おはようございます、ゆまコロです。
1巻も読んだのですが、よく分からないなぁと思いながら2巻に進んだら、面白くなってきたので、とりあえず感想を書きます。
謎解き的な要素に関わるので、あまりあらすじには触れず、心に残ったところだけピックアップします。
ゾシマ長老の回想が好きです。
こうして、ついに自分から悟るのだ。自由と、地上にゆきわたるパンは、両立しがたいものなのだということを。なぜなら、彼らはたとえ何があろうと、おたがい同士、分け合うということを知らないからだ!そしてそこで、自分たちがけっして自由たりえないということも納得するのだ。なぜなら、彼らは非力で、罪深く、ろくでもない存在でありながら、それでも反逆者なのだから。
なんだか悲しい結論だと思った箇所です。
わたしをみて手招きしたので傍に寄ると、兄はわたしの肩に両手を乗せ、感動と愛情をこめてじっと顔を見つめた。ひとことも口をきかず、そうして一分ばかり見つめるだけだったが、やがて「さあ、もう遊びにお行き、ぼくの代わりに生きるんだよ!」と言った。わたしは、言われるままに部屋を出て、外に遊びに行った。
その後、わたしは人生をとおして何度となく、自分の代わりに生きなさいと兄に命じられたときのことを思いだしては、涙に暮れたものだ。
長老の、お兄さんとの辛い別離の思い出です。しかしまだ続きます。
当時のわたしにとっては何もかもが衝撃的だったが、かといってさほど大きなものではなかった。ただ、兄が葬られたとき、わたしは泣きに泣いた。わたしはまだほんとうに幼い子どもだったが、何もかもがわたしの心に拭いがたく刻まれ、胸の奥にひとつの秘かな思いが宿ることになった。その思いはすべて、いずれ時が来たときに胸の奥から立ち上がり、なにがしかの呼びかけに応えるにちがいなかった。事実、その通りになった。
この物語が1879年に書かれたと知り、なんともいえない気持ちになったのがこちらのセリフです。
「いま、とくにこの十九世紀になって、世界のいたるところに君臨している孤立ですよ。ですが、孤立の時代はまだ終わっていませんし、その時期も来ておりません。というのは、いまでは猫も杓子も自分をできるだけ目だたせることに夢中ですし、人生の充実を自分一人でも味わいたいと願っているからです。ところが、そうしたもろもろの努力の結果生まれてくるのは、まぎれもない自己喪失なのです。それというのも、自分の存在をはっきり際立たせてくれる人生の充実のかわりに、完全な孤立におちいっているからです。なにしろこの十九世紀においては、何もかもが細かい単位に分かれてしまい、すべての人が自分の穴に閉じこもり、他人から遠ざかり、自分自身を、自分が持っているものを隠し、ついには自分から人々に背を向け、自分から人々を遠ざける結果になっているからです。」
ドストエフスキーの考え方をうかがわせるようなセリフです。
まだ未読の『ファウスト』の登場人物を典拠とした部分や、関連のある記述があるとのことで、深く味わうためにはいろんな知識が必要であることを痛感しました。
なんにせよ、続きが楽しみです。
最後まで読んで下さってありがとうございました。