おはようございます、ゆまコロです。
佐藤優さんの『危機の読書』を読みました。
著者は外交官でもある作家さんです。
帯に「生き延びるためのブックガイド」とあり、気になって手に取りました。
手嶋 龍一さんの『鳴かずのカッコウ』と、著者のモスクワの日本大使館勤務時代の映像記憶を絡めたエピソードが面白いです。
『鳴かずのカッコウ』は小説なので、公安調査官の活動をそのまま描いているわけではない。創作や脚色も当然ある。しかし、まったくあり得ない話を書いているわけではない。
ここで興味深いのはヒュミント(ヒューミント(英: HUMINT、human intelligence)とは、人間を媒介とした諜報のこと。ゆまコロ注)の失敗例だ。主人公の梶壮太は、国家公務員試験で合格したいわゆるノンキャリアの公安調査官だ。大学では漫画研究会に所属し、押し出しの強いタイプではない。
実を言うと押し出しがあまり強くない人はヒュミントの現場に向いている。他人の注目を過度に集めることがないからだ。
〈壮太は中学二年の時、インターネットで「フォトグラフィックメモリー」という言葉を見つけた。映像記憶と呼ばれる特異な能力をいい、三島由紀夫やウォーレン・バフェットもそんな記憶力の持ち主だったらしい。
幼少期には誰もが持っているのだが、通常、思春期までには失われてしまうという。洞窟で暮らしていた太古の人類はみな周辺の光景を画像として記憶に刻んでいた。だが、複雑な言語を操るようになるにつれ、原初の能力は次第に失われていった。
壮太は今でも集中力を高めれば、文字も映像もたやすく記憶することができる。便利なようだが、本人はさして嬉しくもない。困ったことに、この能力はメモリー消去が不得手なのだ。嫌な記憶まで残像となって居座ってしまう。だから、壮太はできるだけぼんやりとあたりを眺めることにしている。映像情報をあまり多く抱え込まないよう、自己防衛本能が無意識に働くのだろう。そのせいか「なにボケーッとしとんねん」と言われることも多いが、仕方がないとあきらめている〉
(『鳴かずのカッコウ』)
酒席の会話も再現
著者も他人と比較すると少しだけ記憶力がいい。その基本は映像記憶だ。このことに気付いたのは、1988年にモスクワの日本大使館政務班に勤務して半年くらい経ったときのことだ。
ソ連時代、ロシア人は外国人と会うことを警戒していた。著者が勤務し始めた頃は、ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長によるペレストロイカが進められていたが、ロシア人と非公式な会食をするとき、メモをとることはできなかった。メモをとっていることがわかると相手が口を噤(つぐ)んでしまうか、「プラウダ」(ソ連共産党中央委員会機関紙)か「イズベスチヤ」(官報)の記事と同じことしか話さなくなる。
研修上がりの三等理事官〈書記官より下の外交官〉だった筆者は、大使館幹部の会食に同席し、会食終了後、大使館に戻って報告公電〈公務で用いる電報〉の草案を作るのが仕事だった。機微に触れる話は酩酊したときに出やすい。
ウオトカをショットグラスで十数杯飲んだ後だと、上司は記憶が飛んでいる場合がほとんどだ。同席している若手外交官も会話の内容をほとんど再現できないのが通例だった。しかし、筆者の場合、こういう記録作成に難を感じたことはなかった。食事をしながら話をしている情景が記憶に焼き付いているからだ。
記憶を集中すると、静止画像が動き始めると同時に会話が始まる。その話をメモにしていけばいいので、記録作成は難しくはなかった。勤務3年目からは独り立ちして自分で情報を集めてくるようになったが、そのときも記憶力がよいことに助けられた。
1995年に外務本省に戻ってからはモサド(イスラエル諜報特務庁)とSVR(ロシア対
外諜報庁)とのリエゾンを担当した。その関係で、イスラエルやロシアのインテリジェンス・オフィサーたちとも親しく付き合ったが、筆者と同レベルの記憶力を持っている人が数人いた。その人たちに聞いてみると、いずれも映像記憶に頼っているとのことだった。梶壮太が映像記憶に長けていることが、公安調査官の仕事に極めて有利に働いている。
ちなみに映像記憶は、訓練によりかなり鍛えることができる。 カミール・グーリーイェヴ/デニス・ブーキン(岡本麻左子訳)『KGBスパイ式記憶術』 (水王舎、2019年)を教科書にして3ヵ月くらい訓練すると記憶力が確実に向上する。 主要国のインテリジェンス機関では、記憶術も訓練科目に加えている場合が多い。(p170)
「静止画像が動き始めると同時に会話が始まる。その話をメモにしていけばいい」って、スゴすぎる。
一度見た人の顔は絶対忘れません、という方がいますが、こういう能力なのでしょうか。映像記憶に長けている人、羨ましい。記憶力を向上させる訓練、やってみようかなと思いました。
ウクライナ侵攻に関しての片山杜秀氏(慶應義塾大学法学部教授)との対談も、貧困とペット、新旧の「東京ラブストーリー」に見る貧困の現実、家族の形の変化など、論点が満載です。
佐藤 イギリスでは『ボブという名のストリート・キャット』 というノンフィクションがベストセラーになり、映画化されました。日本も近い状態なのではないかと思うんです。青年が路上生活に落ち、誰ともコミュニケーションがとれなくなってしまう。ある日、猫を世話しはじめたら、人とのコミュニケーションも回復し、薬物治療もうまくいくようになる。あの物語は猫を描いているようで、実はイギリスの…いえ日本も含めた先進諸国が直面した社会的な問題を突きつけてくるんです。 人はホームレスは相手にしないけど、猫ならかわいがる。 猫を媒介にして最低限の暮らしから這い上がる。 猫を肩に乗せるだけで稼ぎが3倍になるそうです。
片山 別の見方をすれば、猫の力を借りないと這い上がるチャンスもない。 猫を媒介にしたセーフティネットという虚妄にしか希望を見いだせない末期的な社会と言えるのかもしれませんね。
佐藤 そう思います。日本では、ペットがいると受給資格があっても、生活保護を受けられないケースがあるそうです。窓口に行くとペットを処分しろ、と言われる。しかし家族同然だから手放せない人もいる。生活保護制度には、ペットを飼ってはいけないという規則はないのですが、窓口が勝手に判断しているんです。そこで、雨宮処凛さんが立ち上げた反貧困ネットワークでは「反貧困犬猫部」をつくってペットを飼う貧困世帯を支援しているそうです。
片山 イギリスでは猫をきっかけに社会復帰できたのに、日本では犬猫もあてにできない。絶対的貧困に限った話ではありませんが、いまSNSを見ると犬と猫の画像ばかりでしょう。人間はあてにできないから、犬や猫との紐帯(ちゅうたい)しかすがるものがない。SNSにあふれる犬や猫の動画や写真が人間同士のつながりが断絶した社会を象徴しているようにも見えます。
佐藤 社会に経済的な余裕があれば、まだ人同士のつながりやコミュニケーションを維持できたはずですが…。日本が確実に貧しくなっていると改めて突きつけきたのが(原文ママ、ゆまコロ注)、最近見た「東京ラブストーリー」です。
片山 昔、鈴木保奈美が主演したドラマですか?
佐藤 そうです。1991年版と2020年版を見比べてみたんです。91年版ではレストランやカフェバーで飲んで、スポーツカーに乗り、幼稚園教諭が1DKのマンションに暮
らしていた。20年版では、それが家飲みに変わり、クルマは普通車、住まいはカンカンアパート。
片山 ドラマのリメイクが30年の衰退を描き出してしまったわけか…..…..。現実がドラマを超えてしまったと言えますね。
佐藤 まさにそう。だって小室圭さん・眞子さん夫妻の物語を超えるドラマや小説なんて出てこないでしょう。
片山 かつて国民は、天皇家に理想の家庭を投影したわけですが、現実社会で賃金が上がらずに結婚できず、子供もつくれず、核家族すら成り立たない時代になった。 そんな状況で、家族の模範として天皇家を持ち出されても、リアリティがない。最後の最後に川が決壊して、家族の幸せの象徴だった家が流されてしまう、 山田太一脚本のドラマ「岸辺のアルバム」を思い出しますね。
佐藤 その意味で、秋篠宮家は典型的な日本の家族とも言えます。娘が親に逆らって、家を出てしまった。(p262)
「人間はあてにできないから、犬や猫との紐帯(ちゅうたい)しかすがるものがない。」厳しいご意見です。でもそうかも、とも思います。
確かに大人になってふと周りを見ると、拡大家族世帯どころか、核家族すら成り立たなくなってるものなぁ。
医療制度も教育も雇用も労働力も、これまで通りでいいはずがないのに、未来が明るくなるような変革を感じるより先に、貧しさがやってきた感じがあります。
ぼんやり朝起きてぼんやり会社に行っていた私にも、危機の状況をなんとかせねばと思わされる内容でした。
そして、読んでみたい本がたくさんありました。例えば、
・ウクライナの人々が置かれた状況を理解するために。
火野葦平『小説陸軍』
・自らを鼓舞し、コントロールすることは、自分を孤独へ追いやることになるのではないか、という視点から、「自分の助け方」を模索する。
東畑開人『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』
自分にできることはなにか、読書を通して考えたいと思います。
最後まで読んでくださってありがとうございました。
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