おはようございます、ゆまコロです。
ウィリアム・カムクワンバ、ブライアン・ミーラー、田口俊樹(訳)『風をつかまえた少年 14歳だったぼくはたったひとりで風力発電をつくった』を読みました。
電気を使用しているのは国民の2パーセントほど、という事実にまず驚きます。
ぼくたちの国にエネルギー問題をもたらしているもうひとつの原因は森林伐採だ。祖父からよく聞いていたことだが、ぼくたちの国も昔は森林に覆われていて、深い森を這う小道は真昼でも暗かった。しかし、長年にわたり、大規模な煙草農園が煙草の葉を熱風で乾燥させるために、森林の木をやみくもに切った。地方の煙草農家は煙草の葉を乾かすための小屋をつくのにも切った。シロアリのせいでたった一シーズンしかもたない小屋をつくるのに、だ。それ以外にも木材は料理のための燃料として使われる。電気がないから、火をおこすには木を燃やすしかない。ウィンベ近辺ではこの問題がより深刻で、木材を探すのに自転車で十五キロも走らなければならないこともよくある。しかし、一握りの薪がどれだけもつ?
ほとんどの人は気づいていないが、森林伐採もまたマラウイ人が貧しさから抜け出せない理由のひとつだ。森がないところに大雨が降ると洪水となり、土とそこに含まれたミネラル分を洗い流してしまい、その土は大量のごみと一緒にシレ川に流れ込む。すると、ダムがごみと汚泥で目づまりを起こして、タービンが止まってしまう。そうなると、発電所は運転をすべて停止して、川を浚渫(しゅんせつ)しなければならず、そこで停電が起きる。さらにこの作業はとても費用がかかるため、電力会社としても電気料金にその費用を上乗せせざるをえず、電気はいっそう高価で、庶民には手の届かないものとなる。つまり、日照りと洪水のせいで穀物を売ることもできず、土砂で流れの滞った川と高額な電気料金のせいで電気も使えず、その結果、人々の多くが一家を維持するために、木を切って薪にしたり、木炭にして売ったりしなければならなくなる。マラウイはそんな悪循環に陥っている。(p138)
この悪循環を一日でも早く断ち切れますように。
子どもの名前の傾向と、性教育の分野でも、意外なことが語られています。
国中が飢饉となった最中に、主人公ウィリアムに妹が生まれるときの話には、驚きを隠せません。
村では女性が妊娠すると、それはタブーとして扱われ、決して話題にしてはいけない公然の秘密となる。大きくなりつつあるお腹についてその女性に尋ねることができるのは、彼女の夫と母親だけだ。子供がそういうことを大きな声で話し、それを誰かに聞かれたら、それだけできっとその子は罰として殴られるだろう。妊婦について話すことは、よけいなお世話というだけでなく、その女性の性的な魅力を語ることだと考えられていて、妊娠した女性はたいてい赤ん坊が生まれるまでただじっとして部屋の中にいる。だから、生まれたばかりの弟や妹はどこから来たのかと子供に尋ねられると、親はみなこう答える ―「診療所だ。子供はみんなそこで買うんだ」
ぼくの両親が女の赤ちゃんを連れて帰ってきたときには、妹たちは飛び上がって喜んだ。その子もまた診療所で買ってきたのだと思って。しかし、両親は不安のあまり、妹たちの問いかけにつき合うこともできず、ぼくの新しい妹はその後何日も名前がないままだった。
医療が充実していないため、村では多くの子供が栄養失調やマラリア、下痢などで小さいうちに死ぬ。食べものが少ない時期には状況がさらに悪くなる。そのため、赤ん坊につけられる名前は、生まれた当時の状況や両親が抱いた恐怖を反映していることが多い。悲しいことだけれど、そういった名前を持つ人たちはマラウイじゅうに見つけることができる。たとえば、スィムカリーツァー(どうせ死ぬんだ)や、マラザニ(とどめを刺してくれ)、マリロ(葬儀)にマンダ(墓石)にペラントゥニ(すぐに殺せ)といった名前だ。そうした名前を持つ人たちはみな、不幸な名前をものともせず、幸いにも生きつづけてきた人々ということになるわけだけれど、大人になって名前を変える人も多く、父さんの兄さんもそのひとりだ。祖父母に、“自殺” という意味の “ムズィマンゲ” と名づけられたのだが、のちに“ムサイワレ” に変えた。“忘れるな” という意味だ。
両親はひどいストレスを抱えていても、ぼくの新しい妹は出生時の体重が三千グラム近くあり、いたって健康に生まれてきた。そんな妹が元気に生まれたからか、あるいは飢饉に突入し、一種の盲目的な信仰を抱いたからか、ぼくの両親は妹をティヤミケと名づけた。“神に感謝を” と。(p168)
ウィリアム少年は好奇心が強く、いつも家族や周囲の役に立とうという姿勢が素晴らしいのですが、彼の両親もまた素敵だなと思えるエピソードがあります。
この大きな苦難と混乱の中、国営ラジオは大統領のロンドン訪問を伝え、大統領が帰国すると、ラジオのリポーターは飢饉について尋ねた。ぼくたち家族もそのときにはみな家にいて、ラジオを取り囲み、耳をすました。
リポーターは次のようなことを大統領に尋ねたー 「大統領閣下、食糧不足のために国じゅうで多くの人々が飢え死にしつつあります。この状況にどう対処なさるおつもりですか?」
「餓死した者はまだひとりもいない」と大統領は答えた。
ニュースが終わると、父さんは首を振って、顔をそむけた。
「どうしてあんなことが言えるの、父さん?」とぼくは尋ねた。
「世の中には眼の見えない人もいる」と父さんは言った。「だけど、この人は見ないことを選んだのさ」
その日の午後、世の中とはどういうものなのか、突然、ぼくにもはっきりと見えた気がした。どうして飢饉が起こることになったのかまではわからなかったけれど、これだけははっきりしていた。人は誰でも自分のために生きている。自分のことは自分でしなければならないということだ。(p227)
下記の考え方もいいなと思います。
ギルバートもこんな話をした。「ぼくのいとこも畑で小さな男の子がドウェ(熟して黄色くなったトウモロコシの実。ゆまコロ注)を盗んでるところを捕まえたんだ。それで鉄の棒を火の中に入れて真っ赤になるまで熱してから、その子にその棒をつかめって言ったんだって― そしたら、ほんとにつかんだんだって!」
そんな仕返しの話を聞いてしまうと、ぼくの家の畑ではどうするのだろうと思わずにいられなかった。少年たちの噂話を聞いた日の夜、ぼくは父さんに尋ねた。泥棒はどうやって罰するべきか。
「殺すべきかな?」とぼくは言った。「それとも警察を呼ぶ?」
父さんは首を振って言った。
「殺したりはしない。警察に突き出したら、その人たちは牢屋で飢えて死ぬだけだ。空腹でつらいのは誰だって同じだ。人は人を赦すことを学ばなきゃいけない」
(p260)
飼い犬(カンバ)も餓死してしまうほどの飢餓状態の中にあって、自分本位でないところが凄いです。
自力で原理を理解し材料を集め、風車を作ってからのウィリアムの生活の変化はドラマチックでした。
「きみは何をしましたか?どうやってそれを実現しましたか?」
ぼくはひとつ深く息を吸ってから、話すことに集中して言った。「学校を中退して、図書室へ行って…それから風車のことを知って…」続けるんだ、続けるんだ。「トライして…、そして、やり遂げました」
みんながぼくの下手くそな英語を笑うだろう。そう思った。が、驚いたことに、聞こえてきたのは拍手喝采だった。しかも人々は拍手するだけでなく、椅子から立ち上がって歓呼の声をあげていた。やっとの思いで自分の席に戻ると、観客の中には涙を浮かべている人さえいるのがわかった。何年も続いた困難― 飢饉、とぎれることのない家族の心配事、学校を中退したこと、父さんの悲しみ、カンバの死、計画を推し進めようとしたときに受けたいじめ― を乗り越え、ぼくはついに認めてもらえたのだ。ぼくは今、ぼくがしたことを理解してくれる人々に囲まれている。そのことが、そのとき初めて強く意識された。それまで胸の上にのっていた大きな重石が取れ、会場のフロアを転がっていったような気がした。やっとリラックスすることができた。(p434)
ウィリアムの前にはひっきりなしに困難が訪れるのに、彼はいつもそれを乗り越えるポジティブさを備えていました。誰かを恨んだり、自暴自棄になってしまわないところにも好感が持てました。
うまくいかないことがあっても、ウィリアムを前にしたら、言おうと思っていたことも引っ込んでしまいそうなほどです。
大学を卒業した彼と、マラウイのこれからに、エールを送るとともに、自分も頑張りたくなる気持ちを充填してもらえました。
まだ映画は観ていませんが、予告編だけで胸がいっぱいになってきます。
最後まで読んで下さってありがとうございました。
- 作者: ウィリアム・カムクワンバ,ブライアン・ミーラー,池上 彰(解説),田口 俊樹
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