おはようございます、ゆまコロです。
ポール・オースター、柴田元幸(訳)『孤独の発明』を読みました。
この本を読んで、著者がどれほど書くことを愛し、また書くことに苦しめられているか、はじめて文章を通して伝わってきたように思いました。
作家という職業がどんなものなのかよく知らない、というだけで、よく考えればそれは常に当たり前のことだったのかもしれません。オースターの回想録であるこの本からは、彼の「物語を綴る」ことへの姿勢が随所で見られます。
例えばこんな感じです。
同じところをぐるぐる回っているような思い。もと来た道をたえず引き返している感じ。一度にいろんな方向に行こうとしている気分。かりに、いくらかなりとも前進できたとしても、それが自分のめざしているつもりの方向に近づく前進なのかどうか、まるで確信がもてない。荒野をさまようからといって、約束の地が存在するとはかぎらないのだ。
この仕事をはじめたときは、言葉の方から勝手に出てきてくれるものと私は思っていた。神がかりのごとく、言葉がとめどなくあふれ出てくるだろうと。書きたいという欲求はこの上なく強かったから、物語はひとりでに書けてしまうだろうと思ったのだ。だが実際にやってみると、言葉はなかなか出てきてくれない。調子のいい日でも、一ページ、二ページ書くのがやっとだ。
このゴールがあるのかないのかも判断できない感じ…、苦しそうです。
主人公が亡くなった父親の過去を求めて、実家にある昔の写真を見た時の描写が印象深いです。
大半の写真は私がはじめて見るものだった。特に若いころの写真はほとんどそうだった。そのせいで、私はなんだか不思議な気持ちになってきた。自分が父と、はじめて会っているような気分になってきたのだ。父の一部分がいまようやく存在しはじめたような気がした、と言ってもいい。私は父を失った。だがそれと同時に、私は父を見出しもしたのだ。これらの写真を目の前に置いているかぎり、全神経を集中してそれらを見つめているかぎり、あたかも父が死にあっていまなお生きているかのような気持ちになれた。あるいは、生きてはいないにせよ、少なくとも死んではいないのだという気持ちに。
こういう心境は、当の本人が目の前にいる時にはなかなかなれないのかもしれない、と思いました。
しかしこの後、オースターが破られた写真から、祖父の死を思う場面は怖かったです。
私はひとつの傷を抱え込んでいる。それがひどく深い傷であることが、いま私にはわかる。書くという行為がそれを癒してくれると思っていたのに、書いても書いても傷は開いたままだ。ときには右手にその痛みが集まってくるのを感じることさえある。ペンを手にとり、紙に押しつけるたびに、手が引き裂かれるように感じられるのだ。これらの言葉は、父を埋葬するどころかますます父を生かしている。もしかすると、父が生きていたとき以上に。
主人公が日本のプロ野球について、試合中ひっきりなしに鳴る太鼓に惹きつけられる、といっているシーンがあるのですが、これはオースターの意見なのでしょうか。
ご本人に聞いてみたいところではあります。
最後まで読んで下さってありがとうございました。
- 作者: ポールオースター,Paul Auster,柴田元幸
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1996/03/28
- メディア: 文庫
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