ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

マイケル・サンデル、鬼澤忍(訳)『これからの「正義」の話をしよう』

おはようございます、ゆまコロです。

 

マイケル・サンデル、鬼澤忍(訳)『これからの「正義」の話をしよう』を読みました。

 

哲学に関する本を読みたくて手に取りました。

印象的だったのは、以下の箇所です。

 

 

ミル(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))によれば、服従は最善の生き方の敵なのだ。

 

 「人間の能力は、知覚、判断力、識別感覚、知的活動、さらには道徳的な評価さえも、何かを選ぶことによってのみ発揮される。何事もそれが習慣だからという理由で行う人は、何も選ばない。最善のものを識別することにも、希求することにも習熟しない。知性や特性は、筋力と同じで、使うことによってしか鍛えられない……世間や身近な人びとに自分の人生の計画を選んでもらう者は、猿のような物真似の能力があれば、それ以上の能力は必要ない。自分の計画をみずから選ぶ者は、あらゆる能力を駆使する。」(p86)

John Stuart Mill, On Liberty(1859),Stefan Collini,ed.(Cambridge University Press,1989),chap.1.(『自由論』ジョン・スチュアート・ミル著、山岡洋一訳、光文社、2006年ほか)

 

 しきたりに従えば、満足な人生を歩み、危険を遠ざけておけるかもしれないと、ミルは認めている。「だが、その人の人間としての価値はどうなるのだろうか」とミルは問う。

「本当に重要なのは、人が何をするかだけではない。それをする人がどんな人間であるかも重要なのだ」

 

 

この箇所を読んで、知性や特性を伸ばすべく、一生懸命使おうと思いました。

もう一つ、家族への忠誠と司法とを秤にかけた事案が興味深かったです。

 

 

兄弟の責任1:バルジャー兄弟 

 忠誠の道徳的重要性を試すもっと新しい事例として、二組の兄弟の話が挙げられる。一組目は、ウィリアム(ビル)とジェイムズ(「ホワイティ」)のバルジャー兄弟の物語だ。ビルとホワイティは、サウスボストンの団地の子供が九人いる家庭に育った。ビルは古典を学ぶ勤勉な学生で、ボストンカレッジで法律の学位を取得した。兄のホワイティは高校を中退し、街をぶらついては窃盗などの犯罪をくり返していた。

 

 二人はそれぞれの世界で台頭していった。ウィリアム・バルジャーは政界に入り、マサチューセッツ州上院議員を務め(一九七八-一九九六年)、それからマサチューセッツ大学学長を七年間務めた。ホワイティは銀行強盗に手を染め、連邦刑務所で刑期を務めたあと、ウィンター・ヒル・ギャングという非情な暴力団の首領にのし上がった。ボストンで恐喝や麻薬取引をはじめとする違法行為を取り仕切っていた暴力団である。一九件の殺人容疑で告発されたホワイティは、一九九五年、逮捕を避けるため逃亡した。いまだに捕まっておらず、FBIの「十大重要指名手配犯」のリストに載っている。

 

 ウィリアム・バルジャーは逃亡中の兄と電話で話したが、その所在は知らないと言及し、当局の捜査への協力を拒んだ。ウィリアムが二〇〇一年に大陪審で証言した際、連邦検事は兄についての情報を提供するよう求めたが、無駄だった。「それでは、はっきり言えば、あなたはマサチューセッツ州民に対するよりも強い忠誠心をお兄さんに抱いていたということですか?」

「そういうふうに考えたことはありません」とバルジャーは答えた。「しかし、たしかに、兄には掛け値なしの忠誠心を抱いているし、彼を大切に思っています……。私の希望としては、彼に敵対する人に協力したくはありません……。彼を捕まえようとする人のすべてに協力する義務は私にはありません」

 

 サウスボストンの酒場では、バルジャーの忠誠を賛美する声が客たちから上がった。

「兄貴のことで口を割らないからって、責める気にはならないね」と、ある住民は『ボストン・グローブ』紙に語った。「兄弟は兄弟さ。あんたなら、家族を密告するかい?」論説委員や新聞記者はもっと批判的だった。あるコラムニストはこう書いた。「彼は正しい道をとらずに、ギャングの掟に従った」。兄の捜査への協力を拒んだことで世間の非難にさらされ、バルジャーは二〇〇三年にマサチューセッツ大学の学長職を辞した。それでも、捜査妨害で告発されることはなかった。

 

 たいていの状況では、なすべき正しいことは、殺人事件の容疑者を司法へ引き渡すための協力だろう。家族の忠誠はこの義務より優先されてもいいのだろうか。ウィリアム・バルジャーはそう考えたようだ。だが、その数年前、はぐれ者の兄を持つもう一人の人物は、違う決断を下した。

 

兄弟の責任2:ユナボマー

 当局は一七年以上にわたり、国内で起きた一連の小包爆弾テロの犯人を追っていた。被害者は死者三人、負傷者二三人にのぼっていた。テロ犯の標的には科学者をはじめとする大学関係者が含まれていたため、杳(よう)として行方の知れないこの爆弾テロ犯はユナボマー〔訳注:標的が大学と航空業界だったため、University and Airlineを縮めてUna(ユナ)とした〕と呼ばれた。

 

 犯行理由の説明として、ユナボマーは三万五〇〇〇語の反テクノロジー声明をインターネットに投稿し、『ニューヨーク・タイムズ』紙と『ワシントン・ポスト』紙が声明を掲載したら犯行を止めると約束した。二紙は声明を掲載した。

 ニューヨーク州ケネクタディのソーシャルワーカー社会福祉事業従事者)で四六歳だったデイヴィッド・カジンスキーはこの声明を読み、見覚えのある文章に慄然とした。兄の言葉遣いや意見に似た部分があったのだ。兄のテッドは五四歳、ハーヴァード大学卒の数学者だったが、その後、隠遁生活に入り、近代産業社会を嫌悪してモンタナ州の山小屋に住んでいた。デイヴィッドはもう一〇年ほど、兄に会っていなかった。

 悩みに悩んだすえ、デイヴィッドは一九九六年に、ユナボマーは自分の兄ではないかとFBIに通報した。連邦捜査員がテッド・カジンスキーの小屋を張り込み、彼を逮捕した。デイヴィッドは検察が死刑を求刑しないと聞いていたが、実際には死刑が求刑された。自分が兄を死に追いやるのだと考えると、胸が張り裂けそうだった。結局、検察はテッド・カジンスキーが有罪を認めるのと引き換えに、仮釈放なしの終身刑を言い渡した。

 

 テッド・カジンスキーはデイヴィッドを法廷で弟と認めるのを拒み、獄内で執筆した著書用の原稿のなかで「裏切り者ユダ」と呼んだ。デイヴィッド・カジンスキーは生活を立て直そうと努力したが、事件の余波はどこまでもついて回った。兄を死刑から救うため尽力したあと、彼は死刑反対運動団体のスポークスマンになった。「兄弟はたがいを守るべきものです」と、彼はみずからのジレンマを聴衆の一人に語った。「それなのに、私は兄を死に追いやるところだった」。彼は司法省からユナボマー逮捕への協力の報酬として一〇〇万ドルを受け取ったが、大部分を兄のせいで死んだり負傷したりした被害者の家族に渡した。そして、家族を代表して兄の犯した罪を謝罪した。

(p373)

 

 

映画のような実話ですが、強く印象に残りました。

著者は「もしも、われわれの責務がすべて合意に基づくか、人間として他人に対して負う普遍的義務に基づくとすれば、兄弟が陥るこうした窮地を説明するのは難しい」と記していますが、仮定であっても、自分はどう行動したらいいのか、思考が止まってしまいそうな例だと思いました。

 

タイトルが気になり、ずっと読みたかった本なのですが、難しくて読破までに結構時間がかかってしまいました。

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。