が見えなくなる。自尊心が奪われ、成人男性・女性としての自身の価値を見失う可能性がある。」

 私がこの問題に特別な関心を持っているのは、自身が母になりたくない女性であるためだ、と何度も批判されてきた。私を告発する人の目には、私の研究は、母になりたくない気持ちを正当化する試みと映っているのだ。 母になることが女性にとって悪いという証拠を見つけ、 後悔する母を指し示すことで、母になるのを避けるように他の女性を説得しているのだと。
 実際のところ、私自身は、母になりたくないという気持ちを正当化する必要があるとか、解決すべき問題であるなどと感じたことは一度もない(ただし、社会は私に問題があると思い、正当化を求める。 私自身は社会がそう考える傾向に問題を感じている)。私は母の後悔を称賛するつもりはない。同時に、心から母になりたいと望む女性を批判するつもりもない。各人のニーズ、憧れ、夢は異なるものだと信じているからだ。加えて、他の女性がどう生きるべきかを指図する権利があるとも思っていない。他人のためだと「わかっている」という傲慢さは、私たちの最善を当事者よりもよく知っていると考える家父長制と同類である。
 私は女性として、娘として、3人の姪の叔母として、フェミニストとして、すべての女性の手の届くところに選択肢があり、それによって私たちが自身の体、生活、決定の所有者であることを保証されるべきだと信じている。誰の母でもないことが、今もなおこれほどまでに困難な道であり、ステレオタイプと制裁に悩まされる選択であるという事実は、選択肢が実質的に存在しないということだ。 非母(ノンマザー)への道は、いまだに閉ざされたままなのだ。
 排除され、取り残され、置いてけぼりにされがちな状況に立ち戻り、母の感情ルールによる禁止事項に耳を傾けることで、私たちは、いくつもの「感情の地図」と向き合う。それは、当然と思われがちな「一本道」よりもはるかに複雑な地図である。 複数の車線や地図を描くことで明らかになる主張の数々は、後悔している母だけでなく、母になりたい女性とそうでない女性を含むすべての女性に関わるものである。なぜなら、それは私たちに、さまよい、向きを変え、一時停止し、長く留まることができる新しい道を作ることを可能にするからだ。
 私たちは、こういった道を舗装する必要がある。しなければならないのだ。私たちは自分の体と生活の所有者である必要があり、自分の思考、感情、想像力の所有者であるべきなのだから。そうしなければ、改善はないのである。

(p294)

 

「誰の母でもないことが、今もなおこれほどまでに困難な道であり、ステレオタイプと制裁に悩まされる選択であるという事実は、選択肢が実質的に存在しないということだ。 非母(ノンマザー)への道は、いまだに閉ざされたままなのだ。」

この言葉こそが、著者をこの研究に向かわせた気持ちなのでしょう。

ステレオタイプと制裁は確かに存在するけど、でも何を変えたらいいのか、どうしたら非母(ノンマザー)の選択肢が平等に与えられるのか、とても難しいと感じました。

最後に、どこから考えたらいいのか分からないこの問題を、訳者の鹿田昌美さんが分かりやすく解説してくださっています。

 

それぞれに固有の「母親のイメージ」を抱えて生きている。だからこそ、唯一無二の大切な存在に対するイメージとの「ずれ」を生じさせることに、大きく感情を揺さぶられるのかもしれない。おそらく、あなた自身の立場や感情や存在そのものを守るために。
 しかし、そのイメージは、本当に「正しい」のだろうか。その正しさは、どこから来たものなのだろう。別の誰かにとっても、正しいのだろうか。「母親のイメージ」に正解はあるのだろうか。ひいては、「女性の生き方」に。

 

 本書『母親になって後悔してる (Regretting Motherhood: A Study)』 は、母親になったことを心の底から後悔している女性たちを研究した報告書である。
著者オルナ・ドーナトは、「私は子どもを持たない」と決意したイスラエル社会学者であり、すべての女性が母親になりたいはずだという社会的期待と、母になることを価値ある経験とする評価に疑問を呈すべく、学術的な活動を続けてきた。
 そのドーナトが、母親になって後悔している25人の女性に長時間にわたるインタビューを行い、伝統的価値観や社会通念と照らし合わせて丁寧に検証しながら、彼女たちの肉声を届けたのが、本書である。
 執筆にあたっては、本当の意味で後悔している人を選別するために、厳格な基準を設けている。
「今の知識と経験を踏まえて、過去に戻ることができるとしたら、それでも母になりますか?」という質問に対して、「ノー」と答えた人だけを研究対象に選んでいるのだ。 「一時期は後悔に似た気持ちはあったけれど、今は平気です」という人は含まれていない。つまり本書では、まさに現在進行形で苦しみのただなかにある女性たちの真実の告白を目にすることができる。

 

 2016年に本書がドイツで刊行されると、西側諸国で注目を集め、#regrettingmotherhood のハッシュタグで激しい議論が交わされた。ドイツのメディアからは「社会学者オルナ・ドーナトはタブーを破った」(リジー・カウフマン氏、ターゲス・シュピーゲル紙)、「ドーナトは、その研究と著書を通じて、これまで友人同士やセラピーの場でしか語られなかったことを公にした」(クラウディア・フォークト氏、デア・シュピーゲル誌)といった声が上がった。
 その後、ブラジル、中国、フランス、イタリア、韓国、ポーランドポルトガル、スペイン、台湾、トルコ、アメリカ (英語版)で版権が取得され、この度日本でも刊行される運びになった。

(p300)

 

誰もが自由な選択肢を享受できる世の中になってほしい、と口にすると、それは既に実現しているようにも感じられます。でも、女性が「母親にはならない」という選択をした時、従来の価値観にとらわれて息苦しさを感じたり、誰かから批難されるようでは、選択できる世の中とは到底言い難いのだということを、身に沁みて感じさせられる本でした。

 

選択肢は女性の手の届くところにある状態にするために、自分にも出来ることはないだろうかと考えたいと思います。

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。