ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

ペーター・ハントケ『幸せではないが、もういい』

おはようございます、ゆまコロです。

 

ペーター・ハントケ、元吉瑞枝(訳)『幸せではないが、もういい』を読みました。

 

ノーベル文学賞を受賞された作家さんですが、お恥ずかしながら、受賞されるまで知りませんでした。

 

本書は、著者の母親の思い出について書かれた本です。

 

母親が父親のことをどう思っていたかは、こんな記述があります。

 

彼は彼女よりは背が低く、ずっと年上で、頭はほとんど禿げていた。彼女はヒールのない靴を履いて、彼に合わせるために常に歩調を変えながら、彼と並んで歩き、腕を組もうとしていつも拒絶され、何度も彼の腕から滑り落ちた。アンバランスな滑稽なカップル― それにもかかわらず、彼女はその後の二十年間、誰かに対してもう一度あんな感情を持ちたいという憧れを抱きつづけたのだ。かつて、つまらないクニッゲ流(伝統的な騎士道精神に則った交際の作法および小市民的なエチケットや気遣いのマニュアル)の気遣いをしてくれたことに対して、この銀行員を慕ったときのような、あんな思いを…だが、ほかの誰かはもう現れなかった。育ってきた境遇のせいで、彼女は既に、交換も代替もできない一つの対象に固着せざるを得ないような愛し方しかできなくなってしまっていたのだ。(p35)

 

 

ご両親はずっと一緒にはいられなかったようですが、夫に対する特別感が伝わってきます。

 

「何か名づけがたいもの」、物語ではよくこんなふうに言われている。あるいは、「何か書きあらわしがたいもの」と…こういうのを私は大抵、怠惰な言い逃れだと見なしている。

けれどもこの物語は、実際に「名前のないもの」「言葉も出ない衝撃の瞬間」に関わるものである。それが扱っているのは、意識が恐怖のあまり突然ガタンと揺れるような瞬間、常に言葉が追いつかないほど短い瞬間的な驚愕の発作、まるで虫がうようよするのをなまなましく体感したような、ぞっとする夢の場面なのだ。息がとまり、体が硬直する。「氷のような冷たさが、私の背中を這い上がってきた。私の項(うなじ)で髪の毛が逆立った」― それは、怪談からいつもくりかえした喚び起こされるような恐怖の発作、たとえば、水道の蛇口を開けたかと思うとまた大急ぎで閉めるとか、あるいは、晩にビール瓶を手にもったまま道を歩いているときなどに起こっているような状態であり、まさにただの状態であって、期待されるような、なんらかの慰めとなるような結末をもったまとまりのある物語ではないのだ。(p66)

 

 

著者の、文章を紡ぐ際のこだわりが見えるようです。

 

読書がきっかけとなって、彼女は初めて自分自身のことを口に出すようになり、自分というものについて語ることを学んだ。本を一冊読むごとにますます多く、話すことを思いついた。こうして私は、彼女について次第に知っていったのである。

 

 これまで彼女は自分自身に苛立っていた。自分の存在自体が、彼女には、居心地の悪いものだった。いまは、読んだり話したりするときには、それに没頭し、新たな自信をもって再び浮かび上がってくるのだった「その都度、私はもう一度若くなるのよ。」(p90)

 

 

母親が読書に目覚めるこの表現がいいなと思いました。

 

ところで、一見ネガティブな響きをもって聞こえるこの本のタイトルは、訳者によってこうやって決まったのだそうです。

 

ドイツ語を母語とする人たちは、このタイトルに接したとき、よく馴染んでいる慣用句が二重に転倒されているいる機微を一瞬にして認識するが、そのようなコンテクストのない私たちにとっては、これをそのまま直訳しても意味がないばかりか、誤解される恐れもあるのではないかと考え、原題のもつ含みやテキストの内容を示唆し得るような言葉はないかと思案した結果、このようなものになった次第である。(p150、訳者あとがきより)

 

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。

 

幸せではないが、もういい (『新しいドイツの文学』シリーズ)

幸せではないが、もういい (『新しいドイツの文学』シリーズ)