おはようございます、ゆまコロです。
太田肇『「承認欲求」の呪縛』を読みました。
この本で、なるほどな、と思ったのは以下の部分です。
「大事な試合の前に故障」は正常な自己防衛
認められたらそれに縛られ、承認を手放せなくなる。そして苦しむ。多くの人は、そのことを経験的に学んでいく。なかには、そうした事態に陥らないため、あらかじめ自己防衛の行動をとる人もいる。一つは、過大な評価を受けないよう、わざと自己評価を下げようとする行為である。
代表的なものとして、「セルフハンディキャッピング」という行為があげられる。
たとえば、大事な試合の前には、必ずといってよいほど体のどこかを痛めたとか、体調が悪いといったふりをする人がいる。わざと周囲に期待を抱かせないようにしているのだ。「けがをしているのだから勝てないだろう」と思わせたいわけである。これといった大きな故障がないにもかかわらず、いつも手や足にサポーターを巻いたり、体に絆創膏を貼ったりしているスポーツ選手は、もしかすると「期待しないでください」というメッセージを送り続けているのかもしれない。(中略)
わざと無能を装ったり、「ワル」ぶったりして自分の値打ちを下げる行動をとる場合もある。素直な優等生だった子が思春期になって突然、髪を赤や黄色に染めたり、乱れた服装でうろついたりするようになることがある。思春期は「自律の危機」に敏感になる時期だけに、このままでは親や教師の期待に操られてしまうと感じてわざと反抗し、期待を抱かせないようにしているのである。
(p95)
認められたいはずなのに、「期待を抱かせない」行動に出るというのが興味深いです。
「セルフハンディキャッピング」という言葉を見て、試験前に部屋を掃除をしたくなったことを思い出しました。
残業についての検証も気になります。
「呪縛」をもたらすのは制度に原因?
では、そもそも残業することや休暇を残すことが、なぜ認められることにつながるのか?
それは、わが国特有の制度と深い関係がある。
日本の会社や役所は、欧米などと違って大部屋主義で、個人の仕事の分担が明確に決められていない。仕事ができる人やがんばる人は、たくさん仕事をこなしたり、他人の仕事を手伝ったりするのが普通だ。
したがって遅くまで残っている人や、休暇を取らない人は、会社に対しても、周囲の人に対しても大きな貢献をしていると見なされるわけである。逆に早く帰る人や休暇をめいっぱい取る人は、会社や周りの人に迷惑をかけていると見なされる。実際にそのように評価されていることを裏づけるような調査結果もあるが、重要なのは事実かどうかよりも働く人にそう意識させる余地があるということだ。
もっとも、本来なら遅くまで残業すれば残業手当も増えるので、会社に対してはむすろ負担をかけているとみられるはずだ。しかし、そのようにみられない別の制度的な理由がある。
わが国では超過勤務手当の割増率が二五%以上と、他国に比べて低い。ちなみに他国ではおおむね五〇%以上であり、なかには休日出勤になると時給換算で平日の二、三倍にのぼる手当を払っている国もあるそうだ。そのうえ、わが国では手当がまったく支払われないサービス残業も横行している。
このように低い割増率や無給で残業することは、会社や同僚に対して余分の貢献をしているものと受け取られる。あるいは忠誠の証とみなされる。これも事実かどうかは別にして、少なくとも心のどこかでそう思っている人が多い。
有給休暇についても、海外だと国や地域によっては、残した休暇を会社がかなりの高額で買い取るよう法律で義務づけられている。義務でなくても、多くの企業では実際に買い取っている。
一方、わが国では買取が義務づけられていないどころか、買い取ること自体が認められていない。そのため休暇を取得しなければ、そのぶん「ただ働き」したことになる。これもまた、会社や同僚に対して追加的な貢献をしたとみなされる(と思っている)わけである。
現実には、働いた時間と貢献度がかなり一致していた工業社会と違って、ソフト化、サービス化が進んだいまの時代に時間と貢献度の関連は薄くなっている。それでも働く人の意識のなかには、残業をせずに帰ったり、休暇をめいっぱい取ったりすると、上司や同僚からの承認を失うのではないかという不安が染みついているようだ。
子育て中のある女性は、終業時刻が近づくと、どのタイミングで「お先に失礼します」と切り出すかで頭がいっぱいになって仕事に集中できないし、胃がチクチク痛むと語っていた。しかも皮肉なことに、周囲が自分に気を遣ってくれているのがわかるので、なおさら帰りにくいという。
(p111)
「超過勤務手当の割増率は他国ではおおむね五〇%以上」(!) 羨ましくなります。これだったら、会社も残業させたくないでしょうね。
各地の役所や警察などで不祥事が起きるたびに実感するのは、不祥事の背景にある動機が驚くほど似ていることである。職員が起こした事故や犯罪の隠蔽、不都合なデータの過小報告といった問題の大半は、部下による上司への忖度、もしくは組織や仲間への気遣いが背後で働いている。彼らは忖度し、気を遣うことによって認められようとしているわけである。
事の善し悪しは別にして、不祥事の特徴からも官僚、公務員の「大衆化」がうかがえるとともに、受け皿としての共同体型組織が彼らにとっていかに大きな存在であるかを強く印象づけられる。
ところで、第一章では承認に不祥事を防ぐ効果があると述べた。承認されると職業的自尊心が高まり、それが違反を抑制するからである。けれども、ここで述べたように「承認の呪縛」にとらわれると不祥事を起こしやすい。この矛盾をどう説明すればよいのか?
その答えは前述した、うつ、ひきこもり、バーンアウトについて述べたことと同じである。たしかに承認されると自尊心が高まり、仕事に対する矜持も生まれる。その点では承認が不祥事を思い止まらせる方向に働くだろう。しかし一方で、承認されると期待の重みも増してくる。
(p148)
認められたい、仲間の役に立ちたいという気持ちが、企業の足を引っ張る行為を招くことがある、というのが、皮肉な感じがしました。
「お前はバカだから」のねらい
「まえがき」では、期待をかけた大学院生が脱落していくケースがあいついだことも述べた。当時、私がその苦い経験をある先輩教師に漏らしたところ、彼は次のような話を聞かせてくれた。
自分は大学院の学生時代、師匠から「お前はバカだから」と言われ続けた。もちろん本気でバカだと貶されたわけではないとわかっていたので、逆にプレッシャーを感じずリラックスして研究ができた。だから自分も学生たちには同じように接している、と。
ここには、もう一つ余分なプレッシャーをかけないためのヒントが含まれている。冗談で「バカ」とか「アホ」とか平気で口にするのは「お笑い」の世界である。「お笑い」は本気でないだけに、自我関与を避けることにつながる。学業や仕事で成果があがらないときでも、「お笑い」感覚を交えてフィードバックされれば、ほんとうの評価が下がらずにすむわけである(ただし状況によってはイジメやハラスメントにつながるので注意は必要だが)。
(p178)
著者も最後に言及している通り、バカとかアホとか言われて肩の力を抜けるのかは、発言する人と自分との関係性や、こちらの許容量にもよるので、難しいところだと思います。評価されたいのに、期待されたくないというのが、承認欲求の難しいところなのでしょう。
効果的な「ほめ方」とは
ただ、教育の場などにおいて長期的な効果を期待する場合には、抽象的な承認が必要になる場合もある。そこで避けて通れない問題が、第二章で触れた「能力(あるいは成果)をほめるか、努力をほめるか」である。
すでに述べたように能力をほめられると、失敗して自分の能力に対する評価が下がり、自信を失うことを恐れ、リスクをともなうことに挑戦しなくなる可能性がある。あるいは、逆に慢心して努力しなくなる場合もある。
一方で、努力をほめると、いっそうがんばらないといけないというプレッシャーが本人を追い込んでしまったり、効率性を度外視したがむしゃらな努力に駆り立てたりするリスクがある。また、とくに日本人の自己効力感や自己肯定感が低いことを考えれば、意識的に能力をほめることが必要だともいえる。
それでは結論として、どこを、どのようにほめたらよいのか?
その答えは、具体的な根拠を示しながら潜在能力をほめることである。潜在能力をほめることは、「やればできる」という自信をつける。すなわち自己効力感に直接働きかけることを意味する。すでに述べたように自己効力感が高まれば挑戦意欲がわく。かりに成果があがらなくても、潜在能力に自信があれば、成果があがらないのは努力の質か量に問題があるからだと受け止められる。そして、改善への努力を促すことができる。
(p197)
褒めるって難しい行動だと常に思います。でも、意識して表に出すようにしないとなかなか出来るようにならないし、こちらとしても思わぬところで褒められると非常にモチベーションが上がったりするので、臆せず心掛けようと思いました。
連覇の重圧を克服する「楽しさ」― 帝京大ラグビー部、岩出監督
帝京大学のラグビーチームは二〇一八年まで、大学選手権で前人未到の九連覇を続けた。卒業によって毎年メンバーが入れ替わる学生スポーツで、九年間も勝ち続けたのは驚異的だ。
当然ながらライバル校は「打倒帝京大」を目標に挑戦してくる。一方で連覇のプレッシャーは選手たちの肩に重くのしかかってくる。そのなかで勝ち続けるには、「守り」に入らず、「攻め」の姿勢を貫かなければならない。それには、絶えず変化し続けることが求められる。
岩出雅之監督が強く意識するのは、常にイノベーションを起こせる風土、空気感、文化の必要性だ。そして、指導者はメンバー自身が「変わりたい」と思えるような環境をつくってやるべきだと説く(岩出 二〇一八)。たまたま岩出監督と対談したとき、彼は大学選手権に勝つことを超えるチームの目標として、「楽しさ」を追求するようにしていると語った。
連覇に代わる目標として「楽しむ」ことを追求するのは、連覇のプレッシャーを克服する戦略としても理にかなっているといえそうだ。
連覇を目標にすると、周囲からの期待をまともに受け止めてしまう。いちばんの注目校だけに、対抗戦や練習試合の勝敗や戦いぶりに対する批評もたくさん耳に入ってくるだろう。また、連覇を意識したら自ずと受け身になり、プレーに対する集中力がそがれる。そうなると最高のパフォーマンスを発揮することはできない。
一方、「楽しさ」は連覇とは異次元のものである。しかも周囲の期待や評価と無関係だ。いや、正確にいうと第二章でも触れたようにまったく無関係ではないが、期待され、評価されると楽しくなることはあっても、楽しんだら期待を強く意識するようになるわけではない。そして「楽しむ」ことに意識が向けば、そのぶん連覇を意識しなくなる。
したがって「楽しむ」ことを徹底できれば、「承認欲求の呪縛」に陥らなくてもすむはずである。
「楽しむ」ことの効用はそれだけではない。心理学者のM.チクセントミハイ(一九九六)によれば、人間は一つの活動に没入している「フロー」状態のときに潜在能力が最大限に発揮される。「楽しい」とは、そのフロー状態なのだ。
わが国のリーダーには、勉強でも仕事でも刻苦勉励することをよしとし、「楽しむ」のは真剣さがたりない証拠だと考えている人がまだ少なくない。しかし、本気で「楽しむ」ことはふざけたり、サボったりすることではない。逆に最も集中していて、生産的な状態なのである。
(p206)
この、帝京大ラグビー部のお話は、この本で一番好きなエピソードです。
組織不祥事をなくすには
一般にプロは、次のような理由で「承認欲求の呪縛」に陥りにくいと考えられる。
くり返し述べているように、官僚や大企業のエリート社員にとって高い「認知された期待」と低い「仕事における自己効力感」のギャップが大きい。
とくに「仕事における自己効力感」が低くなる原因として、わが国特有の人事制度があることを見逃してはいけない。日本企業の社員、とりわけ事務系ホワイトカラーの場合、学生時代の専門はほとんど考慮せずに採用され、配属される。その後は「ゼネラリスト育成」という建前のもと、数年単位で部署を異動する。もちろん職場で研修を受けたり、経験を積んだりするものの、学生時代から専門の軸に沿ってキャリアを形成する欧米に比べると、はっきり言って「素人」の域を出ない。
公務員についても同様であり、省庁別にキャリアを形成する国家公務員に比べ、まるで百貨店のように多様な業務を抱える都道府県や市町村では、いっそう「素人集団」になりやすい。
いずれにしても誇るべき専門能力がなければ、仕事における自己効力感も低くなり、組織に依存せざるをえない。
だからこそ、呪縛から解放されるためには組織をプロの集団に帰ることが必要なのである。
(p216)
組織をプロ集団に変えるために必要なこととして、筆者は次のことを挙げています。
- 「どこの組織でも、あるいは組織に属さなくても通用する能力を身につけていること」。
- 「人材の流動化を前提にして、企業にとっても個人にとっても転職や独立が損にならないばかりか、むしろプラスになる仕組みを構築」すること。
働き方の質や、心構えを問われる改革だと思いました。
承認欲求に捉われると、大概ロクな結果にならない印象を受けましたが、だからこそこの欲求がどこから生まれるのか、自分が得たいと思っているのはどんなことなのか、意識する必要を感じました。
それと、大好きな岩合光昭さんの言葉がチラッと出てきて嬉しかったです。
最後まで読んで下さってありがとうございました。